top中~長篇


愛について、今こそ話そう

この作品はLOVE 8 Uの椎名さんと共作した作品をもとに再構築したものです。元ネタはこっち


July 12 凛子

 セックスは、心の中の愛のある場所――凛子にはそれが未だにどこなのかはっきりとはわからないが――の、すぐ隣を突き刺す。セックスの最中に心の軸が少しでもぶれてしまえば、愛は串刺しにされてしまう。
 凛子は地平と体を合わせるたびにそう思う。
 いっそこのまま、串刺しのままにしておいて欲しい。できることなら。

 新宿、立ち飲み、ハツにレバー。
 ショットバーでギネスビール。
 そして雨とほんの少しの夏の匂い。
 とりあえずは雨を理由にはしてみたけれど、たとえ雨が降っていなかったとしても、ふたりは歌舞伎町のラブホテルに立ち寄っていただろう。楽しいと、余りに楽しすぎると、いつも飲みすぎてしまう。酔っ払った男は最低だ。けれど、酔っ払った女はもっと酷い。
 きれいに並べられたペアのスリッパ。
 コロナビールとジーマの瓶。
 口移しのアルコール。
 ゴシック調の床に投げ捨てられたコンドーム。
 薄れゆく意識。
 そして吐き出すことのできない言葉。
 言葉の代わりにトイレで、しかも素っ裸のまま、リアルに吐いてしまうのは女としてどうなのよ――凛子は涙目になって考える。考えたところで、酔いすぎた頭に答えなど浮かぶはずもなかった。ただただ具合悪さと情けなさと悲しさとで混乱し、急激に抜け出すアルコールに体が震え出すばかりだ。
 もういっそこのままここに置き去りにされて、変死体かなにかで発見でもされれば、そのほうがよほど美しいかもしれない。
 そんなくだらないことが凛子の頭をよぎり始めた頃、テレビを観ていた地平がバスルームに現れた。さっきからゲーゲーとおぞましい音を立てる凛子を、見るに見かねたのかもしれない。地平は便器にもたれかかった凛子の体を軽々と持ち上げた。「なにするの?」と訊く間さえなかった。
「あ、悪い。手が滑った」
 地平は、熱い湯がたっぷりと張られたバスタブの中に凛子を投げ入れる。
 波のように大きな水しぶきをあげてバスタブに投下された凛子は、一旦頭まで湯に浸かってしまった。慌てて体を引き起こし、ずぶ濡れのまま目を大きく開くと、イタズラ好きの地平は小慣れた表情で笑っている。
「あのままじゃ死んじゃうだろ。それに早くアルコール抜いてスッキリしないと、終電なくすよ。優兄ぃ、家で待ってんだろ?」
 心配そうな言葉とは裏腹に、地平は凛子の体の隙間を緩やかに押しのけるようにして、バスタブの中へ入ってくる。既にいっぱいまで張られていた湯が、大量に溢れ出てしまった。凛子は表面張力という言葉を思い出した。私たちの関係も、このお湯みたいなものかもしれない。強すぎる衝動のせいで、働くべき力が届かない。
 地平の腰に、凛子の足が触れた。地平の肌は男にしてはとてもきめ細かく、水の中ではさらに吸い付いてくるような質感になる。酔い潰れた頭でも、地平のそういうところだけは、はっきりと認識できた。でも、だからどうするわけでもない。
 凛子は思い直した。私ひとりの感情について言えば、このお湯よりほんの少しだけ立派だ。ギリギリの線まで来ても、絶対に溢れ出さないようにできている。
「凛子さんがこんなに酔っ払うなんて、珍しいね。なんかあったの?」
 地平が訊いた。滑らかで硬い足の甲を、凛子の股間に押し当てながら。
「別に......なにもないわ」
 地平は凛子より七つも年下で、肌が白くきれいだ。柔らかに見えるその皮膚の裏側は、しっかりした筋肉で構成されている。背も高く、女性としては決して小柄ではない凛子を、後ろから上から楽々と抱きしめられる。だから凛子を抱く地平は、いつも柔らかく、そして硬い。ヤンチャで、酔っ払うとスケベで、そのくせどんなときも凛子より何倍も冷静で、凛子のどこが弱いかをほぼ知り尽くしている狡い男。
「ちょっと。その足、やめて」
 凛子が訴えると、地平はいつもの意地悪そうな顔で、足をちょっとずらして今度は凛子の尻を挟み込んだ。イジワルだけれど、意地が悪いわけではない。そのラインが、凛子にはたまらなかった。肌が触れているとき、凛子はなによりも安心する。そのことをよく知っている地平は、ふたりきりでいるとき、なるべく凛子から肌を離すことはしない。ただ触れているだけではない。地平が触れている場所はいつも、まるで凛子のなにかを探るように動いていた。柔らかに、そして、ときに淫靡に。
 指、掌、唇、足、肌。
 その動きがほんの少しでも止まると、凛子は隣にいるはずの、触れているはずの地平を探し出す。
 ゆりかごは、揺れ続けていないと存在価値がないのだ。

「先に上がってるよ」
 地平は凛子を揺らすだけ揺らすと、気が済んだように凛子を放り出す。地平がバスタブから上がった瞬間、凛子の体を包んでいた湯は、一瞬にして姿を消してしまった。あんなに、溢れ出るほどあったはずなのに。
 容器の大きさは、常に固定されている。そこに入れることができる物の数も、その周りを満たすべき物の量も決まっている。私という人間は、いったいどんな入れ物の中にいるべきなんだろう。凛子は上半身を寒々とさせたまま、そんなことを考えた。
 ガラス越しに、体を拭く地平の影が見える。凛子は、バスルームの天井を見上げる。バスルームは無駄と言えるほど凝った装飾がされているのに、天井はただ白いだけで、あまりにもシンプルだった。無数の水滴が、今日の空には見えない星のように無数に散りばめられている。地平の少々乱暴な介抱のおかげか酔いは大分醒め、凛子はようやくバスタブから這い出ることができた。
「背中、拭き忘れてないかな」
 鏡の中の自分を入念にチェックしながら水滴をバスタオルに染み込ませ、凛子は今日とか明日のこと、地平のこと、そして優太のことを考える。でも、背中なんか拭き忘れたって、どうということはなかった。どうせ今日の天気では、帰り道でまた濡れてしまうだろう。それに、優太はもう寝ているはずだ。私が濡れて帰ろうが、酔って帰ろうが、いつだって無関心なのだから――凛子はまた絶望的な気分になった。
 無関心。残酷すぎる言葉だ。
 恋人や配偶者と呼ばれる人々、つまり少なくとも一度は好きになったであろう人間に対して、嫌悪や憎悪という感情を抱くならまだ理解できる。けれど、無関心というのは凛子には信じがたい感情だった。
「凛子さんはイエスとノー、オンとオフででき上がってる女だもんね」
 余りにもはっきり物を言いすぎる凛子のことを、地平はよく茶化す。けれど、凛子は本当に思うのだ。無関心でいられるくらいなら、むしろ嫌いと言って欲しい。ダメだと詰って欲しい。出て行けと怒鳴って欲しい。そんな言葉がひとつもないまま、無関心という希薄な空気が張り詰めた空間で生活するのは、凛子にとって地獄だった。寝て、起きて、仕事に行って、帰って、夕食を食べて、寝る。家でも外でも、事務的な言葉を並べるばかりの毎日が繰り返される。
 それと比べて地平は――彼が凛子との関係をどう思っているかは別として、少なくとも凛子にとっては今のところ、呼吸のできる唯一の場所を与えてくれる人のように思えた。夫の実弟とこういう関係を持つことは、一般的に許されることではないとしても。
 地平の香水が残るバスルームは、凛子にとって、とりあえずは心地の良いものだった。その温かさで、吐き出すことのできなかった言葉が体の外に溶け出して、ほんの少しだけ楽になる。そのくらいで充分だ。どうせ思いきり吐き出したところで、きっと状況はなにも変わらない。もしかしたら少しだけセックスが気持ち良くなるかもしれないけれど、効果は一瞬だ。
 凛子も、たぶん地平も、「その言葉」の存在を知りながら、なるべく考えないようにしている。忘れた振りをすることが、きっと共犯なのだろう。

「そろそろ行こうぜ」
 すっかり着替えてしまった地平がバスルームに涼しげな顔を覗かせた。そのあっけらかんとした様子に、凛子はほんの少しだけ殺意を抱きそうになる。
 まだ一緒にいたいという言葉を、彼の口からは一度も聞いたことがない。ふたりでいるときだけ気持ちの良い呼吸ができるなどと感じているのは、自分だけなのかもしれない。
 でも、凛子はわがままなんて言わない。どうせこのままグダグダしていても、地平はもう構ってくれないだろう。凛子にしてみれば、地平のほうがよほどオンとオフのはっきりした男だった。
 ――とりあえず、帰らなきゃ。終電に乗り遅れるわけにはいかない。だって私には、待つ人がいるのだから。


August 6 優太

 俺はこんなところで、いったいなにをやっているのだろう。
 漫然と目の前のビールグラスを傾けながら、優太は心中でそんなことを考えていた。
「ねーねーねーねー」
 目の前の少女が、携帯電話のボタンをたいした速さでピポピポ押しながら、誰にともなく言う。なにを見ているわけでもない視線や、下唇が閉まらない(締まらない、ではなく、閉まらない、である)感じのだらしない口元は、セクシーさではなく単に幼さを象徴しているようだった。
 誰にともなく、とは言っても、この密室には少女のほかにひとりしかいない。自分が相槌を求められているのだろうと考えた優太は、小さく「うん?」とだけ応える。
「あのさあ。メールでさ、怒ったときは怒った顔の絵文字とか使うでしょ? 慌ててるときは汗かいてる顔だったりさ。あと、ほら。悲しいときとかは泣き顔とか。そーゆうの、使うじゃん?」
 唐突になんの話だ。戸惑いながらも、優太は表情を変えずに、とりあえず「うん」と頷いておく。同意ではなくただの合いの手だ。
「でさ、ね。アイシテルとかさ、スキとかさ。そういうときは、もう絶対、コレ、使うじゃん?」
 言いながら、少女は携帯電話のディスプレイに表示されたメールの、末尾に付けられたピンク色のハートマークを見せる。メールの内容までは読む暇を与えない程度の、絶妙な一瞬だった。
「そうだね」
 一応は肯定したものの、やはり同意するほどの意図は特にない。優太は愛しているはずの妻にそんなマークを付けたメールなど、一度だって送ったことはなかった。もっとも、三十代も半ばになった男が携帯メールにチマチマと絵文字を散らすなど、気持ち悪いことこの上ない。ましてや、ハートマークなど言語道断ではないだろうか。
 しかしこの少女には、三十男の思惑など到底伝わるはずがなかった。彼女はただただ肯定の言葉を受けて、
「へーえ。オジサンもメールにハートとかつけちゃったり、するんだー?」
 などと、ニヤニヤしながら聞いてくる。
「大人をからかうんじゃないよ」
 優太は羽毛のクッションのように、やわらかく、会話の温度を変えることもなく、少女の冷やかしをふいっと受け止めながら、心の中だけでひっそり苦笑した。
 オジサン......か。
 苦笑を顔に出さないのも、大人の余裕がなせる技だ。しかし優太は同時に、実際自分がどれほど大人なのだろうか、とも思う。
 確かに、目の前にいる少女と比べれば、少なくとも倍くらいは生きているだろう。それに、優太はまだ少女に自分の名前さえ名乗っていない。せいぜい十六、七くらいにしか見えない少女が、自分の倍ほどの年齢の、名も知れぬ男に呼びかけているのだ。状況から考えて、『オジサン』は最も妥当な二人称であると言えるだろう。
 名前を言わないのは優太の意志ではない。少女が聞いてこないから、言う機会がなかっただけだ。一緒に時間を過ごしながらも、目の前の男に関する情報などまったく必要としない様子の少女にしてみれば、名前を知ったところで「オジサン」は「オジサン」に変わりないのかもしれない。
 優太のほうも、この少女について、名前も年齢もわからない。なにを考え、なにに喜ぶのか、いったいどんなことに悩み苦しんで、このようなことになったのか――優太は今、目の前で自分に話しかけてくる少女の無邪気さに首を傾げる。

 ふたりは、つい一時間ほど前に出会ったばかりだった。
 優太は数時間の残業をこなして帰宅する途中だった。混雑した渋谷駅のホームを、ふらふらと蛇行しながら歩いてくる少女の姿が目に入った。夏の終わりで、なにもかもにうんざりするような湿度の夜だ。
「危なっかしい子がいるな」
 優太は警戒し、あの少女には関わるまいと考えた。無関心は、彼にとって唯一振りかざすことのできる武器なのだ。
 無関心。妻がまた自分が寝静まった頃に帰ったとしても。あるいは、酒の匂いや、性的な体臭を漂わせていたとしても。それどころか、明らかに他の男の影をちらつかせているとしても。優太は妻に対して、なにもしないことに決めている。人の心など、非を責め立てたり、無理やり方向を修正しようと働きかけることでは、決して変わらない。自分の力では、どうすることもできないのだ。それが、彼なりの答えだった。
 電車が近づいてくる。少女はいつのまにか、優太の目の前まで歩いてきていた。
「あっ」
 一瞬の動きを見て、優太は少女の手首を掴んだ。
 今まさに線路に飛び込もうとしていた少女の力は強く、優太はあわや引っ張られそうになった。しかし、いくら向こうが捨て身の覚悟といっても、やせ細った少女と比べれば、大人の男の力のほうがかろうじて強い。優太は小さく三歩ほど前につんのめって、少女を胸の中に引き寄せた。
 電車は何事もなくホームに滑り込んで、ドアを開く。少女は優太の胸に抱きしめられながら、眉をしかめた。
「なんで止めたりすんの?」
 吠えるのが趣味の小型犬のような声だった。けれど、手のひらの中にしっかりと捕まえた細い手首は、小さく震えている。
 早まるんじゃない、とか、生きてりゃいいこともあるさ、とか、陳腐な台詞がいくつか優太の頭をよぎった。けれど、そんなことを言っても意味はない。優太には、この少女の破滅願望を拭い去るという大仕事を引き受けるようなつもりは、全くないのだ。なので、ただ感じたままを、率直に伝えた。
「邪魔して悪かったね。でも、とてもじゃないけど、今日は俺、飛び込み自殺の現場を目の前で見る気分じゃなかったんだ」
 少女は暫しきょとんとした顔で優太を見つめ、何秒かの後に、ようやく言葉の意味を理解したのか、笑った。
「フツー、止めない? 早まるんじゃない! とか言ってさ」
「止める義理なんてないよ。生きようが死のうが、それはキミの自由だろ。でも、俺の目の前で電車に飛び込んで、血や肉片をそこらじゅうに飛び散らせて、一生忘れられないような地獄絵図を俺の脳みそに焼き付けるほどの自由は、キミにはないはずだ。明日にでも違う駅でやってくれると、助かるよ」
 少女はいよいよ我慢できないといった感じでげらげらと笑いながら優太の話を聞き、そして、言った。
「わかった。じゃーさ、明日になるまで、えっと......あと二時間半ぐらいだね。それまででいいから、ちょっとだけ、あたしに付き合ってくんない?」
 面倒くさいことになった、と優太は思った。
 でも、どうせ今日も妻はどこかで飲んでいて、まだ帰っていないに決まっている。十二時までという約束ならば、帰りの終電にも一応は間に合うはずだ。暇つぶしくらい、してみてもいいか。そんなつもりで、優太はその誘いを承諾したのだった。

 優太が連れてこられたのは、カラオケボックスの一室だった。狭くて薄暗く、煙草臭くて小汚い部屋だったが、少女はここへ来てようやく寛いだような顔をした。
 カラオケに来たところで、歌など歌う雰囲気ではなかった。人をこんなところに連れ込んだにも関わらず、少女はなにか話しかけてくるわけでも、悩みを相談してくるわけでもない。ただ、ひとりでなにやら携帯電話を弄ぶばかりだった。
 優太は仕方なく、自分のために生ビールを頼んだ。ずいぶん待たされてから運ばれてきたビールは、うっすらとしか泡がなかった。全くまろやかさがなく、ただただ安っぽいその味には辟易したが、手持ち無沙汰を解消するくらいの役には立つだろう。
「つーか、オジサン!」
 ぼんやりとビールを口に運ぶだけだった優太の脳内に切り込むように、少女が言う。
「え?」
「話、ちゃんと聞いてた?」
「あ? えーと、だから、携帯の絵文字の話だろ?」
 一応は答えるものの、優太にとってはそんなもの、全く興味のない話題だ。
「そう、だからね。好きだったら、ハート。怒ったときは、怒りマーク? とかね、あるけどさ。寂しいときって、どんなマークが一番合ってると思う?」
「寂しいとき......? やっぱ、あれじゃないの。泣いてる顔とか」
 それを聞いた瞬間、少女は大げさにため息をついて落胆して見せ、そして続けた。
「だから大人の発想は貧困って言われるんだよ。泣き顔をメールにくっつけたぐらいで、寂しさをわかってもらえるんだったらさ、そんなの全然寂しくないじゃん。誰ともわかり合えないから、人は寂しいんじゃん」
「なるほど」
 そう答えてみたものの、優太にはやはり不可解だった。
「――でも、それだったら君の質問自体、おかしいじゃないか。だって、寂しい気持ちをわかり合えないって思いながら、寂しい気持ちをメールで送るの? そんなの、どんなマークをつけたって、結局は相手に伝わらないんじゃないか」
 少女は「そーゆー問題じゃなくてえ」などとぼそぼそ言いながら、手のひらを男に差し出す。
「なに?」
「オジサンの携帯、ちょっと貸して」
「なんで」
「メルアド交換」
 拒絶する隙もない少女の勢いに負け、優太はポケットから携帯電話を出した。少女はそれを奪うように手にして、勝手にボタンを素早く押していく。この子はいったいどういうつもりなのだろう。言葉を失ったままの優太に、少女が訊いた。
「オジサン、名前は?」
 なんだかますます面倒くさいことになったような気がする。優太は質問に答えず、逆に質問で返した。
「明日、死ぬんじゃないの? 俺の名前なんて、知る必要ないんじゃない?」
 少女は少し顔を歪ませ、けれど笑った。
「おもしろいオジサンに会えたから、死ぬのはちょっと延期することにしたの。で? 名前は?」
「......ノジマ」
「そーゆーときってフツー、下の名前、言わない?」
「普通って、なんだよ。自分の常識が他人にも通用すると思ったら大間違いだぞ」
「いーから。下の名前は?」
「......ユータ」
 勢いに押されてしまった。優太の答えを聞くや否や、少女は今度は自分の携帯を手に取って、また指が絡みそうな速さでボタンを押し、なにか操作をしだす。
 まもなく優太の携帯が鳴った。開くと、メールが届いている。
「私はマナ」
 それだけ書かれたメールだった。
「じゃ、そーゆーことで。またね」
 少女――マナは、なにかを成し遂げたような清々した顔をしてそれだけ告げると、なぜかひとりでさっさと部屋を出て行ってしまった。
 ああ、本当になんだか、面倒くさいことになったぞ、と優太は思う。しかし、なぜだか得意の無関心は発動しないようだった。じっとしていられないような、妙な衝動に突き動かされる感じが、腹の底から湧いてくるような気がする。
 優太はひとり残されたカラオケボックスの一室で、三曲ほど歌ってから帰った。
 考えてみれば、初めから終わりまで、なにもかもおかしな夜だ。そう思いながらも、どこか突き抜けて、とても愉快な気分だった。


