花を摘む。
鍵を回して、ドアを開ける。単なる惰性のみで可能な動作だから、私はこの時、いつも同じ表情をしているのではないかと思う。楽しい日とか、悲しい日と か、そういう感情とか体調とかによって、本当だったら人間の表情というのは毎日変わるべきなのに、心に波の立たないような毎日を送っているから、表情が変 わってくれない。だから、自分の部屋に帰るとき、私はまるで鍵を回してドアを開けるためのロボットにでもなった気分になってしまうのだ。十月も半ばになった。少しの残業をこなして帰ると、だいたい午後七時。ついこの間までは、まだ明るかった時間なのに、ここ数週間であっという 間に陽が短くなった。ドアを開けると、部屋には暗闇が広がっていて、冷たい床だけが私を待っている。仕事で疲れて帰っても、一人では退屈だし、リラックス できるわけでもなく、漠然とした憂鬱に襲われたりする。毎日毎日。
コートを着るにはまだ早いけれど、この薄着では少々肌寒い。部屋の寒さをごまかすために私が真っ先にするのは、パソコンの電源を入れる事だ。パソコンが放熱すれば、物理的に暖かくなるし、インターネットに接続すれば、一人ではないような気分になれる。
まず、帰宅直後はメールチェック、それからゆっくりとインターネットを楽しんだり、友達にメールを書いたり、ついでにパソコンで日記を書いたりするのを、ここ一年くらいで日課とするようになった。
新しいメールが八通届いている。その中に珍しい名前を見つけて、少し驚いた私は、思わず「ふうん」と声に出した。その音は静かな部屋に機械的に響いただけで、それがますます虚しさを強調する。
私をそんなふうに虚しくさせたメールの差出人には、「花摘子」と書いてある。向かいの家に住んでいて、幼稚園の頃からの幼なじみだ。彼女の名前は〈花摘子〉と書いて〈カツコ〉と読む。
ムツへ
ちょっとご無沙汰しちゃったけれど、元気でやってる? 仕事はがんばってる? 一人暮らしはどう? 私は、卒論の目途がついて一段落といったところ。超氷河期といわれているだけに、就職活動は相変わらず終わらないのだけれど、もうひとつの就職口が浮上してきました。 恥ずかしいけれど、実は昨日、お見合いをしました。 初めは乗り気じゃなかったのよ。叔母さんがあまりにしつこいから。たまには、きれいな格好をして、高級なお料理を食べるのも良いかもしれない、という程度の気持ちで行ってみたの。それに、一度くらいはお見合いを経験するのもいいかなとも思ったし。 そうしたら、予想外にも、相手はとてもステキな人でした。お母さんが彼を気に入っちゃって、話を進めるつもりみたい。私ももちろん彼のことは気に入ったけれど、まだまだ結婚なんて早いような気もするから、ちょっと悩んじゃう。 今度会ったときに、詳しく報告します。相談にも乗ってほしいです。だから、実家に帰るときには、絶対に連絡ちょうだいね。待ってます。 カツコ |
お見合い、か。
花摘子は「まだまだ早い」なんて書いているけれど、二十四歳という年齢を考えれば、決して早くもない。むしろ、 学生時代の友達が、最近バタバタと結婚してゆく。同い年でもまだ学生をやっている花摘子には、結婚という言葉は、多少遠い未来の話に聞こえるのかもしれな いけれど、現実はこんなもの。
私だって、学生時代には、四大卒の女の子がそんなに早く結婚するとは思ってもみなかった。卒業して、就職して、少なくとも三年くらい働いたと ころで結婚するものだと、勝手に考えていた。だけど、九十年代は早婚が流行しているらしく、まだ仕事もモノになっていないうちに、何人かの友人は既に寿退 職してしまった。
友人のおめでたい話を聞くと、焦るわけではないけれど、さすがに寂しいと思う。
もともと私は、結婚願望はそれほど強くないほうだと思う。SEという仕事を選んだのも、手に職をつけて一人で生きて行く能力が欲しかったからだ。まずは社会人として一人前になるのが目標だと思っているし、結婚はそのあと考えても遅くはない。
とは言いながらも、寂しさはどうしても拭えないのだ。隣に人が居ることの暖かさを一度知ってしまった人間は、そう簡単には一人に慣れることがで きないみたいだ。隆史になんか、会わなければ良かった。そうでなければ、簡単に離れてしまわなければ良かった。少しだけ悔やんで、少しだけ胸が痛い。少し だけ。
私と隆史が知り合ったのは、大学の入学式当日だった。隣の椅子に座り合わせて、ちょっと話をしてみたら、同じ学科で、同じ専攻で、ついでに同じ市内から東京の大学に通っているということがわかって、すぐに意気投合した。
それから卒業するまで、私たちはいつも一緒だった。私の四年間は、隆史のためにあった。隆史の四年間も、私のためにあったのだと思う。
だけど、結婚のことなんて考えた事も無かった。それこそ今の花摘子のように遠い未来の話だと思っていたし、彼も私も、卒業後に進みたい道は決 まっていた。一度決めた事は絶対に曲げない頑固さが私たちの共通点で、私はそんな彼だからこそ好きだったので、彼が就職を機に福島に行ってしまうことに なったとき、私は彼を止めなかった。彼も、私を連れていくことなどできなかった。
そんなわけで、当然のように別れてから、もう二年近く経ってしまう。これといった恋に出会えないまま、もう二年も経ったことを考えると、このまま一生ひとりで暮らしていくような気がして、眩暈がする。
そのせいだろうか。私は今、切実に恋がしたい。それは、実らない恋でも良いような気がする。何でもいいから、恋をする相手が欲しいのだ。もっと言えば、単に恋をする自分でいたいと思うのだ。
そんなことを思っていた矢先、恋に似たようなものが、私にだって無くもないことに気付き始めた。恋というには拙いけれど、完全に拠り所になっている人。
彼は、このパソコンの向こうにいる。
マウスをクリックしたら、カチッという音が部屋に響く。それを合図に、ディスプレイの中で、メールがひとつ開いた。恋に似た感情。そんな説明で 十分な私の中の存在は、ちょっとした悩みをうち明け合ったり、仕事の愚痴を言い合ったり、時々面白い話を教え合ったりして、癒し合うための人。時々は、将 来の夢を語り合ったりもする。
