塀の上ウォ〜ク

塀之上アユム


第8話・一月にあったこと

「あ、どーりで今日はぷっつぃんがおとなしくしてると思ったぁ」
 4限、一般教養の大教室。
 目の前の席で、講義の内容を聞いてた(っていうより、教室の隅々にまで色目を使ってたようにしか見えない)市川さんが、ふいに僕のほうを振り返って、また訳のわからないことを言う。訝しみつつ睨み返すと、なぜかいたずらっぽくウインクとかされたりして。
「ほら」
 と、促されて窓の外を見て、納得。見事に大粒の雪がはらはらと降ってた。

 ま、それだけだ。珍しくないとは言わないけど、もう雪見てはしゃぐ歳でもないし。僕は「ふーん」ぐらいの感じで、落ちてくる白い塊を見やる。
 と、市川さんは突然くねっとして、困った顔をしてみせた。
「いやぁぁぁぁん、どーしよぉぉ」
 多少ざわついてはいるものの、基本的には静かな教室だ。小声にしてるつもりかもしれないけど、市川さんの声はよく響く。
「何が」
 きわめて低い声で一応返事だけしてやると、市川さんはいったいどこを見てるのか、中途半端な空間(夢の在り処?)に焦点を合わせて、軽く口を尖らせた。
「電車が遅れたりしたら、門限に間に合わなくなっちゃうでしょぉぉぉ? 早く帰らなきゃ、大おばあちゃまが心配しちゃう」
 僕は密かに、でもはっきりとため息を吐いた。
 またそんなお嬢様ぶっちゃって、よく言うよ。こないだ箕輪さんを上手いことアリバイ作りに利用して、豪さんと夜の街に消えたくせにさ。
 ――なんて考えつつ、実はそのところ、しっくりこないと思ってる自分もいるんだけど。

 そりゃまあ、市川さんはヘンなヤツだ。それは間違いない。
 いつでも無駄に肌を露出しまくってるし、すぐエロいこと言うし、その割には妄想の世界で生きてるし、頭の中に猫飼ってるし……もう、存在自体が明らかに怪しい。
 でも、だ。
 例えば今日彼女が着てる、ざっくりとしたセーター。やたら襟ぐりが大きくて、肩まで肌を露出してるのはまあいいとしても、そのオレンジと黄土色の合いの子っぽいビミョーな色はなんなんだよ。袖の縁にはヘンなリボン模様が刺繍されてるし。
 こういう部分のセンスがあんまり独特なもんだから、胸元が大きく開いたデザインでも、やっすいセックスアピールとは違うというか……そういう生臭いこととは縁のない子なんじゃないか、とか。
 割とどっかで、そんなふうに思ってたんだけどな。
 結局それって全部、僕の勝手なイメージだったってことなのか。
 ま、あのとき豪さんと市川さんがどこ行って何したかなんて、本当のところは解らないんだけど、さ。

 なんだかんだ言いながらも本気で電車の動向を心配してたのか、市川さんは講義が終わると一目散に帰っていった。
 別に見送る必要もないけど、僕はなんとなくその後ろ姿を目で追ったあと、学生課に立ち寄ることにした。春休みになったら京都の大学に行ったヤツのところに遊びに行こうと地元の友達から誘われてて、後期試験でバタバタする前に学割を発行してもらおうと思ったのだ。
 学生課は、講義が終わった直後の時間帯らしく、やや混雑気味だった。僕はその中で、滞りなく学割の申請用紙を書く。
 必要書類を窓口に提出したあと、なにげに人がたかってる掲示板に気付いて、目をやった。もう後期試験の予定が出始めている。気がつけばもう試験まで2週間切ってるんだよな。
 試験というと気は重いけど、それが終わればたっぷり2ヶ月の春休みだ。

 大学の1年目が、もうすぐ終わる。
 僕たちが長い春休みを満喫してる間に、高校生がここに来て入試を受けたり合格発表を観に来たり、するんだよな。
 たった1年前、自分がその高校生のうちの1人だったなんて、なんか変な気分だ。すごい昔って気もするし、ついこないだって感じもする。
 この1年、いろいろあった……か?
 なかった、とも言えないような。
 そんなことを思いながら無防備に掲示板を眺めていた僕の後頭部に、突然スコーンと軽いチョップが入った。
「いっす」
「うあ、びっくりした……ニイヤくんか」
 試験が近いってのにまだバイト三昧の生活をしてるのだろうか、学校でニイヤくんの顔を見るのは久々だ(ただし、『だっぺぇ』には、昨夜箕輪さんと冷やかしに行ったばかりだからニイヤくんに会うのは久々じゃない)。

