千村はつひ(top)
「お帰り、買えた?」
病室に戻った木綿子を、優太が柔らかい声で労った。
「ただいま。おかげさまで、見つかったわ。一番近いコンビニまでタクシーで二十分もかかるなんて、驚いたけど」
ただタクシーに乗っていただけなのに、大げさに疲れたような様子を見せて、木綿子は病室に備え付けの折りたたみ椅子にドサッと座る。
「今さっき、地平たちが来たよ。すぐに外へ行っちゃったけど」
なんでもない風に、優太はそれを告げる。どんなことがあってもいつもと変わらない優しさというものは、とても温かく、すこし残虐だ、と木綿子は思う。
「知ってる。そこで見かけたわ。あの子も一緒に来たのね」
「……妬ける?」
優太がふざけたように笑った。いつもの木綿子なら、いくら冗談でも言って良いことと悪いことがあると怒りそうなものだが、今はただ少々歪んだ笑顔を見せるだけだ。それほど、優太の質問は洒落になっていない。
返事はしないまま、木綿子はハンドバッグから折りたたんだ一枚の紙を出した。
ここに向かう長い道のりの間、木綿子は確かに、心の中であのマナという少女に対する嫉妬心をめらめらと燃やしていた。
けれどもそれは、夫を取られたという事実ではなく、夫の心を開くという、自分にはどうしても成しえなかったことをいとも簡単に実現したその力に対する嫉妬だったのかもしれない。
それに気がついたのは、この病室に来てからのことだ。木綿子が到着してまもなく、優太が携帯に届いた一通のメールを見て、こう言ったのだった。
「地平も今、こっちへ向かってるって」
木綿子はとても驚いた。地平が母親のことを『何があろうとも二度と会いたくない』と完全に拒絶したのは、つい何時間か前のことではなかったか。地平は軽いように見えて、実は頑固で人の意見を聞かないところがあるのはよく知っている。その地平が、どうして急にそんな気になったのだろう。
優太がさらに一言付け足した。
「マナちゃんと一緒らしいよ」
「あの子が……?」
それだけ言うのが限界だった。胸の奥から怒りとも悲しみとも嫉妬ともつかない、あるいはそれらをすべて混ぜ込んで化学反応でも起こしたかのような、熱いものがこみ上げてきた。と思ったら、涙になって目からぽたりと落ちた。
優太の件で、木綿子がマナに抱いた感情は「あんな小娘に出し抜かれた」というような、苛立ちに似た嫉妬だった。そうして、自分の優太への愛情は炭火のようにいつまでも熱く続いていることに気付かされたのだ。
けれど今の木綿子は違った。はっきりと、傷ついている。愛していると思っていた地平のために、何もしてあげられなかったこと。そして彼の心を、マナがいとも簡単に動かしたことに、傷ついている。自分の無力さに絶望して、より燃え上がる炎のような地平への愛情に気付かされた。
種類の違うふたつの愛。それらを秤にかけることなんて、できるだろうか。
「じゃあ、早速書くわね」
「何もそんなに急がなくても……」
「だめよ。どうして私がこんな時間に、たった一本のボールペンを買いにわざわざタクシーで出かけたと思ってるの?」
「そうか……そうだな。ずいぶん高い買い物になっちゃったなあ」
優太のこういう、のらりくらりとした物言いに、今までどれだけ肩透かしを喰らってきただろう。木綿子は何か言い返してやりたい気持ちになったが、喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、微笑むことにした。優太ののらりくらりには、救われたことだって何度も何度もあったから。
広げた用紙の一番上には、『離婚届』と太字で書かれている。優太が自室に隠していた、あの離婚届だ。左側は既に優太の自筆で記入が済んでいた。
簡易テーブルの上で、木綿子は用紙の右側を淡々と埋めていった。安物の黒いボールペンは、滑りが悪くてひどく書きにくい。そのせいで、ふと手を止めて余計なことを考えたりしてしまう。
長い、とても長い一日だった。