その人は、ささやかだけれど心の支えであり、日常にすこしの余裕を持たせてくれる、今の私には一番必要な人物で、〈からす〉と名乗っている。本当の名前は知らない。
ロクへ
昨日はちょっと面倒くさいことがあって、肩が凝ったよ。せっかくの日曜日に、部長の顔なんて見たくないものだよね。 と、最初から愚痴でゴメン。なんだかロクが相手だと、こんなことでも素直に書くことができてしまうということで、許して。 さて、ロクはこの週末、何をして過ごしていましたか。天気が良かったから、どこかへ出かけた? それとも、また一日中パソコンの前に座って、インターネットでもしていたのかな。 ロクの普段の生活には、かなり興味があります。すごく不思議というか、神秘的なことを考えたり、見たり感じたりしていそうで、きっと面白いだろうな。 それでは、また。 からす |
〈ロク〉とは、私のハンドルネームだ。ムツミのムの音から連想する数字を、そのままインターネット上のニックネームとして名乗っている。性別が解りにくく、単純で覚えやすい名前なので、とても気に入っている。
私たちの共通点は、MINNIEというバンドが好きなこと、それに、都内在住の二十代である、ということだけだ。あとは、共通点があったとしても、知らない。
MINNIEを応援する熱狂的なファンが作っているホームページの掲示板で、私は何人かの仲間を作った。メールをやりとりする人や、こういう一
人の夜にチャットをするような仲間。何人も知り合って、今もやりとりが続いているけれど、そんな中で〈からす〉さんだけは、何となく気が合う気がする。
彼は、私が聞きたい話を、聞きたい時に、書いて送ってくれる。心の波に、ぴったりとついてきてくれているような、気持ちの良いメールばかり。
それで気が付いたら、〈からす〉さんだけに、MINNIEに関すること以外の、例えば仕事とか、友達とか、そういう日常の話もするようになっていた。そん
なやりとりが、もう一年近く続いている。
私は、花摘子と〈からす〉さんに、それぞれ返事を書いた。結婚に向かっていく花摘子のこと、心の支えになっている〈からす〉さんのこ
と。いろいろ考えていると、どうも複雑な気持ちになる。今の私は、複雑な気持ちになるのも面倒なので、メールを送信した後は、すぐに寝てしまった。
一度も会ったことのない〈からす〉さんが私の隣にいて、二人で笑いながら歩いている夢を見た。楽しい夢。
あれ以来、花摘子からのメールは、週に三回くらいの頻度で届くようになった。見合い相手の〈靖男さん〉の話が満載だ。というよりは、その話題しかない。
花摘子の縁談は、予想以上に順調に進んでいるように見える。縁談と言うよりも、単なる恋愛話にしか読めないけれど。花摘子は、完全に〈靖男さん〉に恋をしている。
「今日は、学校の帰りに靖男さんと会ってきました」
「実は昨日、靖男さんが家に来たの」
「靖男さんは仕事が忙しくて、いつも疲れているはずなのに、とっても優しいの!」
「靖男さんと一緒にいると、すごく落ち着く。やっぱり結婚する相手はこういう人が良いのかな」
いつもいつも〈靖男さん〉の話ばかりで、いい加減、相手をするのにも疲れた。私のほうは、二回に一回は返事を出さなくなったけれど、彼女はご丁寧に、毎回デートの報告をする。
なんとなく、苛立ってしまう。
この無神経な幼なじみに。
そして、自分に。
こんなことは、今に始まったことではなくて、花摘子はいつもそうやって、私の神経を苛立たせてきた。私がひとり、大学を卒業して、大宮にある実家を離れてしまった今、少し免疫が薄れていただけの話だけれど。
花摘子は二つ隣の家に住んでいた。幼稚園から大学まで、ずっと同じ学校に通った。といっても、私立のエスカレーター式の学校というわけで
はなくて、小中高は公立、大学は同じ学校とはいえ、彼女のほうが一年遅く入学した。しかも、花摘子は在学中に一年休学して、ロンドンに留学などしていたか
ら、卒業は二年も違う。
花摘子は、どちらかと言えばのんびりした子だった。小さい頃から、私の後を一生懸命ついてきては転んで、私を立ち止まらせる。幼い私は、いつも彼女のために苛立っていたような気がする。
けれど彼女は、許されるべき存在だ。なぜなら、生まれながらの美人だから。小学校の高学年になると、彼女は「みそっかす」から「守ってあげたい存在」へと変わった。それがわかってから、私は彼女に対して苛立たなくなった。
たとえば、小学校を卒業するときの謝恩会で、私たちのクラスでは、先生方のために劇を上演することになった。ヒロイン役は、全員一致で花摘子に
決まった。その時の私は、といえば、なんと脚本を書き、演技指導もして、音楽などもすべてチョイスするという、いわゆる総監督という役を買って出た。花摘
子は私の言うことをよく聞く。家に帰ってからも、お互いの部屋を行き来して、台詞の練習をしたこともあった。
その劇は、大成功に終わった。先生達にも保護者達にも大好評で、クラスの子たちとの良い思い出ができた。立て役者は、花摘子であり、私だ。私と花摘子は、二人で一緒に何かをすれば、二人以上の力を出せる、と皆に言われて、いい気になったものだった。
これは、私とカツコの関係をよく表すエピソードだと思う。私たちは、お互いの個性を認め合い、それぞれの役割を果たすことを、快く思っていたはずだった。
それなのに、花摘子からメールが届くと、私の気持ちはどこか不安定になる。封印されていたはずの苛立ちが、なぜか今さら甦ってくる。
そんなとき、私はどこかで〈からす〉さんの言葉を必要としていると思う。今の私にとっては、一番の精神安定剤。だけど、今日は〈からす〉さんからのメールは来なかった。いつもは一番良いタイミングで、欲しい言葉を送ってきてくれるのに。
その代わりと言ってはなんだけれど、思いがけない、そして今は思い出したくない人からのメールが届いた。
元気にしてる?
