塀之上アユム
第2話・七月にあったこと
梅雨だってのに、異様に暑い日が続いていた。
夏本番を迎える前に、すっかり暑さに飽きそうだ。つうか、なんで大教室はあんなに冷房効かないのかね。うちの大学、ボロボロだな。
「ひー、あちい。今日はモリソバにしよ」
ニイヤくんが決意表明しながら、学食を目指す。どうせそのソバ代だって、僕の財布から出ることになるんだろ……と思いながら連れ立って歩いていたところ、思わぬ奇襲を喰らった。
「あぁぁ、また二人、講義サボってるぅぅぅー」
後ろからもにゅっと抱きつきながら、市川さんが独特のハイトーンで叫んだ。一緒に電車に乗ったりすると死ぬほど恥ずかしくなるほどのアニメ声。
振り向いて、さらに僕はギョッとした。なんだよ、そのカットソー。この暑いのに長袖だし、しかもそのくすんだピンク……っていうより、歯茎色って表現がぴったり。ああもう、暑苦しさ倍増だよ。
割と心底退いている僕の横で、ニイヤくんがしれっとして答えた。
「サボリじゃないっつの。教授が暑くてもう授業やってられんつって放棄したんだよ。おまえこそ、サボってんじゃねえよ」
きっつい口調だけど、別に市川さんをウザイとか暑苦しいとかは思ったりしてない様子。
僕はこういう瞬間、ニイヤくんをすごく尊敬する。誰に対しても素で会話できるってのは、才能だ。異様に低い身長と高い声(特に笑い声は賑やかな学食の中でも目立つ)はキャラも立ってるし、別にモテてるわけじゃないけど、女の子の友達がたくさんいるってのも頷ける。
市川サンは、ニイヤくんの言葉に身をくねらせながら、ねっとりと言い訳した。
「うーん、出席だけはとってきんだけどねぇぇ。なんかホラ、芸術学の沢田センセイって、あたしの身体ばっかり見てて、キモイんだよねぇぇ」
「アホかおまえ、その妄想がキモイわ」
「妄想なんかじゃないよぉぉ。この前なんか沢田センセイ、掲示板であたしのこと呼び出したりしたんだよぉぉ。乙女の貞操が危ういから、もちろん行かなかったけどさぁぁ」
「それ、出席日数足りないとかレポート提出してないとかの呼び出しじゃないか?」
テンポよく進む二人の会話を、僕は黙って見守った。
「うえぇぇん、ニイヤくんがいじめるよぉぉ」
喋っているうちに興奮してきたのか、市川さんはただでさえ高い声をますますキンキン響かせて言ったと思うと、ふっと動きを止めた。そして、潤んだ目で右ナナメ45°くらいの空をたっぷり10秒ほど見つめて、一言。
「泣かないで、ミッチ。僕が守ってあげる」
出た、脳内猫(らしいけれど、それが猫であるかどうかすら、僕にはわからない)!
「こらニイヤ、僕のミッチをいじめるな! マジで殺すぞゴルァ」
さっきまでのアニメ声とはうって変わって、野太い声を出す市川サン。割と本気で怖いんですけど……と、最近は割と思わなくなって、僕はいつもの通りげらげら笑った。
「ていうかぁぁ、前から言おうと思ってたんだけどぉ、なんで2人はいっつもミノちゃんばっか飲みに誘って、あたしのコトほったらかしなのぉぉぉ?」
トテトテと僕たちの後ろをついてきながら、市川さんは恨みがましく言う。それは、一緒に居酒屋に入るとそのねっとりアニメ声が目立ちすぎるからだよ、と僕が言葉にしてしまう前に、ニイヤくんがすごくまっとうに答えてくれた。
「だってキミ、門限厳しいって言って、飲みに誘ったって来ないでしょ」
ナイスフォロー!
市川さんが、誘っても滅多に来ないのは本当だった。実はこう見えて、ものすごい厳格な家の一人娘だとかいう噂。しかも、お嬢様学校と名高いあのM女子大付属高校の出身というからびっくりだ(そのままエスカレーターで大学に進めたのになんでこんな変な大学入っちゃったんだろうね、というのは箕輪さんの弁。あのクールな箕輪さんとこのハイテンションな市川さんにいったいどういう共通項があるのかは知らないけど、二人は割と仲が良い、らしい)。
「確かにミッチはお嬢様だけどぉ、たまには下々の者とお付き合いしないと、世間知らずになっちゃうからぁぁぁ」
「アホか、一生言ってろ」
呆れたように言い放って、ニイヤくんはそそくさと学食の入り口に向かって歩き始めた。逃げたな。僕も一緒に……って。ん?
