蜜りんご
ダンボールを開けた瞬間に広がる、爽やかに甘い秋の香り。長野で果樹園を営む伯父貴から毎年送られてくる自慢のリンゴだ。緩衝材から顔を覗かせるその赤い実を五つ六つと、母は紙袋いっぱいに詰め込んだ。
「はい、これ。よろしく伝えてね」
手渡された袋はずっしりと重かった。けれど、届ける先はたった二つ隣の家だから、特に問題はない。
「それにしてもかっちゃんは親孝行ねえ。うちもそろそろ孫の顔くらい見たいのに、睦美は孫どころか......」
「はいはい。こんな娘ですみませんね」
聞き慣れた母の厭味を笑ってあしらえるほど、私もいつのまにか大人になった、らしい。
季節はずれの帰省を決めたのだって、遠くない実家になかなか帰れないことを反省しているからでもあった。もちろん、実家で産後の養生をしている花摘子とその子供の顔を見るのが一番の目的だけれど。親友の初出産とあれば出向くのもまた大人の礼儀なのだ。
「いらっしゃ......あ。睦美んちのリンゴ待ってたの!」
花摘子は玄関を開けるなり歓声をあげた。幼馴染との再会よりもお裾分けを歓迎されてしまうほど美味しいなんて、伯父貴のリンゴはまさに罪の果実だ。ついでのように家に入れてもらった私は、心の中で苦笑いをした。
子供はちょうど寝かしつけたところらしい。妙に緊張する。勝手知ったる花摘子の家を、すり足で歩いてしまうほどだ。あの頃と同じようで、何かが違う空間。リビングに座する、小さなベビーベッド。
覗き込むと、小さな生命が平和な寝息を立てている。
私は息を呑んだ。携帯に何度も写真が送られてきたから、顔かたちや大きさなどは、それなりに知っているつもりでいた。けれど、実際に目のあたりにしてみるとまた違う。なんといっても、絶大な存在感がある。
「すごい。人間の形、してる」
よく解らないけれど、思わずそんな言葉が出た。花摘子は私の物慣れなさをケラケラと笑う。
「形どころか、性格も主張もちゃんと一人前よ。この子見てると、女の子って生まれたときからオンナなんだってよく解る。ピンクの服を着せればなんとなくゴキゲンだし、ママよりパパの抱っこのが好きだし」
口を尖らせつつも、やわらかい眼差し。こんな表情を母に見せられたら、確かに親孝行になりそうだ。
三十代の未婚女子を負け犬と呼ぶのが少し前に流行したけれど、私は負けているのだろうかと考えた。確かに花摘子は勝ち組だ。花を摘むという可憐な字に、勝つ子という音を乗せた名前にも恥じない人生。
とはいえ、仕事が波に乗り、満足な報酬を貰い、恋人もいる私が負けているとは思えない。彼と結婚しないのは、今の私たちにそれが必要だと思わないから、それだけだ。言い訳っぽくなるから、言わないけれど。
「早速リンゴ頂くね」
そう言っていそいそと立ち上がると、花摘子はキッチンからフルーツナイフを持ってきた。
「ああ、そのくらい私がやるよ」
我に返って、私は手を出した。産後間もない母体を働かせるのは忍びないし、彼女が皮剥きをしている間に赤ん坊に泣かれでもしたら、私のほうが困る。
なのに、私の申し出はぴしゃりと断わられた。
「遠慮するわ。睦美って皮剥き下手なんだもん」
返す言葉もなかった。確かに私は昔から不器用で、今も本当はピーラーがなければリンゴの皮も満足に剥けない。やっぱり女として負けかも――などと考えているうちにも、リンゴは花摘子の華奢な手で素早く皮を剥かれていった。皿に並べられた実の断面から蜜が溢れる。私たちは見る間も惜しいとばかりに手を出した。
シャクと囓る。口に滲んでゆく熟した蜜。
美味しいものは、私たちに優しい沈黙をもたらした。しばらくシャクシャクという音だけが続いた世界で、先に言葉を思い出したのは花摘子のほうだ。
「そういえばさ、五年生のとき、家庭科実習でリンゴの皮剥きやったの覚えてる? 各自リンゴ持参して」
「え、そんなことあったっけ?」
「うん。忘れられない。林くんがやたら睦美の剥いたリンゴばっかり食べたがって、悔しかったから」
懐かしい名前に頬が緩む。あの頃私たちは恋の話に夢中で、暗くなるまで公園のベンチを占領した。花摘子は当時好きだった林くんのことばかり話していたっけ。
私はもっぱら聞く側で、本当は自分も林くんのことを好きなくせに、それを黙っていた。花摘子みたいに可愛い子にしか恋の話は似合わないと思っていたから。
「そうだったかなあ......。でも、林くんってバカだねえ。私がリンゴ剥いたら、ほとんど実が残らないのに。うちのリンゴがよっぽど甘そうに見えたのかも」
胸に感じたささやかな痛みを吹き飛ばすように、私は笑って見せる。花摘子はむうと口を尖らせた。
「違うよ。私の持ってったリンゴだって、睦美の家から貰った甘いやつだったんだから。林くんはね、睦美のことが好きだったんだよ」
話の内容はもちろん、花摘子が二十年も前のことをむきになって話すので、驚いた。けれど、そんなことで動揺するのも大人げないから、余裕綽々と呟く。
「それはまた惜しいことしたわね」
「またそんな言い方して! 林くんだけじゃなくて、睦美に憧れてた子って結構いるのよ。頭良くて、いつも背すじがピンとして、かっこよかったから。高嶺の花って感じで、みんな遠巻きに見てるだけだったけどね」
チヤホヤされている花摘子の横でいつも卑屈になっていた私に、憧れる? 本当だろうか。でも、本当なら、昔のこととはいえ悪い気はしない。
思わず頬が緩み、照れ隠しに私は花摘子を小突く。
「そんな重要なこと、どうして早く言わなかったのよ」
「ふふ、ごめんね――私もオンナだったのよ」
いたずらっぽい笑顔。私は妙に納得した。
林くんを好きだったのを黙っていた私。私の人気を秘密にしていた花摘子。同じことだ。私たちは嫉妬やら計算やらの中で生き、黙ったり喋ったりすることでそれを武装できると知っていた。なぜなら花摘子の言うとおり、女の子は生まれた時からオンナなのだ。
不意に赤ん坊がぐずりだす。
「どうちたのー、だいじょぶよ」
すぐさま駆けよった花摘子の横顔は、すっかり母親らしい柔らかさを宿していた。私はなんだか安心した。武装していない今の彼女はすごく綺麗で、私は嫉妬できる立場ですらない。素直に羨ましい。
シャク。リンゴをもうひとくち囓る。
恋人のことを思う。帰省する時間も惜しいほど一緒にいたい人。本当は結婚だってしたいくせに、滑稽な武装に身を固めてごまかしていた哀れな自分。私はまず、こんな自分の皮剥きをしなければ。不器用だから上手くは剥けないかもしれないけれど、それでも。
幸福が香りたつ母娘を横目に、さらにもうひとくち。
シャク。そう、こんなふうに。
蜜はもう私の中で甘く熟していて、その瞬間をきっと待っている。
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