塀の上ウォ〜ク

塀之上アユム


第9話・二月にあったこと

「今日、飲む?」
 終了の合図を言い渡された瞬間、ニイヤくんがぐりっと振り向いて訊いた。
「普通飲むでしょ」
 僕はきわめて簡単に答える。当たり前のこと訊くなって感じだ。なにしろ終わったんだよ、試験が。

 試験期間の最終日は、最後のコマが必修の語学だった。必修ってことは、みんな試験を受けに来てるわけで、人集めは簡単だ。ま、どうせそんな事情がなくったって、いつも集まる面子なんだけどさ。
「つっても金ないから俺んちでいい?」
 ニイヤくんは一応って感じでそう言う。こっちは別にそんなこと解ってるから初めからニイヤくんちに行くつもりだったっつーの。
 というわけで、とりあえず場所と面子を確保して、僕らはさくっと移動した。これから長い春休みに入るけど、しばらく来ることもない学校にはなんも未練はないってやつ。

 ニイヤくんちを経由して、じゃんけんに勝った市川さんと四本くんと豪さんが買い出しに行った。その間、僕と箕輪さんは部屋に足の踏み場(座り場?)を作るための掃除をする。歩くと往復20分はかかる酒のディスカウントショップに行くのは結構大変だけど、実はニイヤ家掃除のほうが作業的に断然ツライ。そんぐらい汚い。でも、じゃんけんで負けたからには仕方なかった。
「なんかクッサイし」
 箕輪さんも容赦なく文句言う。でも、言いつつちゃんとキッチンまわりをテキパキ片付けるから、やっぱ女の子なんだなあと思う。
 けどその横で、ニイヤくんは堂々とエロ本をロフトに投げ込んだりする。箕輪さん、女だと思われてないなあ。とか、僕は心の中でニヤニヤしたりして。
 ま、僕だって箕輪さんのこと、エロネタなんかに動じるような子じゃないと思ってたから、無理もない。大丈夫、あの秘密については、ちゃんと守ってる。

「てゆーかほんと、汚なすぎ。よくこんなとこに住めるよね」
「しょーがねーだろ。試験中なんて、掃除とかする暇ないし」
「試験中じゃなくても、いつもこうでしょ」
 箕輪さんは、最近ニイヤくんに対して、妙に喧嘩腰だ。留学のこと黙ってたの、未だに怒ってるんだろうか。せっかくの飲み会なんだから、あんまり殺伐としないでほしいんだけどな。
 そんでも、なんだかんだ言いながらこういう場に参加してるってことは、別に問題ないのかな。

 そんなこんな、掃除の甲斐あって部屋の床がかなり見えてきた頃、何かぎゃあぎゃあ騒ぎながら豪さんたちが帰ってきた。つっても四本くんは基本的に黙ってるわけで、騒いでるのは豪さんと市川さんだ。
 やっぱ、2人の雰囲気は年末あたりからかなり親密っぽくなった気がする。部屋に入ってきてからも、当たり前みたいに隣に座るし。狭いせいかもしんないけど、なんか寄り添ってる。
 玄関の近くから時計回りに、箕輪さん、四本くん、僕、市川さん、豪さん、ニイヤくんってな順番で座る。不思議とこれが最近の定位置。やっと落ち着いたって感じで、みんなは飲み物とかポテチとかをディスカウントショップの袋から出し始めた。
 そのガサガサいってる中で、僕はナニゲなふりして訊いた。
「えっと……全員揃った?」
 別に深い意味はないけどな。っつう心の声を聞き取ったみたいにニヤニヤしながら、市川さんが言う。
「あ、ちゃんとむっちゃんも呼んどいたよぉぉぉ。ちょっと用があるから遅れるって言ってたけどぉ、来るって♪」
 なんで市川さんは頭が異次元なくせにそういうところ鋭いかなあとか冷や冷やしつつ、でもたぶんどうせ他の奴らは全然気づいてないし、ふーんともすんとも言わずに「先に飲んじゃってもいいのかな」とか言って、僕はうまく話を繋げた(つもり)。ま、どうせそう訊いても、みんな待ちきれるわけないし――とか思ってたら、隣で四本くんがぼそっと言った。
「あ、そーか。今日って転科のガイダンスだもんね」

