top掌~短編


幸福の黄色い果実

 世の中には、驚くほど意味のない事象が存在する。そのひとつが、私の休日出勤だ。
 元凶は、あのにっくき部長。彼の趣味は、休日出勤している部下に、ご自慢の奥さん手作りの差し入れを持って現れることなのだ。おかげで、うちの部は平日にもできる仕事をわざわざ休日にスケジューリングして、交代で出勤することを強いられている。
「どうだ、旨いだろう。何しろ、うちのカミさんの料理は最高だからな」
 確かに部長の奥さんの料理は美味しいけれど、ゆっくり起きた日曜に近所のカフェで恋人と楽しむブランチには到底かなわない。しかも、毎回同意を求められれば、「部長、愛妻家なら、休日くらい奥さんをどこかに連れていってあげたらどうですか?」と言ってやりたくもなる。もちろん、そう思ったところではっきりと言えないのが、平社員の弱さなわけで。
 今月もまた、当番の日が来てしまった。

 駅への道は平日と比べると人通りが疎らで、いつものせせこましい東京の風景も、妙にだだっ広く感じてしまう。その中を歩く私も、いつもより肩を落として、たぶん情けない顔をしているに違いない。
 道の向こうから、大学生風の男の子が歩いてくる。ちょっと私好みのカッコイイ子だけど、シャキッとした顔をする気にもなれない。
 本当、冴えない日曜日――と、小さく溜息を吐いた瞬間だった。
 向こうから歩いてきたちょっとカッコイイ彼が、すれ違いざまにフワッと黄色いボールを投げてきたのだ。
「えっ?」
 条件反射で思わずそれをキャッチし、手に持ってみて気づいた。彼が投げたのはボールではなく、グレープフルーツだった。私はあわてて彼に問いかけた。
「ちょっと、何ですか、これ?」
「朝からそんなにシケた顔すんなよ!」
 彼は笑顔でそれだけ言うと、手を振って歩いていってしまった。突然のことに、私は彼を追いかけることもできず、ただ呆然と手の中の果実を見つめる。

 それは今にも果汁がはじけそうな瑞々しさで、鮮やかな黄色が輝いて、つやのあるグレープフルーツだった。作りもののような美しさの中、一センチほどの小さな傷がふたつだけあるのが、かえって美味しそうに見える。
 とはいえ、見知らぬ人から受け取ったものを何の疑いもなく食べるほど私は無防備じゃない。それに、私が持っている通勤バッグにはグレープフルーツを収容するほどの余裕はなかった。かといって、食べ物を粗末にするのは気が引けるから、捨てることもできないし。
 どうしようかと考えながら歩いているうち、私はとうとう駅に着いてしまった。
 いつのまにか、休日出勤への愚痴よりもグレープフルーツのことで頭がいっぱいになっている自分に、こころの中で小さく苦笑した。

 改札を抜けるとすぐ、ホームに電車が滑り込んできた。私はあわてて階段を駆け下り、グレープフルーツを持ったまま、手近なドアから飛び込むように乗車する。車内は平日よりは空いていたけれど、座る場所がない程度には混雑していた。
 電車が動き出し、私は左手にグレープフルーツを握ったまま、右手で吊革につかまる。車窓の風景が流れ始めてまもなく、車内に幼児の奇声が響いた。
「こら、おとなしくしてなさい!」
 見ると、三歳くらいの男の子が、母親から逃げるように車内を走り回っている。周りの人たちが迷惑そうな顔をしたり、見て見ぬふりをする中を、男の子はあくまでも陽気に駆け回る。どこかへ出かけるのか、ずいぶんと興奮している様子だ。
 やがて、キャッキャと駆け回っていた男の子は、何かに気づいたように足を止めた。どうしたのだろうと思って見ていると、彼はペタペタと歩いてきて私の足許で立ち止まり、私が左手に持つものを指さして言った。
「ぐえーぷふゆーちゅ!」
 あまりの可愛らしさに思わず笑いながら、私はしゃがみ込んで彼にグレープフルーツを差し出した。
「ボク、よく知ってるね。ごほうびに、これあげる」
 男の子が嬉しそうにそれを私の手から受け取ると、慌てた様子で母親がやって来た。
「だめよ、それはお姉ちゃんのでしょ」
「いえ、いいんです」
 私はもう一度男の子にグレープフルーツを握らせて、それからふと思い出して付け足した。
「――あ、でもこれ、食べないでください」
「え?」
 食べ物を渡して食べるなとは、母親が怪訝そうな顔をするのも当然だ。ましてや、見ず知らずの人が突然投げてきた得体の知れないものだから、なんて説明したら、ますます混乱するだろう。私は、少し考えてから言った。
「オモチャとして使ってもらったほうが、嬉しいので」
「ふふ、そうね。持っているだけでご機嫌なんだもの、食べたらもったいないですね」
 母親はふわりと笑って、男の子を諭した。
「ユウちゃん、それ持ってていいからね、そのかわり、もう電車の中を駆け回っちゃだめよ」
「うん!」
「それから、お姉ちゃんにお礼を言いなさい」
「おねえちゃん、ありがとう!」
 男の子の声に、車内の空気が和らいだ。いい気分だ。

 気分がいいと仕事がはかどる。いつもより調子よく部長の機嫌までとったせいか、私はその日、思ったより早く帰宅することができた。
 なんとなくスキップしたい気持ちで家に帰ると、一緒に住んでいる恋人が珍しくキッチンに立っていた。
「おう、休日出勤おつかれ」
「ごはん作ってくれてるの? めっずらしい」
「何となく、気分でさ。カレーしか作れないけどな」
 彼の言葉に笑いながら、部屋を見渡して気づいた。テーブルの上に見慣れないものが置いてある。
 黄色い果実。グレープフルーツだった。
「これ......」
「ああ、それな。知らない婆さんに貰ったんだ。駅前で道を訊かれてさ、教えてやったらお礼にって」
 手にとってよく見てみると、そのグレープフルーツには、今朝私の手の中にあったものと同じ具合に、一センチほどの小さな傷がふたつ刻まれている。
「それがさぁ、あの婆さん、『これは幸福の果実だから、決して食べてはいけませんよ』なんて言うんだよ」
 幸福の果実?

 どういう経緯でそんな言い伝えとともにここへ戻ってくることになったのだろう。私は、食べずにいてくれたほうが嬉しいと言っただけなのに。これが伝言ゲームの妙というやつだろうか。
 でも、言われてみれば、このグレープフルーツが小さな男の子の好奇心を満たして電車の中を平和にし、おまけに私の仕事効率を上げてくれたのは確かだ。
 私は笑いをこらえつつ、彼に言ってみた。
「本当にこれ、幸福の果実かもしれないよ」
「はは。何だよ、おまえまで」
 笑って本気で取り合わないけれど、彼があんなに機嫌よくキッチンで鼻歌を響かせるのも、きっと――。
 そんなことを考えているうちに、美味しそうなカレーの匂いが少しずつ部屋の中に漂い始めてきた。私は、確かにこういうのを幸福と呼んでもいいんじゃないか、なんて思いながら、好きな歌をなんとなく口ずさんだりする。



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