文学を殺してみたものの
東京文芸センターと云う文芸サイトの二周年企画において、私たちは「文学を殺す」という一見壮大なテーマを掲げて、クローズドではあるが、文章を募った。それは、テーマが「文学を殺す」である以外は、すべて自由という競作であった。
文学を殺す、というテーマを考える中で、文学は既に死んでいるのではないのか、そもそも文学は生きているのか、というようなやりとりを、私は何度となく見てきた。だいたい、自分たちが曲がりなりにも真摯なつもりで文学に向き合っていながら、それを殺すというのは、一体どういう了見か。
しかしとにかく敢えて殺すのである。それは非常に興味深く、リスクも高く、だから避けられないテーマだ、と私は思った。
果たして、去る2002年11月1日、このテーマに則って書かれた18作品は出揃った。
ここで、私は私なりに、すべての作品を読んだ上でもう一度、「文学を殺す」というテーマについて考えたいと思う。
すべての作品にリンクを張るので、興味を持っていただけたら、是非作品の方を読んでいただきたい。できれば、全作品、全文字、全主張を、あますところなく。
尚、これは私の独善的な解釈と中途半端な自己顕示欲にのみ裏付けられた「文学を殺す」解説文であることを、私は予めことわっておきます。
> 文学者たるもの、今から戦後のこと考えてるより、戦時下にこそ発言をすべきだ、と大塚さんは言う。タレントのような純ちゃんに人気が集まり、日本国民全員が右傾しつつあるなか、文学者こそが反戦を訴えるべきなのだ。(「クイズ・みのもんた!」岡崎梓氏)
なにも、昨年のテロの件や、戦争を取り沙汰するつもりは、私には無いのだが(無論、それが避けられえぬテーマであることを踏まえながら)。
今回とても長い文章を寄稿してくださった岡崎氏の文章には、余りにも色々なことが書かれていて、非常に抜粋しにくかった(どれも抜粋したかった)が、すべては初めの章にあるこの問題提起を受けるものだと、私は考えた。彼自身の後に続く文章には勿論、その他全ての著者に向けて、これは、あまりにも「文学を殺す」というテーマに対してストレートなメッセージであった。
文学(文学者)が果たすべき役割すら知らずに、文学を殺せるわけがないのである。
>意味を失った色は全て消え去る運命だったんだ。(「もう一度、と彼は続けた」上松弘庸氏)
そもそも役割の前に、文学とは何かというのを私たちは考えねばならない。
波長、という言葉を上松氏は使う。ここに引用した「色」というのも波長の結果である。それが何を意味しているかというと、私は「概念」とかそういったあいまいなものを想定しているのではないかと考えた。波長のように、そのほとんどは眼に見えない。
多少話が逸れるが、大学に入って私が一番に学んだのは、「文学とは何か、芸術とは何か、という問いには、答えがない。しかし、それを敢えて探すことに意味がある」ということだった。
だから、上松氏の書く「彼」は「彼女」は、意味を失った色を消え去る運命だったと言いながら、それでも「もう一度、」と続けるのだ。それはまさしく、私たちの文学と対峙するやり方と同じである。
>神様は煙草吸うんだよ、知らなかったろ?勉強になったろ?(「メトロノーム」たもつ氏)
たもつ氏の書いた物語も、一見それには関係なさそうで、実は密接なつながりを持っているように、私には思えた。
後述する麻草氏も書いているが、神は存在していたのではなく、信じられているから存在を認められる。この物語の主人公と出会って神様だと自称するその人は、一般的に思われている神とは程遠い。その概念を壊されてしまった青年の、最後の神頼みの内容は、なんとシュールなことか。
文学も同じだ。文学は、そこには存在しない。だけど、信じている限りは存在することになる。その存在があくまで概念であると認識しなければいけない。この物語にはそういうメッセージが込められているように思えた。
>「文学」が「文章による芸術」、いや、
>「文章によるスノーボード」、さらにいえば
>「文章による秘技四十八手」であると気づくことから、
>すべてははじまるのである。(「文学を殺せ」春宮氏)
だから、例えば文学が反戦を訴えたとしても、文学は権威ではない。これは、文学に関わろうと思った者は必ず認識する瞬間を迎える事実である。なぜなら、文学はあやふやな概念なのだから。
春宮氏は、その「あやふやな概念」に対して、思うままの名前をつけた。どれも、ひどく正しい。そして、確かにそれに気付かなければ、何も始まらない。