September 7 マナ

 あーあ、来るんじゃなかった。
 そんなことを思いながら、マナは目の前のグラスを傾けた。皆に合わせて頼んだ抹茶ミルクという変なカクテルも、アルコールが入っているのかいないのか、ただ甘いばかりで食事に合わない。
 マナにとって、実は初めての合コンである。どこだったかで知り合い、なんとなく連絡先を教え合って、気付いたらつるむようになったチナツ――マナにはそういった友人が多い。というか、今はそういった友人しかいないのだが――から突然の誘いを受けて、行くことになった。
「相手はみんなリーマンだから、全額オゴリだよーん。これはもう行くしかないっしょ」
 そんな誘い文句だったが、あまり気は進まなかった。マナにとってはオゴリなんて、なんの効力もない言葉なのだ。ひけらかすようだし、たかられても困ると思って、チナツをはじめ遊び友達にはいちいち説明しないが、マナは小遣いなら周りの子よりも、たぶん持っている。
 だから奢ってもらうことにはなんのありがたみも感じなかったが、それでもマナは誘いに乗った。つまらない合コンでも、独りでとる食事よりは遙かにましだろうと思ったのだ。
 けれど、どうやらそれは判断ミスだったようだ。
 どう見てもいい大人と言える年代の男たちと、まだ少女にしか見えない年代の女たちがテーブルを囲んでいる。漂う空気がなんだか気持ち悪い、とマナは思った。
 店も気に入らない。創作料理などと書かれているが、単に安っぽい、変なメニューばかりが並んでいる。味のわからない子供はこの程度の店に連れていけば満足だろうと男たちが思っているのだとしたら、腹立たしかった。しかも、こんな変な店の中でさえ、マナたちのテーブルは若干浮いていた。店員が怪訝そうな顔をしながら飲み物や食べ物を運んでくる。文句あるなら言えよ、と言いたくなる。とにかく、なにもかもが不協和音のようだった。
 男の側は皆、二十代半ばといったところだろうか。とりわけ幹事は、若い女の子ならなんでもいいというメッセージが全身の毛穴から発せられているような男だった。マナはなんとかその男から一番遠い席を確保したが、目の前に座ったシンジという男も、相当感じが悪い。
「あ。コイツ、本当はラブラブな彼女がいるんだよ。口説かれても信じちゃだめだよ」
 男性陣のひとりが彼のことをそう紹介したことも、それを受けて「あっ、おまえ、そういうことバラすなよ!」などと言ってニヤついているシンジの顔も、マナの癇に障った。
 バラすなよ、だって。バレたらどうなるの? バレなければどうするつもりなの? たった十六年しか生きていないマナにだって、その答えはわかりきっていた。
 軽蔑の思いでマナがニヤついた顔の男を見ていると、男はなにか勘違いしたのだろう。やたらマナに話しかけてきた。
「ねえねえ、今の女の子ってどんなの流行ってるの?」
 まるで親戚の子供の機嫌でもとるような、かといってどこかに期待を含んだ邪な笑顔。さすがのマナも「うざっ」とつぶやいて、小さく溜め息をついた。が、それはあくまでも心の中の話だ。てめえは十六歳のとき、そんなに子供扱いされるほどガキだったのかよ、などとは思っても決して口に出さない。子供だって、そのくらいの礼儀はわきまえているのだ。だから、ただ「えー」などと曖昧に首を傾げて、ニッコリ笑ってみせておく。チナツたちの体面を保つためだけの努力だった。
 それにしても、合コンとはなんとつまらないものなのだろう。これから一時間か二時間くらい、延々とこんなくだらないやりとりをし続けなければならないのだろうか。気が遠くなる。
 そうだ。初めから、相手には入り込めそうにない話を一方的に語ればいいのだ。こっちの持てるものは若さしかない。若さとは、勢いのことだ。
「あ。そういえばねー、流行ってるとかじゃないんだけど、今、私の中でちょっとアツいことがあるんだ」
「へえ、なになに?」
「こないだ私、ちょっと自殺しよーとか思ったんだけど」
「はは、『ちょっと自殺』って。軽いなー」
「そうそう。ちょっとコンビニ行ってきまーす、みたいなノリで」
 マナは軽妙に語り始めた。
 線路に飛び込もうと決意したこと。
    実行の直前に、ある男から助けられたこと。
    それ以来、男との不思議な関係が始まったこと。
    自分はその男から愛されているような気がすること。
    毎日のように男からメールが来ること。
    男は自分をとても心配してくれていて、それは自分にとっては「ちょいウザ」なのだが、カワイソーだから毎日返信をしてあげること。
 はっきり言って、かなりの脚色が加わっている――というか、最初から最後まで嘘だ。あの日のマナには自殺するほどの勇気はなかったし、あの男は別にマナを助ようと思ったのではなく、死体を見たくなかっただけだと言った。それに、せっかくメールアドレスを教えたのに、向こうからはさっぱりメールが送られてこなかった。
 しびれを切らしていくつものメールを送ったマナに、優太からようやく初めての返信が届いたのは、つい三日ほど前のことだ。
 そのメールには、もちろん心配の言葉もハートマークも見つからなかった。というよりも、解読不可能なものだった。なにかを書いている途中で間違えて送ってしまったのか、それとも文字化けしてしまったのだろうか。
    でも、こんな事実をありのままシンジに話したところで、ただの世間話にしかならない。だから、その男から自分は愛されているのだとマナはけらけらと笑いながら話を作った。これ以上誰かが自分の心に入ってこないようにするための予防線みたいなものだ。
 しかしシンジという男も、なかなか動じなかった。完全にマナを子供だと見下しているせいで、マナの話すことはすべて違う世界の物語のように聞こえるのかもしれない。
「あはは、それって援交ってやつだ?」
 もしかしたらシンジも心の中でかなり呆れているのかもしれないが、女子高生と中年男性というだけですぐ援交を連想するその思考回路の単純さに、呆れているのはマナのほうだった。それでも、笑いながら合いの手を入れられたりすると、嘘をついている後ろめたさからか、思わずマナはシンジに向かってにっこりと笑いかけてしまった。
 瞬間、マナの携帯が鳴った。見ると、メール受信の青いランプが、チラチラと点滅している。
「あっ。もしかしてそれ、例の男から?」
 茶化すシンジを軽くあしらいながら、マナは受信したメールを開く。父親からのメッセージが表示された。
 マナは思い出したくないことを思い出して落胆しかけた。が、はっと気を取り直す。いつものマナにとっては忌々しいメールだが、今に限っては、ここから逃げ出すための小道具として使える。
「あ、うん......。カレ、今から会えないかな、だって......」
 戸惑ったように、でもやんわりと微笑みながら、迷いを演出する。それから十五秒ほど悩んだ振りをするも、マナはすぐに財布から五千円札を引っ張り出してテーブルに置くと、立ち上がった。
「みんなごめん。あたし、先帰るね」
「えー、帰っちゃうの?」
 テーブルの向こうのほうで、気持ち悪い幹事が残念そうに、でもどうでもよさそうに、ヘラヘラと笑いながらマナに声をかける。
「いいよ、お金なんて置いていかなくても」
 その言葉は無視したまま、マナはさっさとテーブルを離れようとした。すかさず、シンジが言う。
「さすが援交。金持ってるね」
 マナはもう一度、とびきりの笑顔を満面に浮かべてから、「死ね」と、今度は小さくだが確実に声に出してつぶやいて、そのまま店を後にした。

 さて、大法螺を吹いて勢いよく店を出るまでは良かったが、問題はその後だった。
 マナの足取りは、重い。
 父親からのメールは、家に帰ってこいというだけの内容だった。ごく普通の家庭の父親が、ごく普通の娘に送るメールとしては、なんの問題もないかもしれない。
 けれど、マナは今、父親の顔を見る気がしなかった。だからいつも、適当な友人を見つけては、家に泊めてもらったり、一緒に朝まで遊んだりして時間を潰しているのだ。それなのに、今日は友人たちの輪から自ら抜け出してきてしまった。今からほかの友人を探すのも、気分ではない。
 どうしよう。
 行くあてもなく、結局マナはなんとなく渋谷駅の山手線ホームまでたどり着いた。電車に乗る気はなく、ただしばらくそこで今後のことを考えようと思ったのだ。
 駅は嫌いじゃない。電車が人を吸い込んで、新宿方面へと走り出す。すると、その直後からもう人が集まって、ごったがえす。まるでししおどしだ。延々とそんなことが繰り返すだけの様子を見ていると、マナの気分は紛れた。砂糖のかけらを運んで巣に帰る蟻でも見ているようで、飽きない。
 みんな、どこから来るの。どこへ帰るの。なにをしてきたの。これから、なにをするの。楽しいの。悲しいの。
 そんなことを思いながら、虫のように湧いてくる人々の群れを眺めていたマナの目に、ふと見覚えのある背中が飛び込んできた。
「あ」
 少しくたびれたワイシャツ。
 力のない猫背。
 誰のことも寄せ付けない強さのある背中。
 あわてて追いかけて、マナは少し汗ばんだその袖を、くっと引っ張った。
「ユータさんだ」
 ゆっくりと、優太が振り返った。
「あれ、また会ったね」
 再会したことに対して特に感慨もなさそうな、かといって別段嫌というわけでもなさそうな、中途半端な態度だった。しかし、なぜかそれがマナには嬉しい。
「うそー。こんな場所で会えるなんて、すごい偶然じゃん。運命の人かと思っちゃうよ」
 先ほど少しアルコールを入れたせいだろうか、いつになくテンションが上がっている自分を、マナは少し恥ずかしく思った。しかし優太にとってはそんなこと、まったくどうでもいいことらしい。
「なに言ってんだよ。キミ、運命の恋人なんて信じるタイプじゃないだろ」
「あはは、バレてるー? でもさ、でもさ、この広い東京で、また偶然会えたんだよ」
「偶然もなにも、ここ俺の通勤ルートだよ。この前も今日も、普通に仕事の帰りだし」
 優太はやはり、つれなかった。マナになど、なんの興味もないのだろう。けれど、合コン相手たちのように、若い女だったら誰でも好きだというような態度は、しない。子守りでもするようなジェネレーションギャップを感じる話し方も、しない。優太の態度は、マナを男でも女でも大人でも子供でもない、ひとりの人間として扱ってくれているような、妙な公平さがある。今のマナにとって、それはなによりも自分の確かさを感じられる、最高の扱いだった。
「暇? またカラオケ行こうよ」
「断る。今日は疲れてるんだ。それに、キミも今日は自殺しそうにないし。行く理由がないよ」
「えー、つまんなーい。ユータさん、冷たいよね。メールもくれないしさ」
 掴んだままの袖を振り回しながら、マナは言う。これではまるで駄々っ子だ。シンジに子供扱いされたのも怒れない。
 でも、優太はやはり子供をあやすような真似なんてしなかった。ただ、マナの言葉に対し、心外だとでも言いたそうな顔で答えただけだ。
「送ったぞ、メール。一通だけだけど」
 そう言われて、マナは解読できなかったメールの存在を思い出す。
「ああ......まあ、確かに来たけどさ」
「あれ、結構真剣に考えたんだよ。なかなか難しい質問だったな」
「はぁ?」
 話が全くかみ合っていなかった。苛立ちを隠す余裕もなく、マナは自分の携帯を出して、ユータから届いたたった一通のメールを開いて見せた。
「なに言ってんの? こんなメールじゃ全然意味わかんなかったよ。もしかしてこれ、文字化けでもしてる?」
 マナがそう言うのも、無理はなかった。画面に表示されているユータからのメールは、タイトルなし。そして本文は、「・」の一文字だけだ。中黒などと呼ばれる、とてもシンプルな記号がひとつだけ。
 内容を認めると、ユータはなんの問題もなさそうな顔でうなずいた。
「いや、文字化けはしてないよ。それが送ったまんまのメールだ」
「なんなのこれ。日本語にすらなってないじゃん。こんなメールもらっても、全然意味わかんないんですけど」
「わかんないの?」
 呆れたように、優太が言う。呆れながらも、ほんの少しだけ、遊び心のようなものを目尻に滲ませて。
 冷たいようで優しい。
    大人なようで子供っぽい。
    男らしくはないけれど女々しくもない。
    そんな優太の表情を見ているうちに、ふっと、「・」がジグソーパズルの最後のピースのようになって、マナの記憶の穴にぴたりと嵌った。
「あ、わかった!」
「そうか、良かったな。じゃあ、そういうことで」
「ちょっと......答え合わせとか、しなくていいの?」
「だって、わかったんだろ」
 きっぱりと大きく頷いて、マナは言った。
「『寂しい』のマーク、でしょ」
「正解。答え合わせ、終了」
 優太は満足そうにうなずいて、笑った。それは、マナに初めて見せた、笑顔らしい笑顔だった。だからといって、それ以上会話を続ける気もないらしい。優太はちょうどホームに滑り込んできた電車に、乗り込もうとして歩き出す。
 引き止めたい、とマナは思った。
 けれど、その毅然とした背中がちっともマナを受け付けていないことはよくわかった。どんな手段で止めたって、きっと今日は帰ってしまうだろう。そう思うほど、閉じた背中だった。
 でもせめて、これだけは言いたい。
「ねえ、また会える?」
 マナは叫んだ。
 優太は、ほんの数秒足を止めて、首をかしげる。そして、マナの質問に対する答えは言わず、それどころかマナを振り返ることすらしないまま、ただ、マナに手を振った。
 それは拒絶ではないと、マナにはわかった。背中が、微笑んでいたからだ。
 優太を乗せた電車を見送ったあと、マナはもう一度、彼から届いた一通の、そしてたった一文字だけのメールを「読」んでみる。
「・」
 それは、とても孤高で、とても閉じていた。空間の中にある、唯一の存在。そこには誰も寄り添うことができない。
 マナにとってそれは、衝撃だった。
 自分の寂しさをうまく言い当てられたような。優太の抱える寂しさの大きさを知ってしまったような。
 あの人、とんでもない発見をしてくれた。
 衝動が、胃の奥のほうからうずうずと湧いてくるような気がした。今すぐ号泣したい、でなければ、爆笑でもしたい。どちらでも良かった。中身が問題なのではなく、その激しさに意味があった。
 ただ固まったように、マナはその点を見つめ続けることしかできなかった。


September 14 地平

 ――え? キミのことが好きかって? 急になに言い出すのよ。そりゃ好きよ。私、嫌いな男と寝るほど暇じゃないもの。
 ――ふざけてなんかいないわ。キミだってそうでしょ?
 ――違う? それ、どういう意味?
 ――あはは、そんなこと言われたって、困るわ。ねえ、何回かセックスしたぐらいで、いったい私のなにが分かるっていうの?
 ――愛してるって、ねえ......それってセックスを盛り上げるための呪文でしかないのよ。
 ――泣かないでよ、男でしょ。愛とか結婚とか、まだお金もない学生のキミをどうやって信じてついていけっていうの?
 ――幸せにする? 必要ないわよ。私は今でも充分幸せだもの。キミの愛は、いつか出会う素敵な人のためにとっておきなさい。

「ねえ、野島くん。野島くん、起きてよ」
 由利が、汗まみれになってうなされている地平の体をゆすって起こした。真っ直ぐでサラサラの髪を揺らしながら。
「......ん、どうした?」
「どうしたって、野島くん、凄いうなされてたよ。大丈夫? ひどい汗」
 地平は起き上がり、自分の体を確認した。確かに汗まみれだった。重い頭を持ち上げてあたりを見回して、ようやくここが由利の部屋であることを思い出す。
 エアコンは程よく効いていた。小ぢんまりとしたワンルームには似つかわしくない真っ赤な皮のソファに、ジーンズが二本脱ぎ捨てられている。地平のものと、由利のものだ。Lサイズのピザを一枚乗せてしまえば一杯になりそうなテーブルの上には、ビールの空き缶が数本。
 昨日は熱帯夜だった。咽返るような暑さの中、地平は会社の同僚と吉祥寺で飲み歩き、それから中野にある由利の部屋にタクシーで深夜に乗りつけたのだった。
「なんか飲み物ある? 水でもいい」
「うん」
 由利は小さな冷蔵庫からスポーツドリンクのペットボトルを出してきた。
「悪い夢でも見てたの?」
 地平は思い出す。確かに見ていた。嫌な夢だ。七年前、確かに自分を苦しめた現実の出来事が再現されていた。人に語る価値などない、思い出すべきでもない内容だ。地平は先ほどの夢を頭の隅に追いやって、涼しい顔をした。
「別に。それより今何時?」
「三時半。もちろん午後の」
「ずいぶん寝たな」
 由利はなにも身に着けていなかった自分に急に気がついたのか、喋りながらベッドの脇に捨ててあったTシャツを拾って、さりげなく細い首を通す。
「ねえ」
 地平が首も動かさず話しかけると、由利は背後で姿を見せないまま答える。
「ん?」
「昨日......っていうか今日、俺、由利になにかした?」
「なにか、って」
 由利は笑った。そんな野暮なことを訊くなという意味だろう。状況から考えれば、なにをしたかは明らかだった。
 地平が酔いにまかせて深夜に由利の部屋を訪れるのは、今に始まったことではない。そのたびに、由利は地平に抱かれていた。恋人としての関係が二年も前に終わっている男に体を許し続けている由利が、今さらそのことを責めたりするはずもない。
「覚えてないなら、いいんじゃない?」
 ベッドの足元で潰れていたトランクスを穿きながら、地平は笑った。
「そう? 丸っきり覚えてないんだ。あはは、久々に飲みすぎたな」
 乾いた笑い声が、由利の表情を曇らせる。地平はときに体のすべてを使って彼女を喜ばせるような行為をしながら、なにか鉄条網のようなでもので関係を縛っているのかもしれない。しかも、それを最後まで締め付けて由利を殺すこともないし、由利自身を、或いは由利のなにかをそのままどこかへ持ち去ることもしない。ただ縛り、その場に固定するだけだ。
「うなされてるとき、俺、なんか言った?」
「別に。ただ苦しそうにしてただけ」
 由利はそう答えながら、ビールの空き缶を片付けている。生活とセックス、堕落と几帳面が同居しているところがいい、と地平は思った。凛子のように、とことんみっともない姿を見せたかと思えば、次の日には手のひらを返すように理知的で冷静になる女とは大違いだ。
「なんか食べる?」
「いや。これから真治と会うんだ」
「ああ、飯島くんね。あの人、確か出版関係に就職したよね。元気なの?」
「元気だよ。でも、悩みがあるとかって連絡してきたから、今は元気じゃないかもしれない。ま、とりあえず飯でも食って励ましてくるわ。なあ、俺、汗臭くない?」
 今にも「行かないで」とでも言い出しそうな由利の顔をまっすぐに見られず、地平はおどけた顔をして見せた。これから遠足にでも出かける子供のような素振りでもしないと、笑顔を作るのは難しいのだ。
 おまけに、昨夜ここまで来たときのタクシー代のせいで、地平の財布はほとんど空だった。地平はやはり子供のように、そのことを素直に言った。
「いいよ、貸したげる」
 これほどまでに従順な由利に対して、地平だってなにも思わないわけではなかった。騙しているつもりもないし、愛情だって、ないわけではない。
「それより、今度はいつ来る? っていうか、いつ逢える?」
 財布から一万円札を二枚出すのはなんの惜しげもないくせに、自分に対してはこんなふうに名残を惜しむ由利に対して、地平はどんな表情も見せにくい。
「連絡するよ。ありがとう」
 背を向けてそれだけ告げると、地平はさっさとドアの向こうへと逃げ出した。悪いとは思う。でも、期待に応えてやることができないとき、「ごめん」ではなく「ありがとう」と言うことに決めているのだ。
 それが、地平から由利に贈ることのできる、せめてもの愛情だった。

「で、話ってなんだよ?」
 週末の下北沢は、連日の暑さにもかかわらず学生でごった返している。半年振りに会う地平と真治は、下北沢の駅近くの大衆居酒屋に入って酎ハイを飲み始めていた。
「俺の話は後でゆっくり話すけど、地平はどうなんだよ。アニキの奥さんとまだ続いてんの?」
「どうでもいいだろ。話があるっていうから来たんだから、真治の話が先だよ」
「あはは、そうだよな」
 地平と真治は大学時代のサークル仲間だ。サークルといっても活動内容が特にはっきり決まっていたわけではなく、気の合う人間が集まって飲んだり旅行に行ったりする程度の団体だ。つまり学生時代からつるんで遊び歩いた仲と言ったほうが早い。良い遊びも悪い遊びも一緒にしてきたから、これまでに誰と付き合ってどう別れたか、互いに全て知り尽くしている。
「まあ、別に悩んでるとかいうわけじゃないんだけどさ。女って、なんでこう、繋ぎとめようとか縛ろうとか、そういうことを言いだすんだろうねって最近思うんだよ」
「なに、彩ちゃんのこと?」
「まあね」
 酎ハイを口に流し込む真治を見ながら、地平はサラダを頬張った。周囲は、まるで今日を世界の終わりだと勘違いしているかのように騒ぐ学生ばかりだった。きっと地平たちもかつては似たようなものだったのだろう。今は少しだけ大人になった。
「それってさ、結局、遠まわしに結婚を迫ってきてるってことなんじゃないの?」
「そうなんだよ。まあ、付き合いも長いし、彩がそう言うのは仕方ないと思うんだけどさ。俺ももういい年だもんなあ」
 彩は真治と同じ会社で働いていて、一つ後輩だ。彩が入社してすぐ真治と付き合いだしたのだから、ふたりの付き合いはもう三年にもなる。千葉の実家から通うお嬢様で、真治にはもったいないほどできた女だと地平は思っていた。
「じゃあ結婚すりゃいいじゃん」
 地平があっさり言うと、真治は酎ハイを噴き出しそうになった。相変わらず周囲は騒がしい。
「そんな簡単なもんじゃないだろ? 結婚だよ、結婚。それになんていうか、どんどん束縛されてくような気がするんだよ。抱くたびに、いちいち『愛してる?』とか、『このまま一緒にいて』とか、言うしさ」
「で、なんて答えるの?」
「まあ、適当に。俺だって別に、彩のこと嫌いじゃないし。むしろ大好きだし」
「じゃあ問題ないだろ」
 こいつ、言うほど悩んでないな。そう感じて、地平は笑った。悩みごとというよりも、惚気話を聞かせたくて呼び出したのかもしれない。彩との結婚自体は、もう既に確実なものとして考えていることは、その嬉しそうな表情からよくわかる。真治は学生時代から、なにかと面倒見が良く、困っている人を放っておけない性格だった。ましてや相手が惚れた女なら、その要望に応えるのは自然なはずだ。
「地平はそんなとき、どうしてる?」
 ニヤついた顔で真治を見守っていたつもりだった地平は、突然自分に質問が降りかかってきて、話が見えなくなってしまった。
「は? なんだよ、そんなときって」
「だからほら、セックスの最中に『愛してる?』って訊かれたり、逆に『愛してる』とか言われたりしたときさ」
 地平はジョッキを口に当てたまま右の頬だけしかめた。頭に凛子と由利の顔が同時に浮かぶ。それらをかき消すように残りの酎ハイを一気に飲み干して、地平は近くにいた店員におかわりを頼むと、そのついでのように一言で答えた。
「キスで塞ぐよ」
 昨日の由利の顔と、この前の飲み潰れた凛子の顔が、また目に浮かんできた。口に焼鳥を頬張りながら、真治がもそもそと言う。
「なんだそりゃ。無理だろ」
「無理じゃないよ。女がそんなことを言いだすときって、雰囲気でわかるだろ。だから、来そうだなと思ったら、すぐにキスして口を塞いでやればいいんだよ」
 地平の頭の中では、涙を流しながらなにかを堪えていた凛子の顔やら、ずっと前に由利に言われた言葉やらが、ぐるぐると廻りだしそうになる。が、それらを力技で脳裏の隅の隅へ押しやるのも慣れたものだ。
「相変わらずおまえ、ひでえ男だな」
 真治が、安心したような顔で言った。
「はは。でも、こんなこと聞いてくる真治もどうかと思うよ。彩ちゃんに愛してるって言ってやればいいのに」
「そうだけどさ。地平はもうちょっと、女のこと大切にしたら?」
「大切にはしてるつもりだよ。でも、それとこれとは別だろ?」
 強気な口調でそれだけ言うと、地平はテーブルに来たばかりの何杯目かの酎ハイを半分ほど一気に飲み干した。
「別か?」
 真治は首を傾げていた。
「別だよ。それを一緒にしてしまったら、困るのは男じゃなくて、女なんだから」
「ふーん?」
 やはり真治は首を傾げるばかりだった。いずれにしても、店があまりに騒々しくなってきたので、とうとうふたりは次の店に移動することにした。

