千村はつひ(top)
「え。バーテンって、バーの店員って意味じゃなんですかあ?」
マナがとぼけた様子でそう言うと、地平がくっくっく、と乾いた笑いで返す。内心では大して面白いとも思っていない癖に、ここは笑っておけばいいんだろうとでも言いたげな態度だ。
もっともマナのほうだって、こう言っておけばオジサンたちは喜ぶんでしょ、と思っての発言だったのだから、そこはお互い様かもしれない。
こんな駆け引きめいたやりとり、ばかばかしいとマナは思う。けれど、こうしてはっきり意識を持って距離を保っておかないと、この目の前の男は危険だ。実際、店に入ってからのたった二十分ほどで、地平の手がマナの肩や腰にさりげなく触れる回数が、少しずつではあるが確実に増えてきている。
決してわざとらしくなく、むしろどこか紳士的ですらあるその手は、女心の一部分を「いい感じ」にさせる。そして、マナにはそれがとても怖いことに思えた。
あの時もそうだった。マナが父親に組み伏されたあの日。
父親は最初、ひどく優しく近づいてきた。いや、違う。あの男はずっとマナに優しかった。母親が死ぬよりずっと前、マナの物心がついたときから、ずっとだ。だからマナも精一杯その優しさに応え、持っている限りの愛情でいつも家族を明るくしていきたいと思っていた。
でも本当のところ、あの男の優しさは、父親が自分の娘に持つ無償の大きな愛ではなかった。そもそもマナは、あの男と血の繋がった娘ですらなかったのだから。
地平の優しさは、それとどこか似ていた。所詮、マナのことを必要としていないからなのかもしれない。
『ママは眞菜を代わりに残して行ってくれた。ママの代わりに眞菜を愛しなさいって』
考えないようにしていた父親の台詞が、マナの頭の中でリフレインする。いやだ、あたしはママの代わりじゃない。
そう思ってマナがきつく目を閉じた、その瞬間。
「野島くん、だめだよぉ、その手。セクハラで訴えられちゃうよ」
マスターの声が、地平の手にさくっと突き刺さって、マナの身体がふっと解放される。
「そ、そうですよ。もう、何すんですか。このエロオヤジ!」
調子を合わせてマナが言うと、地平は「オヤジかよ……」と、バツが悪そうに笑った。
四十代くらいかと思われるマスターは気さくな人らしく、マナだけにわかるよう、こっそりウインクをした。さっきからこうして頻繁にマナたちを気にかけ、何かあればすぐに声をかけてくれる。どうやらこのバーは、そういう意味でとても良心的なようだ。
それだけでない、ここは確かに居心地のよい店だった。そこらの居酒屋と違って、明らかに未成年に見えるマナには、アルコールを決して出さない。それでいて、きちんとシェーカーを振ってノンアルコールのカクテルを作ってくれるあたり、とても気が利いている。
目の前のグラスを満たすきれいなオレンジ色をした液体は、マナの心を少しだけ強くしてくれるようだった。言うなれば、バーに来たからといって必ずしもアルコールを飲まなくてもいいという、自由。それと同じように、男と二人でいるからといって、必ずしも女である必要はないと思えてくるのだ。
「マスター、同じのもう一杯」
地平が早くも三杯目の水割を注文する。少し酔っているのか、背骨を抜かれたようにふにゃふにゃしてきた。
そうやって少し情けない横顔を見せつけられると、いくら危険な香りがするといっても、この男が悪い人間とはマナには思えなかった。
「やっぱり、似てますね」
「え、何? あ、優兄ぃと俺?」
「そう」
真面目そうな兄と、いかにも遊び人らしい弟。一見全然違うかもしれないけれど、よく見ればやっぱり顔は似ていた。男性の割にきめが細かくきれいな肌も、太くもなく細くもないまっすぐな眉毛も、甘えたがりの女の子のような下唇も、冷たい印象を与えるようで冷たくなりきれない切れ長の目も。
「ユータさんのほうがダサいけど」
「はははっ」
「でも、ユータさんのほうがかっこいいけど」
少々意地悪な気持ちでマナがそう言うと、地平の顔から取ってつけたような笑顔が消えた。
「……ベタ惚れだな」
「えー、これって惚れてるのかな」
マナは言った。本気でわからなかったのだ。
確かにユータをどこか心の拠り所にしている、その自覚はある。でもそれは、あのタイミングで、あんなふうに出会ったからだ。そうでなければユータなど、マナにとってはどこにでもいるただの地味なオジサン。駅ですれ違ったとしても、立ち止まることもなかったはずだ。
