その店のドアは全面ガラスだったので、奈々は店に入る前に自分の全身をチェックすることが出来た。 大丈夫。自信を持った顔をしていれば、背筋を伸ばして堂々としてさえいれば、何も問題は無い。 ガラスに映った自分に、奈々は言い聞かせる。 実際、怯んだり緊張したりしなければ、長身で細身で涼しげな顔立ちをした奈々は、まるでファッションモデルのように見えなくもない。彼女の恋人がそれをよく褒めてくれていたから、奈々は特にクールな服装を好むようになっていた。気合を入れて、服をコーディネイトし、ほんの少しメイクをよそ行きにするだけで、もう完璧だ。 だいたい、ここは初めて入る店というわけでもない。何度か、恋人に連れてきてもらったことがある。一人で入ったことがないというだけの話だ。けれど、一人で入ってはいけないような店ではない事は知っている。怖いことなんて、本当に何も無いのだ。 心の中でそれだけ言うと、奈々は自分では押した事のないガラス張りの大きなドアを押した。意外な重みを感じた。 「いらっしゃいませ」 バーテンダーが奈々に気付き、明らかに作ったような上出来の笑顔と、思いのほか大きな声で彼女を迎えた。 が、その声が目立ってしまうほどは、ここはもの静かな感じの店ではなかった。店内は、一般的なショットバーらしい薄暗さの中で、割と大きな音量で音楽が流れている。そういう中で繰り広げられる人々の声は、重なり合ってざわめきとなってはいたが、決してうるさいと感じるようなものではなかった。もちろん、静けさとは縁が遠いようではあったが。 奈々は、まずは店内を見回した。 二十代前半くらいのカップルや少人数のグループが、アルコールを摂取しながらそれぞれに会話を楽しんでいる。 が、恋人の姿はここにはない。 軽い落胆と、同時に思いがけない安堵を覚えつつ、奈々はとにかく一杯のカクテルを飲んで帰ろうと思った。 カウンターには、一人で来ていると思われる客も数人いる。奈々は、自分もそこに座るべきだと考え、カウンターの右端で空いていた、やや高いスツールに腰掛けようとした。すると、奈々のすぐ後にやはり一人で店に入ってきた女の子が、隣のスツールに腰掛けようとしている。彼女と目が合う。 身長はかなり高いと自覚している奈々が見上げるほど、彼女は背が高かった。170cmはありそうだ。少々驚きながら思わず見とれていると、彼女のほうから声をかけてきた。 「こんばんは」 随分と人懐こい笑顔である。奈々はつられて微笑みながら「こんばんは」と小さな声で言い、スツールに腰を落ち着けた。 奈々は、とりあえずジン・トニックをオーダーしようと思っていたのだが、隣の彼女が先にジン・トニックを頼んでしまったので、なんとなく真似をするようで気恥ずかしく、「ジン・バック」とバーテンダーに伝え、それから店内をゆっくりと見渡した。 (何度探したって、いないんだ) 自分の恋人は、とりあえず今日はここには来ていない。きっと、まだ会うべきではないということだろう。奈々は、カウンターに向き直る。 やがて、先ほどの作り笑いの上手いバーテンダーが二つのグラスを持ってきた。奈々の前に、ジンバックの作られたグラスが置かれる。それから、隣の席の彼女にはジントニック。 何となく見上げると、彼女は待っていたように奈々の視線を受け止めて、グラスを突き出した。 「かんぱーい」 「あ、はい。どうも。乾杯」 奈々は動揺しながらも、グラスを合わせる。 「この店、はじめてですかぁ?」 彼女はあくまで気さくに話し掛けてくる。 「は、はい。いえ、一人で来るのは初めてだけど、何度か来たことはあります」 「私はね、すぐ近所で働いてて、仕事帰りによく立ち寄るんだ。しょっちゅう来てるから会ったことあるかも」 「はぁ」 「あ、名前なんていうの?」 「岡崎……奈々です」 「奈々ちゃん。私のことは、かおりんって呼んで」 「あ、はい」 彼女の勢いに押されながらも、奈々も自分がすっかり愛想笑いをヘラヘラと浮かべていることに気付いて、反射的に気持ちを引き締めた。私は、彼を探しているのだ。友達を作りに来たわけじゃない。そうだ、彼を探しているのだ。この店は、彼が気に入ってしばしば来るショットバーなのだから。 そして、このかおりんと名乗る彼女もまた、この店の常連だと言う。何度かこの店に来た事のある奈々と、会ったことがあるかも知れない、と言っている。ならば、しばしば来ている彼とだって、会ったことがあるかも知れないではないか。 「あの、かおりん……さん?」 「さん付けしなくていいよぉ。敬語もやめてね」 「あ、はい。えっと……、かおりんは、この店の常連、なんだよね?」 「うん、まあそうかな」 「それじゃあ、ひょっとして、あの」 奈々は、一度唾を飲んでから、思い切って彼の名前を言った。 「瀬名くんって、知らない?」 「瀬名?」 かおりんは、オーバーに目を見開いた。 「知ってる知ってるー。てゆーか友達だよ。昨日も一緒に飲んだ」 こともなげに、かおりんはそう言った。 「そうなんだ? ……元気だった?」 「うん、アイツはいっつも元気だけどねー。昨日もここ出てからまた近くのクラブに遊びに行くとか言ってたし。ていうか、奈々ちゃんも瀬名の友達?」 「ん、まあね」 「連絡先知ってるよ。教えてあげようか」 「ううん、連絡先は知ってるの。ただ、いるかなーと思っただけだから」 奈々はそう言って、いつの間にかほとんど中身のなくなったグラスを傾けて、最後の一口を飲み、立ち上がった。 「じゃあ、私これからちょっと行くところがあるから」 「えー、そうなの? じゃあまた会えるといいね。ばいばい」 かおりんは最後まで明るく奈々を見送った。 瀬名が元気でいることが解ったのは、奈々にとっては嬉しくもあり、哀しくもあった。生活の中に奈々がいようがいまいが、彼には関係ないのかもしれない、などと思ってしまう。そういうふうに何でも考えてしまうところが、今回彼を追い出してしまった原因とも言えるのに、こんなふうに考える癖は治りそうになかった。 だけどやっぱり、遠くにいても、二度と会えなくても、彼が元気でいてくれさえすれば良い、ともどこかで思う。 かおりんに言ったとおり、連絡先なら知っている。携帯の番号も、メールも、知らないはずがなかった。大体、それらが解らないとしても、確実に会える場所を奈々は知っている。それは他でもない、彼が働いているマルディグラという店だ。毎日働いているわけではないが、二日に一回は働いているはずだから、いつ来るか解らないショットバーにいるよりも、会える確率が高い。そんな事は初めから解っていた。 けれど、奈々はそうはしなかった。 心の殆どは彼に会いたいという気持ちで占められているのに、今は「会ったところでどうすればいいのか解らない」という不安のほうが大きい。会えるか会えないか解らない、そういう状況の中で偶然会えたら、その時はきっと自分の背中を少し押してくれる勇気がどこかから湧いてくるのではないかと、信じているのだ。 奈々は、行く宛てもないのにフラフラと夜の街を徘徊しはじめた。たった一つの偶然を求めて。 |