Peach Time (4)
 

   
 「ねえ」
 未樹が、トマトソースのパスタをフォークに絡めたまま、手を止めた。
「あそこにいる男の子、ほら、しょう君に似てない?」
 そう言われて、美咲は大きなガラス窓から通りを見下ろす。

 この店は、ちょっとした裏路地を入った飲食店ばかりがテナントに入ったビルの二階にあるイタリアンレストランで、安くて旨い、おまけに会社からすぐ近くであるという条件が揃っているので、美咲たちのお気に入りだ。少し残業をこなした後、同僚と連れ立って軽くワインなどを飲みに行くのに丁度良いランクの店だ。ただし、周りにラブホテルや風俗店ばかり林立しているという立地条件に目を瞑れば、の話だが。
 もっとも、普段の美咲は寄り道などせずに、なるべく早く家に帰っている。友人との食事は、同棲している恋人から、あらかじめ「今日は仕事の飲み会で遅くなる」という連絡があった時にのみ楽しむべきものだという頭がある。
 そのくらい、美咲は彼に夢中なのだ。

 雑居ビルの二階から見下ろした人もまばらな雑踏の中で、未樹が指さした(正確に言えば、フォークの先で示した)少し目立つくらい長身の青年は、よく見ると確かに美咲の恋人、しょうに間違いなさそうだった。
 だから、美咲の顔は、明らかに曇った。
「本人だわ」
「え、まさか」
 未樹は慌てた。彼女は、本当にただ似ている人が歩いていると思ったから、そう言っただけだったのだ。
 なにしろ、未樹にとって『しょう君』は、美咲を迎えに来たところを一度だけチラと見たことがあるだけの人だったし、すぐ斜め下を歩いてゆく彼についてはパッと見ただけで、『しょう君』とは、背が高いところと、何となく全体的な雰囲気が似ている、というくらいにしか思わなかったのだ。
 まさか、美咲の恋人が女の子と手を繋いで歩いているだなどと、思いつくはずもなかった。
「そ、そっくりさんだよね?」
 弁解をする気は無いが、大切な友達が傷つくのを平気で見ることができるわけがない。そうであって欲しいと心から思ったので、未樹はそう言った。
 しかし、美咲は表情を全く変えずに答えた。
「ううん、あれは本人。間違いない」
 美咲が彼を見間違えるわけが無かった。だって、あのネクタイ。確かに今朝、彼があのピンク地にブラウンのギンガムチェック柄が入ったネクタイを結んでいたところを、美咲ははっきりと見ていたのだ。そもそも、そのネクタイは美咲がしょうにプレゼントしたものだし、彼によく似合うといつも褒めているものだ。
「あの……なんていうか……」
 美咲が泣き出したり激昂したりしないので、未樹は、逆に動揺してしまった。何か言ってくれれば、励ましたり、上手いことを言って場の雰囲気を和ませることも出来るかもしれないのに。美咲が何も言わない限り、自分が行動に出てはいけない、と未樹は思う。何を言っても墓穴を掘るだけになるだろう。知らないことは口にしないほうがいいのだ。
 もっとも、美咲が黙っていたのは、どう反応したら良いのか解らずに、ただ呆けているしかなかったからだ。申し訳ないが、未樹のことを考える余裕もなかった。これから、自分は食事を終えて、彼と住む家に帰る。彼も、少し遅れて帰るだろう。その時、どうすれば良いのだろうか。彼に、自分が見たことを話すべきだろうか。彼は、何と答えるだろう。修羅場を迎えることになるのだろうか。
 美咲は不思議な気持ちでその場面を想像した。
 彼に対して怒りをあらわにするのは、ずいぶんしらじらしいことのように思えた。美咲自身、初めて彼に声をかけられたとき、見知らぬ女性に簡単に声をかけるその男を、全く信頼していなかったはずだ。携帯のアドレスだけ教えてたが、後から何度もメールが届いたので、仕方なく一度会ってみただけだったのだ。
 それが、いつのまにか恋人同士になって、一緒に暮らすようになったのだから、男女関係というものは解らない。

 始まりがそんなものだから、終わりだってそんなふうに訪れるものなのかもしれない。美咲が今までにそういう恋愛を経験した事がないだけなのだ。
 そんなことを考えてぼんやりする美咲と、ただおろおろしている未樹の間に、突然割って入る声が飛び込んできた。
「あー、おまえらも来てたんだ?」
「松尾さん!」
 未樹は良いタイミングでやってきた助け舟に、救われた気持ちになった。
 松尾は、未樹と美咲が所属する課の一年先輩だ。いつもならば、知った顔が同じ店にいようが、興味なさそうにしているような、冷たいというか単純に他人にあまり興味を示さない人である。それなのに、松尾のほうからこんなふうに声をかけてくるなんて。今日の彼は、珍しく機嫌が良いに違いない。
 しかし、救われた気持ちになったのは未樹だけだった。美咲のほうは松尾が声をかけてきたのにも気付かない様子で、黙ったまま、ただ自分の恋人とその隣の女の行く先を目で追う。
 美咲は、もはや不安ですらなかった。
 不安というのは、絶望になるかならないか、今はどちらに転ぶかわからない、という段階で感じるものであって、美咲の場合はもうそれにあてはまらない。
 仮に、自分の恋人が他の女の子と何か事情があって(どんな事情があったらそのような状況になるのかは知らないが)、たまたま手を繋いでいるというようなことだったら、まだ許せるかもしれない。けれど、彼らが手を繋いで歩いているのは、偶然ではない。
 だって、この路地を入った先には、ラブホテルと風俗店しかないのだから。
 隣を歩く彼女を凝視する。中肉中背で、黒目がちな眼が印象的だ。服装や雰囲気から言って、とても風俗関係の女性には見えないし、その立ち居振舞いを見ていれば、彼らはすでに対等に男と女の関係を築いているのが解る。もはや疑いようもない。
 美咲は、彼が女とすぐ斜向かいのホテルに入っていくところを、最後まで見ていた。
「おぉ」
 美咲の視線が追っている先に気付いた松尾が言う。
「若い男女が吸い込まれていくなあ」
 視線には気付いても、状況には気付いていないかのような呑気な口調である。
 そう言われてはじめて、美咲は松尾がそこにいることに気がついた。別段、驚きもしなかった。世界では、色々な事が起きているのだ。自分が気付かないだけで。
「もう、松尾さん、ヤラシイんだからー」
 ただそう言って、美咲は他人事のように笑った。未樹もようやく、少し安心したように微笑んだ。