Peach Time (11)
 

   
「ねえねえ、ちょっと待って」
「はい? ……あ、こんにちは」
 四限の授業を終えて帰ろうとしていた草平に突然声をかけてきたのは、神田という男だった。草平が彼とはじめて会話をしたのは数ヶ月前のことだったが、その時、既に彼のことは知っていた。噂話に疎い草平ですら、知っているのだから、密かに有名な男ということになるかもしれない。
 神田は三浪してこの大学へ入り、入学してからもう五年になるはずだが、未だに草平たちと同じ、つまり二年次の単位を取るために授業を受けている。若く見えるが、計算すると、もう二十六歳くらいのはずだ。
「今の授業のさ、今までのノートあったらちょっと見せて欲しいんだけど」
 数ヶ月前にそう声をかけられたのがきっかけで、何となく顔を見知るようになった。授業以外に何か接点があるわけではなく、そもそも神田は殆ど授業に出ていないのだが、たまに校内で出くわすと、ちょっとノートを見せて、ちょっと会話をして、そのまま別れてまたしばらく会わない、という関係を続けている。
 そんな勝手な関係でありながらも、草平は彼に対して特に嫌悪感を持つこともなかった。神田のほうも、普段は初対面の相手に突然声をかけるようなことが出来ない性格だというのに、不思議なものだ。お互い、何となく似た雰囲気を感じたのかもしれない。
 とはいえ、今日は流石に驚いた。突然声をかけられたから、またノートを見せてくれと言われるのだとばかり思っていたのに、
「実は、僕、退学することにした」
 などと、報告されるとは予測もしていなかった。草平は驚いて何も言えなかった。というか、むしろ何の言いようもなかった。草平は神田とは別に友達というわけではないし、何も報告されずに退学していたら、いなくなったことにも気付かないくらいの関係でしかなかったはずだ。
 そう思いながら、草平が言葉を探しあぐねていると、今度は突然、死角から小柄な女の子が草平と神田との間に割って入ったので、ますます訳が解らなくなった。
「ちょっと、待ってよ!」
 小柄だったので『女の子』だと思ってしまったが、彼女もまた学内ではちょっと知れた存在で、草平よりも幾らか年上のはずだ。彼女は去年の春、草平たちと同じ学年に入学した。小柄で、元気は良いけれど、明らかに十九、二十歳くらいの女の子とは違っていた。噂によると、彼女は一度他の大学を卒業したが、二年間のOL生活を経て、それからまた受験に挑戦してこの大学に入学したのだという。今どきの日本ではちょっと変わっていると思う。
 二人がどんな関係なのか、草平は知る由もない。が、噂の通りだとすると、白橋女史も二十六歳くらいだと思われるし、年齢が近いことやそ何かしら同種のリスクを背負っているという感じがあるのだろう。確かに、よく二人が言葉を交わしているのを見かけたことがあったかもしれない。
「本気で辞める気?」
「だって、五年も通ってるのに、まだ二年の単位が取れてないんだよ? あと四年で最後まで単位が取れると思う?」
「そんな問題じゃないでしょう。普通の人は四年で四年分の単位を取るんだから」
「普通の人くらい頑張ってれば、もうとっくに卒業してるよ。それが出来ないんだから、大学にいつまでもいたって仕方ない」
 草平は、突然自分の目の前で繰り広げられた激しいやりとりを、制止するわけでもなく、同調するわけでもなく、ぼんやりと聞いていた。内心は立ち往生しているが、よくよく考えれば自分にはあまり関係の無い話だ。かといって、立ち去ることも出来ない。なんとなく。
 白橋女史は、神田の退学を止めようと必死に語りかける。苦労してやっと大学に入ってきたのは何のためだったのか。何かやりたいことがあったんじゃないのか。退学した後のことは考えているのか。彼女の情熱には、話に関係のない草平のほうがむしろ心打たれるくらいだった。
「でもさ」
 しかし、神田は覇気の無い声で言った。
「大学行っても面白いことがあるわけじゃないって解っただけで満足だよ。僕はあなたと違って学問を極めたいとも思ってない。信頼できそうにない教授の、面白くも無い授業を受けて、闇雲に単位を取ったって仕方ないんじゃないかな」
「元々、大学は勉強だけをする場所だと思っていたわけでもないんでしょう?」
「うーん、サークルも三回くらい顔出したまま行かなくなっちゃったし。まあ、学校自体ほとんど来なかったから仕方ないけれど、友達ってほどの人もいないし、ましてや恋愛なんてとてもできそうにない」
 そこまで黙って聞いていた草平だったが、突然、口を挟みたくなって、言った。
「ちょっと待って。神田さんはどうして、退学するなんてことをわざわざ僕に言ったんですか?」
 神田は少し自嘲するような控えめな笑顔を浮かべながら、正直に答えた。
「このまま辞めたら、僕がいなくなったことになんて、誰も気付かないんじゃないかな、と思ったんだ。一人くらい、僕がここにいたことを知っている人がいても、いいんじゃないかって思った」
「正直言って、神田さんが学校を辞めようがどうしようが、僕にはまったく関係のないことです。けれど、こんなふうに巻き込まれたからには、知らん顔をするわけにも行かなくなってしまいました」
 神田も白橋も、呆気に取られて草平を見ている。彼がこんなに喋るとは予想もしていなかった、とでも言うような顔だ。草平は、気にせず続ける。
「まあ、退学するしないは別として、とりあえず友達になりません?」
「は?」
「今日、うちに遊びに来てください。僕、バイト休みなんです」
「……」
 草平は何となく、最近自分が変わっていくことに気付き始めていた。今までだったら絶対に言えなかったような言葉も言えるし、しなかったようなことが出来る。そんな気がしている。
 半ば絶句している感じの神田の背中を、草平が無理やり押す。
「白橋さんも一緒にどうですか?」
「は、はい。じゃあ」
 神田はわけもわからず草平の後を追う。白橋は、さらに訳が解っていなくて、とにかく運を天に任せるような気持ちだった。草平だけは、そんな中で一人、異様なまでに愉快だと感じているようで、足取りも軽く帰路についていた。