021 「定年ゴジラ」重松清 2002/12/24〜26読
企業戦士・郊外・ニュータウン、と。高度経済成長期に働き盛りだった世代における凡庸三種の神器を揃えた、そこらへんのオッサンたちが、引退後にそこらへんをブラブラしているという物語です。シリーズ連作ですが、長編といっても良いと思います。
この物語は凡庸であるがゆえ、数年後の我が父の予想図であり、今現在も近所をブラブラしている近所のオッサンの身の回りのことであり、私がかつて仕事でパソコンのことを電話ごしに教えてあげた厄介な客の日常であり、同じ職場にいて半年前に定年退職した部長のその後であり、そうして、ひょっとしたら何十年か後の自分と伴侶の姿かもしれません。市井の人々は、退屈を一生懸命駆け抜けて生きています。いとおしいくらい。
舞台である『くぬぎ台』という街は、まさに私が育った街とそっくりです(ちなみに、うちとこは『はなみずき台』といいますよ)。ニュータウンが故郷になってゆく時代を、私たちは生きているのだと再認識しました。
何気ない毎日を、少し愛してあげたくなるような後味が残ります。
022 「真珠夫人」菊地寛 2002/12/28〜30読
今年大流行した昼メロの原作さんなので、2002年最後の一冊に相応しいかと思い、読んでみる事にしました。どうやらこの作品、今年の昼メロとしてだけでなく、当時の新聞連載小説としても、かなり話題になったようで。
ドラマは(実は一回も見ていないけれど)原作と時代背景が違うそうなので、単に小説として読みましたが、確かにこの作品には色々な要素が詰まっていて、娯楽性の高い文学だと思います。一途な思いを抱えながらも、多くの男性を翻弄するという女性の内なる願望を満たし、劇的な一生を駆け抜けるヒロイン。また、女性の地位に関わる問題についてのメッセージ性を兼ね備えたり、当時のちょっとした文化的階層のサロン的な雰囲気の描写も、魅力的です。
瑠璃子がもし21世紀に生きていたら、美人だという以外には別段ほめられるところもないような女性なのかもしれませんが、時代背景と絡めることで大変興味深くなります。これこそ、大衆に読まれるべき新聞連載小説ならではの醍醐味なのかもしれません。
しかし、瑠璃子は横山めぐみで良いのか。それが、最大の疑問です。
023 「M(エム)」馳星周 2003/1/2読
股よりも 心を濡らす エロ小説(字余り)
ある種倒錯した、正常ではない性の世界を描いた短編4作品でした。ここで私が言う「正常」とは別に正しいという意味ではなく、ましてやノーマルなプレイという意味でもなく、より動物的な本能に近い【好き→繋がりたい】といった自然な性観念のことですが、それとはまったく違った動機が人をすごい衝動に突き動かしているというのが、この短編集に収録された4つの物語の共通点のようです。それゆえ、哀しい。切ない。
そこにあるのは、【消す事のできない過去】だったり、【如何ともしがたい目の前の現実】だったりしますが、いずれにせよ心の中にあるどうする事もできない空洞です。そして、人と繋がる事でそれを埋めようとするならば、その繋がり方がSMプレイになるというのは、何かしら、解る気がするのです。残念ながら、私はまだそれを理屈で理解する段階まで到達していませんが。
馳作品はこれまでに「不夜城」しか読んだことがありませんでしたが、うーん、こんな切ない作品も書く人なのですか。ちょっと好きになりそう。
024 「感情教育」中山可穂 2003/1/4〜5読
SMの次にレズを題材にした小説を読む私もどうかとは思いますが、私は人を好きになるのに性別などいちいち考えていられないと思いますので、同性愛を非難も擁護もしません。どんな恋愛も、惹かれあう気持ちに嘘が無い限り、自然な形なわけで。
不幸な境遇(一般的に言えば)で生まれ育った二人の女性の半生を大雑把に追う1章、2章と、その二人が運命の相手として出会ってしまった3章から成る物語ですが、私はそれぞれの章を別々の作品にして、もっと細かいところを書きこんでいったら、かなり好きかもしれないと思いました。逆の言い方をすれば、著者の言いたいことが詰まり過ぎていて、痛々しいとも言えます。「〜に捧ぐ」と冒頭に書かれているのも、つらいところです。
解説に、彼女たちは同性同士であるにも関わらず強く惹かれあった、そういう気持ちこそ本物だというような記述があったのにゲンナリです。そんな言い方をしている限り、世の中の偏見が消えません。
025 「ユリイカ」青山真治 2003/1/6〜8読
久々に、やられたなあと思う作品に出会いました。読み始めた瞬間から、まるで自分の目の前に鋭い針が自分に向けられていて、今にも刺さってきそうな状態で静止しているかのような、とても静かな焦燥感を感じつづけました。
元となっている映画を観ていないので不確かですが、これが単なるノベライズではないことは解ります。なぜなら、この作品には映像として思い描くことの出来ない部分が非常に多いからであり、言葉でしか成し得ない事をきちんと真摯に実行しています。
監督であり脚本家である青山真治氏にとって、これが小説としては処女作だとのことで、確かに小説の書き方という点においては改善の余地も感じられるかもしれません。が、そんなことはすっかり凌駕する世界が、この言葉というフィルターを通した向こうに広がっているので、まったくもって問題なしです。
究極まで突き詰めること。私にも、きっと必要なのでしょう。
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