 店の外は相変わらずの暑さだった。学生たちの狂喜は、どこに行っても続いていた。どうせ夏なんてまだこれから何度でも来るのだから、そんなに慌てて堪能する必要はないだろうに、などと地平は思う。慌てなければいけないのは、自分や真治の方だとも。
「そういえばさ」
 学生の頃から通っていたバーに向かう道すがら、慣れたように人ごみを縫って歩く地平と真治の会話は続いていた。
「この間、合コンに行ったんだ。高橋に面子が足りないからって誘われてさ」
「へえ。楽しかった?」
「それがさ、高橋のヤツ、まだ悪い癖が治ってなかったよ。女の子たち、どう見ても全員未成年でさ」
「相変わらずどうしようもないヤツだな。で、どうだった?」
「全然だめだよ。あそこまで行くと、若いどころか子供だよ。話なんか、丸っきり合わないもん」
「ははは」
 こういう、くだらない話はいいな、と地平は思う。喧騒によく溶けて、後腐れがない。
「俺の目の前に座ったのが、これまたとんでもない子でさ。このまえ渋谷で自殺しようとしてオジサンに助けられたとかいう話を、延々としてるんだぜ? オジサンからハートマークがいっぱい付いたメールが送られて来たとか言っちゃってさ」
「そりゃ痛い子だな。でも、真治もその話に延々付き合ってやったんだろ? おまえも本当、いいやつだよな」
「仕方ないよ。無言でいたって場がしらけるだけだもんな。だいたい、あんなにキラキラした目で話してるんだもん、無視できないだろ」
「キラキラか。いいねえ。話が合わなくてもいいから、一度そんな目の女と話してみたいよ、俺も」
「バカ、キラキラを舐めるなよ!」
 真治はその痛い女の子の話を続けていたが、雑踏の中で上手く聞き取れなかったのと、それ程興味がなかったので、地平は適当に相槌を打つだけにしておいた。
 キラキラした目。そう言われて思い出すのは、恋をしていた頃の自分の姿だった。誰かを真剣に愛そうと思ったあの頃の自分は、まるで一夜の恋を成就させようと鳴き続ける蝉みたいなものだった。この夜の喧騒にも、そんな哀れな蝉の声が混じっているような気がする。
    目当てのバーは、もう目の前だった。

「なあ、それで、アニキの奥さんとはどうなのよ?」
 バーのドアを開けるなり、真治が言った。唐突すぎるほど唐突に核心を突いてくるので困る。地平は、思考の中をぼんやりと浮かんでいた凛子の顔をまた端っこに追いやって、笑った。学生時代から変わらぬ風貌のバーのマスターがふたりの姿を認めて、いらっしゃい、と会釈をする。
 カウンターに腰をかけ、キメの細かい黒いビールが注がれた細長いグラスを真治と鳴らしてから、地平は改めて答えた。
「さっきの話だけどさ。凛子さんとは相変わらず、時々会ってるよ。でも所詮は優兄ぃのモノだからな。俺のことなんか遊びだと思ってるんじゃないの?」
「いいな、そういう大人の女」
「そうかな? もし俺が凛子さんをどうにかしたいと思ったとしても、どうにもできないんだよ。まあ、俺にはあの人をどうするつもりもないけどさ」
「ふうん」
 意味がわかっているかいないのか、口の上に付いた泡をペロリと舐めて、真治はグラスを見つめた。


October  22 マナ

 エレベーターの中は、誰が吸ったのかタバコの匂いが充満している。目黒駅から雨の中歩いてきたマナは、いっそう心が重くなった。一昨日ハルカの家に泊めてもらったときに洗濯したお気に入りの白いカーディガンも、首から下げたヘッドフォンも、すっかりずぶ濡れになってしまっている。
 かつてマナと両親が楽しく暮らしていた家は、都内でも高級といわれる部類に入るマンションの十二階にあった。久しぶりの我が家だというのに、なんの感慨もない。
 マナがこの家に帰らなくなってから、もう三ヶ月近く経っていた。その間、父親からのメールは毎日のように届いていた。怒りマークがついていたり、ハートが散りばめられていたり、泣き顔が羅列されていたりと、日によって言うことが違いすぎた。いつか向き合わなければいけないと思いながらも、マナは送られてきた文面を見るたびに絶望的な気持ちになった。
「本当にパパが悪かった。お願いだ。帰って来てくれないか。」
 昨日のメールは珍しく絵文字もなくシリアスな感じがした。でも、しおらしく謝ったからといって、あのことを許せるわけではなかった。パパはなにを悪かったと思ってるんだろう。この先、どうしていくつもりなんだろう。マンションに帰ってパパと話をすれば、なにかがパパやあたしの中で解決するんだろうか。パパがなにをどうしたところで、あの悪夢のような事実は絶対に消えないのに。
 この何ヶ月か、ずっと考えないようにしていた記憶がマナの脳内に蘇る。
 パパからのメールを一通一通この携帯から消すように、あのことも記憶の中から完全消去してしまえたら、どんなに楽だろう。でも、鮮烈に焼きついてしまった記憶を消すことはできない。だから、マナは父親を絶対に許さない。
 今日、マナは父親に会うために帰ってきたわけではなかった。ここ一、二週間ですっかり外が肌寒くなってしまったので、夏に家を出たままの荷物ではこと足りなくなり、服を取りにきたのだ。本当にそれだけだった。現金は持っているので、買い足せばすむことかもしれないが、気持ちを切り替えた。いい加減、いつまでも父親を避けて生きていくわけにはいかない。そろそろきちんとしなければいけないと思ったのだ。

 玄関のドアには、鍵はかかっていなかった。そっと開けて中に入ると、どの部屋も明かりが消えているようだ。
 パパはいないかもしれない。
 半分は安堵しつつ、残り半分で肩透かしをくらった気分になりながら、玄関の照明を点けて、部屋に入る。と、アルコールとタバコのすえた匂いがマナの鼻をかすめた。
「パパ......?」
 小さく暗闇に向かって声をかけてみる。リビングの大きな窓には、雨に濡れて光るビル群と、その向こうで橙色に光る東京タワーの先端部分。それは、三年前にこのマンションに引っ越すことになったとき、マナが一番気に入った風景だった。
 夜景に目を奪われながら、マナはリビングの照明を点ける。
「......」
 目の前には、異様な光景が広がっていた。
 床に散乱したコンビニ弁当の容器。中には食べかけのまま放置されたものもあり、異様な臭いを放っている。無垢の一枚板で造られた大きなダイニングテーブルの上には、大量のビールの空き缶、焼酎のビン。いつから放置しているのかまったく検討もつかないが、およそひとりで飲んだとは信じられないくらいの数だ。そして極めつけは、テーブル横のソファー。そこには、パジャマ姿で死体のように横たわって動かない父親の姿があった。静かすぎる部屋に、小さな寝息が響いている。腰の辺りが濡れているのは、酒をこぼしたものなのか、あるいは失禁でもしたのか――。
 あまりにも無残なその姿に、マナはきつく目を閉じた。けれど、このまま放っておくわけにはいかない。再び目を開くと、サイドボードの上に立てかけられた写真が目に入ってきた。この春に急死してしまった母親の遺影だ。いつも優しくマナと父親を見つめてくれていたそのままの表情に、マナは勇気を貰った気がした。
「パパ」
 今度はさっきよりもはっきりした声で声をかけてみた。父親を起こしたところでどうにかなるとは思わないけれど、このままにしてはいけないという気持ちのほうがマナを強く動かす。きつい異臭に耐えながら、マナはもう一度叫んだ。
「パパ!」
 父親が、寝返りを打つ。そうしてそのままマナのほうは向かずに、くぐもった声を出した。
「帰ってきて......くれたのか」
「違うけど。なにやってんの、だらしない」
 明るさに目が慣れないのか、父親はゆっくりと目を開く。そうして、錘でもつけられたかのように、だるそうな体を少しずつ起こして、ようやくマナの方へと体を向けた。顔を覆う無精髭には、吐瀉物のようなものが絡みついている。マナは吐き気をもよおしたが、ぐっとこらえて洗面台へと向かい、水で濡らしたフェイスタオルを持ってくると、そのまま父親に向かって投げつけた。
「キモいんだよ。顔ぐらい拭いてよ!」
 父親はマナに言われるまま素直に顔を拭く。まるで抵抗する術も知らない小さな子供のようだ。タオルの冷たさでようやく目が覚めたのか、父親はのろのろとソファから立ち上がり、異臭を放ちながらビールの空き缶の山から大きな箱を引っ張り出してきた。
「愛実......これ」
 まだ顔に汚れをこびり付かせたまま、なぜか手を震えさせながら、父親は箱のふたを開けた。中には、生クリームがすっかり溶け、かつて苺だったと思われる黒いものが載った、黴だらけのケーキがひとつ。
「買っておいたんだ。愛実が帰ってきたら、一緒に食べようと思って」
 マナはとうとう抑えきれなくなって、その場で胃の中のものをすべて吐いた。同時に、涙が出てきた。止まらなかった。だって、腐っていなければ、そのケーキはマナが一番好きなパティスリーの看板商品だったはずだ。この家でなにかお祝いごとがあったときはいつも、家族で集まってそれを食べる。そういうものだったはずだ。
「なんで......? なんでこんなことになっちゃったの?」
 本当だったら、美人で優しい自慢のママと、少し内気だけど誠実で逞しかったパパがここにいて、みんなで一緒にケーキを食べていたはずなのに。美味しいねとか言い合って、笑い合って、それが当たり前の毎日だったのに。
 写真の中の母親が今も笑っていることは、マナにとって残酷すぎる現実だった。
 あの日、訳の分からないことを叫びながら、マナの服を鋏で突然切り裂いた父親のことさえ、写真の中の母親は笑って見ていた。刃物を向けられた恐怖でなんの抵抗もできなかった弱い娘の姿を、愛する人を失って錯乱した挙句に自らの娘に曲がった性欲をぶつけてしまった夫の姿を、あの女は笑って見ていた。
 それで、マナは死のうと思ったのだった。
「こんなことって、なんだよ?」
 父親が、表情のない声でマナに質問を返した。罪の意識などまるで感じていないような、それどころか、あの夜の出来事を忘れているかのような態度に、マナはいよいよおかしくなりそうだった。
「ごまかさないでよ! パパ、あたしになにした? 忘れたの? あんなことしといて、忘れられるの?」
 父親は、あろうことか照れたような表情を汚れた顔に浮かべた。そして、呆気にとられたマナに向かって、こともなげに答える。
「だって、愛実が自分で言ったんじゃないか。『これからはあたしがママの代わりになるね』って......」
 父親の言葉は、まるで呪文のようだ。金縛りにでもかかったかのように、マナの身体は動かなくなった。それでいて、頭の中だけはフル回転で考え続ける。
 ママの代わりになる、確かにマナはそう言った。葬儀が済んだ後もずっと泣いているばかりの父親を、励ますことができるのは自分だけだと思ったからだった。専業主婦としてかなり完璧に近かった母親と比べたら、今のマナはなにもできないのに等しい。それでも毎日掃除や洗濯や炊事を少しずつ覚えて、ちゃんとできるようになろうと心に誓った。そして、母親のようにいつも笑顔でいて、この家に明るさをもたらしたいと思っていた。
 代わりになるというのは、そういう意味だったのに。
「パパはね、ママのことがとっても大好きだったんだよ。愛実が生まれるよりずっと前から。ママと知り合ったのは、高校生のときだった。今の愛実と同じ年の頃だ。その頃から、パパはママをずっと見つめてきた。高校を卒業して、ママが違う男と付き合い始めたときも、ママがその男と結婚することになっても、パパはずっと、ママのことだけを想ってきたんだ」
 父親は顔にうっすらと笑顔を浮かべて、まるでマナには見えない誰かと会話しているかのように、楽しそうにひとりで話を進めていく。マナは生まれて初めて、背筋が凍るという言葉の意味を身体で知った。背筋どころか、頭の先からつま先まで一気に血が抜き取られるような感覚だった。とても立っていられず、思わずその場にへたり込む。
「でもね、ママと結婚した男の本性は、ロクデナシの悪人だったんだ。騙されたんだよ、ママは。やがてママは、生まれたばかりの愛実を抱いて、パパの住むアパートに来てくれた。あの日のことは、はっきりと覚えてるよ。アパートの前では金木犀の花が満開でね。ママと愛実は、まるでその香りの中から生まれた妖精みたいだった」
 それが真実なら、目の前にいるこの男は本当の父親ではない――マナにとって、それはは初耳で、ショッキングな話だった。どう受け止めていいのかよくわからない。なにしろ、父親の表情はまるで夢でも見ているかのようで、まるきり現実味がないのだ。
「ママが死んでしまって、パパはすぐに追いかけたいと思ったよ。でも、まだ高校生の愛実をひとりぼっちにはできないだろう? だから、仕方なく生きることを選んだんだよ。そうしたら、愛実がママの代わりになってくれるって言った。愛していけると思ったよ。今の愛実、パパと知り合った頃のママとそっくりだもんな。だからパパは、ママを愛したのと同じように、愛実を愛していこうと決めたんだ」
「やめてよ!」
 胸の中に押し寄せてくる、言葉にしようのない気持ち悪い感覚。話の内容が本当だろうが嘘だろうが、もう関係なかった。この男は狂っている。マナはテーブルの上の缶やビンを次々と手に取り、勢いに任せて父親に投げつけた。
「なにするんだよ、愛実は悪い子だな」
 されるがままにゴミをぶつけられながらも、ニヤついた顔で近づいてくるその男は、もうマナの父親ではなかった。
「来ないで!」
 どんなに本気で叫んでも、もう願いは届かない。父親は目の前まで迫ってきていた。いつも頼りにしていた大きな背中も、ぶら下がって遊んだ筋肉質な腕も、全てはこの廃墟の中に消えてしまったのだ。
 マナは全身の力を右足に集めて、思いきり父親の腹を蹴った。
 父親は大きな音を立ててリビングの床に倒れこみ、それでもしばらくは「えへへへ、マナは本当に悪い子なんだから」などと笑っていたが、そのうちまた寝息を立てはじめた。もはや、現実と夢との区別がついていないのかもしれない。
 今、キッチンから包丁を持ち出してくれば、このままパパを殺してしまうことは、簡単だ。マナの頭の片隅にそんな考えがぽっと浮かんだ。けれど、もうそんな気力は残っていなかった。
 ママが死んだ。
 パパも消えてなくなった。
 そう考えれば、マナがここに帰ってくる理由は、もうどこにもない。
 マナは自分の部屋へ行った。そこだけは以前と変わらない状態で残っていて、少しホッとした。
 一番大きなバッグを出してきて、服や生活に必要なこまごまとしたものを、手当たり次第詰め込んでいく。自分のすべてをここに詰め込んで、そしてこのバッグに入っていないすべてのものと無関係になりたかった。

 家を出る前にふと思いついて、マナはもう一度リビングに立ち寄る。父親はもう大いびきをかいていた。ソファーの横には、父親の財布が落ちている。
「無防備なのが悪いんだ」
 マナは早口でそう呟くと、それを拾って乱暴にバッグの奥へと押し込んだ。予想以上の重みがあった。この男がいつも現金を多く持ち歩く性格なのはマナもよく知っていた。財布の中には銀行のキャッシュカードが何枚か入っていることも。そして、それらの暗証番号が、全部マナの誕生日に設定されていることも。
 マンションの外に出ると、いつのまにか雨は上がっていた。マナは駅前でタクシーに乗り込むと、端的に告げた。
「とりあえず新宿まで」
 行く宛てなどなかった。ただとにかく、しばらくはなにも考えずに過ごせる場所を探そうと考えていた。
 窓の外を、夜の街が流れていく。マナは目を閉じた。閉じた目の奥には、在りし日の家族の顔があった。


November 18 凛子

「オンナの勘って、冷め切った男女の間でもちゃんと働くのかしら」
 思わずそう言ってしまってから、凛子は少し後悔した。
 今夜もちょっと飲み過ぎてしまったかもしれない。身体が火照ると、そのぶん心が風を欲して、窓を開けようとする。ひどく息苦しくて、だから口が滑ってしまうのだ。
「どういうこと?」
 しかし、そんな凛子の思惑などちっとも関係ない様子で、地平は平然として会話を続けようとする。
「ん? うん――んっ」
「優兄ぃとのこと?」
「あっ......ん、別に」
「もしかして、優兄ぃの浮気でも発覚したとか?」
 言うなり地平が笑い出す。凛子はひどくばつの悪い気分になった。だいたい、ベッドの上で男に跨りながら夫の話をするなんて、ちょっとナンセンスすぎる。
「いやあ、アリエナイ、アリエナイって。あの優兄ぃに限って!」
 ニヤニヤと笑いながらそう言う地平に奥のほうをぐるぐるとかき回されて、凛子の身体は心とは裏腹に、今日何度目かの頂点に達してしまった。

「ほら。髪の毛、ちゃんと乾かせよ」
 ふたりでシャワーを浴びた後、地平は優しい声でそう言いながら、その声に似合わない乱暴な手つきで、凛子の頭にドライヤーの熱風を浴びせる。
「んー、面倒くさい」
 凛子はそこ――つまり、居心地の妙に良すぎる蟻地獄のような立ち位置から、なんとか逃れようとするのだが、
「だめ。風邪ひくだろ」
 と腕を引き寄せられ、結局地平に後ろから抱きかかえられる形で、されるがままに髪を乾かすことになってしまった。
 これ以上、優しくしないで。
 そう思って振り払おうとしても、がっちりと腕を押さえられていては、身動きがとれない。仕方がないので、されるがままに熱風を浴びながら、凛子は目の前の鏡を見た。
 まるで恋人同士のようなふたりが、そこには映っている。凛子の髪を優しく撫でる地平の、あどけない悪魔のような笑顔。
 今いるホテルの一室は、季節や時間という概念などまったく関係ない次元にあるかのように、快適な室温を保っている。けれど地平が言うとおり、もう濡れた髪では外に出られないくらい、秋は深まっていた。
 前にふたりが会ったときは、髪が少しくらい濡れたままでも平気だったように思う。少なくとも、生乾きの髪の毛が、家に帰るまでに乾いてしまったのではなかったか。ふたりが会わない間に、季節はしれっと変わってしまったのだ。
 外では秋の雨が、静かに街を冷やし続けている。今夜は特に厚手のコートを着てもおかしくないくらいの寒さだ。
 凛子は思う。人肌が温かくて、嬉しくなってしまうのは、きっとこの季節のせいだ。そうとでも思わなければ、やってられない。
 たとえば、久しぶりに会えたのが嬉しいとか、少なくとも会っている間は私のことを知り尽くした恋人でいてくれるのが嬉しいとか。そんなことを思ってしまったら、後がつらくなるだけだ。次はいつ会えるのか、凛子と会っていない間に地平が誰の恋人でいるのか、現実はわからないことばかりだ。
 それよりなにより。
 こんな関係でもやっぱり会いたいと思ってしまう自分が、また、それを口にしないようにギリギリのところで踏ん張ってしまう自分が、悲しい。
 もっと言えば、「そのライン」を決して超えてきたりしない地平の態度が、凛子にはいちばん悲しかった。

「さっきの話だけどさ」
 髪はすっかり乾いたのに、鏡の前からふたりは動かない。背後から凛子の髪に優しく触れながら、地平は言う。
「なに?」
「ほら、オンナの勘って言ってた話」
「ああ」
「マジでなんかあったの?」
 地平に抱かれている間にすっかり忘れていた、うすら寒い気持ちが身体の中に蘇ってくる。凛子は誰にもわからないくらいに、小さく肩を落とした。
「うん。なにがあったっていうわけでもないんだけど......あの人がね」
「優兄ぃが?」
「携帯をね、家でいじってるときがあるの」
「なんだそりゃ」
 地平はふざけたように、けれどとても甘く、背後から凛子の首を柔らかく絞めて、なぜだかニヤニヤしながら言う。
「携帯いじるぐらい、別に普通じゃん?」
「ちがうの、そうじゃなくて」
 凛子は弁解する。頬がほんのり紅く染まっているのは、首を絞められて苦しいからだろうか、それともプライベートな話をさらけ出す恥ずかしさからか。
「あの人、携帯嫌いなの。仕事のために嫌々持たされてるって感じで、電話もほとんど着信専用だし、メールにいたっては面倒くさいからって、私にだって送ったことがないんだから。そんな人が、家でいそいそと携帯をいじってるなんて、どう考えてもおかしいじゃない」
「でも、あの優兄ぃのことだからなあ。せいぜい、仕事でメールが必要だったとかいうことだと思うよ」
「違うわ」
 きっぱりと、凛子は首を振った。

 本当は、見てしまったのだ。つい一週間ほど前のことだ。夫が入浴している間、リビングのテーブルに放置されていた携帯を、凛子はこっそり開いてしまった。
 正直なことを言えば、凛子は自分の携帯にはパスワードをかけて万全にロックしてあるし、基本的に肌身離さず持ち歩いてそこらへんに放置などしない。なにしろ、夫には絶対に見られるわけにはいかないやりとりを、あろうことか夫の実弟としているのだから、細心の注意が必要だった。
 その点、彼女の夫はひどく迂闊だった。パスワードをかけるほどには携帯の扱いに慣れていない様子だし、きっと誰かが自分の携帯を盗み見ることなど想定もしていないのだろう。
 でも、だからと言って後ろめたいことがないとは限らない。
 メールの画面を開いて、凛子は生唾を呑んだ。
    信じられなかったが、やはり女の名前があった。「マナ」という名で登録されたアドレスから、何通もメールが来ている。
 自分のものとは信じられないくらい、凛子の鼓動は大きく脈打っていた。掌にはべっとりと汗をかいている。夫が今までまったく自分に感心を示してこなかった、冷たくつまらない男であり続けようとしてきた決定的な理由を、掴んでしまう瞬間がやって来たのだ。
 凛子は「マナ」から着信したメールのひとつを無作為に選んで開いた。
「えっ?」
 思わず疑問が声になって出てしまった。なにしろ、メールにはただ、「・・・・」と、点が羅列してあるだけなのだ。
 文字化けかと思い、「マナ」から届いたほかのメールも、いくつか開いてみた。けれど、開いても開いても、どのメールも「・」ばかりだった。「・」がひとつだったり、ふたつみっつ連なっていたり、何行にもわたって羅列されていたりする違いはあるものの、とにかく「・」以外の文字は見当たらない。
 わけのわからないまま、凛子は送信履歴も開いてみる。
 こちらは受信の数と比べればずいぶん少ないように見えるが、やはり「マナ」宛てのメールばかり残っていた。
「なんなの、これ......」
 凛子は奇妙な脱力感に襲われた。夫から「マナ」宛てに送信したメールにも、やはり「・」以外の文字は一切使われていなかったのだ。
 嫉妬でも絶望でもなく、凛子はただ途方に暮れるしかなかった。
 夫が誰かと愛の言葉をやりとりしていたのなら、そのほうがよっぽどわかりやすかった。意味があるのかないのか、それすらもわからない「・」の羅列に、愛があるかどうかなんて全くわからなかった。ただとにかく、それは彼女が携帯にかけているものよりずっと精巧なパスワードのように思えた。

