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あした、あいした、あたしたち。

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[01] 9月14日のコト

 千尋が軽く蹴った小石は、あたしが思ってたよりずっと軽やかに、乾いた土の上を転がってった。だから、あたしは自分も石を蹴ろうと思った。思ったはいいけど、あたしの足もとにはパッと見、一センチ四方にも満たないような、蹴るまでもない小石しかない。
 こんなところまで不公平だなんて、神様ってほんとイジワル。
 仕方ないからあたしは、ベンチ代わりに座ってたブランコを、思っきし漕いだ。全体重を利用して、脚を振り子みたいにして。本当はもっと豪快に、立ち漕ぎ でもやっちゃいたいトコロなんだけど、千尋とのバランスを考えてこの程度。制服のスカートは気持ちよく風を受けて、うっかり重力忘れちったって感じでぶ わっと捲れ上がる。でも大丈夫。あたし、スカートの下にハーフパンツ着用だから。ていうか、それ以前にあたしのパンツを見たいと思う人なんていないから。 でもまあ、誰も見てないパンツをむりやり隠して歩いてるそこらの子より、あたしのほうがちょっとマシじゃん?
 千尋があたしのことを見て、軽くブランコを揺らし始める。地面から足を離さないおしとやか漕ぎじゃ、とてもあたしには追いつけないよ、と見下ろして、ま たあたしは落ち込んだ。千尋のリズムに合わせて風になびく黒くて長いストレートの髪だとか、上から見下ろした千尋の顔でますます強調された濃くて長い睫毛 が、女のあたしでも思わず見とれちゃうくらいキレイだったから。
 そして千尋は、なんつーかハカナイ。好き嫌いもなくよく食べるし、体育も割と得意で走るのが速い、健康な子なのに。なぜかハカナイ。顔がカワイイとか、そういうのとはたぶん関係なく、千尋の持つ空気が。
 だからあたしは、なぜかこの子のことを守らなきゃって思ってしまう。
 同じクラスになって半年。あたしと千尋は妙に気が合って、いつのまにか放課後の時間を一緒に過ごすようになったけど、最近はこの公園がお気に入り。学校 からの帰り道を駅と逆方面に少し行ったところにある、ブランコと滑り台と砂場しかない、小さな公園。目的は、ブランコじゃない。十七歳女子が二人でこそこ そ話すって言ったら、その内容はほとんどコイバナって決まってる。と言っても、あたしは話すネタがないからいつも聞き役。千尋の話は毎日毎日よくもまあと 思うくらいあふれてくる。
 今日も、優哉の話を聞かされた。去年の春に付き合い始めて、今年の春から東京の大学に通ってるカレシ。いわゆる遠恋。
 千尋の話には、優哉とどうこうしたという具体的なものは一切ない。会えないから仕方ないのかもしれないけれど、ただ好きで仕方なくて、不安でたまらない という話ばかりで、半年ずっと聞いてるあたしにも、優哉っていう人物像はイマイチ見えてこない。それでも、あたしは黙って根気よく聞く。どうしてそうする のかは、自分でもわかんない。ただ、そうしたい気分にさせられるから。
 聞くだけ聞いて、一言慰めてあげると、千尋はいつもみたくふわっと笑って言った。
「ねーさん、ほんと男らしい」
 『ねーさん』というのは千尋が言い出したあたしのあだ名で、今じゃ他のクラスメイトもみんな真似してそう呼んでいる。今さら、私には菜摘という名前があるって主張するほどの名前でもないし、別にいいと思う。
 千尋は、ほとんど毎日なにかしらきっかけを見つけては、嬉しそうな顔をして、
「ねーさん、ほんと男らしい」
 と言う。そのセリフを口にするのが趣味かってくらい、毎日嬉しそうに言う。
 いくら賞賛口調でも、十七歳女子をつかまえて男らしいなんて褒め言葉じゃないんだけど。本当のトコロ、それに少しも傷ついたりしないあたしは、やっぱり男らしいのかもしれない。


[02] 9月16日のコト

「おまえ、今日も威勢よく戦ってたな」
 あたしが教室に戻ると、放課後なのにいつまでもなにやってるんだか、まだ廊下側の自分の席でダラダラしてた栗原が、さっそく茶々を入れてきた。
「もーっ、いちいち観察しないでよ!」
 そう答えたあたしはやたら鼻息を荒くしてて、カッコ悪い。
「おまえの声がでかいから聞こえてくるんだよ。しょーがねーじゃん」
 けらけら笑う栗原に文句を言いながら、本当のところ、あたしは少し救われてる。うぬぼれかもしれないけど、栗原だけはあたしのことを『千尋のとりまき』扱いしないでいてくれる。それが、嬉しい。
 で、あたしが栗原に何か言おうとしたとき、千尋がものすごく嬉しそうな顔であたしに駆け寄ってきて、腕に絡みついた。
「ねーさん、本当にありがとう。今日も行くでしょ?」
 あたしはコトバもなくうなずいて、栗原に目でバイバイと言った。
「千尋ちゃん、ばいばーい」
 栗原は、あたしの目を見ながら千尋に声をかけた。そういうところも、妙に気持ちいい。
 公園のブランコは今日もあいていて、いつ行っても人が少ない公園ってそのうち潰されちゃわないかな、なんて話をしながら、あたしたちはブランコの定位置につく。
 そしてあたしはブランコに腰掛けるなり、手に力を入れてうわっと後ろに重心をかけた。視界には、空(と、ブランコを吊している鉄の棒)しか見えなくなる。そのまま足を上げてしまえば、あたしはこのめんどくさい地球との接点がなくなる。
 あ、あたし、こころが疲れてるなって思った。
 仕方ない。隣のクラスの男の子に喧嘩を売ってきたばかりだから。

「千尋につきまとわないでくれる?」
 と、あたしはその男の子に言った。目つきの悪さと口元のだらしなさがせっかくのオシャレを台無しにさせてるような、千尋じゃなくてもちょっと遠慮したい男の子だった。
 千尋は可愛い。だから、モテる。すごく単純なことだ。カレシとなかなか会えないって状況も手伝ってるのか、隙につけいろうとする男が、あとをたたない。
 そして千尋は弱い。誰それに告白されてしまって困っていると言い出すと、しばらくその男の子の話しかしない。困るなら振っちゃえばいいのに、それができない。そのまま流されちゃいそうな雰囲気。
 あたしはそんな千尋を見ると、優哉に申し訳ないような気分になる。優哉なんて、千尋の話の中にしか出てこない、あたしにとっては会ったこともない赤の他人なのに。千尋といつも一緒にいるせいか、優哉から千尋を守る役割を託されているような気分になってるのかもしれない。
 だから、あたしが断る。こんなことは今までに何度もあったから、慣れたものだ。
「千尋ちゃんから直接断られるってんならオレも諦めるけどさ。とりまきに、んなこと言われくねーよ」
 いろいろと口論したあげく、今日の男の子はそんな捨てぜりふを吐き捨てて、あたしを追いやった。同じようなことを、他の誰かにも言われたことがある。この人たちは、あたしの名前を知らない。顔くらいは、かろうじて知ってる。千尋の付属物として。
 別に、名前を呼んでほしいわけじゃないから、いいんだけど。
「今日は本当にありがとね。ずっと困ってたんだ、毎日メールとか送られてさ」
 戦いに疲れたあたしに、千尋はそんなふうに駆け寄ってきて、それからなぜか少し涙ぐみながら、やっぱりあのセリフを嬉しそうに言うんだ。
「ねーさん、ほんと男らしい」
 あたしは、あたしって何なんだろうっていつもどこかで考えてる。


[03] 9月21日のコト

 ぼんやり過ごした連休明けの朝。満員電車があたしを運ぶ先は、学校ってよりも現実世界なんじゃないかって思う。あたしはすごく朝がダメで、去年の今頃は、毎日のように遅刻ばっかしてた。けど、最近はどういうわけか、毎日ちゃんと同じ電車に乗ってる。
「おーっす」
「っす」
 あたしが乗った次の駅から、いつもどおり、栗原が同じ車両に乗り込んでくる。
  挨拶した後は、電車の中で何か話をするわけじゃない。三駅分走ってる間、あたしたちは少し離れた場所でそれぞれラッシュに揉まれる。密度の高い人垣ごしに 少し背の高い栗原のやわらかそうな髪が見えたり、ときどきその隙間から顔が見えたり、たまに目が合うとお互いニヤッとしたり。そういうことが、ほとんど毎 日ある。
 別に、そのために同じ電車に乗ってるわけじゃないけど。
 学校に通うのって、基本的にはダルい。中学時代の友達には、早くも高 校を辞めてしまった子だって何人かいるし、不登校だって珍しくもない。高校なんて、行きたくなければ行かなくても別にいいってことなんだろう。でも、あた しには行かないと言いきるほどの理由も特にない。だから、行ってるだけ。こんな惰性みたいな毎日だって、行けば行ったで悪くないし。
 あたしと栗原を乗せた電車が、目的の駅へ停車する。乗降客がやたら多い駅だから、あたしは押し出されるようにして、やっとこホームに降り立つ。栗原は、たいていあたしより先にホームに立っていて、涼しそうな顔であたしが降りてくるのを見てる。
 これは、待ち合わせとかそういうもんじゃない。ただ、混雑から抜け出たあたしに栗原が声をかけてくるのがどうしてかお約束になってて、だからあたしたちは毎日、一緒に学校へと歩き出す。
「今日、いつもより混んでたよなー」
「マジ苦しかった。なんで、連休明けだから?」
「や、別に連休とか関係なくね?」
「それはいいんだけどさ、あたしの斜めうしろに立ってたオヤジの息、毒ガスだったんだけど! もー最悪」
「異臭がしたら駅員さんに知らせなきゃだめじゃん」
 あたしたちの会話はいつもそんなものだし、駅から学校までの道のりは短い。
  あたしは『ねーさん』ってあだ名をつけられて以来、どうもクラスの子たちから相談を受けたりすることが多い。名前にキャラがくっついてきてる感じ。千尋の 話はカレシが遠くにいるおかげか、あんまり生々しくないからいいけど、クラスの女の子の恋愛相談は結構ヘヴィー(例えば、表面的には仲良くしてるクラスの 子たちの間で密かに進行してるドロドロな三角関係の話とか)だから困る。解決策はなんも思い浮かばないで、一緒に暗くなっちゃう性格のあたしに言っても しょうがないでしょって思うんだけど、なぜか頼りにされがちなあたし。
 だから、栗原と毎朝交わしてるくっだらない会話は、あたしにとってオアシ スみたいなもん。昨日のテレビのこととか、今週のジャンプのこととか、最近聴いてるCDのこととか、芸能人やクラスの子のうわさ話とか、先生の悪口、テス トの問題予想、とかとか。一生懸命返事を考えなくてもいい会話。これって、どうでもいいようで意外と貴重。
 そして、千尋はこのことを知らない。
 千尋はいつも遅刻ギリギリの時間に来るから鉢合わせることもないし、あたしにとってはわざわざ説明するほどのことじゃないし、だいたい、こういうのを無理にコトバにしようとしたら、何かが壊れちゃいそうだから。
 あたしが千尋の話を聞くばかりなのは、たぶん、あたし自身の問題でもある、ような気がする。

[04] 9月22日のコト

「は?」
 風向きが急に変わったみたいな気がして、軽く身震いした。
 って気がしたのは、あたしの肌にうっすら冷や汗の膜が張ったせいかもしれない。
「ちょっとごめん、もう一度言って?」
「だから、栗原くんて、ナニゲにいーよね」
 千尋は、確かにそう言った。
 何も変わらないはずの今日。いつもの放課後、いつもの公園、いつものブランコ。なのに、いつもみたく不安そうに優哉の話をする千尋だけ、どっかに行ってしまったような気がした。
「栗原って、うちのクラスの?」
「うん、うちのクラスの栗原くん」
「突然どうしたの」
「わかんない、今まで気にしたことなんてなかったんだけど。でも、よく見たらかなりカッコいくない?」
「ん、まあ確かにね」
 一瞬あたしはうなずいてしまった。
 でも、こんなところで確認するまでもなく、栗原は誰が見てもそれなりに好感を持つようなヤツだとは思ってる。
 そうだ、あの育ちの良さが滲んだ感じの端整な顔立ちも、チャラチャラしていなくて鼻につかない性格も、おしゃれすぎずさりげなくセンスのいい髪型や持ち物も、普段は男の子とばかりつるんでいて割と硬派なところも。
 モテるとまでは言えないけれど、教室の隅あたりでたむろしてる地味な女の子軍団が密かにカッコイイって噂してるレベルだってことは、あたしも知ってる。
 や、ていうか納得してる場合じゃない。
「そんな理由であんなに好きだったカレシから心変わりしちゃうわけ?」
「や、別に心変わりなんて言ってないよ。いーよねって言っただけ」
「でも、千尋がそんなふうに言うのって珍しいもん、なんか不自然だよ!」
「......ねーさんこそ、どうしてそんなにムキになるの?」
 そう言われてしまうと、あたしは何も言えなかった。
 今日は割とあったかい日なのに、制服のブラウスごしに感じる秋の風が、やたら冷たい。千尋はブランコに乗ったまま、見えない何かに寄りかかるように後ろへと重心を預けて、空を仰ぎながら言った。
「優哉のことが好きなのは変わらないよ。だけど、栗原くんのことが気になるのは事実なの。こんなの初めて」
「そんなこと言われても......あたしは何もしてあげられないよ」
「わかってるよ」
 千尋がなにをわかってるのかなんて、あたしにはわからない。
 励ましたり、千尋の悩みをピシャリと結論づけたりするのが、あたしの役目なはずなのに、今日はそれができそうになかった。迷わずに言ってしまえばいいか もしれない。たとえば、『千尋は彼氏との不安定な関係から逃げたくなってるだけじゃないの?』とか。だけど、それを言ったときの自分の顔を、どうしてか、 あたしはうまいこと想像できなかった。
 だからとりあえず、ブラブラさせていた脚で、思いっきりその場の地面を蹴ってみる。
 反動でブランコが動き出したから、あたしはそれに合わせてゆっくりと漕ぐ。前へ、後ろへ。空気はあったかいようでいて、やっぱり風が肌に冷たい。でもあ たしは、その風を噛む。ブランコが揺れてるうちは、きっと顔が凝視されることもないから、あたしはようやくきっぱりと言えた。
「千尋の気持ちがそうやって揺れるってことは、遠くにいるカレシの気持ちも揺れるってことだよ」
「......」
「だから、千尋は栗原のことなんか気にしてる場合じゃないよ」
 思ったよりきつい口調になってしまった。
 千尋は、あたしの邪心を見ているのかなんなのか、ただぼんやりとあたしを見ている。あたしが前へ後ろへと移動するたび、首であたしを追いかけるばかり。 あたしは、やっぱりブランコを大きく漕いでおいてよかったって思いながら、前だけを向いて、ただ無心にブランコを漕ぐフリをし続ける。
 しばらくそうしていると、千尋はあたしを目で追うのをやめて、前を向いて、それから少し首を右に傾けて、言った。
「別に栗原くんのこととは関係ないけどさ。なんかねーさんの言うこと、ちょっと今日は賛成できないな」
 生意気なことに、千尋はそんなことを言った。いつもだったら、あたしのコトバには無条件ですぐ納得するクセに。
「なんでよ、あたしは間違ったことは言ってないよ?」
 鼻息も荒く、自信満々にあたしが言うと、千尋は冷めた目であたしを見ながら言ったのだ。
「頭の中でいくら考えてたって、うまくコントロールできないのが、人の気持ちってものじゃない?」
 あたしはブランコを止めた。
 どうしよう、どう言えばいいんだろう。すごく考えた。
 で、一息ついて、口を開いてみた。
「あたしは、自分の心ぐらいコントロールしながら生きていきたいけど?」
 なるべく、小さく低い声で言った。胸のモヤモヤが、興奮と一緒に吐き出されないように。
 千尋はそれを聞いて、一瞬きょとんとした顔をして。それからフッと笑って、いつもの決めゼリフ。
「ねーさんってば、ほんと男らしい」
 あたしは脱力した。結局あたしたちが落ち着くのは、いつもそこだ。
 でも、あたしもホントそう思う。クネクネしながら、『栗原のことだけは好きにならないで』とか、言えるわけないじゃん。仮に、それが世の中に求められる女らしいキャラだとしてもさ。
 だって、誰にもイジられたくないんだもん。ただ、あたしにとって栗原はただ大切な人だから。
 それは、好きとか恋とかじゃなくて。

