Vol.6〜解けないパスワード

千村はつひ(top)


「オンナの勘って、冷め切った男女の間でもちゃんと働くのかしら」
 思わずそう言ってしまってから、木綿子はすこし後悔した。
 今夜も少し飲み過ぎてしまったのかもしれない。身体が火照れば、そのぶん心が風を欲して窓を開ける。ひどく息苦しくて、だから口が滑ってしまうのだ。

「何それ」
 しかし、そんな木綿子の思惑などちっとも関係ない様子で、ノッチは平然として会話を続けようとする。
「ん? んー……」
「優兄ぃとのこと?」
「あっ……ん、別に」
「まさか、浮気でも発覚したとか?」

 言うなりノッチが笑い出す。木綿子はひどくバツの悪い気分になった。だいたい、ベッドの上で男に跨りながらこんな話をするなんて、ちょっとナンセンスすぎる。
「いや、アリエナイ、アリエナイって」
 ニヤニヤと笑いながらそう言うノッチに奥のほうをぐるぐるとかき回されて、木綿子の身体は心とは裏腹に、今日何度目かの頂点に達してしまった。


「ほら。髪の毛、ちゃんと乾かせよ」
 二人でシャワーを浴びた後、ノッチは優しい声でそう言いながら、その声に似合わず少々乱暴な手つきで木綿子の頭にドライヤーの熱風を浴びせる。
「んー、面倒くさい」
 木綿子はそこ――つまり居心地の妙に良すぎる蟻地獄のような立ち位置――から、なんとか逃れようとするのだが、
「だめ。風邪ひくだろ」
 と腕を引き寄せられ、結局ノッチに後から抱きかかえられる形で、されるがままに髪を乾かしていくことになってしまった。

 ばか。優しくしないで。
 そう言って振り払おうとしても、がっちりと腕を押さえられて身動きがとれない。仕方がないので、されるがままに熱風を浴びながら、木綿子は目の前の鏡を見た。
 まるで恋人同士のような二人が、そこには映っている。
 木綿子の髪を優しく撫でるノッチの、あどけない悪魔のような笑顔。

 今いるホテルの一室は、季節も時間も関係ないかのように快適な室温を保っている。けれど、ノッチが言うとおり、濡れた髪では外に出られないくらい、もう秋は深まっていた。
 前にふたりが会ったときは、髪が少しくらい濡れたままでも平気だったように思う。少なくとも、生乾きの髪の毛が、家に帰るまでに乾いてしまったのではなかったか。
 二人が会わない間に、季節はしれっと変わってしまったのだ。

 外では秋の雨が、冷たく静かに街を冷やし続けている。今夜は特に厚手のコートを着てもおかしくないくらいの冷え込みだ。
 木綿子は思う。
 この人肌が温かくて、嬉しくなってしまうのは、きっとこの寒さのせいだ。
 そうとでも思わなければ、やってられない。
 久しぶりに会えたのが嬉しいとか、少なくとも会っている間は私のことを知り尽くした恋人でいてくれるのが嬉しいとか、そんなことを思ってしまうと、後がつらい。
 次はいつ会えるかわからないこと、木綿子と会っていない間にノッチが誰の恋人でいるのかもわからないこと、そんな現実が頭をよぎるとつらいのだ。

 それよりなにより。
 こんな関係でもやっぱり会いたいと思ってしまい、また、それを口にしないようにギリギリのところで踏ん張ってしまう自分が悲しい。
 いや、もっと言えば――。
 『そのライン』を決して超えてきたりしないノッチの態度が、木綿子にはいちばん悲しかった。


「さっきの話だけどさあ」
 髪はすっかり乾いたのに、洗面台の鏡の前からふたりは動かない。背後から木綿子の髪にやさしく触れながら、ノッチは言う。
「何?」
「ほら、オンナの勘って言ってた話」
「ああ」
「マジで何かあったの?」

 ノッチに抱かれている間にはすっかり忘れていた、うすら寒い気持ちを思い出して、木綿子は誰にもわからないくらい小さく肩を落とした。
「何があったっていうわけじゃないけど――あの人がね」
「うん」
「携帯を、ね、家でいじってる時があるの」