しつこいようだが文学は権威ではない。文学はあくまで、あらゆる表現活動の中で、特に文章という方法に特化した手法の一つにすぎないのだ。
表現活動の一手法と言ったが、それでは、表現というものに今度はスポットを当てよう。つまり、何のために人は表現をするのか、という問題がここにある。
> 当時のことを今でも鮮明に思い出せる自分に驚きながら、私は溢れる思いを一気に文字に変換した。(「5
7 5」 佐藤由香里氏)
結論から言おう。表現におけるすべてのきっかけは、伝達である。
佐藤氏は、その原点に戻った「伝えたい」という溢れんばかりの想いを、物語の中であくまでストレートに表現している。
たとえば日本で最古の文学は、一般的には「古事記」だとされているが、かなり大まかに言えば、神話のようなものを一応は歴史書という形で編纂した(『言い伝え』を『文学』にシフトさせた)のはやはり、きちんとした形で後世に伝えるため、であろう。それが最も原始的な文学の動機だと、私は認識している。
尤も、伝えるべき対象が、後世というほどスケールの大きい相手でなくとも良い。とにもかくにも、伝えるべき相手が必ず居て、伝えたい内容が必ずある。それが表現の始まりなのだ。
>高橋優子は、私に生まれてはじめて「詩」などというものを書かせた女性なのだ。(「オシュンの歌」 高野 恵一氏)
例えば高野氏の書いた物語における主人公も、同じである。
初めての恋に夢中になっている少年が、ゼロから文学に取り掛かるに至る瞬間。これこそ純粋な、そして絶対に揺るがすことの出来ない衝動だと言って良いのではないだろうか。初めて書くラブレターは、すべて文学の卵である。などという妙なキャッチコピーまで、私などは思い浮かべてしまった。
今回寄稿してくださった他の著者の皆様にも、一番初めに「書こう」と思った瞬間には、そういった何らかの具体的な動機があったのではないかと、私は推測する(必ずしも、初恋である必要はない)。そのことを、私たちは決して忘れてはいけないと思う。
そして、恒常的に表現を行っていくことになったとき、あるいはそれを目指したとき、私たちは『誰に何を伝えるべきか』という問題にぶち当たる。
> 「俺の苦しみや悩みを話して、由美に何が出来るの?」
(「Fetters」朝倉海人氏)
朝倉氏の会話文のなかでは、まず伝えること(それは同時に、伝わらないことと同義である)の虚しさが浮き彫りにされている。
伝えることで、一体何になるのか。そもそも伝わるものがあるのか。すべての表現者は、常にそのような課題と向き合わなければいけないかもしれない。例えば、あなたが初めて書いた文学の卵は、相手に何かを伝えることが出来ただろうか。私たちは、常に失望の予感を孕みながら、文章を書いているとも言える。
確かに、この物語に出てくる由美のように、そんな共感めいたものを欲しがる読者も多い。そして、その需要に対して供給をするということも、文学の役割であると考えることは出来なくもない。
しかし、冷静な読者にはすべてお見通しのようである。
> だから、「神秘的な---好き」 とか 「実存的な---嫌い」
とか、そのくらいのイメージだったら僕らにも分かるから、それだけ書いてあれば文章側は、もういいよ。(「接頭語」森下氏)
森下氏は、さらにもう一歩読者側の領域に踏み込んだ場所から「もういいよ」と言い捨てる。
その程度のことを伝えるためのものが文学であるなら、読者だってわざわざそんなものを必要となどしないのである。共感しても仕方がない。あらゆる鍛錬に裏付けられた手法すら、もはや捨て置かれるだけの価値しかない、と。もっともな話である。
そうだ、そんな昨今の状況を、私たちは「文学は死んだ」などと言うのかもしれない。書くことも読むことも飽食の時代。これ以上、誰に何を伝えようか。誰の何に共感しようか。
それなら私たちは、いっそ伝達という意義を捨てて、技巧や物語性に走るべきなのか。
>だから、わざとなんだって、だってさ、普通に一冊ずつ読むとね、妙に全部が全部、辻褄が合ってて、リアルじゃないでしょ?なんか違うよってさ。(「夜と朝の境い目に、またはデウス・エクス・マキナ」原田優一氏)
そうではない、と。原田氏の描いている主人公が、軽く冷笑しながらそれを示唆する。
どんなに上手に書かれていても、どんなに辻褄の合った物語でも、だからといってその文学が必ず読者を満足させられるわけではない。先にも書いたとおり、飽食している読者は、結局あなたの書いたものをこんな風に読んでしまっているかもしれないことを、私たちは知らなければならない。