家で優太のPCを開き、あの映像を見たこと。優太の携帯に何度も電話しながら、慌てて家を出て優太を探し回ったこと。突然、一人の少女から電話がかかってきて会わざるをえなくなったこと。少女と話をしようと街を歩いていたら、ノッチと遭遇してしまったこと。
すべてが今日一日の出来事なのに、もう遠い昔のことのようだ。
新宿でマナたちと別れた後、木綿子は一旦本郷のマンションに戻っていた。
冷静に考えれば、危篤状態の義母のもとへ行くのに、ちょっと顔を見せてすぐ帰るというわけにはいかない。何日かは向こうに滞在せざるを得ないだろうし、もしかしたら喪服なども用意しておくべきかもしれない。
あらゆる可能性を考えた結果、木綿子の荷物は家にある一番大きなスーツケースにぎっしりと詰め込まれることになった。出かけるときには「このまま家に帰らなくても何ひとつ不自由なさそう」などと思ったが、いつも一本くらいは持ち歩いているはずのボールペンが荷物の中に入っていなかったのだから、よほど慌てていたのだろう。
その割に、優太が映像の中で言っていた離婚届のことを思い出して持ってくる余裕はあった。といっても、その時点では離婚などする気はない。優太の目の前で、この用紙を破いて捨ててやろうと思っていたのだ。なのに、今はその右側を補完して、離婚届として完成させようとしているのだから、なんだかすべてがおかしな話だった。
でも、頭の中はとてもクリアだ。覚悟を決めた女というのは、たぶん、けっこう強い。
一文字ずつ丁寧に、記入すべき欄をすべて埋める。それからおもむろに折り返した用紙のもう半分の面を確認したところで、『証人(協議離婚のときだけ必要です)』という欄が木綿子の目に映った。
「あ、離婚届にも証人が必要なのね」
そんな可能性を少しも考えていなかったかのように、木綿子が言う。
「そうだね、僕たちは協議離婚っていうことになるから。――あの二人に頼もうか?」
「冗談はやめ……」
怒りながらも笑って首を振った木綿子の言葉が、遮られた。
突然のかん高い電子音のせいだった。目の前の病人の心臓が止まったことを知らせる、運命の冷たい音。
***
マナの知らない家。
地平が、優太が、育った場所。
地平は結局、母の死に目を見ようとはしなかった。せっかく優太が「もう危ないから」と呼びに来てくれたというのに。
マナはそれを気がかりに思っていたが、大人たちにとってそんなことは、瑣末な問題だったのだろう。なにしろ、母親の死亡が確認されてから先は早かった。優太と木綿子が、病院の手続きから荼毘に付すまで、すべての手順を滞りなくこなしてくれたからだ。
他に近親者もないので、二日もあればすべて終わるような簡単な葬儀で、今日はその二日目だった。
一日目、マナはずっと地平の傍についていた。地平はひどく傷ついており、マナはそれに責任を感じていた。自分が無理やりここへと連れてきたせいで、地平を余計に傷つけてしまったのだと思った。
そんな責任感もあり――もちろん芽生え始めていた新たな愛情のこともあり――、できれば今日も明日も、これからもずっとずっと地平の傍にいてその傷を癒してあげたいとマナは思っていた。
とはいえ、今日だけは遠慮せざるを得なかった。いくら地平と一緒にいたいといっても、いや、地平と一緒にいたいという感情が強すぎるせいで、他人であるマナが火葬場までお供するのはどうしても憚られた。だが地平を残して一足先に東京に帰る気にもなれない。そうしてどこかで待っていたいと申し出たマナは、「居心地はあまりよくないかもしれないけど」と言われつつ、この家に案内されたのだった。
居心地は、想像したほど悪くはなかった。少々の黴臭さを我慢すれば。
あの母親が入院して以来ずっと誰も住んでいなかった室内を、マナはたった一人で掃除し始めた。掃除しろと命じられたわけではなく、ただなんとなくそうしたかったのだ。
家の中はさほど汚れているわけではなかった。あの母親が入院の前に自分でやったのか、誰かの手が入ったのか、ともかくきちんと身辺整理がされている。それでいて、一日を過ごすのに不便なほど何もないわけではなく、まるで「いつ誰が帰ってきても過ごせるように」という感じに、必要最低限の家具や調度品がシンプルに揃えられている。