[05] 9月29日のコト

 だからって、何が変わるわけでもない毎日。
 いつもの満員電車に乗って、吊革につかまって。
 いつも通り、あたしが乗った次の駅から、栗原が同じ車両に乗ってくる。いつも通り、軽く挨拶して、いつも通り、同じ駅で降りる。いつも通り、あたしと栗原はどうでもいい話をしながら学校まで並んで歩く。
 だけど、あたしは最近、ちょっとダレてる。それは、不規則な生活リズムのせいでも、満員電車のせいでもなくて、千尋とのキョリの問題じゃないか、なんて考えながら。

 今週に入って、なぜか千尋がずっと学校を休んでる。こんな中途半端な季節なのに、カゼひいて寝込んでるらしい。詳しいことはよく解らない。
 あたしは、学校では千尋といつも一緒にいるけど、家に帰ったらデンワとかメールとかは、あんまりしない。千尋だって、なんだかんだ言っても遠恋のカレシ とデンワとかしてるんだろうし、あたしはあたしで、カレシはいなくてもそれなりにやることはある。長い夏休みの間だって、千尋とは三回くらいしか会わな かった。デンワをかけたりかかってきたりするのなんて、遊ぶ約束をする時くらいだ。
 とりまき扱いされたり、どう見ても引き立て役にしか見えないあたしは、正直、千尋と一緒にいると、小指の先まで劣等感とか嫉妬心とかでいっぱいになる。で、そんな自分を一生懸命隠そうとするから、ものすごく疲れる。
 そのくせ、そういう刺激がないと世の中はひどくつまらないモノのような気にもなる。

「おまえ最近、元気ないじゃん」
 あたしの横を当たり前のように歩きながら、栗原が言う。彼は、あたしの調子をよく知ってる。
「千尋ちゃんがいないから?」
 自然な感じで栗原の口から出てきたその言葉は、栗原があたしだけの調子をよく知ってるわけじゃないことを主張してるような気がした。
「別に」
 どうしてか、あたしは不機嫌に答えて、自分のその不機嫌さが妙にカッコ悪いから、その後どうしたらいいのか解らなくなってしまう。で、場つなぎくらいのつもりで、何を血迷ったか、変なことを口走ってしまった。
「千尋がね、最近、栗原のこと気になるって言ってたよ」
「えー」
 栗原はどういうつもりなのか、笑ってそれだけ言うと、「そういえばさ、」と、ものすごく一方的に話題を変えた。
「おまえ、インターネットとか詳しい?」
 あたしはイライラした。話を逸らしてるのがバレバレな栗原に、何言ってんのコイツって視線を投げつけながら、答える。
「全然」
「メールとかもやらない?」
「携帯で時々やってるじゃん」
「パソコン、家にないの?」
 いつまでもどうでもいい話を引っ張る栗原が、ホント憎たらしい。
「家にパソコンはあるけど、置いてる場所が居間だし、基本的にはおとーさんのだから。一応ホットメールとかアドレス作ってみたんだけど、あんまりゆっくり見れないなら、結局携帯使う方が便利でしょ」
 あたしは、これだけ答えれば充分だろって勢いで、ほとんど一息でそれだけ答えると、もう栗原のほうは見ないことにして、前を向いてズカズカと歩き出した。
「そっか」
 栗原も栗原で、それだけ答えると、後はもう何も言わなくなった。
 それから、あたしたちは黙ったまま歩いた。
 あたしはプリプリといつもの二倍くらい早足で歩いて、ちょっと息が切れ気味になる。それなのに、栗原は何のダメージもないみたいな涼しい顔で、同じペー スであたしの横を歩く。それは、いつも栗原があたしのペースに合わせてゆっくりと歩いてくれてることの証明みたいな気がして、すごく恥ずかしい。
 そして、それを異様に気まずいと感じてるクセに、どこまでもズカズカと歩いてくことしかできない自分の子供っぽさが、わけもなく悲しかった。

 学校に着いてすぐ、千尋が今日も休みだってことを知った。
 なぜかあたしは、少しホッとしたり。


[06]10月4日のコト

「ごめん、今日は先帰ってて」
 千尋からそう言われたのは、初めてだった。
 実は、栗原のことが気になる、なんて千尋が言い出して以来、千尋とあの公園でブランコに乗ってない。千尋がしばらく学校を休んでたのもあるけど、あたし 自身、なぜかちょっと気まずいなって思ってて、ちょっと用があるからとか断ってしまう。学校では普通に一緒にいるし、学校から駅までは一緒に帰ったりはし てるけど、二人でじっくり話をするのが、今は恐い。
 けど、今までのはあくまでも、あたしのほうがやんわり断ってたんであって、千尋からそんなことを言うなんて、あたしは全然想像もしてなかった。今までの 千尋は、先生に用があったりするときも、男の子に呼び出されてても(もちろん告白のため)、あたしに「待ってて」と必ず言ってたんだから。
 二週間近く、か。
 ブランコに『乗ってない』ってより、もう『乗らなくなった』って感じかもしれない。ブランコは別にいいけど、一緒に帰ることすら拒否られたってのは、ものすごいショック。
 勝手かもしんないけど、ちょっと冷たくしすぎたかな、なんて。

 夜、珍しく栗原からデンワがかかってきた。
「どしたの?」
 あたしは冷たく言ったけど、本当は嬉しかった。あたしがちょっと落ち込んでるのがわかったかな、なんて思ったから。理由はないけど、栗原ならわかってくれる気がしてた。
 でも、結論から言うと、それはどうやらあたしのうぬぼれだったみたい。栗原は、いきなり千尋の話をし始めた。
「千尋ちゃんって、ほんとに彼氏いるんだよな?」
 あたしは一瞬何て答えて良いのかわからなくて、手に持ったデンワを落としそうになった。でも、動揺を悟られないように、すぐに平気な声で答えた。
「ちゃんといるよ、遠距離だけど、大学生の彼氏」
「そうだよな、やっぱり」
 デンワごしに、栗原の小さな溜息がかかる。なんでか、あたしは泣きそうになりながら、一生懸命しゃべる。
「千尋が、どうかした?」
「いや、うん......。どうかしたってほどのことじゃないけどさ、なんか最近、俺のこといつも見てる気がしてさぁ」
 そう言われて、今度こそ、あたしは何も答えられなくなった。やっぱり千尋は、遠恋のカレシを諦めて、あたしからも離れて、新しい恋をしようとしてるんじゃないかって思った。
「いや、たぶん気のせいだとは思うけどさ」
 栗原はあたしの気持ちを知ってるのか、たぶん知らないけど、わけもなく自分で言ったことをフォローする。なんか悔しくて、あたしはわざと下品に言った。
「この前あたしが言った冗談、真に受けて気にしすぎなんじゃないの? たぶん、鼻毛でも出てたから気になったんだよ」
「出てねえよ! つか、それだったら、おまえが一番はじめに気づくだろ」
 なんかもう、言われることがいちいち痛い。
 男女問わずクラスのみんながあたしを『ねーさん』と呼ぶ中で、栗原だけはあたしのことを『おまえ』と呼ぶ。もちろんそれは、二人で話しているとき限定だ けど。他の女の子のことは、律儀にも名字にさん付けで呼ぶ。あたしのことだけはみんなの前でも名字を呼び捨てにする。千尋のことを『千尋ちゃん』と呼ぶの は、単にみんながそう呼んでるから、だと思う。
 あたしは、ほんの少し特別っぽいあたしたちの間柄がとても好きで、同時に、妙に苦しい。あんまり苦しいから、思わずあたしの口から変な言葉が出た。
「でも......、告ってみたら上手くいったりして」
「まじで?」
 あたしの軽い口調に対して不自然なくらい、栗原はど真ん中ストレートでその言葉をキャッチした。まるでそう言われるのを待っていたみたいに。そのせいで、あたしはこの話をギャグにしそびれてしまった。
「や、でも、千尋にはちゃんと彼氏がいるんだからね」
「でも、意外と隙はあるってことだよな」
 変な方向に、会話が流れてく。あたしは、今まで築いてきたはずの何かが壊れていくのを、止める方法なんて知らない。
「栗原が千尋のこと本当に好きならいいけどさ。軽い気持ちで告白なんかして、千尋と彼氏の関係を壊したりするのは、絶対やめてよ。千尋はあたしの大切な友達なんだから」
 つい、本気の口調であたしが言うと、栗原はデンワの向こうで吹き出した。
「そんなに身の程知らずじゃないよ。つかおまえ、ねーさんっていうより、千尋ちゃんのお兄さんみたいだな」
 本当にそうだと自分でも思う。だってあたしは、『男らしく』て、『ねーさん』なんだから。
 どっちにしても、栗原が笑ってくれたから、よかった。

[07] 10月12日のコト

 そんでまた連休が明けて、いつもと同じ毎日が始まる、はずだった。
 でも、違った。
 あたしが電車に乗った次の駅、栗原が同じ電車に乗ってこない。人垣の向こうまでよく見回しても、やっぱ栗原はいなくて、ただ前に立っている女の人の長い髪がチクチクとあたしの顔を撫でるのがすごい不快で。
 電車を降りてからもキョロキョロ見回したけど、栗原の姿は見えなかった。ま、乗り遅れたんだろう、とあたしは思った。人間、誰だって寝坊ぐらいする。
 あたしはひとりで学校までの道を歩いた。あたしと栗原は約束して一緒に登校していた訳じゃないんだし、次の電車が到着するまで待ってみたり、栗原の携帯にどしたのってメールを送るのも、なんか違う気がするし。
 改めて考えてみると、あたしと栗原の関係なんてそんな程度のもんだった。そんなことに気づいて、それがミョーに新鮮だった。

 一時間目が始まるチャイムが鳴り始めても、栗原はまだ来てなかった。学校を休むのかもしれない、と思った。変な天気が続いてるから、そりゃ誰だって風邪ぐらいひく。
 その時、千尋もまだ教室にいなかった。でも、千尋は元々チャイムが鳴り終わってから教室に入ってくると決まっている。おかしいことはなんにもない。
 本当に、おかしいことなんてひとつもなかった。
 古文担当の教師が、ドアをガラガラと開けて教室に入ってきたのとほぼ同時に、後ろにあるもうひとつのドアも静かに開いて、いつものように千尋がいそいそと入ってきて、席についた。そして、栗原が千尋の後から同じようにいそいそと席についた。
 あたしは、それをただぼんやりと見てた。不思議な光景だ、と思った。あたしと違う時間に教室に入る栗原を見るなんて、初めてな気がした。
 そして、すごくヤな感じがした。
 まったく違う路線から通ってくる千尋の乗る電車は、あたしたちが乗る電車とはどうしても駅に着く時間が合わない。待ち合わせようとしても、待ってる間に 学校にたどり着いちゃうくらい、ことごとく時間がずれているのだ。栗原と千尋が同じ時間に駅に着くことはありえない。わざわざ時間を合わせない限り。
 授業がいつもどおり始まっても、あたしの耳にはほとんど教師の話が入ってこなかった。一番好きな古文の授業だったのに。