 その意味が、僕にはよく解らなかった。
 それは他のみんなにとっても同じらしく、みんなの真ん中にデカい「?」が浮かんだみたいに、一瞬空気の流れが悪くなった。
「えぇぇぇ、テンカってなぁにぃぃ?」
 みんなの気持ちを代弁するように、市川さんがバカっぽく訊いた。四本くんは、別に表情を変えることもなく、しれっと答える。
「転科っていったら、学科を変えること以外なくない? 睦月さん、転科するみたいだよ」
「うっそ」
 いつもクールな箕輪さんさえ、驚いたような声を出した。
「うーん、まあ本人から聞いた訳じゃないけどね。たぶん美術学科だよ。年末に掲示板見てたら、転科試験の合格者発表に名前が載ってたから」

 妙に長い沈黙――を、挟んで。
「へー、うちの大学って、そんな制度あったのかよ」
「そりゃまあ、あるだろ」
「私は一応、あることは知ってたけどさ」
「でもさぁぁ、本当に転科とかしちゃう人っているんだねぇぇぇ」
「毎年20人ぐらいいるらしいよ」
 みんなはそれぞれ、沈黙を塗りつぶすみたいにして、ペラペラと喋りだした。
 なんか、妙にしらじらしかった。
 僕に向かって、市川さんが泣きそうな顔で訊く。
「じゃあさぁぁ、むっちゃんって春から他学科の人になっちゃうのぉぉぉ?」
 そんなの僕が知りたいよ。

 でも――そっか。睦月が何度も僕に言おうとしてた『大切な話』って、このことだったんだ。そうだとすれば、睦月の言ってたいろんな言葉の意味が解る。
 もしかしたら、ずっとそのことで悩んでたのかもしれない。
 とりあえず、早まって勘違いのまま告白とかしなくて良かった、と思う。本当は、良いとか悪いとかわかんないけど。

「ま、とりあえず試験終わったんだしさ。湿っぽい話はやめて、飲もうぜ」
 豪さんが、もう待ちきれないとばかりにビールの缶をみんなに配り始めたので、僕らは微妙にさっきまでの雰囲気を取り戻すことができた。豪さんもたまには役に立つ。
「ほら」
「サンキュ」
 と、渡された缶を開ける。
 ブシュッっとアホみたいに泡が吹いて、僕の顔面を直撃した。
「うわっ、なんだよこれ」
「それハズレ」
 豪さんがガハハと笑う横で、四本くんがご丁寧にも、「今、玄関の前でひとつだけ思いっきり振ったんだよ」と教えてくれた。
「くっだらねー」
 僕は怒りのあまり、乾杯も忘れて早速ビールに口をつけた。そんな僕をせせら笑いながら、みんなは「試験おつかれー」「一年おつかれー」とか言って、缶をぶつけ合った。
 ほんと、くっだらねー。
 くっだらねーけど、笑える。
 こんなバカみたいな毎日から、睦月がいなくなるなんて、信じられない。ましてや、ニイヤくんが留学するとか、そんなの想像を絶する。
 だけど、日々は確実に流れてるのだ。缶から飛び出したビールの泡みたく。

 睦月が登場したのは、飲み始めてまもなくのことだった。
「ごめーん、遅くなった」
 ドアが開くなり申し訳なさそうな、でもなんか妙にすっきりした声が飛び込んできて、ちょっと悔しい気がした。実際はいろいろ手間取ってたし、まだ乾杯したばっかだったからそんなに「遅くなった」わけじゃないんだけど、誰も「謝ることないよ」的なフォローは入れなかった。
 ただ、市川さんが、ものすごい単刀直入に切り出す。
「ねーねー、むっちゃん。転科しちゃうって本当なのぉぉぉ?」
「え」
 睦月の目は一瞬、僕を捉えた……ように思ったけど、気のせいかもしれない。どっちにしても、驚いたように目を見開いた。
「な……なんでそんなに情報早いの? 今日みんなに発表しようと思ってたのに」
 ちょっと悔しそうに笑う睦月を見ながら僕は今、どんな顔をしているだろう。
 よく解らなかった。
 解ったのは、その場全体が軽く湿っぽい空気になったことだけ。
 誰が悪いわけじゃなくて、春ってのは、そういう空気がところどころに蔓延する季節なんだと思う。