マナはまず家中の窓という窓を開け、床や家具をひととおり拭いた。うっすらと積もっていた黴や埃のせいで、雑巾は面白いほどすぐに汚れた。
それから、収納家具。扉や引き出しをひとつひとつ空けて、すべてに風を通しておこうとマナは考えた。そうして、キッチンカウンターの下に作りつけられた棚の引き出しを下からひとつずつ開けていったとき、上から二段目に「それ」を見つけた。
「それ」は、文字だった。
引き出しいっぱいに押し込められた、たくさんの紙くずの上。チラシの裏や、メモ用紙の切れ端に書き残された、汚い文字。ときには新聞紙の余白ですらない印刷面の上にまで、乱暴に書きなぐられている文字、文字、文字……。
『ごめんなさい』
『すべて間違い』
『悪いのは私』
ぱっと見ただけでも、そんな言葉がいくつも読み取れる。気になってさらに奥まで漁ってみると、便箋のようなものにきちんと書かれたものも見つかった。
その一行目に「地平へ」と書かれているのを見て、マナは息を呑んだ。
***
「お疲れ様」
「こんな所で一人で待たせて、悪かったな」
優太が地平と一緒にマナのいる家に戻ったのは、すっかり家に風が通り、黴臭さも気にならなくなった頃のことだった。木綿子とは先ほど駅で別れてきたところだった。
「お帰りなさい……あれ、木綿子さんは?」
マナが疑問に思うのは当然だ。今さら四人揃ったところで何の話をするわけでもないけれど、突然姿を消すのは不自然だろう。
「木綿子は先に帰ったよ」
優太は一切の余計な情報を加えず、そうとだけ答えた。
「え、どうしてこんな時に……?」
マナはどこか腹を立てたような、失望したような声を出した。たとえ愛し合えなかった母親だとしても、優太も地平も肉親を亡くして落ち込まないわけがないと思っているのだろう。二人を残してわざわざ先に帰る事情があることを、マナはまだ知らない。
「どうせ仕事かなんかがあるんだろ。あの人はいつだって忙しいんだ」
優太が言い淀んでいる間に、地平が口を挟んだ。軽い口調が、かつて木綿子との間にあった親しみの深さを表しているような気がして、優太は小さく奥歯を噛んだ。もう嫉妬心を抱くには遅すぎるのに。
「ごめん、地平。違うんだ」
優太はジャケットの胸ポケットに入っていた、やけに小さく折り畳まれた紙を取り出しながら言う。そして、テーブルの上に紙を広げると、若い二人に頭を下げた。
「二人とも、こんなことを頼まれても荷が重いだろうけど……ここの欄に名前を書いてもらえるかな」
それが離婚届であることは、地平にもマナにもすぐにわかったようだ。
「ちょっと、これどういうこと?」
「なんでだよ?」
二人の声は同時に響いた。まるで美しい和音を成すように、きれいに重なって。
「やり直すんじゃなかったのかよ?」
地平が掴み取ろうとした用紙を、優太はひらりとテーブルから取り去る。頭に血が上りやすい地平の行動くらい、予測できない兄ではない。なるべく弟を刺激しないよう、優太は笑みさえ浮かべながら言った。
「おいおい、丁寧に扱ってくれよ。たった一枚しかないんだからさ」
「それでいいの?」
今度はマナが、たまらないとでもいった感じで口を出す。優太はそれでもやんわりと口元に笑顔を浮かべたまま、だけどはっきりした意志をもって答えた。
「木綿子は、地平のことも本気で愛してるんだよ。しかも、悔しいけれどこれはまだ全然過去形じゃない。もちろん彼女は、僕のことだって本当に愛していると言ってた。すべてを忘れてやり直したいとも言ってくれたよ」
「だったら、どうして……」
「でも、だめなんだ。僕と結婚している以上、木綿子は地平との縁を切ることができない。だって弟なんだもんな。完全に縁でも切れない限り、地平への気持ちを忘れることはできないと木綿子は言ってたよ。つまり、僕と結婚している限り、すべて忘れて僕と一からやり直すことは絶対にできないんだよ。すごい矛盾だろ」
我ながら、絶望的な話をしている。そう思うとかえって愉快な気持ちになり、優太の口調は恐ろしいほど朗らかになった。しかし、そのことが逆に地平を責めたててしまったようだ。
