Peach Time (12)
 

   
 寝る部屋は無くなり、毎晩リビングに瀬名と雑魚寝をすることになってしまった優希だが、それはそれで今の生活が気に入っている。なぜなら、突然帰ってきた草平の姉が、予想外に優希好みの美人だったからだ。
 今日も嬉々として草平の家に帰ってみると、なにやら先客がいるようだった。
「あ、おじゃましてます」
 伸ばしっぱなしといった風情の長髪の男が優希に挨拶し、その隣にちょこんと座っている女の人が優希ににっこり笑いかけた。
「噂の優希くん?」
 雰囲気から察するに、この人も隣の男も草平と同じ大学の学生のようだ。草平より少し年上に見えるので、先輩かもしれない。美咲とはまた違った感じだが、小柄でキュートな感じで、可愛い。草平さんナイス。
「ねえねえ、ここに座って」
 お姉さまが、隣に座るよう誘導する。嬉しさとも戸惑いとも言える想いを抱えながら、優希は素直に従う。一体これから、どんなに素敵なことが始まるんだろう……。
 という期待は、見事に一瞬で砕けた。
 「大学に行くことについてどう思う? 現役高校生の声を聞きたいの」

 いきなり質問を投げかけられた。しかも、どちらかというと、今は真面目に考えるのをなるべく避けて通りたいところに直球である。これは困った。
「それはまた突然、難しい質問ですね」
 とりあえず涼しげな顔で言いながら、優希は草平に助けを求めるべく目配せをした。草平は優希の気持ちを察したのか、「まずは紹介するよ」と言って二人について教えてくれた。
 長髪男が神田さん、小柄なお姉さまが白橋さん。二人とも草平とは大学で一緒だが、それぞれに事情があって年齢はかなり上である。そういった事情で苦労してわざわざ大学に入ったというのに神田さんが退学すると言い出して、今ここで話し合っているらしい。
 一通り状況は飲み込んだものの、優希にとってこの状況は理解できない。
「で、話し合うって言ったって……話し合って一体どうするというんですか?」
 優希にとってそれは素朴な疑問だったが、白橋は少しむきになって反論した。
「普通に努力すれば簡単にできることを放棄して逃げ出すなんて、情けないし卑怯だと、私は思うの。だから……」
「卑怯だとしても、あなたに害は無いよ」
 神田は、おそらく自分ではそこまで意識していないのだろうが、ひどく冷たい口調になることで、白橋の言葉を遮った。それに対し、白橋が傷ついたような顔をしているのを、優希は見逃さなかった。
 (なんだ、白橋さんは神田さんのことが好きなのか……。)
 高校生の優希がすぐに気がついたというのに、草平は呑気に口を挟む。
「そうだよな。大学には、行くのも辞めるのも自由なんだし。辞めるなって他人が言うのは筋違いだとは思う」
「でも……」
 白橋がまた何か言い返そうとするのと同時に、玄関のドアが開き、何人かの足音が聞こえてきた。
「おじゃましまーす」
「へー、ここが草平くんの家かあ」
 能天気な声でシリアスな雰囲気を良くも悪くもぶち壊してくれたのは、瀬名に連れられてきた二人の女性だった。
「あれ、あやこさん、あんじさん。瀬名さんも、今日は早番だったっけ?」
 草平がそう言うので、彼女らが草平と瀬名のバイト先の人だということが優希にも解った。何度か話にも聞いたことがある。すかさず優希は二人についてのデータを頭の中でまとめた。
 あんじさんは自然体な感じが好ましく、頼りになりそうなお姉さま。あやこさんはとても清楚な感じの素敵なお姉さま……、と。二人とも素敵だ。この家で生活を始めてからというもの、優希は出会いだけで満足してしまいそうなほど素敵な人と出会っているような気がする。
「今日はこんなに集まって、今から何か始まるのか?」
 瀬名に対し、草平が大して面白くもなさそうな顔で答えた。
「いわゆる人生相談ってやつですよ」

