十六歳のナイフ
 
 「これ以上、あなたのためにお金も時間もかけたくない」
 そんな言葉で、男に別れを告げたことがある。

 冷静に考えて、これは世の中に数ある別れ話のなかでも、残虐さとしてはかなり上位にランクインするに違いない。お金も時間もかけずに済むものなんて、世の中には何もないというのに。まったくもって、身も蓋もない。こんな酷いことを平気な顔して言えるなんて、一体どんな厚顔な人間なのかしら! 一度そのツラ拝んでみたいものだわ! と思ってみたけれど、よくよく考えれば、それはまさに私なのである。鏡を覗けば、厚顔な私が居た。ああ恥ずかしい。

 言い訳が無いわけではない。何しろ、あの時私は十六歳の高校一年生(もうすぐ二年生という春休み)だったのだ。アルバイトもしていない十六歳少女の当時(十年前)のお小遣いは月に一万円である。派手に遊ぶことは無くても、映画を見て、カラオケに行って、ご飯を食べに行って、本を買って、CDを買って、それでもうお終いである。お金をかけたいかどうかという以前に、かける金が尽きたのである。
 友達とだって遊びたいし、行ってみたい場所が沢山あった。バンド活動にも夢中になっていたし、そうなるとライブも観にいかなければならなくなった。そんな中、勉強だって人並み以下ではあるけれど、少しはした。テレビを観るのもラジオを聴くのも好きだった。やりたいことが色々ありすぎた。時間をかけたいかどうかという以前に、かける時間が尽きたのである。
 さらに言い訳すれば、その男がなかなか別れに同意してくれず、ゴネていたためにとうとう発した最後のトドメの一言がこれだったのである。ここまで説明すれば、私もすこし正当性を持ち合わせることが出来るかもしれない。トドメを刺したくて発した言葉なのだから、残虐なのは当然なのである。

 しかし、開き直ってはいけない。
 今、二十七歳になった私は、余分な金も、自由に使える時間も、多少はあるのだけれど。仮に今の私が、余分な金も時間も持ち合わせず、男となど付き合っていられないので別れ話を持ち出し、しつこくゴネられたとしたら、その言葉をトドメに使うだろうか。
 答えは、恐らく否、である。
 何しろ、私もそれなりに分別のつく大人になったのだ。言って良い事と悪いことの区別くらい、解る。言って良い状況と悪い状況の判定くらい、出来る。そういう大人になったのだ。だから、きっと巧く誤魔化す。綺麗に終わらせようとする。もっともらしくて、だけど曖昧で、傷つけることも、傷つくことも、成るべく避けて。

 だけど、それはとても気分の悪いことだ、と思う。
 誰も傷つけないかもしれないし、自分も傷つかないと思う。泣き喚くことも、怒り狂うことも無く。ほんの少し痛いかもしれない、けれど、その程度の痛みなら、二日三日と時間を新しく重ねるにつれ、たぶん忘れ去られてゆく。決定的なインパクトに欠けるという理由で、相手や自分に生じた痛みを思い出せなくなることも、また残虐なのだ。

 十六歳の私と二十七歳の私、どちらが正しいのかは、まだ解らない。こういうことは、いつか解るときが来るのかもしれないけれど、いつまで経っても解らないかもしれない。

 ちなみに。
 私に残虐な別れ言葉を言われた彼は、春休みがあけて学校で見かけたら、髪の毛が真っ赤に脱色されており、その姿はとてもじゃないけど目も当てられず。これは強烈なインパクトを残したため、私はその時初めて自分の残虐さを責めたし、今思い出しても本当に酷いと思うのである。(2002/9/5)