 けれど凛子は、そんな顛末を地平に話すつもりはない。理由は単純で、自分が夫の携帯を盗み見るようなねちっこい女だとは思われたくなかったからだ。
 凛子はかつて、地平からの愛の言葉を笑って受け流したことがある。地平がまだ高校生だった頃の話だ。それなのに、今こうして夫の目を盗んで身体の関係を持っているのは、お互いが遊びだからと割り切っている前提の上だからだ。凛子は少なくとも地平の前では、男女のことになんのこだわりもない、さばけた大人の女であり続けなければいけない。荘でなければバランスが崩れてしまうと思っていた。
 しかし、そんな彼女の不本意をわざと突いて面白がるように、地平は笑って、そしてふわっと凛子を抱きしめながら、言うのだ。
「なあんだ、嫉妬なんかしちゃって。凛子さんはやっぱり、優兄ぃのこと愛してるってわけだ」
「ちが......」
 否定しようとした凛子の言葉が、宙に浮いたまま消えた。地平の温かい唇で、唇を塞がれてしまったから。
 その動きはとても柔らかで優しく、それなのに、ところどころに苛立ちが滲んでいる。わからないけれど、そんな気がした。
 凛子は自分の弱みを知り尽くしたやり方で口の中を攻めあげる地平のキスに、声を濡らすことしかできなかった。


December 10 マナ

 窓の外は、いつもより少しだけ煌びやかに飾られた新宿の夜景。いつの間にかクリスマスが近づいていることを、マナはそれで知ることができた。もちろん、このホテルに長いこと滞在しているマナにとって、クリスマスも週末も関係ないのだけれど。
 あの日のタクシーの運転手は、とても親切だった。お金はどうにかなるから、どこかに長期滞在できるホテルはないかとたずねたところ、困ったような顔をしながらもこのホテルへと案内してくれたのだ。運転手は、「たぶんお嬢さん一人じゃ泊まれないだろう」と言って、宿泊カードに父親としてサインまでしてくれた。
 あの運転手が後から部屋に来て、もし自分になにかしてきたとしても、従うしかないだろう――マナはそう思っていたが、運転手はそれきり現れることはなかった。
 新宿は快適な街だ。
 土地柄のせいか、この街ではなるべく目立たない格好で大人しくしてさえいれば、多少怪訝そうな顔をすることはあっても、どんな人間のことも当たり前に受け容れてくれる。金さえ持っていれば、ホテルはちゃんと寝床を与えてくれるし、レストランではきちんと食べものが出てくる。
 けれど、マナはよほどの理由がない限り、部屋から出ないことに決めていた。
 外は、光と愛と欲望の洪水のような世界だ。親子、恋人、友達、夫婦、不倫。いろいろな関係の人間たちが闊歩している。ひょっとしたら裏には複雑な事情を抱えているかもしれないけれど、少なくとも今この瞬間は、手を繋いだり並んだりして歩いている。彼らがどんな関係だとしても、親を失い、友達と疎遠になり、恋人もいないマナにとっては、幸せそうにしか見えなかった。
 それでもどうしても用事があって外に出なければならず、自分の孤独を再確認してしまう日もあった。そんなときにだけ、マナは優太にメールを送る。
「・」
 返事は滅多に来ないけれど、別に良かった。優太のほうからメールが届くのは、マナがメールを送ったタイミングとは全く関係のないときばかりで、たぶんそれは優太が孤独を感じている瞬間なのだろうと思った。会話として成り立たなくても、自分が孤独を感じているという事実を世界中の誰も知らないよりは、ずっとましだった。マナと優太は「・」の一文字で、互いにほんの少しだけ孤独を薄れさせることのできる関係なのかもしれない。

 それなりに孤独とうまく付き合えるようになったマナは、今日もいつもどおりに過ごしていた。薄暗い部屋に、テレビの光だけが動く。見たい番組があるわけではないので、音は消している。ただ、ちらちらと光が動いているのを楽しむのだ。時折冷蔵庫の微かなモーター音が響くくらいの静かな部屋で、うたた寝しかけていたマナは突然起こされた。
 メールの着信音がやけに盛大に鳴り響いたのだ。
 まるでなにかのファンファーレみたいだ。そんなことを思いながら、マナはメールを開いた。優太からのメールだった。
「今どこにいるの?」
 初めて見た、優太からの「・」以外の文字。マナの心臓は、急に暴れ始めた。どういうことだろう、なにかの間違いかもしれない、でも、もしかしたらユータさんになにかあったのかもしれない。マナは急いでホテル名と部屋番号を返信しようとする。指が震えて、うまく文字が打てないのがもどかしかった。
 ようやく返信のメールを完成させて送ると、きっかりその二時間後、優太がマナの部屋に現れた。ひどく泥酔した、だらしない、けれどとんでもなく寂しそうな顔をしていた。
「なにか、あったの?」
「とりあえず、寝かせて」
 そう言うなり、優太は着ていたスーツを一枚一枚脱いで床に捨て、やがて下着一枚になると、ベッドへもぐり込んでしまった。
「ちょっと、なんなの?」
 困惑するマナの声は、もう届かない。優太は早くも鼾をかきはじめていた。仕方がないので、マナもベッドの隅で横になってみる。優太が息を吐くたびにアルコールの匂いが鼻を掠めるのに、それを不快だと思わないのが不思議だった。

 気がついたときには、もう窓の外に光が溢れていた。時計を見ると、もう正午近かった。どうやら、マナもいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
 ずいぶん良く眠れた気がする。人の体温を近くに感じながら眠ることが、こんなに安心できることだなんて、マナは初めて知った。
 マナがカーテンを開けても、テレビを点けてみても、優太はさっぱり起きそうになかった。オジサンのくせに、まるで子供みたいに背中を丸めて、無防備な寝顔を見せている。マナは眠る優太の姿をじっと見つめ続けた。よく見ると、優太の肌は思いのほかきれいだ。いくら見ていても、飽きない気がした。そして、思ったのだ。
「食べてしまいたい」
 小さい頃。
 本当に本当に小さい頃、もしかするとあれは夢だったんじゃないだろうかと思ってしまうくらい小さい頃。
 真っ白で、ふわふわで、みうみうと鳴く、毛むくじゃらの生き物が、目の前にいた。まだ目の色さえはっきりしない生まれたての猫を、大きく広げた両方の手のひらにそっと載せてもらったのだ。ゆっくりと顔を近づけると、鼻の頭をくすぐる産毛と、柔らかな匂い。余りにも可愛くて、小さな手のひらよりももっと小さな生き物。
「さあ、そろそろお母さんのところに返さなくちゃね」
 そういってすぐに持ち上げられた子猫は、また、みう、と鳴いた。
「お母さん猫がこの子を食べちゃうかもしれないわ」
 やっぱり、とマナは思った。可愛くていい匂いのする生き物は、誰だって食べたくなるんだ。
 優太も、いい匂いがする。
 時間が経つにつれて薄まっていったアルコール臭の代わりに、今はいい香りが漂っている。香水でもつけているのだろうか。そう思って首のあたりに鼻を近づけてみると、思ったとおりそこからいい香りが発せられているようだった。目の前に、こんなにきれいな肌と、首から肩へと流れる、自分には存在しない男らしい曲線、そして、美味しそうな匂いがある。近づきすぎたマナの睫毛は、優太のあごを今にもかすりそうだった。
 あのときママが言っていたことは、間違いじゃなかった。お母さん猫が子猫を食べてしまうことは、本当にあるらしい。たとえば子猫に変な匂いがついたり、危機が迫ったときなど、母猫が自ら子猫の命を絶ってしまうのだ。
 ずいぶん後になってからそのことを知るまで、マナは長いこと、母猫は子猫が可愛くていい匂いだから食べてしまうのだと思い込んでいた。それは、とても自然な欲求のように思えたのだ。そう、今の自分のように。
「なんで、噛むの?」
 目を閉じたまま、急に優太が声を出した。マナは思わずベッドの上で飛び跳ねてしまった。言われて初めて、本当に優太の首の後ろに噛み付いてしまっていたことに気がついたのだ。
「やだ。ごめん、あたし......」
「ま、いいけどさ。ちょっとシャワー浴びてくる」
 優太はマナの顔を一瞥すると、すぐにベッドから起き出して、浴室へと向かった。後ろ姿はやっぱり少し猫背で、腰の辺りには若干たるんだ肉がついている。マナにはそれが、やけに愛らしく見えた。
「ああ、腹減ったな。カレー食べたい」
 浴室から優太の声が響いてきた。いつもこの部屋だけで生活を済ませているマナにとっては、お安い御用だ。
「デリバリーならあるけど。頼む?」
「うん、適当に頼んどいて」
 言われたとおり、近くのカレーショップへ注文の電話をかける。その通話を終えたのと同時に、携帯のバイブ音がどこからか聞こえてくるのにマナは気がついた。
 部屋を見回しているうちに、音は途切れる。しかし程なくまた同じ音が鳴りだし、また消える。そんなことを何回か繰り返しているうちに、マナはようやくその発信源を見つけた。床に脱ぎ捨てられた優太のスーツのポケットだった。
 シャワーの水音は、まだ勢いよく続いている。マナは散らかったままの優太の服をハンガーにかけるついでに、ポケットから彼の携帯電話を出して、開いてみた。二十件の着信履歴は、すべて同じ名前で埋められている。どうやら昨日の夜から、寝ている間にも、何度も何度も「凛子」という人から電話がかかってきていたようだ。
 マナは先ほどまでなんとなく抱いていた甘い気持ちを蹴散らされたような、しらけた気分になった。けれど同時に、この「凛子」がどれほど優太を心配しているか、痛いくらいに理解もできた。いつか、マナがしつこくカラオケに誘ったのに家に帰ると主張した優太の意志に満ちた表情を思い出す。あんなに真面目な人が家に帰らないなんて、大騒ぎになっているに違いない。
 やがて、シャワーの止まる音が聞こえた。マナはとっさに、ディスプレイに表示されていた凛子の電話番号をメモすると、すぐに携帯電話をポケットに戻し、それから優太の服をすべてクロゼットにしまった。優太は部屋に備え付けられたバスローブを身につけて、浴室を出てきた。
「ありがとう、すっきりした」
 濡れたままの乱れた髪に、生えかけの無精髭。そこには、マナの知っている「ユータ」とはまるで別の男がいた。マナは思わず顔を背けて、ぶっきらぼうに告げる。
「カレー、三十分ぐらいで届くって」
「うん」
 優太は小さく頷くと、慣れたような手つきで冷蔵庫をあさり始めた。やがて、一本の缶ビールを見つけて、出してくる。
「こんな昼間から、飲むの? あんなに酔っ払って来たくせに? 信じらんない」
 父親のことを思い出し、マナは思わず非難めいた口調で指摘してしまった。けれど優太は柔らかく微笑んだだけで、プシュ、といい音を立てて缶を開ける。
「大人はね、どうしても飲みたい気分のときは、いつ飲んだっていいんだよ」
 投げやりな言い方だ。やっぱり、こんな真面目な人が家に帰れなくなるほどの事件があったのかもしれない。そう考えれば、昨夜の泥酔ぶりも、昼間からのヤケ酒も、異様なほど残されている「凛子」からの着信履歴も、すべて納得行く。
 マナは昨夜答えを聞きそびれた質問を、もう一度投げかけることにした。
「ねえ。なにかあったの?」
「まあね」
 バスローブ姿のまま、マナのいるベッドに優太が腰掛ける。重心が少しずれたようにベッドが傾いて、マナは優太に引き寄せられそうになったところを、全身で食い止めた。
「俺さ、とうとう逃げてきちゃったよ」
「逃げたって、どこから?」
「うーん......『人生』?」
 空いたビールの缶を見ながら、優太はおどけたように疑問系の妙な口調で答える。まだ記憶に刻まれたばかりの優太の匂いが、今は鼻について仕方なかった。
「ほら、俺ってさ、冷たいだろ?」
「ユータさんが? そんなこと、ないよ。ないと思うよ、あたしは」
「冷たいよ。マナちゃんも言ってただろ、いつだったか、駅のホームでさ」
 そんなことを言われても、マナは自分の言った軽口なんていちいち覚えていない。けれど、マナにとっては記憶に残らないほどの軽口だって、相手にしてみればいつまでも禍根を残す場合があるのは、十六年と少しの人生でも学んでいたことだった。こういう誤解が生じたときは、すぐに謝ったほうがいいことも。
「言ったかな、ごめんね。でも......」
「謝らなくていいんだ。だって、本当のことだもんな。俺はね、人を愛せないんだよ。正確に言えば、愛していても、それを伝えるやり方を知らない。だから、冷たいんだよ。こんな歳になって、情けないだろ」
「......」
 なにか言ってあげたいのに、言葉がうまく出てこない。マナは優太を励ます代わりに、ベッドからすべり落ちて、ストンと床に座りこんだ。
 なんだか怖い、と思った。どうしたら良いかわからないし、逃げ出したい気持ちもあった。でも、今この瞬間にこの人の言葉を聞いてあげられるのは、たぶん自分だけなのだ。
 だって、「・」で繋がってるから。
 そのことだけは、マナがいくら子供でも、ちゃんと理解できた。だから今は、逃げるわけにはいかない。


December 11 優太

 よく考えてみたら、おかしな話だ。
    優太はなんとなく噴き出しそうになってしまい、慌てて顔を引き締める。
 今までずっと我慢できていたことなのに、どうして昨日に限って妻から逃げ出したくなってしまったのか。他に行くところがないとはいえ、どうしてここへ来てしまったのか。そして、どうして今ここで自分と比べたら半分くらいしか生きていないこの少女に向かって、自分の人生を語ろうとしているのか。
 優太は自分で自分がわからなかった。ただ、それほど今の自分が弱っているということだけは、かろうじて自覚できた。
 そういうときに一緒にいる相手として、泥酔の中でも、優太はこの少女を自分で選んだ。そのことには、たぶん、意味があるということにも気付いていた。

「ネグレクトって言葉、知ってるかな。いわゆる、児童虐待のひとつなんだけど」
 今まで誰にも話したことのなかった自分の秘密を、優太は少女に語り始めた。
 八歳のときに、父親が死んだこと。
    そのときから母親が、まともに育児のできる状態ではなくなってしまったこと。
    当時、家には三歳と〇歳の小さな弟たちがいたこと。
    いなくなった父と元気のなくなった母の代わりに、優太ができる限りは弟たちの世話をしていたこと。
    けれど、ある日小学校から帰ると、真ん中の弟がぐったりと動かなくなっていたこと。
「風邪をひいていたのに、病院にも連れて行かずに、なぜかベランダに放置されてたんだ。真冬にだよ。信じられないだろ? どうしてこんなことするんだよって責めたら、だって地平――あ、それが一番下の弟の名前なんだけど、地平にうつったら困るからって言ったんだ。本当に、信じられなかったよ。もう、完全に頭がおかしくなってたんだな」
 せめてもの努力で、少しでも笑えるように話を展開するのだが、マナはやけに悲しそうな顔で受け止め、ゆっくりと何度も首を振った。
「わかるよ。本当に大切な人を失って正常じゃいられなくなっちゃった人を、あたしも知ってるから......。それで、弟さんはどうなったの?」
「俺がすぐ病院に連れて行ったけど、手遅れだった。その夜に息を引き取ったよ。地平とふたりで一晩中泣いてたなあ。まあ、地平は一歳にもなってなかったから、意味なんかわかってなかったかもしれないけどね」
 ははは、と乾いた笑いが口から漏れた瞬間、頼んでいたデリバリーのカレーが部屋に届いた。タイミングが良いのか悪いのか。優太は財布を出そうとして、自分の服が見当たらないことにようやく気がついた。
「あれ、俺の服は?」
「あ、そのクロゼットの中に」
「しまってくれたのか、ありがとう」
 きれいにハンガーにかけられた上着のポケットから、財布を取り出す。と同時に、優太は携帯電話のランプが光っているのに気がついた。開いてみると、妻から着信があったようだ。パッと見ただけでも、昨日から何度も電話がかかってきていたことがわかる。が、優太は見て見ぬ振りをした。
「で、続きね」
 優太は、カレーを食べながら話を続けることにした。胃にものを入れてみると、思っていたよりずっと腹が減っていたことに気付く。同時に、温かいものを食べることで、気持ちが少々落ち着いてくるのもわかった。
「さすがに、すぐに親戚が大騒ぎしだしてさ。俺と地平を養子にするって言い出したんだけど、俺はそのとき、なんとなく母さんを独りにしちゃいけないって思ったんだよな。それで、赤ん坊だった地平だけ親戚に育ててもらうことにして、俺は家に残った。結局は、高校を卒業して上京するのと同時に、母さんを見捨ててきちゃったんだけどね」
「え、じゃあ今お母さんは......?」
「入院してるよ。ずっと入退院を繰り返してたから、俺も小学生のときからひとり暮らししてたようなもんだった。家事くらいはひととおりできたし、特に困ることはなかったけどね。いや......ないと思ってたんだけど」
 優太はそこまで言うと、ため息をひとつ挟んで、皿に半分ほど残っていたカレーを一気に口の中に流し込んだ。やけに深刻な顔で自分の話を聞き入っている少女の顔を見ていたら、悠長にものを食べている場合でもないような気がしてきたのだ。まったく、この少女はこんなに若いくせに、どうしてこんな、まるで自分の過去を暴露されているかのような表情ができるんだろう。こんな話をまるごと理解して、共感なんかするべきではない年頃だろうに。
 ようやく口の中のものをすべて喉の奥に押しやって、優太は話を続けた。
「困ることは、あったんだよ。ずっと気がつかなかった。いわゆるトラウマってやつなのかな。大人になって、結婚までして、ようやくそのことに気がついた」
「そのことって?」
「俺、人の愛し方がわからないんだよ。ずっと独りだったからさ、人がどうやって人に対して愛情を示すのか、知らないんだ。想像もつかない。だから、本当はすごく愛していても、どうしたらいいかわからない。どうにもできない。ずっと無関心な態度しかできなかった......」
 心をさらけ出すと、言葉に感情が乗っかってくる。最後はほとんど懺悔のような言葉になってしまっていた。泣く寸前のような顔で少女に弱さをぶつけている自分を客観視して、優太はまた、意味のない笑みを顔に浮かべた。
「ははは、なんてな。こんなこと、ここで言い訳なんかしたって、意味ないよな。俺は結局、母さんからも、自分の奥さんからも、逃げ出したってわけ。逃げ出すばかりの情けない人生なんだ。もう、どうにでもなれだ」
 勢いに任せて、ベッドの上で大の字になる。スプリングの音がかすかに軋んだ、それに合わせるかのように、小さなすすり泣きの声も聞こえてきた。見ると、マナがベッドの脇で小さくなって、ぽろぽろと大粒の涙を流している。
 優太は慌てて頭を下げた。
「ごめんな、いやな話を聞かせちゃったな。マナちゃんにはなんの関係もないのに......」
 しかし、気持ちは届かなかったようだ。マナは突然立ち上がったかと思うと、ベッドの上の枕を思い切り優太に投げつけ、大声で叫んだ。
「違うよ、ユータさんのバカ!」
 顔面に枕の攻撃をまともに食らって、優太は咽た。咽ながらも、やはり謝り続ける。
「ごめん、ごめんって。そうだよな、こんなに喋っておいて、マナちゃんがなんの関係もないって、そんなわけ......」
「そうじゃなくて。それもあるけど、違うんだよ。ユータさんわかってないよ。あたしのことも奥さんのこともお母さんのことも、ユータさん自身のことも。ユータさんは全然、なんもわかってないじゃん。いい大人のくせに、バカじゃないの?」
 えらい剣幕だった。号泣しながら怒る人を、優太は初めて見た気がする。優太が周囲の人に心を開かないのと同じように、周囲の人もまた、優太に対して本気で感情をぶつけてきたりしなかったせいかもしれない。そう、妻でさえも。
 一呼吸して考えてみたが、優太は素直に聞き返す以外に方法が思い浮かばなかった。
「わかってないって、どういうこと?」
 マナは黒目がちな、まっすぐな若い目で優太をきっと睨みつけると、掴みかかりそうな勢いでまくし立てた。
「痛いのは、みんな同じだよ。誰だって、みんな同じだけ痛いのに、なんでそんなこともわかんないの? トラウマとか言って弱い振りしたって、結局逃げ出すってのは、ユータさんの勝手じゃん。ユータさんにとってはつらい場所から逃げ出してきて、それでメデタシメデタシかもしんないけどさ、お母さんの立場からしたら、ユータさんに捨てられたみたいなもんじゃん。奥さんだって、たぶんそうだよ。今、ユータさんが帰ってこなくて、ユータさんに捨てられたって思ってるよ。そんで、なに? 自分からここに来といて、好きなだけ弱音吐いたら、あたしも『関係ない』なわけ? そーやって、なんでもかんでも捨てるんだ? 自分の都合のいいようにばっかり考えて、思い通りにできなかったらそこから逃げて、そんなことばっか繰り返してる人が、愛し方なんかわかるわけないじゃん」
 優太はなにも言えなかった。自分をこんなにも堂々と叱る少女の勢いに、気圧されたのかもしれない。
 成績優秀でしっかり者だった優太を真っ向から叱ってくれる人など、今までどこにもいなかった。母子家庭で、しかも母親が入退院を繰り返しているという不幸な境遇への同情も、人にものを言わせない理由になっていただろう。社会に出てからも、無難に仕事をこなし、どちらかというと苦手な人づきあいも及第点程度にはこなしてきた。特に好かれることはなくても決して嫌われることもない、そんな人生を、優太は無意識のうちに選んできてしまったのだ。
 最初から、間違っていたんだな。
 優太は突如ベッドから離れると、バスローブを脱ぎ捨て、クロゼットにきれいにしまわれていた服を出し、すぐに袖を通した。服に染み込んでいた居酒屋の雑多な臭気が、優太を自己嫌悪に陥らせようとするが、なんとか耐えた。
「え、なんでいきなり着替えるの? ......もしかして、帰るの?」
 マナがまだ怒りの残る、でもどこか捨てられた子犬のような目で、すがり付いてくる。優太は答えた。
「帰ることは、やっぱりできないよ。でも、今すぐに行かなきゃならない場所がある」
「それって、どこ? 奥さんのところに帰らないで行くほどの場所なの? その後はどうすんの? またここで会える?」
「先のことは、まだわからない。でも、ずっと逃げてたんだから、仕方ないよ。あの場所からやり直さなきゃ、なにも始まらないんだ。マナちゃんが、それを思い出させてくれたんだよ。ありがとな」
 とにかくそれだけ言い、マナの頭を軽く撫でると、優太は急いで部屋を後にした。これ以上縋るような目で見られたら、せっかくの決意も揺らいでしまいそうだ。
 廊下ですれ違ったホテルマンに怪訝そうな表情で見られているのも気にせず、優太は新宿の人ごみの中に溶け込んでいった。道ゆく人々は、誰もが幸せそうに見える。でも、本当はそうじゃないのかもしれない。マナがもし一緒に歩いていたら、きっと同じことを感じているに違いないとも思った。
 共感、か。
 優太は、どうして急にマナに会いに行こうと思ったのか、どうしてまだ大人とも言えない少女に自分のことを語ろうと思ったのか、自分でもよくわからなかった答えが、今ようやくわかったような気がした。


