top掌~短編


彼女の引っ越し

 電子音が真夜中の静寂を破る。
 こんな時間にかかってくる電話は、ものすごく困っている友達か、でたらめな番号にかけられたいたずらか、そうでなければ、彼女だ。
 私は寝ぼけながら、光っている自分の携帯電話の液晶画面を見る。
(やっぱり)
 見慣れた番号が表示されている携帯電話。こう何度も真夜中に起こされていると、さすがに嫌気がさす。だけど、私は彼女に「迷惑だから止めてちょうだい」と言うどころか、電話を無視して眠り続けることもできない。
「もしもし」
「あ、私ぃ。カズミよ。寝てたぁ?」
 普通の会社員である私が午前三時半に起きているわけがないのを、彼女だって知らないはずがないだろうに。
「寝てたに決まってるでしょう」
 わたしは怒りを抑えてやんわりと言った。寝ぼけた振りも少々演出して。
 どうせ何を言っても、彼女から電話を切ることはないだろう。そして、私からも切ることは出来ない。そのあと彼女がどうなるかが恐いから。何せ、私は彼女が少なくとも二回の自殺未遂をしていることを知っている。それらは、狂言のくせに本当に死に損ねるようなレベルのものだったのだ。
 私とカズミは十八歳の時に出会った。当初は単なるクラスメイトだったけれど、私はすぐに彼女から眼を離せなくなった。彼女は何かとすぐに思い詰めるタイプで、そのたびに一人では立っていられないくらい衰弱するのだ。そのくせ、自分の弱さに気付かないでヘラヘラしている。さらに、自分のそんな弱さに気付かないせいで、私が何度叱ってもそれは治らない。だからせめて、私は見守らなければいけないと思うようになったのだった。
 そのことを知っていながら、真夜中に電話をかける彼女のことを冷たくあしらえるような人がいるのならば、ぜひその人の顔を拝んでみたいものだ。彼女の真夜中の電話は、つまり危険信号なのだ。ピークに達した寂しさと空虚の奏でる電子音は、とても耳障りだけれど、放っておけない。放っておいてはいけない。
「マユコはいっつも不機嫌なんだからぁ。たまには私にも優しくしてよぉ」
(よく言うよ)
 私は受話器では伝わらないやり方で悪態をついた。これが私に出来る精一杯の優しさなのだ。寝不足になってまで彼女の寂しさを癒やす義務は、私にはない。そんなものは、そもそも彼女を寂しくさせている張本人がしなければいけないことなのだ。
「で、どうしたの、今日は。またカレと喧嘩でもしたの?」
「違うわよぉ」
 その答えは意外だった。いつもならば、男とのゴタゴタがあるときにしか、カズミは私に電話をかけてこない。そんなとき、彼女の声は当然のことながらひどく生気がないので、確かに今日のこの明るい感じは異様だった。こんな彼女の声を聞くのは、高校生の時以来かもしれなかった。
「実はね、引っ越したのよ」
「は?」
「一人暮らしを始めたの」
「へえ、そうだったの。突然なのね」
 それは、あまりにも唐突な報告の仕方だった。私は少しカチンときていた。そんな用ならば、なにもこんな真夜中に電話をかけてこなくてもいいのに。私がいつも黙ってカズミの話を聞いているのは、彼女がとても切羽詰まっていることを知っていたからだ。いつでも真夜中に捕まると思われては、困るのだ。
 しかし私は怒りを抑え、あえて普通の声で対応した。
「いつ引っ越したの? 全然そんな話してなかったじゃない」
「引っ越したのは一ヶ月ぐらい前なのよ」
「一ヶ月も前なの?」
 確かにここ三ヶ月くらい、私たちは音信不通だった。彼女からの電話がないのは、彼女が幸せにやっている証拠なので、特に用がない限り私からは電話をしないのだ。しかし、引っ越して一ヶ月も報告がないとは、あんまりだ。
「カズミ、あんた、私のことをよく親友だとか言うわよね」
「うん、マユコは無二の親友よ」
 あっけらかんとした声で、カズミは言う。この子は何も考えていない、と、私は落胆する。
「じゃあ、私ほどの親友に、どうしてもっと早く引っ越しの報告をしないの?」
「ごめんね、いろいろと忙しかったのよ。部屋が片付いたら遊びに来てって言おうと思ってたんだけど、なかなか片付かなくって。この土日で、ようやく人を呼べる状態になったから、これでも取り急ぎの報告なのよ」
「なるほどね」
 まあいいか。根が楽天家で、すぐに人を許す私は、彼女の言うことを信じることにした。しょうがないのよね、彼女、そういう子だから。そんなふうに、彼女が自殺を謀ってすら思ったくらいだった。その上で、私は彼女と友達でいるのだから、今更そんなことでいちいち怒ってもいられない。
 聞いてみると、彼女の引っ越した先は同じ沿線上で、私の家からも彼女の実家からもそう遠くない。彼女の勤務先にも、ほんの少し近くなったくらいで、別段便利になったとも思えない。いったい何のための一人暮らしなのか、聞こうかと思ったけれど辞めた。どうせ男のためだろう。
 私は、彼女の新しい電話番号と住所をメモして、次の土曜日に彼女の部屋を訪れる約束をし、手早く電話を切った。一方的な切り方だったことは、次の朝になって思い返して反省した。どんな内容であれ、真夜中の電話は危険信号のような気がしなくもない。