 だからって何事もなく、一日は終わりそうだった。
 千尋はいつもと全く同じ調子で、休み時間になると普通にあたしのところへきて、おやつとかお弁当を食べたり、くだらない話をしたりしてた。あまりに普通だったから、栗原のことを、あたしは聞けなかった。
 授業がすべて終わって、もう帰ろうかなと思ってたあたしに、千尋が声をかけた。
「ねーさん、公園行こうよ」
 千尋は妙に嬉しそうだったけど、あたしはただビックリした。公園に行かなくなって、もう三週間近くだ。あたしの中では、もう終わった習慣ぐらいになってた。どっちにしても、あたしはなぜか、あんまり公園に行きたくなかった。
「えー。ダルいから、そこら辺でいいよ」
 あたしは学校の敷地内にある講堂の裏手を顎で指した。千尋は少しがっかりしたように短く浅い溜息を吐いて、それでもあたしに文句を言ったりせず、軽い足どりであたしの前を歩いていった。
 講堂の裏手にあるよくわかんないスペースは、あたしが学校の中で一番好きな場所だ。ほとんど人が通りかかることはないのに、花壇には無駄に花が植えられていて、そういう意味のなさがすごく良かった。春にあたしを和ませた花はもうどこにも咲いてないけど。
「公園行きたいって言い出すなんて、ヒサシブリじゃん。なんかあったの?」
 なんかのついでみたく、あたしは聞いた。
「あのね。あたし栗原くんと付き合うことになった」
 禿げた花壇を眺めるコンクリートの上に座るのとほぼ同時に、千尋はそう言った。あたしは今日、古文からずっと授業そっちのけで、そう言われる可能性について考えてたから、別に驚くこともなかった。
「いんじゃない?」
 とても乾いた口調で、あたしは言った。千尋は驚いたように目を見開いて、切り返した。
「いいの?」
「いいでしょ。千尋がそうと決めたんだったら」
「怒らないの?」
「あたしが怒る理由なんか、ないよ」
 用意していたこころのない言葉なのに、機械的にでも声に出してみたら、意外とそれが真実っぽい気もした。あたしは栗原とはただの友達で、千尋とも友達で、二人が付き合うことで幸せになるなら、あたしには何も言えない。ただ、一言だけつけ加える。
「そのかわり、優哉って男のことは、ちゃんとケリつけなよ」
 千尋は、嬉しそうな悲しそうな、変な顔をした。頷いたような気もするけれど、少し顔をこわばらせただけかもしれない。なんでそんな顔をしたのかは、わか んないけど、顔が可愛い女の子がときどき見せる少し崩れた表情はますます味があって可愛い。だから、張り合おうと思えないのかも。
 なんて。
 あたしはそんなのん気なことばっか考えてて、自分に迫ってる本当の問題になんか、全然気づかずにいた。


[08] 10月14日のコト

 千尋は、休み時間をあたしと栗原の二人に、均等に捧げようとしてるみたいだった。
 朝は栗原と一緒だから、一時間目と二時間目の間はあたしのところに来る。その次の休み時間は栗原のところ。次はあたし。まるでそうすることが決まりになってるみたいに、きちんと時間の使い道を区別する。
 千尋が栗原のほうに行った休み時間、あたしは次の授業の準備が済んでしまうともうヒマで、仕方ないから別にそんなに行きたくもなかったトイレに無理して行ってみたりして。そんでも時間が余ってるから、教室の中を見回した。
 クラスのコたちはもう、たいてい仲いい同士でひっついてしまった。クラス替えしたばっかの頃は、けっこう大勢で輪になって、誰も外れないような無難な話 題を出し合って、適当に楽しんでたのに。あれはただ、お互いに趣味が合いそうな友達を探すための儀式だったのかもしれない。
 このクラスになって、もう半年も経ったんだから、あの頃とは状況が違ってて当たり前だ。もうみんな仲のいい子を見つけて、それぞれプライベートな話とか するのに夢中になってる。あたしは、そういう内輪な話に後から入っていくのって、苦手。わかんない話に適当に相づち打ったりするのも、初めから全部説明し てもらうのも、なんかイヤだし。
 そういえば、千尋と一緒になってあたしに恋愛相談してたコたちも、いつのまにか悩みなんて忘れたような顔して笑ってるしなぁ。すごい今さら気づいたんだけど、あたし、ここんとこ学校で千尋としか喋ってない。

 見たくないのに、千尋が栗原と喋ってるのがどうしても目の端っこに映り込んでくる。二人はなぜか、そんなに楽しそうな感じじゃなくて、だけど言ってみ りゃ長年連れ添った夫婦みたいな感じで、静かにぼそぼそと喋っては、ときどき静かに笑ったりしてる。なんつーか、ワケありっぽい空気ぷんぷん。
 なんでかそれは、大声で意味のわかんない内輪話をしてるコたちよりも、もっと他人を寄せ付けないようにしてるみたいだな、と思う。なんたって、千尋とも栗原とも仲が良いはずのあたしですら、入りにくい雰囲気なんだから。他のコたちからしたら、もっと入りにくいはずだ。
 あたしは。
 ホント眠くてたまんない、みたいな顔して、自分の机に突っ伏した。誰もあたしのことなんか見てないのに、喋る相手が誰もいなくて、他にすることもないヤツが寂しく寝てるって思われないための、万全の演技。我ながら、けっこう上手く演じたと思う。
 あたしが閉じこもった殻は、両腕と机で囲い込んだほんとに小さな空間で、学校の机の表面特有の、鼻をつく懐かしいような木のニオイでいっぱいだ。その中で、あたしはもう一度千尋について考えた。
 ひょっとして、あたしと一緒にいるときも、千尋はああいう空気を作ってるんじゃないだろうか。
 今まで、あたしと千尋が喋ってる間、栗原も、ほかの誰かも、会話に混ざってくることはなかった。普通に友達関係のつもりだったのに、さんざん『とりま き』って言われてた理由も、今ならわかる。千尋と栗原が喋ってるのを見て、初めて気がついた。あれじゃ、誰だって「千尋に近づけない」って思う。それは同 時に、あたしに近づけないってことでもあるんだけど、まあ、あたしに近づきたい人なんて、そんなにいないだろうし。
 だけど、本当のところ、これは千尋が仕組んでることだ。あたしが気づかなかったように、今の栗原もそれに気づいてない。
 千尋の独占欲って、そんなに強いんだろうか。強いのかもしれない。今まで彼氏が遠くにいて寂しい思いをしてたんなら、その反動でこんなんなっちゃっても仕方ない。

 とにかく、確かなことはひとつ。
 千尋から解放されたあたしは、すごく孤独だってこと。
 失恋だけならまだ良かったけど、千尋と栗原という大切な友達を、あたしは一度に失ってしまったんだ。

[09] 10月18日のコト

 いくらなんでもおかしい、と気づいたのは今日だった。
 相変わらず、学校で千尋としか喋ってないのだ。

 前からそうだったかな、と考えたけど、よくよく考えてみたら、あたしはクラスのコたちと、こんなにまで疎遠じゃなかったはずだ。授業の合間とか、ちょっとした機会に、軽口くらい誰とでも交わしてた。ついこの間まで。
 だけど、今は違う。明らかに、避けられてる。それどころか、陰口をたたかれてるっぽい。休み時間に千尋と喋ってたとき、聞こえよがしに言われたのだ。
「オモテウラありすぎだよね」
「あんな子と、よく仲良くできるよね」
  そういうのは、先週あたりからチラホラあった。でもあたしは、それを千尋の陰口だろうと思ってた。千尋はかわいいから女の子にケンセイされたりすることも あるだろうし、まして、プチモテの栗原と付き合い始めたなんてことになったから、僻んでいろいろ言うコがいるのは全然おかしくないって思ってた。
 だけど、気づいてしまった。
 あのコたち、千尋にはふつうに声をかけてる。ちょっとした挨拶とか、軽い話とか。クラスメイトだったら当然するような、ふつうの会話をしてる。
 そして、あたしにはひとことも話しかけない。
 今まで気づかなかったなんて、あたし、ひょっとしたらすごく鈍感かもしれない。
 いや、本当は心のどこかでそんな気もしてたけど、それ絶対被害妄想だよって自分に言い聞かせてたんだ。だってあたし、誰かに悪口言われるようなことなんか、した覚えないし。

「続きを読んでください」
 五時間目、英語の授業のときのことだった。あたしは突然、先生にあてられた(そういう意味では、先生とは会話してるわけだ。別に、会話ってほどの内容じゃないけど)。
 あたしはその時、ひょっとして自分はシカトされてるんじゃないかとか考えてて、授業を全然聞いてなかったから、続きって言われてもどこを読めばいいのかわからなくて、後ろの席のサヤカに訊いた。
「えっ、どこ?」
「......」
 サヤカは、あたしと目すら合わせなかった。
 なんで? って思った。
 サヤカとは、席替えするたびにいつも近くの席になっちゃって、なんか運命的だよねーって言いながら、ついこの間までそれなりに仲良くしてたはずなのに。授業中に先生にあてられて答えが解らないとき、助け合ったりとかもしてたのに。
 完全にシカトされたあたしは、その場で棒立ちすることしかできなくて、先生に怒られた。
「どうやら勉強に全く身が入らないようですねぇ。夜更かしでもしていたのですか?」
 冷たい目でやんわりと説教するこの先生の叱り方が、あたしは嫌いだ。あたしはうつむいたりせずに、先生を睨みつけた。
 そのおかげで、視界の隅っこにイヤなものが映ってしまった。前のほうの席で、あたしを笑ったコがいたのだ。やっちゃったねー、って感じの同情の笑いじゃなくて、明らかに意地の悪い笑い方だった。
 なんで? と、思った瞬間だった。
「毎晩、インターネットで忙しいんだもんな」
 誰か、近くの席の男の子が小声で言ったのが聞こえた。
 あたしのこと?
 振り向いてみたけど、誰もがあたしから目を逸らすように下を向いて、肩で小刻みに笑ってるだけだった。
 たぶん、あたしのことだ。
 でもあたしは、毎晩インターネットなんてやってない。家にパソコンはあるけど、おとーさんのだからほとんどいじらない。って、ねえ栗原、あんたには前に話したよね。
 あたしはちょっと必死な気持ちで、栗原のほうを見た。
 栗原は。
 彼だけは、あたしから目を逸らさないでいてくれた。だけど、どうしてかすごく悲しそうに、あたしのことを見ていたのだった。

[10] 10月20日のコト

 学校、行きたくない。
 そう思いながらも、あたしは今日もいつもの電車に乗った。理由のわからないイジメが原因で不登校なんてカッコ悪 いから。ていうか、イジメって言葉自体、カッコ悪いんだけど。あたしは今まで、イジメなんてする側にもされる側にもなったことないから、イジメそのもの が、すごいハッキリした理由のあるものかどうかも、よくわかんない。なんにせよ、これで学校に行かなくなったらほんとに負けだ。
 と、自分をなんとか励ましながら電車に揺られて一駅目。栗原が、同じ電車の同じ車両に乗り込んできた。
「っす」
 二週間ぶりくらいなのに、当たり前みたいな顔なんかして。
 あたしは、無愛想な顔をして、首だけで答えた。久し振りに誰かから声をかけてもらえた感触が、胸に痛すぎたってのもあるし、今さら栗原とどんな顔で向き合えばいいのかも、よくわからなかったから。
 そのあと三駅分、あたしたちは少し離れたポジションでそれぞれラッシュに揉まれた。あたしは、栗原と目が合わないように、ずっと下を向いてた。

 なのに、目的の駅で電車を降りると、栗原はやっぱり先に降りて、あたしを待ってた。確かにまっすぐあたしを見てた。
「千尋は?」
 逃げられないから、仕方なくあたしは訊いた。栗原と久々に喋れるのに、気分は重い。
「五分後の電車で来る。ここで待ち合わせてるから」
 なーんだ、と思った。思ってから、あたしなにを期待してたんだろうって、また落ち込んだ。
「......っそ。じゃ」
 それだけ言って、あたしは改札に歩いていこうとした。けど、前に進まなかった。栗原が、あたしの右手を強く引っ張ったから。
「痛っ」
「あ......悪い」
「なによ、もう。千尋が来るんなら、あたしに用なんかないでしょ」
「千尋ちゃんが来る前に、訊きたいことがあるんだよ」
 栗原は、あたしの手を強く握ったまま、ほとんど叫ぶように言った。手が、すごく熱い。そう思った次の瞬間、氷が溶けるみたいな感じで、あたしの口はすごく自然に開いた。
「訊きたいことって......?」
「あのさ、おまえ、インターネットほとんどやってないって、本当だよな?」
 またその話。
「本当だよ。そんな嘘ついても仕方ないじゃん」
「だよなぁ」
「つーかさ、みんなしてインターネットインターネットって、いったい何なわけ?」
「うん......」
 栗原は、一度あたしから目を逸らして、それから何かを決意したように言った。
「あのさ、おまえ、パソコンで受信できるアドレスある?」
「ホットメールなら一応。でも、全然チェックしないよ。携帯のメールじゃだめなの?」
「うーん、パソコンのほうがいい」
「わかった。てか、よくわかんないけど。アドレス、長いけど覚えられる?」
 栗原はあたしの手を離して、あたしの言う文字列をそのまんま携帯にメモした。
 あたしのアドレスは、好きな花とその花言葉を組み合わせたもので、そういうのってあたしのキャラにあんま合わない気がするから、なんか恥ずかしくて、あたしはワケもなく謝った。
「ごめん、変なアドレスで」
「別に、普通じゃん」
 栗原は、本当に何も思ってなさそうな言い方であたしを慰めた。だけどあたしは、どうせ携帯のメールしか使わないからって、なんも考えずにアドレスを作ってしまったことを、ひそかに後悔した。
 アドレスを最後まで打ったところで、栗原は少し慌てた様子で言う。
「今日......はちょっとムリかもしれないけど、明日ぐらいにメール送る」
「わかった」
「じゃ、もうすぐ千尋ちゃんが来るから」
「あー......じゃ、先行くね」
 なんだかんだ気にかけてくれても、やっぱ千尋との時間は邪魔されたくないってことか。ま、もう一人の通学路にも慣れたから、いいんだけど。
 頭ではそう考えてるクセに、学校へ向かうあたしの足どりは、いつもよりさらに重くなってるような気がした。

