Vol.8〜スクランブル

千村はつひ(top)


 人混みの中に紛れている瞬間、俺はどんなときより気楽に呼吸ができる。
 周囲にこれだけ人間がいるのに、その中のほとんどすべての奴らは二度と会うこともなく自分と無関係である、ということが、どれだけ幸せなことか。人と関わるなんて、何かを求められたり、求めるふりをしたり、面倒くさくややこしいことばかりだ。――とは言え、自分が一人で生きてるわけじゃないことぐらい、わかってるけどさ。
 そんなことを考えながら、野島地平は待ち合わせ場所に二分遅れて現れたシンジに手を振る。
「おう、久しぶり」

 学生時代には何日も家に帰らず一緒に遊び倒したりした友人とも、今や年に二度か三度、会うたびに一言目が「久しぶり」と挨拶するくらいの関係である。それでも色々な噂は自然と耳に入ってくるもので、今日シンジが久々に飲もうと声をかけてきた理由は、地平にもなんとなくわかっていた。
「シンジ、おまえ正式に婚約したんだろ。クリスマスイブに婚約者ほったらかしで、俺と遊んでていいのかよ」
「いいのいいの、向こうは独身最後のクリスマスを両親と一緒に過ごしたいって言うんだから」
「とか言って、案外むこうも独身最後のいけない思い出作りの真っ最中かもよ。オマエと同じようにな」
「ははは、アイツに限ってそんな」
 つまり婚約者の本音はともかくとして、少なくともシンジのほうは今、人生の重荷を背負う前にちょっと遊んでみたいと思っているわけだ。

 しかしシンジという男は顔に似合わず妙に臆病なところがあって、よくよく話を聞いてみれば、彼のやりたいことという内容はたいしたことではなかった。ただ、そこらへんで女の子を引っ掛けて、ほんのちょっと食事をして遊ぶくらいで良いというのだ。
 結婚をしてからも、合コンや風俗くらいは行けるし、なんなら恋愛だってできる。でも、気軽なナンパみたいなものほど難しくなると思うんだ――シンジはそう言い訳した。地平は、どれも大差ないだろうにと思うのだが、結婚するということはその考えからして改めなければいけないことなのかもしれない。まったく、面倒なことだ。
 ともかく、気軽に女の子と遊ぶためには、地平の顔が必要だとシンジは言う。

 そうやって当てにされるくらい、地平は確かに女から好まれる類の、整った精悍な顔立ちをしていた。地平自身も、そのことはよく知っている。
 幼少の頃から母親にそっくりと言われたこの顔は、地平にとっては、鏡を見るたびに心の奥底のほうが凍りつくような気持ちになる代物なのだが、女たちにそんなことはまったく関係なく、むしろこの顔にばかり価値があるかのような言い方をする。実際、「あなたの顔だけが好き」と言ってきた女もいるほどだ。

 しかし、なんだか今日は気が進まないな。
 地平はそう考えたが、きれいな女の子を探して一歩先を浮かれた様子で歩いているシンジを見ていたら、仕方ないという気分になった。
 ここはひとつ、親友への結婚祝いだと思って、一肌脱ぐしかないようだ。
 

***

 
 待ち合わせ場所として指定されたファーストフード店に入り、木綿子はキョロキョロと中を見回した。まるで歌舞伎町の喧騒が店内にまで充満しているような、ひどい店だ。
 こんなところで食事をすることはおろか、コーヒーの一杯を飲むことすら何年も前に卒業した木綿子にとっては、完全にアウェーの場所だと言える。油の匂いと埃っぽさが鼻について、落ち着かない。
 しかし今や夫への手がかりはこれだけなのだから、足をすくめるわけには行かないのだった。

 夫を探すために家を出た木綿子の電話が初めて鳴ったのは、つい一時間ほど前のことだ。
 携帯電話に表示されている相手の番号に見覚えはなかったが、ちょうど夫の携帯に何度も着信履歴を残した後のことだったので、木綿子は勢いですぐに「もしもし?」と電話に出た。
「あの、ユータさんの奥さんですか?」
 電話の向こうから、潜めたような心もとない声が聞こえた。女の声だ。
「あなたは誰?」
「あたしは……えっと、マナと言います。ユータさんのことで、お話がしたいんです」
「ちょっと待って、私には話が見えないわ。なぜあなたが私の番号を知ってるの? 今、あの人と一緒にいるの?」
「ユータさんは、今はここにいません。さっきまで、私のところにいました。彼……ユータさんがシャワーを浴びている間に、ポケットからちょっと電話を拝借して、着信履歴にあった番号を勝手にメモしてしまいました。ごめんなさい」

 シャワーですって? 木綿子は、眩暈がしそうだった。それは、夫にも外に女がいたことを思い知らされるには十分なキーワードだった。自分が夫の実弟と寝ていることは棚に上げて、ひどくショックを受ける。
 しかし、木綿子はもはや縋るしかなかった。マナという女の存在は、今や夫の消息を知るための唯一の手がかりなのだ。