 「ふーん。まあ事情はわかったけどさ。大学に行きたくないんなら、仕方ないんじゃないの? お金もかかることだし」
「そうだよ。私だって大学なんか出てないけど何とか生きてるしさ。行かなきゃダメってことは無いでしょう」
「でも、彼は遅く入学した分、親に迷惑や心配も沢山かけてるわけよ」
「そうだよな、金も相当かかってるんだろうしなぁ……」
「留年し続けたあげく卒業できなかった、という展開になるよりは、今辞めたほうがいいって気もするけど」
「ええ、僕も大学に未練があるわけではないし、これ以上迷惑をかけるよりは……」
 この調子で小一時間。皆は神妙な顔をし、内容は堂々巡りをし、もはやここまで来ると、相談というよりは、ただの雑談だと思ったほうが正しいかもしれない。
 (良い大人が揃いも揃って、つまんないことしてるよな。退屈だ。外へでも遊びに行こうかな。)
 そう思って、一人でこっそり優希が立ち上がろうとした、ちょうどその瞬間、
「あー、なんか飽きた」
 あんじがつぶやいた。率直な物言いだが、悪意がこもっていないので、とても気持ちいい。周囲の皆も、出口の無い話に飽きかけていたのか、ほっとした表情を垣間見せる。
「もっとさぁ、こう、明るい話をしようよ」
「明るい話ってたとえば?」
「やっぱコイバナ?」
 恋の話か。優希もこれには大賛成だった。そもそも、大学のことなど、今はまだ考えたくない。それで、話が大学のことに戻る前に、率先して優希は話を振ってみた。
「そうだ、コイバナで行きましょう。草平さんには、そういう話は無いの?」
 言う前から、答えは知れていた。一緒に暮らしていて、草平に女っ気がないのは解っている。ただ、どんな反応をするのか見てみたかったのだ。
 草平は首を傾げて、ただ小さく言った。
「さあ、どうだろう」
 この反応は、優希にとっては意外だった。草平は晩熟っぽいところがあると思っていたので、この手の話で恥ずかしがらせて、からかったりしたかったのに、予想外の落ち着きで切り返されてしまった。なんというか、余裕の表情である。
 (大学生にもなると、こんなものなんだろうか?)
 驚いている優希の横から、すかさずあやこが口を挟んできた。
「あー、草平くんしらばっくれちゃってー。最近、ネコちゃんと仲が良いらしいって、みんな噂してるよー」
「えっ!」
 自分で話を振ったくせに、優希が一番驚いているのは、滑稽だった。
「いや、それは違いますよ」
「違うってことは、他に彼女いるんだ?」
「彼女なんていませんけど」
 すると、先ほどまで大学が云々としかめっつらで語っていた白橋までが、話題に乗ってくる。
「ひょっとしてうちの大学に?」
「いや、俺にはそういう話はありませんから。それより、あやこさんだって、ねむさんとの関係はどうなんですか」
「な、何よ、どうって……」
「あやこはねぇ、いまだに好きって気持ちを伝えることもできずにいるんだよー」
「ちょっ、そんなことまで言わないでよ」
 口をつぐんだあやこの代わりに、あんじが口を挟むことで、草平の形勢が逆転した。話に出てくる人物名は解らないものの、先ほどと違ってずいぶん会話に活気があるのが、優希にもよく解る。なるほど、確かに『恋の話は明るい話』というわけか。
「そうか。初めから、明るい話をすれば良かったんだ」
「何だよ、突然?」
「いや、白橋さん。神田さんのことが好きなんですよね? 好きだから、大学に残って欲しいんでしょう?」