「恋愛感情を持つっていうのは、難しいですよ。だってユータさん、オヤジだし」
「でも、かっこいいんだろ?」
「しかも、奥さんだっているし」
「うまくいってなかったみたいだけど?」
会話がちっともかみ合わない。
地平がカウンターに頬杖をついて、意地悪そうにマナを見下ろす。優兄ぃを好きだって言っちまえよ、そんなふうに急かしている眼だ。
「うーん、だから、あのですね」
「何?」
「相手をね、文字通りの意味で『食べてしまいたい』って思うのは、愛ですか?」
唐突な話に、面食らったのだろう。地平は頬杖をくずして、腕組みして少々考えたあと、ゆっくりと答えた。
「難しい質問だな。愛情があるからこそ、そう思うっていう奴もいるかもしれない。でも、俺はそんなふうに思ったことはないな」
そう思う奴。思わない奴。違いは曖昧で、わからない。
ホテルのベッドでユータを噛んだ自分の姿と、母親の名を呼びながら自分を犯した父親の姿が、マナの中でふっと重なる。
「わかんない。本当に、わかんないんです。好きとか愛してるとか、そういう気持ち。あたしがずっと愛だと信じてきたものは、ふたを開けてみたら愛でもなんでも全然なかったし、そんなことに傷ついてる自分も、すっごくイヤだし」
「わかるよ」
だから愛なんて信じないんだ。地平の強い口調はそう言っているようだった。
「でもさ、マナちゃん。愛だと信じてきたものが愛じゃなかったって言うんなら、逆に言えば、今は愛でもなんでもないと思ってるものが、本当の愛になるかもしれないよ」
言いながら、再びマナの腰に手を伸ばすので、地平の台詞は一気に陳腐なものと化した。これが単なる口説き目的の台詞でしかないことは、マナにもすぐわかった。
「やめてください」
ピシッと地平の手をはたいて、マナは目の前のドリンクを一度飲み干した。そうして、ほんの少しだけ勇気を与えてくれる魔法の液体に力を借りて、一気にまくしたてた。
「あたし子供だしバカだし、愛とかわかんない。けど、一つだけわかる。あたしはあたしです。だから、誰かの代わりになんかなれないし、なりたくない」
それはマナにとって、父親を拒絶する言葉であると同時に、木綿子を失った寂しさを埋めようとしている地平を拒絶する言葉でもある。
地平にもその空気は伝わったのだろう。ふっと悲しく笑って、「そうか、わかった」とだけ呟いた。
会話が途切れ、マナのグラスはもうとっくに空っぽだった。やがて、地平のグラスも干される。
「帰ろうか」
すっかり意気消沈した様子で立ち上がる地平の横顔を見上げて、マナは反省した。少しきつく言い過ぎたかもしれない。なんだかんだ言ってもこの人は、失恋したばかりで傷心しているというのに。
――だけど、だからこそ、代わりになって慰めるわけにはいかない。
促されるまま席を立つマナに、マスターが軽くウインクして、「またおいで」とだけ言った。
店を出て、一階へと下りるエレベーターのボタンを押す。扉はすぐに開いたが、中には先客がいた。抱き合っている男女だ。
「うわっ!」
目の前で急に地平が立ち止まったので、マナは地平の背中に体当たりしてしまう形になる。こんなところで急に立ち止まるなんて、一体何を見つけたんだろうと、マナは地平の肩越しにエレベーターの中を覗き込む。
「あ、さっきの人……」
見覚えのある顔だった。つい何時間か前のことなので、忘れるはずもない。木綿子に連れられて歩いていたとき、声をかけてきた地平の男友達が、エレベーターの中で女性の肩を抱きしめながら、驚いた顔でこっちを見ていた。
女性もまた、驚いたように怯えたように目を見開いて、地平の顔を見上げている。その目は随分と泣き腫らした後のようだった。
「野島くん、どうしてここに……」
最初に言葉を発したのは、女性のほうだった。その目は涙で濡れながらも、どこか甘く緩んでいる。
もしかしたらこの女性は地平を待っていたのではないか、とマナは思った。今こうして地平が目の前にいるのは、自分を迎えに来てくれたからだとでも言いたげな、か弱そうでいてどこか勝ち誇った、緩い笑顔。
けれど地平はそんな女性の内心を知ってか知らずか、目の色ひとつ変えずに言う。
「邪魔して悪かったな。マナちゃん、行こう」
さっさと踵を返した地平に、マナは訳のわからないまま引っ張られる。
「待てよノッチ。違うって、これは……」
「野島くんっ!」