 そのせいかどうかわかんないけど、氷解しかけたはずのあたしの顔は、また一日中こわばることになってしまった。
 ほんのちょっと期待してたんだけど、栗原からのメールも、やっぱ今日は届かなかったし。いつもどおり、千尋としか喋らなかった一日。

[11]10月21日のコト

 台風で電車が止まればいいと思ってたのに、あたしたちが住んでる町までは、台風が来なかった。
 仕方なく、あたしは今日も学校へ行った。栗原は、同じ電車に乗ってなかった。
 今日のあたしは、一日じゅう落ち着かなかった。栗原からのメールが来れば、きっとあたしがシカトされてる理由、まで行かなくても、多分なんらかの手掛か りが見つかる。そう思って過ごしたから。まあ、あたしが落ち着いてようが落ち着いてなかろうが、どうせ教室のみんなからはほっとかれてるんだし、何が変わ るってワケでもないんだけど。
 午後になると、あたしは落ち着きがなくなりすぎて、もう千尋とすらろくに話さなくなった。栗原からメールが来る(かもしれない)って話も、千尋にはしない。嫉妬されたりしたらメンドクサイと思った。
 逃げるように学校から帰ると、あたしはますます落ち着かなくなって、何度もメールチェックをした。けど、夜になっても、栗原からのメールはなかなか届かなかった。
「いつもはパソコンなんて教えるって言ってもやらない癖に、どうしたんだ」
 仕事から帰ってきた父親が、横から茶々を入れてくるのもうざい。うちのパソコン、なんで居間なんかに置いてあるんだろう。あたしのものじゃないから、仕 方ないんだけど、父親が時々パソコン立ち上げて家族の共有スペースで仕事してたりするのも、ホントはすごい迷惑だったりする。ま、書斎みたいな部屋を作る ほどウチは広くないから、仕方ないけど。
 父親が、あたしになんか教えたがってるような顔で見てる。あたしは救いようがないほど長い父親の蘊蓄話から逃げるために、今日はこれで最後にしようと思って、もう一回だけメールを立ち上げた。
 これで届いてなかったら、今日はもう諦めよう。そう思ってたら、さっきと違う画面が現れた。
 新着メール、一件。

 今さらかよ、ってちょっと心の中でツッコミながら、あたしは慌てて受信トレイに入ってきたメールをクリックした。
 で、本文をぱっと見て、思わず声に出して言ってしまった。
「はぁ?」
 横でニュース番組を見てた父親が、なんだなんだというふうに覗き込んできた。あたしは、思わず画面を隠して、「何でもないからあっち行って」と、追い払う。
 もっとも、それは親に見られて困るようなメールじゃなさそうだった。これだけ待たされたんだから、さぞかし重要なことがぎっしり書かれたメールが届くんだろうなって、どこかで思ってたのに。
 あたしは、今度は声に出さないように小さく溜息を吐いて、栗原からのメールをもう一度読んだ。
 何度見ても、そこにはたった三行書いてあるだけだった。

まずは↓
http://xxxxxxxxx.jp/nat/
見て、どう思うか返事くれ。

 たったそれだけ。
 あれだけ意味ありげにあたしのアドレスを聞き出して、こんなに焦らしたんだから、さぞかし面白いサイトでも紹介してくれるんだろう、と、あたしは少し期待してみた。それでもやっぱ、失望感は拭えなかった。
 なんにせよ、とにかく見てみるしかない。あたしは、投げやりにその文字列をクリックした。
 それは、どうやら一個人が運営してるホームページで、メニューリストみたいなのの中には、プロフィールと日記しかなかった。
 あたしは、ますます拍子抜けした。このページのどこに、一体ヒントがあるっていうんだろう。
 こういうサイト、今までにも幾つか見たことがある。どこかの誰かが独り言つぶやいてるみたいな、日記ともエッセイともつかない文章が並んでるみたいなの。
 あたしは今まで、面白い画像だとか音声だとかが友達から送られてきたりする以外には、インターネット自体に興味を持ったことがないくらいだから、こういうサイトにも興味がなかった。人の心を覗くのなんて、趣味じゃない。
 それでも、きっとこのサイトのどこかに、何かヒントがある。そう思ってあたしは、まずプロフィールのページを開いた。
 それを見て一瞬、息を呑んだ。

 名前:なつみ
 年齢:じゅうななさい
 住処:A市

 A市に住んでいる十七歳、名前がなつみって......あたしと同じだ。よくわかんないけど、なんとなく納得した。クラスのコたちはたぶん、これをあたしだと思ってるのだ。で、この人が書いてる日記に、なんか問題があるってことなんだろう。
 でも、これはあたしじゃない。今んとこ、あたしにはそれしか断言できないけど。

[12] 10月22日のコト

 学校、行けなかった。
 栗原が昨日送ってくれたサイトにある日記、気持ち悪い。気持ち悪すぎ。だけど、気がつけばあたしは、朝が来るまで何度もそのサイトの日記を読み返してしまった。

○ ○ ○


9/14 今日から日記かくよ♪
 インターネットで日記かくのハジメテ・・・
 何書いたらいいんだろ(*^▽^*)ゞ

 えっと
 今日は友達と遊んできた。
 公園で(笑)←小学生かよっ!
 でも公園でまったりするのスキ。。。
 ブランコとかマジになって漕ぐと楽しいよ。

ーーー
9/15 変わらず
 今日も学校のあと公園行ってきた♪
 うちら部活も入ってないし
 「公園部」とヵ作っちゃう?
 部員、②人だけど。。。
 つうかそれ、絶対あたしが部長じゃん・・・(´∀`;)
 もう一人のコは
 カワイイけど頼りないからなー

 なんか「もう一人のコ」って
 いちいち書くのめんどいから
 「チィ」って呼ぶことにしよ。
 どーせこれからも日記に出てくると思うから。

ーーー
9/16 騎士
 チィに告ってきた男を撃退した(笑)
 こーいうの初めてじゃないけどね。。。
 あたしマジ男前!
 惚れるなよ!(爆)

 でもさ・・・
 チィにはちゃんと心に決めた人がいるから
 あたしが守ってあげなきゃね(^ー°)b

ーーー
9/22 ありえない。。。
 さっそく日記さぼっちゃった( ̄▽ ̄;)
 よく見たら③日分で止まってるし。。。
 これじゃほんとの三日坊主だよ。。。

 それにしても、今日はかなりショックなことが!!!
 チィが彼氏以外の男を気になるって言い出した・・・
 しかもその相手
 ナニゲにあたしがいいなーって思ってたKなんですけど・・・

 マジありえなくない?

ーーー
9/24 おちつけ!
 一昨日のあたし、興奮しすぎ(笑)

 やっぱチィには彼氏いるんだし
 心配ないよね。。。

 でも、いきなり彼氏なんかどうでもいいとか言われたら
 いくらあたしでも怒るよ。
 今まで悩みを聞いてあげてた時間を返してって感じ・・・

ーーー
9/27 やべー
 このサイトの存在が、学校の人にバレちゃったみたいー
 てか、自分で教えたんだけど(爆)

 改めてよろしく~(^▽^*)

ーーー
9/30 目障り
 しばらく休んでたチィが久々学校出てきやがった。。
 あんなヤツいなくてもいいのにね。
 ちょっとかわいいからって調子のってんじゃねーよ(ノ`△´)ノ

ーーー
10/3 あー
 日曜日ももう終わりかー
 学校行くのダルいなー

ーーー
10/4 もーやだ
 いつも一緒に学校から帰ってたチィが
 「先帰って」だって。。。

 今まで黙っていろんな話聞いてたあたしに向かって
 最近ナマイキすぎる・・・マジむかつく

ーーー
10/6 苦情いただきました♪
 表面的に仲良くしてるのに
 こーゆーとこで悪口言うのよくない。

 ってメールが来ました。
 正義感まるだしでかっこいーね(プ

ーーー
10/8 三連休うれしいな♪
 またまた苦情のメールが届いたよ。

 そんな人だと思ってなかった

 だってさ。
 あたしのことどんな人だと思ってたか知らないけど
 勝手に勘違いして勝手に失望されても
 すげー困るんですけど(-_-メ)

 ま、あたしは別に
 あなたに信頼されたくて生きてるわけじゃないんで
 どー思おうが勝手なんだけどね。

ーーー
10/12 きっつー
 チィがいきなりKと付き合うことになった。。。
 彼氏のことはどうすんの?

 あー
 それにしても、また苦情がきたね
 しかも一気に4人から!!!!(爆)

 それぞれに返事書こうと思ったけど
 めんどくさいからまとめて言うね。

 あんたら
 ほんとキモイよ

ーーー
10/14 -
 なんでもない顔してあたしに話しかけてくるチィが
 ほんとはすごく憎い。

ーーー
10/15 憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い
 チィも憎いんだけど
 毎晩このサイトにアクセスしては
 いやがらせのメール送ってくるあんたらも
 ほんと憎い

ーーー
10/18 あはは
 英語の時間にあてられて笑われた。
 みんなが笑ってくれてうれしーよ(爆)

 みんな必死にあたしのことシカトしてるけどさ、
 このサイトのアクセスも
 いやがらせメールも
 毎晩増えてるんだよね。

 中にはグロ画像送ってきたり
 ウイルス送ってきたりする人もいるみたいだけど。
 ほんと、卑劣だねー

 苦情メール送ってきたり
 学校でシカトするくらいむかつくんなら
 このサイトのこともシカトすればいーのに。。。(笑)

○ ○ ○

 日記は今のところそこまでしか書かれてなくて、あたしはとにかく途方に暮れた。
 これ、あたしの日記なの......?
 なにを信じていいか、わからなくなった。あたしはこんなこと書かないし、あんな言葉使わないし、そもそもあんなこと思ってすらいないのに。でも、そんな 自信がなくなるほど、ここには確かにあたしのことが書かれてる。少なくともちょっとだけあたしのことを知ってる他人が見たら、これは間違いなくあたしの日 記だと思うだろう。これが原因で、あたしはみんなからのイジメを受けてるのだ。
 偶然でも人違いでもなさそうだった。ひょっとしたらあたしは本当に二重人格で、無意識のうちにもう一人のあたしが書いたのかもしれない。そういう可能性まで考えたら、何も否定できそうにない気がしてしまう。

 ――ああ、だけど、よく考えたらほんの少しだけ残ってた。今のあたしにも自信持って言えること。
 ひとつは、あたしは確かにいろいろ傷ついたけど、別に千尋を憎んでなんかないってこと。
 それと、もうひとつ。栗原だけは、これがあたしの日記じゃないんだってちゃんと信じてくれてること。

[13] 10月23日のコト

「おまえ、学校サボるなよ」
 明け方。ものすごい変な時間に電話をかけてきてそう言ったのは、栗原だった。つーか、今のあたしに電話をかけてくる友達なんて、どうせ他にいないだろうけど。
「いくらなんでも、あんな事実知らされて平気な顔で学校行けるほど、あたし図太くないから」
 あたしは、一昨日からなかなか眠れなくて、やっと浅い眠りに突入したかなってトコだったから、少し不機嫌に答える。
「まあ、そりゃそうだろうけど......でも、逃げたら負けじゃん」
 栗原に言われて、あたしは思わず黙った。逃げたら負け、ってのは正論かもしれない。けど、あたしは自分がそこまで強いのか、自信ない。いくら男らしいって言われても、さ。
「どーでもいーけどさ、あれ見てどう思ったかちゃんと返信しろって、メールに書いただろ。ちゃんと約束は守れよ」
 黙ったあたしを喋らせようとしてるのか、栗原は違う角度からあたしを刺激する。
「あー......ごめん」
「まあ気持ちはわかるけど、さ」
 栗原の声は、言葉は、電話ごしに伝わる空気は、すごく優しくて柔らかくて、まるでジワジワとあたしの背骨に染み込んでくるみたいだった。その瞬間、背骨 と涙腺は体の中で繋がってるのかもしれないって思った。体の真ん中から湧き出て、目の縁から出てしまいそうなモノの存在。それを抑えるのに、なんであたし はこんなに必死なんだろう。
 見えない努力を悟られたくないから、搾り出すようにあたしは言った。
「あたしじゃないよ......」
「んなことわかってるよ。それより、心あたりとか、ないのかよ?」
「心あたり?」
「誰があんなことやったか、だよ」
 あたしは、答えられなかった。正直、あれが誰の仕業かなんて、今の今まで全然考えてなかったのだ。あたしが一日かけてやってたのは、ただ、あたしはあん なことやってないよね、違うよねって、自分に問いかけることだけだった。あたしがやってないなら、あたし以外の誰かがやったに違いないのに。

 それからしばらく、あたしは栗原と二人、犯人について推理をした。
 あたしを傷つけるのが目的だとすると、あたしに恨みを持ってる人間がいるってことだ。知らないところで知らないうちに恨まれてるという前提で話を進めな きゃいけないなんて、すごく嫌な気分だった。けど、こうなってみてみると、あたしは千尋の代わりに男を振ったり、偉そうに他人の恋愛相談なんか聞いてたか ら、調子に乗ってるって思われたりするのも、仕方ないような気になってくる。
 あたしが、恨まれる心当たりなら多いからなーって頭を抱えてたら、栗原はそんなことないだろってフォローしつつ、付け足した。
「もうひとつ考えられるとすればさ、おまえを孤立させることで、誰かから引き離そうっつう目的だよな」
「誰かって......ここまで手の込んだことをやらなきゃ引き離せないほどあたしが仲いいのなんて、千尋だけだよ?」
 あたしは、自分と仲いい人リストに栗原の名前を入れるべきかどうか迷った。でも、入れるのはとりあえずやめといた。あたしは栗原と、毎日たまたま同じ電 車に乗ってただけの関係なんだし、仲いいってのはちょっと言いすぎだ。栗原は一部の女の子の間でモテてるけど、そのコたちにあたしが恨まれることはないと 思う。だって、シカトが露骨になってきたのは栗原が千尋と付き合い始めてからなんだから。
「そうだよな......。結果的に、このことで千尋ちゃんと仲が悪くなったわけでもないし、なあ」
「うん......あ、でもそれは、もしかしたら千尋があのサイトのことを知らないだけかもしれないし」
「いや、千尋ちゃんと引き離すつもりでやってるんなら、それとなくわかるように仕向けるだろ、普通」
「そっか。じゃあやっぱり、単純にあたしをいじめたいんだと思う」
 話が前に進まないうち、あたしはどうやら携帯を握り締めたまま眠ってしまったらしく、気がついたらもう夕方だった。こんな事態だってのに、あたしは今さ ら、やっぱり栗原と話してると一番落ち着くんだよなって、すごく実感した。ひょっとしたら、今のあたしにとっては最高の睡眠薬かもしれない。

