Peach Time (18)
 

   
 草平がすべての後片付けを終えて、売上の処理をするマサキ店長を残してマルディグラを出たときには、もう十二時近かった。ねむの仕事は、少しずつ他のバイトの皆で分担したり、マサキ店長の権限に戻したりしながら、なんとか引き継いでいる。
 その日のシフトでは、バイトは四人入る予定だったが、芹沢音子が急病で休んでしまったために、仕事中はずっとてんてこまいだった。
(今日は大変だったなぁ。)
 草平は、大きなため息を吐きながら、マルディグラの裏口から出た。
(藤宮さんとチヨちゃんはこのあと一緒にどこかに行くとか言って、後片付けぜんぶ任せて帰っちゃうし。あんじさんは、ちょっと具合が悪そうだったから、無理させられないし。結局俺一人でやるしかないじゃん。おかげで、珍しく皿洗い以外の仕事もいろいろやらせてもらえたから、まあ面白かったけど)
 草平は、ぼんやりと考え事をしながら、駅に向かって歩き出そうとした。
 すれ違った女性が小さく咳払いをした。それを見て草平が、
(今、風邪が流行ってるのかな……)
 などと、呑気なことを思った瞬間だった。
 なんと、咳払いをした女性がつかつかと自分のほうに歩み寄ってきたのだ。

 何だろうと思って、草平は足を止めた。スラリと背の高い和風美人だ。見覚えは、ない。
 草平と彼女の視線が絡んだ。
 その直後、彼女は決意したように口を開いた。
「あのぅ、ここで働いている瀬名くん、今日は来てませんか?」
「あ、瀬名さんなら、今日はシフト入ってないんで――」
 そこまで言ってようやく、草平はこの女性はひょっとして、瀬名が自分の家に押しかけることになった原因の人ではないかと思った。もし向こうからたずねてくるなら店のほうに来るだろうとは思っていたし、彼女の声のかけ方に、なにやら事情のありそうな重苦しい空気を感じたからだ。
「あの、今、彼がどこに住んでいるかって、知りませんか?」
 彼女がそう尋ねたので、草平はさらにこの女性の正体を確信した。
 それにしても、この質問には素直に答えて良いものだろうか。先日の瀬名の様子を見ると、この話についてはまったく触れて欲しくないというような傷つき方だった。二人が会うのは当事者の問題として良いとしても、家に乗り込まれて修羅場を始められるのも、困る。
 奈々は、私の目の前で何か言いよどんだ表情をしている男の子は、瀬名から自分について何か聞かされているのだろうと、何となく思った。彼ならば、間違いなく瀬名の居場所も知っているはずだということも。
「お願い。彼に会わせて」
「でも、あの……瀬名さんにも瀬名さんの都合ってもんがあるだろうし。今日会えるか解らないじゃないですか」
「じゃあ、居場所だけ教えてください。それだけ解ればいいの。とにかく、会える機会が必要なの。場所さえわかれば、あとは家の前で何時間待ち伏せたって……」
「そんなことされると僕が困ります」
 ただでさえ、わけのわからない人間を住まわせていると近所に思われていそうな状況だというのに、自分の家の前で張られたりしたら、たまったものではない。そういう素直な感想が、思わず草平の口をついて出てしまった。
「……どうして?」
 奈々は、草平のその言葉の裏に潜んでいる状況に気付いたようだ。
「どうしてあなたが困るのよ?」
「あの、それは……」
「あなたのところにいるのね?」
「……」
「じゃあ、今日ついて行くのはだめ? もし今日行っても会えなかったら、家の前で張ったりしない。しないけど、会う機会を作ってもらえませんか。おねがいします」
 懇願する奈々を見て、草平は困惑した。
 確かに、姉が帰ってきてしまった今(いくら、姉が気にしないと言ってくれているとはいえ)、いつまでも瀬名を居候させるわけには行かないのだから、ここらへんでけじめをつけさせるのも良いのかもしれない。
「……わかりました」
 草平は、小さく頷いた。
 恋愛経験に乏しい草平には、もはや想像も出来ないくらいの波乱が、今夜、起こるのだろう、と思った。
 仕方が無い。草平は、覚悟を決めた。
「じゃあ、一緒に来てください」

 草平の足跡を踏むように、あとから二歩くらい遅れて奈々がついてくる。肩が並ばないから、会話をするきっかけもない。
 草平は、気まずい気持ちのまま、駅までの道を黙々と歩いて行く。
 店から駅に向かう抜け道に、ちょっとした地下道があり、ストリートミュージシャンがいる。フォークギターをかき鳴らして、よく響く声で歌っている。
 草平はバイトの帰り、時々このストリートミュージシャンに出くわすことがある。あまり若くないと思うが、本当に音楽が好きそうな感じが伝わってきて、印象は悪くない。歌も、おそらく聴きおぼえがないので自分で作ったものを歌っているのだろうが、ちょっと耳に挟むと、懐かしいような包まれるような感じがして、なかなか良い。
 いつもはただ彼の歌を小耳に挟みながら傍を通りすぎてしまうだけだが、今日は初対面の女性(しかも、草平はまだ彼女の名前も知らないままだ)を連れて歩いている緊張感からか、じっと彼の姿を見つめてしまった。目のやり場というものは、出来るだけあったほうがいい。
 よく見ると、ストリートミュージシャンの脇にある開いたギターケースの蓋の部分に、「デモテープ 一〇〇円」などと書いた張り紙があり、中に数本のカセットテープが置いてある。今まで気付かなかった。カセットテープのラベルには、『いつかまた、0に戻る。/すてはの』と書いてあるのまで、草平はきちんと見た。何となく、買ってみても良いような気がしたが、そんなことをしている場合ではなかったので、そのまま素通りして、駅の構内へ入っていった。
 改札前で草平が定期を出して自動改札を通り抜けようとしたとき、奈々が草平の腕を強く掴んだ。
「な、何ですか?」
「あの、……どこまでの切符を買えば良いんでしょうか?」
「あ、すみません」
 草平は(おそらく緊張のあまり)うっかりしていた事を謝り、奈々に自分の下車する駅の名を伝えた。
「近いんですね」
 奈々が、初めて雑談のような口調で草平に話し掛けた。
「バイト先は近いほうがいいですから」
 無骨ではあるが、草平も精一杯フレンドリーに答えたつもりだ。奈々も、それに応えるように、さらに話を広げようと努力した。
「ねえ、さっきのストリートミュージシャン、なかなか良いカンジだったと思いません?」
 草平は、なんとなく安心した。
 この女だって、悪人ではないのだ。瀬名はひどい女だとこぼしていたようだけれど、きっと何か事情があるに違いない。だからこそ、わざわざこうして会いに来るのだろうし。
「そうですね。実はさっき、今度あのデモテープ買ってみようかな、なんて思いました」
 そう言った草平の顔は、もう緊張などしていなかった。たぶん、この人は大丈夫だ。