「まーほらさ、転科したからって、同じ学校だしな。睦月さんもやりたいことできるし、別にいいことなんじゃね?」
 ニイヤくんの声が、軽妙に響いた。
 たぶんこれは睦月をフォローする目的ってよか、単にこの中で湿っぽい空気に一番耐えられない性格だからだと思う。こういう場で、口を開かずにいられないんだ。
 さらに続けて四本くんが、
「そうだよ。転科試験って入試より倍率高くて難しいって言うからね」
 なんてお得意の『微妙に誰も知らないプチ情報』をボソッと披露すると、その場は一気に盛り上がった。
「え。それってすごいんじゃん」
「試験って難しいの?」
「や……筆記はそんなに。普段の成績と、あとは実技だったから」
「へえ、でもめでたいことだな」
「そうだよぉぉぉ。むっちゃんすごぉぉい! 祝杯、祝杯☆」
 市川さんがそう言いながら、睦月にビールの缶を渡す。
 僕らは改めて乾杯をした。
 その間、僕が一言も喋らなかったことに、誰も気づいてなければいいなと思う。

 なにはともあれ、僕たちは車座になって飲み始めた。どうでもいい、くだらなくてバカみたいな話が、後から後から出てくる。
 いや、初めこそ転科の難しさだとか、最近観た映画とか今度西洋美術館に来る企画展のことみたいな、ちょっと文化的な話をしてたはずなんだ。けど。
 気がつけば飛び交うのは、女の子たちによる学内の下世話な噂。豪さんにしなだれかかる市川さんの胸の谷間から生まれ出るニイヤくんのエロ妄想。クールな顔でそれに相槌を打つ箕輪さんを見ながら、四本くんと僕はなんとなく同人誌について語る。そんな、まあいつものノリで。
 ふと外を見ると、もう暗くなってた。

 明るいうちから勢い良く飲みすぎたなーとか思ってたら、何かが通じちゃったのか、睦月がふっと腕時計に目をやって立ち上がった。
「ごめん。私、そろそろ帰らなきゃ」
 僕らは一瞬にしてみんな黙った。妙に寂しい空気が漂う。
「そ……そうなの?」
「うん、ちょっといろいろね、準備しなきゃいけないこととか、あるし」
「なんだよぉ、マジでー?」
「今日ミッチーだって家にちゃんと遅くなるって言ってきたのにぃぃぃ」
「いや、残念だが無理強いはできん。俺にはできん」
 それぞれが、好き勝手なことを叫ぶ。
 でも僕はやっぱり、ただ黙ってることしかできない。
 引き止める気なんかないけど、今日はなんかいろいろ引っかかって、まだちゃんと話もしてない状態だった。でもまあ、だからってみんなの前でどうこうするって訳にもいかないし。
 いいんだ、またそのうち電話でも。とか考えてたら、市川さんが僕の袖をクイッと掴んで、わざとらしく声を潜めた。
「てゆうかぁぁぁ、むっちゃん、外もうこぉぉぉんなに暗くなっっちゃったよぉぉ。あのヘンな道、1人で歩いたらきっつい宇宙人に連れ去られちゃうよぉぉ」
 隣でそれを聞いてた睦月は軽く失笑。
「大丈夫だよ、慣れた道だし。それに、ふふ、きっつい宇宙人が出没したなんて噂、ないから」
 ホッとしたようなガッカリしたような、でもそれでいいような気がしてたら、今度は箕輪さんから一言。
「でも危ないよね。誰か男の子が送ってあげたらー?」
 えーと。
 なんで『誰か』と言いつつ僕を見てる?
「うん、そうだ。おまえ行ってこい」
「あとタバコ買ってきて」
 豪さんとニイヤくんまで、便乗して僕に押しつけ始める。ま、こいつらは裏もなんもなくて、単に自分に降りかかったらメンドクサイからって理由だと思うけど。しかし女の子ってこういう微妙な空気に敏感なのかね。
 ま、いいか。とりあえず深く考えるのはやめよう。
「しょーがねーな」
 僕は、「ええー、いいよおー」という睦月の遠慮だけを無視して、立ち上がった。

