Vol.2〜渋谷

千村はつひ(top)


 俺はこんなところで、なにをやっているのだ。
 ただただ目の前のビールグラスを傾けながら、男は心中でそんなことを考えていた。
 
「ねーねーねーねー」
 少女が、携帯電話のボタンをたいした速さでピポピポ押しながら、誰にともなく言う。何を見ているわけでもない視線や、下唇が閉まらない(締まらない、ではなく、閉まらない、である)感じのだらしない口元は、セクシーさではなく幼さの象徴のようだ。
 誰にともなく、とはいっても、この密室には少女のほかに一人しかいない。自分が相槌を求められているのだろうと考えた男は、小さく「うん?」と応える。
 
「あのさ、メールでさ? 怒ったときは怒った絵文字、あるデショ? 慌ててるときは、汗かいてる顔とかの絵、だったりさ。あとさー、悲しいときとかは、泣き顔とか、そーゆうの使うじゃん?」
 一体唐突に何の話だ、と戸惑いながらも、男は表情を変えずにとりあえず「うん」と頷く。
「でさー、ね、アイシテルとかさ、スキとかさ。そういうときは、もう絶対、コレ、使うじゃん?」
 言いながら、少女は携帯電話のディスプレイに表示されたメールの末尾に付けられた、ピンク色のハートマークを見せる。メールの内容までは読む暇を与えない程度の、絶妙な一瞬だった。
「そうだね」
 一応は肯定したものの、男は愛しているはずの妻にそんなマークを付けたメールなど、一度だって送ったことはない。尤も、三十代も半ばになった男が携帯メールにチマチマと絵文字を散らすなど、気持ち悪いことこの上ない。ましてや、ハートマークなど言語道断だ。
 しかし、少女にはそんな男の思惑など伝わるはずもなく、ただただ肯定の言葉を受けて、
「へーえ。オジサンもハートとかメールにつけちゃったり、するんだー?」
 などと、ニヤニヤしながら聞いてくる。
「こら、大人をからかうんじゃないよ」
 男は羽毛のクッションのように、やわらかく、会話の温度を変えることもなく、少女の冷やかしをふいっと受け止めた。
 
 しかしまあ、オジサン……か。
 男は心の中だけでひっそり苦笑する。
 苦笑したい気持ちがあっても、顔には出さない。なぜなら彼は、それが大人の余裕だと思っているから、である。ではあるが、同時に、実際自分がどれほど大人なのだろうか、とも思う。
 少なくとも男は、目の前にいる少女と比べれば、倍くらいは生きているはずである。ならば、彼女からオジサンと言われるのは、仕方ないことだ。
 それどころか、男は少女にまだ自分の名前さえ名乗っていない。せいぜい十六、七くらいにしか見えない少女が、自分の倍ほどの年齢の、名も知れぬ男に呼びかけている、と考えれば、『オジサン』は最も妥当な二人称であると言えるだろう。
 
 名前を言わないのは男の意志ではない。少女が聞いてこないから、言う機会がなかっただけである。
 一緒に時間を過ごしながらも、目の前の男に関する情報などまったく必要としない様子の少女にしてみれば、名前を知ったところで『オジサン』は『オジサン』に変わりないのかもしれない。
 男のほうも、この少女について、名前も年齢もわからない。何を考え、何に喜び、一体どんなことに悩み苦しんで、このようなことになったのか――男は今、目の前で自分に話しかけてくる少女の無邪気さに首を傾げる。
 
 少女と男は、つい一時間ほど前に出会った。
 梅雨明けの、うんざりするような湿度の夜で、男は数時間の残業をこなして帰宅する途中だった。
 
 混雑した渋谷駅のホームを、ふらふらと蛇行しなが歩いてくる少女がいた。「危なっかしい子がいるな」と男は警戒したが、この少女に関わろうなどとは爪の先ほどにも思わなかった。
 無関心は、彼にとって唯一振りかざすことのできる武器なのだ。
 だから、妻がまた自分が寝静まった頃に帰ったとしても。あるいは、酒の匂いや、性的な体臭を漂わせていたとしても。それどころか、明らかに他の男の影が見えているとしても。男は何もしないことに決めている。
 人の心など、非を責め立てたり、無理やり方向を修正しようと働きかけることでは、決して変わらない。自分の力では、どうすることもできない。それが、彼なりの答えだった。
 
 電車が近づいてくる。いつのまにか自分の目の前まで歩いてきていた少女を見て、男は「あっ」と思う。
 そして、次の瞬間には、男は少女の手首を掴んでいた。
 今まさに線路に飛び込もうとしていた少女の力に、引っ張られる。しかし、小柄でやせ細った少女の捨て身と比べれば、大人の男の力のほうが勝っていた。男は小さく二歩三歩、前につんのめっただけだった。
 