「じゃあ……俺さえいなければ」
地平はそう呟くと、ソファに倒れこむように座り込んでしまった。
「そういうことじゃない。これが木綿子のけじめなんだよ。俺からも地平からも同じぐらい離れた場所に行って、ふたつの愛をひっそり抱いて生きていきたいんだとさ」
うんともすんとも言わなくなってしまった地平の代わりになろうとでも思ったのだろうか、さっきまで遠慮がちな態度だったマナが急に優太に掴みかかってきた。
「それでいいの? 木綿子さんはそれでいいかもしれないけど、ユータさんはそれで納得できるの? だって、大好きって言ったじゃん。その口で。奥さんのこと凄い大好きって、はっきりと言ったんだよ?」
マナの言葉は直球すぎる。優太の表情は、一瞬崩れかけた。しかし、何を言われようと決めた答えに変更はないことを、優太は知っている。だから頷いた。
「うん。だから、これで本当にすべて終わりだなんて思ってはいないよ。縁だとか、絆だとか、そういう強いものがあれば、また必ず出会い直せると思うんだ」
「そんな都合よく行くわけないよ」
「案外、行くもんだよ。ほら、マナちゃんと渋谷駅で偶然再会したときみたいにさ。ああいうのってさ、本当、運命だなって思うよ」
「バカじゃん!?」
とうとうマナは叫び声を上げた。
「運命とか、思ってないでしょ。あの時ユータさん、あたしが運命とかって言ったのに否定したもん。再会したのも全然嬉しそうじゃなかったし、カラオケとか誘ってもチョー冷たかったし!」
もはや怒りの論点がずれてきていることに、優太は思わず笑いそうになってしまった。が、ソファでぐったりしながらも嫉妬心を剥き出しにマナを睨む地平の様子を見て、気持ちを引き締める。優太はあくまでも穏やかに、マナの頭を柔らかく撫でた。
「いや、運命だって思ってたよ。でも、だからってそんなことでいちいち驚いたり泣いたりするわけないだろ」
「するよ。だって、運命ってすごいじゃん」
「すごくないよ。運命ってのは、最初から決まってることを言うんだよ。マナちゃんと再会することは、決まってた。最初から決まってることが起こったからって、どうして驚く必要があるんだ?」
本当にそう思っていたから、優太はゆらぐことのない気持ちで言い切った。マナは何も言い返せず、目を見開いたまま硬直した。少し頬を赤らめて。
優太は、だから付け足した。
「木綿子とも、やり直せる運命だと思う。俺はそれを信じる。それが俺の答えだ」
まるで自分に言い聞かせているみたいだな、と優太は思った。でも、答えがすっかり出てしまった今、心はとても軽くなっていた。
***
結局、地平とマナが証人欄に署名した離婚届を手に、優太は先に東京へ帰っていった。
優太を見送った後、地平はしばらく放心状態でソファに横たわるばかりだった。マナはそれをただ見守った。時間以外の何も動かないこの部屋で、二人はそれぞれに今後のことを考えていた。
そのまま、数十分が経過しただろうか。
「俺って、ガキだな」
地平はようやく口を開いた。マナが何の遠慮ない様子で、ぶっと噴き出す。
「さっきからそこでずーっと固まって考え込んでて、ようやく出た結論がそれ?」
「悪いかよ」
地平は再びソファに不貞寝しながらも、けらけらと笑うマナの手を取る。マナはその手を握り返す。数年来の恋人のように、二人は自然と互いの温かさを確認しあうことを覚えていた。
マナはそのままの体勢で、静かに語りだした。
「あのさ。木綿子さんにとっては、気持ちをずっと貫くことが愛なんだよね。たとえ独りになっても、地平のこともユータさんのこともどっちも忘れずにいられる方法を選んだんだよね」
口を動かしながら、マナは優しく地平の髪を撫で、頬に触れた。そうして、地平の頭をすっぽりと抱く。地平はすっかり身動きがとれなくなってしまった。
「そんでさ、ユータさんにとっては、とにかく信じることが愛なんだよね。本当はあの人、口で言うほど自信なんかないんじゃないかなって思うの。だけど、それでも信じることで愛し続けていくんだよね」