「へえ、ニイヤくんでも、自分で試験の日程確認しにきたりするんだ?」
 僕が茶化すと、ニイヤくんは本気で人をバカにするような口調で「アホか」と切り返す。
「それはお前の仕事だっつーの。ノートの入手は俺がまたなんとかしてやるからさ、俺のスケジュール管理、頼むよ」
「えー」
 そりゃニイヤくんの人脈で手に入るノートはすごい貴重だから、逆らえない。でもニイヤくん、前期試験のときより今のほうが明らかに学校に来なくなってるじゃんか。学校に来る習慣の薄れたヤツを試験日程通りに通学させるのって、大変なことなんじゃないのか。やったことないけど、想像に難くない。毎晩、「明日は○○の試験だ」と連絡したり、試験当日だってモーニングコールでもしなきゃ、不安だし、けっこう責任重大じゃ……。
「──って、あれ?」

 思わず首を傾げた僕を、ニイヤくんは軽く見上げて(僕よりも目線が低いのに、ニイヤくんのほうが威圧感があるというのは、なんでだ)、偉そうに言う。
「なんだよ、ノート要らねえのかよ?」
「じゃなくて。試験日程も確認しないニイヤくんが、なんで学生課なんかにいるの?」
「ああ、それは──」
 ニイヤくんが心持ち、背すじを正した瞬間。
「あ、よかった。まだここにいたのね」
 僕たちの会話を遮るように、学生課のおばちゃんが間に入ってきた。目線から言って、僕ではなくニイヤくんに用があるらしい。
「え、なんすか」
「なんすか、じゃないわよ。さっきの書類、不備があったわよ」
「マジすか、どこ?」
「ほら、印鑑。ここにも押してもらわないと困るのよ」
 と、おばちゃんが指さしたその書類を、ニイヤくんと一緒になって僕も覗き込んでみた。するとそこには、これでもかってくらいデカい文字で、『交換留学生選抜試験願書』と書かれている。
 交 換 留 学 生?
 ニイヤくんの捺印をもらったおばちゃんが、「じゃあ、試験がんばってね」と言いながら立ち去るのを待って、僕はやっと訊いた。
「ニイヤくん、留学とかする気なの?」
「え、言ってなかったっけ?」
 知らねーよ。

 留学の予定を軽く説明したニイヤくんと別れた後、僕はひとりで喫煙所に向かった。
 今日は僕もバイトだ。でも、今からまっすぐ家庭教先に向かうと、20分ほど早い。20分てのは微妙で、どこかで時間を潰すほどではなかったりする。学校の喫煙所で、ぼんやり煙草を2本ほど吸うのがちょうど良いのだ。
 うちの大学は、基本屋外にしか喫煙所がない。薄暗くなりかけた冬の夕方に、雪の中でわざわざ煙草を吸うやつなんていないんだろうな、と思いながら、学生課から一番近い喫煙所に行ってみると、先客がいた。
「あれ、こんなとこで何やってんの?」
 思わず声をかける。そこにいたのは豪さんだった。珍しく、1人だ。
 豪さんは僕の声を合図になぜか吸いかけの煙草を一旦もみ消して、僕に「おう」と言いながら新しい煙草を1本出した。
「今日、フットサルの日だと思って今ガッコ来たんだけどさ、雪で中止だって」
「そりゃそうでしょ。ってかこんな中でやるつもりだったの?」
「え、こんぐらい余裕じゃね?」
「余裕ではないだろ」
 呆れながらも、僕は思わず噴き出した。豪さんは、どこまで行っても豪さんらしい。

「ところでさあ、豪さん知ってた?」
 ちょっとした世間話を挟んで、僕はそんなふうに問い掛けた。豪さんはなぜか焦ったように、また吸いかけの煙草をもみ消しながら、言った。
「えっ、何。何がだよ」
 今まで気づかなかったけど、豪さんが煙草を消すのはクセのようなものなのかもしれない。きっかけになるのが、驚きなのか話題の切り替えなのかは、解らないけど。
「なんか、ニイヤくんが留学するとかって言ってんだよね」
 豪さんは、いったい何のことを言われると思って身構えてたのか知らないけど、ちょっと気が抜けたように肩を落として、そして言った。
「あー、そのことか」
 その態度を見て、今度は逆に僕のほうが軽く身構える。
「知ってたんだ……?」
 ひょっとして、知らなかったのって自分だけ? そう思った僕に追い討ちをかけるように、豪さんは付け足した。
「や、俺も詳しくは知らないよ。本人から聞いてないし。ついこないだ、箕輪の姐さんから聞いたばっか」
 ふーん。
 箕輪さんも、知ってたのか。昨日飲んだときは、そんな話1ミリもしてなかったのに。
 僕の心を表現するかのように、吸いかけの煙草から灰がひとかたまり、落ちた。