 でも、栗原を頼っちゃいけない。
 だってもう栗原は、千尋の彼氏だから。
 頭をぶんぶん横に振って、そのときあたしはふっと気づいた。
 そういえば千尋はあの彼氏――栗原じゃなくて、遠恋の優哉とは、結局どうなったんだろう。きれいさっぱり別れたのかどうか、あたしはまだ、ちゃんと話を聞いてない。
 もし別れ話がこじれてたとしたら?
 千尋と別れたくないあまり、優哉が栗原と千尋を引き離そうと考えるなら。あたしと栗原を近づけるのが手っ取り早い方法かもしれない。......なんて、たぶん考えすぎだ。
 こんなふうに考えてしまうのは、あのサイトが結果的にあたしにもたらしたモノってなんだろうって考えたら、意外とシンプルだったからだ。クラスのコたち にシカトされてるって現実と、こんなこといってる場合じゃないけど、あたしがますます栗原に惹かれてしまってるっていう事実。ほんと、それだけ。

[14] 10月25日のコト

「ユウヤ? 誰それ」
 ありえないよ、と言われる覚悟で話してみたけど、栗原はそう言わなかった。電話の向こうで、本気で首を傾げてるっぽいのがわかる。
「誰って、千尋の......」
 彼氏、って言いかけたとこで、あたしの言葉は止まった。そういえば、今は優哉じゃなくて栗原が千尋の彼氏だ。
「えっと、だから、ほら話したじゃん、遠恋の、千尋のモトカレ?」
  変な迷いがあったせいか、あたしの言葉は中途半端に疑問形になった。あたしはまだ、栗原が千尋と付き合ってるって事実を、どこかで認められずにいるのかも しれない。だって、なんで栗原は彼女でもなんでもないあたしなんかに、毎日電話してくれるんだろう。すごく嬉しいけど、痛い。
「それなんだけどさ」
 栗原は、妙に声を低く潜めて言った。
「千尋ちゃん、ホントに遠恋の彼氏なんかいたのかよ? そんな話、全然聞かせてくれないんだけど」
  それは、すごく意外で、しかも新鮮な反応だった。あたしは千尋からずっと優哉の話を聞かされてたから、存在を疑ったことなんてない。でも、考えてみたらい くらなんでも千尋だって新しい彼氏にわざわざモトカレの話なんかしないだろうし、栗原が優哉のことを知らないのは当然だ。
「あー、なんでもない。気にしないで」
「気にするよ」
 適当にごまかそうとしたあたしに、栗原はピシャリと言った。気にする、か。やっぱ、栗原は千尋のことが好きなんだなあ。そう思うと、やっぱりあたしの胸の奥の方は引きつりそうになった。
 けど、あまりの苦しさに何も言えずにいるあたしに栗原が言った言葉は、違う意味であたしにとって衝撃だった。
「千尋ちゃんから告白されたときさ、俺、言ったんだよ。おまえから、千尋ちゃんには遠恋の彼氏がいるって聞いてるよって」
「え?」
「そしたらさ、本当はそんな人いないんだって言うの。『ねーさんには、見栄張って彼氏いることにしてただけ』とか言われちゃってさ。それがホントかはわかんないけど」
 あたしは、ますます何も言えなくなった。開いた口がふさがらないって、意味はちょっと違うけどそんな感じで息を呑むことしかできない。
 栗原に対して彼氏がいなかったことにしてる千尋の気持ちは、あたしだって一応女だし、なんとなく想像はつく、けど。
 『千尋ちゃんから告白された』って、栗原は確かに言った。
  あたしは今の今まで、ずっと栗原のほうから告ったんだと思ってた。千尋がそんなに栗原のことを好きだったなんて全然気づかなかった。それとも、本当に優哉 なんていなかったんだろうか。本当に見栄を張ってるだけで半年近くもあたしに優哉の話を聞かせたんだろうか。確かにあたしも、優哉の存在に現実感がないよ うな気がしてたこともあった。でも、全部が全部嘘だったとは、やっぱり思えない。
 ワケわかんない。
「ちょっと頭が混乱してきたから、今日はもう寝る」
 ホントに何も言えそうになくて、考える時間が欲しくて、あたしはそう言った。栗原は最後に、慌てて訊いた。
「明日は学校来る?」
「行かない」
 それだけ言って、あたしは電話を切った。

 あたしは、今日も学校に行かなかった。ホントのとこ、先週は「行けなかった」んだと思う。でも、今週からは「行かない」。そう決めた。
 犯人――って言葉を使うのには、なんか抵抗あるけど。つまり、あたしを陥れようとしてるヤツ。そいつが見つかるまで、あたしは学校に行かない。そいつの思惑どおりにいじめられてる自分が、情けないから。
 だから早く寝る必要なんてないんだけど、とにかくもう何も考えたくなくて、早めにベッドに入ってふと携帯を確認したら、メールが来てるみたいだった。栗原と話してる間に届いてたらしい。
 開いてみると、千尋からだった。
 ねーさん、どおして学校来ないのー?
 心配してるよーo(>_<)o
 あたしは、千尋はあのサイトのことを知らないんだろうな、とぼんやり思いながら、携帯の電源を切って、そのまま寝た。
 返信しなかったのは、単にそんな気力がなかったから。だと思う。

[15] 10月26日のコト

 完全に空が明るくなって、鳥のさえずりが聞こえてきて。皮肉なくらい晴れているのが、遮光カーテンごしでもよくわかった。遠くで鳴る目覚まし時 計の音。朝のテレビの音。母親が料理をする音。次第に階下が騒がしくなる。両親の乾いた会話。菜摘、なつみー、と母親が呼ぶ声。あたしは布団を頭からか ぶって、それを無視する。無視される人間の気持ちを思いながら。
 太った母親がスリッパを履いて勢いよく階段を上ってくる時の、独特の足音が迫ってきた。
「あんた、今日は学校に行くんでしょう。早く起きないと遅刻するわよ!」
 あたしは、返事をするどころか体を動かすこともできなかった。
「早くしなさい!」
「やだ」
「子供みたいなこと言って」
「今日も具合悪い。学校休む」
「夜遅くまでパソコンゲームなんかで遊んでるからよ」
 母親は、それだけ言い残して、部屋を出て行ってくれた。たぶんあたしは、それほど学校に行きたくない顔をしてるんだろう。
  いまだにパソコンとテレビゲームの区別がつかない母親で良かった。携帯すら使いこなせないのを見てると、無性にイライラするけど、今はどうしようもない機 械音痴の母親で良かったと、心から思う。何が起こったのか推測されなくて済む。もっとも、パソコンを使いこなす人だって、こんな原因でいじめられることな んて、あんまり推測しないかもしれないけど。

 携帯には千尋からまたメールが来てた。
 ねーさん、どうして返事くれないのー(つД`)
 ホントに心配してるよ。
 っていうか・・・
 ここんとこ、クラスのみんなと変な感じだったよね・・・
 それが原因?
 だとしたら、ねーさんには私がいるから。
 何があっても、私はねーさんの味方だからね!
 返事待ってます。
 あたしは、やっぱりなんの反応もできなかった。別に、千尋を無視するつもりなんてないんだけど。ただ、なにをどうやって説明すればいいのか、わからない。
 父親が仕事に出かけ、母親がカルチャースクールへと出かけていってから、あたしは居間に下りて、パソコンの電源を入れた。
 あたしが学校に行かなくなってからずっと、あのサイトは更新されてない。
 今日も、やっぱり更新されてなかった。
 あたしが学校に行かないと、書くネタがないってことだろうか。だとすれば、偽のあたしはやっぱ、学校のヒトってことになる。

 そんなことを考えてたら唐突に、あたしの頭の中、ふ、と思い浮かんだ。
 このサイトに書かれてる偽のあたしに届くメールアドレス。みんながあたしに届くと思っていやがらせのメールを送ってるこのアドレス。
 今のあたしが、偽のあたしに接触できる、唯一の手段だ。
 ......なんで気付かなかったんだろう。

 あたしはすぐ、栗原にメールを送った。
 このアドレスにメールを出して、犯人に接触しようと思う、と。
 たぶん授業中の時間だったはずなのに、栗原からもすぐ返事がきた。
 ちょっとだけ待って欲しい、と。
 なんで、そんなこと言うんだろう。あたしは一刻も早く真実を突き止めたい。でも、栗原が信じてくれてる以上、栗原の声まで無視して勝手な行動をしたら、それこそあたしは一人になってしまう。
 ていうか。
 またひとつ、新しい考えが思い浮かんでしまった。
 栗原が、あのサイトはあたしじゃないって、ずっと信じてくれてたこと、あたしは勝手に、彼がなんの根拠もなくあたしのこと信じてくれてるんだって思ってた。けど、本当はなんか根拠があったんじゃないだろうか。
 つまり栗原は、ひょっとして、本当のことを知ってる......?

[16] 10月27日のコト

「俺さ、おまえとは男とか女とか関係なく、かなり仲いーほうだと思ってる」
 栗原は、唐突にそう言った。なにか本当のことを知ってるんじゃないかって、あたしがストレートに訊いてみたところ、こんな返事が返ってきたのだ。
 話をごまかそうとしてるのか、それともこのあと重要なことを言うための前フリで言ってるのかわからないし、そもそも本人に向かって『俺たち仲いいよな』みたいな確認って、なんかすごく恥ずかしいし、だからあたしは仕方なく黙った。黙ってたら、栗原は勝手に続けた。
「おまえが千尋ちゃんと仲いーのは、とりあえず俺じゃなくても知ってるだろ」
「え? うん、まあ......いつも一緒にいるから、わかると思うよ」
「でもさ、おまえとかなり仲いーはずの俺ですら、おまえと千尋ちゃんが一緒に公園のブランコで遊んでたことまでは、知らなかったんだよ。あのサイト見るまではな」
 どくん。
 なにかが胸を打ったような衝撃。
「俺すら知らないものを、クラスの他の奴らが知ってるとはあんまり思えないよ。知ってるのは、当人だけ。おまえと、――」
 確かにあたし、ブランコのことは誰にも話さなかった。千尋が誰かに話してるのかはわかんないけど、少なくともいつ行ってどんな話をしたかまで知ってる人なんているとはとても思えない。
 あたしは、自分の肌がひんやりしてく感触ばっかり、手に取るようにわかるような気がして、気持ち悪くて気持ち悪くてどうしようもなくなって、だからかどうかはわかんないけど、ほとんど叫ぶような声で言った。
「千尋なの?」
「断言してるわけじゃない。でも、その可能性は高いと思う」
「そっか。......だから、栗原はあたしに、犯人と接触するなって言ったんだ? やっぱ自分の彼女を庇うほうが大切なんだ?」
 無意識のうちに、そんな言葉が出た。まるで嫉妬にまみれた女みたいにこんなセリフを言えちゃう自分が、惨めで情けなくて、そのことに自分ですごく傷ついた。
「別に......千尋ちゃんを庇ったってわけじゃないよ」
「じゃあ、なんなの!?」
 やんわりとした栗原の声に対して、ほとんど噛みつくみたいにヒステリックに言ってから、自分が興奮しすぎてることに幻滅した。栗原も、すごく悲しそうな顔をしてるんだろうと思った。受話器ごしでも、じゅうぶんに伝わってくる。
「俺だってどうしたらいいかわかんないよ。でもさ、ほとんど喋ったこともない俺のこと、千尋ちゃんがいきなり好きになる理由なんか、ねーじゃん。これは絶対ウラがあるなって、やっぱ思うよ」
 溜息まじりの言葉。あたしのココロにゆっくりしんしんと沁みてく気がする。
 そっか。傷ついてるのはあたしだけじゃなかったんだ。
 栗原がずっとあたしのこと信じてくれてたのは、あたしが仲間だからだったんだ。
 そんなことに気が付いて、すうっと熱が抜けて、あたしはようやく少し冷静になった。
「でも、なんで千尋があたしを孤立させて、栗原を弄ばなきゃいけないの? 昨日だって、何があってもあたしの味方でいてくれるってメールが来たばっかだよ。理由が見つからないよ」
「そうだな......それなんだよ」
 あたしたちの会話は、それ以上進みそうになかった。

 栗原との電話が終わってから、あたしはいろいろと考えた。
 やっぱり、このままウダウダし続けるわけにはいかない。逃げ続けてもごまかし続けてもなんにもならないし、どこへも行けない。
 だから、あたしは千尋宛にメールを書くことにした。
 返事遅れちゃってごめーん...
 いろいろと気つかってくれて
 励ましてくれてアリガト
 おかげでちょっと元気になりました♪
 たったそれだけのメッセージ。
 それを、千尋の携帯じゃなくて、偽あたしのメールアドレスに送る。それだけが、今のあたしにできる唯一の賭けだと思った。
[17] 10月29日のコト

