top掌~短編


クイトモ

 そこらじゅうで繰り広げられる談笑や、厨房から漂う油の音。店はよく賑わい、目の前に置かれたジョッキでは炭酸が弾けている――私たちは、このよ うなシチュエーションを『完璧な状態』と称する。何が完璧なのかはよくわからないけれど、ともあれ悪い予感が全くしないのだから、それでいい。
「じゃ乾杯」
 微かにジョッキを触れ合わせれば、いつも通り愉快な水曜の夜が始まる。

 それは約一年前、我が社に突如とってつけたように設けられた『毎週水曜はノー残業デー』の実施初日から始まった。
 とってつけたように、と私が思ったのは、ノー残業なんて趣味の悪い冗談としか思っていなかったからだ。たとえば私は事務員でもないのに、なぜか女だから という理由でチーム内の伝票処理も担当させられている。バイトぐらい雇えよ、と思うけれど、いろいろ事情があって難しいのだろうし、私だけでなく皆それぞ れに忙しそうなので、とくに不平を言うつもりはなかった。ただ、私には本来の通常業務があり、定められた就業時間はそれに費やされてしまうわけだから、こ のような雑務はどうしても定時後に後回しということになる。残業するなと言われてたって、困るのだ。
 こんな会社で、残業するなと言われてたって定時で帰る人なんているわけがない。そう思っていた私は、定時の五時半をまわっても、いつも通り仕事をしてい た。ところが、六時を待たずに部長が消えた。そして「みんなも早く帰れよ」と課長がオフィスを後にした。それから十分も経たないうちにふとオフィスを見回 して、私は唖然とするしかなかった。空調が切れた四月の寒々しいオフィスにはもう、中山くんの姿しか見えなかったのだ。

「みんな予想外に早いな」
 先に声をかけてきたのは向こうだった。
「帰っても退屈なだけなのに」
 私が答えると、中山くんはおもむろにノートパソコンを閉じた。
「じゃあ、一緒にメシでも食いに行く?」
 普段仕事の話しかしない同僚と、仕事を離れて話してみるのは、とても新鮮だった。話の中で、私たちはどちらも就職を機にこの街に住み始めたことが判っ た。つまり、学生時代の友達とは遠く離れてしまい、ノー残業デーと言われても時間を持て余すだけだという共通項が見つかったのだった。
「趣味は仕事と、食べることだな」
 そんな彼の自己紹介が好もしく、思わず「私も」と答えると、ふっと右手が差し出された。
「じゃあ、今日から俺たち『食い友』ってことで、よろしく」
 その握手に私が応じたことで、私たちは毎週水曜の夜に食事をする仲になった。

 けれど今日はいつもと違った。ジョッキを半分空けて、中山くんが神妙な顔で言ったのだ。
「俺さ、彼女できたよ」
「は?」
「合コンで知り合ってさ」
 悪い冗談としか思えなかった。だって中山くんは、私と食事をする水曜以外は仕事仕事で終電まで会社にいるのだ。合コンに参加する暇なんて、ないはずだ。
 いや、でも。私は土日の中山くんを知らない。週のうち二日も知らないのだから、彼がいつどこで女性と出会うかなんて、把握しきれなくて当然なのかもしれない。とにかくなにか言わなくては、と私が口を開きかけたところに、
「お待たせいたしましたぁ」
 元気な声の店員が、救いの手でもって目の前に大きな皿をどーんと置いた。
「――とりあえず、食べよっか?」
 私は言った。逃げではない。だって、匂いたつ揚げたての手羽先が、食欲を刺激して仕方なかったのだ。私たちはあくまで『食い友』なのだし、手羽先は熱々のうちに食べるべきだ。
 中山くんも「そうだな」と、早速手羽先の一本を手にとる。そうして、手羽先をばりっと真ん中から折り、きれいに肉だけをすぽっと吸い取るように食べた。

 手羽先に限らず、この人は食べるのが上手だ。箸をまるで手の一部のように使いこなし、どんなものでも難なく掴む。洋食屋では、ライスプレートに汚 れひとつ残さない。秋刀魚の塩焼きを食べれば、漫画のような骨だけがきれいに残る。まるで芸術作品を作るかのように食べ尽くすその口には、好き嫌いもな い。
 私はこの人の食べる姿が好きだった。
 まさか彼女ができるなんて――いや、彼女に限らず、仕事を離れた私たちには食事しか介在しないから、それ以外の第三者が存在することなんて、考えたこともなかった。でも、報告された以上、考えないわけにはいかないか。
「彼女できて、おめでと。じゃあ、二人で食事するのはこれが最後ってことだね」
 私がやっとのことで言葉を振り絞ると、中山くんは眉をしかめた。
「は、なんで?」
 なんでもなにも。不本意ではあっても不条理なことは言っていないはずだ。
「だって、他の女と毎週食事するなんて知ったら、彼女が嫌がるに決まってるじゃん......」
「関係ない。食い友に男も女もないだろ」
 きっぱり言ってから、彼はまた皿に手を伸ばしかけ、一息置いて続けた。
「――それとも、少しは俺のこと男だと思ってくれてるわけ?」
 なぜか、憎たらしいくらい余裕の笑顔だ。

 そっちがそういう態度をするなら、こっちもせいぜい困らせてやろうと、私は言った。
「そうだね。悔しいけど......好きだったのかもしれない」
「マジで?」
 中山くんは困るどころか嬉しそうに叫んだ。食い友なんて称したって、実質はただの同僚なのだから、こんなことを言われれば多かれ少なかれ明日からの対応に困るはずなのに。
「バカなん......」
「いやあ、試してみるもんだなぁ」
 思わず漏れかけた私の言葉に、中山くんの言葉が被さった。一瞬、意味が解らなかった。けれど、彼の言葉を咀嚼して、意味を考えて数秒――私は、自分の顔が徐々に紅潮してくるのが解った。
「もしかして......私、一杯食わされた?」
 目も合わせられずに言う私。中山くんは、がははと豪快に笑った。
「食わされとけ、食い友なんだから」
 言葉とともに差し出された手羽先の片割れ。口に入れると、なんだか泣きそうになった。違う、ホッとしたからじゃない。たぶん、広がるジューシーな旨みが広がりすぎて――なんて、いつまで言ってるんだか。

 気付いていたのだ、本当は。この人と食べるからこそ、水曜の夕食がすごく美味しいこと。その日を毎週楽しみにして、浮き足立っていた自分の気持ち。
 やっと認めた私の横顔を、中山くんがニヤニヤしながら見る。この人はたった今『食い友』をはみ出してしまったけれど、この人と食べるものがなんでもかんでも美味しいという事実は、たぶんずっと変わることがない。



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