 電車は何事もなくホームに滑り込んで、ドアを開く。少女はその場に立ったまま、眉をしかめ、男を見上げて言った。
「なんで止めたりすんの?」
 吠えるのが好きな小型犬のように勝気な声だが、男の手のひらにしっかりと包まれた手首は、小さく震えていた。
 早まるんじゃない、とか、生きてりゃいいこともあるさ、とか、陳腐な台詞がいくつか男の頭をよぎった。しかし男には、この少女の破滅願望を拭い去るという大仕事を引き受けるようなつもりは、全くない。なので、感じたまま、率直に言った。
「悪かったね。とてもじゃないけど、今日は俺、飛び込み自殺の現場を目の前で見る気分じゃなかったんだ」
 少女は暫しきょとんとした顔で男を見つめ、何秒かの後に、ようやく言葉の意味を理解したような顔をして、笑った。
「フツー、止めない? 早まるんじゃない! とか言ってさ」
「止める義理なんてないよ。生きようが死のうが、君の自由だ。でも、俺の目の前で電車に飛び込んで、血や肉片をそこらじゅうに飛び散らせて、一生忘れられないような地獄絵図を俺の脳みそに焼き付ける自由は、君にはない。明日にでも違う駅でやってくれると、助かる」
 男の言葉を、少女はいよいよ我慢できないといった感じでげらげらと笑いながら聞き、そして、答えた。
「わかった。じゃあさ、明日になるまで、えっと……二時間半ぐらい? それまで私に付き合ってくんない?」
 
 面倒くさいことになった、と男は思った。
 しかし、どうせ帰ったって妻はいないのだ。十二時までならば、帰りの終電にも間に合うだろう。そんなつもりで、男はその誘いを承諾したのだった。
 
 男が連れてこられたのは、カラオケボックスの一室だった。狭くて薄暗く小汚い部屋だったが、少女はそこへ来てようやく寛いでいるような顔をした。
 カラオケといっても、歌など歌う雰囲気ではない。男を連れてきたにも関わらず、少女は何か話しかけてきたり、悩みを相談したりすることもない。ただ、一人で携帯電話を弄ぶばかりだった。
 男は仕方なく、自分のためにビールを頼んだ。まろやかさが全くなく、ちっとも旨くない安っぽい味には辟易したが、手持ち無沙汰を解消するくらいの役には立った。
 
「つーか、オジサン!」
 ぼんやりと思考していた男の脳内に切り込むように、少女が言う。
「え?」
「話、ちゃんと聞いてた?」
「あ? えーと、だから、携帯の絵文字の話だろ?」
 一応は答えるものの、男にとってはたいして興味のない話だ。
「そう、だからね。好きだったら、ハート? 怒ったときは、怒りマーク? とかね、あるけど。寂しいときってさ、どんなマークが一番合ってると思う?」
「寂しいとき……? やっぱ、あれじゃないの。泣いてる顔とか」
 それを聞いた瞬間、少女は大げさにため息をついて落胆して見せ、そして続けた。
「だっから大人の発想は貧困て言われんだよ! あのさ、泣き顔をメールにくっつけたぐらいで、寂しさをわかってもらえるんだったらさ、そんなの全然寂しくないじゃん。誰とも分かり合えないから、人は寂しいんじゃん」
「なるほど」
 そう答えてみたものの、男には、わかるようなわからないような話だった。
「――でも、それだったら君の質問自体、おかしいんじゃないかな。だって、寂しい気持ちをメールで送るときに、どんなマークをつけるかっていう話だったろ?」
 少女は「そーゆー問題じゃなくね?」などとぼそぼそ言いながら、手のひらを男に差し出す。
「なんだよ?」
「オジサンの携帯、ちょっと貸して」
「なんで」
「ん? メルアド交換」
 男がポケットから出した携帯電話を、少女は奪うようにして手にし、勝手にボタンを素早く押したかと思うと、自分自身の携帯宛にメールを送っているようだった。
 一体なんのつもりなのか、男にはさっぱりわからない。
 
「オジサン、名前は?」
 少女が、携帯のボタンを押しながら聞く。
 興味を持たれ始めているのか、ますます面倒くさいことになった、と考えた男は、質問に質問で返す。
「明日、死ぬんじゃないの? 俺の名前なんて、必要ないだろ」
 少女は少し顔を歪ませ、けれど笑った。
「ちょっとおもしろいオジサンに会えたから、延期することにしたの。で? 名前は?」
「……ノジマ」
「そーゆーときってフツー、下の名前、言わない?」
「自分の常識が他人にも通用すると思ったら大間違いだぞ」
「いーから。下の名前」
「……ユータ」
 その答えを聞くや否や、少女は今度は自分の携帯を手に取り、また素早くボタンを押して、なにか操作をしている。
 
 まもなく、男――優太の携帯が鳴った。開くと、メールが届いている。
「私はマナ」
 それだけ書かれたメールだった。
 
 目の前にいる少女――マナは、なにかを成し遂げたような、清々した顔をして、「じゃ、そーゆーことで、マタね?」とだけ告げると、なぜか一人でさっさと部屋を出て行ってしまった。
 ああ、本当になんだか、面倒くさいことになったぞ、と優太は思う。
 しかし、なぜだか得意の無関心は発動しない。じっとしていられないような、妙な衝動に突き動かされる感じがして、優太は一人残されたカラオケボックスの一室で、三曲ほど歌ってから帰った。
 なんて奇妙な夜なんだ、と思いながらも、どこか愉快な気分だった。

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