 昨夜。それはもう本当に半分以上寝かけてたくらいの真夜中に栗原から電話がきて、あのサイトが消えたことを知らされた。
 慌ててアクセスしたら、
 ページが見つかりません
 検索中のページは、削除された、名前が変更された、または現在利用できない可能性があります。
 とかなんとか画面に表示されるだけで、あのサイトは本当にまるごとなくなってしまったみたいだった。
 タイミング的に、犯人はやっぱり千尋としか思えない。でも、やっぱりあたしには信じられなかった。というか、たぶん信じたくなかったんだと思う。
「もしかしておまえ、なんかやった?」
 栗原がそう訊いてきたから、あたしは千尋宛のメールをわざと犯人のメールアドレスに送ったことを、説明した。
「早まるなよ......」
 栗原は、受話器の向こうで深い溜息を吐きながら言った。こんな時だってのに、心底あたしに呆れてるみたいな言いかたをしたから、あたしはちょっとむかついて口答えした。
「だって、このまま待ってたって、どうしようもないじゃん」
「でもこれじゃ、周りの奴らが見たら、おまえが逃げたって思うだけだろ。なんでそういうあとさきのこと考えないんだよ」
 私は一瞬、ありえない失敗をしたような気分になった。けど、栗原の言葉を一回飲み込んでから、ペッと吐き出すように言い返してやった。
「あとさきって、なによ」
「だから、あれはおまえがやったことじゃないって、ちゃんとみんなに......」
「みんなに解らせるために、千尋をつるし上げるつもり?」
 あたしの強い口調に、か、もしかしたらその内容のほうにかもしれないけど、とにかく栗原は一瞬怯んだ。だからその隙に、あたしはもう一言付け足した。
「そんなことしたら、今度はあたしの代わりに千尋が教室にいられなくなるだけだよ」
 それがなんの解決にもならないってことくらい、あたしにも栗原にも、わかる。

 すごい不思議だけど、この期に及んで、あたしはまだ千尋を憎めずにいる。ましてや、仕返ししてやろうとか、あたしを苦しめたぶん千尋も苦しんだほうがいいとか、そんなことは1ミリも思えなかった。
 だって、あたしはただやんわり笑って千尋の話を聞く役回りだから。いざとなったら、いつでも千尋を守ってあげる立場なんだから。そういう自分でいたかったし、そういう自分でいさせてくれる千尋が好きだったから。
 ただ、今はものすごく悲しい。
 可愛くて、彼氏もいて、なんでもそこそこソツなくこなせるような、なにもかもに恵まれてるようにしか見えない千尋が、あたしみたいな、たいしたものに全然恵まれなかったようなつまんない人間に、こんなことをしなきゃいけない理由が、あたしには見つかんない。
 きっと、なにかよっぽどの事情があるはずだ。それを、ちゃんと聞いてあげたい。

「でもさ、このままじゃおまえ、いつまで経っても学校来れないだろ。どうすんだよ」
「別にいいよ、学校なんか。もともと、行かない理由がなかったから行ってただけだもん」
「そーゆーこと、言うなよ」
「本当だよ。いざとなったら、あんな学校いつでも辞めれる」
「だめ」
 栗原は妙にきっぱりと言った。
「おまえいなかったら、つまんねー」

 あたしは。
 その言葉をどう受け止めていいのかわかんなかったし、だからなんも答えらんなくて、泣いた。受話器の向こうにいる栗原にバレないように、ただはらはらと泣いた。

[18]11月1日のコト

 金曜日から、ホントに文字通り、三日三晩悩みに悩んだあげく、あたしは今日からまた学校に行くことを決意した。
 決意、していた。昨日の夜までは。
 だからあたしは、いつもよりも早く寝るように心がけて、明日こそちゃんと学校行くつもりだから早々に寝るよ、と栗原にもメールして、電話もかかってこないようにした。準備万端。
 千尋と会って自分自身がどんな顔をするかは、まだ想像できなかったけど、なにがあっても逃げないでちゃんと話をしたいと思いながら、あたしは気合いの入った睡眠に突入していた。
 けれど、その睡眠は途中で妨害されてしまった。
 夜遅く、いや、もう三時半をまわってたから、今日の朝早くと言ったほうがいいかもしれないけれど、とにかく静寂を切り裂くような着信音で届いたメールのせいだ。千尋からだった。


いろいろとごめんなさい。
なかったことになんてできないから、
正直に、精一杯、あやまりたいです。

ねーさんがあのサイトを見てくれますように......。

 とんでもないことになってそうな予感がして、あたしは、まだ半分脳みそが寝ぼけてるくせに、慌ててベッドから飛び起きた。朝が来るのなんて、待ってらんない。
 家族が寝てる部屋をこっそり通り過ぎて、あたしはパソコンのある居間に行き、パソコンの前に座って、電源を入れた。
 例のサイトにアクセスしてみると、消えていたはずのページが、もう一度現れていた。いや、現れたのは配色も内容も、全然違う画面だった。
 家の中全体がまだ朝を迎えてないせいかもしれないし、雨が降っているせいかもしれないけど、とにかくフローリングの冷たさが裸足にしみた。でも、あたしはいてもたってもいられず、スリッパも履かずにそれを読み始めた。


ごめんなさい。
今までここで日記を書いていた「なつみ」は
ねーさんと呼ばれる人ではありません。

別人が、ねーさんになりすまして書いてました。

私が自分で、同じクラスの女の子の何人かに
「ねーさんのHPができたんだって」って
メールを送ったのが始まりでした。
(これで、何人かの人は私が誰だか解ったよね......)

まさか、あっという間にほとんどクラス全員に
広まってしまうなんて思ってなかったし、
ことが大きくなるにつれて、
自分のいたずらだったなんて言えなくなって、
逆に疑われたくないから、
エスカレートしてしまったなんて、本当、最低だと思ってます。

いえ、ひょっとしたら私には、
ねーさんを懲らしめようとする気持ちが
確かにあったかもしれません。
だけど、これだけは信じてください。
ねーさんをここまでひどい目に遭わせるなんて、
そんなつもりはなかったんです。
本当に。


これっぽっち書いても、きっとみんなは信じないだろうし
納得もできないと思います。
だから、
偽のねーさんの日記を書く裏で、
というか、それよりずっと前からこっそり書いていた
本当の私の日記を、ここに公開します。


[19]
 日記、という文字をクリックすると、その次のページから千尋の日記が、あくまでも淡々と始まっていた。そして、淡々と続いていくように思えた。
 だから、あたしも淡々とした気持ちで読み始めた。
 
2004/8/15
 良い区切りだから、今日から日記を書こうと思う。
 と言っても、今は夏休みだし、私はほとんど外にも出ないで、ただぼんやり過ごすだけの毎日だけど。
 ときどき優哉に話しかけて、その度に切なくなった。
 Nさんに会いたいけれど、ただ私の話を聞いて欲しいという理由だけで呼び出すのは、気が引ける。

2004/8/16
 テレパシーが通じたのかな、Nさんが久し振りに電話してくれた。
 昨日、優哉と久し振りに会ったんだよって話をした。Nさんは、そうかお盆だから地元に帰ってきてるんだねえって言いながら、本当に喜んでくれてるみたいだった。
 それからNさんは、来週の花火大会に一緒に行こうよ、と私を誘ってくれた。
 一昨年まで、優哉と一緒に見に行っていたあの花火大会だ。
 二年ぶりに、あの場所へ行く気持ちになれた。

2004/8/21
 待ちに待った花火大会の日。
 とてもキレイだったし、とても懐かしい場所だった。人が溢れていて、Nさんは私が迷子にならないように、手を引いてくれた。
 まるで昔、優哉が私にしてくれたみたいに。
 そんなことを思い出していたせいか、Nさんはふと、「本当は彼氏と来たかったでしょ」って、冷やかすように言った。
 そうなのかな。
 そうなのかもしれない。

2004/8/31
 今日で、夏休みが終わる。
 明日からまた、毎日遠慮することなくNさんに会って、いろんな話ができる。
 そう思うと、本当に嬉しい。

2004/9/2
 がーん。
 英語だけ宿題を出されてたことを、すっかり忘れていた......。
 いろいろと大騒ぎしたあげく、私はNさんのノートを丸写しさせてもらうことになった。Nさんは、本当にいろいろな意味で頼りになる。
 そういえば、昔は優哉に夏休みの宿題を手伝ってもらったな......なんて思い出しながら、とにかく書き写して、なんとか提出できた。
 Nさん、本当にありがとう。私、Nさんがいないと生きていけないよ......。

2004/9/6
 新学期早々、学力テスト。
 全然手応えがなかった。勉強しなきゃ。
 Nさんは、頭がいい。今日もなんとなく余裕綽々って感じだったし、テストも割と出来たんだろうなと思う。
 帰りに、どこの大学を目指してるのかとNさんに聞いた。
 Nさんが口にしたのは、優哉が合格した大学の名前だった。
 Nさんも優哉みたいに遠くに行っちゃうんだろうか。

2004/9/10
 今日は優哉の誕生日だ。
 Nさんにそのことを話したら、会いに行かなくていいの? と聞かれた。
 遠すぎて会いに行けないと、私は泣いた。
 誕生日くらい会えたらいいのにね、と言って、Nさんは私の肩をポンポンと叩いてくれた。優しくて暖かくて、あまり大きくない平たい手。Nさんって、どこか優哉に似てるんだって気づいた。女らしい包容力と、男らしい決断力とか、落ち着いた物腰の話し方とか。
 私はNさんにいつも男らしいと言ってしまうし、優哉にはいつも男らしくないと言っていたけれど、要は二人ともとても中性的なのが良いと思う。
 Nさんがいなくなったら、私は今度こそ壊れてしまうかもしれない。

2004/9/14
 Nさんと公園でブランコに乗りながら、優哉の話をした。
 最近気に入っていて、よく行く公園。Nさんはブランコを漕ぐのがすごく好きみたいで、見てると爽快だ。
 私はいつも、優哉の話をNさんに聞かせてばかりいる。
 優哉のことは、口にすると悲しくなるから、本当はあまり人に話したくないはずなのに、Nさんだけは別で、私はたくさんたくさん話を聞いて欲しいと思っている。
 Nさんが、誰よりも真剣に私の話を聞いてくれるし、Nさんが優哉の代わりになってくれそうだから。

2004/9/16
 昼休み、何度断ってもしつこく言い寄ってくるF組のSくんのことをNさんに話した。
 すると、Nさんは放課後、すぐに直接Sくんに話をつけに行ってくれた。
 本当に頼もしい。優哉がすぐそこにいるみたい。
 Sくんのところから帰ってきて、私がすぐにNさんのところにかけよって、「ありがとう」って言おうとしたら、邪魔が入った。
 Kくんが、私より先にNさんに話しかけたのだ。
 あの二人って、仲がいいのかな......。

2004/9/21
「Nさんって毎日Kくんと一緒に学校に来てるみたいだけど、あの二人って付き合ってるの?」
 って、同じクラスの子に聞かれた。
 私は、知らないって答えた。
 だって、そんなこと本当に初耳だったから。
 本当だろうか。もし本当だとしたら、この前あの二人が妙に仲良さそうだったのもうなずける。
 口惜しいのは、Nさんは私に秘密を作っているということだ。私は、たくさんのことをNさんに話しているのに。
 考えてみたら、私はNさんのことをなにも知らない気がする。
 ......Nさんの秘密を想像するために、NさんになりきってWeb日記を書いてみようかなと思って、始めた。
 せっかくだから、何人かのクラスのコに「Nさんがサイト始めたらしいよ」なんて、メールでURLを知らせてみたりして。フェイクで、何日か前の文から書いちゃった。結構はりきって。
 今後このサイトがどうなっていくかは、私にも解らないけど。

2004/9/22
 NさんとKくんが本当に一緒に学校に行っているのかを見るために、私はいつもより早く家を出て、駅で待ち伏せした。
 確かに、二人は同じ電車で来て、駅から教室までずっと並んで歩いていた。
 見たところ、別に付き合っているという感じでもなさそうな気がした。
 放課後、またNさんを公園に誘って、ブランコに乗りながらカマかけてみた。「Kくんてナニゲにいいよね」って。
 Nさんは、明らかに動揺してた。
 動揺してたくせに、Kくんのことを好きだとも、なにか特別な感情があるとも、よく一緒に学校に行ってる関係だということすら、Nさんは私に言わなかった。言ってくれなかった。
 友達だと思ってたのに、隠し事されてるなんて、ショックだった。裏切られた気分。
 思わず、Nさんなりすましサイトで毒を吐いてしまった......。



[20]
2004/9/24
 一日中、NさんとKくんの動向を観察していた。
 今日も朝は一緒に来ていた。けれど、教室に着いてからは別に必要以上の会話もせず、距離を保っているようだった。そういえば、二人は家が近いらしいので、そういう関係でたまたま親近感があるだけなのかもしれない。
 ただの友達なのか、それとももう少し深い関係なのか......見ている限りでは微妙。だけど、少なくともNさんはKくんに特別な感情を持っている気がする。 だって、Kくんと話をしているときのNさんは、私と一緒にいるときの顔と違う。なんていうか、とても安心しているように見える。
 観察している間、何度もKくんと目が合ってしまった。

2004/9/26
 この前、NさんになりすましたサイトのURLを何人かに教えたけれど、いつの間にかクラスのみんなに知られ始めてるみたい。公開しているメアドに、サイトを教えてないはずの人からメールが届いた。
「Nさんがこんなサイトやってるなんて意外」って内容は、良いとして。
「チィちゃんの相手をしてあげられるのはNさんだけなんだから、がんばって仲良くしなよ」って、一体どういう意味?
 私、Nさんにとってどんな存在なんだろう。厄介で、お荷物で、仕方なく相手をしてくれているだけなんだろうか。
 今まで、自分にとってのNさんについて考えたことはあっても、その逆についてなんて、考えたこともなかった。

2004/9/27
 昨日から一晩中いろいろ悩んだあげく、学校に行く気になれなくて休んだ。
 軽蔑されたり嫌われたりするんじゃないかって思うと、Nさんと会うのが恐い。

2004/9/28
 今日も学校を休んで、いろいろ考えた。
 私は、ひょっとしたらNさんに恋しているのかもしれない。優哉だけを一生愛していこうと決めたのに、Nさんがすごく優哉に似てるから。
 Nさんに嫌われたくないのも、NさんとKくんの仲が良いと知って悲しくなったのも、きっとそれが理由なんじゃないかな、と今は思う。
 変、かな。きっと変だよね。

2004/9/29
 いろいろ考えて、また学校に行けなかった。
 けど、明日からちゃんと行こうと思う。
 このままじゃNさんが私から離れていっちゃいそうで、恐い。NさんがKくんとくっついてしまいそうで恐い。優哉が私の前からいなくなってしまったときの悪夢が繰り返しそうで、胸が苦しくなる。私は二度と、あんなふうになりたくない。
 ねえ、届いて。
 Nさんは、あたしの大切な人なんです。

2004/9/30
 今日は頑張って学校に行った。
 Nさんは、相変わらず落ち着いてて、私が何日かいなかったのなんて全然ダメージにもならないみたい。他のクラスメイトとなんか、仲良くしないでほしい。Kくんとは、一番離れて欲しい。
 Nさんだって、ちょっと孤立してみれば、私の大切さが解ると思う。Kくんとの繋がりが切れれば、私との繋がりをもっと強く感じると思う。
 悪魔みたいな考えがふっと思いついて、私はなりすましたNさんのサイトの方向性をガラリと変えることにした。Nさんをみんなから引き離すために。

2004/10/1
 やっぱりNさんは今日もKくんと一緒に学校まで歩いていた。私がすぐ後ろで見ているのに、二人は全然気付きもしないのが、またくやしい。
 あの二人が一緒に学校に行かないようにするには、どうしたらいいかな......。

2004/10/3
 思いついた!