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不快感に包まれた。
というと、語弊があるかもしれない。
かつて、ものすごく好きだった人からの、さりげない言葉。もう決して恋愛感情が入ってこない、けれど、相手を知り尽くしている自信に満ちている関係。安心できる空気。
だけど、私はそれに何を感じているかというと、何も感じていないのだった。
だから、たぶん私が不快感をおぼえたというのは、彼に対してではなくて、自分が何も感じないと言うその事実と、そんなふうに変わってしまった自分に対してなのだ。隆史が悪いというわけではなく、でも自分が悪いとも思いたくなくて、また嫌悪する。
卒業して、別れて、遠くに離れてからも、隆史からは時々、思い出したようにメールが送られてくる。一年前の私は、送られてくるメールを読んで、
落ち着いてなどいられなかった。離ればなれになってしまった境遇への恨みとか、別れてしまったことへの悔やみとか、もしかしたら、また会えるかもしれない
という期待とか、そういう色々な感情が私の中を渦巻いて、興奮して、最終的には悲しくなる。厭な気持ちになる。
今日、送信者の欄に隆史の名前を見つけた瞬間に、無意識のうちに身構えたのは、そのせいだ。それなのに、何も感じなかった。来るべきはずの感情の波に、ほんの少し心の準備をして立ち向かったのにも関わらず、その努力は、一切無駄になってしまった。
だから、不快感。
異性が恋しいと思うこと、恋人がいなければ寂しいと思うこと、すぐ背後まで冬が近づいてきている十一月に人肌が恋しいと思うこと。そんなのは、当然の摂理だ。だって、正常な二十四歳の女だから。だけど、そういうときに私が想うのは、もう隆史ではなくなってしまった。
隆史の代わりに、私の頭に思い浮かんだのは、ほかでもない〈からす〉さんだった。一度も会ったことがないのに、本名さえも知らないのに。いつの間にか、心の中に浸透してしまっている存在。
浸透しているけれど、実体がない。たとえば彼を思い浮かべるとき、頭の中でその姿は像を結ばない。あるのは、ディスプレイの中に浮かび上がって
いる文字だけ。情報が足りない分の空洞が、心の中に多数ある。その透き間を少しでも埋めたくて、私は彼にメールを書くのだ。そして、それに応えるかのよう
に、彼もまた私にメールを書く。それを読んだ私の心の一部分は、少しだけ暖かいもので埋まっていくから、救われているような気になる。それは少し心地良く
て、だけど、どこか寂しい。
ロクへ
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一週間ぶりに届いた〈からす〉さんからのメール。十一月に入って初めて、ようやく届いた、待ちに待った言葉。読んで、思わず涙が出そうになってしまった。
もし言葉ひとつで解るというのが本当だとしたら、顔が見えないことが幸いしているのかもしれない。強がりとか、作り笑いとか、そういう言葉以外のものでごまかすのが、私はとても得意なはずだ。
表情が見えなくて、声のトーンも伝わらなくて、タイピングした文字では、筆跡すらも解らない。だから、言葉を丁寧に選んでメッセージを送る。彼
が私の文脈をうまく読んでくれることはわかっている。ディスプレイに映し出される文字列以上の気持ちが、ネットワークの波に乗って、彼まで届いている。
だけど、目に見えない部分なんて、自分の中でも不確かすぎて、私自身、〈からす〉さんに何をどこまで伝えたいと思って書いているのか、よくわからない。
〈からす〉さんに、いろいろな感情をさらけ出すのは、怖い。そこまでどっぷりと浸かってしまったら、文字媒体のコミュニケーション以外を、必要としなくなってしまう気がしたから。やっぱり私は、生身の人間でありたいし、生身の人間にすがりたい。
「元気だよ。確かにちょっと仕事で落ち込んでいたけど、もう大丈夫。」とかなんとか、そんな返事を送っておけば、彼はそれ以上突っ込まない。だ
から、またMINNIEの話とか、最近見た映画の話とか、身近で起きた面白い話とか、仕事の愚痴とか、そんなやりとりを続けよう。
なぁんだ。私、文字だけでも上手く作り笑いできるじゃない。
パッとしない毎日は、パッとしないまま流れて、消えていってしまう。山も谷もない平坦な時間は、そこを歩いているときはたいそう長い時間に見えるのに、振り返っても何もないことに愕然とする。
気が付いたら、十一月も終わって、十二月が始まっていた。寒さはいよいよ本格的になって、厚手のコートを出す。部屋が相変わらず寒いから、やっぱり帰ってすぐにパソコンの電源を入れる。
メールを受信すると、また花摘子から届いている。彼女は、冬の寒さを感じているだろうか。たぶん、暖かい優しさに包まれて、気が付かない。
ムツへ
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「余計なオセワ!」
ディスプレイに向かって呟いてみた。当然だけれど、花摘子には聞こえない。
二十五の誕生日まで、もう半年を切ってしまった。結婚を急いでいるというわけでは決してないのに、花摘子の文面から伝わってくる、純粋に幸せそ
うな気持ちは、ただでさえ私に「取り残されている」という感覚を覚えさせるのだ。そこへ来て、早く見合いのひとつもしてみろ、だなんて言われれば、さすが
にムッとする。
花摘子には、嫌味な気持ちなど全くないということくらい、私だって解っている。自分が見合いをしてみたら、なかなか良かった。だから睦美にも勧めてみよう。彼女の気持ちはその程度であって、むしろ親切心から出た言葉というだけの話なのだ。
花摘子は可憐で、いつも無邪気にニコニコしているところがかわいいし、放っておけない儚さをも持ち合わせている。だから、大抵の男は、出会った瞬間から彼女のことを気にかける。そういうのを、私は何度も目の当たりにしている。
彼女みたいな女の子が自分に惚れているとなったら、「自分が彼女を守らなければ」と躍起になるだろうと思う。そういう気持ちは女の私にもよく解るし、実際にそうやって、何人もの男が彼女から目を離せなくなっていくのも、何度も傍で見た。
〈靖男さん〉とやらも、それと同じように彼女のことをかわいがるだろう、ということは、花摘子からのメールを読むだけで、十分想像ができた。