 しかし、優希の期待通りには話は展開しなかった。白橋が、それを聞いたとたん、うつむいて黙りこくってしまったからだった。
 あっという間に、その場は重苦しい沈黙に包まれる。
 優希は、自分がまずいことを言ってしまったことには気がついたが、どうしてそれがまずいのかまで判断する力がなかった。恋の話は明るい話題のはずなのに、なぜこんなに盛り下がるのか、理解ができない。
 焦るばかりで言うべき言葉を見つけられない優希の代わりに口を開いたのは、神田のほうだった。
「知ってるよ」
「え?」
「白橋さんから直接言われたから、知ってる。けれど、僕が断ったんだ」
「どうして? 神田さんに、他に彼女がいるからですか?」
「いないよ、そんなの。ただ、彼女は立派過ぎて僕にはつりあわないと思った。確かに、何年も遅れて大学に入ったという意味では同志だけど、僕と彼女は決定的に違う。僕はそれまで何もせずフラフラしていて、親に『何もしてないんならせめて大学くらい行ってちょうだい』って怒られて仕方なく入っただけなんだ。それに引き換え、彼女は一度社会に出て、勉強しなおしたいことがあると思って大学に入っている。こんなんじゃ、僕が尻込みするのも仕方ないと思わない?」
 周りの人間が誰も口を挟めずにいると、やがて瀬名が言った。
「そういうのって、関係ないんじゃないかな。たぶんさ、白橋さんは同じ境遇で大学に入った仲間だからあんたのこと好きになったってわけじゃないんだよ。あんたが一人でどうでもいいこと気にしてるだけなんじゃないの?」
 白橋は相変わらずうつむいて、誰の眼も見ないままだったが、小さくうなずいた。
「ちゃんと思ってること言わなきゃ、伝わらないよ」
 あやこも、白橋に声をかけた。横からあんじが「あやこもね」と茶々を入れると、白橋はとうとう噴き出して、笑いながら「ありがとう」と言った。
 一気に場の雰囲気が明るくなった。
「良かったぁ。やっぱりコイバナは明るいっスね!」
 良い空気が訪れたので、優希はまた口元が緩んて、思わず言ってしまったが、周りは皆、苦笑した。優希が一人、その中できょとんとしていると、苦笑を代表して、瀬名が優希を小突きながら説明してくれた。
「バーカ。そもそも、お前みたいな子供が、他人のことに首突っ込んだようなこと言うから、話が複雑になったんだろ。お前はもっと経験値上げろよ」
「やだなあ。だから、瀬名さんに弟子入りしてるんだよ。だから、もっと女の子紹介してくれないと……」
「そうだっ!」
 優希の言葉を、突然大きな声で遮ったのは、あやこだった。
「今日はそこんとこを聞こうと思って乗り込んできたんだった。ね」
「うん」
 あやこは、あんじの同意を求めると、改めて瀬名に向き直り、質問をした。
「瀬名くん、最近そこらへんどうなのよ?」
「そうそう。以前、彼女と同棲してるって言ってたよね。なのに、なんで今は草平くんの家で暮らしてるの?」
「別れたの?」
「逃げてきたの?」
「いや……」
 一挙にあやことあんじから問い詰められた瀬名が、何も答えられないのを見て、先ほど小突かれた仕返しの意味も込めて、優希はしたり顔で言ってやった。
「フラれちゃったんですか?」
 瀬名は、触れられたくない場所に触れられたような顔をして、「うるせーよ!」と言いながら、優希を再度小突いた。
 本気で怒っているのか、先ほどより痛かった。

 結局、瀬名さんもそうなんじゃん。と、優希は突然思った。これで、いろいろなことが一気に解ったような気になる。
 白橋さんの想いに尻込みして大学も簡単に辞めようとしてる神田さんも。神田さんが大学を辞めるのを阻止することでしか、自分の気持ちを表現できない白橋さんも。自分の恋の話には全然触れない草平さんも。長いこと気持ちを伝えることができずにいるあやこさんも。そういえば、自分には話の矛先が廻ってこないように、絶えず人に話を振るあんじさんも。そして、自分が振られたという現実を見ることのできない瀬名さんも。
 誰でも、何かから逃げているんだ。そして、逃げてはいけないということを本当は知っているから、悩んでいるみたいだ。
 たぶん、自分も。

 優希に解ったのは、その程度のことだった。