December 24 凛子

 共同の、ということにはなっているが、ほとんど優太専用になってしまっていたパソコンの電源を入れる。凛子のもとから優太がいなくなって、もう二週間も経っていた。
 優太のメールを覗き見て以来、凛子は、今まで気にも留めなかったパソコンの中身が気になりだしていた。けれど、実際に見ることをしなかったのは、決定的なものを見せつけられるのが怖かったからだ。優太が突然帰らなくなり、連絡が一切取れなくなってからも、この一歩を踏み出す勇気はなかなか出てこなかった。ここを探せば、もしかしたら優太の居所を知る手がかりになるかもしれないと、わかっていながらも。
 それにしても、このパソコンは寝室に置くべきだったのかもしれない。凛子は今頃になってそんなことを後悔していた。些細なことだ。けれど、些細なことを積み重ねた結果が今なのだと思う。優太はある時期から、この部屋に篭りきりになることが多くなった。ふたりの時間が珍しく折り合う夜でさえ、優太は食事が終わればすぐこの部屋へと移動してしまっていた。パソコンがここになかったら、どんな時間を過ごせただろう。
 黒い革張りのローソファに腰掛けて、凛子はパソコンが起動するのを待った。それほど大きくはないが、横になって寝るくらいは可能なサイズのソファは、思ったよりも座り心地がいい。この程よい柔らかさが、優太をしばしばここで朝まで眠らせていたと思うと、憎たらしくもある。同じ家にいながら、優太と顔を合わさずに過ごす一日があるのも、ここ一年くらいでは珍しくなかった。
 パソコンがようやく起動した。ふとディスプレイに目をやると、見慣れぬものがひっついている。
「ウェブカメラ?」
 いつの間にこんなものを取り付けたのだろう。そんなことを考えながら画面に目をやり、凛子はさらに驚いた。『凛子へ』という名前がつけられたフォルダがそこにあったからだ。
 こんなところに自分宛のなにかが残されているなんて、凛子は思いもしなかった。優太は、このパソコンを見られることを想定していたのだろうか。それは、凛子が携帯電話を盗み見たことに気付いていたからなのか、それとも――。
 心臓の高まる音を気にしながらも、凛子はそのフォルダを開いてみる。そこには番号がつけられたファイルが並んでいた。
『凛子へ1.avi』
 末尾につけられた番号にしたがって、凛子はひとつめのアイコンをダブルクリックした。アプリケーションが立ち上がり、ディスプレイの中にインカムを付けた優太の姿が現れる。
「今日は、えっと......十二月三日だ。凛子がこれを見てるってことは、もうふたりの関係がダメになってるってことかな......」
 心臓がとくとくと鳴り出す。凛子は、友人が昔「人って本当に驚いたり、緊張する場面に遭遇したら、心臓はドキドキじゃなくて、とくとくって鳴るんだって。乾いた響きっていうの?」などと言っていたのを頭のどこかで思い出す。確かにその通りだ。心臓が自分の居場所を主張しているかのような、早く正確な心音が、自分でも冷静に聞き取れる。
 映像の中にいる優太は、カメラの方を向いたり、時折目線をそらしたりしながらも、ゆっくりと語り続けていた。優太の声をこんなに聞いたのは、久しぶりかも知れない。画面越しとはいえ、優太の視線を真っ直ぐに捉えたのも。
「凛子はもう忘れちゃってるかな。ふたりで初めて行った旅行、鎌倉だっけ? あれ、凄い楽しかったな。凄く寒くて、しまいには雨も降って散々だったけど。手を繋いだら、凛子の手が震えててさ。あのとき、守ってやりたいって、本当にそう思ったんだ......」
 順番ずつファイルを開いていくが、優太はそんな思い出話を語るばかりだった。凛子だって、どれも覚えていた。むしろ、自分ばかりが覚えていて、優太は忘れているのだろうと思っていた話ばかりだった。あれほど自分に無関心だった優太が思い出を語るなんて、嬉しい反面、奇妙にも感じた。どうして今さら、どうしてこんな形で、優太は思い出話なんかをするのだろう。
 やがて、最後の番号が振られたファイルまでたどり着いた。このまま思い出話で終わってしまったら、なんの手がかりにもならない。そう思いながら動画を再生させると、そこには今までより暗い表情の優太が映っていた。
「やっぱりダメだな。凛子に話しかける練習をしようと思って、こんなことを始めてみたんだけど......今、改めて自分の姿見てみたけど、おかしいよな、これじゃ。でもさ、俺、変わろうって思ったんだ。このままじゃ凛子との関係はダメになるって、わかってるんだ。でも......変われそうもないや」
「諦めないでよ」
 凛子は思わず映像に向かって声をかけた。しかし、画面の中の優太は自嘲的な微笑を浮かべるばかりだ。
「いつからこんなことになっちゃったんだろう。もしかしたら、初めから上手くやれてなかったのかもしれないな。凛子に気持ちが伝えられない。伝えるのが、怖いんだ。ガキみたいだって言われそうだけどさ、一旦そう思い始めたら、もう凛子に対してなにもできなくなっちゃったんだよ。でも本当はわかってるんだ、どんなに相手を想ってたって、なにも行動しなけりゃ無関心でいるのと同じなんだってことぐらい。それなのに......変われなかったよ。俺はダメだった。実の弟に自分の妻を寝取られても、なにも言えないなんて、どうしようもないよな」
「え?」
 聞き捨てならない一節を耳に挟み、凛子は慌てて動画を少し前からもう一度再生する。
「......れなかったよ。俺はダメだった。実の弟に自分の妻を寝取られても、なにも言えないなんて、どうしようもないよな。......本当は、ずっと気付いてたんだよ。あの香水は、地平が高校生の頃からずっと気に入って使っていたやつだからね。たまにみんなで会うとき、地平が凛子によそよそしくしてるのもわざとらしくて不自然だったし。......でも、別にそのことを怒ってるわけじゃないんだ。むしろ、怒れない自分が悔しいよ。凛子をそんな状態へ追いやった自分が情けない。凛子を取り返せない自分が......最低だよ」
 気が狂いそうだった。絶対にばれていないと思っていた地平との情事が、すべて優太にお見通しだったなんて。
 ディスプレイの中で、優太は宙を見て、所在なさげに話を続ける。
「なあ凛子。俺はこうやって見えない凛子に気持ちを伝えるのが精一杯の、臆病なガキだったんだよ。ゴメンな、こんな男で。今さらなにをどう言っても信じてくれないかもしれないけど、凛子を愛してるよ。でも、もう遅いってことはわかってる。凛子の気持ちが、もう完全に俺を向いてないのも知ってる。だから......自由になっていいよ。離婚届、キーボードの下においてあるから。本当に、本当にごめんな」
 映像はそこで途切れた。
「そんなプレゼント、望んでなんかいないわよ」
 怒りのせいか、それとも悲しみのせいなのか、画面に向かって毒づいた凛子の声は震えていた。よりによってクリスマスイブにこんなものを見つけてしまうなんて、間が悪いにもほどがある。
 勝手に自分に見切りをつけて勝手に消えるなんて、本当にガキだと凛子も思う。けれど、そんな優太を選んだ結果、凛子はここにいるのだ。勝手に終わらせてもらっては困る。
 なにもしないでいれば優太はこのまま一生戻ってこないだろう。なんとかして優太を見つけなければ。でも、職場に連絡をしたら長期休暇中だと言われてしまったし、特に親しかった友人の影もない優太の行き先なんて、もう手がかりが――。
 ないことはない。
 頭の中に、地平の顔が思い浮かぶ。しかし凛子はそれをすぐに掻き消した。こればかりは、夫婦の問題なのだ。彼を介在させるわけにはいかない。
    でも、どうすれば?
 はやる気持ちを抑えきれず、なにをする宛てもないのに凛子は立ち上がった。と、その瞬間、携帯電話がけたたましく鳴った。凛子は勢いで、すぐに「もしもし?」と答えた。
「あの、ユータさんの奥さんですか?」
 電話の向こうから、潜めたような心もとない声が聞こえた。女の声だ。
「あなたは誰?」
「あたしは......えっと、マナと言います」
 マナ。凛子はすぐに思い出した。優太の携帯にいくつもメールを送っていた、あの名前だ。優太はこの女と一緒にいるのだろうか。凛子のその考えは、すぐに否定された。
「ユータさんは、家に帰ってますか?」
 不安そうな声だ。もしかしたら、彼女も優太の行方を捜そうとしているのかもしれない。それにしても、なぜ?
「ちょっと待って、唐突になんなの? あなた、どうしてあの人がいなくなったことを知ってるの? あの人とはどういう関係なの? なぜあなたが私の番号を知ってるの?」
「ごめんなさい。あたしはただ、ユータさんが無事かどうかを確認したくて......。だって、電話もメールも拒否されちゃって連絡もつかないし。でも、その様子だとやっぱりユータさんはまだ家にも帰ってないんですね。あたし心配です。たぶん......ユータさんと最後に会ったのは、あたしだと思うから。あの、今から会えませんか? 詳しくは、会ってお話しますから」
 悔しいけれど、相手は優太となにかしらの関係がある。そして、たぶん優太について、自分よりもなにか知っている。凛子はもはやその一点に縋るしかなかった。
    たとえ夫の浮気相手だとしても、今や夫の消息を知るための唯一の手がかりなのだ。

 一時間後、待ち合わせ場所として指定されたファーストフード店に入り、凛子はキョロキョロと中を見回した。まるで歌舞伎町の喧騒が店内にまで充満しているような、落ち着かない店だ。
 こんなところで食事をすることはおろか、コーヒーの一杯を飲むことすら十年以上も前に卒業した凛子にとっては、完全にアウェーの場所だった。油の匂いと埃っぽさが鼻について、気持ち悪い。しかし、今は優太への手がかりはほかにないのだし、足をすくめているわけには行かない。
 階段を上り二階の席を探すと、電話で予告された通りの、白いショート丈のダッフルコートにデニム地のミニスカートという組み合わせは、すぐに見つかった。その姿に、凛子は正直言って愕然とした。
 若いなんてもんじゃない。
 電話の声も相当若そうだと思ったけれど、それでも二十歳そこそこくらいだろうと考えていた。けれど、目の前に現れた彼女は、どう見ても文字通り「少女」だった。もしかしたら、同世代の他の女の子たちと比べれば大人びているのかもしれない、そんな風格はある。けれど、凛子くらいの女性からすれば、完全に子供と言って良い風貌だ。
「――マナさん?」
 声をかけると、少女はこちらを向いて、しっかりはっきりと凛子の目を見た。いや、睨みつけたと言ったほうが正しいかもしれない。その照れのない純真さは、まさしく子供特有のものだった。
「あなたがユータさんの奥さん、ですか?」
 電話で言ったのと同じように、どこか儚げな声で少女は言う。それでいて表情はとても挑戦的で、ともすればビームでもくり出しそうなくらいの強い眼で凛子を睨みつけている。
「そうよ」
 凛子はそこに立ったまま、マナを見下ろした。目線が上にあると、それだけで、立場が有利になった気になる。頭を決して下げることなく、凛子は簡単に礼を言った。
「主人がお世話になったようで、どうもありがとう」
 今、目の前にいる、このマナという子――凛子がとうに失ってしまったなにかをまだ無限に持ち合わせている少女――に、問いただしたいことはいくらでもあった。しかし、ここで取り乱したら、女として負けだ。それは凛子のプライドが許さない。
「聞きたいことはたくさんあるんだけど、まずは場所を変えてもいいかしら? 私、こういう雰囲気のお店って、慣れないのよ。おいしいコーヒーを飲ませてくれるカフェが近くにあるから、行きましょう。奢るわ」
「ふーん。私はどこでもいいですけど」
 マナはすぐに席を立ち、飲んでいたソフトドリンクの紙コップを捨てに行く。その素直な後姿を見て、凛子はどうしようもなく自己嫌悪した。
 上から目線でプライドを保って大人ぶる――それがなにになるのだろう。もしかしたら、自分のこういうところが夫を追い詰めてしまったかもしれないのに、それでもまだプライドが自分を守ってくれると、どこかで信じているのだろうか。
「さあ、どっちですか? あたしは逃げも隠れもしないんで、どーぞ案内してください」
 目の前に立つと、少女は最近の若い子らしく発育が良かった。凛子だって女性としては長身なほうなのに、そんな凛子より少女のほうが、五センチほど背が高い。
 少女に見下ろされてしまっては、もうプライドもなにもない。だいたい、真実を知ることを恐れている場合でもないのだ。
 凛子は覚悟を決めて、マナと一緒に歌舞伎町の人波の中を泳ぎ始めた。


December 24 地平

 人ごみの中に紛れている瞬間、地平はどんなときより気楽に呼吸ができる。
 周囲にこれだけ人間がいるのに、その中のほとんどすべての人間は二度と会うこともない、完全に自分と無関係な存在であるということ――それが、どれだけ幸せなことか。
 人と関わるなんて、なにかを求められたり、求める振りをしたり、面倒くさくややこしいことばかりだ。とはいえ、自分が独りで生きてるわけじゃないことも、一応は理解しているつもりだが。
 そんなことを考えながら、地平は待ち合わせ場所に二分遅れて現れた真治に手を振る。
「おう、久しぶり」
 学生時代には何日も家に帰らず一緒に遊び倒したりした友人とも、今や年に二度か三度、会うたびに一言目が「久しぶり」と挨拶するくらいの関係となってしまった。それでも色々な噂は自然と耳に入ってくるもので、今日真治が久々に飲もうと声をかけてきた理由は、地平にもなんとなくわかっていた。
「真治、おまえ彩ちゃんと正式に婚約したんだって? おめでとう。でも、クリスマスイブに婚約者ほったらかしで俺と遊んでていいのかよ」
「いいのいいの、向こうは独身最後のクリスマスを両親と一緒に過ごしたいって言うんだから」
「とか言って、案外彼女も独身最後のいけない思い出作りの真っ最中かもよ。おまえと同じようにな」
「ははは、あの子に限ってそんな」
 互いに軽い口調ではあるが、なかなか不謹慎な話である。婚約者の本音はともかくとして、こんな日に地平を呼び出した真治のほうは、少なくとも今、人生の重荷を背負う前にちょっと遊んでみたいと思っているということだ。
「で、今日はどうすんの?」
「久しぶりにナンパでも」
「ナンパ? 今さら?」
 よくよく話を聞いてみたところ、真治のやりたいことというのは、たいした内容ではなかった。ただそこらへんで女の子を引っ掛けて、ほんのちょっと食事をして遊ぶくらいで良いというのだ。
「そんなんで満足できるかよ」
 地平は鼻で笑ったが、どうやら本気らしい。なんでも、結婚をしてからも合コンや風俗くらいは行けるし、なんなら恋愛だってできる。その代わり、気軽なナンパみたいなものほど難しくなるというのが真治の言い訳だった。地平から見れば、どれも大差ないだろうにと思うのだが、結婚するということは、もしかしたらその考えからして改めなければいけないことなのかもしれない。まったく、人間は面倒なことをするものだ。
 ともかく、気軽に女の子と遊ぶためには、地平の顔が必要だと真治は言う。
 そう頼りにされるほど、地平は確かに女から好まれる類の、整った精悍な顔立ちをしていた。地平自身も、そのことはよく知っている。かつて養父母に、おまえはどんどん生みの母親そっくりになっていくねと哀れまれたこの顔は、地平にとっては、鏡を見るたびに心の奥底のほうが凍りつく代物だ。しかし女たちにそんなことはまったく関係なく、むしろこの顔にばかり価値があるかのような言い方をされることも多々あった。実際、「あなたの顔だけが好き。中身は人でなしよ」などと言ってきた女もいたくらいだ。ちなみに、何度か寝たのに、地平はその女の顔も名前も思い出せないが。
 いずれにしても、今日の地平はなんだか気が進まなかった。うまく言えないが、いやな予感がした。だいたい、クリスマスイブのように街中が浮かれているときは、自分にはろくなことが起きない。地平はいつもそんなふうに感じていた。
 しかし、真治は勝手に地平の了承を得たと勘違いして、一歩先を浮かれた様子で歩いていく。まあ、仕方ないか。本当にこいつは愛すべきバカなのだ。地平は親友への結婚祝いだと思って、ここはひとつ一肌脱いでやることにした。
 ふたりのやり方は、決まっていた。まず、口がうまくて親しみやすい真治が声をかける。そして、無口だが顔の良い地平がその後ろでにっこりと笑う。それだけでいい。たいがいの女の子は、たったそれだけですぐに興味を示してきた、はずだった。
 けれど、どうしたことだろう。地平と真治の漁は、なぜか今日に限ってちっともうまく行かなかった。
 クリスマスイブという日取りがまずかったのだろうか。通りを行くめぼしい女の子は大抵男を連れていた。たまに女の子だけのグループを見つけて声をかけても、これからパーティーに行くだの合コンに行くだのと、反応が冷たい。かわいい子は、クリスマスイブに予定もなく歌舞伎町をほっつき歩いたりしないのだろう。
「くそう、地平の力をもってしてもだめか」
「期待しすぎないでくれよ。俺なんて、元々こんなもんだよ」
「わかってないな。うちの嫁だって、おまえに初めて会わせたとき、大騒ぎだったんだぞ。めちゃめちゃカッコイイ、どうして早く紹介してくれなかったの、なんてさ」
 まだ結婚したわけでもないのに、もう彼女を嫁呼ばわりかよ。地平はそんな軽口を口から吐き出しかけて、しかし、飲み込んだ。真治の目の色が急に変わったのがわかったからだ。
「どうした?」
「あの子、なんか見覚えあるな。......うん、そうだ。間違いない」
 信号が変わって、向こうから押し寄せてきた人の大波の中に、どうやら真治の顔見知りがいたようだ。こうなったら、少しでも知っている顔のほうが声もかけやすいし、成功するかもしれない。そう考えた地平は、ターゲットを確認する。
「どれ?」
「ほら、あそこの白いダッフル」
 真治の目線の先に、確かにその服装の女の子が歩いていた。しかし、どう見ても高校生くらいだ。
「なんだ、子供じゃん」
「そうそう、子供だよ。ほら、前に話さなかったっけ。合コンに来て、自殺しようとした話をしてた痛い子がいたって」
「自殺?」
 毎日いろいろな話題や出会いがあるが、真治から聞いたその話はなんとなく印象的で、地平の脳裏にもうっすらと残っていた。記憶の糸を手繰り寄せて、情報を探す。
「ああ......思い出した。自殺しようとしたところを助けてくれたオヤジと援交してる、みたいな話だっけ」
「そう、それそれ。もう今日はしょうがないから、あの子で手を打とう」
「マジかよ、痛い子なんだろ。俺、面倒くさいことになるのは嫌だよ」
「大丈夫だろ、どうせオヤジと付き合ってるような子なんだからさ。ほら。俺から行くから、地平は後ろでイケメンスマイルな。じゃあ行くぞ」
「おい、ちょっと待......」
 真治に引っ張られて、少女との距離が縮まる。よくよく見ると、今どきの女子高生風ではあるが、どこか清らかな、背筋の伸びた子だった。援交などという言葉はあまり似合いそうにもない。白い服で軽やかに歩くさまは、人ごみという名の泥川で遊ぶ、小さな水鳥のようにも見える。まあ、水鳥などというものは水面下でひどくジタバタしているのが相場なのだから、結局は少女が裏でなにをやっていようが窺い知ることはできないということだ。
 いよいよターゲットまで、あと三メートルと迫った。地平の視界が広がって、少女の周りまで捉える。そうして、その少女のすぐ斜め前をよく知った顔が歩いていることに気がついた。
「凛子さん......」
 クリスマスイブなんかに、こんなところで知り合いに会うのは、正直言って面倒くさいことだ。しかも、よりによって相手は肉体関係まである義姉なのだから、それだけで話は複雑だ。
 地平の足は止まった。
 が、真治はそれに気付くことなく、ずんずん進んでいく。ターゲットはもう目の前。
 諦めるしかない。
 大丈夫だ、この大都会で、自分の後ろの人に声をかけた男にまでいちいち注目する人など、そういない。いるとしたら、よほど自意識過剰なのだろう。凛子ならその点は心配なさそうだ。凛子が通り過ぎるまで、真治の影にでも隠れて顔を見られないようにすれば、それで問題はない。地平は自分に言い聞かせた。若干背中を丸めて、顔をあさっての方向に背けながら。
「お、久しぶりじゃーん。今日はひとり?」
 真治がとうとうターゲットに声をかけた。あれほど痛い子だとバカにしていた割に、ずいぶんとフレンドリーな態度なので、思わず地平は失笑しかけた。が、その顔は次の瞬間、固まった。
 後ろの少女に声をかけただけなのに、なぜか凛子までが足を止めて真治を見ている。
「久しぶり、って、誰でしたっけ? とりあえず今あたし、ひとりじゃないんですけど」
 怪訝そうに答えた少女の手前で、一緒に足を止めた女に真治は目を向けた。
「そちらはもしかして、お姉さんですか? ちょうど良かった、俺らこれから飯食いに行くんだけど、こっちも男ふたりだし、一緒にどう?」
「男ふたり?」
 女たちの視線が、真治の後ろで気まずそうに顔を背ける地平の顔に集まった。
「え、地平......?」
 呆然と、しかしほんのりと頬を赤らめて、凛子が言った。真治はそれを見て、ますます都合が良いと思ったのか、無遠慮に話を広げようとする。
「あらら。なんだよ、地平の知り合いなの? ますます奇遇だね。おい地平、さっさと俺のこと紹介してくれよ」
 とてもごまかしきれる状況ではないと、地平は悟った。仕方ないので、ただ事実だけを表情もなく述べる。
「これ、俺の学生時代からの友達で、真治。で、こちらは凛子さん。俺の兄貴の嫁さんだよ」
「へえ、お兄さんの。え、それって......」
 地平と兄嫁の関係を知っている真治が、うっかりそのことを口にしそうになる。地平がそれを止めようとした瞬間、少女の言葉が割って入る。
「え? ってことは、ユータさんの弟?」
「ただのナンパよ。行きましょうマナちゃん。今は私たちふたりで話すほうが先よ」
 凛子が焦ったように少女の手を引っ張った。彼女も、ここで地平との関係が明らかになるのはまずい思ったのだろう。
「そうだったのか。お取り込み中、邪魔して悪かったね」
 地平は思慮深い顔を装って、色のない声で言った。彼女があの少女とどういう理由で今一緒に歩いているのか、あの少女が兄のなにを知っているのか――わからないことだらけではあったが、関わらないほうが賢明だということだけはわかった。
「そ、そうか。残念だなあ。でも邪魔しちゃ悪いもんな。じゃあ、また今度ね」
 真治も同調してくれた。さすがは空気の読める親友だ。地平と目の前の女がただならぬ関係と知っている以上、楽しい食事など望めるはずがないのはよく理解しているのだろう。
 大人たちは三人とも、それぞれの事情に則って関わりを避けようとした。理知的に。しかしそれは、大人のルールを知らない子供にとっては、まったく関係なかった。
「あの、弟さんはユータさんの行方を知りませんか?」
 少女が唐突に話を切り出した。さすがの地平も、その話題には無関心を装うわけにはいかなかった。
「優兄ぃの行方? どういうこと?」
「あの人......いなくなったのよ。二週間くらい前から」
 渋々といった感じで凛子が答える。少女は身を乗り出すように地平に訴えかけてきた。
「これって、弟さんにも関係ある話なんじゃないですか?」
 少女の言葉の意味を、地平は量りかねた。単純に兄弟だから関係があると言っているのか。それとも、優太が失踪した原因が自分と凛子の関係にあるからなのか。それを、この少女が知っているのか――。地平は思わず凛子の顔を覗き込む。しかし、無言の問いかけに対し、凛子はただ困ったように目を伏せるだけだった。
「俺、とりあえず外したほうがいいかな? 地平、俺どこか適当なところに入って待ってるからさ、話が済んだら連絡くれよ」
 真治はそんな言葉を残して、そそくさと逃げてしまった。
    女たちの関係は、未だによくわからない。さてどうしたものかと空を仰いで、地平はふと思い出した。
「あ。俺、たぶんわかるよ。優兄ぃが今どこにいるか」

