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東京のイチゴ

(この作品は加筆修正のうえ自主制作本にも収録しております。)

 彼女のツメは、とてもキレイなオフホワイトに塗られていた。どこか懐かしさを覚えるような、あたたかい色合い。わたしは、トロリとしたコンデンスミルク を連想した。美味しそうな、甘い液体。これを、イチゴの上にたっぷりとかけて、食べる。イチゴは大粒のもので、程良く甘くて、程良く酸っぱくて、程良く赤 いモノだったら、最高。
 なんて美味しい発想。自分の考えに唾を飲み込んだ、その瞬間。
「あのさぁ」
 という声がして、わたしはハッと我に返った。
「オレの存在、忘れてたでしょ?」
 狭いテーブルの向こう側。放ったらかしにされたコバヤシは憮然とした表情をして、お通しとして出てきたピーナッツの殻を粉々にし、テーブルの上を散らかしている。
「ごめんごめん。忘れてたワケじゃないんだけど」
 わたしは笑ってごまかして、それからおしぼりでテーブルを拭いて、そのおしぼりを灰皿の上でパタパタと叩いた。細かく砕かれたピーナッツの殻がおしぼりからハラハラと落ちる。
「おまえ、失礼だよ。せっかく俺がオゴってやるって言ってるのに」
 コバヤシは、口をとがらせて言った。

 わたしは今日、ハタチになった。そして、生まれて初めて、誕生日の夜を男の子と二人で過ごしている。
 二人で過ごすと言ったって、わたしとコバヤシは特別な関係でも何でもなくて、いわゆるただのクラスメイトだ。たまたま今日の四限の授業が一緒で、たまた ま隣の席になって、たまたま今日がわたしの誕生日なのだという話になって、それじゃあお祝いしてやるよという話になったので、たまたまこうして飲んでい る。池袋の東口からそれほど遠くない安っぽい居酒屋で、安価な生ビールを二人で飲んでいる。ただそれだけだ。
 コバヤシは気の利いたプレゼントなど用意してくれてはいないけれど、そのほうがいい。ハタチの仰々しいお祝いなら、成人式にでもすればいいのだから。二 人のパーティーはわたしの義務でも彼の義務でもなく、ただおめでたいのだから祝おうという単純明快さが、なぜか妙に嬉しい。
 だけど、ハタチの誕生日といえば、法的にも大人だと認められる。それ以上に、わたしの中ではたぶん重要な節目になるという予感がある。浪人して、やっと 大学生になったところだし、これからの私の人生、いろいろなことが起きていくに違いない。ハタチになる、ということは、そのきっかけだ。
 そんな大切な日に一緒に飲む人を、わたしだって選ばないわけではない。大学に入学して二ヶ月、コバヤシと同じ時期に新しく友達になった人は、たくさんい る。その中で、私は彼を選んだ。彼だから、今日が自分の誕生日であることを伝えた。そこにほんの少しも期待がなかったと言えば、嘘になる。
 ハタチにもなって恥ずかしいけれど、わたしは男の人を知らない。もっと単純な言葉を使うと、つまり処女。カラダの話だけじゃない。ココロのほうも。
 ちょっとした恋心くらい、抱いたことがないわけじゃない。コバヤシに限らず、男友達というものなら周りにたくさんいる。どれも、悲しいくらい強い友情で 結ばれているような気がする。だから正直なところ、周りの女の子が騒いでいるような、恋をするときの気持ちが理解できない。たぶん恋愛のなんたるかさえ、 わかっていないのだろう。
 一年間の浪人生活を経て、ようやく第一志望の大学に入学し、そしてわたしはハタチになった。そろそろ恋愛のひとつぐらい経験しておいてもいいんじゃないかと思う。
 そんなとき、いちばん近くにある友情のひとつを選ぶのは、それほど的はずれではない。たぶん。