花摘子は、この出会いを「単なる見合い」から「恋愛」に発展させたということだ。相手が〈靖男さん〉だったから良かったわけではなくて、花摘子さえその気になれば、相手が誰だったとしても、愛されるし、縁談はスムーズに進む。それだけの話。
ディスプレイを見ながら、そんなことを考えている自分に気付いて、愕然とした。なんだか、自分がとても意地の悪いことを考えるどうしようもない人間に思えてくる。だから、上手くいかないのだ。何もかも。
周りの友達が結婚していくことも、花摘子が幸せでいることも、仕事が忙しいことも、二十五歳の誕生日まで半年もないことも、恋人がいないことも、クリスマスが近づいていることも、今日は〈からす〉さんからメールが届いていないことも、明日もきっと、とても寒いことも。
すべてが、私の胸をチクリと刺す。
十二月二十三日という祝日は、ちょっと買い物に出るにも、どこもかしこもクリスマスに彩られて、誰もが楽しそうで、ちっとも面白くない。外に出るのも憂鬱だから、私は一日中家に居た。
夕方、携帯電話が鳴った。その音で起こされて初めて、自分が昼寝をしてしまっていたことに気が付いた。寝ぼけながら電話に出る。無遠慮に、かつて耳に馴染んでいた声が飛び込んできた。
隆史だった。
彼は、先週の日曜日のスノーボードで、派手に転んで腰を打ってしまったと言って、一人で笑った。せっかくの休日なのに、家で寝ているのは退屈だからと、暇つぶしに電話をかけてきたようだった。
電話越しに話すのは、確か半年ぶりくらいだ。お互いの時間を埋め合うための、近況報告をした。
その途中で、隆史はぼんやりと言った。
「やっぱり、なかなか彼女ができないよ」
「私も」
「どうしてだろうね」
「うん」
もしかして、隆史は私に暖かさを求めているのだろうか。それとも、ただ愚痴を聞いてくれる相手が欲しいだけなのだろうか。たとえば今、私が寄りかかろうとしたら、彼は私を受け止めてくれるのだろうか。そうだとしても、私は彼に上手く寄りかかれない。
私はもう、あの頃の自分や、今の花摘子みたいには、恋ができないのかもしれない。自分の中に、どうしようもなく冷え切ってしまっている部分の存在感を、ひしひしと感じてくる。だから、寒いのだ。
隆史との話は、何でもないような話題でごまかした。たぶん私が意識的にそうしているということくらい、隆史は見抜いている。私たちは、心を寄り添わせないまま、暖かくない会話で時間を潰して、電話を切った。
それと同じ日、と言っても、もう日付が変わるか変わらないかというくらいの時間になってから、〈からす〉さんからメールが届いているのに気が付いた。思いがけないメッセージ。
ロクへ
|
いつもより短いメールだった。
私はそれを何度も読み直した。それこそ、文章を丸暗記できてしまうくらい、何度も読み直した。そして、力が抜けていくような、不思議な感覚にとらわれた。
同じバンドが好きだという共通点から始まった関係なのだから、たまたまその歌手のライブのチケットが取れたから、誘ってくれるのは、自然な流れかもしれない。
だけど〈からす〉さんは、ほかの誰でもなく、私を誘ってくれた。そのことが、何よりも嬉しい。しかも、一番寂しさを感じてしまった日に、それを知ってか知らずか、わざわざプレゼントとして誘ってくれたなんて。
私はとても素直な気持ちで返事を書いた。素直な気持ちを言葉で表そうとすると、とてもシンプルなものになる。
『誘ってくれてありがとう。ぜひご一緒したいです。楽しみにしています。』
それ以上の言葉が見つからなくて、私はいろいろと悩んだあげく、そのままメールを送信した。
心が温かくなった。
温まった心を抱えて、そのままベッドに入ってしまっていたら良かった。そう後悔したのは、その数十秒後だった。〈からす〉さんへのメールを送信
すると同時に、また新しいメールを受信してしまったのだ。差出人の名前を確認して、私は少し鼻白んだ。そこには花摘子の名前が表示されていたからだ。
ムツへ。
|
ディスプレイに向かって、溜息を吐いた。それはまるで、寒い朝、暖かい布団にくるまれて、夢うつつを楽しんでいるところを、母さんが「早く起きなさい」と怒鳴り込んできたときの、一気に現実に引き戻される感じに似ている。
毎度のことながら、なんてタイミングの悪い子なのだろう。こんな状況に置かれている私に、ノロケ話をしてみせろだなんて。お見合いとは言え、素敵な人に出会って、恋をして、結婚を目前にした一番幸せな時期の花摘子に、どうして〈からす〉さんの話なんかできるだろう。
だけど、誰かに話してみたい気持ちも、少しはあった。会社の同僚や大学時代の友達には、絶対に〈からす〉さんのことは話せなかった。「インター
ネットで知り合った」というだけで、怪訝な顔をされそうな気がしたから。そういう意味では、花摘子になら話してもいい。お互いのいろいろな状況を見てきて
いる、幼なじみなのだから。
私は、少しだけその気になって、試しに花摘子へのメッセージを書き始めてみた。
花摘子へ
|
耐えきれない。
書きながら、どんどん卑屈になって行くのがわかった。「すてきな人なんじゃないかと思う」。自分の書こう
としていた言葉を反芻したら、顔が熱くなった。すてきな人だったらどうするの。そうでなかったら。すべては私の妄想の中で始まったのだ。そして、きっと妄
想の中で終わるべきなのだ。
途中まで書いたそのメールは、削除した。紙に書いて送る手紙とは違って、電子メールのメッセージは、単なるデータに過ぎない。簡単な作業で、この世から跡形もなく消えてしまう。
たとえそれが、どんなに気持ちのこもったメッセージだったとしても、どんなに芸術的な言葉だったとしても、嘘だとしても、真実だとしても。
真実は、醜すぎて書けない。
仕事が年末年始の休みに入ると、私はすぐに大宮の実家に帰った。今住んでいる、茗荷谷のアパートからは、片道一時間程度の道のりだ。帰省というほどの感慨はない。
通える程度の距離なのに、なにも一人暮らしをする必要はないのではないか、と周囲にはずいぶん言われた。けれど、私はどうしてもと言って家を出た。就職を機に親元を離れるのは、とても自然だ。
実家にいたくなかった理由。あの場所では良くも悪くも、花摘子の存在が大きすぎた。それが私には息苦しかったのだ。