「あ、じゃあねぇ、夏休みに入ったらみんなで海にでも行こうよぉ」
軽く前につんのめった僕に、市川さんはニコニコしながら言った。や、とりあえずシャツの裾を(意外と強い力で)引っ張るのはやめてくれ。しかも、そんな至近距離から猫撫で声なんか出すな! と言いたいところだけど、それはともかく、たまには良いことを言うじゃないか。
「海か、いいな。今すぐにでも泳ぎてー」
頭上からジリジリと射す太陽の光を振り仰ぎつつ、僕は思わず即答してしまった。
「でしょでしょでしょぉぉぉ?」
「つか『みんな』つっても、誰誘うんだよ?」
ニイヤくんは少し離れた場所から、相変わらず冷静なツッコミ口調。だけど「誰誘う」とか言ってる時点で、もう乗り気になってるのは確定だ。
「あのねぇぇ。ミノちゃんでしょー、豪さんでしょー、あとねぇぇぇ、そうだ、クルマ持ってるらしいから四本くんとかー」
ご丁寧に、指折り数えながら名前を挙げていく市川さんをよそに、ニイヤくんが低い声で僕に訊いた。
「四本って誰だっけ」
「えっ?」
僕はそのとき、箕輪さんの水着姿とか割と楽しみだよなあとか考えながらボーっとしていたので、突然自分に話を振られて軽く飛び上がった。背筋を伸ばすフリみたいな変な動きでごまかしながら、とりあえず答える。
「あ。ああ、四本くん。ほら、語学で一緒のさ、やたら英単語いっぱい知ってる人」
「おお、あのひょろっとしたオタクっぽいヤツか」
つまり僕たちにとっては、あんまり話もしたことのないような、よく解らない人だ。でも、クルマがあるって言うし、市川さんが声をかけるんなら別にいいや。
僕たちが勝手に話をしている横で、市川さんはまだ、「あとぉぉぉ……」などと海に行くメンツを考えているようだった。
このまま待っていても長くなりそうだし、僕たちにとってはよく解らない人の名前ばかりが出てきそうだし、そもそも炎天下でこれいじょう立ち話をしているのはダルい。もうほっといて学食行こうぜ、というニイヤくんのテレパシーも、伝わってきた(気がする)。目配せをして、僕は今度こそ一歩を踏み出……そうとしたのに。
「あぁっ! 忘れてた。訊こうと思ってたことがあるんだよぉぉ」
市川さんが、指折り数えていたその手で、再び僕のシャツの裾を引っ張ったので、またしても僕は前に進むことができなかった。
「なんだよ、もう。そんなに引っ張ったら、シャツ伸びるだろ」
さすがにちょっと本気でムッとしながら振り返ると、市川さんはいつになく真剣な目で、さらに彼女には似つかわしくないくらい真剣な口調で言った。
「睦月さんが、ずっと学校に来てないみたいなんだけど、どうしたのか知らない?」
「え……」
僕は明らかに狼狽したと思う。いきなり睦月の名前を出すなんて、卑怯だ。
でも、平常心平常心。あのことは、誰も知らないから。
「や……つか、なんで俺に訊くの?」
警戒しながら訊いてみる。市川さんは、どことなく邪悪な感じの笑顔で僕の顔をふっと覗き込みながら、言った。
「だって、仲良かったかなぁと思ってぇ」
「え、そんな仲良かったか?」
素で訊いてくるニイヤくんからすっと目を逸らして、僕は言った。
「知らないよ。別に仲良くなんかない。確かに睦月とはけっこう講義かぶってるし、何度か話したこともあるけど、別にそれ以上のことはなんにもないっつうか……」
ムキになって、一気にまくし立てすぎた。逆に怪しまれるかと思って、もう一言付け加える。
「でも、学校に来てないってのは、なんか心配だな」
沈黙を、少し挟んで。
「心配だよねぇぇぇぇぇ」
市川さんがいつになく語尾を響かせて、僕はホッとした。
「なんだかんだ言って、試験もう来週からだしな」
ニイヤくんも心配になったらしく、眉を寄せながら言う。まあどうせ二人とも、心配ったって他人事だと思ってるんだろう。
アイツの携帯番号しってるから、電話かけてみようか――と言いかけて、やめた。何度か話したことあるだけだと言ったばかりだ。ここで下手なことを言ったら、怪しまれる。
僕と睦月の関係。
何度か話したことある程度っていうのは、嘘ではない。うん、学校では本当にそうだ。つうか、あれ以来ろくに喋ってない。
でも、ただの知り合いっていうのとも、ちょっと違う。
本当のことは、ニイヤくんにもさすがに言えねえよ。
昼飯を食ったあと、1時間ほど学食でぎゃあぎゃあくっちゃべる市川さんに付き合ってた僕は、「講義あるから」と言って逃げるように教室に移動した。
4限の自然科学史は、えらく人気がない。全学科が選択できる共通科目なのに、たぶん授業をとってるヤツは30人もいないだろう。ほとんど時間割が一緒のニイヤくんとも、唯一重ならないコマだ。「一応」がつくけど、うちはゲージュツ系の大学だから、サイエンスに興味がある人間なんてあんまりいないのかもしれない。
