業
こんな夢を見た。
腕組みをして枕元に座っていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう死にますという。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかなうりざね顔をその中に横たえている。
その顔には、確かに見覚えがあった。しかし、なんてことだろう。いつどこで知り合ったのか、まったく思い出せない。
俺はあらゆる記憶を総動員し、今まで関わってきた女の顔を思い浮かべては、夢の女の顔と照らし合わせてみる。はっきりと言えるのは、その女の顔はかつて愛した恋人ではなかったことだ。昔の話とはいえ、心底愛した女の顔を忘れるほどには、俺だって耄碌しちゃいない。
さて、とにかくあのうりざね顔だ。昔風の美人だった。
十五のとき初めて交際をしたフミちゃんだろうか。あまりに昔のことだから、顔が思い出せないな。でも、フミちゃんは確か丸顔でほっぺの紅い健康的な女の子だった。いくら大人になったと言っても、あんな細面になるとは思えない。
それでは、いつだったか旅をした南の島で知り合い、一夜をともにした行きずりの日本人女性か? いや、あれはもっと南米系の顔立ちをした美人だったような。すべてにおいてラインの美しい女だったから、今でもよく憶えている。
とすれば、もっと最近の話かもしれない。銀座で懇意にしていた奈津子ママのクラブに、あんな子がいたんじゃなかっただろうか。――違うな。あのうりざね顔の白い肌は、ホステスのような化粧の濃い女達とはまったく違う、美しい素肌だったじゃないか。俺と寝たがるホステスはたくさん居たが、誰一人として化粧を落とした顔を見せなかった。
白い肌と言えば、ハイスクール時代、俺にやたらまとわりついてきた白人のアンジェラは......。アンジェラ? そんなはずはない。あんなそばかすだらけで金色の髪の毛をした白人、うりざね顔とは似ても似つかないじゃないか。
日本人だ。色の白い面長美人。ひょっとして、あの女か。俺の地位や財産だけを目当てに、再婚相手にと詰め寄ってきたあの女郎。顔は美人だったが、しけた遊郭で客をとっていた......。おい、ちょっと待て。一体それは何の話だ。今、頭の中に浮かんだ光景は何だ。江戸時代?
考えてみたら、ハイスクール時代ってのもおかしいじゃないか。俺は、日本でずっと暮らしていたんじゃなかったか。白人の同級生なんていやしない。いいや、でも確かに覚えている。遠い昔の話だ。遙か遠く、かすれる程に曖昧な記憶のひとつだ。
いろいろな色の髪や目の女がいた。いろいろな言葉で語られる愛があった。
違う、そんなはずはない。だいたい俺は、旧制中学時代にベタ惚れをした女学校のフミちゃんと結婚したんじゃなかったか。一体なんだっていうんだ。俺はどうしてこんなところに。
――ちょっと待て。「こんなところ」って、ここはどこだ?
――そして、俺は何者なんだ?
思い出せない。思い出せない。
渦巻く記憶は層をなし、数々の女の顔が浮かんでも、俺は自分の名前すら知らない。
だいたい俺は、この真っ暗な部屋で何をしているんだ。うりざね顔の女はどこへ行った?
俺がたじろいだ瞬間、周りの壁が突然こちらに押し寄せてきた。四方八方から、潰される。俺は死ぬのだろうか。叫び声をあげたくても、声が出ない。
幸運なことに、俺は小さな逃げ道を見つけた。壁は刻一刻と俺を追いつめる。その道が一体どこに繋がっているのかは解らないが、とにかくそこから脱出を!
俺はもがいた。
もがき続けて。
白い優しい手に導かれて、光が見えた。
俺は歓喜の声をあげる。
目の前に突然現れた、大きな体をした奴らが笑った。
「おめでとうございます、男の子です」
「顔、見てあげてください。産まれたばっかりなのに、お父さんによく似てハンサムですよ」
「これは、将来女泣かせになりそうですねぇ」
その瞬間、俺の中で渦巻いていた記憶の全てが、吹き飛ぶように消えていった。
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