たとえば、私の両親は私の大学時代の友達を直接は知らない。会社の同僚の話だって、聞いてもわからない。田舎では、世間というものは狭いもの
だ。どうしても知っている範囲で、たとえば花摘子の話などが出る。両親にしてみれば、それはごく自然なことなのだと思うけれど、東京の大学に入って、行動
範囲が今までの何倍にも広がった娘には、その世間の狭さは、嫌悪するほど息苦しい。
電車とバスを乗り継いで、家に帰る。実家のドアを開ける。「ただいま」と小さく言うと、母がすぐ出てきた。ドアの向こうに人がいる家。その温かさを実感するよりも前に、やはり母は花摘子の話をした。
「かっちゃん結婚するんだって? お母さん聞いてびっくりしちゃったわ」
「いいじゃない、結婚くらいするわよ」
私はうんざりした気持ちで、冷たくあしらった。本当は年老いた母に優しくしてあげたい気持ちだってあるのに、こういう展開になるとどうも良くない。どうせ、彼女が次に言うことは、わかっている。花摘子と比べることで、私をたしなめるのだ。
「かっちゃん、最近きれいになったわよ。あんたもコンピューターばっかりいじっていないで、さっさといい人を見つけなさいよ」
「私は私なのよ」
母のお決まりの展開に対する、私の反応もいつも同じだ。話はどこまで行っても埒があかないようになっている。
いつも周りの大人達に比較されて、私と花摘子は育ってきた。私の両親は、花摘子のようにかわいくて女の子らしい娘が欲しかったようだけれど、そ
れは私には無理な要望に思えた。逆に、花摘子の母親は、成績優秀と言われていた私を、一体どんな勉強をしているのか、遊んでばかりに見えるけれど、いつ勉
強しているのか、などと常に詮索した。花摘子は決して優秀な子ではなかったので、睦美ちゃんみたいになりなさい、と花摘子を常々叱っていたらしかった。そ
の成果として、花摘子は私と同じ進学校に入学し、一年浪人をしても、同じ大学に入学したのだ。花摘子の母親は、花摘子が私より下の学校に行くことを許さな
かった。同じでないと駄目だと思っているようだった。
そういえば、花摘子という名前も、この教育熱心なお母上による命名らしい。その由来を知ったのは中学生の頃だっただろうか。字では『花を摘む』という可憐な少女のイメージにを表し、音で『勝つ子』という意味込めているという。よく考えたものだ。
そこまでしなくても、初めから勝負なんて決まっているのに。この世の中、女の子は美人に生まれた方が得をするようになっているのだ。私には勝ち
目なんてない。勝ち目もなにも、初めから勝負など挑んでいない。私は自分のやりたいことを勉強して、それを生かした仕事に就いて、自分で生計を立て、自分
の人生に責任を持っている。私はそれでいいのだ。
花摘子の母親が勝敗を決めたがるせいで、私の母も触発される。母親同士の見栄の張り合い。私の母は何かある度に、私と花摘子を比較し、そのことで私を焦らせようと躍起になるのけれど、そんなことで刺激されるくらいなら、私はとっくの昔に違う道を歩んでいるはずだ。
「そうそう、二、三日前、かっちゃんから伝言を預かったわよ」
突然、母は思いだしたように言って、かわいらしく折りたたまれたメモ用紙を私に差し出した。
そこにはこう書かれていた。
ムツ、お帰り。
お正月にムツがこっちに帰って来るらしいと聞いて、会うのを楽しみにしていたのに、急に家族で旅行することになってしまいました。独身として最 後のお正月だから、少しくらい親孝行もしないとね。親戚の家を挨拶しにまわるのも兼ねているので、堅苦しい冬休みになりそうです。 ムツとは会おうと思えばいつでも会えるから、また機会を改めましょう。 カツコ
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カツコと会わずに済んで、なんとなくホッとした。メールで読んだのと同じようなカツコの話を聞かされることとか、幸せそうな顔を見て焦るかもしれ
ないことくらいなら、覚悟はしていた。だけど、もし自分の近況を聞かれたらどうしようかと思ったのだ。この前の返事も、書いている途中で削除した後、何の
フォローもしていない。もし聞かれたら、とうとう〈からす〉さんのことを話してしまいそうだ。話せばきっと惨めになるのに、それでも誰かに話したいと思
う。今の私は、混乱する自分を上手くコントロールできないから、花摘子に会いたくなかった。
誰にも何も話さずに済んで、しばらくはインターネットからも離れていて、穏やかに正月休みは過ぎていった。
それから私はまた東京に戻って、温かみのない部屋で一人、山も谷もない平坦な毎日を再開した。仕事が忙しいこともあって、一月はあっという間に
終わってしまった。一月を早く終わらせたいために、仕事に没頭していたような感じもあるけれど、とにかく二月が始まった。そして、待ちに待っていた日は、
ついに来た。
とにかく大きな深呼吸をして、少し人波が去った後の地下鉄のホームを、出口に向かって歩く。息を吸っても吐いても苦しい。それは、簡単な名詞で表すと『緊張』ということになるのだろうけれど、それ以外にもいろいろな思いが渦巻いるような気がする。
〈からす〉さんとの約束の日は、二月の初めにしては、暖かい夜だった。私の目印は、ざっくりと編まれた白いマフラーと白いニット帽。今日の陽気
には、ちょっと重装備すぎる。けれど、これがないと〈からす〉さんに見つけてもらえないので、私はきっちりとそれらを身に着けていった。
自動改札に切符が吸い込まれて、私は改札の外にはじき出された。ここが待ち合わせ場所。彼はもう来ているのだろうか。キョロキョロしながら立ち位置を定めようとしているところで、声をかけられた。
「〈ロク〉?」
振り向くと、そこには見知らぬ男の人が立っていた。想像通りの長身。想像とは少し違っていた短めの髪。だけど、彼の持っている空気は、確かに私がよく知っている。
「〈からす〉さん、ですか」
「そうだよ」
そう答えて、彼はニッコリ笑った。この笑顔を見て、この人を憎める人なんていないだろう。そう思うような笑顔だ。
「〈ロク〉が、俺のイメージ通りの人だったから、一目見てすぐにわかった」
「私も」
彼は、細長い身体に黒いロングコートを着ていて、いかにも〈からす〉みたいだった。もう何ヶ月もメールをやりとりして、すっかり知った気になっていた人なのに、改めて知らない人として目の前に登場するなんて、不思議な感覚。