とにかく僕にとって、大学に来て知ってるヤツが誰もいない時間ってのはこのコマの時だけで、初めは寂しいような気もしてたけど、今は多少、息抜きになってる。つまり、ひとりでボーっと考え事をするのに、最適なのだ。
ぼんやりと、携帯をいじってみる。
電話帳を登録番号順でスクロールすると、睦月の名前はかなり初めの段階で表示された。大学に入ってすぐに買った携帯は、自宅と、中高時代のマジで仲いいヤツ5人ほどの番号を入れたあと、大学で知り合った順で番号を登録していった。
睦月の番号が登録されたのは、入学式の次の日。オリエンテーションのあとに学科の新歓コンパに無理やり連れてかれて、たまたま隣の席に座ったのがきっかけだった。
うちの大学にしては珍しくちょっとマトモそうな娘だな、というのが、睦月の第一印象だった。身体のラインがくっきり出る白っぽいカットソーとシンプルなミニスカートが、なんというか、普通の女子大生っぽかったのだ。
「なんでうちの大学入ったの?」
僕は会話のとっかかりとして、とりあえずそう訊いた。それに対して、睦月がつまらなそうに答えたのを、すごくよく覚えてる。
「別に。近いから」
普通なら、覇気がないとか感じが悪いとか思うところかもしれない。でも逆に僕にはこういう睦月みたいな子が新鮮に見えた。芸術系の大学なんて、何かが得意だったり何かが好きで極めたい人間ばかりだと思ってたのだ。実際、やたら奇抜なファッションのヤツとか、見るからに主張の強そうなヤツとか、サブカル通り越して明らかにオタクっぽいヤツとか、周りはそういうのばっかだったから。
「俺も――受けてみたら受かったから来ただけなんだけどさ」
僕が言うと、睦月はそこで初めて安心したように笑った。
それから多少話が弾んで、酒を飲み過ぎて、僕らは意気投合した感じになった。店を出たあとの経緯は、本当のところよく覚えてない。ところどころ記憶に残っているのは、ピンクのタイルが敷き詰められた趣味の悪いバスルームとか、無駄にブラックライトで照らされて変な絵が浮き上がってる壁とか、古びた布団の感触。そして、暗闇の中に浮かび上がった睦月の白い肢体……。
やばい。そんなこと考えてたら、下半身が反応を。
とにかく大学の近くに唯一ある、なんか20年くらいまえからずっと変わらずにあるような変なホテルで、僕は大学に入学したと思ったら童貞を卒業したわけだ(ちなみに睦月はたぶん、初めてではなかった)。なんでそんな場所に行くことになったのかは、本当に覚えてない。だから、ニイヤくんや豪さんにも言わないでいる。
あれから睦月とは(というか僕の場合は誰とも)やってない。学校でたまに会っても平然としている睦月に、ひょっとしてアレは夢だったのかなと思うことすらある。
でも現に、僕の携帯には睦月の番号が登録されている。あのとき、ホテルを出る前にあわてて聞いた番号だ。少しだけ我に返って、すごく気恥ずかしかったあの感覚は、今でもすぐに心に蘇ってくるほど生々しく覚えている。だから、あれは夢なんかじゃない。
まあ仮にそれが夢だとしても、そうじゃないにしても、睦月が学校に来てないってのは普通に心配だ。
――うん、睦月に電話しよう。
僕は唐突に決意した。それとほぼ同時に、4限の終了を告げるチャイムが鳴った。
教室を出てバラバラと散っていく学生たちの1人になって、僕は校門方面に歩いていく。ニイヤくんはもう帰ったし、学食に行っても誰とも会わないだろう。
教室棟から出ると、大学特有の浮ついたテンションの中で、僕はひとりだった。歩きながら、睦月に電話したときのシミュレーションをやってみる。「久しぶり、元気だった?」ってしらじらしいかな。「学校行ってないんだって?」ってのは、さすがにわざとらしいか。「あれから、どうしてた?」。いや、そういう話をするために電話するんじゃないし……。って、なぜか早くも緊張してきた。おさまれ、鼓動。電話するのは夜だ。
心配なのは「なんで電話したの?」とか言われてしまうことだ。一度やったぐらいで調子に乗ってると思われるのは悲しい。でも、そうじゃないとわざわざ言い訳するのも変だし……。
いや、大丈夫。電話するぐらい別にウザくはないよな。相手がたとえば箕輪さんとか市川さんとかだったとしても、やっぱりどうしたのかなと思うし、ちょっと電話してみようかな、という気にはなると思う。『袖振り合うも多生の縁』とか言うし、袖どころかもっといろいろ振り合ったし。って、何バカなことをっていうか、あ、具体的に想像したらまた下半身が!