 階段を上り二階の席を探すと、電話で予告された通りの、白いショート丈のダッフルコートにデニム地のミニスカートという組み合わせは、すぐに見つかった。その姿に、木綿子は正直言って愕然とした。
 若いなんてもんじゃない。
 電話の声でも相当若そうだと思ったけれど、それでも二十歳そこそこくらいだろうと考えていた。
 しかし、目の前に現れた彼女は、文字通り「少女」であった。もしかしたら、同世代の他の女の子たちと比べれば大人びているのかもしれない、そんな風格はある。けれど、木綿子くらいの女性からすれば、完全に子供と言って良いくらいの風貌だ。

「――マナさん?」
 声をかけると、少女はこちらを向いて、しっかりはっきりと木綿子の目を見た。いや、睨みつけたと言ったほうが正しいかもしれない。その照れのない純真さは、まさしく子供特有のものだった。
「あなたがユータさんの奥さん、ですか?」
 電話で言ったのと同じように、どこか儚げな声で少女は言う。それでいて表情はとても挑戦的で、ともすればビームでもくり出しそうなくらいの強い眼で木綿子を睨みつける。
「そうよ」
 木綿子はそこに立ったままマナを見下ろした。目線が上にあるだけで、立場が有利だと錯覚してしまいそうになる。
「主人がお世話になったようで、どうもありがとう」

 今、目の前にいる、このマナという子――木綿子がとうに失ってしまった何かをまだ無限に持ち合わせている少女――に、問いただしたいことはいくらでもあった。しかし、ここで取り乱したら、女として負けだ。それは木綿子のプライドが許さない。
「聞きたいことはたくさんあるんだけど、まずは場所を変えてもいいかしら? 私、こういう雰囲気のお店って、慣れないのよ。おいしいコーヒーを飲ませてくれるカフェが近くにあるから、奢るわ」
「ふーん。ま、別に何でもいいですケド」
 マナはすぐに席を立ち、飲んでいたソフトドリンクの紙コップを捨てに行く。その素直な後姿を見て、木綿子はどうしようもなく自己嫌悪した。
 上から目線でプライドを保って大人ぶる――それが何になるのだろう。自分のこういうところが夫を追い詰めてしまったというのに、それでもまだプライドが自分を守ってくれると、どこかで信じている。

「さあ、どこですか? あたしは逃げも隠れもしないんで、どーぞ案内してください」
 目の前に立つと、マナは最近の若い子らしく発育が良い。木綿子だって小柄というほどではなく、女性としてはまあまあ平均的な体格であるが、そんな木綿子よりもマナのほうが少し背が高いくらいだ。
 少女に見下ろされた木綿子は、もう覚悟を決めるしかないようだった。
 真実を知ることを、怖がってはいけないのだ。
 

***

 
 口がうまくて親しみやすいシンジが声をかけ、無口だが顔の良い地平が後ろでニッコリ笑う。それだけで、たいがいの女の子はすぐに興味を示してくる。――はずだった。
 しかし、地平とシンジの漁は、今日に限ってどうもうまく行かない。
 クリスマスイブという日取りのせいもあるだろう。通りを行くめぼしい女の子は大抵男を連れているし、たまに女の子だけの二人組や三人組を見つけて声をかけても、これからパーティーだの合コンだのと、反応が冷たい。

「くっそー、ノッチの力をもってしてもだめか」
「何言ってるんだよ。俺なんて元々こんなもんだよ?」
「わかってないな。うちの嫁だってオマエに初めて会わせた時、めちゃめちゃカッコイイって大騒ぎしてたんだから」
 まだ結婚したわけではないのに、もう彼女を嫁呼ばわりかよ、と地平が突っ込みを入れようとしたその瞬間、シンジの目の色が変わった。
「って、あれ? 俺、あの子見おぼえある……うん、そうだ。間違いない」

 歌舞伎町のほうから流れてくる人の波の中に、シンジの顔見知りがいたようだ。こうなったら、少しでも知っている顔のほうが声もかけやすいし、成功するかもしれない。そう考えた地平は、ターゲットを確認する。
「どれ?」
「ほら、あそこの白いダッフル」
 シンジの目線の先に、確かにその服装の女の子が歩いている。しかし、どう見ても高校生くらいの年頃だ。
「なんだ、子供じゃん」
「そうそう、子供だよ。ほら、前に話さなかったっけ。合コンに来て自殺しようとした話をしてた痛い子がいたって」

 毎日いろいろな話題や出会いがあるが、中でもその話はなんとなく印象的だったので、地平の脳裏にもうっすらと残っていた。記憶の糸を手繰り寄せて、情報を探す。
「ああ……思い出した。自殺しようとしたところを助けてくれたオヤジと援交してる、みたいな話だっけ」
「そうそうそれそれ。あー、もう今日はしょうがないからあの子でいいよ」
「マジかよ、痛い子なんだろ。俺、面倒くさいことになるのは嫌なんだけど」
「大丈夫だろ、どうせオヤジと付き合ってるような子なんだし。俺行くから、ノッチは後ろでイケメンスマイルな。よっしゃ、じゃあ行くぞ」
「おい、ちょっと待……」