 土曜日の午後三時、その駅の改札の前でカズミは約束通り私を待っていた。以前よりも少し痩せたような気もする。でも、表情は明るく元気そうで、声にも張りがある。安心した。やはり私はカズミのことを、少し心配しすぎているのかもしれない。真夜中に電話をかけることは、きっと彼女にとっては習慣でしかないのだろう。
「あれよ」
 駅前の大通りから少し入った路地を三分ほど歩いているうちに、壁の白い、割と新しそうな三階建てのマンションが見えてきた。彼女は指さして説明した。
「あの二階の端の部屋。グリーンのカーテンが掛かっているでしょう」
 彼女が自慢げに紹介したカーテンは、確かに自慢したくなるくらいきれいな若草色だったので、私はますます安心した。彼女の生活はきっと安定していることだろう。
 階段を上って、鍵を開けて、部屋に入る。間取りは、広くもなく狭くもない、ごく標準的なワンルームだった。小奇麗で、だけど、とにかく殺風景だった。
 そこには、パソコン一式と、数冊のファッション雑誌、それに小さな冷蔵庫が置いてあるだけで、人が生活している匂いがしない。きれい好きとも言うかもしれないけれど、一ヶ月もかけて、いったい彼女は何を片づけていたのだろう、などと考える。
 きれいなグリーンのカーテンを通す光に柔らかく包まれて、私が引越祝いに持っていったカラフルな灰皿は、まるで居心地が悪いとでも言うようにたたずんでいた。無機質な部屋では、それはあまりに異質だった。同じ店にあった、白い陶器の灰皿にすれば良かった、などと私は考えたけれど、カズミはそれでも喜んで受け取ってくれた。
 ともあれ、私とカズミはビールで乾杯した。久しぶりに会うものだから、色々な話題が肴になる。最近読んだ本、見た映画、欲しい服。おいしいコーヒーを出す喫茶店。私の新しい恋人。入社一年目の彼女に溜まったストレス。そして、いつも決まってたどり着くのが、高校時代の思い出話。
 五本の缶ビールがあっという間に空になると、カズミはキッチンの奥にしまいこんであった細長い瓶のコニャックだか何だかを持って来る。私は洋酒のことはよく分からなかったけれど、とてもお洒落な瓶だった。
「これ、おいしいのよ。とっておきのお酒なの。今日は特別に開けちゃう」
 ロックがおいしいから、と言って、カズミは私の分と彼女の分と、手早くグラスに注いだ。飲んでみると、確かにおいしいのだけれど、少しアルコールが強すぎるようだった。
「おいしいんだけど、すぐに酔っぱらっちゃいそう。水割りにしちゃダメ?」
「水割りもいいけど、それよりも、ちゃんとしたおつまみを用意して、お腹を作っておいた方がいいかもしれない。空腹に強いお酒じゃ、悪酔いするもんね。近くにコンビニがあるから、私、何か買ってくるわ」
 いつになく気の利くカズミに、私は感心すらした。カズミといえば、いつも人に何かをやってもらうことを待っていた人間なのに。一人暮らしを始めると、人は変わるものだ。
「私も、一緒に行くよ」
「いいわよ、本当にすぐ近くだから、煙草の一本でも吸って待ってて。その間に帰ってくるわ」
 言われた通りに煙草に火を点けて、私は彼女を見送った。ドアが閉まった途端、他人の部屋で一人で過ごす居心地の悪さを覚えた。私はそわそわして、もう一口、グラスの中のお酒を飲んでみた。やはり、アルコールが強い。カズミはロックで飲むことをかなり薦めていたけれど、やはり私は水割りでいこう。
 私はそう思いつくやいなや、勝手に彼女の冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターをいただいた。ついでに、氷も足しておこう。私はくわえ煙草のまま、冷凍庫を開けた。
 小さな冷凍庫の中もまた、彼女の部屋と同様に殺風景なものだった。冷凍食品の一つも入れておかないとは、カズミらしい。男のために腕を奮って本格的な料理を作るか、そうでなければ良いレストランでごちそうしてもらえるか。彼女は手抜きの料理なんかしないのだ。そんなことを考えながら、私は製氷皿を取り出し、氷を三つ、グラスに落とす。
 手にした製氷皿をまた冷凍庫に戻そうとして、私は気がついた。実は、製氷皿があった場所、おそらくその下に隠すように、何かが置いてある。よく分からない小さな物体だった。冷凍食品もない冷凍庫に、静かにたたずんでいる。一体なんだろう。私は好奇心に駆られて、それをよく見た。霜に埋もれて白くなっているが、少し持ち上げてみると、もとはピンク色の物体だと解った。
 私はそれを手にとり、よく見て、確認し、唖然とした。
 なぜならそれは、コンドームの中で凍った精液だったのだ。