やや前屈みになりながら、僕は悶々と掲示板の前を通りかかった。そのときだ。
「あ……」
背後からふわっと漂ってきた聞き覚えのある声に、僕は振り返った。
目が合った。
睦月が、そこにいた。
「うわっ」
僕が驚いて一歩後ずさると、睦月は眉以外の全てのパーツで笑った。
「なんで化け物でも見るみたいな反応?」
「いや、つか、その……」
今まさに妄想の中ですごい格好してた本人がいきなり目の前に現われたもんだから、下半身のエロレーダー反応が最高潮に……とか、相手が箕輪さんだったら言っちゃってたかもしれない。変なことを口走らないように、僕は気をつけて発言した。
「がが学校ずっと来てなかったって聞いたから、だから、まさかここで会うとは」
睦月は明らかに挙動不審な僕を、怪しんでいるのかどうかすら解らなかった。ただ、けろっと言った。
「あは、そんな有名になってるの? あたしが登校拒否してること」
トーコーキョヒ?
その言葉は小学校の頃から身近にあるはずなのに思いのほか硬質で、薄い唇をした小さな睦月の口から出るとまるで外国語みたいに聞こえた。それでいて、どこか甘くて懐かしい響きのような感じもした。
「有名って言うか、俺も今日、市川さんから聞いたばっかりだったんだけど」
「そっか。気にしてくれたのかな。彼女ああ見えて結構マメよね」
あくまで睦月は『普通』を装っている。僕は少しもどかしくなって、もっとストレートに訊いた。
「なんか、あったの?」
大学なんて登校を強制されてる場所じゃない。それをあえて拒否するなんて、やっぱり変だ。
「んー、何があったとか、そういうわけじゃないんだけどね。いわゆる五月病みたいなもんじゃないかな」
まるで他人事のように答えた睦月は、だからこそなんとなく病的に感じ、僕は何も言えなくなって、黙ってしまった。
数秒の後に口を開いたのは、睦月のほうだ。
「ちょっと。ここは、『もう七月だよ』って突っ込むところでしょ?」
睦月のほうが笑って、僕がシンミリしてる。やっぱり女の子って難しい。
「とにかく、大丈夫。ちゃんと前期試験は受けるし。そのために、ほら、わざわざ掲示板チェックしに来たんだから」
睦月は手に持っていた手帳をちらつかせながら、本当に心の底から大丈夫そうな顔をした。そこまで言うんなら大丈夫だろうと思って、僕はからかい口調で言ってみた。
「あーなるほど。でも、試験日程だったらWEBでもチェックできるのに」
「あー……」
睦月は僕の言葉をさらっと聞き流して、というか明らかに話をはぐらかして、試験日程の続きをメモし始めた。
あれ、なんだろう、怒ってるっぽい。
ひょっとして、地雷踏んだ? え、なに、今の会話のどこが地雷なんだよ。
オタオタする僕の横で、睦月は試験日程を全部書き終えたらしく、パタン、と手帳を閉じて、踵を返した。
「じゃ」
えらくあっけない挨拶で。
このままじゃ、やばい。と、思うが早いか、僕は睦月の背中に向かって恥ずかしいくらい大声をだしていた。
「あのさ、夏休み、海行かない?」
睦月はゆっくりと足を止めて、不思議そうな顔をしながら首だけ振り返った。
「海?」
「そう――あ、俺じゃなくて市川さんが企画してるんだけどさ。学科の子たち誘って、みんなで行かないかって」
睦月は首だけこっちを向いたまま、少しだけ口を曲げて何か考えてるような顔をしたあとで、今度は身体ごとこっちを向き直って答えた。
「たぶん、行く」
「良かった。じゃあ詳しいことは市川さんから連絡いくと思うから」
「わかった」
睦月は、今度はちゃんと手を振ってから、僕にもう一度背中を向けた。なんで校門から出ようとする僕と逆方向に行くのかは解らなかったけれど、また地雷かもしれないから聞かずにおいた。
家に帰って睦月に電話する必要がなくなった僕は、帰る道すがら、「俺からも電話していい?」とか一言付け足せば良かったかな、とか考えた。付け足したらやっぱり調子に乗ってるかな、とも。どうやらいつまでも堂々めぐりをするらしいので、適当なところで悩むのを切り上げたりして。
なんにせよ、市川さんに誘われた時点と比べれば、3倍ぐらい海に行くのが楽しみになった気がする。その前に、レポートと試験勉強という2つの大波を乗り越えられるかってのが問題だけどさ。
Copyright(C)2005-2006 Ayumu Heynoue ![]()