2004/10/4
 放課後、いつもはNさんと一緒に帰ったり、公園に寄ったりしてる私が、「先帰って」って言ったら、さすがにNさんはショックみたいだった。
 Nさんが私のために一喜一憂してくれていると思うと、すごく嬉しかったりする。
 で、Nさんを先に帰らせて、私はKくんに近づいた。いきなりっていうのも変だから、今日は世間話っぽい会話を少ししただけ。
 でも、私に話しかけられた時のKくんは、少し嬉しそうだったし、誇らしげだった。これなら、たぶんすぐ落とせる。
 同時進行で、なりすましサイトで嫌なキャラを演じる。

2004/10/6
 手応えアリ。
 まずはKくんのほう。一昨日、昨日と私のほうから話しかけてたら、今日は向こうから結構なれなれしく話しかけてきた。もう落としたも同然かもしれない。
 それと、なりすましのほう。ニセのNさん宛に、何通か抗議のメールをもらった。Nさんは普段サバサバしているように見えるだけに、裏表があるなんて幻滅って感じみたい。
 そして、私宛にも何通かメールがきた。私からあのURLを教えた子たちからだ。「Nさんって本人が見てること知っててあんなこと書いてるの?」って。そっか、私が広めたURLなのに私の悪口が書いてあるって変だよね......。
 とりあえず、「ううん、あのサイト、私はちょっとした理由で偶然見つけたんだ。書いてあることはショックだけど、大丈夫。私はNさんを信じてるから。他のみんなにも、心配しないでって伝えてね」って、返事しておいた。

2004/10/8
 放課後、Kくんをつかまえて「付き合ってください」って言った。驚いてはいたけれど、Kくんはすぐに承諾してくれた。
 月曜日から、駅で待ち合わせて一緒に学校まで歩こうって話もした。これで、NさんとKくんの一番大きな接点がなくなる。
 それと、昼休みのこと。Nさんがトイレに行っている好きにクラスの女の子グループの中で、たぶん一番の勢力を持つIちゃんたちが、私に声をかけてきた。
「困ったらいつでもうちらのグループにおいで。Nさんなんかみんなでシカトしてやるから」だって。
 Nさんを一人にするのなんて、こんなに簡単なことなんだ。Nさんなんか、一人になって、もがいて、苦しんで、ボロボロになればいい。
 そうしたら私が、地獄の底に手をさしのべてあげるから。

2004/10/12
 Kくんは、ちゃんと私を駅で待っていてくれた。今日からNさんは一人での登校。
 で、一日何事もなかったよようにNさんと接して、放課後に「実はKくんと付き合うことにした」って言った。
 Nさんの反応が意外なほど薄かったから、思わず「怒らないの?」って聞いてしまった。
 逆に「優哉とちゃんとケリつけなよ」なんて言われてしまって、軽く祝福されているような気もして、ちょっと複雑な気分。
 でも、本当は解ってる。公園でブランコに揺られながら話したいと思って誘ったのに、そこまで行きたくないっていうNさんの拒絶が、本当の気持ちのはず。

2004/10/14
 順調に、Nさんは教室の中で孤立していく。平気そうな顔をしてはいるけれど、Kくんとは会話しないように私がしっかりガードしてるし、他の子たちも軽くNさんをシカトしてるから、きっとコタえてるはずだ。
 そして、今Nさんと仲良くしているのは、私だけだよ。

2004/10/15
 Kくんは一緒にいると優しくしてくれるけれど、時々なにを考えているか解らなくて、恐くなる。
 私は、ふと自分のやっていることを省みて、ものすごく虚しくなったりもする。
 だけど、もう引き返せないところまで来てるから、Nさんが私の大切さに気づくまで、私はつづけていくしかない。

2004/10/18
 クラスの中で、Nさんは完全に浮いてきた。
 いつのまにか、あのサイトのことはNさんを除くクラスの全員が知っているみたいで、結構ジミなグループの子たちも聞こえよがしにNさんの悪口を言ってたりする。
 英語の時間、あのサイトのことをチラッとNさんに言った人がいて、ひやっとしたけれど、とりあえず事なきを得た。
 Kくんもあのサイトのことを知っているはずだけど、どう思ってるんだろう。

2004/10/20
 そろそろやばいかも。Nさんは完全にイジメの対象になってしまっている。
 時々、Kくんの目が鋭くて、恐い。
 私だけがNさんに優しく話しかけているのに、どうしてかNさんは私にすら顔をこわばらせて、心を開かなくなってきた。どうしたら、私の大切さを解ってもらえる?

2004/10/21
 私が話しかけても、Nさんのほうが目を逸らす。
 嫌な予感がする。

2004/10/22
 Nさんがとうとう学校に来なくなってしまった。
 Kくんに、「心配だよね」って話をしたら、「大丈夫だよ、あいつは」なんて、余裕の表情。なんでそんな無責任なことが言えるんだろう。Nさんが私からどんどん私から離れていくのに。こんなこと、望んでなんかいないのに。
  だいたい、付き合ってるのに結局いつも私と一緒に学校に行って、休み時間に話をして、一緒に学校から帰るだけ。家に帰ったらもう、メールも電話もない。
 私は別にそれでいいけれど、Kくんは満足なんだろうか? なんのために私と付き合っているんだろう?
 出口の見えない迷路に入ってしまった気分。自分でNさんを追いつめておいてこんなことを言うなんておかしいけれど、どうしたらNさんを救えるだろう。

2004/10/24
 とにかく月曜日、Nさんが学校に来なかったら、メールを出そう。

2004/10/25
 やっぱりNさんは学校に来なかった。
 携帯にメールしてみたけど、返事はなかった。
 学校帰り、Kくんが「俺たちって、あんまり付き合ってるって感じしないよな」って言いだした。で、なにを言い出すのかと思えば、「パソコンのほうのメア ド教えてよ」って。今さらだけど、アドレス交換をした。ひょっとして疑われてるのかなって思ったけれど、自分のアドレスとなりすましサイトで公開してるア ドレスは違うし、ばれないよね......。

2004/10/26
 クラスのみんなと上手くいってなくても、私だけは味方だよって、Nさんにストレートなメールを送ってみたけど、やっぱり返事はないままだった。
 もうこのまま、学校やめちゃうんだろうか。まるで毎日一歩ずつNさんが遠ざかっていくようで、私は明日のことを考えるたびに悲しくなる。
 こんなに好きなのに。
 やっぱりNさんは、優哉にそっくりだ。同じように、私から離れていく。
 だけど、だから、愛しくてたまらない。



[21]
2004/10/27
 今日も、やっぱりNさんは学校に来なかったし、メールの返事もなかった。
 Nさんがいないことで私が気を落としていると思ったのか、放課後、Kくんが公園でも行こうかって誘ってくれた。
 Nさんとよく行ったあの公園に、初めて他の人と行った。
 Kくんは、Nさんみたいにとても爽快にブランコを漕ぐから、見ていて気持ちよかった。Kくんは普通に男の子で、とてもいい人で、ちゃんと私を守ってくれるのかもしれない、とも思った。
 ただ、思っただけ。

2004/10/28
 Nさんからメールの返事が来た。
 けれど。
 携帯じゃなく、PCのメアドに来た。
 しかも、なりすましサイトで公開してるほうのメアドに。
 どうして?
 言葉にならない。
 どうしよう。
 ほんと、
 どうしよう。
 もう、完全に終わりだ。

2004/10/29
 長い一日だった。
 昨日から寝ないでいろいろ考えた結果、私にはやっぱり死しかないんだと思った。
 本当は二年前、私はちゃんと死んでおくべきだった。あの時に無理して死ぬのを思いとどまらなければ、Nさんに出会わなかったし、恋愛感情みたいなものも 抱かずにすんだし、Nさんの恋を邪魔することも、Nさんを独り占めしたくて追いつめてしまうこともなかった。私はいつも愛する人を追いつめてばかりだ。す べては、私がのうのうと生きのびてしまったのがいけないんだと思う。
 親にはちゃんと挨拶したかったけれど、さすがに今から死にますなんてことは言えないと思った。だけど、誰かにきちんと挨拶しなきゃいけないような気がして、私はPCで遺書を書いた。
 朝が来る前の時間だったからか、真夜中のラブレターみたいな遺書が出来上がった。誰に送ろうか、少し悩んだ。けれど、思い浮かんだのはたった一人だった。
 私が遺書を送ろうと思った相手は、どういうわけか、Kくんだった。不思議だけど、Kくんしかいないと思った。
 この前PCのメアド交換しておいたことがこんなことの役に立つなんて、と思いながら、私はすぐ遺書をKくんにメールした。どうせPCのメールなんて朝から確認しないだろうし、私が死んだあとにでも読んでくれれば良いと思った。
 結局一睡もしないまま完全に朝が来て、あまりの寝不足にフラフラしながらも、私はいつも通りを演じた。いつもより少し「いただきます」も「ごちそうさま」も「行ってきます」も心を込めて言ったけれど、そんなに伝わってないかもしれない。それでも別によかった。
 あとは、いつも通り駅まで行って、いつも乗る電車......には乗らないで、その反対車線、かならずその時間に駅を通過していく特急電車が滑り込んでくるとこ ろに、思い切って飛び込めばよかった。ここまで肝が据わってくると不思議なことに、線路に飛び込むのなんてすごく簡単なことのような気がした。
 けれど、私は結局飛び込めなかった。
「行ってきます」と玄関を開けた瞬間、家の前で私を待ちかまえるKくんと出くわしてしまったから。
 Kくんは、PCに来たメールは全部携帯に転送していて、遺書を読んですぐにうちに向かってくれたらしかった。Kくんの家から私の家までは確かに1時間く らいかかるから、本当にそうなんだろうと思った。そして、Kくんはすごく真剣に、バカな真似をするなと私を叱った。私が死ぬことは、Nさんの心に一生傷を 残すだけだって。そして、俺だって付き合ってる彼女が自殺なんかしたら一生トラウマになるって言って泣いた。
 その気持ちは、私もよく知ってるはずだった。それなのに私は、自分と同じ苦しみを無自覚に人に与えようとしていたなんて。自分のことばかり考えてる卑しい自分が、本当に嫌い。
 だけど、私は結局死なないことにした。
 Nさんのために。そして、私なんかのために泣いてくれるKくんのために。
 結局私は学校に行かず、まる一日、Kくんと話をした。
 今日の話し合いの論点は、大きく分けるとふたつだった。
 ひとつは、Nさんのために、そして自分のためにも、今まで自分に起こってきた本当のことをすべて、きちんと白状すること。
 そして、私の安易な策略のためにKくんに申し込んだ「付き合ってください」の言葉を撤回すること。
 私はKくんと別れました(もともと付き合ってたと言えるような関係ではなかったかもしれないけれど)。
 
 そこまで読んで、あたしは一息ついた。ここで千尋の日記は終わりかと思ったのだ。
 けど、よく見たらページの下の方にミョーに余白がある。 
 自分でもおかしいって思ったけど、あたしの感覚もそろそろ立派に麻痺してきてるみたいで、もう何を書かれてたとしても、「ふーん」の一言で受け入れられ そうな気がした。実際はそうじゃないかもしれないけど、どっちにしろあたしは、今の複雑すぎる気持ちを言葉にして説明するなんてできないと思った。言葉に できないってことは、そんな気持ち存在しないってことと同じだ。少なくとも、あたし以外の誰も理解してくれない。
 よく言えば気が大きくなってたんだろうし、悪く言えば何も考えてない。あたしはいつも、そんな感じ。まるで、自分とは全然関係ない人の物語を読んでるような気分だったのかもしれない。
 その余白も、ホントに他人事のように純粋に「なんだろう」って気持ちで気になって、画面をスクロールした。案の定、次のページへのリンクがあった。どう してわざわざ余白を置いたのか、本当は見られたくない気持ちがあって隠してたんじゃないか、なんてことはカケラほども考えず、あたしはその文字をいとも簡 単にクリックした。