 父を失い、母も失ったと同じ状態であった地平と優太の間には、どんな状況にあっても互いの所在だけは常に明らかにしておこうという約束があった。携帯電話が発達し、GPS機能が追加されたときは、「俺たちにとってこれほど便利な機能はないな」と笑い合ったものだ。
 凛子たちが見守る中、地平は自分の携帯電話を操作する。手のひらに収まるほどの小さな機械で、優太の居場所はあっさりと判明した。
「信じられないわ。こんなに簡単に見つかるなんて」
 凛子が大げさに驚いている横で、地平も驚いていた。
 いったい、どうして優太はこんな場所にいるのだろう。
 そこは、病院だった。母親が入院しているであろう病院。一度も見舞いになど行ったことはないが、父の眠る墓からほど近いということもあり、地平も場所だけはなんとなく知っていたのだ。
「そういえば......優兄ぃから留守電が入ってたんだ。そうだ、ちょうど二週間くらい前。母さんの容態が悪化したらしくって、もしかしたらもう長くないかもしれないって」
「なによそれ、私そんなこと聞いてないわ」
 凛子が叫んだが、それは夫婦のコミュニケーションの問題であって、地平には関係ないはずだ。しかし、そう言って凛子を突き放すことはできない。
「でもさ、その電話は『俺たちにはもう関係ない話だけど、一応連絡しておくよ』っていう内容だったんだよ。だから、俺もすっかり忘れてたし、まさか優兄ぃがそこに行ってるなんて......」
 必死に言い訳の応酬を重ねるふたりの大人を目の前に、マナという少女だけがひとり、黙ったままなにか考え込んでいた。凛子の目には、そんなマナがもはや見えなくなっているのかもしれない。
「お母さんが危ないなら、行かなきゃだめよ。私は行くわ。ねえ、地平くんも一緒に行きましょうよ」
 地平くん――その他人行儀な呼び方が、地平の心に残った古傷をえぐる。

――凛子さん 愛してるよ
――本当だよ 信じてよ
 初恋だった。
 凛子は元々、地平が高校時代に通っていた予備校の事務員だった。まだ若かった凛子は、おそらく見た目で地平を気に入ったのだろう、顔を合わせるたび、頻繁に声をかけてくるようになった。
 幼くして人を信じるという心を忘れてしまった地平にとって、母のように取り乱したりすることなくいつも大人らしく振舞っていた凛子は、兄以外で初めて心を開くことのできる相手になっていった。肉欲もあり余る年頃だったふたりが距離を縮めるのに、さほど時間はかからなかった。
 地平は初めての恋愛に、溺れた。
 今、地平はあのときの凛子くらいの年齢になり、当時の自分くらいの年頃のマナを目の前にしている。てんで子供なのが、よくわかった。凛子にとって地平との関係は、ただの遊びだったのだ。それなのに、地平は勘違いしてしまった。いつか凛子と結婚したいと思っい、だから唯一の肉親である兄を紹介してしまった。
 兄は既にきちんと働き、地平を養うほどに金もあり、落ち着いて真面目な男だった。おまけに、よく見れば顔も地平と似ている。
「素敵なお兄さんね。私、好きになっちゃったかも」
 三人で食事をした後、地平と身体を重ねながら、凛子はあっけらかんと言ってのけた。結婚適齢期だった彼女にとっては、兄のほうが魅力的に映ったのだろう。この人にとって、自分は本当にただの遊び相手だったのだと思い知らされた。
「この前の、凛子さん? あの人、地平の彼女じゃなかったのか。俺、映画に誘われてるんだけど」
 隠しごとのない兄弟だったからこそ、兄は素直にそう報告してきた。地平は笑った。
「凛子さん? 俺にとっては姉貴みたいなもんだよ。でも、いい女だよね。気に入ったんなら付き合ってみたら? 優兄ぃとあの人がくっついたら、嬉しいよ。だって、本当の姉さんになるじゃん」
 ふたりの結婚が決まるのは、あっという間だった。
 
「行くわけないだろ。あの人になにがあろうと、もう二度と会うつもりはないんだからさ。大体、俺が凛子さんと一緒に行ったりなんかしたら、優兄ぃに変な誤解を与えちゃうんじゃない?」
 地平はわざと凛子を困らせるように言う。凛子は、もはやマナが見えていないどころか、その存在を忘れてしまっているかのようだった。ふたりで会っているときの、理知的というよりは動物的な、もはや冷静とはいえない女の顔で、地平に訴える。なにかを赦せるのなら、なにかに縋れるのならと足掻いている、いつもの表情。自分が選択しなくてはいけない結末なら、知っているくせに。
「それが......もう誤解じゃないの。あの人はすべて気付いてた」
「気付いてた?」
「そう。ずっと前からわかってたみたい。でも、だからこそ私、すぐに会いに行かなきゃいけないと思うの」
 地平は気が遠くなりそうだった。
 自分のしてきたことを、兄が知っていた? 兄が傷つかないわけがなかった。にもかかわらず、彼はいつも自分にとって一番優しい兄でいた。裏切りたいなどと思っていたわけではないのに。ただ、凛子にあのときの仕返しがしたかっただけなのに――。
 体の中に染み渡っていく痛みに耐えながら、けれど地平は必死で平静を装った。
「それは、凛子さんの問題だろ。俺には関係ないよ」
 凛子はとうとう諦めたようだった。
「そう。じゃあ私、行くわ。ひとりでも、行かなきゃならないの」
「優兄ぃによろしく」
 立ち去る凛子の後ろ姿を、ただ突っ立って見送る。自分に抱かれているときはあんなに愛おしそうに見つめてきたくせに、凛子はやっぱり優太を選んだ。その事実だけが、この場所に取り残される。
    本当に、ただ仕返しのつもりでいたのに、どうしてこんなに胸が苦しくなるのだろう。

「ダイジョブですか、弟さん」
 そう声をかけられて、地平は我に返る。地平もまた自分のことでいっぱいになりすぎて、すっかりこの少女の存在を忘れていた。
「ああ、ごめん。大丈夫だよ」
「っていうか、あたし全然話が見えないんですけど」
 すっかり蚊帳の外にされていたことに、腹を立てているのだろう。けれど、口を尖らせて怒ってみせるマナは、どことなく可愛げがあった。
「ごめんな。でも、それを言うなら俺だって、キミが何者なのか知らない。優兄ぃとどういう関係なのか、凛子さんと会ってなにを話そうとしてたのか、謎だらけだ」
「それは――」
「待った。こんなところでいつまでも立ち話してたら、風邪ひいちまうだろ。そうだ、三丁目にいいバーがあるんだ。ヒマなら一杯付き合ってよ」
「別にいいですけど。さっきのお友達さんも来る?」
「いや、あいつはいいや。行こう」
 バーへの道すがら、地平は歩きながら真治に電話をした。歌舞伎町はますます賑やかになり、電話の音が聞き取りにくい。
「もしもし、真治?」
「おう、地平、どうだった?」
「ちょっと面倒なことになってさ。今日はそっちに行けないかもしれない。悪いな。埋め合わせは、またどこかでするから」
「気にすんなよ。でも、参ったな。ちょうどさっき由利ちゃんが店に来てさ。偶然。イブに独りで部屋にいるのも寂しいからって、飲みに来たみたいだよ。それで俺、もうすぐ地平もここに来るよって言っちゃたんだよな」
「ごめん。たぶん無理だから、由利にもよろしく言っといて」
「わかったよ。おまえもなんだか大変そうだけど、がんばれよ」
 バカなところはあるが、思いやりのある親友だ。そう思っているのに、乾いた笑いでしか返事のできない自分を忌々しく思いながら、地平は電話を切った。すかさず、マナが心配そうに声をかけてくる。
「やっぱ待ってるんじゃないですか」
「大丈夫。向こうは向こうで、よろしくやってるよ」
 地平はマナの肩に軽く手を添えて、抱き寄せる。ついでに、真治が言うところの無敵の笑顔で囁いた。
「あ、それから、弟さんじゃなくて、地平って呼んでね」
 よろけそうになりながら、マナはすぐさま地平から体を離した。いいさ、時間はたっぷりある。
 地平はお気に入りの「rit bar」に入った。そこは奇しくも、真治と由利が飲んでいる「Refrain」と同じビルの中にあった。


December 24 マナ

「え。バーテンって、バーの店員って意味じゃなんですかあ?」
 マナがとぼけた様子でそう言うと、地平はくっくっく、と乾いた笑いで返す。内心では大して面白いとも思っていないくせに、ここは笑っておけばいいんだろうとでも言いたげな態度だ。もっともマナのほうだって、「こう言っておけばオジサンたちは喜ぶんでしょ」と思っての発言だったのだから、そこはお互いさまかもしれない。
 こんな駆け引きめいたやりとり、バカバカしいとマナは思う。けれど、こうしてはっきり意識を持って距離を保っておかないと、目の前のこの男は危険な気がした。実際、店に入ってからのたった二十分ほどで、地平の手がマナの肩や腰にさりげなく触れる回数は、もう両手でカウントしきれなくなってしまった。
 決してわざとらしくなく、むしろどこか紳士的ですらあるその手は、女心の一部分を確かに「いい感じ」にさせる。そして、マナにはそれがとても怖いことに思えた。

 あのときもそうだった。マナが父親に組み伏されたあの日。
 父親は最初、ひどく優しく近づいてきた。いや、違う。あの男は、ずっとマナに優しかった。母親が死ぬよりずっと前、マナの物心がついたときから、ずっとだ。だからマナも精一杯その優しさに応え、持っている限りの愛情でいつも家族を明るくしていきたいと思っていた。
 でも、あのときの話が本当なら、最初からずっと騙されていたのだ。だって、あの優しさは父親が自分の娘に持つ無償の大きな愛ではなかったのだから。そもそもマナは、あの男と血の繋がった娘ですらなかったのだから。

 地平の優しさが、考えないようにしていた父親の気持ち悪い顔を思い出させた。不快感が、マナの頭の中に無遠慮に侵入してくる。
 いやだ。
 あたしはママの代わりじゃない!
 そう思ってマナがきつく目を閉じた、その瞬間。
「野島くん、だめだよぉ、その手。セクハラで訴えられちゃうよ」
 マスターの声が、地平の手にさくっと突き刺さって、マナの身体がふっと解放された。
「そーですよ。もう、なにするんですか。このエロオヤジ!」
 調子を合わせてマナが言うと、地平は「オヤジかよ......俺、まだ二十五なのに」と、バツが悪そうに笑った。四十代くらいかと思われるマスターは気さくな人らしく、マナだけにわかるよう、こっそりウインクをした。さっきからこうして頻繁にマナたちを気にかけ、なにかあればすぐに声をかけてくれる。どうやらこのバーは、そういう意味でとても良心的なようだ。
 それだけでない、ここは確かに居心地のよい店だった。そこらの居酒屋と違って、明らかに未成年に見えるマナには、アルコールを決して出さない。それでいて、きちんとシェーカーを振ってノンアルコールのカクテルを作ってくれるのだから、とても気が利いている。
 目の前のグラスを満たすきれいなオレンジ色をした液体は、マナの心を少しだけ強くしてくれるようだった。言うなれば、バーに来たからといって必ずしもアルコールを飲まなくてもいいという、自由。
 たとえばそれは、男とふたりでいるからといって、必ずしも自分が女である必要はないということと似ている。
「マスター、同じのもう一杯」
 地平が早くも三杯目の水割りを注文した。少し酔ってきたのか、背骨を抜かれたようにふにゃふにゃしている。そうやって少し情けない横顔を見せつけられると、いくら危険な香りがするといっても、この男が悪い人間とはマナには思えなかった。
「やっぱり、似てますね」
「え、なにが? あ、優兄ぃと俺?」
「うん」
 真面目そうな兄と、いかにも遊び人らしい弟。一見全然違うのに、よく見ればやっぱり似ている。男性の割にきめが細かくきれいな肌も、太くもなく細くもないまっすぐな眉毛も、甘えたがりの女の子のような下唇も、冷たい印象を与えるようで冷たくなりきれない切れ長の目も。
「ま、ユータさんのほうがダサいけどね」
「ははは」
「でも、ユータさんのほうがかっこいいよ」
 少々意地悪な気持ちでマナがそう言うと、地平の顔から取ってつけたような笑顔が消えた。
「......ベタ惚れだな」
「えー、これって惚れてるのかな」
 マナは言った。本気でわからなかった。
 確かに優太をどこか心の拠り所にしている、その自覚はマナにもあった。でもそれは、あのタイミングで、あんなふうに出会ったせいだ。そうでなければ優太など、マナにとってはどこにでもいるただの地味なオジサンと変わらなかった。駅ですれ違ったとしても、立ち止まることもなかったはずだ。
「恋愛感情を持つっていうのは、難しいですよ。だってユータさん、オヤジだし」
「でも、かっこいいんだろ?」
「しかも、奥さんだっているし」
「うまくいってなかったみたいだけど?」
「なんか、会話がかみ合わない」
「キミが悪い」
 地平はカウンターに頬杖をついて、意地悪そうにマナを見下ろす。素直に優兄ぃを好きだって言っちまえよ、そんなふうに急かしている眼だ。
「うーん、だから、あのですね」
「なに?」
「相手をね、文字通りの意味で『食べてしまいたい』って思うのは、愛ですか?」
 唐突な話に、面食らったのだろう。地平は頬杖をくずして、腕組みしてたっぷり考えてから答えた。
「難しい質問だな。愛情があるからこそ、そう思うっていう奴もいるかもしれない。でも、俺はそんなふうに思ったことはないな」
 そう思う奴。思わない奴。その違いが、曖昧すぎてわからない。ホテルのベッドで優太を噛んだ自分の姿と、母の名を呼びながら自分を犯した父親の姿が、マナの中でふっと重なった。
「わかんない。本当に、わかんないんです。好きとか愛してるとか、そういう気持ち。あたしがずっと愛だと信じてきたものは、ふたを開けてみたら愛でもなんでも全然なかったし、そんなことに傷ついてる自分も、すっごくイヤだし」
「わかるよ」
 だから俺も愛なんて信じないんだ。地平の強い口調はそう言っているようだった。
「でもさ、マナちゃん。愛だと信じてきたものが愛じゃなかったって言うんなら、逆に言えば、今は愛でもなんでもないと思ってるものが、本当の愛になるかもしれないよ」
 そう言いながら再びマナの腰に手を伸ばすので、地平の台詞は一気に陳腐なものと化してしまった。これが単なる口説き目的の台詞でしかないことは、マナが子供でもすぐにわかる。
「やめてください」
 ピシッと地平の手をはたいて、マナは目の前のドリンクを一気に飲み干した。そうして、ほんの少しだけ勇気を与えてくれる魔法の液体に力を借りて、一気にまくしたてた。
「あたし、子供だしバカだし、愛とかわかんないです。でも、ひとつだけわかるの。あたしはあたし。だから、誰かの代わりになんかなれないし、なりたくない」
 それはマナにとって、父親を拒絶する言葉であると同時に、マナで寂しさを埋めようとしているように見える地平を拒絶する言葉でもある。地平にもその空気は伝わったのだろう。ふっと悲しく笑って、「そうか、わかった」とだけ呟いた。
 会話が途切れ、マナのグラスはもうとっくに空っぽだった。やがて、地平のグラスも干される。
「帰ろうか」
 すっかり意気消沈した様子で立ち上がる地平の横顔を見上げて、マナは反省した。少しきつく言い過ぎたかもしれない。よくわからないけれど、たぶんこの人とさっきの凛子さんの間には、なにか深い溝ができてしまった。そんなときにきつい言葉をかけるなんて、私は悪魔かもしれない。
 だけど、こんなときだからこそ、私が慰めるわけにはいかない。
 促されるまま席を立つマナに、マスターが軽くウインクして、「またおいで」とだけ言った。

 店を出て、一階へと下りるエレベーターのボタンを押す。扉はすぐに開いたが、中には先客がいた。抱き合っている男女だ。
「うわっ!」
 目の前で急に地平が立ち止まるので、マナは地平の背中に体当たりしてしまう形になった。こんなところで急に立ち止まるなんて、いったいなにを見つけたんだろうと、マナは地平の肩越しにエレベーターの中を覗き込む。
 見覚えのある顔が、そこにあった。
「あ、さっきの人」
 つい何時間か前のことなので、間違えるはずもない。凛子に連れられて歩いていたとき、マナに声をかけてきた地平の男友達だった。その人が、なぜ今、エレベーターの中で女性の肩を抱きしめながら、驚いた顔でこっちを見ているのか。
 抱きしめられた女性もまた驚いたように、いや、どちらかと言うと怯えたように、目を見開いて地平の顔を見上げている。泣き腫らした後なのは一目瞭然だった。
「野島くん、どうしてここに......」
 最初に言葉を発したのは、女性のほうだった。その目は涙で濡れながらも、どこか甘く緩んでいる。
 もしかしたらこの女性は地平を待っていたのではないか、とマナは思った。今こうして地平が目の前にいるのは、自分を迎えに来てくれたからだとでも言いたげな、か弱そうでいてどこか勝ち誇った、緩い笑顔。
 けれど地平はそんな女性の内心を知ってか知らずか、目の色ひとつ変えずに言った。
「邪魔して悪かったな。マナちゃん、行こう」
 さっさと踵を返した地平に、マナは訳のわからないまま引っ張られる。
「待てよ地平。違うって、これは......」
「野島くんっ!」
 男と女が同時に叫んだが、直後にエレベーターのドアは機械的に閉まった。地平は、何ごともなかったかのように悠々とビルの裏手に回って、勝手知ったる様子で非常階段を降り、ネズミでも出てきそうな汚い裏路地を、マナの手を引いて歩いた。
 地平の手は、汗でじっとりと濡れ、冷たくなっていた。
 バカだなあ、とマナは地平を見て思った。軽蔑ではなく、愛しさを感じて、心からバカだと思った。
 詳しい事情など知らないマナにも、さっきの女性が地平を愛していることくらい、一瞬ですぐにわかった。
 さっきだって――マナは凛子と地平の間にたたずんでいた空気を、思い出していた。
 たぶん彼女は、優太と結婚していながら地平とも関係を持っていた。話を聞きかじった限り、それが優太の失踪した原因のひとつにもなっているはずだ。そういう状況で、彼女が二者択一でどちらかを選ばなければいけないのなら、最後は夫のところに戻るだろう。
 でも、実際には今日の今日までどちらも選べなかったし、どちらも捨てられなかった。優柔不断だからかもしれない。でも、それだけどちらも同じくらい大切だったのだ。
 ――愛でもなんでもないと思ってるものが、本当の愛になるかもしれないよ
 先ほど地平がふざけて口説いてきた台詞が、ふっと頭の中でリフレインする。マナはその言葉を地平にそのまま、なんならきれいにラッピングでも施して、お返ししてやりたいと思った。
 地平さんは、自分のことが見えていないんだ。ちゃんと人から愛されているのに、愛を全然信じることのできない、かわいそうな大人。ちゃんと根本から解決しなけりゃ、この人は一生、人と愛を交わすことができない。
 そうか、だからだ。
 マナはようやく優太が「あの場所からやり直さなきゃ、なにも始まらない」と言ったのを思い出した。突然母親の元に行った理由を、はっきりと理解した。
 結局、兄弟揃って同じことなんだ。ユータさんは人をうまく愛せない。地平さんは人の愛が理解できない。そりゃ、この人が一生愛を理解できなくてもあたしには関係ない。関係ない、けど。
「地平さん!」
 黙ったまま地平の後をついて歩いていたマナが、急に大きな声を出す。
「な、なんだよ急に」
 地平は飛び上がるように驚いて、弱気な声を出した。その様子を見て、マナは笑いながら言った。
「静岡に行こう」
「は?」
「お母さんに、会いに行こうよ」
「なんでだよ。俺は行かないって言ったろ。大体、もう新幹線なんかとっくに......」
「いいから」
 丁度、目の前に通りすがったタクシーを止め、地平を押し込んでから、マナも転がり込む。
「静岡まで!」
 運転手がぎょっとする。地平も力が抜けたように笑って言う。
「無理だよ。おまえ、静岡までいくらかかると......」
「お金なら心配しないで」
 マナは地平の言葉を遮って、バッグから出した財布を開いて見せた。中には厚さにして一センチくらいに見える一万円札の束が入っている。さすがの地平も、二の句が継げなかった。マナの財布をチラッと覗き見した運転手は、「これは上客」とばかりにそそくさと車を発進させる。
 地平はもはや、抵抗する気もなくなった様子でシートにどさっと身体を預けた。

