「気分が悪い?」 突然、低い声が自分に放たれたのを感じて見上げると、いつのまにか一人の店員が奈々の前に立っていた。微笑んではいないが、冷たい表情でもないようだ。 「いえ、大丈夫です」 奈々は控えめに答えたが、客が引いてちょうど手が空いているのか、彼は奈々の前から動こうとせず、カウンターに大きな手を静かに置いた。店内の照明が少し暗いせいもあるのだろうが、やや彫りの深いその顔は、奈々の目には日本人には見えなかった。混血かもしれない。胸のネームプレートには『Gibo』と書いてある。ますます日本人かどうか判断しにくい。 今日は、親友のユカリと会う約束をしていた。 彼女のほうから、奈々の状況を気にして、気晴らしにパーッと遊びに行こう、と誘ってくれたのだ。奈々自身、そういう誘いを待ちかねていたのかもしれない。いつまでも塞ぎ込んでいるわけには行かないし、たまには何もかも忘れて遊ぶほうが精神衛生上良いに決まっているのだ。 とにかく楽しみにしていた今日の約束であったが、待ち合わせの七時半直前になって、ユカリからのメールが携帯に届いた。 「ごめんなさい、一時間遅れます。 どうしても仕事が終わらないの! 着いたら電話入れるから、近くで時間でもつぶしててください。 ほんと、ごめんね…」 そんなわけで、奈々は仕方なく、待ち合わせ場所近くのコーヒーショップに入ったのだった。 その店員が話し掛けてきたのは、店に入ってから、ゆうに四十分は過ぎた頃だった。目の前のコーヒーカップはすっかり空になっていて、奈々はすでに手持ち無沙汰ではあった。しかし、ユカリが来る予定の時刻まで、あと少しなので、店を出る気にもなれない。どうするべきか、と考えていたところだったので、コーヒーショップの店員とすこしくらい会話してみるのは、時間つぶしとしては悪くないような気がした。 いつもだったら、知らない人とそんなふうに会話することなど苦手なはずなのだが、奈々はこの店員には何もかも話しても良いような気がした。どんな人かはまったくわからないけれど、この店員はどこか人を安心させるところがあったのかもしれない。 あるいは、単に何の人間関係もなく、話を聞いてくれる行きずりの人が欲しかっただけかもしれないけれど。 「具合が悪いんじゃなくて、ずっと、元気ないんです」 奈々はゆっくりと話し始めた。 「一緒に暮らしていた恋人が、いなくなっちゃったんです」 「それは何故?」 「私がね、出てけって言っちゃったんです。本当は全然そんなこと全然思ってなかったのに」 「それは何故?」 この店員は、やたらと理由を聞きたがる、と奈々は思った。別段、気に障る言い方というわけではない。深い意味があってそう切り返しているというよりは、それが単に口癖なのかもしれないと思わせる程度の軽いものだ。だから、奈々は気が楽になった。 店員の質問が無責任ならば、自分の発言も無責任でいいのだ。所詮行きずりの話し相手なのだ。奈々は、無責任であるからこそ、真摯に答えたいような気分になった。 「……ううん、心のどこかではずっと『出てけ』って思っていたのかもしれない。今までに何度『別れよう』って思ったかも、解らないくらい」 「何故?」 「彼はね、たくさん楽しいことを知ってる人なんです。一緒に住んでるのに、何日も帰ってこなかったり、性別を問わず友達がいっぱいいたり。私、そんな状況がすごくいやだった。いつも苛立っていた」 「それは、何故?」 店員は先ほどから全く同じ言葉しか発していないというのに、奈々の心を開かせ、複雑に考えすぎた頭を、いとも簡単にほぐしていくようだ。不思議と、奈々はいつになく素直になっていた。 「嫉妬だったんだろうなあ。私は、本当に彼のことが好きで好きで仕方なかったの。私と一緒にいない間の彼が、誰と何をしているかが心配で、そのことばかり考えてた。それが、つらくてつらくてたまらなかったの。私なんかいなくても楽しそうに過ごしてる彼の姿が妄想になって、それで一人で傷ついて、挙句、こんなにつらい思いをしなきゃいけないなら、もう別れようって思ったの。実際には何にも傷つくことなんて起きてなかったのに、『これ以上傷つきたくない』なんて思っちゃって……」 店員は、もう何も訊かなかった。奈々が自分の中に答えを見つけたら、あとは他人の手など必要が無いということを知っているのだ。 「それで結局、私のほうが彼を傷つけちゃったんだ」 奈々は、初めて自分の状況を冷静に把握できた気がした。 「彼は私のこと傷つけてなんかなかったのに、私の被害妄想が彼を悪者にしたてあげて、だから私は彼を、」 もう一度、息を呑む。店員がどこまで自分の話を聞いているのか解らなかった。聞いていなくても別に良かった。 「私が彼を追い出しちゃったんだ」 今、ようやく奈々は全てを認めた。 私は、いつも言葉が少なすぎる。 いろいろ考えすぎて、言葉がついてこないだけなのに、結局、少ない言葉が人の気持ちを突き刺してしまう。 私は傷ついていなかった。 傷ついたような気がしていただけだった。 そして、彼は本当に傷ついた。 あそこまで言われて、彼が自分のほうから帰ってくるはずがない。 私は何をやっているのだろう。 帰ってきて欲しいと思いながら彼を探しに行ったくせに、遭遇しないことをどこかで喜んでいる。今度こそ自分のほうが傷つきそうで怖いからだ。 こんな状況になってもまだ、自分だけ傷つかずに済もうとするなんて。 奈々は、最後の一言を言おうと、まっすぐに店員に目を向けた。しかし、ちょうどそこへ新しい客が入ってきて、店員はそちらの応対に行ってしまった。 (言わなきゃ) と、奈々は立ち上がって初めて、鞄の中で自分の携帯電話の着信ランプが光っていることに気がついた。マナーモードに切り替えて、音が出ないようにしていたのだ。液晶画面にユカリの名前が表示されている。奈々は、慌てて電話に出た。 「もしもし」 「私、ユカリ。ごめんね、遅くなって。今、駅から待ち合わせ場所に向かってるところ。どこに行けばいい?」 「待ち合わせ場所の前に、コーヒーショップがあるでしょう」 「そこに行けば良い?」 「ううん、今はそこに居るのだけど、もう帰らなきゃいけないの」 「うん?」 「ごめん、私、急用思い出しちゃったの。すぐに行かなきゃ」 「え?」 確かに自分の都合で待ち合わせ時間を遅らせてしまったのは申し訳なかったものの、なかなか片付かない厄介な仕事を無理やり片付けて、急いで来たのだ。ユカリは、この突然の展開に腹を立てても良い立場かもしれなかった。 けれど、彼女はそうしなかった。 ただ、一言だけ言って、電話を切る。 「がんばりなよ」 自分との約束をこれほど急にキャンセルしてまで奈々がしなければいけないことが何か、ユカリにはよく解っていた。 電話を切った後、ユカリはもう一度、小さい声で「がんばれ」とつぶやいた。 |