事実は小説より奇なり、とはよく言われるが、文学は奇なる事実の辻褄を合わせるために生まれたわけでは、当然ない。だから本来、リアルじゃない、の一言で片付けられて良いものではないはずなのだが、まだ書くことに向き合って行こうとする私たちは、さらに話を先に進めなければならない。
じゃあ、読者の求めるリアルとは何ですか、と。私たちは何をすることによってリアルを提供できるのですか、と。
> 「何も書いて本にして読ますだけが能じゃないよ。音読というのもある」
> 「まぁ、そうだけど。”そら”で読みあげるの?」
> 「空に読み上げるんだ」
> 「お話を?」
> 「言葉を集めて紡ぎ、話を」(中略)
> 「思いうかべること、感じたままを、言葉に話す」(「Like
a Little Lyry Girl」岩井市エッジ氏)
若くして文学に持ち上げられ、それゆえ若くして文学に失望した元ベストセラー作家の青年と、文学を志す感情豊かな少女のコントラスト。通常ならば、著者がものを書くのと同時に読者が共感を得ることは、全くありえない話である。しかし岩井市氏は、著者側と読者側の文学のありかたを、同時に、しかも非常にスマートに書いてみせている。
物語で紡がれる少女の言葉は、即興で、決して技巧的ではない。ただとにかく、心の中で脈打つリズムと同じ速さで、空に向かって流れてゆく。
それは、この物語の主人公にとってこの上なくリアルな言葉だ。
おそらく、この物語の読者にとっても。
> __は私の全てであり、だから__という言葉は、私自身という言葉と同義である。(「私のどまんなかを甘く激しく貫いているもの。」潮なつみ)
<独り言>この場において自分の文章を掘り出す行為は、まったく厚顔で無粋なことだが──しかし自分だけ逃れるわけにも行かない。</独り言>
ほとんど同じ意味の全く逆のアプローチとして、私は文章に空白を設けた。
この空白に入るべき言葉は流動的である。どんな言葉でも構わない。それこそ、そのとき思い浮かんだままを、感じたままを、当てはめればそれで良い。それが一人の人間の中を通ってアウトプットされる生の思考だったり生の感情だったりすれば、それが既に文学ではないか、と。(ちなみに、文学を殺す最も確実な方法として私が思い浮かべたのは、反抗期の中学生よろしく能動的に白紙の原稿を提出することであった)。
少し飛躍するようだが、私は、「すべての著作は、すべての著者の生きた証である」と考えたいのである。
>あのオウム真理教の起こした地下鉄サリン事件は、ものすごい事象だった。春樹さんが十数年抱え込んだ問題は、あれ一件に収束する、春樹さんの小説がすべてあの事件にこもってる、てほどすごい事件だったんだ。(「アクアマリン」神田良輔氏)
神田氏はそのことを、自らの物語の登場人物たちに村上春樹という具体的な一人の作家について話し合わせることで、読者に伝えようとしている。
エンターテインメント性をもってテーマを読ませていた一人の作家に、テーマを凌駕するリアルが降りかかる。そしてテーマを見失った彼の最新著作は、ある種の決まりきった枠組み(ストーリーやキャラクター)の羅列でしかなかった。そのことに絶望している、ある読者の生の声である。つまりこの物語は、現実に殺されている文学を、はっきりと挙げている。
読者が本質的に読書に対して欲しているものを、小説家は提供しなければならないのだ。
> 誰もがこういった風景に感応するのは、誰の体内にもそれと同じような風景が存在しているせいなのではないだろうか、と僕は思った。(「埋葬」美咲氏)
美咲氏の言葉は、享受する者の普遍性を訴えている。これが、読者が本質的に何を欲しているか、という問題に通ずる。
例えば、美しいものは美しい。尊いものは尊い。戦争はするべきではない。そういったことに、私たちはある程度のガイドラインを持って生きている。それは何故か。誰かが教えてくれたからか。誰が。先生が、神が。違う。
今生きているその身体が、その脳が、それを認識しているからである。
書くという行為も、読むという行為も、彼らが生きているから成立する。生きている人の、リアルとリアルのぶつかり合いがあるから、人は文章を書いて読んでもらおうとするし、人は他人が書いた文章を読む。現在生きているかどうかは、問題ではない。ひどく古い小説を読んで、私たちは自分の知らない時代を生きた人間の言葉にすら、感応できる。
>よくよく考えてみると、現代の音楽はまさにファッションと同じ。時代ごとに新しいモノが取り入れられ、着々とその姿を変えていく。その一方で昔のものが再起したりで。(「Laughing
Whisky」すてはの氏)
