top掌~短編


いきること。

 少しだけ。ほんの少しで良い。
 そんな風に一人ごちながら、すがるように美佳がたどり着いたのは、大きな冷蔵庫。グレーがかった紺色をしたそののっぺりとしたドアーは、異様なまでに無機質で、まるで、これ以上深入りしてはいけないと、戒められているような気持ちにすらなる。
 美佳はその時、少し躊躇っただろうか。
 躊躇ったとしても、そんなことはどうでも良かった。もはや意志とは関係のない深い場所で、彼女は求めていただけだ。自分の身体を暖めてくれるモノを。
 重く感じられるそのドアーを開くと、冷蔵庫はその大きな体内に、こまごまと色々なモノを隠し持っていた。まず美佳の目を引いたのは、絵に描いたような鮮やかな黄色のバナナだった。美佳の心は、まるで幼児がおもちゃ箱の中をのぞき込んだ時のように、ワクワクする。
 房には五本の実が付いていたので、厳選して、申し分のない太さと、熟れすぎていない風情が好もしい一本を選ぶ。
 美佳は、それをじっくりと目で鑑賞した後、素早く皮をむいて、あっという間に食べた。

 楽しい時間は、過ぎるのが早過ぎる。
 そして辛い時間は、まるで止まってしまったかのように感じることすら、ある。
 生理が止まらないのだ。美佳の身体は、もう二週間も経血を排出し続けている。女にとって、心と体は切り離せないひとつの物体であると、実感する。つまりは、心が止まれば、体も止まるということだ。

 ただでさえ貧血持ちの美佳には、あの日は地獄だった。 生理の二日目で、体調は当然のことだが、機嫌も酷く悪かったのだ。
 美佳はその日、仕事(といってもフリーターなので単なる飲食店のアルバイトなのだが)で小さなミスをしたことで、先輩に小一時間ほどネチネチと嫌味を言われ続けていた。
 ふっと意識が遠くなった、と彼女は感じた。それは貧血の為だったのか、あるいは頭に血が上ったからだったのか、今でも思い出せないのだが、気が付いたときは、客のところから下げてきて手に持っていたグラスを先輩に投げつけていた。
 それから後のことを、美佳はよく覚えていない。気が付いたときには、もう既に仕事に戻ることが出来ない状況になっていた。美佳は、ロッカーに在る全ての私物を持ち出して、制服を着替え、店長にひとことだけ挨拶をして、仕事を辞めてきた。
 肩の荷が下りた、と思った。アルバイトなど、辞めるのも楽なものだ。そして、この程度の仕事ならば、いつでも簡単に見つかる。

 すこしの後悔と、せいせいとした気持ちに満たされて、美佳は帰りの電車に乗った。午後六時を少し回った時間で、当然の事ながら、満員電車だった。美佳は、人と触れ合うのをことさら嫌っていた。特に生理の時には、全神経が過敏になる。だけど、電車に乗らずには帰れないので、美佳は仕方なく満員電車に乗り込んだ。
 二つ目の駅を出たところで、背後から知らない男が抱きつくようにピッタリとくっついてきた。美佳は、ゾーッと背筋を緊張させたのだが、あまりの混雑と気分の悪さで、身動きが取れない。何の抵抗もしないのを良いことに、後ろの男は、美佳の乳房をギュッと掴んできた。耳の後ろでハアハア言い始めたのは、息の臭いオヤジ。吐き気がする。だけど、攻撃どころか防衛も出来ない状態。仕方なく次の駅まで待って、ドアが開いた途端にホームに逃げて、そのまま吐瀉した。

 最悪の日だ。美佳はそう思いながら、ひどい気分で家に着いた。
 こんな時のせめてもの救いが、恋人の存在である、と思う。美佳は付き合ってもうすぐ半年になる、裕也に電話をかけることにした。いろいろ聞いて欲しいし、声が聴きたかった。こんな日にその程度のことを求めるのは、当然だと思った。

「もしもし、裕也?」
「ああ、なんだ美佳か」
「あのね、ちょっと聞い」
「ゴメン、今から夜勤に行くところだったんだけど」
 裕也は大学生で、週に二回ほど、深夜のコンビニでのアルバイトをして小遣いの足しにしていた。美佳は「仕方ない」と諦めて、電話を切る。
 いいのだ。どうせ彼には、生理痛の苦しみも、失業の痛手も、痴漢の気持ち悪さも理解できる訳がないのだから。彼に話したところで、自分の気持ちが少しだけ晴れるかどうかと言う程度の問題だ。落ち込んでいても仕方がない。そう思って美佳は、次の日の朝、彼が夜勤から帰ってきたところを、朝御飯でも作って迎えようと、早々に眠りについた。
 精神的にも肉体的にも疲れ切っていた美佳は、思いのほか、心地よい眠りに就くことが出来た。

 朝が来て、裕也の帰るアパートに行くため、またもや満員電車に揺られる。昨日と比べれば、ずいぶん体調も良いように思う。実家暮らしの美佳は、家から食材をごっそり持ち出して、時々裕也のところへ持っていくのが日課になっていた。重い荷物も、満員電車も、これから会う恋人の事を考えれば、大した苦労ではないと、美佳は思った。
 縫いぐるみの付いた大仰なキーホルダーに、裕也の部屋の合い鍵が付いている。それを使って、美佳は彼の部屋のドアを開けた。
 部屋に入り込むと、人の気配を感じる。気配と言うより、小さな寝息が確かに聞こえた。誰も居ないはずなのに。美佳は、警戒して部屋を見回した。ベッドを見ると、人間の頭が二つ在る。その内の一つが、美佳に気付いて起きあがった。眼が合った。知らない女の子。息を呑む。
 視線のバトル。
 ベッドに入っている彼女の方が、確実に勝っていた。
 美佳は彼の部屋から逃げ出した。

 泣きたい気持ちで、でも泣くわけにも行かず、駅までたどり着いた。帰りの切符を買おうと販売機の前に立って初めて、財布がなくなっている事に気が付いた。朝のラッシュですられたのかもしれない。

 何もかもが、どうでもよくなった。

 美佳はバナナを食べ終わると、また冷蔵庫を開ける。寝ている時と食べている時だけ、嫌なことはすべて忘れる。職も恋も金も、プライドすらなくした。でも、生きているだけましなのだ。きっと。そんなことを考えているのかいないのか、とにかく美佳は動物のように、生きている。

 鏡に映った自分の丸い顔を見て、美佳は静かにほくそ笑んだ。



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