[22]
2004/10/31
すごくひさしぶりに、よく眠れた。なんと19時間。
こんなによく寝たのは一年半以上ぶりだと思う。

Nさん。
いや、もう「ねーさん」で良いかな。そう呼ばせてください。どうせこの日記を読んでいるほとんどの人は知ってるんだろうし、本名じゃないから、いいよね。

私がねーさんに吐いていた最大の嘘を告白します。今までの日記を読んで、ひょっとしたら気づいていたかもしれないけれど。
優哉は、存在しない人です。
正確にいえば、もうこの世にはいない人です。
だけど、一昨年の春までは確かに存在していたし、私が本気で愛していた人でした。
それともうひとつ。
優哉は、私の実の兄です。

ものごころついたときから、優哉は私にとって最愛の人でした。兄妹であることなんて全然問題じゃないと思ってました。だって、優哉はいつも優しくあたたかく私を守ってくれたし、私は優哉さえいればどこにでも行けるしなんでもできたから。
それなのに、亀裂は突然入りました。
私たちが、どうあがいても兄妹でしかないということに気づいたのは、二年前。優哉が東京の大学を受けると私に言った時です。優哉にとって、私と離れて暮らすことはたいした問題ではないらしいという現実を突きつけられた気がしました。
優哉が東京になんて行ってしまったら、私はこの町でひとり取り残されて、優哉がいなければなんにもできない子になってしまって、優哉に嫌われてしまう気が しました。そのうちきっと優哉は東京でもっと素敵な女の人を見つけて、好きになってしまうと思いました。だから私は、優哉が入試に落ちるよう、毎日毎日祈 続けてました。
でも、その祈りは届きませんでした。
第一志望の大学に合格した、と東京からかけてきた電話の向こうで、いつもとても落ち着いていて大人っぽい優哉の声がはしゃぎすぎていたのが、すごく不快で した。だけど、だからといって何もできない私はただ、その夜、「優哉が大学へ行けなくなりますように」と寝ないで一晩中祈ることしかできませんでした。
結果的に、優哉は大学に入学しないことになりました。その次の日、高校に合格を報告しにいった帰りに、優哉が帰らぬ人になってしまったからです。
いつも慎重なはずの優哉が浮かれすぎていたのか、トラックを運転していたオジサンが不注意だったのか、それとも、私の強すぎる願いが神に通じてしまったのか、本当のところは解りません。
なんにしても私は、悔やんでも悔やみきれませんでした。けれど、どんなに反省しても謝っても、優哉がもう戻ってこないことだけが事実でした。後を追おうと思ったこともありましたが、あと少しの勇気がなくて死ねませんでした。
死ぬ勇気もない私が、せめて優哉のためにしてあげられることってなんだろうと考えました。
それは、一生彼を愛し続け、私の記憶の中だけでも彼を生かし続けることだと思いました。私は、亡霊に恋しつづけていくつもりでした。
ねーさんに会うまでは。

今年のクラス替えの直後。教室で、優哉と同じ雰囲気を持ってる人を見つけて、親しくなりたいと思いました。私のほうから誰かに近づいていくなんて、優哉が亡くなって以来、初めてでした。
話をしてみると、その人のモノの考えかたや、押しつけがましくない優しさや、頭の出来の良さなどは、本当に優哉そのものに見えました。
優哉に似ているけれど、優哉じゃない人。それがもし男の人だったら、私は優哉に少しは操を立てることを考えて、近づかなかったかもしれないと思います。女だから、かえって安心して近づき、仲良くなって、心を開いてしまいました。
兄に似ていながら女であるその人を、「ねーさん」と呼ぶようになったのは、すごく自然なことのような気がします。

 千尋の日記はまだまだ続いていたけど、あたしはここで一度、目を強く瞑った。こんな、テレビがショボくなっちゃったみたいな画面に映し出される文字たち が、なんでこんな重要な意味を持ってるのかって考えたら、ものすごく気持ち悪くなった。パソコンデスクの前に真剣な顔で座ってる自分が急に恐くなって、立 ち上がってみたり、だけど続きが気になってもう一度座ってみたり、やっぱり見るのが恐くて目を逸らしたり、いろいろやってみた。けど、そんなことはたぶん 時間つぶしくらいにしかならないんだろうと思った。
 今まで読んだことは、もう過去のことだ。あたしは真実を知らなきゃいけなかったから読んだ。でも、この先に書かれてるのは、たぶん現在から未来のことだ。客観的な事実じゃない。だから、千尋だけじゃなくあたしも、自分の真実と向き合わなきゃいけない。
 どっちにしたって、逃げられない。
 行かない理由がないから学校に行ったり、たまたま電車が同じだから特に理由はないけど栗原と一緒に学校まで歩いたり、なんとなく千尋のほうからなついて きたから友達になったり、誘われるから公園に行ってブランコに乗ったりした、そういう『当たり前みたいな昨日』は、もう戻ってこないんだし。
 これから自分にのしかかるのはたぶん、すごく重くて、それなのに艶やかな明日。
 そんなことを思うだけでもう、あたしは軽く目眩がした。


[23]
ねーさんは気持ち悪いと思うかもしれないけれど、私はねーさんと一緒にいるとき、いつも守られているような安心感を感じ続けていました。
幻想だって解ってるけど、ねーさんが優哉みたいに私のことを大きく包み込んでくれているような気がしていました。
だからって許させるとは思ってません。オモチャを独り占めしたい子供がするような自分勝手なことをしでかして、ねーさんを傷つけ、自分の周りをひっかきまわしてしまって、今は本当に恥ずかしい気持ちでいっぱいです。
けれど、ひとつだけ解って欲しいんです。
初めこそ私は、優哉に雰囲気が似てるという理由でねーさんに惹かれていました。
けれど、いつのまにか女でありながら芯の強さを持っていて凛としたねーさん自身に、私は本気で恋していました。

って......なんか、また遺書を書いている気分になってしまいました。
でも、死に損ねてしまったからには、もう少し頑張って生きます。
これからどうなっていくのかなんて、ぜんぜん想像できません。
ただ、どんな明日が来ても、それをちゃんと愛せる自分になりたいです。

 カーテンの隙間の小さな空が白々と明けてくのを、あたしはぼんやりと見ていた。
 朝はいつもあたしの目の前に、当たり前に届くもんだとばかり思ってた。朝はいつも同じ形をしてるもんだと思ってた。だけど、ホントは違った。今までに過ごしてきた中で、一番楽しいことが待ってた朝も、一番悲しいことが起きたあとの朝も、こんな感じじゃなかった。
 学校に行くかどうしようか迷いに迷って、結論が出ないうちに、とりあえずあたしは十一日ぶりの制服に袖を通してみた。十日ほど引き篭もってただけで、あ たしの体にはもう制服が劇的に似合わなくなってる気がした。確かに同じ形であり続けてるはずの制服でさえ、毎日違う表情がある。
 だから、かなんだかよくわかんないけど、とにかくあたしは、学校に行かなきゃいけないと思った。

 身支度をして、当たり前みたいな顔で食卓に顔を出すと、父親も母親も一瞬驚いたような顔をしてあたしの顔を見た。けど、二人はあたしに何も聞かなかった。
 当たり前に用意されてたあたしの分の朝食に、手をつけた。
 よくわかんないけど、それは惰性で行われてることじゃないような気がした。
 いつもの電車にのるために、いつもとだいたい同じ時間に家を出た。どのくらいの速度で歩けばいいか、あたしはちゃんと解ってる。『いつも』なんてどこに行ったのかわかんないくらい遠いのに、感覚は鈍ってない。
 視界も、頭の中も、すごくクリアだ。
 だからかもしれない。駅に着いて、改札に定期を通す。その時、朝の人混みの向こうに栗原が立っているのを、あたしはすぐに見つけることができた。普段だったら栗原がこんなところにいるはずもないし、こうなることを予測してたわけでもないのに、あたしはすぐに見つけた。

「どうしたの、こんなとこで」
 さりげなく口にした言葉だって、ほんとは意識的に選んでる。
「久々に、おまえと一緒に学校行こうと思ってさ」
「何、それ」
 そんな会話をしながら、あたしは栗原の隣を歩く。当たり前のポジションじゃない、だけど、あたしの場所がここにある。それがどんなに嬉しいことなのか、今のあたしには解る。
「ひょっとして、千尋に振られたからあたしで手を打つつもり?」
「ばーか、うぬぼれんな」
「栗原こそ、うぬぼれんなよ。あたし、あんたのこと好きだなんて言ってないから」
 ふざけた口調でやり合う会話にも、ちゃんと意味があることを、今のあたしはもう知ってる。
 だから、付け足した。
「だってさ。あたしだって、千尋のことが好きだったよ。たぶん、恋愛感情に似た気持ちで」

 それは、今朝いろいろ考えたあげく、ようやくあたしがたどり着いた結論だった。千尋の気持ちもあたしの気持ちも、今は早くも過去形になってるってことも。それが解ったから、世界がクリアになったんだと思う。
 栗原はあたしの顔を見るもことなく、黙ってただ不器用そうな左手であたしの右手を包み込んだ。
 ずっと隣を歩いてたけど、考えてみたら栗原と手を繋ぐなんて初めてだった。その手は思ってたよりもずっと柔らかい感触で、あたしは手を繋いだことよりもそのことにびっくりして顔を上げた。
 目が合った栗原は、その手よりも柔らかい笑顔であたしを誘った。
「じゃあ今から一緒に、千尋ちゃん迎えに行ってくれるよな?」
 あたしは、ただ首を大きく曲げて頷いた。いろんなことが解った今、もうそんな言葉にいちいち嫉妬なんかしない。


[最終話]
 けど、結論から言うと、あたしたちが千尋を迎えにいく必要はなかった。
 栗原と二人でホームに向かって歩き出した直後、千尋がそこであたし(たち?)を待ってることに気づいたから。

「千尋......」
 あたしは、慌てて栗原に繋がれてる手を振り解こうとした。けど、栗原は、まるであたしがどこにも逃げられないってことを教えるみたいな強さで、その手を離してくれない。そして、あたしの手を握ったまま、千尋に声をかけた。
「なんだよ、今から迎えに行こうと思ってたのに。よく自発的に学校に行く気になれるなー」
 駅で偶然会ったクラスメイトに声をかけた、みたいな軽い口調のくせに、栗原の言葉はあたしたちの間に事件が起きてしまった事実から、逃避しようとはしてなかった。
「一秒でも早くねーさんに会って、謝りたかったんだもん」
 千尋はふわりと笑って、あたしの前に立った。ひさしぶりに見た千尋の顔は、少しやつれてるけど、やっぱとんでもなく美人だった。あたしはなんでか、それだけでもう癒された気分になって、言う。
「謝んないでいいよ」
「でも......」
「あたしだってホントは、優哉になりたかったんだよ」
「え?」
 きょとんとした千尋に、あたしはそれ以上語る気はない。言葉になんかしなくてもいいんだって思う。
 あたしは千尋のハカナゲな様子に惹かれたんだし、千尋を他の男から守りたかった。千尋が美人なせいであたしがどんなに見劣りしてても、『千尋のとりま き』扱いされて本当の名前を覚えてもらえなくても、それでヘコむことがなかったって言えばもちろん嘘になるけど、でも基本的にあたしは千尋といつも一緒に いたかった。
 たぶんそれは、あたしと千尋が同じ土俵に立ってないって思ってたから、だ。
 『ねーさん』って呼ばれることで自分が少しだけ優位になってるような気がしてた。千尋は弱者で、あたしは栗原があたしにしてくれたみたいに、自分も千尋を守ってあげられると思ってた。でも、違った。
「だって、千尋が遺書を栗原だけに送ったって知ったとき、あたしがどんなにショック受けたと思ってんの?」
 思わずこぼすと、栗原は、「そりゃ、俺が人格者だからだよ」とか言って笑った。
 違うよ、栗原が男だからだよ。って、ノドの奥まで出かかったけど、言うのはやめた。

「それにしても、遅刻魔のおまえがこんなに朝早くから動き出すなんて、計算外だよな」
 ホームへの階段を下りながら、栗原が、またさりげなくそんなことを言うから、あたしは少しギョッとした。
 栗原は、あたし以外の女の子を『おまえ』なんて呼ばないはずだった。二人がついこの間まで付き合ってたことを考えれば不自然なことじゃないかもしれないけど、千尋も一瞬驚いて目を丸くしてたから、やっぱ耳慣れない言葉だったんだろう。
「――そうだね。久しぶりに気持ちよく目が覚めたから」
 千尋は、そう言ってニンマリと笑った。あたしはその端整な笑顔を見て、優哉が亡くなってからずっと、千尋が本当に眠れない夜を過ごしてきたんだって、改めて知った。
 それと同時に、千尋が美人だって事実に対して、ものすごい今さらだけど、あたしは初めてはっきりと劣等感を持った。
 千尋が今まであたしにしてきたことは結果的に、あたしに自分が女であり、自分のことを守ってくれる男の人が必要なんだってことを気づかせたってことなのかもしれない。
 あたしも、もう別に迷ったり引け目を感じたりしない。栗原のことが好きだって、今ならはっきりと言えそうな気がする。
 栗原の考えてることは、いまだによくわかんない。あたしを守ってくれてもいるけど、千尋のことだってちゃんと忘れてないし。この二人、一度付き合って別れたってより、新しい関係を築き始めてるように見えるし。
 でもとりあえず、まだ栗原から解放されてないあたしの右手のほうが、一歩リードしてる気がする。もっと千尋に見せつけてやりたい、そんな気分。
 これって、闘志みたいなもんだろうか。
 あたしはこれから、女として千尋と戦うことになるのかもしれない。だとしたら、敵ははっきり言ってかなり手強い。勝てる見込みなんか、はなからないかも しれない。でも、どういうわけかあたしは妙にわくわくしてるし、そのことで今までよりも千尋をずっと近くに感じてる。敵があまりにも強いからこそ、燃える のかもしれない。
 こんなこと言ったら、「強い敵と戦うのが好きだなんて、ねーさんってやっぱり男らしい」とか、また千尋に笑われるかもしれないけど。

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