Peach Time (10)
 

   
 会わないよ、きっと会わない。大丈夫。
 料金を払ってチケットを受け取ると、奈々は途端に激しい後悔に襲われた。「会うはずがない」と思いながら、何をしに自分はこんなところまで来ているのだろう。
 一人でクラブに来るのも初めてだ。瀬名は、この店のスタッフに昔からの知人がいることから、時々ここでDJをやっている。そのことは知っていた。
 手にした千五百円分のドリンクチケットから、とりあえず一杯のビールを入手し、なるべく隅に近いテーブルにもたれかかって、奈々は周りの様子を見た。
 思ったよりも店内は暗い。これなら万が一遭遇しても、まさか奈々が来ているとは知らない瀬名には、気付かれないだろう。暗闇と大音量に包まれているのは、思いのほか気持ちの良いことだと気付かされる。
 どうして、こういう気持ちよさや、楽しさを、共有しようと思えなかったのだろう。瀬名は、見においでよ、と何度も誘ってくれていたのに。
 結局奈々は、今日初めてこの店を訪れることになってしまった。しかも皮肉なことに、一人で。
 割と早朝から出かけなければならない仕事に就いているから、というもっともらしい理由をつけて、夜遊びはずっと断ってきたのだが、本当はそんな理由じゃないことは奈々自身が一番知っている。
「あたし、ばかみたいだなあ」
 大音量の中で小さく呟いてみても、誰にもその声は届かない。
 と、突然右肩に覚えの無い重さを感じて、奈々は慌てて振り向いた。
 手の主は、瀬名ではなかった。
 奈々は、やはり安心と絶望の入り混じった気持ちでその人の顔を見る。大柄で髪が短いので、暗い中では一瞬解らなかったが、女の人だったので安心した。奈々は、こういうところで女の人に声をかけられやすい性質なのかもしれない。
「……ー?」
 彼女は何か言ったが、流れる音楽のヴォリュームに負けて、その声は奈々の耳には届かなかった。奈々は大仰に首を傾げて見せて、それから耳に手をあてがった。聞こえなかったということが伝わったと見え、彼女は奈々の耳に口を近づけて、半ば叫ぶようにして言った。
「ひとりー?」
 奈々は声で答える代わりに大きく三回頷いた。
「さみしそうな、かお、してたから。いっしょに、おどろうよ」
 奈々は少し困った顔で、笑顔を返した。彼女はおまかいなしで話を続ける。
「あたし、じゅり。で、こいつ、ひろ」
 ふと見ると、じゅりと名乗る大柄な女の脇には、茶髪の男の子がにこにこして立っている。といっても、この暗い中サングラスなどをかけていて、顔はよく解らない。
 一人で行動しないと目立ってしまうかもしれない。奈々は危惧した。自分には、まだ彼と会う自信がないことを、改めて思い知らされる。しかし、彼らを撥ね付けるような勇気もなかった。奈々も、じゅりの耳に口を近づけ、叫ぶように言った。
「あたし、なな。おどるのもいいけど、もうちょっと飲んでいたいな。おはなし、しない?」
 じゅりが、人懐こい笑顔でうんうんと頷いたのを確認して、奈々は二人をさらに奥にあるバーコーナーまで連れて行った。ここまで来れば、大音量で流れる音楽も多少は抑え目に聞こえてきて、普通の声でも何とか会話が成り立つことが解った。
 改めて乾杯のあと、しばらく話が弾んだ。二人が、このクラブによく出入りしているうちに仲良くなった友達同士だと解った辺りから、奈々はまたウズウズしだした。
 瀬名の姿はまだ見つからない。けれど、ここにはかなり来ているはずだから、きっと二人も彼のことを知っているだろう。様子だけでもいいから、聞きたい。
「ねえ、瀬名くんって人、知ってる?」
 奈々が聞くと、じゅりが答えた。
「あ、多分その人知ってる。でも、最近はわからないな。ひろ、知ってる?」
「うーん、わかんない」
「……そっか」
 はやり、奈々はどこか安心した。いまだ、彼の現状を知る勇気が足りていない自分を確認する。彼がいそうなところに足を運んでも会わないことや、彼に関する現状がわからないことは、もう追いかけるべきではないという暗示かもしれない、とすら思う。
 けれど、それでいいのだろうか。
 はずみとはいえ、「出てってほしい」と強く言ってしまったのは、ほかでもない奈々のほうだった。本当は、そんなことを言いたかったのではないのに、奈々はいつも言葉が少なすぎる。いろいろ考えすぎて、言葉がついてこないのだ。
 フォローのないシンプルな言葉だからこそ、彼は必要以上に傷ついているはずだった。あそこまで言われて、彼のほうから帰ってくるはずもないのは、奈々も知っている。
 はずみとはいえ、「出てって」と強く言ってしまったのは、ほかでもない奈々のほうだった。あそこまで言われて出て行ったからには、瀬名が自分から帰ってくることはないように思う。
 奈々が、本当の気持ちをきちんと伝えない限り。