 外に出ると、ゆったりと夜が流れていた。まだ2月だってのに、妙に暖かくて春っぽい感じ。ちょっとだけ新歓の時の空気に似てる気がした。
「本当に、転科しちゃうんだな」
 例の壁――じゃなくて、塀だったっけ――の脇を並んで、僕らはいつもより気持ち遅めに歩く。
「うん――ごめんね」
「なんで謝るの?」
「あんな形で、報告することになるなんて」
「別に睦月のせいじゃなくね?」
 お互い、妙に声をくぐもらせた感じで。
 なんでもないなら、そんなことする必要もないんだろうし。たぶん、睦月と僕の間にはなんかある。それがなんだかは解らないけど。
「あのさ、前から言おうとしてたのって、このこと?」
「そう。ちゃんと言っておかなきゃって」
「俺に?」
「――そう、だね」
 睦月はそこからさらに歩く速度を緩めて、ゆっくりと語り出した。

「私ね、もともと美術系の大学に行きたかったの。でも、進路を決めるのが遅すぎて明らかに勉強不足だって解ってたから、転科狙いで他の学科も受験したの」
 やや上を向いて、僕に言ってるってよか世界に囁いてるみたいな顔で、睦月はゆっくりと喋った。相槌は別に必要なさそうだったから、僕は黙って聴いていた。
「それで、美術系は案の定全滅しちゃってね。今の学科にたまたま受かったから、とりあえずもぐり込んじゃったんだけど、入学してすぐに、やっぱ後悔したんだ。こんなのやっぱり正攻法じゃないし、同じ大学でも学科によってこんなにカラーが違うなんて思ってなかったし。だからあの新歓コンパもノリについて行けなくて、ここには自分の居場所がないなあ、やっぱり普通に浪人しておけば良かったかなあって思って……」
「そのとき、俺が話しかけたってわけだ?」
「うん。でもその前から、ちょっと気になってた。私みたいにつまらなそうな顔してる人がいるなーって」
「はは」
「そしたら、声かけてくれて。で、『俺は受けてみたら受かったから来ただけ』とか言ってた」
「言ったな、そんなこと」
「それだけのことなんだけど、私あのとき、自分だけが場違いな気がしてる訳じゃないんだって思って、すごく嬉しかった。転科するまでの大学生活も、かりそめだなんて思わないで、ちゃんと友達作って楽しもうって思えたんだ。だから」
 まっすぐに僕を見つめながら一息置いて、睦月は言った。
「だから一年間、本当にありがとう」
 それがまるで別れの言葉みたいだったから、僕は思わずその場に立ち止まってしまった。
「ん?」
 振り返って首を傾げた睦月に、だけど言うべき言葉は見つからない。これから新しい生活に向かっていく睦月を、僕が引き止めるわけにはいかないんだし。

「こ、この塀ってさ、本当はなにを隠してるんだろう」
 ごまかすために開いた口が、勝手にどうでも良い言葉を紡いだ。アホだな、ホントどうでもいい話なのに。だけど、言葉は止まらない。
「睦月はさ、前に知らないほうが面白いって言ってたけど。それって別に知らないから面白いんじゃなくて、知りたいっていう欲求が勝手に妄想を膨らませるってことだろ。別に知らないでいいことなんてあんまりなくてさ、やっぱ知ったほうが、なんつーか、その面白さとかも次の段階に広がっていくわけで、」
 だから、俺は睦月のことを知りたいと思った。少し知ってみたら、もっと知りたいと思ったんだ――とか、言う間は全くなかった。
 なぜなら、睦月がにっこりと笑って言ったからだ。
「じゃあ、見てみればいいよ」
「え?」

 睦月が静かに指をさす、その先。
 十メートル程向こうにゴミ集荷場がある。まったく、なんて偶然だろう。たまたまそこには、粗大ゴミとしてダイニングセットが置いてある。ゴミは朝出せよ、とか言っても仕方ない。
 このテーブルの上に椅子を置いて、僕がその椅子に立てば、十分安定した足場から塀の向こうを覗けるはずだと、睦月は自信満々に説明した。
「ねえ、ラッキーだね。今日ここを通ったのも、何かの巡り合わせかも」
 睦月があまりにも嬉しそうに言うから、僕は引っ込みがつかなくなった。

