改めて考えてみると、自分たちはお互いの名を知りもせずに一緒に歩いている。それどころか、自分の家に連れて行こうとしているのだ。これは滑稽なことだ、と思い、草平はまずは自分から名前を名乗ることにした。 「俺、岡部草平と言います」 奈々も、突然気がついたように、それに応えた。 「私は、岡崎です。岡崎奈々」 改めて自分の名前を言うのは、意外と照れるものだ。奈々は照れ笑いしながら「今さらですけどね」などと言って、間を埋めようとした。が、余計な話でごまかすほど、二人は悠長な間柄でもなかった。 「あの、それで岡崎さんは、瀬名さんとはどういう……?」 「あ、ああ、そうですよね。何の説明もなしに家に乗り込まれたら、困りますよね」 「そういうわけでもないんですが」 「いえ、いいんです。お話します」 奈々は、一息ついてから喋り始めた。 「瀬名くんは、趣味もたくさんあるし、友達も多いんです」 「はい」 それは、草平もよく知っていることだった。 「そんな彼を見ながら一緒に暮らしているうちに、私はなんだか嫉妬と劣等感のかたまりみたいになっちゃって。だけど、自分が劣等感を感じていることを悟られたら、もっと恥ずかしいって思うから、いつも必要以上に強気な振舞いをしてきたんです」 草平は、チラッと横にいる奈々を眺めた。草平自身は、この女性のことを良く知りはしないが、背が高くクールな顔立ちをしたこの人は、確かに強気でいるほうが似合っていると思う。 「その日、瀬名くんはバイトに行く直前、急に『ちょっとバイト先で新製品のビールを試飲する会があるから、帰りが遅くなると思う』って言い始めたんです」 「ああ」 草平の三回目の出勤の日のことだ。その日以来、瀬名は自分の家に住み着くようになったのだから、間違いない。 「その言葉が嘘だと思ったわけでも、彼が浮気してると思ったわけでもないんですけど、私以外の予定ばかりいつも入れる彼に、なんか自信が持てなくなって……思わず、『もう一緒にいたくない』って言葉が口をついて出ちゃって」 草平にはそれが大したことでもないような言葉に思えた。 しかし、それは彼女が抱えてきた不安や劣等感について先に聞いているからなのかもしれない。それらを隠すために強気に振舞ってきた彼女が、いきなりそんなことを言い出したら、弱音というよりも、唐突な別離の言葉に聞こえてしまう可能性のほうが強いのだろう。 「で、瀬名さんは何て答えたんですか?」 「答えた、というか。『どういう意味?』って、すごい恐い顔で……。私も、そんなことを口にしてしまった自分に驚いて、『違うの、悪気があって言ったんじゃないの』なんて、わけわかんないことを言っちゃって……」 「はあ」 「瀬名くんは、『悪気があるほうがマシだ』って言い残して家を出たっきり、帰ってこなくなっちゃって……」 草平は、思わず立ち止まった。 「まさか、今もそのまま?」 「うん、いえ、あの……。何度も連絡しようかとは思ったんだけど。でも、あんなことを言った私が、今さら何の用だよ、って感じじゃないですか? きっともう新しい彼女がいて、私のことなんか単なる過去のことにされちゃってる気がして……」 草平は、大袈裟にため息で奈々の言葉を遮った。もともと、それほど気の長い性格ではない。あまり他人のことにかまけているのが好きではないので、軽く聞き流そうと思っていたが、さすがに腹が立ってきた。気がつくと、草平は奈々に対して強い口調で意見していた。 「あのね、俺は瀬名さんの事情について詳しく知りませんが、あの人がいつまでも俺の家で中途半端な居候生活をしているのは、まだあなたとのことが完全に終わってないからじゃないんですか? うじうじ言ってる暇があったら、早く家に来て、何でもいいからケリをつけてください!」 草平はそれだけ言うと、自分の家に向かって早足で歩き始めた。奈々は、突然口調が激しくなった草平に唖然としながらも、その勢いに負けて、小走りでその後を追った。 玄関に並んだ靴を見て、また今日も誰か客を呼んでいるな、と思ったが、この際草平にはどうでも良いことだった。