 夜、バイトが終わって帰り道を歩いていても、僕のいやに暗い気分は続いていた。
 ぽつんと取り残されてるって感じ?
 もちろん、別に子供じゃないんだし、友達じゃん、なんでも話して欲しいよ、とか思うわけじゃない。あと、みんなが知ってて自分だけが知らないことに、腹を立てるつもりも全然ない。
 ニイヤくんは、あの後こう言ったんだ。
「俺はねー、こう見えても将来は世界を股にかけるジャーナリストになりたいと思ってんの。そのためにはやっぱ、英語ぐらいフツーに喋れるようになりたいじゃん?」
 そんなこと考えてるなんて、全然知らなかった。
 大学の1年目がもうすぐ終わるという今。僕はこの1年で、なにかを得たんだろうか──とか、嫌でも考えさせられる。なんの目的もなく、漫然と過ごしてただけなんじゃないか、とか。
 家庭教先の子も、もう受験の追いこみに入る季節だから、新たに教えることはほとんどないし。あとは復習させるだけ、ってつまり、本人次第で、僕の存在は本当は必要ないんじゃないか――なんて、あまりにも弱いな。
 駅から家まで歩く10分が、やたら長い。

 雪はほとんど積もることもないまま止んで、夜はやけに静かだ。
 僕は胸の奥で踊る奇妙なモノの動きを抑えたくて、どうしてかわからないけど、誰かに電話しようと思った。
 携帯を開きながら、誰に電話しようか考える。ニイヤくんの話をするなら箕輪さんか? でも箕輪さんはニイヤくんの留学のことを僕に黙ってたわけだし──って電話帳の画面をスクロールしかけて、すぐに手を止めた。
 登録順のせいで、すぐに出てきた睦月の名前。
 見た瞬間、なぜか指が勝手に発信してた。

 睦月はすぐ、マジでこっちが心の準備をする暇もないくらいすぐ電話に出た。
「えー、どうしたの?」
 開口一番、睦月はほんわりと訊いた。家でくつろいでいるような声だったから、ちょっとホッとした。
「ごめん。別に、用があるってわけじゃないんだけど」
 妙にたどたどしく答えてしまって、恥ずかしい。女の子に電話するのは別に初めてじゃないし、その相手が睦月だったことも珍しくないのに。
 でも、そういえば僕はいつも用件を探してから電話をかけていた。何を話そうか決めずに電話するなんて、たぶんこれが初めてだ。だから、困る。
「ふーん。なんか、珍しいよね」
 睦月はそう言って小さく笑った。その声はあくまでも学校で偶然顔を合わせたときみたいに自然で、だから、電話ってこんなものだったっけ、なんて思ったりした。

 とりとめもなく、今日あったことを僕は話した。2、3、4限の3コマ講義に出たこと。昼は四本くんと学食でカップやきそばを食ったこと。市川さんの服の色が今日もビミョーだったこと。雪が降ってたこと。テストの日程が出てたこと。そして、ニイヤくんと遭遇したこと。豪さんと煙草吸ったこと。とか。
「なるほどねー」
 睦月はひととおり話を聞くと、知ったような口調で言った。
「なーんか暗いと思ってたら、ニイヤくんがいなくなっちゃうのが寂しいんだ?」
「まさか」
「寂しいって言っちゃいなよー」
 睦月は電話の向こうで、ニヤニヤと笑ってるみたいだった。僕は自分に対して首を傾げる。
「だから、寂しいとかそういうんじゃなくってさ。なんつーか……え、なんだろ?」
「うーん、まあ解るけどね」
「何が?」
「気にすることないよ。ニイヤくんって協調性ありそうに見えて、超マイペースだもん。会話もどっちかっていうとツッコミ役だし、ああいう人ってよく喋ってるように見えて、意外と自分のことって秘密主義なのよ」
「あー……、うん」
 僕は、腑に落ちないながらも同意した。
 そういうことじゃないんだけど、睦月の言ってることは、それはそれで僕が求めてた答えのひとつになってる気もした。
 とか思ってたら、次の瞬間、睦月が急に声色を変えた。