どういうわけか、涙が出そうになった。
「立ち話もなんだから」
〈からす〉さんは、そう言って歩き始めた。ライブの開始時刻まで、まだ小一時間ある。私たちは近くのコーヒーショップで軽く腹ごしらえをすることにした。
明るい店内で、向かい合って座る。〈からす〉さんは、久しぶりに会った学生時代の友達のように打ち解けた様子でいる。それを見ていたら、なぜか花摘子ともずいぶん会っていないのを思い出した。彼女と久しぶりに会ったとき、ここまで打ち解けられるか、少し自信がない。
〈からす〉さんは、なんの疑問も感じることなく、私のことを〈ロク〉と呼ぶ。サンとかチャンとかの敬称は、付けない。シンプルに、ただ〈ロク〉と呼ぶ。
まるで、番号で呼ばれているみたい。だけど、決して嫌な気持ちにはならない。今まで私を〈ロク〉と呼ぶのは、コンピュータで繋がれた向こうにい
る人だけだった。文字を介した場合だけ、相手に呼ばせていた名前なのに、音になっても、ちゃんと自分の名前になっている。それだけ、呼ぶほうにも呼ばれる
ほうにも、馴染んでいるということだ。
私たちは、改めて自己紹介をしてみた。
「〈からす〉です。二十八歳です」
「知ってる」
「練馬区に住んでいます」
「知ってる。桜台でしょう」
「そう。職業は、しがないサラリーマン」
「某メーカーの、企画部勤務でしょう?」
「あはは。〈ロク〉に自己紹介することなんて、今さらないよなあ」
〈からす〉さんは、そう言って笑った。確かに〈からす〉さんが今言おうとしたことについては、私だって知っている。つまり、〈からす〉さんのこ
とは、私も多少ならば知っている。だけど、目の前にいる男の人に関しては、まだまだわからないことが多すぎる。本名、住所、電話番号、会社の名前。〈から
す〉さんは、そういったことには、何ひとつ触れようとしない。自分のことについても言わなければ、私について、つまり〈ロク〉ではなく、生身の人間である
〈栗田睦美〉という女のことは、別に気にならないし、知らなくても良いようだった。私は、話したいのだろうか、この人に。
私は自分の気持ちさえよく解らない。だから、いつもメールで書くような仕事や日常の話とか、MINNIEの新曲とか、一番好きな曲とか、今日
ぜひとも聴きたい曲とか、そういう話でお茶を濁した。それはそれで楽しかったし、ライブが始まる前の高揚感にはピッタリだった。あっという間に時間が過ぎ
て、私たちはライブ会場に入った。
開演直前に、私は高揚した気持ちで〈からす〉さんに話した。
「嬉しいな、MINNIEのライブ、実は二年ぶりなの。大学を卒業して以来」
「へぇ、どうして」
理由を聞かれるとは予想していなかったので、ほんの少し黙った後で、私は答えた。
「働き始めてから、チケットを取る手間が面倒くさくなっちゃって」
笑ってごまかしたけれど、本当は違う。もともとMINNIEは、隆史が好きなバンドだったのだ。彼にCDを借りて聴いているうちに、私も好きに
なった。ライブに行くときは、必ず隆史がチケットを取ってくれていたのだ。そんなことは昔のことなのに、なぜか〈からす〉さんには言いたくなかった。
やがてライブが始まった。観客は総立ち。一曲目から、ステージも客席も高いテンション。久しぶりに聴く生演奏は、最高だ。そんなこんなで夢中になっているうちに、二時間強のライブは、あっという間に終わってしまった。
会場から人が流れ出ていく。私たちはその混雑がひととおり過ぎてから会場を出ることにした。まだライブの興奮が冷めていない。今日の感想を語り合っていると、ふとした瞬間に、〈からす〉さんは言った。
「これから、どうする? 一杯くらい飲んでいっても良いけど」
「明日はお互い仕事だから、寄り道はまたの機会にしましょう」
予防線。本音を言えば、この勢いでもっと仲良くなってしまいたい。だけど、それではいけないような気がする。だから、『またの機会』を〈からす〉さんが与えてくれることに、私は賭けたいと思った。
待ち合わせ場所だった地下鉄の改札まで、送ってもらった。改札が近づくにつれて、気持ちが少しずつ重くなった。もう会えないかもしれない。また会えるかもしれない。未来が全く見えない。未来が見えないということは、とても不安だ。
自動改札に切符を差し込む直前になって、私はやはり、心残りだったことを伝えた。
「やっぱり私は、あなたのことを〈からす〉さんと呼ぶことしかできないの?」
彼は少し笑って、こう答えた。
「現実の自分よりも、たぶん〈からす〉である俺のほうが、〈ロク〉にとっても魅力的な人間だと思うよ」
「そうなのかな」
「それに、俺は〈ロク〉のことを、いつまでも〈ロク〉って呼んでいたい」
「だけどっ」
途中まで言ったけれど、続かなかった。彼が突然、私を抱き寄せたから。それから、そっと、それはまるで割れ物でも扱うかのようにそっと、彼は静かに私を肩から抱きしめて、耳のすぐ近くでこう言った。
「だけど、今日会えて本当に良かったと思うよ。〈ロク〉はやっぱり、想像していた通りの人だった」
そこまで言って、彼は私から手を離して、私を帰るように促した。
「今日、帰ったらまたメールを書くよ」
「私も」
そんな、短い言葉で答えるのが精一杯だった。私は、彼に背を向けて歩き出した。振り返らないように、早足で改札を抜けて、地下鉄のホームへの改段を駆け下りた。
ちょうど良いタイミングで帰りの方面の電車がやって来た。逃げるように車内に乗り込んで、ドアが閉まる。そこでようやくその場所との空気が分断されたような気がして、私は脱力した。
次の日、ふと書店に立ち寄って、雑誌をパラパラめくってみると、『インターネットですてきな出会い!』という見出しが目に入ってきて、思わず目を逸らせてしまった。
最近は、普通の女性向けファッション誌でさえ、インターネットという言葉を溢れさせている。こういうところでは、技術に関することとか、新製品に関することなどは、たいして話題にならない。
出会い。恋。結局はそれが、みんなが求めている普遍の明るい話題なのだ。
映画やドラマで持ち上げられて以来、『ネット恋愛』などという言葉が横行し始めた。最近の私は、その言葉を見聞きする度に、まるで自分の失敗を指摘されたような、恥ずかしくて後ろめたい気持ちになる。
これもネット恋愛なのだろうか。
巷で流行中の?
