Peach Time (16)
 

   
 閉店後のマルディグラの厨房で後片付けをしているところ、突然後ろから肩をたたかれたので、草平は驚いて振り向いた。
「あれ、ねむさん。どうしたんですか。深刻そうな顔をして」
「今からちょっと店長が来るから、ホールのみんなと一緒に、向こうで待ってて」
「店長?」
 マルディグラの店長、といえば、草平は面接の日に一度会ったきりだった。以前は毎日店に出ていたようだが、近くに姉妹店のショットバーを開店したばかりで、向こうにかかりきりになっていたため、草平が働き始めたころからほとんど、こちらには顔を出さなくなっていたのだ。
「マサキさんが来るんですか?」
 隣で聴いていた智も、それを聞いて驚いたような声を上げたが、草平はそれに対しても驚いていた。店長とはいえ若い男であることは憶えているが、バイトの皆から下の名前で呼ばれるような存在だとは思っていなかったのだ。
「珍しい。どうしてまた?」
「いや、ちょっと話があるって……」
 草平は、ねむが気まずそうな顔をしたことに気がついてはいたが、特にそれを気にも止めなかった。

 草平が智と一緒にホールに出てみると、今日の接客シフトに入っていた三人も、マサキに関する噂をしているところだった。
「マサキさん来るんだって。珍しいね」
「チヨちゃん、マサキさんの顔覚えてる?」
「うーん……なんか、うっすらとしか思い出せない」
「仕方ないよ」
 キャッキャと言い合っている藤宮とチヨの能天気な会話に、あやここが珍しく強い口調で割り込む。
「マサキさん、ぜんぜん顔出さないで、ぜーんぶねむさんに任せっきりだもんね。彼にどんな苦労かけてるかなんて、きっと考えてもいないんだよ。ねむさんだってバイトなのに、ほとんど休みなく働かされちゃってて……ひどいよね」
 草平は彼女の主張を聞いて、以前会ったはずのマサキの顔を思い出そうとしたが、どうもイメージが一致しなかった。顔は思い出せないものの、人に面倒を押し付けておいて自分だけが楽をするというような人には見えなかった、と思う。
 そんなことを考えながら待っているうちに、当のマサキがやってきた。
「やあ、待たせちゃってすみません」
 現れたマサキは、やはり草平の記憶していたイメージと大して変わらなかった。やや太目というのもあるが、控えめな笑顔を携えていて、あくまで柔らかい印象を持った男、という感じだ。皆に悪口を言われるようなきついところは見られない。
 しかし、次に彼の口から発せられた言葉のほうは、その外見とは裏腹にショッキングな言葉だった。
「実は、藤沢くんがこの店をやめることになったんだけど……」
「えっ!」
 声をあげて驚いたのはあやこ一人だけで、周りは一瞬きょとんとした。草平は、藤沢って一体誰のことだろう、と思い、周りを見回した。そして、店長の隣で決まり悪そうな顔をしているねむを見て、そういえば彼の本名が藤沢だということに気付いた。
 他の皆も、前後して気付いたのだろう。重苦しい雰囲気の中、店長は一人で話を続ける。
「僕も、この店のことはすっかり彼に任せっぱなしだったから、いなくなってしまうのは困るんだけどね。仕方な……」
「いつですか?」
 店長の言葉を遮って、あやこが質問した。あやこの視線がねむのほうを向いているので、それが店長に向けられた言葉ではないことが判った。そういえば、さっきねむさんが気まずそうな顔をしていたのは、これだったのか。と、草平は思い当たって、あらためて驚いた。
「とりあえず、来月いっぱいまではここで働きます」
「その後は……?」
「実は、就職が決まったんだ。いつまでもフリーターって訳には行かないし」
 周りがうまく事情を飲み込めていない中、あやこ一人が興奮状態にあるという状態のようだ。ひょっとしたら、ねむを想うあまり、彼女は『彼がいなくなってしまったらどうしよう』と想像し、その状況をシミュレーションでもしてきたのではないかと思うほど、冷静に受け止めているような感じがした。冷静だからこそ、彼女の気持ちも、好きといえずにそんな想像を働かせているその状況も、なんだか痛々しいように、草平には思えた。

 結局、辞めると決めたねむの決意を動かすことが、誰にも出来ないことは明白だった。あやこは、一通り訊くべきことを訊いたあとは、すっかり黙ってしまった。あとは、マサキを中心に、今後の仕事の引継ぎについてなどの話があった。
 草平にとっては、皿洗いばかりの仕事から少し卒業できるという意味で、多少のメリットはあるものの、やはり、それよりも失うもののほうが大きいような気はした。何しろ、ここで働き始めてから、ずっと一番頼れると思ってきた人がいなくなるのだ。
 他のバイトの皆にとっても、そういった心細さはあるのだろう。全員が、意気消沈しているように見える。あやこはその中でひときわ思いつめたような顔をしているが、それはまあ仕方がないだろう、と草平は思った。
「じゃあ、そういうわけで、これからちょっと大変になるかもしれないけれど、僕も新しい店のほうがだいぶ落ち着いたから、これからはちゃんとこっちにも顔を出すし、大丈夫だから」
 皆が小さく、まだ少しだけ腑に落ちない感じを残しつつも、頷いたのを確認してから、マサキはさらに付け足した。
「じゃあ、解散。これからも、がんばっていきましょう。よろしく」
 嫌な余韻を残したまま、皆が更衣室のほうに帰っていく。その中で、あやこだけが一人、その場に立ったまま動かなかった。草平はなんとなくその様が気になってしまって、だからといって自分も動かないというほどの動機は何もなかったので、なんとなく速度を緩めただけだった。すると、
「マサキさん!」
 随分思いつめた顔で、あやこがマサキを呼び止めた。さすがの草平も、そのただならぬ雰囲気に、思わず足を止めてしまった。
「あの、私も辞めます。私も……来月一杯で、ここを辞めさせてください」
 そう言ったきり、あやこは走って更衣室のほうに逃げようとした。が、
「あやこちゃん」
 声をかけられて振り向いたあやこの肩をポンポンと叩きながら、マサキが言った。
「愛情を示すには、確かに、ある程度がむしゃらさが重要ですよ」
 マサキには、とうにあやこの気持ちは知られているようだった。そういうことにどうも疎い草平だって、あやこの気持ちは見ていて判るくらいなのだから、それも当然かもしれない。
「あは、マサキさん、何言って……」
「だけど!」
 笑ってはぐらかそうとしたあやこの言葉を、マサキがその顔に似合わない少し強い口調で封じた。
「忘れるためにがむしゃらになるのは、逆効果です」
「……」
 傍で利いていた草平には、なんだかその「がむしゃら」という言葉が妙に印象に残った。
 マサキの言葉は、非常に的を射ているような気がする。