「あのさ、もしかしてキミ、大金持ちのお嬢さんだったりする?」
 首都高に乗ったあたりで、地平はようやく思い出したように、言葉を発した。
「そんなことないよ」
「でも普通の子は、そんな大金持ち歩かないでしょ。......あ、そういえば真治が、援交してるとかなんとかって......」
 地平がそんな単語を出すので、マナは苦々しい記憶とともに思い出した。
「ああ、そうか。あのお友達さん、あのときの合コンの人だ」
「忘れてたのかよ」
「忘れるよ。だって、糞つまんない合コンだったし。だいたいあたし、援交なんかやってないし」
「じゃあ、その大金はなんなんだよ。ワケありなお嬢さんってとこか」
「うーん......」
 そんなありがちな言葉では、括ってほしくない。マナは否定する言葉を探したが、見つからなかった。結局あたしってワケありなお嬢さんなんだなあと、苦笑いするしかない。
「考えてみたら、キミについてまだなにも聞いてないんだよな。どうして優兄ぃと知り合ったのか、どういう関係だったのか。それに、どうして凛子さんと一緒に歩いてたのかもわからないし。ま、興味がなかったから聞かなかったんだけど」
「今は? 興味湧いた?」
「まあね。だから、聞かせてくれないかな」
「そーですね。静岡まで、まだまだ時間はたっぷりあるし」
 車窓の向こうを、たくさんの光が流れていく。
 流されてしまえ、なにもかも。この光たちと一緒に、みんな流されてしまえ。あたしの過去も、地平さんの過去も。
 そんな願いを込めながら、マナはこれまでに起こってきたことすべてを、ひとつひとつ、言葉に変えていった。静岡に着くまで、たっぷりと時間をかけて。


December 25 地平

 タクシーは、排気音ばかりをあたりに響かせながら、小高い丘を上っていた。申し訳程度に生えている木々の向こうに、遠く静岡の街の明かりが見える。
 そのタクシーの中で、地平はマナと互いの身の上を、たぶんふたりがその長いようで短い時間に語れる限界まで語り合った。地平は、マナと兄の関係をようやく理解できた。不倫のようなありふれたつまらない間柄ではなく、でも確かに真剣に想ってくれているマナという存在がいる兄を、地平は心から羨ましく思った。
 病院に近づくにつれ、地平は言葉少なになっていった。マナの質問にも、虚ろにしか答えることができないし、自分からなにかを語ることもできない。ただ頭の中を、取りとめもなく過去が流れていく。
 凛子とのこと。
 由利とのこと。
 母に対する嫌悪感。
 自分の物心もつかぬうちにこの世を去ってしまった、すぐ上の兄である大志のこと。
 自分を本当の子供のように育ててくれた養父母のこと。
 優太が自分の上京を機に地平を引き取ってくれたこと。
 すべてのことが、ぐるぐると回って夜の闇の中に溶けていく。
 タクシーが止まり、ふたりは病院の夜間通用口の前に立った。初めて訪れた、母の病院。病院というよりはサナトリウムといった風情のその建物を、地平は眺め回した。心は落ち着いているつもりなのだが、足がすくんでいるのだろうか、一歩を踏み出すことがなかなかできない。
「地平さん、ダイジョブ?」
 マナが地平の手を握る。そうされて初めて、地平は自分の手が震えていることに気がついた。マナの手はとても温かい。こうして手を繋いでいれば、なんとか楽に呼吸ができるようだった。
 ようやく自由を得た足で、地平は施設の中へと入って行く。
 建物の中は、想像していたよりも穏やかな雰囲気だった。深夜だからというせいもあるのかもしれない。窓に鉄格子があるわけでもないし、廊下などは広々として清潔だった。ガラス張りの吹き抜けとなっているロビーは、昼間になればさぞかし明るいのだろうと容易に想像ができる。
 けれど、地平の母親がいる場所へ向かうには、鍵のかかった二枚の大きな扉をくぐらなくてはいけなかった。警備員のような風格の当直看護師に案内されながら、ふたりはその部屋へと近づいてゆく。
「地平さん。ちょっと痛い」
 気がつくと、地平はマナの手のひらを潰してしまいそうなくらいに強く握っていた。マナの手は、地平の汗で濡れていた。これほど汗をかいているというのに、地平の手は体温を失ってしまったように冷たかった。それがマナのことをも不安にしているのはわかっているが、今の地平にはどうにもしようがなかった。
「こちらです」
 案内された母の部屋には、意外なことに、鍵がかかっていなかった。地平はマナの手を放して、扉を開ける。中の様子を見て、すぐに鍵がかけられていない理由がわかった。
 きれいに並べられた二つの椅子。その向こうに、白いシーツに覆われたベッド。奥では、無機質な機械が定期的に光っていた。ベッドに横たわる女は、体中に色々なものを取り付けられている。もう、起き出して勝手に行動などできない状態であることは明らかだった。
 ふたりの気配に気がついて、椅子の一つに座っていた背中が振り返る。
「地平、来てくれたのか。マナちゃんも。遠いところ、ありがとう。そんなところに立ってないで、こっちに来いよ」
 マナが地平の背中を押し、ふたりはベッドへ二歩三歩と近づく。どこまで近づいたら良いのか、よくわからなかった。
「凛子から話は聞いたよ。俺のせいでお騒がせして、悪かったね」
「凛子さんは?」
 声すら出ない地平の代わりに、マナが訊く。
「今、タクシーでちょっと買い物に出かけたよ。そろそろ戻ってくると思うけど。それより、母さんはもう時間の問題だ。一昨日から、いつどうなってもおかしくないって言われてる。地平もしばらく傍にいられるか?」
 地平はその質問に答える言葉を見つけられなかった。ベッドを見下ろすと、自分に忌わしい記憶しか残してこなかった母親の、やせ細った姿がある。言葉にならないうわごとを繰り返し、時折顔をしかめ、時折静かに呼吸している。
「手ぐらい握ってやれよ。もう意識はないんだけどさ、まだ時々、こっちを見てなにか喋ったりすることもあるんだ」
 優太の穏やかな笑顔が、地平には羨ましく、悔しかった。自分と凛子の関係を知っていて、どうしてそんな顔ができるのだろう。母親をあんなに恨んでいたのに、どうしてこんなふうに世話ができるんだろう。自分から手を差し伸べてみれば、もしかしたらあんなふうに大きな心になれるのだろうか。
 促されるまま、地平は母親の手を握ってみる。温かいのか冷たいのかもよくわからない、乾いた手だった。これが母の手なのか。もともと母親の温もりなど記憶にない地平にとって、初めての感触だ。
 と、そのとき、寝ていた母親の顔が、ピクリと動いた。
「あ......う」
「動いたよ。なんか言ってる」
 誰よりマナが敏感に、母親の変化に気がついた。母親は口を開けると、弱く咳き込んだ。
「きっと、地平さんの手に気がついたんだよ」
 マナが地平の背中を押す。その自然な力に任せて、地平はもう一歩、母親に近づいた。母親は咳が収まると、苦しそうに目を見開き、自らの手を握っている人物をゆっくりと視界に捉えた。虚ろな目ではあるが、確かに地平のことを見ている。そして、擦れた声で振り絞るようにつぶやいた。
「......大志」
 その名前を知らないマナが、視線だけで優太に疑問を投げかけた。優太はすぐにそれを察し、苦笑いしながら答える。
「俺の弟の名前だよ。地平にとっては兄さんだな。母さん、ここんとこずっと大志の名前ばっかり呼んでるんだ。せっかく地平まで来てくれたっていうのにな。俺たちのこと、覚えてないのかな」
 地平は静かに母親の手を放した。それから、黙ったままゆっくりと立ち上がると、優太たちに背を向け、数分前に入ってきたドアを再び開ける。
「地平、どうした」
 優太が声をかけてきたが、地平は答える力もなかった。マナの、「あたしがついてくから、ユータさんはお母さんのところにいてあげて」という声が聞こえた。
 無機質なテンポで歩き、地平は施設の外へ出る。黙ったまま小さな歩幅で自分を追ってくるマナの足音だけに、どこか安心感を覚えた。頭の中が空っぽになってしまったような、あるいは見えないなにかではちきれんばかりになっているような、変な気分だった。まるで、重く濁った水の中を歩いているような気がする。えらを持たない動物は、水の中では呼吸ができない。
 駐車場のはずれにあるベンチまで歩いて、地平はようやく足を止めた。地平がそこに腰掛けると、マナも当然のように隣に座る。人に寄り添うということが、恐ろしく自然にできる少女だな、と地平はぼんやりと感じた。不幸な身の上についてはタクシーの中で聞かされてきたが、たぶん母親が亡くなり父親に強姦されるまでの彼女は、ごく普通に両親の愛情をたっぷり受けて育ったのだろう。そこが地平との決定的な違いだ。
 なにも言わずにただ地平の言葉を待っているマナと、複雑な思いを言葉にできそうにない地平。ふたりの間に、冬の乾いた風と薄い三日月の光が差す。三日月の上には星がひとつばかり輝いていて、それ以外にはなにもない。ただ夜だけがそこにあった。
 ふと見ると、マナはミニスカートからすっと伸びた細い足を震えさせていた。こんな場所に座っていたら、冷えるのは当然だった。地平はマナの肩をそっと抱いた。新宿のバーでそうしたときと違い、邪な気持ちは一切なかった。それが伝わったのだろう、マナのほうも拒絶することなく、それどころか地平の腰に手をまわしてくる。ふたりは抱き合う形になった。その温かさに、閉じていた地平の心が少しだけ開いた。
「......なかったんだ」
 寒さのせいか声は震え、最初のほうは音にすらならなかった。
「え、なに?」
「結局、一度も愛されなかったんだ」
 地平の身体を抱きしめるマナの腕に、いっそう力が入った。地平もマナを抱きしめる。途端に心があふれ出して、言葉になる。
「あの女、俺のことなんか名前も顔も覚えてなかった。やっぱり愛されてなかったんだよ。愛してくれなかった。そんなに俺が必要ないなら、俺のことなんか生まなきゃよかったんだ......。やっぱり、こんなところまで来なきゃよかったよ。来なければ、二度も捨てられることなんかなかったのに」
「ごめんね」
 マナが苦しげに掠れた声を出す。
「あたしが悪いの。あたしが、無理やりこんなところに連れてきたから。でも......地平さんは必要ない人なんかじゃないよ!」
 その言葉と同時に、温かいものが地平に降りかかってきた。地平はベンチの上に押し倒され、マナに唇を奪われていた。
 いつだったか、相手の口を塞ぐためにキスをするのだと地平は言った。このキスも、それと同じかもしれない。地平にこれ以上の弱音を吐かせないための強硬手段。でも、切実だった。性欲でもない、親愛の情でもない、それは、ただただ真剣に地平の存在を肯定するためのキスだった。
 地平もマナの口の中に舌を挿しこむ。マナの舌が、それに応える。動きは呼応する。
 自分がここにいるということを、地平は強く意識した。これまでにいろいろな女と重ねてきたどのキスとも違う、初めての感覚だった。
 キスは止まらず、ベンチの上で重なったふたりの身体は、自然の摂理に従って動きだす。擦れ合った下半身が正しい反応を起こすと、地平はやがてジーパンのファスナーを下ろした。マナもショーツをずらして、地平を自分の真ん中に受け入れた。ふたりは服を着たまま、完全に繋がった。
「地平さん」
 ふと唇を引き離し、マナが言う。地平は言葉もなく、首を傾げて応えた。
「あのさ、地平って呼んでいい?」
「いいけど......どうしたの、急に」
「こういうときぐらい、いいじゃん」
 そう言って、マナは地平の首に手を回し、頭を引き寄せる。
「地平、言っていい?」
「なにを?」
「言葉......かな?」
「なんだそれ。今だって喋ってるだろ」
 地平が言い終わるか終わらないかのうちに、マナが言った。
「あのね。『もっと動いて』」
 頭の中が真っ白になる。
    地平は上に乗っていたマナをベンチに寝かせ、体を大きく動かし始めた。揺れが激しくなるにつれ、マナの呻くような声が確かな熱を帯びてくる。
 愛もない、肉欲もない、ただ互いを確認するための作業に、ふたりは夢中になっていた。あまりに夢中になりすぎて、駐車場にタクシーが入ってきたことにも、その光に一瞬照らされたことにも、そこから降りてふたりを見つめる人影が存在していたことにも、ふたりは気がつかなかった。


December 25 凛子

「お帰り、買えた?」
 病室に戻った凛子を、優太が柔らかい声で労った。
「ただいま。おかげさまで、見つかったわ。一番近いコンビニまでタクシーで二十分もかかるなんて、驚いたけど」
 大げさに疲れたような様子を見せて、凛子は病室に備え付けの折りたたみ椅子にドサッと座る。
「今さっき、地平たちが来たよ。すぐに外へ行っちゃったけど」
 なんでもない風に、優太はそれを告げた。地平と自分の関係を知っていたのにいつもと変わらない態度でいてくれる優太の優しさは、とても温かく、同時に残虐だ、と凛子は思う。
「知ってる。駐車場のところで見かけたわ。あの子も一緒に来たのね。いつの間にかずいぶん仲良くなったみたい」
 言葉以上の意味を含めて凛子が言うと、優太がふざけたように言う。
「妬ける?」
 いつもの凛子なら、いくら冗談でも言って良いことと悪いことがあると言って怒っているところだが、今はただ少々歪んだ笑顔を見せるのが精一杯だ。それほど、優太の質問は洒落になっていなかった。でも、仕方ない。優太は今、あのふたりが駐車場の隅でなにをしているかなんて、知らないのだ。
 妬けるどころの騒ぎではなかった。気が狂いそうだった。でも、そこで見てしまったものを説明する気にもなれない。
 返事はしないまま、凛子はハンドバッグから折りたたんだ一枚の紙を出した。広げた用紙の一番上には、『離婚届』と太字で書かれている。優太がキーボードの下に隠していたものだ。左側は既に優太の自筆で記入が済んでいた。
「じゃあ、早速書くわね」
「なにもそんなに急がなくても......」
「だめよ。どうして私がこんな時間に、たった一本のボールペンを買いにわざわざタクシーで出かけたと思ってるの?」
「そうか、......そうだな。ずいぶん高い買い物になっちゃったなあ」
 優太のこういう、のらりくらりとした物言いに、今までどれだけ肩透かしを喰らってきただろう。凛子はなにか言い返してやりたい気持ちになったが、喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、微笑むことにした。本当は、優太ののらりくらりのおかげで、救われたことだって何度もある。そのことを、決して忘れているわけではないのだ。
 簡易テーブルの上で、凛子は用紙の右側を淡々と埋めていった。安物の黒いボールペンは、滑りが悪くてひどく書きにくい。そのせいか、ふと手を止めると余計なことばかり思い出してしまう。
 長い、とても長い一日だった。
 家で優太のパソコンを開き、優太の残した映像メッセージを見たこと。
 突然、ひとりの少女から電話がかかってきて会わざるをえなくなったこと。
 少女と話をしようと街を歩いていたら、地平と遭遇してしまったこと。
 すべてが今日一日の出来事なのに、もう遠い昔のことのようだ。

 新宿でマナたちと別れた後、凛子は一旦自宅に戻っていた。義母が危篤状態などとは知らされてもいなかったが、それでも凛子は間違いなく野島家の嫁だ。見舞いへ行くとなれば、ちょっと顔を見せてすぐに帰るというわけにはいかない。何日かは向こうに滞在せざるを得ないだろうし、もしかしたら喪服も必要かもしれない。
 あらゆる可能性を考えた結果、凛子の荷物は家にある一番大きなスーツケースにぎっしりと詰め込まれることになった。
 出かけるときには「これだけのものがあれば、このまま家に帰らなくてもなにひとつ不自由なさそう」などと思ったが、いつも一本や二本は持ち歩いているはずのボールペンが荷物の中に入っていなかったのだから、よほど慌てていたのだろう。そのくせ、優太が映像の中で言っていた離婚届のことを思い出す余裕はあったというのも、今にして思えばおかしな話だ。
 東京から静岡へと向かう長い道のりの間、凛子はずっと、あのマナという少女と優太の関係に対して、心の中で嫉妬をめらめらと燃やしていた。
 けれどもそれは、夫を取られたからというわけではなかった。
 そもそもあの少女はどこか処女臭くて、夫の愛人というたたずまいではなかった。後から優太に「あの子とはやましい関係なんかじゃないよ。今どきの言葉で言うと、いわゆるメル友みたいなもんだよ」と説明を受けたが、それも納得できた。仮にもし一回くらい身体の関係があったとしても、ふたりの間に燃え上がるような愛情があるわけではないのは、女の目で見れば明らかだった。
 ただあの少女が、凛子にはどうしても成しえなかったことをいとも簡単に実現したのは紛れもない事実だった。それは、優太の心を開くということだ。失踪する前に優太のほうからあの子に会いに行ったというのが、動かぬ証拠だった。
 凛子がマナに抱いた感情は「あんな小娘に出し抜かれた」というような、苛立ちに似た嫉妬だった。自分がとうに失ってしまった若さや純粋さを当たり前のように持っていて、自分の知らない優太を簡単に知ることのできた女の子。たとえ愛情がなくても、ほんのわずかな一点であったとしても、なにかを共有しあっていたふたりの関係が、腹立たしい。
 そうして凛子は、優太への愛情が自分の中で炭火のように今でも続いていることに気付かされたのだ。まだ愛しているのだと自覚したら、一気に心が熱くなった。
 地平のことを忘れたわけではない。でも、もうどうしようもなかった。凛子はこれでもう二回も地平を見捨ててしまったのだ。一度目は優太と出会うより前、自分の若さに自惚れるあまりに傷つけた。そして二度目はついさっき、大人の都合で置いてきた。地平より優太を選ぶのか、地平より優太を愛しているのか。そんな自問をするまでもなく、事実として凛子は優太の妻であり、地平の義姉なのだ。
 ここへ来る道で、凛子は決意した。
 優太に会ったら、すべてを謝ってもう一度やり直そう。
 持ってきた離婚届を、彼の目の前で破り捨ててやろう。
 離婚なんて絶対にしない。
 なにがあっても、あの人をもう二度と手放すもんか。
 本気でそう思っていた。
 なのに、この病室に来てから気持ちは大きく揺らいでしまった。凛子がここへ到着し、お茶を一口飲んでようやく落ち着いたところで、優太が携帯に届いた一通のメールを見て、こう言ったのだ。
「地平も今、こっちへ向かってるって」
 信じられなかった。地平が母親のことを『あの人になにがあろうと、もう二度と会うつもりはない』と完全に拒絶したのは、つい何時間か前のことではなかったか。
 地平が軽薄なように見えて、実は頑固で人の意見などまったく聞かない性格なのは、浅からぬ交際のおかげでよく知っていた。その地平が、どうして急にそんな気になったのだろう。
 解釈に困って、答える言葉を見失っていた凛子に、優太がさらに一言付け足した。
「マナちゃんと一緒らしいよ」
「あの子が......?」
 それだけ言うのが限界だった。胸の奥から怒りとも悲しみとも嫉妬ともつかない、あるいはそれらをすべて混ぜ込んで化学反応でも起こしたかのような、熱いものがこみ上げてくる。と思ったら、それは涙となって目からぽたりと落ちた。
 凛子は傷ついていた。結局のところ、地平のためになにもしてあげられなかった自分に。そして、自分には動かすことのできなかった彼の心を、やはりあの少女がいとも簡単に動かしたことに。
 どうしてあの子なの? 私があなたに抱かれながら何度も言いかけた言葉を、知っていたくせに。知っていて、絶対に言わせてくれなかったくせに。あの子にどんな言葉を言わせたの? どんな顔をして、それを聞いたの? 激しい感情とともに、いくつもの疑問が頭の中を渦巻いていく。
 それは、優太に対する怒りに似た嫉妬とは、はっきりと違っていた。自分の無力さに絶望し、一切の希望がなくなって地に落ちるような気分。そして、以前よりいっそう燃え上がる炎のような地平への愛情に気付かされたのだ。
 炭火のように小さくはあるがいつまでも変わらない愛。烈火のごとく大きく自分を飲み込んで離さない愛。種類の違うふたつの愛を、秤にかけることなんてできるだろうか。
    そう思った瞬間、凛子の心は決まった。

 今はもう、頭の中がとてもクリアだ。なんの動揺もなく、離婚届の記入すべき欄をひとつずつ埋めることができる。崩すためのジェンガを丁寧に組み立てるような意味のない慎重さでもって、凛子は一文字一文字のトメハネまでをもきっちりと書いた。覚悟を決めた女というのは、たぶん、けっこう強い。
 すべての欄に、必要なことを正しく書けた。凛子はその出来に満足し、それから、おもむろに折り返した用紙のもう半分の面を確認する。そこには、まだ記入の済んでいない欄があった。『証人(協議離婚のときだけ必要です)』と書かれている。
「あ、離婚届にも証人が必要なのね」
「そうだね、僕たちは協議離婚っていうことになるから。――そうだ。せっかく来てくれたんだし、あのふたりに頼もうか?」
「冗談やめてよ、さすがにそれは......」
 怒りながらも笑って首を振った凛子の言葉は、その瞬間、遮られた。静かな病室に突然鳴り響いた、甲高い電子音のせいだ。
 それは、目の前の病人の心拍が停止したことを知らせる、運命の冷たいブザーだった。


December 27 マナ

 地平と、ユータさんのお母さんが死んだ。
 そのこと自体に、マナが感じることは特になかった。ほんの一瞬顔を見ただけの、ほとんど見知らぬ他人なのだから当然だ。
 母親の死亡が確認された後は、すべてがあっという間だった。優太と凛子が、病院の手続きから荼毘に付すまで、すべての手順を滞りなくこなしていったからだ。親戚らとも絶縁状態だった母親には、もう優太たちのほかに近親者もいない。葬儀は二日もあればすべて終わるらしかった。
 今日はその二日目だが、淡々と目の前のことをこなしていく優太と凛子の姿を見て、大人ってすごい、とマナは妙に感心していた。それに比べて地平は、マナから見れば大人と言ってよい年齢なのに、全然大人ではなかった。
 一日目、マナはずっと地平の傍についていた。少しは癒すことができたかと思っていたのに、地平の目はやはり虚ろで、誰に対してもあまりものを言わなかった。マナは、彼を無理やりここへ連れてきたことに責任を感じていたし、それとは別の新たな感情も芽生え始めていたこともあり、できれば今日も明日も、これからもずっと地平の傍にいてその傷を癒してあげたいと考えていた。
 とはいえ、さすがに今日はそういうわけにはいかなかった。
    いくら地平と一緒にいたいといっても、いや、地平と一緒にいたいという感情が強すぎるからこそ、他人であるマナが火葬場までお供するのはどうしても憚られたのだ。だからと言って、地平を残して一足先に東京に帰る気になど、とてもなれない。
「あたし、どこかで待ってる」
 マナがそう申し出ると、「居心地はあまりよくないかもしれないけど」と、優太がこの家を案内してくれたのだった。