「なんだそりゃ」
 ノッチはふざけたように、けれどとても甘く、背後から木綿子の首を優しく絞めて、なぜだかニヤニヤと笑いながら言う。
「携帯いじるぐらい、別に普通じゃん?」
「ちがうの、そうじゃなくて」
 木綿子は弁解する。頬がほんのり紅く染まっているのは、首を絞められて苦しいからだろうか、それともプライベートな話をさらけ出す恥ずかしさからか。

「あの人、携帯嫌いなの。仕事のために嫌々持たされてるって感じで、電話もほとんど着信専用だし、メールにいたっては面倒くさいからって私にすら送ってこない人なんだから。そんな人が、家でいそいそと携帯をいじってるなんて、明らかにおかしいじゃない」
「うーん、でも『あの優兄ぃ』のことだからなあ。仕事でメールが必要だったとかじゃないの?」
「違うと思う」
 きっぱりと、木綿子はかぶりを振った。

 本当は、見てしまったのだ。
 つい先日、夫が入浴している間、リビングのテーブルに放置されていた携帯を、木綿子はこっそり開いてしまった。
 正直言って、木綿子は自分の携帯にはパスワードをかけて完璧にロックしてあるし、基本的に肌身離さず持ち歩いている。なにしろ、夫には絶対に見られるわけにはいかないやりとりを、あろうことか夫の実弟や友人たちとしているのだから、細心の注意が必要だ。
 しかしその点、彼女の夫はひどく迂闊だった。それほど携帯の扱いに慣れていないということなのかもしれない。

 開いた携帯のメール画面。
 「マナ」という名で登録されたアドレスからのメールがいくつかあるのを発見して、木綿子は生唾を呑んだ。
 夫がまったく自分に感心を示さない、冷たくてつまらない男であり続けようとしている決定的な理由を掴んでしまう瞬間が、とうとう来たのだと思った。
 自分のものとは信じられないくらいに鼓動が大きく脈打ち、掌にはべっとりと汗をかきながら、「マナ」から着信したメールのひとつを無作為に選んで開いた。

「えっ?」
 思わず疑問が声になって出てしまった。
 メールにはただ、「・・・・」と、点が羅列してあるだけなのだ。

 文字化けかと思い、「マナ」から届いたほかのメールを、いくつか開いてみる。しかし、開けど開けど、どのメールも「・」ばかりだった。「・」がひとつだったり、ふたつみっつ連なっていたり、何行にもわたって羅列されていたりする違いはあるものの、「・」以外の文字が見当たらない。

 わけのわからないまま、木綿子は送信履歴も開いてみる。
 こちらは受信の数と比べれば随分少ないように見えるが、やはり「マナ」宛てのメールは残っていた。
「なんなの、これ……」
 おもわず声に出してしまったほど、木綿子は奇妙な脱力感に襲われた。
 夫から「マナ」宛てに送信したメールにも、やはり「・」以外の文字は一切使われていなかったのだ。

 嫉妬でも絶望でもなく、木綿子はただ途方に暮れるしかなかった。
 意味があるのかないのかもわからない「・」の羅列だけれど、それは彼女が携帯にかけているものよりずっと精巧なパスワードのように見えた。


 そう。気になってしまうのは、きっとそのせいだ。
 夫が誰かと愛の言葉をやりとりしていたなら、そのほうがよっぽどわかりやすい。
 解けないパスワードが、逆に私の関心を縛り付けているのだ――。

 そんなことを思いながら、けれど木綿子は、それをノッチに話すつもりはなかった。
 夫の目が届かない隙に、夫の携帯を盗み見る。私はそんな女であってはいけない。
 夫の目を盗んで義弟と身体の関係を持つような女は、男女のことに何のこだわりもないさばけた大人の女でなければならないのだ。


 けれど、彼女の不本意をわざと突いて面白がるように、ノッチは笑って、そしてふわっと木綿子を抱きしめながら、言うのだ。
「なあんだ。木綿子さんはやっぱり、優兄ぃのこと愛してるってわけだ」
「ちが……」
 否定しようとした木綿子の言葉が、宙に浮いたまま消えた。
 ノッチの温かい唇で、唇を塞がれてしまったから。

 その動きはとても柔らかで優しく、それなのに、ところどころに苛立ちが滲んでいる。
 わからないけれど、そんな気がする。
 そう思いながらも、木綿子は自分の弱みを知り尽くしたやり方で口の中を攻めあげるノッチのキスに、声を濡らすことしかできないのだった。

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