Peach Time (8)
 

   
 考えてみれば、自分は本当にしょうのことを好きだったのか、解らない。いや、確かに好きだったはずだ。何かに取り憑かれるように家を出てしまったとき、自分の中には、確かに情熱があった。優しそうな顔をして、時々冷たく突き放すしょうを、ずっと独り占めしなければいけないような気がしていたはずだ。
 あの感じは一体なんだったんだろう。どこへ行ってしまったんだろう。
 そんなことを考えながら、美咲は泣く気にもなれない自分に驚いていた。

 浮気がばれたと解った途端、しょうは開き直った。悪びれもせず、浮気相手との事を一切合切喋り、仕舞いには美咲と住んでいるアパートにまで彼女を呼んだ。二人が対面したその場で、彼は、美咲と彼女とのどちらかを選ばなければならないのなら、間違いなく向こうの彼女を選ぶ、と言った。
 そんなことを言われなくとも、目の前に現れた浮気相手を見れば、彼女の優勢は一目瞭然だった。彼女は、とても印象的な強い目をしている。まるで、それが揺るぎない自信を持っている証拠のように、美咲の心を追い立てようとしていた。その目を一目見ただけで彼女の優勢を確信した美咲の中ではもう、しょうにすがりつくほどの勇気も、思いの強さも薄れてしまったのだ。
 荷物を纏めている間は、美咲にとって現実的につらい時間だった。けれど、出てきてしまったからには、もう大丈夫だ。人間、覚悟さえ決まれば自分を殺す事だってできるように出来ている。あとはいくらでも、どうにでもなるものだ。少なくとも、美咲にはきちんと帰るべき家があるし、おとなしいが少しは頼りになる弟もいる。友達もいる。恋愛は、またしかるべき時にやってくる。
 ひとつ気がかりなのは、浮気相手――いや、しょうの新しい彼女と言ったほうがいいのだろう――が、美喜という名前だった、ということだ。美咲の親友の未樹と、字は違えども同じ名前ではないか。
 これはあまりにも皮肉すぎる、と美咲は思った。いくら忘れようとしたところで、自分の親友の名前を呼んでしまったら、そのたびにあの印象的な目を思い出し、ひいてはしょうのこと――冷たくされたことも、優しかったときのことも、二人で楽しく過ごした時間も――を、思い出してしまいそうだ。
 だけど、そんなことは心配しても仕方ない。なるべくなら、毎日をお祭り騒ぎみたいに過ごして、早いところ、もっと楽しいことを見つけるしかないのだ。
 美咲は普段から割りと人に頼らず淡々と一人で過ごせるタイプだが、さすがに今回ばかりは、弟と二人の生活では少しばかり暗くなってしまいそうな気がする。なるべく友達と外に遊びに行ったり、友達を家に呼んだりするようにしたい。とにかく賑やかに、やり過ごしたい。
 今や、美咲の願いはそれだけだった。

 そして、美咲は自分の帰るべきマンションのドアの前に立った。
 合鍵は持っているが、何の連絡もせずに帰ってきてしまったので、一応インターフォンを鳴らす。
 ピンポーン、と機械的な音が響いて二三秒。中からバタバタとドアを開ける人の足音が聞こえる。美咲は妙に思った。年の割に妙に落ち着いた弟にしては、ずいぶん軽快な足音なのだ。誰かお客さんを待っていたのかしら。などと美咲は呑気に考えていたが、ドアの中から見知らぬ一人の少年の顔が現れて、うろたえた。
 「えっ?」
 相手も、同じくらい驚いているようで、目をぱちくりさせていた。言葉を発する事を忘れてしまったかのような顔をして。
(この神経質そうな痩せた少年は、弟の友達だろうか。どう見ても高校生くらいにしか見えないけれど。それに、友達だからってどうしてインターフォンに反応して出てくるのだろう。間違いなく、ここは私の家だ。ちゃんと表札には岡部、と書いてあるし……。)
 美咲は一瞬にしていろいろ考えた。
 優希のほうは、
(草平さんトコに女の人が突然尋ねてくるなんて。ボーっとしてるように見えて、こんなお姉サマ系の彼女がいたなんて! やるな、草平さん!)
 などと、目をらんらんとさせた。
「残念ながら、草平さんは今日はバイトです。夜遅くまで帰らないッスよ」
「ああ。そうなの。アイツ、バイトなんて始めたんだ?」
 やっぱりここは美咲の家のようだ。留守番をしていると思しきこの少年が何者なのか、悩んでも仕方ないので、とにかく家でお茶でも飲みながらゆっくり聞くことにしようと思い、美咲は家の中に入っていった。
 優希は慌てた。
「え、このまま深夜までここで草平さんのことお待ちになるつもりっスか?」
「そういう訳じゃないんだけど……」
 そう言いかけながら、美咲は自分の部屋のドアを開けた。いつも何事にも動じない美咲であるが、ここで飛び込んできた光景には、さすがに飛び上がって驚いた。
「なんで、私のベッドで知らない男が寝てるの?」
 瀬名が、その気配に目を覚まして、「な、何」などと起きぬけの声で言いながらも、すぐに状況を理解した。
「ひょっとして、草平のお姉さん」
「そうだけど」
 美咲は、別に怒ってはいなかった。というよりは、怒る気分にもなれなかったと説明したほうが正しいかもしれない。
 自分のベッドに布団も敷かず寝ている男。そのベッドの傍らには、抜け殻となっている寝袋(おそらく、自分を出迎えた少年のものだろう)。部屋は別に汚されているわけでも、勝手に手を加えられているわけでもない。彼らは、最低限の荷物だけ持って寝泊りしているという感じであり、特に害もなさそうだ。
 (私が勝手に男に入れ上げて、出て行ったまま家を放置していたのだから、こうなっても文句は言えないか。)
 美咲は、小さくため息をついた。同時に、自分でも驚いたことに、僅かだが口角が上がった。
 図らずも微笑んでしまった美咲は、自分の今の状況を改めて省みた。
 あとで詳しい事情を聞くにしても、草平がある程度信頼を置けると思って宿を貸しているからには、そんなに怪しい人ではないだろうし、まあいいか、などとどこかで楽観的に思っている。美咲は、自分はあまり周囲に流されないタイプなので、こんな状況でも、それなりに生活できる自信もあった。
 インターフォンを鳴らす直前まで強く願っていたことを、美咲は改めて思い返す。
 『とにかく賑やかに過ごしたい』
 ひょっとしたらこれは、美咲の願いがあまりに早く神様に届いたということなのかもしれないのだ。
 これはもう、楽しむしかない。