しかし、瀬名さんがあんなに素直に傷ついた表情を見せるとは意外だった、と草平は思った。能天気で、友達も多く、いつも楽しそうにしているだけに、彼が自分のところに転がり込んできた理由が、たかが女の子に振られたことだったなんて、想像もしていなかったのだった。 それに、瀬名さんだけじゃなく、みんな意外と悩みながら生きているものなのだな、と草平は思う。特に恋愛のことに関して、どうしてそこまで必死になるものなのか、草平にはいまいち解らなかった。自分は、そんなに夢中になるような事や人に、今まで出会ったのかどうかすら、解らないのだ。 「で? 結局、神田さんはガッコウ辞めちゃったの?」 伊勢の隣で草平の話を聞いていたヨウヘイが、興味を示してきた。ヨウヘイも草平たちと同じ学科で、同じ授業をとっている水曜日と木曜日には、一緒に学食で世間話をしながら昼飯を食べる仲だ。もっとも一緒に過ごす人間が限られている草平と違い、彼はなんとなく人懐こい感じがあって、学部の広範に亘り友人がいる。当然のことながら、彼には学内のいろいろな噂を耳にする機会が多く、そういえば草平が神田や白橋が何者かを知ったのも、ヨウヘイ経由の情報であった。 「いや、まだ辞めてない。前期が終わったら辞めるって言ってたけど、気が変わることもあるだろうな」 「へーえ。それで、神田さんと白橋さんって付き合うことになったの?」 「知らない」 草平は、誰と誰が付き合う、というような話には本当に興味が無かった。ヨウヘイはそれに対し、ニヤッと笑って言った。 「草平くんのそういうクールなところ、好きだよ」 ヨウヘイは本心で言ってくれているのかもしれなかったが、そういう言われ方をすると、逆に一歩引いたところから冷静に観察されているような気がして、草平のほうはなんとなく素直に喜べない。しかし、それも含めてヨウヘイの性格なのだろう。彼はまったく気にせず話を続けようとした。 「ところで、白橋さんはさ……」 そこまで言いかけて、ヨウヘイは突然、不自然なくらい姿勢を正した。 「どうしたんだよ」 伊勢が驚いて尋ねる。草平は、ヨウヘイの視線の先に一人の女の子がいることに気付いた。 「橘さんか」 「うん。カワイイよね、彼女……」 恋というよりは、どちらかというと憧れのアイドルを目の前にしたようなヨウヘイの表情に、草平と伊勢は思わず笑った。 「確かに、ちょっと目立つけどな。誰? うちの学科の子?」 伊勢は彼女を見るのが初めてだったらしかった。ヨウヘイが彼女を眼で追いながら、答える。 「うん、一年生だけどね」 「へえ」 伊勢はそう言って、再び彼女を見、それからふと気付いたように言った。 「草平はなんであの子のこと知ってるんだ? 人の噂なんかには、あまり興味が無い奴だと思ってたのに」 ヨウヘイも驚いて言う。 「そうだよ。まさか、草平くんも彼女狙ってるの?」 草平は、一瞬ドキッとしたが、なんでもない顔を装って答えた。 「別に。目立つから知ってただけだよ」 それは、半分は本当だった。もう半分は、嘘とも言いきれないが、本当とは言えないグレーゾーンだ。 それに、ヨウヘイには残念な話だが、彼女を想ったところでそれは叶わない恋になることを、草平は知っている。本当に偶然に、草平は学校以外での彼女のことを知るきっかけがあったのだ。 何週間か前の話だ。 その日のバイトは、瀬名と一緒に夜のシフトに入っていた。とはいえ、瀬名はホールでの接客についていたし、草平は相変わらず皿洗いを中心に、厨房の中の仕事を少しずつ手伝わされていた。 その夜は客が少なかった。暇だから話し相手になれよと言って、瀬名がホールから草平のことを呼んだので、草平はホール(といっても、すぐに厨房に戻ることのできる場所に限られていたが)に出て、掃除する振りをしながら、瀬名とくだらない話に興じていたのだった。 ある瞬間、草平は見たことのある女の子が客として来ているのに気付いた。もっとも、その時点では名前を知らなかったが、あれは確か、うちの大学に今年入ってきた一年生だ、と思い当たった。 草平の視線の先に気付いたのか、瀬名がそのテーブルの客について、小声で話し始めた。 「なんかあのカップル、さっきから全然会話が無いし、すげえ暗いんだよな」 確かにその二人は、たまに自分の目の前のグラスから飲み物を舐めるように飲むくらいで、ほとんど会話もせずに、ただ向かい合って座っているというような状況に見えた。 「二人とも見た目はいいのに、あれじゃちょっとなぁ……」 瀬名は、肩をすくめて言う。確かに美男美女だ、と草平は思った。 瀬名の話は、暗い二人には興味が無いといった具合に、他の方向へ展開した。草平はそれを聞き、時々は相槌を打ちながらも、なんとなく二人から目を離せずにいた。 よくよく観察していると、女性のほうは瞬きすら惜しむかのように男性を見つめている(半ば睨んでいるようにすら見える)のに対し、男性のほうはずっと彼女と目が合わないように伏し目がちにしているようだった。喧嘩中の恋人同士なのか、別れ話をしているのか、いろいろ考えてみたが、それにしても二人はあまりにも平行線を描いているように見えた。決して交わらない時間。彼女は何かを交差させようと、目を使って必死に訴え、彼は目を合わせないことでそれを拒絶する。どう考えても一方通行だった。 どのくらいの時間、そうしていたのか解らない。 彼女は、グラスに残った最後の液体を飲み干し、それからようやく意を決したように口を開いた。 「羽塚くん」 彼は、それでも彼女と目を合わせようとしない。彼女は構わず続けることにしたようだった。 「誘えば出てきてくれるのに、どうしてそうなっちゃうの? 私だって、羽塚くんがはっきりと断ってくれたら、私を嫌いだってはっきりと言ってくれたら、もっとずっと楽になれるのに」 彼は、相変わらず目を逸らせたままではあったが、小さく口を開いて、何か答えた。が、それは声も口の動きもあまりに小さかったので、何と言っているのかまでは、草平には判らなかった。 「そんなんじゃ、答えになってない。私は、そういう部分も含めて、羽塚くんを救ってあげたい」 強い口調だった。それから彼女は、ゆっくりと立ち上がり、自分の鞄と伝票を手に持ち、毅然とした態度で言った。 「私はあきらめないから」 彼女が伝票を持ってレジに向かってきたので、草平は慌ててレジに入った。瀬名はいつのまにかホールのほうで他の客の注文をとっており、レジの近くにいるスタッフが草平だけだったのだ。 彼女は伝票と一緒に、インターネットから印刷して使えるクーポンを提示した。そのクーポンに書いてあったので、草平は彼女の名前を知ったのであるが、その時点ではそこまで気が回らなかった。ただ、会計を済ませながら、彼女は彼と一緒に食事をするのを楽しみに、インターネットでわざわざマルディグラを検索し、こうして印刷してきたのだと思うと、草平は何とも言えない気持ちになった。 むしろ、彼女のほうを救ってあげたい。 草平は一瞬そんなことを考えたが、それは自分にはとても出すぎた真似だと感じた。 彼女が店を出て行ってから、ゆっくりと帰り支度をして帰っていった羽塚という男に対し、「ありがとうございました」と声をかけないことだけが、草平にできるせめてもの抗議なのだった。 |