何時間眠りつづけていただろう。 完全に覚醒しきっていない脳でもって、奈々はそんなことを思った。 解らない。今はいつなのだろう。私はいつから眠っていたのだろう。あれから、どのくらいの時間が経っているのだろう。解らない。何も、解らない。 眼を開こうと思ったが、どうもうまく開かない。瞼がずいぶん腫れているようだ。泣いているうちに、泣き疲れて眠ってしまったらしい。 鏡を見ると、いつも控えめに畳まれている彼女の奥二重は、分厚く醜い二重となって、顔の表面で自己主張をしている。 「ひどい顔」 呟いた独り言が、決して狭くない――広くもないのだが、一人で暮らすには、かなり広いように感じられる――マンションの一室に無機的に響く。 喧嘩したまま家を飛び出した恋人が、昨日の夜、帰ってこなかった。 たった一日帰らないくらいで落ち込むことはないかも知れない。だいたい彼は、朝まで遊んでいて帰らないことなど日常茶飯事のようにあるのだ。が、今度は違う気がした。 一週間待とうが一ヶ月待とうが、彼はもう帰らないような気がする。 (どうして私はいつもこうなってしまうのだろう。) あの時、彼の傷ついた顔を見て、奈々は咄嗟に「悪気はなかった」と自己弁護をしてしまった。それは、彼が奈々に投げかけた言葉の真剣さに対して、あまりにも軽率だったことは、奈々にはよく解っていた。 「悪気があるほうが少しはマシだよ」 彼は言った。軽蔑するような眼差しでそれだけ言うと、この部屋を出て行った。 本当は心の底から彼を必要としている奈々にとって、これはまったく悲劇的としか言いようのない状況だ。しかも、どういうわけか自分でそうなるように仕向けてしまった。 どんどん自分が嫌いになる。 奈々は横になったまま、瞼を開けようとする気力もないまま、自分の胸のあたりをキュッと掴んで、声に出してみた。 「あいつ、もう帰ってこないかもしれない」 最後まで上手く言えた。そうだ、私はそういう女だ。昨日だって、ユカリはきっと呆れただろう。困惑したかもしれない。 真夜中に電話がかかってきて――奈々だっていつもは滅多にそんな事をしないし、もともとユカリはそういう友達を見て放っておけない性格なのだ――わざわざタクシーで駆けつけてくれたユカリにまで、無理やり笑顔を見せた。 「あいつ、もう帰ってこないかもしれない」 さっきのように言って、そして奈々は笑った、はずだ。小さな頃から人前で泣かない子だと言われていた奈々にとって、それは別に難しいことではなかった。と言っても、笑顔を作る顔の筋肉がかなり引き攣っていたから、ユカリの目に上手く笑えていると映ったかは、解らないのだが。 ユカリは、何も言いようがなかったに違いない。そういう顔をしていた。もっとも、責任感も強い彼女の事だ、「きっと帰ってくるよ」などと無責任な言葉を使ってなぐさめることなどしない。 ただ彼女は紅茶を淹れ、そしてそこにほんの少しの桜リキュールをたらして、奈々に飲ませた。それはとても美味しかったし、心からあたたまるかのような気にもなった。それで、奈々も少し心が落ち着いた。 だから、あとはいつものように、好きな音楽をかけて、くだらない笑い話をして、リキュールのおかげで少し気持ちが楽になっていたのかもしれないけれど、それにしたって、ずいぶん元気になった。 けれど、逆にユカリと別れて一人になった途端、堪えていた涙が噴きだして止まらなくなってしまったのだ。 ユカリは奈々にとって、とても大切な友達だ。決して人付き合いが得意とは言えない奈々を、彼女はいつも自分を明るくさせてくれ、食事やショッピングや、その他もろもろの毎日の小さなイベントに付き合ってくれる存在だ。普段は苦手だと思っているとりとめのない長電話すら、相手がユカリである場合に限っては、苦痛ではない。二人でいると、なぜかいつも面白おかしい話ばかりして、笑っていられる。笑顔が増える。お互いが、それを心地よいと思うからこそ、一緒にいられるのだ。 そんなユカリの笑顔を前に、どうして傷ついた顔など見せられるだろうか。ユカリは奈々の傷ついた顔を見れば困るだけだろう。そして奈々は、彼女の困った顔を見るのは哀しいと思う。そんなふうに二人にとってマイナスの感情を生むようなことなら、初めからしないほうが良いに決まっているのだ。 楽しい会話で、楽しい時間を紡ぐことは、内側に抱えている悲しみとはまったく別物として独立することを、改めて知った。 悲しみに上書きできるものなんて、この世には無いのだ。人間の感傷はなんて不便なものなのだろうと思いながら、奈々は無気力に横たわった。 いつまでそうしていればいいのか、一人の部屋では起き上がるきっかけすら見つけることが出来なかった。 とにかく、何をする気にもならないのだ。 |