 マナの知らない家。地平が、優太が、育った家。マナはそこでひとりになり、静かに考えていた。
 どうして地平とセックスをしてしまったんだろう。
 あんなもの、気持ち悪い行為でしかなかったのに。もう二度と、誰ともしたくないと思っていたはずなのに。なんで抱き合うことを、あんなに気持ち良く感じてしまったんだろう。あたし、なんていやらしい動物だったんだろう――。
 あの夜、自分に覆いかぶさってくる地平の肩越しに、三日月が見えた。
「この人、月が似合うな」
 マナはそんなことを思った。そんなことを思っていたら、口から自然と動物のような声が出た。頭と身体がまったく繋がっていなかった自分がとんでもなく理性に欠けているようで、マナはひどくショックを受けた。
 地平はゆっくりと動いていた。マナのなにかを探すように、自分のなにかを確認するように。少し気を張れば、世間話くらい簡単にできそうな、穏やかなセックスだった。でも、マナは余計な言葉など発しなかった。ただ、地平との距離がゼロになっている感覚と、その緩やかな気持ちよさが、永遠に続きますようにと願うだけだった。
 セックスしたことについて、マナは後悔などしていない。少なくともあの瞬間、それが一番自然な方法に思えたのは事実だし、たぶんああするよりほかに方法はなかったのだろうとも思う。
「俺のことなんか生まなきゃよかった」
 地平はそう言った。それほど悲しい響きの言葉はない。
 マナは自分に不幸が降りかかってきたときも、そんなふうには思いたくなかった。今こうして振り返ってみても、やっぱりそう思う。あのとき――父親に襲われた日、渋谷駅のホームから線路に向かって飛び込まなくて良かった。ユータさんに助けてもらって良かった。地平に知り合えて良かった。今こうして生きていて良かった。だから、ママが私を生んでくれて良かった。
 もしかしたら、マナは地平にもそういう気持ちを味わってほしかったのかもしれない。彼の父親と母親が、身体のすべてを使って互いの存在を確認し愛し合った結果として、地平がそこにいるのだと。
 それがきちんと伝わったのかは、わからない。たぶん、失敗したのだと思う。地平は結局、母親の死に目を見ようとはしなかったのだから。行為が終わった後もずっとベンチに横たわって、優太がわざわざ「母さん、もう危ないみたいだから」と呼びに来てくれたときにも、頑としてそこを動かなかったのだから。

 この家の居心地は、想像したほど悪くはなかった。ただ、黴臭さは否めなかった。
「どーせ暇だし、働くか」
 マナはそう独りごちて立ち上がり、あの母親が入院して以来ずっと誰も住んでいなかった室内を、たったひとりで掃除し始めた。理由なんてない。ただなんとなく、そうしたかったのだ。
 家の中はさほど汚れているわけではなかった。あの母親が入院の前に自分でやったのか、誰かの手が入ったのか、ともかくきちんと身辺整理がされている。それでいて、一日を過ごすのに不便なほどなにもないわけではないのが不思議だった。必要最低限の家具や調度品だけは、きちんとシンプルに揃えられているのだ。
    まるで、「いつ誰が帰ってきても過ごせるように」とでも言うように。
    マナはまず家中の窓という窓を開け、床や家具をひととおり拭いた。うっすらと積もっていた黴や埃のせいで、雑巾は面白いほどすぐに汚れた。
 それから、収納家具。扉や引き出しをひとつひとつ空けて、すべてに風を通しておこうとマナは考えた。中のものが黴だらけになっていた引き出しだけは、そのまますぐに閉じた。

 そんなこんなで、キッチンカウンターの下に作りつけられた棚の引き出しを下からひとつずつ開けていったとき、マナは上から二段目に「それ」を見つけた。
「なにこれ、すごい」
 それは、文字だった。
 引き出しいっぱいに押し込められた、たくさんの紙くずの上。
    チラシの裏や、メモ用紙の切れ端に書き残された、汚い文字。
    ときには新聞紙の余白ですらない印刷面の上にまで、乱暴に書きなぐられている文字。
    文字、文字、文字......。
「ごめんなさい」
「すべて間違い」
「悪いのは私」
 ぱっと見ただけでも、そんな言葉がいくつも読み取れた。気になってさらに奥まで漁ってみると、便箋のようなものにきちんと書かれたものも見つかった。
 その一行目に「地平へ」と書かれているのを見て、マナは息を呑んだ。


December 27 優太

 優太が地平と一緒にマナのいる家に戻ったのは、すっかり家に風が通り、黴臭さも気にならなくなった頃のことだった。
「マナちゃん、お待たせ。お疲れ様」
「こんな場所でひとりで待たせて、悪かったな」
 それぞれが声をかけると、マナは主人を待ちかねていた飼い犬のように、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「お帰りなさい! って、......あれ、凛子さんは?」
 凛子とは先ほど駅で別れてきたところだったが、マナが疑問に思うのは当然だ。今さら四人揃ったところでなんの話ができるわけでもないけれど、一人だけ突然姿を消すのは不自然だろう。
「凛子は先に帰ったよ」
 優太は一切の余計な情報を加えず、そうとだけ答えた。
「え、どうしてこんなときに......?」
 マナはどこか腹を立てたような、失望したような声を出した。たとえ愛し合えなかった母親だとしても、優太と地平が肉親を亡くして落ち込まないわけがないとでも思っているのだろう。兄弟を残してわざわざ一足先に帰らなければならない事情が凛子にあることを、マナはまだ知らない。地平も。
「どうせ仕事かなんかがあるんだろ。あの人はいつだって忙しいんだから」
 優太が言い淀んでいる間に、地平が口を挟んだ。軽い口調が、かつて凛子との間にあった親しみの深さを表しているような気がして、優太は奥歯を噛んだ。もう、嫉妬心を抱くには遅すぎるのに。
「ごめん、地平。違うんだ」
 優太はジャケットの胸ポケットに入っていた、やけに小さく折り畳まれた紙を取り出しながら言う。そして、テーブルの上に紙を広げると、若いふたりに頭を下げた。
「ふたりとも、こんなことを頼まれても荷が重いだろうけど......ここの証人欄に、名前を書いてもらえないかな」
 それが離婚届であることは、地平にもマナにもすぐにわかったようだ。
「ちょっと、これどういうこと?」
「なんでだよ?」
 ふたりの声は同時に響いた。まるで美しい和音を成すように、きれいに重なって。
「やり直すんじゃなかったのかよ?」
 地平が勢いよく掴み取ろうとした用紙を、優太は一瞬早くひらりとテーブルから取り去った。頭に血が上りやすい地平の行動くらい、予測できない兄ではない。なるべく弟を刺激しないよう、優太は笑みさえ浮かべながら言った。
「おいおい、丁寧に扱ってくれよ。たった一枚しかないんだからさ」
「だってユータさん、それでいいの? 奥さんと、やり直したいんでしょ。最初からやり直すために、ここまで来たんでしょ?」
 今度はマナが口を出す。優太はそれでもやんわりと口元に笑顔を浮かべたまま、だけどはっきりした意志をもって答えた。
「凛子は、地平のことも本気で愛してるんだよ。しかも、悔しいけれどこれはまだ全然過去形じゃない。もちろん彼女は、僕のことだって本当に愛していると言ってた。すべてを忘れてやり直したいとも言ってくれたよ」
「だったら、どうして......」
「でも、だめなんだ。僕と結婚している以上、凛子は地平との縁を切ることができない。だって弟なんだもんな。完全に縁でも切れない限り、地平への気持ちを忘れることはできないって、凛子はそう言ってたよ。つまり、僕と結婚している限り、すべて忘れて僕と一からやり直すことは絶対にできないんだよ。すごい矛盾だろ」
 我ながら、絶望的な話をしている。そう思うとかえって愉快な気持ちになり、優太の口は恐ろしいほど滑らかに言葉を紡いだ。しかし、そのことが逆に地平を責めたててしまったようだ。
「じゃあ......俺さえいなければ」
 地平はそう呟くと、ソファに倒れこむように座り込んでしまった。
「そういうことじゃない。これが凛子なりのけじめなんだよ。俺からも地平からも同じぐらい離れた場所に行って、ふたつの愛をひっそり抱いて生きていきたいんだとさ」
 うんともすんとも言わなくなってしまった地平の代わりになろうとでも思ったのだろうか。さっきまで遠慮がちな態度だったマナが急に優太に掴みかかってきた。
「それでいいの? 凛子さんはそれでいいかもしれないけど、ユータさんは納得できるの? だって、愛してるって言ってたじゃん。その口で。本当は愛してるのにって、はっきりと言ったんだよ?」
 マナの言葉は直球すぎる。優太の表情は、一瞬崩れかけた。しかし、なにを言われようと決めた答えに変更はないことを、優太は知っている。だから頷いた。
「うん。だから、俺はこれで本当にすべて終わりだなんて思ってはいないよ。縁だとか、絆だとか、そういう強いものがあれば、また必ず出会い直せると思うんだ」
「そんな都合よく行くわけないじゃん」
「案外、行くんじゃないかな。ほら、マナちゃんと渋谷駅で偶然再会したときみたいにさ。ああして二回出会わなかったら、たぶんマナちゃんは今こんなところにいないだろ? そういうのってさ、俺、本当に運命だなって思うんだよ」
「バッカじゃない?」
 とうとうマナは叫び声を上げた。
「運命なんて、そんなこと思ってなかったくせに! あのときユータさん、あたしが運命って言ったのを否定してたもん。再会したのも全然嬉しそうじゃなかったし、カラオケとか誘ってもチョー冷たかったし!」
 もはや怒りの論点がずれてきていることに、優太は思わず笑いそうになってしまった。が、笑っている場合ではない。ソファでぐったりしながらも嫉妬心を剥き出しにマナを睨む地平の様子を見て、気持ちを引き締める。優太はあくまでも穏やかに、マナの頭を柔らかく撫でた。
「いや、運命だって思ってたよ。でも、だからってそんなことで、いちいち驚いたり泣いたりするわけないだろ」
「するよ。驚くでしょ。だって、運命ってすごいじゃん」
「すごくないよ。運命ってのはね、最初から決まってることを言うんだよ。マナちゃんと再会することは、決まってた。最初から決まってることが現実に起こっただけなんだよ。どうして驚く必要があるんだ?」
 本当にそう思っていたから、優太は揺らぐことのない気持ちで言い切った。マナはなにも言い返せず、目を見開いたまま硬直した。少し頬を赤らめて。
 優太は、だから付け足した。
「凛子とも、やり直せる運命だと思う。俺はそれを信じる。それが俺の答えだ」
 まるで自分に言い聞かせているみたいだな、と優太は思った。でも、答えがすっかり出てしまった今、心はとても軽くなっていた。


December 27 地平

 結局、地平とマナが証人欄に署名した離婚届を手に、優太は先に東京へ帰っていった。
 優太を見送った後、地平はしばらく放心状態でソファに横たわるばかりだった。マナはそれをただ見守っていた。時間以外のなにも動かないこの部屋で、ふたりはそれぞれに今後のことを考えていた。
 そのまま、数十分が経過しただろうか。
「俺って、ガキだな」
 地平はようやく口を開いた。マナがなんの遠慮もない様子で、ぶっと噴き出す。
「さっきからそこでずーっと固まって考え込んでて、ようやく出た結論がそれ?」
「悪いかよ」
 地平は再びソファに不貞寝しながらも、けらけらと笑うマナの手を取る。マナはその手を握り返す。数年来の恋人のように、ふたりは自然と互いの温かさを確認しあうことを覚えていた。
「あのさ。あたし、いろいろわかったよ」
「なにが?」
「うーん、タイトルをつけるなら、『愛について』、かな?」
 マナはそんなことを恥ずかしげもなく言いながら、地平の手を撫でる。そうして、ゆっくりと、穏やかな声で、「愛について」の講釈をした。
「たとえばね、凛子さんにとっては、気持ちをずっと貫くことが愛なんだよね。たとえ独りになっても、地平のこともユータさんのこともどっちも忘れずにいられる方法を選んだんだよね」
 口を動かしながら、マナはの手は優しく地平の髪を撫で、頬に触れた。そうして、最後には地平の頭をすっぽりと抱く。地平はすっかり身動きがとれなくなってしまったので、目を閉じてマナの匂いを吸い込んだ。
「そんでさ、ユータさんにとっては、とにかく信じることが愛ってことだよね。本当はあの人、たぶん口で言うほど自信なんかないよ。あたし、そう思った。だけど、それでも信じようって決めたのがすごいなって思うの。信じることで、ユータさんは愛し続けていくんだよね」
 地平はマナの腕の中で、うん、と反抗期を迎えていない子供のように答えた。すっかり邪気をなくして、寛いでいる。
「だからさ、愛って、ひとつの形じゃないんだよね」
 マナはそう言って、ポケットから一枚の、やはり小さく折りたたまれた紙を差し出した。心の底から無防備になっていた地平は、つい渡されるままそれを受け取り、なんの疑問も持たずに開いてしまった。

       地平へ
 あなたに謝りたくて手紙を書きます。
 大志のこと、ごめんなさい。なにを言っても、何度謝っても、私は許されないでしょう。それでも私は死ぬまで謝り続けたい。私があなたのためにできることはそれしかないのだから。
    おろかな私は、子供というものは無条件に母親を慕うものだと思っていました。なにかと反抗しがちだった大志にあんな取り返しのつかないことをしてしまったのも、それが原因だったのでしょう。
    まだ私の力がなければ生きていくこともできなかったはずの幼いあなたは、私に反抗などしないと思っていました。けれど、大志の事件以来、あなたは私を見ると怯え、私に近づかなくなってしまった。
    私はあなたが私を恐れるようになった理由に、長いこと気付きませんでした。大志の事件が、まだ幼なすぎるあなたにどんなに大きな衝撃を与え、あなたをどれほど傷つけたか。そしてあなたの人生をどれだけ変えてしまったか。今なら簡単に理解できるのに。
    私は、私を愛してくれないあなたを憎み、あなたを愛しにくい子供として扱うようになってしまいました。いつもあなたから愛されたいと願うばかり、求めるばかりで、私からは一切与えることができなかった。でも、親である私が愛することを教えられなかったのに、子供が自然と愛を覚えるはずなどありませんね。だから、あなたが

 手紙はそこで途切れていた。
「なんだ、こりゃ。死ぬまで謝り続けたいとか言いながら、一通の手紙も最後まで書けないのかよ、あのババアは」
 地平は淡々と便箋を畳み直しながら言った。母親の本音が今さらわかったところで、喜びは特に感じなかった。けれど、その代わり、怒りや悲しみも湧いてはこなかった。
 母親の謝りたいという気持ちは伝わってきたが、だからといってこんな手紙ひとつで今までの全てが許せるわけがない。だいたい、和解したいと思ったとしても、相手はもうこの世にいないのだ。

「お母さんってば、中途半端だよね」
「俺の母親らしいよ」
「だけどあたし、これ読んでわかったんだ。たぶん病室で『大志』って言ったのもさ、『大志のこと、ごめんなさい』って言いたかったんじゃないかな。たぶんお母さん、もし地平に会えたらそれだけは絶対に言おうって決めてたんだと思う。だから、もうどう考えても喋るのなんて無理な状態だったのに、その言葉を言おうとしたんだよ。ま、結局それも最後まで言えなかったんだけどね......」
「そんなの、マナの憶測だろ」
「そうだけど、でもお母さんはそう思ってたと思うよ。だって、こんな中途半端な手紙みたいのがね、いっぱいあったんだよ。そこの引き出しに、ぎゅうぎゅうに詰め込まれてたよ。ユータさん宛のもあったけど、どれもこれも、大志のことを謝りたいって、そればっかり書いてあったよ」
 マナが地平の顔を覗き込む。地平はうんともすんとも言えず、ソファに寝転んだまま天井を見た。
「ただ、他人のあたしがこんなこと言うのは失礼だと思うけど......地平のお母さんってやっぱ、超ねじくれてるんじゃない? 大志くんの事件がきっかけだったとしても、それ以外にもきっと謝らなきゃいけないことが、いっぱいあるはずだよ。無条件に愛されることを願って、子供が自分を愛してくれないと思ったら虐待するなんてさ、正直言って、あたし全然理解できないよ。でもね、ひとつだけ、理解できたかも」
「なにを?」
「地平ってさ、お母さんそっくりだよね」
「バ......」
 言いかけたまま、口が固まった。認めたくはないが、地平はどうやらその言葉を否定できない。
 凛子になにをしてきただろう。由利になにをしてきただろう。愛されているに気付きながら、愛が返ってこなくなるのを怖れて、自分からは愛を与えることができなかったのではないか。
 そして、自分から愛を与えないくせに、愛されていないと文句を言うばかりだったのではないか。
 まさに自分のことじゃないか。
 バカは俺だな、と地平は思った。バカは俺だし、バカはクソババアだ。
 ふっと地平の口の端に笑いが漏れた瞬間、マナが付け加えた。
「あ、あともうひとつ。地平は、お母さんにも凛子さんにも捨てられてなんかいなかったんだよ。誰からも、捨てられてない。ちゃんと愛されてたんだよ」
 地平は、頷いた。すべてを素直に受け容れるにはまだまだ時間が必要だが、きっと受け容れられると思う。そのために、ひとつ確認しておきたい。
「マナには? 俺、愛されてた?」
 マナは目を逸らし、少しの沈黙を挟んで答えた。
「......ううん」
 その答えを聞いて、地平はマナに抱かれながら固まってしまった。せっかく心を開く相手ができたのに、結局自分はまた捨てられるのか。しかしマナはそんな地平を見下ろして、プッと笑った。
「『愛されてた』じゃなくて、現在進行形で『愛されてる』んだよ」
 地平の唇に、マナのキスが降りてくる。二人はソファの上で、二度目のセックスをした。
 それは一度目のように、存在を肯定し確認するための作業では、もうない。愛していることを伝え、愛されていることを感じるための作業だった。

 西陽が部屋いっぱいに満ちている。終わった後もずっとソファで寝転がっていた地平は、そろそろこの家を出なければいけないことに気がついていた。
「マナ、これからどうするの? 今日の新幹線で、東京に帰る?」
「うん――そんで、一回家に帰ろうかなって思ってる。パパにお金返さなきゃ。あたし、絶対にあのことは一生許せないと思うけどさ。でもやっぱり、それまでは一応あたしのパパだったんだもん」
「うん、そうだな。でも、その後どうするの?」
「とりあえず、行くところがないから......」
「じゃあ、俺んとこに来れば?」
「地平のところに行ってもいい?」
 ふたりの言葉は同時だった。言わなくても、お互いの考えていることはわかっていたが、あえて言葉にしたのだ。
 地平は温かい気持ちで思い出していた。
「昔さ、優兄ぃが言ってたんだよな。もし本当に好きな人ができたら、絶対に一緒に住めって」
「ふーん」
「いいことも、悪いことも、楽しいことも、悲しいことも、辛いことも、嬉しいことも。好きな人との日々の生活と、そこにある感情の全てこそが愛だ、って」
「ふふ、ユータさんっぽい。そうやって、いろんなことを受け容れてきたんだろうね。ねえ、あたしたちも、そんなふうになれるのかな?」
「きっと。確かめてみよう」
 地平はそう言うと、ソファから立ち上がり、テーブルに置いたタバコに手を伸ばす。夕焼けは端から順に闇へと変わっていき、空にはもう月が輝いていた。


epilogue

 あの日、手を繋いで歩いた神学院の坂を、今はひとりで歩く。桜は今年も満開だ。
 マナは今日、二十歳になった。
 地平と別れてから、もう二年という時間が流れていた。あの日から切っていない髪はすっかり伸びて、春の風に揺らいでいる。

 地平と暮らしていた一年少々の時間は、マナにとってかけがえのないものだった。マナは地平が求めるだけの愛をまっすぐに注いだし、バイトに励んで父親へ借金をすっかり返すこともできた。
 けれど、地平にとってその一年が、どんな意味を持っていたのかは、マナにはわからない。まだ愛する方法を完璧には知らなかったふたりの間には、どんなときも迷いが消えなかった。
『いいことも、悪いことも、楽しいことも、悲しいことも、辛いことも、嬉しいことも。好きな人との日々の生活と、そこにある感情の全てこそが愛』
 何度も頭の中でリフレインした言葉を、今日もまた繰り返す。
 そのすべてを受け容れられるほど、あの頃のマナは大人ではなかったのだと思う。地平だって、年齢だけは重ねているものの、まだまだ中身は子供だった。
 別れを切り出したのはマナのほうだ。
 嫌いになったわけではないこと、捨てたり捨てられたりする状態ではないということは、地平もよく理解してくれた。

 凛子のように、離れていてもずっと愛し続ける信念を。
 優太のように、必ずまた会える運命を信じる勇気を。

 大人だったあのふたりと比べると、マナと地平は自分たちがいかに子供かを思い知ることばかりだった。ふたりの愛情が飽和状態になってしまうのは、最初から時間の問題だったのかもしれない。けれど、飽和状態ということは、空っぽとは全然違う。
 だから、距離を置こうと決めた。
 もし二年後――マナの二十歳の誕生日まで、同じ気持ちを持ち続けることができたなら、もう一度ここで会いましょう。そう約束をして。

 大きな風が、頭上を通り過ぎる。マナは乱れそうになる髪を手で軽く押さえた。
    地平は来るだろうか。
 来なくても、別にいいのかもしれない。
 少なくとも私はここに来た。
 その事実は、これからもずっとマナを支えてくれるような気がした。少しは凛子や優太に近づけたかもしれない、とも思う。そんな自分を、ようやく迷うことなく信じられる気分だった。
 先ほどの風に煽られた無数の花びらが目の前を舞い、静かに落ちていく。やがて舞台の幕が開くように、マナの視界はひらけていった。
 大丈夫、最初から決まっているのだ。
 この坂を上ったところで、「運命」はちゃんと待っている。



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