地平はマナの腕の中で、うん、と反抗期を迎えていない子供のような返事をした。すっかり邪気をなくして、寛いでいる。
「愛ってさ、ひとつの形じゃないんだね」
マナはそう言って、ポケットから一枚の、やはり小さく折りたたまれた紙を差し出した。心の底から無防備になっていた地平は、つい渡されるままそれを受け取り、何の疑問も持たずに開いてしまった。
地平へ手紙はそこで途切れていた。
あなたに謝りたくて手紙を書きます。学のこと、ごめんなさい。何を言っても、何度謝っても、私は許されないでしょう。それでも私は死ぬまで謝り続けたい。私があなたのためにできることはそれしかないのだから。
おろかな私は、子供というものは無条件に母親を慕うものだと思っていました。何かと反抗しがちだった学にあんな取り返しのつかないことをしてしまったのも、それが原因だったのでしょう。
まだ私の力がなければ生きていくこともできなかったはずの幼いあなたは、学の事件以来、私を見ると怯え、私に近づかなくなってしまった。なのに、私はあなたが私を恐れるようになった理由に、長いこと気付きませんでした。学の事件があなたにどんなに大きな衝撃を与え、あなたをどれほど傷つけたか。そしてあなたの人生をどれだけ変えてしまったか。今なら簡単に理解できるのに。
私は、私を愛してくれないあなたを憎み、あなたを愛しにくい子供として扱うようになってしまいました。いつもあなたから愛されたいと願ってうばかり、求めるばかりで、私からは一切与えることができなかった。でも、親である私が愛することを教えられなかったのに、子供が自然と愛を覚えるはずなどありませんね。だから私は
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あの日、手を繋いで歩いた神学院の坂を、今は一人で歩く。桜は今年も満開だ。
マナは今日、二十歳になった。
地平と別れてから、もう二年という時間が流れていた。あの日から切っていない髪はすっかり伸びて、春の風に揺らいでいる。
地平と暮らしていた一年少々の時間は、マナにとってかけがえのないものだった。マナは地平が求めるだけの愛をまっすぐに注いだし、バイトに励んで父親へ借金をすっかり返すこともできた。
けれど、地平にとってその一年が、どんな意味を持っていたのかは、マナにはわからない。愛する方法を知らなかった二人の間には、いつも迷いがあった。
『いいことも、悪いことも、楽しいことも、悲しいことも、辛いことも、嬉しいことも。好きな人との日々の生活と、そこにある感情の全てこそが愛』
何度も頭の中でリフレインした言葉を、今日もまた繰り返す。
そのすべてを受け容れられるほど、あの頃のマナは大人ではなかった。地平だって、年齢だけは重ねているものの、まだまだ中身は子供だった。
別れを切り出したのはマナのほうだった。
嫌いになったわけではないこと、捨てたり捨てられたりする状態ではないということは、地平もよく理解してくれた。
木綿子のように、離れていてもずっと愛し続ける信念を。
優太のように、必ずまた会える運命を信じる勇気を。
大人だったあの二人と比べて、マナと地平は自分たちがいかに子供かを思い知ることばかりだった。二人の愛情が飽和状態になってしまうのは、とても簡単だった。
だから、距離を置こうと決めた。
もし二年後――マナの二十歳の誕生日まで、同じ気持ちを持ち続けることができたなら、もう一度ここで会いましょう。そう約束をして。
地平は来るだろうか。
来なくても、別にいい。少なくとも私は、ここに来た。その事実は、これからもずっとマナを支えてくれるような気がした。少しは木綿子や優太に近づけたかもしれない。そんな自分を、ようやく迷うことなく信じられる気分だった。
マナは風で乱れそうになる髪を手で軽く押さえながら、緊張したような、でもどこか落ち着いた面持ちで一歩ずつ歩いていく。
大丈夫、最初から決まっているのだ。この坂を上ったところに、「運命」はちゃんと待っている。
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