そう、その表現者と享受者が生きている時代が違うというのは、往々にしてあり得る。国や文化や宗教だって違うかもしれない。けれど、私たちには絶対的な共通体験がある。それは、生まれてから死ぬまでの間に「生きている」という事実である。
人々は、どんな境遇にあっても、ただその時間の流れる中で生命を消費する。とにかく、生きている。それが、歴史を作る。だから、歴史は繰り返すと、先人は何度も言う。著者(表現者)はそれを形にし、読者(享受者)はだからこそ、享受しようとする。
共感の仕組みというのは、基本的にはそういった単純なものに過ぎず、すてはの氏はそのことを、より解りやすいレベルに持ってきて描いているのだ。
> 言葉のない領域で、男はすべてを思い返す。
(「切り取られた世界、誰がための寓話」椿野氏)
逆に、生きているという生々しさを押し殺すように、椿野氏は、自殺者が死ぬ瞬間を描く。最後の最後まで人間は生きている限り、言葉のない領域ですら、ものを思うことを、強いて言えば、思ったあとで諦めるところまで、描いている。人間は、死を意識する強さと同じくらい、生を意識する。だから、生々しい。
生きた証、という言葉を私は先ほど使ったが、それではすべての表現がノンフィクションであるべきなのか。勿論、そんなものは愚問である。
実際には、飛び降り自殺を図って死んだ人間のその直前の気持ちを、著者自身が経験できるかというと、それはまったく現実的ではない。経験者の話を聞こうと取材を試みることすら、不可能である。けれど、表現者はそれすらも表現しようとするのである。
> 人形なのに……空っぽの躯なのに……僕は……僕の心は……(「珈琲ブーガルー」遠井未遥氏)
そして、遠井氏が描いたこの物語も同様の生々しさを巧妙に描いている。
この物語、恐らく現実には成立し得ない設定である。けれど、読者はリアルに感じることが出来るだろう。この主人公が感じているやりきれなさを。どうにも言及しがたい、突き動かされるような感情を。
同じ境遇ではなくても、同じようなことを誰もが感じることがある。その為に、文章を書く人間は、まず物語を構築するのだ。そして、読者に主人公と同じ疑似体験をさせるべく、それをリアルに、丁寧に、肉付けしていくのである。
共感できる感情を享受者に伝えるための努力、それをしない人は、表現者ではない。
> 「捨てちゃっても構わないんだけど、困るだろ?」 再び尋ねました。「誰が?」 「鳥が。もし戻ってきたりしたら」 「帰る場所がないんじゃないかって?」 「そうそう」 「戻ってくるとおもう?」 「まさか」(「鏡」飯島辰裕氏)
さて、「文学を殺す」に話を戻そう。
仮に私たちが普段からそういった姿勢で文学に取り組んでいるとして、それを殺すのは容易ではない。なぜなら、それは結局、飯島氏の物語の中で殺された、あくまでも妄想と言われるような種類のものだから。
自分たちが信じていなければ存在する必要もない文学を、それでも私たちは、殺そうとした。それは、他者から見たら、ひどく滑稽に見えるかもしれない。
この物語の中の鳥も、私たちの頭の中での文学も、妄想だからそもそも死んではいない。仮に今、殺すことに成功したような気になったとしても、それはそれで、心のどこかでは鳥が、文学が帰る場所を、きちんと用意してしまうだろう。まさか戻ることはない、と思っても。
> そして文学は二度死ぬ、三度死ぬ、何度も何度も殺されては蘇る。宇宙に行ったり地獄に落とされたり、落ち込むこともあるけれど、文学は元気です。(「僕と文学と校庭で。」麻草カヲル氏)
そう、だから私たちは文学を殺すのである。
蘇ってくれば、また何度だって殺すのである。
麻草氏が書いているその通りで、それでも文学は元気なのだ。そして私たちはいつでも、文学が元気であることを確かめるために、文学と戦う。戦って殺しては、自分のほうが文学よりも勝っている気になって、けれども油断をしていると、気がついたら文学はまた蘇生して目の前に立ちはだかっている。
総評として、私たち18人の勇者は皆、それぞれの方法で果敢に文学を殺しました。だけど、文学は死にませんでした。だから、また機会があったら文学を殺す冒険の旅に出ましょう、皆で。
以上。
尚、各作品の読解につきましては、当然のことながら私の私見のみにて行われているため、特に著者の皆様にとって取り上げられ方が不本意になるのではないかという懸念はあります。そういった苦情を含め、このページの内容に関するご意見ご感想ちょっとした反応等々は、すべて
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