ばかばかしい。心の中で毒づきながら雑誌を閉じた。だけど、実際に〈からす〉さんに対して持っている感情が、恋と違うものなのかどうかなんて、私は解らずにいる。
隆史から、また久しぶりのメールが届いていた。彼は数ヶ月に一回、忘れそうになった頃に、必ずメールをくれる。細く長い糸で、彼とまだ繋がっているような気分。それは、少し暖かいけれど、快いものでもない。
突然だけど、今度の土日に、こっちの友達と東京に行くことになったんだ。
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時間ならば、わざわざ作らなくても、いくらでもあった。私は、ほとんどの週末を一人で過ごすことを、既に習慣としている。
けれど、会いたいとは思わなかった。会ってどうするというのだろう。懐かしい親友みたいに、思い出話で笑い合ったりするのだろうか。
そんなの、無理だ。隆史は親友にはなり得ない。とはいえ、彼の暖かさに寄りかかってしまおうと思えるかというと、そういうわけにも行かなかった。
隆史に会いたい気持ちになれない理由。考えれば考えるほど、〈からす〉さんの顔が思い浮かんで、漠然とした痛みが、心の中に生まれる。
たった一度だけ、〈からす〉さんと会ったあの日から、もう一ヶ月半が過ぎていた。あの後も相変わらず、私と〈からす〉さんの間では、いく
つものメールが行ったり来たりしている。内容も今までと変わらない。なんでもないような、仕事の愚痴とか、ちょっとした悩みとか、その日に起こった面白い
出来事の報告とか。
だけど、あの日を境に、私の中で何かが確実に変わっていた。
〈からす〉さんからのメールを読む度に、生身の〈からす〉さんの記憶を身体に呼び戻してしまうのだ。少しだけ触れた肌の感触。私の肩をふわっと抱いた腕の形。息苦しい心の中で感じていた、彼の匂い。
そういう心の動きを、ひとことで表してみると、こうなる。
「会いたい」
ああ、そうだったのか。私は、〈からす〉さんと実際に会うまでは、彼に対してどんなに心が惹かれても、『会ったこともないのに』と自分を納得させていただけなのだ。そんな私の留め金は、完全に壊れた。
現実の世界で会ってしまった今、現実の恋愛になる可能性を感じることは、きっと間違いではない。そうどこかで信じている自分を見つけてしまった。
他に好きな人ができたから。
隆史と会えない理由は、ただそれだけ。複雑な思いなどないのだ。私はとても静かな気持ちで、隆史への断りのメールを書いた。
花摘子の縁談は、相変わらず順調なようだった。年末年始の挨拶回りは、花摘子の親戚は当然のことながら、実は〈靖男さん〉の親戚にも挨拶をしてきたらしい。あの花摘子のことだ、相手方にも評判が良いはずだ。
三月も終わりに近づいて、随分春めいてきた頃、花摘子から電話がかかってきた。お正月に会えなかったし、準備もだいぶ進んできたので、そろそろ会っていろいろ話をしたいということだ。
私のほうも、だいぶ精神的に落ち着いてきていた。〈からす〉さんについては、自分が恋をしていると認めた瞬間、少し楽になったのだ。彼にとって
私は〈ロク〉であって、〈睦美〉ではないとしても。恋ができたこと自体が、私にとっては重要だったのだから。花摘子のことも、今なら素直に祝福してあげら
れそうな気がする。
花摘子は、四月の一番初めの日曜日に、私のアパートを訪れた。そう言えば、引っ越しを手伝ってもらって以来、彼女がここに来るのは二年ぶりだ。玄関のドアを開けると、彼女はすぐに、ケーキの箱と白い封筒を私に手渡した。
花摘子は部屋に上がるなり、最近買い換えた私の新しいパソコンに注目した。
「うわぁ、カッコイイ。私なんか、お父さんと共用の、古いパソコン使っているのよ。こんな新しいパソコン欲しいな」
「ダンナさんに買ってもらえば?」
「そうね」
あっけらかんとして、花摘子は笑った。
久しぶりに来たこのお客様のために、私は少し美味しい紅茶を入れてあげた。花摘子が持ってきたのは、私が大好きなチーズタルトだった。さすがに幼なじみだけある。
二人でそれを食べながら、合間に先ほど手渡された封筒を開けてみると、披露宴の招待状が入っていた。私は花摘子の話を聞き流しつつ、披露宴の招待状の返事を書いた。
「それでね、靖男さんのお父さんはね」
花摘子は終始、〈靖男さん〉の話をしていた。話半分に聞いているとはいえ、もう何度もメールで読んだ内容が繰り返し語られるので、私は少しずつ苛立ってきた。
だけど、本当は解っている。私は花摘子が羨ましいだけだ。その人のことで頭が一杯になるくらい好きになれることも、それを誰にも憚ることなく、
言葉や表情や身体全体で表せることも。私は、〈からす〉さんのことで頭が一杯になっても、絶対にそれを周りの人には言ってはいけないと思う。
「ねえ、ムツ。ちょっとこのパソコン、触らせてよ」
話し疲れたせいか、花摘子は私のパソコンに再び興味を持ち始めた。
「いいよ」
私が言うと、花摘子は早速パソコンの電源を入れた。そしてパソコンが立ち上がると、何を思ったか、突然メールを開こうとしたのだった。
「あっ、それはダメ」
「え?」
驚いた花摘子の動きが止まった隙に、私はディスプレイの前に立ちはだかった。〈からす〉さんとのやりとりは、やはり『あくまでも秘密』だと思った。
「どうしてダメなの。何か見られちゃいけないようなメールがあるっていうの? あ、まさか流行のネット恋愛だったりして」
花摘子は、たぶんふざけて言った。図星だったから頭に来た、というわけではなく、茶化すような口調だったから、私は我慢ができなくなって、思わず怒鳴ってしまった。
「何でもいいじゃない。花摘子はね、一人で幸せになれば、それでいいのよ。私のことなんか気にしてないで、早く幸せな顔してお嫁に行っちゃいなさいよ」
花摘子は、大きな目をさらに見開く。長い沈黙。それを破ったのは彼女のほうだ。
「ムツ、つらい恋をしているの?」
また痛いところを突いてくる。こういう率直さが、彼女の最大の長所であって、最大の短所でもあることは知っているのに。
「いい加減にしてよ。放っといて」
つい、突き放した言い方をしてしまった。花摘子は少し悲しそうな顔をして、ちいさく「ゴメン」と謝って、静かに帰る支度を始めた。
泣きたかったけれど、泣けなかった。
「会いたい」。
一言だけ書いて、〈からす〉さんにメールを送った。たった四文字を送るのに、随分と時間がかかってしまった。
世間は、もうゴールデンウィーク明け。花摘子と会って喧嘩をしてから、既に一ヶ月ほど経ってしまった。
あれから花摘子からのメールは、パタリと来なくなった。私が怒鳴ってしまったから気まずいのか、結婚式を目前に控えて、忙しいのか。とにかく静かな毎日が戻った。だからこの一ヶ月間、花摘子に心を乱されることもなく、私はいろいろ考えることができた。
彼女の指摘通り、私の恋は『つらい恋』なのだ。〈からす〉さんは、私のことをいつまでも〈ロク〉と呼んでいたいと言った。それは、私の領域に、それ以上入ってこないということだ。つまり、インターネットを超えた付き合いはない、と。
だけど、超える可能性は、全くないのだろうか。彼は、『ある』とも『ない』とも言っていない。ひょっとしたら、なくもないのかもしれない。ほんの少しの確率で。
だから、私は賭けのメールを出したのだ。このメールの返事で、可能性がわかる。
〈からす〉さんからは、次の日すぐに返事が来ていた。