 例のコンデンスミルクをツメに塗ったオネエサンは、わたしたちの隣のテーブルで、驚異的な早さで水割りを飲んでいた。きっと飲み放題コースなのだろうけ れど、とにかくわたしが一杯のジョッキを空ける時間に水割りを五杯は注文していた。大人として成長期のわたしはやっとビールの美味しさがわかりかけてきた くらいで、ウイスキーなんて飲んだこともない。ああやってぐびぐびと飲み干すものなのだろうか。よくわからないけれど、すごい。
 オネエサンの連れは二十代前半の男の人だ。口元がだらしないので、ちょっと頭が悪そうに見える。オネエサンは水割りを飲み干しながら、時々この男と目を 合わせて、とろけそうな微笑みを交わし合っている。あんなにキレイな女性が、どうして頭の悪そうな冴えない男にとろけそうになってしまうのだろう。やはり 恋愛はむずかしい。
 わたしが隣のテーブルに気を取られているので、コバヤシはまたいじけて、牛タンの塩焼きを箸でつついたり裏返しにしたりと、意味のない遊びを繰り返して いた。仲間はずれにされた子供が一人、公園の砂場で何にもならないような穴を掘っているときのような表情。つまり、彼は拗ねている。人の感情の機微に鈍感 だと言われがちなわたしにもちゃんとわかるやり方で、へそを曲げている。わたしは彼のこういうところが、とても好きだ。
 だから、隣のテーブルのことは忘れて、わたしはコバヤシに向き直ることにした。この人と一緒にいる時間を、もっと楽しみたい。
 コバヤシの話は、気軽で面白い。授業の合間にする会話も、昼休みの学食でする会話も。いつも、気がつけば彼のペースに乗せられていて、かなりの時間が 経っている。今夜も、いつもと同じ面白さ。だけど、いつもとちょっと違う。なぜならわたしは酔っている。ただそれだけで世界は変わって見える。
 コバヤシだったら。
 彼になら抱かれてもいいかもしれない。
 わたしがフワリとそんなふうに思ったのとほとんど同じ瞬間に、空気が動いた。