むしろ、修羅場ならみんなのいる前でやってくれ、というくらいの気持ちだった。 が、皆が集まっている気配のするリビングのドアの前に立って初めて、中の様子がおかしいのに気付く。皆で集まっている割には、いつものようなバカ騒ぎをしていないのだ。明らかにおかしかった。 (ちょっと待って) 奈々に目配せでそう伝えてから、草平はドア越しに中の様子を窺った。人の気配はするようだ。妙に長い沈黙だ。一体何があったのだろう。 草平たちが耳を済ませて数秒。 突然、草平と奈々の耳にドアの向こうで喋るあんじの声が飛び込んできた。 「瀬名くんは、決定的な別れの言葉を聞くのが恐くて、それで彼女から逃げてるんだよねー」 草平と奈々は、思わず顔を見合わせた。 ドアの向こうの沈黙は、ますます重苦しくなりつつあったが、草平のほうは、あんじの言葉で奈々の心が少し軽くなったのが解るくらいだった。 「……突撃しちゃっていいと思います」 草平は奈々に伝えた。明確に聞こえるか聞こえないかというくらいの小声だったが、いずれにせよ、奈々には草平の言いたいことはよく解った。 緊張、という一言では済まされないほどの緊迫感に、内心、負けそうだと、奈々は思った。けれど、私は自分でこのドアを開けなければいけない。心の中で、カウントを始める。 1、覚悟を決めて。 2、息を整えて。 3、で、思い切って奈々はドアを開けた。 「ごめんなさいっ」 奈々の行動は、本当に突撃といった風情だったので、後ろに立っていた草平は、彼女の影に隠れてほんの少し笑った。 「うわっ」 「誰?」 驚いてのけぞる優希や美咲の奥で、瀬名がさらに大きな驚きのあまり、立ち上がった。 「……奈々……なんでここに?」 奈々の後ろに草平が隠れていたことに気付いたのもあって、周りはようやく状況を察知した。必要以上に驚くこともないし、茶々を入れる必要もない。ただ、『目のやり場に困る』というような言葉も忘れてしまったかのように、皆が二人の成り行きをじっと見守った。 「ごめんなさい。とにかくごめんなさい。あの、もっといろいろちゃんと弁解しなきゃいけないんだけど、もう、何から言えば解らなくて……、でもとにかく本当にごめんなさい。あの、……私は待ってるから、いつでも家に戻ってきて!」 「いや、ちょっと……」 突然の展開についていけずにいるのは瀬名だけだった。動転しすぎて何を言えば良いのかわからなかったし、頭をフル回転させても、今の彼には、とにかく皆の前でこんな話をするわけにはいかない、ということくらいしか思い浮かばなかった。 「あの、まあ、ちょっと二人で話そう」 「あ……ごめんなさい」 奈々も突然我に返って周りを見回すと、思ったよりも人がいたので、急に恥ずかしくなった。 「つーことで、ちょっと話してくるから」 瀬名はいそいそと奈々を連れて外へ出て行った。 「あは。それにしても、瀬名くん、ちょっと泣き入ってたよねぇ」 あんじがいつもの調子でケラケラと笑い始めると、瀬名たちの居なくなった部屋の中に充満していた緊張感が、一気に解けた。一部始終を見ていただけで興奮したのか、優希が顔を真っ赤にしながら言う。 「解りますよ! 僕も今日、告白する時マジ泣きそうでしたよ」 「何で?」 草平が訊いた。純粋に疑問に思ったのだが、優希のほうは「なんとなく、というか」などとブツブツ言いながら首を傾げるばかりで、はっきりしない。 「まあいいか」 大した疑問でもなかったので、草平はそのまま話を流そうとすると、美咲がポツリと言った。 「そういう時泣くの、解るよ」 「うん、解るね」 あんじが美咲に対して応えるその横で、あやこは深く頷きながら、いかにも感慨深そうな顔で言った。 「わかったよ。何を言うか悩んでるよりも、ぶつからなくちゃいけないんだって。瀬名くんの彼女から実践で教えてもらっちゃた」 草平は、何がなにやらまったく解らなかった。解らないなりにも、今日はいい日なのかもしれない、とぼんやりと考えていた。 何はともあれ、瀬名はその日、帰ってこなかった。 |