 シンジに引っ張られて、少女へと近づいていく。
 よくよく見ると、援交なんて言葉はあまり似合いそうにもない子だな、と地平は思った。白い服で軽やかに歩くさまは、人波という泥水の川で遊ぶ小さな水鳥のようだった。まあ、水鳥などというものは、水面下でひどくジタバタしているのが相場なのだから、少女が裏で何をやっていようが窺い知ることはできないということだ。
 いよいよターゲットまであと三メートルと迫ったとき、地平はなんとなく、ふっと視線をずらした。そうして、その少女のすぐ斜め前をよく知った顔が歩いていることに気付く。

(やばい)
 クリスマスイブなんかに、こんなところで知り合いに会うのは、正直言って面倒くさいことだ。しかも、よりによって相手が身体関係もある義姉とくれば、それだけで話が複雑になる。
 地平の歩みは、ほんの一瞬止まった。が、シンジはそれに気付くことなくずんずん進んでいく。
 まあ仕方ない、と諦めるしかなかった。
 考えてみたらたいした問題でもない。声をかける相手は、その後ろを歩いている少女なのだ。この大都会で、自分の後ろの人に声をかけてくる人間にまでいちいち注目する人間なんて、そうそういない。あの人が通り過ぎるまで、シンジの影にでも隠れて顔を見られないようにすれば、問題ないはずだ。
 自分にそう言い聞かせながら、地平はシンジの後をついていく。若干背中を丸めて、顔をあさっての方向に背けながら。

「お、久しぶりじゃーん。今日は一人?」
 シンジがとうとうターゲットに声をかけた。あれほど痛い子だとバカにしていた割に、ずいぶんとフレンドリーな態度である。思わず失笑しかけたが、地平の顔は次の瞬間、固まった。
 なぜだ。
 後ろの少女に声をかけただけなのに、どうして木綿子さんまでが足を止めてシンジを見るのだ。

「誰でしたっけ? とりあえず今あたし、一人じゃないんですけど」
 怪訝そうに答えた少女の手前、一緒に足を止めた女にシンジは目を向けた。
「そちらはもしかして、お姉さん? ちょうど良かった、俺らこれから飯食いに行くんだけど、こっちも男二人だし、一緒にどう?」
「男二人?」
 二人の女の視線が、シンジの後ろで気まずそうに顔を背ける地平の顔に集まった。

「え、ノッチ……?」
 木綿子が呆然と、しかしほんのりと頬を赤らめて言う。シンジはそれを見て、ますます都合が良いと思ったのだろう、無遠慮に話を広げようとする。
「え? なーんだよ、ノッチの知り合いなの? ますます奇遇じゃん。おいノッチ、ちょっと、さっさと俺のこと紹介してくれよ」
 とても逃げられるような状況ではなかった。地平は諦めて、事実だけを述べることにした。
「これ、俺の学生時代からの友達で、シンジ。で、こちらは木綿子さん。俺の……兄貴の嫁さんだよ」
「え……それって」
 地平と兄嫁の関係を知っているシンジが、うっかりそのことを口にしそうになる。地平はそれを止めようとしたが、止められなかった。少女の言葉がそこに割って入ったからだ。
「ユータさんの、弟さん……?」

「い、行きましょうマナちゃん! 今は私たち二人で話すほうが先よ」
 木綿子が焦ったように少女の手を引っ張る。ここで地平との関係が明らかになるのはまずいと考えたようだった。
「そうなのか、邪魔して悪かったね」
 地平は無表情を装って、色のない声で言う。少女と木綿子がどういうわけで今一緒にいるのかは知らないが、ここは関わらないほうが賢明だろうと悟った。
「そ、そっか、残念だなあ。でも邪魔しちゃ悪いよな、じゃあまた今度ね」
 シンジも同調した。地平と目の前の女がただならぬ関係と知っている以上、このメンバーで楽しい食事など望めるとは、もう思っていないのだろう。
 大人たちは三人とも、それぞれの事情に則って関わりを避けようとした。

 しかしそれは、子供にとってはまったく関係のない事情だ。
「あの、ユータさんがいなくなったんです」
 少女は唐突に話を切り出した。さすがの地平も、無関心を装うわけにいかない話題だった。
「いなくなった?」
「ユータさんはすごく傷ついて、疲れて、ボロボロになって、奥さんのところから逃げ出してしまいました。これって、弟さんにも関係がある話なんじゃないかと思うんですけど、違いますか?」
 もしかして、バレたのか……?
 地平は思わず、木綿子の顔を見た。しかし、無言の問いかけに対し、木綿子はただ困ったように目を伏せるだけだ。
(っていうか、この子の援交の相手ってまさか……)

「お願いです、弟さんも一緒に来てくれませんか」
 ただただ純真な少女の目が、地平を刺す。とんでもないクリスマスイブになりそうだ、と、地平は空を仰いだ。

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