トウキョウ・ノスタルジア
大学卒業と同時に千葉市にある実家を離れ、東京は文京区で一人暮らしを始めた。一度だけ区内で引っ越したものの、もう三年以上も区内に住んでいることになる。私もすっかり都会人になったのか、たまに千葉に帰ると空気のおいしさに、虫の音の心地よさに驚くほどになった。
私が、初めての一人暮らしにあたってこの街を選んだのには、幾つかの理由があった。まず、職場に近いこと。また、学生時代からなじみの深い池袋にも近いこと。そして、ベッドタウンに育った私にとって憧れだった、すばらしい下町情緒。私はこの街を、暇さえあれば散策する。歩いてふらふらと行くこともあるし、自転車に乗って、坂を上り下りすることもある。この街は、私のお気に入りだ。
東京を散策していると、時々、亡くなった母方の祖母を思い出す。そして、彼女のことを思い出したときは、決まってなぜか無性に泣きたい衝動に駆られる。私はそのことに、とても驚く。なぜなら私は、祖母のことがあまり好きではなかったから。
祖母は、仕事好きな母の代わりに、私と二人の弟という小賢しい子供三人の面倒を見てくれていた。本来ならば感謝してやまぬべき人。それなのに、私は彼女の何が気にくわなかったというのだろう。子供のときにはそれが分からなかった。ただ、直感的に嫌いだと思っていた。
今の私にならば分かる。私は祖母の生き方が気にくわなかった。
娘夫婦に養ってもらう代わりに孫の面倒を見て、自分の楽しみなど何一つなく、まだ幼かった私たちにまで引け目を感じて、いつも遠慮して生きている彼女の姿勢が嫌だったのだ。
祖母は七年前の夏に脳血栓で倒れて以来、五年半の寝たきり生活を経て、昨年の冬に亡くなった。
祖母の葬式で、私は初めて祖母と亡くなった祖父が再婚同士であることを知らされた(自分の小説にまったく同じエピソードが在るので恥ずかしいが)。二人とも、戦争で配偶者を亡くした人だったのだ。彼女は愛する人を失う苦しみを知り、また、それを癒やす愛の存在をも、多分、知っていた。
あの祖母にも、若い頃があったのだ。私は、その時はじめて気が付いた。彼女だって、女としての性を全うし、ドラマのような(?)人生を歩んできたのだ。祖母の人生は、決してつまらないものではなかったはずだ。
祖母の葬式は、東京にて行われた。祖母と、さらに前になくなった祖父の「往年を過ごした地」は、北区の田端辺りだったという。
私はそれを聞いて、田端・駒込辺りを歩いてみた。小さいものが、これでもかと言うほど色々と詰まっているという印象だった。若い頃の祖母は、ここで生活をしていたのである。孫である私たちが育った新興住宅地とは、全く趣の異なるこの街で。以前から、ゆくゆくは家を出て東京で暮らそうと思っていた私は、この時、ぜひこんな街に住んでみたいと思ったのだった。
祖母は、千葉の新興住宅地で、何を思って生活していたのだろうか。大きいが冷たい家の並ぶ町並み。若い核家族が中心のご近所との付き合い。近所で買い物ができる場所はスーパーマーケットただ一つ。バスと電車を乗り継がなければ、どこにも行かれない不便な場所。おまけに、我が子を任せっきりの娘夫婦と、わがまま放題の孫。
祖母の晩年は、私たちによってかき乱されていた。そう思うと、祖母に大変申し訳ない気持ちでいっぱいになる。せめて彼女が生きていて、元気だったときに、もっと優しくしてあげたかった。まさに後悔先に立たず。
まだ昔の名残が残るこの街で、祖母はかつて生活していた。たとえば、八百屋で野菜を買うだけで、人とのふれあいが感じられる。祖母にもう一度こんな気持ちを味わわせてあげたいと思う。雑多で、決してきれいではないけれど、温かい東京で。
家を出るとき、文京区に住むのだと言うと、よく友達に笑われた。ろくに学校にも行かずにアルバイトをして貯めたお金で、ようやく念願の東京での一人暮らしができるんだから、もっとお洒落なところに引っ越せばいいのに、と。
だけど、私はこの街が、どうしようもなく好きなのだから仕方ない。育った街のように、きれいに整備されているわけでもなく、空気も水も汚い、東京の一部分を。
もし、空の上で私を見守ってくれているとしたら、きっと祖母もこの街を気に入るだろう。彼女が往年を過ごした街に似ているから。そして、私はあの人の血を引いている、実の孫なんだから。(2000/08/22)
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