 困った。でも、また話を逸らすほど口に自信もない。
 仕方ない……か。
 僕は睦月の勧めるままに、足場を作ることにした。あー、なにやってんだろ。
「これ、結構不安定だよ?」
 四つ脚だけど、古びたテーブルと椅子は微妙にガタついてる。でも睦月は気にしないらしい。
「だいじょぶ、私、支えてるから」
 そう言ってがっしり椅子の脚を掴んだ睦月のニッコニコな笑顔を見て、あーこの子も酔ってるんだなって思った。
 これはこれでいいのかもな。僕も酔ってるし。
 多少不安定でも、別になんてことない。
「っし。じゃ、上るよ」
 ちょっとぐらついたテーブルに乗り、さらに睦月が支える椅子の上に立ってみる。やっぱ結構揺れる……と思いながら、塀の向こうを見る。
 と。
 そこには思いがけない風景が広がっていた。

「え……」
 一瞬、そこには幻想的な風景が広がってるみたいに見えた。まだ昇りかけた月に照らされた静けさ。一面がのっぺりと……。
 のっぺり?
 僕はちょっとだけ現実に返って、睦月に訊く。
「何これ。畑?」
「そう。今はちょうどシーズンじゃないからなんにもないけど、ここでキャベツを作ってるの」
「な……それだけ?」
 睦月がケラケラ笑う。僕は何か言葉を探したけど、うまく見つからなかったから放棄した。投げ出したら、もう笑うしかなかった。
 だって、アホじゃん。
 こんなにすごい塀の向こうにあるのが、だだっ広いキャベツ畑だなんて、誰が思う?

 睦月は、自分もダイニングセットに上ってくる。押し出されるように、僕はそのまま塀の上によいしょと上がった。
「この塀も、昔は小さな柵だったらしいんだけどね。うちの大学が出来たとき、学生がこの畑からキャベツを盗むっていうのが問題になって、こういうことになったらしいよ」
「なにも、こんな高い塀にすることないのにな」
「なんかね、進入しにくいのはもちろんのこと、もうここに何があるか見えないくらい高い塀にしてしまえば盗まれないって考えたみたい」
「なるほど……ってか睦月、詳しいな」
「うん。実はここ、うちの母の実家なの」
「は?」
 すごいネタを仕入れたもんだ。さすがにこんなこと、四本くんも知らないだろうな。まあ知っててもあんまり意味ないかもしんないけど。

 とりあえず、せっかく塀の上に上ったのだ。幅は20cmほどあるだろうか。タイトだけど、立てなくもない。
 僕は思い切って腰を上げ、おそるおそる足を動かしてみた。右には幻想的なキャベツ畑が広がり、左には暗くて気味の悪いいつもの道を見下ろす。割と愉快。
 足許を見ると、やっぱかなり高い。でも、酔っているせいか怖くはなかった。
 これはなんだ。僕がバカだからかな。高いところにいると、世界を制した気になれて気分がいいもんだ。もともと酒も入ってるから、気は十分大きくなってる。
 細かいことなんか気にしてもしょうがなくね? とか思って、僕は告白する気満々で思いっきり睦月を振り返った。
「睦月、俺さ……」
 と、その瞬間。ピロロ〜と僕の携帯が突然鳴りだした。

「わ、びっくりした」
 あまりのタイミングの悪さに、慌ててポケットから携帯を取り出……そうとしたら、失敗した。僕の携帯は手の中を滑って、思いっきり塀の下――キャベツ畑の中ではなく、反対のアスファルト側――に落ち、その衝撃で幾つかの破片を周囲に飛び散らせた。
「やべっ」
 慌てて僕は塀から飛び降りる。
 酒のせいか夜のせいか、そこが三メートル超の高さであることなんて、すっかり頭から飛んでしまっていた。
「うぐっ」
 飛び降りた僕は、かろうじて鳴らなくなった携帯を握りしめたものの、左足に覚えた強烈な痛みを無視することができなかった。
「ごめん、睦月。ちょっと、手……」
 睦月がダイニングセットから飛び降りて、「大丈夫?」と心配そうに僕の顔を覗き込む。ん、どこか顔が笑ってない?
 まあでも仕方ないか。そりゃ、バカだよな。テンパって携帯を落としてぶっ壊した挙句、こんな高いところから飛び降りるなんて、あり得ないもん。

 後から解ったことだけど、このときの電話は箕輪さんからの「私もタバコお願い」というお遣い電話だった。
 そんなくだらない用のために、僕は後々まで語り継がれる武勇伝をひとつ作ってしまったということだ。

→目次へ


Copyright(C)2005-2006 Ayumu Heynoue