ロクへ
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まあ、予想通り。
やっぱり、〈からす〉さんは、メールのやりとりの上だけで、私と繋がっていようとするのだ。結論はとてもシンプル。
私は、傷ついただろうか。自分に向かって聞いてみた。
傷つくというよりは、何も感じなかったような気がする。ただ、少しだけ、気が楽になったという程度のこと。私はひたすら、自分の妄想の中で、もがいて苦しんでいただけだということに気付いた、それだけのこと。
だけど、〈からす〉さん。
それが妄想だとしても、苦悩だったとしても、ただ恋もできないと悩んでいるよりは、ずっと楽しかったです。もうあなたにメールを送るのは止めます。
作成しているメッセージの、宛先の欄は空白のまま。初めから送るつもりのないメッセージを書いて、保存して、削除した。ネットで生まれた妄想恋愛は、このパソコンの中で葬るのが一番だと思ったのだ。
仕事から帰ると、花摘子から郵送で手紙が届いていた。薄いピンクの封筒に、おそろいの便箋は、花摘子らしいセレクトだ。
メールのやりとりに慣れてしまうと、郵便で時々手紙が送られてくるのが、とても新鮮だ。メールでは伝えきれないような、細かい心遣いが感じられるし、何よりも形に残る。その重大さを、私はすっかり忘れていたのかもしれない。
手紙には、こう書かれていた。
この前はごめんなさい。
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私は、すぐに花摘子に電話して、出席の返事をした。彼女は妙に緊張した声で、
「ありがとうございます」
などと、堅く言った。私はその様子に、ついつい笑ってしまって、そして、素直になることができそうで、謝った。
「あの時はね、いろいろあって、確かに一番つらい時期だったの。『つらい恋』なんて指摘されたのが一番つらかったけど」
私が笑ってそう言うと、ようやく花摘子も緊張をほぐしたのか、笑って答えた。
「ちゃんと話してくれないと、解らないんだからね。一人で抱えないでよ」
それから私は、電話口で〈からす〉さんのことを、いろいろと花摘子に話した。結婚を目前にした彼女には、あまりにも稚拙な恋愛ごっこの話。ようやく、すっきりした。
結局、私と花摘子の喧嘩など、子供同士のする喧嘩と一緒なのだ。言いたいことを言い合ってしまえば、それで気が済む。
肝心な『言いたいこと』を、素直に言えなくなってしまっていたのは、もう子供じゃないからかもしれないけれど。
五月の最後の日曜日は、夏のように暑い、良く晴れた日になった。
私は、一番気に入っている夏のドレスを着て、花摘子の披露宴会場へ出かけた。大親友の晴れの日。私だって、気合いを入れないわけには行かない。
小中学校時代からの仲良しグループで、一つのテーブルを占領する。今でも、年に数回は集まるこのグループ、昨日までは全員独身だった。ある程度大人になってから仲良くなった友達とは違う、お互いが子供時代を知っている仲だから、感慨が深くて、どこかくすぐったい。
「一番のんびりしていた花摘子が、一番はじめにお嫁に行っちゃうなんてねぇ」
「ホント、不思議よね」
私たちはそんなことを話しては、笑いあったり、納得してみたりしながら、花嫁が入場するのを待った。
やがて、華やかなBGMと共に、ウェディングドレスを纏った花摘子が現れた。私は、思わずため息を漏らしてしまった。
花摘子はきれいだった。もう、嫉妬もしようがないくらいに、完璧にきれいだった。
シンプルな白いドレスは、華奢な彼女の身体を一番美しく見せるラインに出来上がっているのだろう。幸せそうな笑顔は、少しはにかんで俯き気味な
ので、柔らかい影を落とす。そのバランスまでが、美しい。泣きながら私を追いかけていた、小さい頃の花摘子のことを、ぼんやりと思い浮かべた。それは少
し、花嫁の母親の気持ちに似ているかもしれない。
ひとしきり花摘子に見入っていた私たちは、実は隣にちゃんと新郎が並んでいることすら忘れていた。新郎新婦が揃って席について初めて、私たちは「あれが旦那さんね」と意識してその男の顔を見た。
アレガダンナサンネ。
アレガダンナサン。
アレガ?
私は思わず、立ち上った。飛び上がった、と言ったほうが正しいかもしれない。その拍子に、私が座っていた椅子が倒れた。ガタンという音がして、会場の視線が、私に集まる。もちろん、彼も私を見た。
目が合った。
だけどそれは一瞬のこと。私はすぐに笑ってごまかして、椅子を直して席に座った。
新郎の席にいる〈からす〉さんの顔は、こころなしか蒼ざめている。もちろん、花摘子はそんなことにも気付かずに、ニコニコと笑っている。世界一幸せそうな顔で。
彼が決して素性を明かさず、現実世界の私とは向かい合おうとしなかった理由は、予想よりはるかに単純だったというわけだ。
もし、ここで鉢合わせにならなければ、彼はどうしただろう。結婚後も今までと同じように、私とメールの交換をしていたかもしれないし、たまには
会って、ひょっとしたら、ベッドを共にする可能性もあったかもしれない。そうしたら私は、何も知らないまま、彼のやることなすことに一喜一憂していただろ
う。隆史と一緒にいた頃のように。
ネット恋愛だとか、つらい恋だとか、そんなことで思い悩んでいた自分がばかばかしくて、小さく笑ってしまった。その瞬間に彼と目が合ったので、まるで私が彼に向かって微笑みかけたような状況になった。
まだ、笑える。自分がそれほど傷ついていないことに気がついた。
〈からす〉さんへの気持ちは恋に違いなかったし、今でも彼を欲しいという気持ちが、少しはある。だけどそれは、あの新郎の席に座っている〈靖男さん〉という男のことではない。パソコンを起動しないと会うことのできない〈からす〉さんのことだ。
文字だけでしか私を慰められないと言った〈からす〉さんは、私だけのもの。彼もまた、文字だけから得るものがあったからこそ、私とやりとりを続
けてきたのだろう。そして、それは決して花摘子にはできないことなのだ。文字と想像力を駆使したバーチャルリアリティの世界でなら、私たちは結ばれること
だってできるかもしれない。そう思うと、ますます楽しくなった。
と、私は花摘子の幸せそうな笑顔を見つめながら思い出していた。
あれは何歳の頃のことだっただろう。近所の空き地で、とてもかわいい花がひっそりとしているのを見つけたことがあった。私は少し嬉しくて、黙ってそれを見て楽しんでいたのだ。そこへ、「ムッちゃん、遊ぼう」と言って、花摘子が近づいてきた。
花摘子はその小さな花を見つけて、とても喜んだ。そして、私がすぐ近くで大切に見つめていたとも知らずに、スッと近づいて来て、いとも簡単に摘んでしまったのだ。
あの頃は、『花摘子』という名前の漢字までは理解していなかったけれど、昔からそうだったのだ。そんな風に花を摘む子、だから花摘子。そして〈勝つ子〉。そう名付けた彼女の母親の強かな願いが、本当の意味でようやく理解できた気がする。
〈カツコ〉が摘んだ花を、〈カツコ〉が手に入れたものを、一緒に眺めて楽しむ。それが、子供の頃から私に許されていた役割だったのだ。それはたぶん、大人になった今でも変わらないことなのだ。
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