男と女が同時に叫び、直後にエレベーターのドアが閉まる。地平は、ただ何事もなかったかのように悠々とビルの裏手に回って、勝手知ったる様子で非常階段を降り、ネズミの出そうな汚い裏道を、マナの手を引いて歩いた。
地平の手は、汗でしっとり濡れ、冷たくなっていた。
バカだなあ、とマナは地平を見て思った。
軽蔑ではなく、愛しさを感じて、心からバカだと思った。
詳しい事情など知らないマナにも、さっきの女性が地平を愛していることくらい、一瞬ですぐにわかった。
さっきだって――マナは木綿子と地平の間にたたずんでいた空気を、思い出していた。
彼女が軽い気持ちで地平さんと遊んで、軽い気持ちで捨てたわけではないことくらい、端から見ていればよくわかる。だからこそ、ユータさんがつらかったことも。木綿子さんは、二者択一でどちらかを選ばなければいけないのなら、最後は夫のところに戻るかもしれない。でも、今日の今日までどちらも選べなかったし、どちらも捨てられなかった。それが事実。
たぶん、どちらも同じくらい大切だったから。
『愛でもなんでもないと思ってるものが本当は愛かもしれない』
先ほど地平がふざけて口説いてきた台詞が、ふっと頭の中でリフレインする。マナは、その言葉を地平にそのまま、なんならきれいにラッピングでも施して、お返ししてやりたいと思った。
地平さんは自分のことが見えていないんだ。ちゃんと人から愛されているのに、愛を全然信じることのできない、かわいそうな大人。ちゃんと根本から解決しなけりゃ、この人は一生、人を愛することができない。
そりゃ、この人が一生愛を理解できなくても、あたしには関係ない。関係ない、けど。
このままじゃあたしも、地平さんみたいに愛を信じられない大人になってしまいそうな気がする。
マナはひそかに頷いた。
このままじゃ、いやだ。
「地平さん!」
黙ったまま地平の後をついて歩いていたマナが、急に大きな声を出す。地平は飛び上がるように驚いて、「な、何だよ急に」と弱気な声を出した。その様子を見て、マナは笑いながら言った。
「静岡に行きましょう」
「は?」
「お母さんに、会いに行きましょう」
「何だよ急に。俺は行かないって言っただろ。大体、もう新幹線なんかとっくに……」
「いいから」
丁度、目の前に通りすがったタクシーを止め、地平を押し込んだあと、マナも転がり込む。
「静岡まで!」
運転手がぎょっとする。地平も力が抜けたように笑って言う。
「無理だよ、静岡までいくらかかると……」
「お金なら心配しないで」
マナは地平の言葉を遮って、鞄から出した財布を開いて見せた。中には厚さにして一センチくらいに見える一万円札の束が入っている。さすがの地平も、二の句が継げなかった。
「……」
マナの財布をチラッと覗き見した運転手は、「これは上客」とばかりに嬉しそうな顔で、そそくさと車を発進させる。地平はもはや、抵抗する気もなくなった様子でシートにどさっと身体を預けるしかなかった。
「そういえば、ホテル暮らししてるって言ってたもんなあ……」
首都高に乗ったあたりで、地平はようやく思い出したように、言葉を発した。
「もしかして、金持ちのお嬢さん?」
「そんなことないです。ホテルって言ってもビジネスホテルのシングルルームだし」
「でも、普通の子がそんな大金は持ち歩かないよな。ワケありなお嬢さんってとこか」
「うーん……」
そんな、ありがちな言葉で括ってほしくない。マナは否定したかったが、できなかった。結局あたしって、ワケありなお嬢さんなんだなあ、と苦笑いするしかない。
「考えてみたら、キミについて何も知らないんだよな。どうして優兄ぃと知り合ったのか、どういう関係だったのか。どうして木綿子さんと一緒に歩いたのかもわからないし、どうしてホテル暮らしなんかしてて、どうしてそんなに金を持ってるのかも。ま、興味がなかったから聞かなかったんだけど」
「今は? 興味湧いた?」
「まあね。だから、聞かせてくれないかな」
「そーですね。静岡まで、まだまだ時間はたっぷりあるし」
車窓の向こうを、たくさんの光が流れていく。流されてしまえ、何もかも。この光たちと一緒に、みんな流されてしまえ。あたしの過去も、地平さんの過去も。
そんな願いを込めながら、マナはこれまでに起こってきたことすべてを、ひとつひとつ、言葉に変えていった。静岡に着くまで、たっぷりと時間をかけて。
Copyright(C)2009 Chim La Hatsuhi