「あの……ね、そういえばっていうか、せっかくだから言おうと思うんだけど、私……」
 それがあまりに重々しい声だったから、僕は思わず唾を飲みこんで、「うん?」と不自然に相槌を打った。飲みこんだ唾のせいで、変にくぐもった声になってしまったのが恥ずかしい。
 そんな僕の心境を読み取ったせいか、睦月の口ぶりはまた急に軽くなった。
「ごめーん。やっぱ、今は言わない」
「え、気になるな。なんか睦月って、こないだから俺に言いかけてることない?」
 普段からそう思ってたわけじゃないけど、なんとなく思い出して僕はそう言った。忘年会の帰りも、箕輪さんに遮られて聞けなかったけど、何か話そうとしてた気がする。学祭の時も、話が中途半端なまま終わっちゃった気がするし。
「あー、そうだね」
 睦月は、別にごまかしたりすることなく、割と落ち着いた口調で答えた。
「実はね、結構前から、言おうかずっと迷ってたことが、あるの」
 そのしずしずとした声を聞いた瞬間、ふっと。
 ひょっとしたら告白されるのだろうか、という予感が頭をよぎった。
 僕はちょっと取り乱したような顔をした、かもしれない。あるいは、自分を落ち着けようとしすぎて無表情になったか。どっちにしても、顔に力が入り過ぎた。
 電話で良かった。

「ねえ、春に新歓で初めて私と会話したときのこと、覚えてる?」
 睦月は淡々と話を続けた。でも、前から言おうと思ってた、という大切そうな言葉の直後に、出会いの時を思い出させようとするなんて、やっぱコレって告白の流れとしか思えない。
「なんだっけ──あ、なんでウチの大学を選んだのか、とかいう話? 覚えてるよ」
 とりあえず多少しらばっくれた振りをしながら言ってみたけど、忘れるわけがなかった。あのときの会話がなかったら、僕自身、大学にいる意味(たいした意味はないんだっていう気楽さも含めた『意味』だ)を見出せなかったかもしれない。そう思うくらい、あれは僕にとって重要な会話だったから。
「そう。私、あのとき確か、『近いから』ってだけ、答えたよね。でも、本当はあれってちょっと嘘で……」
 そこまで言うと、睦月は喋るのを一旦止めた。続きを待ちながら、僕は黙ってしばらく電話に耳を押し当てていた。
 なのに。
「──う、やっぱり今日はやめとく〜」
 睦月は突如、緊張の糸に自分で鋏を入れたかのような、揺らいでひっくり返った声を出した。
「っだー! そこまで言っといてやめるのかよ! 逆に気になるよ」
 思わず力を込めて言ってしまった僕に、睦月はあくまでやんわりと、それでいてどこか冷静に、きちんと理由を言った。
「えへへ、そうだよね〜。でも、ね……あの、電話で大切な話をしちゃうのって、なんかもったいなくない?」
 そう言われちゃうと、なんか必死に食いついて話を聞き出そうとしてる自分が、すごいみっともない感じがする。
 それに、『大切な話』って言葉が、僕を余計に黙らせたのかもしれない。

 考えてみれば──つうか、あえて考えないようにしてきただけかもしんないけど、僕と睦月の関係ってのはやっぱり、他の友達とは明らかに違ってる。
 出会ってすぐにあんなことがあったから特別になったのか、もともと特別になりそうな予感があったからあんなことになったのか、そんなことは解らない。
 あるいは、あれが今のところ僕にとってまだ「唯一」の女性経験だから余計に引っかかるのかもしれないとか、あのとき既に初めてではなかった睦月にとってそれほど意味がないことだったんじゃないか、なんて心配は、今となってはどうでもいい。
 とにかく言えるのは、ただひとつ。
 僕にとって睦月が他の奴らとは明らかに違う、ってこと。それだけ。

 それだけのことだけど、もしかしたらそれこそが、この1年で僕が得たものと言えるかもしれない。
 あー、まあね。『童貞卒業の瞬間』と、『ちょっと恋に近いっぽい感情の芽生え(まだ恋とは断定できない)』なんて、わざわざ大学に入ってまで得るもんでもないとは思うけどさ。でも、自分には何もないと思って凹んでるよりか、少しはいい。うん。流されるように終わっていく僕の1年にだって、少しは意味があるってことで、ひとつ。
 睦月が自分から話してくれるのをもう少し待とう。そう思いながら、僕は凍りそうな夜の真ん中で密かにうなずいてみたり、した。

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