 私が混乱している間もなく、カズミはコンビニの袋を提げて帰ってきた。あわてて冷蔵庫のドアを閉めて、私は自分が座っていた座布団の上に戻っていたものの、動揺を隠せずに、ただ沈黙した。
 カズミは、冷蔵庫の前で私が落とした灰を見つけて、それをティッシュペーパーで拭いた。そして、そんな場所に灰が落ちている理由を考えて、私のグラスを確認した。氷が入っているのを見て、恐らく状況を察したのだろう。わざとらしく、あっけらかんとした口調でこう言った。
「あ、ひょっとしてアレ見ちゃった?」
 私は、何も言葉が出てこなかった。
「びっくりした? ......よね、そりゃ」
 固まっている私を見て、彼女は溜息を吐いた。かと思うと、突然、一人で意を決したように白状したのだった。
「二週間前に川口くんが残していったの。そう、高校の時に私がすごく好きだった、あの川口くん。ううん、電車で偶然に会っただけよ。一人暮らしを始めたことを話したら、『じゃあ、ちょっと遊びに行っても良い?』って、そのままここに来たのよ。その夜、結局ここに泊まっていったの」
 カズミには、悪意もなければ反省もなかった。それはとても純真な眼だった。そんな純真さで、彼女はどうしてそんなことをしてしまったのだろう。
「最近ね、カレとうまく行ってなかったの。一人暮らしを始めたのも、そのためだったの。少しは良くなるかなと思って引っ越したんだけど、もうダメみたい。誰も待っていない部屋に帰るのって、寂しいじゃない? 一人暮らしなんて初めてだもの。慣れてないのよ、こういう寂しさって。そこに、川口くんが来てくれたんだよ。嬉しかった。温かかった」
 解る。その気持ちは、痛いくらい解るけれど。それでも私は、彼女の行動の真意を量りかねていた。
「それでね、次の日また、誰もいない部屋に帰ったわけよ。そうしたらね、ゴミ箱の中から聞こえたの。『お帰り』って。本当に聞こえたのよ。何かと思って見てみたら、死にかけてた生命のタネがそこにあったの。救いに思えたわ。ああ、一人じゃないんだって」
 ああ、そうか。私は妙に納得していた。それが、この部屋の殺風景さの原因だったのだ。人の匂いがしないのも当たり前だ。
 彼女は頭の中だけで生きている。最低限の、食事とかトイレとかを除けば、彼女は精神世界でしか生きていないのだ。一人の部屋。「お帰り」の声。そこから始まる音にはならない会話の数々。体外に放出された精子が、次の夕方まで生きているはずもないのに、彼女はそれを知らずに物語を紡ぐ。
「川口くんって、カッコイイし頭も良くって、学校中の人気者だったよね。あんなに素敵な人のタネだもの、この子たち、すごく可愛い子供に生まれる資格だってあったのよ。それなのに、ゴミ箱の中で死んじゃうなんて、可哀相すぎるよ。だから、私が一緒に暮らしてあげようと思ったの」
 私は、それ以上彼女の話を聞いていて良いのか悪いのか分からずに、ただグラスの中の酒を少しずつ飲み、煙草を吸っていた。相槌は精一杯打ったけれど、きちんとした言葉は出てこない。
「やだなあ、もう。そんな目で見ないでってば。そりゃあ、確かにちょっと変態染みてるとは思う。だけど、誰にも迷惑なんかかけてないからね。これで寂しさが癒せるんだから、私は川口くんに感謝してるんだ」
 それからは、ほんの少し普通の雑談をしたけれど、やはり私は相槌を打つばかりだった。少しの時間をおいて、私がようやく言えたのは「そろそろ帰ろうかな」というだけだった。

「また来てよね」
 私はカズミに送られて改札をくぐった。心の中のものをあらいざらい喋ってしまったせいだろうか、彼女は心を軽くしたような表情で、私が階段を上って見えなくなってしまうまで、いつまでも笑顔で手を振っていた。
 私はカズミが現実的に抱え込まなければならないはずの心の重さを引き受けて、重い足取りでホームへの階段を上る。彼女の親友でいることは、とてもハードなことなのだ。
 アレを、忘れられない男の形見として未だに捨てられずに持っている、というのならば、まだ話は分かっただろう。だけど、カズミは違う。
 彼女は今、死んだ多くの生命の種と同棲しているのだ。私を見送った彼女は、またあの部屋へ帰り、幻の「お帰り」の声を聞く。きっと彼女は宙に向かって微笑むだろう、「ただいま」と言いながら。
「またそのうち電話するね」
 彼女は最後にそう言った。
 男のことでウダウダと悩んで、真夜中に携帯電話を鳴らすカズミに、早く戻って欲しいと思った。そりゃあ、多少は迷惑だ。けれど、それぐらいはもう何年も許してきたのだから。
 そんなことを思いながら、私は下りの電車に乗り込んだ。



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