「お客さま、困ります。当店では、飲み放題は二時間までということになっておりまして、すべてのお客様に守っていただいているのです。申し訳ございません」
 本当に困った顔をした店員さんが、隣のコンデンスミルクのオネエサンに頭を下げている。
「なぁに、いいじゃないの、一杯ぐらい」
 上機嫌のオネエサンは、店員さんの袖を握りしめて離さない。店員さんは、たぶんわたしたちと同じくらいの歳の学生アルバイトだ。オネエサンが騒いでいるおかげで、店内ではちょっとした注目を浴びてしまって、顔を真っ赤にしている。
「ね、お兄さんのサービスで、もう一杯、ちょうだい」
 オネエサンは上目遣いで店員さんを見つめた。心なしか、店員さんの顔はさっきより赤くなったように見えた。少し俯いて、笑っているのか怒っているのか、それとも泣いているのか全くわからない中途半端な表情でしばらく黙っていたけれど、やがて顔を起こして言った。
「わかりました。ここはボクがサービスします。だけど、本当にこれで最後にしてくださいよ」
 とても小さな声で、オネエサンの髪に唇が触れてしまいそうなくらいの至近距離で、店員さんはオネエサンに伝えた。なんだかすごくドキドキした。
「あのヒト、ちゃんと家に帰れるのかな」
 わたしと一緒にその一部始終を見ていたコバヤシが、隣の席には届かないような小さな声で言った。オネエサンをアゴで指して。わたしは、さあ、という仕草で返事をした。
「たぶんこのままそこらへんのホテルに泊まって、あの男に食われるんだろうなあ」
 わたしはコバヤシの顔をチラッと見た。彼はニヤニヤと笑っている。まるでわたしを試すように。わたしはさっき自分が考えたことを反芻して、恥ずかしく なった。そこらへんのホテル。南池袋のあたりに、そういうホテルがいくつかあるのは知っている。こんな場所で、コバヤシになら抱かれてもいいと思ってしま うなんて。
「あんな男、あのキレイなオネエサンには似合わないと思う」
 隣のテーブルに聞こえないようにしたけれど、思わず強い口調になる。コバヤシはますます面白そうに突っかかって来る。
「お似合いじゃなくても、知り合ったばかりでも、ヤることはヤれるんだぜ」
 いたずらな目で顔を覗き込まれて、わたしの顔はかあっと熱くなった。この人はきっと、わたしの考えを見透かしてこんなことを言っているのだ。わたしは恥 ずかしくて、何も言い返せなくて、とにかくこの状況を抜け出したいと強く願った。と思ったら、自分でも無意識のうちにドスンと大きな音を立てて強くテーブ ルを叩き、その場で立ち上がっていたのだった。
 予想以上に大きな音が鳴ったので自分でも驚いたけれど、もう引っ込みのつかない状態だった。他のお客さんもわたしたちに注目している。笑ってごまかすわ けにもいかなくなって、わたしはコバヤシに挨拶もせず、店を出ようとした。例のオネエサンの声がそこに響き渡ったのは、その次の瞬間だった。
「あーあ、怒らせてるぅ」
 それがあまりに目立つ声だったので、余計にみんながわたしの次の動きに注目した。オネエサンも、店員さんも、他のお客さんも、みんな。わたしの次の行動 を期待して待っている。好奇の視線。わたしは微動もできずに、その場に立ちすくんでしまった。そして少しの沈黙のあと、オネエサンがコバヤシに向かって、 もう一声かけた。
「こんなにカワイイ女の子、怒らせちゃダメよぉ」
 カワイイ女の子。その言葉に、ますますみんなの視線がわたしに集まる。たぶん、どこがカワイイのだろうと、疑問に思っているに違いない。だって、わたし はカワイイと言われるタイプの女の子じゃない。しかも、わたしをカワイイと言った張本人は、いくら泥酔していても文句なしの美人だ。どう解釈すればいいん だろう。わたしは、どうしたらいいんだろう。
 わたしはオネエサンのほうを振り返った。彼女はニコニコしながらわたしのことを見つめている。わたしのほうも、無遠慮なくらいに彼女の顔を見つめた。そ のまま空気が固まったみたいになって、わたしたちの視線は少なくとも三十秒は絡み合っていたと思う。気が付いたらこんな言葉が口をついて出ていた。
「わたしと一緒に帰りませんか?」
 オネエサンはきょとんとした。あまりの唐突さが自分でも恥ずかしかった。これはお酒のせいだ。その場の雰囲気のせいだ。そう思いこんで、さっきのセリフを撤回するか、黙って逃げ出すか、そういう選択も考えた。けれど、決断できないまま立ち止まること数秒。
 突如オネエサンは目をきらきらさせて、黒いハンドバックを右手にわたしの目の前に立った。そして、
「うん、帰るぅ」
 と言ってわたしの手を取り、そのまま駆け足で店の出口に向かった。
「え、あの......」
 わたしは訳のわからないまま、とにかくついていこうと決めた。ちらっと振り返ると、コバヤシとオネエサンの連れが互いに顔を合わせているのが見えた。二人とも呆然としていて、ちょっと面白い。と思っていたら、二人して椅子から立ち上がったのが見えた。
 追いかけて来る。そう思った瞬間、引っ張られていたはずのわたしが、逆にオネエサンを先導して走り始めていた。何が何だかわからないけれど、それが逆に私を引っ張っていた。このオネエサンを捕まえたまま、とにかく逃げ切ろう。
 ビルの三階にあったその店から階段で一階まで駆け下りたところで、オネエサンは急に失速した。どうしたのかと思っていると、彼女は突然大きな声で訴えた。
「いやぁ。走れない」
 そう叫んだきり、彼女は地面にしゃがみ込んで動かなくなった。店の中で見たときよりも蒼白い顔。そして、かろうじて聞き取れるくらいの弱々しい声で、「吐きそう」と言った。
「え? ちょっと......」
 わたしは慌てた。こんなに飲んだ人の相手などしたことがない。急性アルコール中毒で死んだ人の話を、大学の入学式で聞かされたばかりだ。このオネエサンもかなり飲んでいたし、やっぱり救急車を呼ぶべきだろうか。
 わたしが悩んで立ちすくんでいたところ、二人の男たちが追いかけてきた。
「どうしよう、このオネエサン、様子がヘンなんだけど」
 逃げているという立場も忘れて、というか、緊急事態なので忘れることにして、とりあえず近くの公園にオネエサンを運んでもらった。オネエサンは運んでも らっている最中も何度か意味不明の言葉を発して逃げ出そうとしていたけれど、とても一人では立っていられない状況だったので、結局は公園まで連行されて、 到着した途端、植え込みに向かって吐いた。それからわたしたちは、オネエサンを公園のベンチに寝かせて、そこでようやく一息ついた。
 オネエサンの連れが、取り出した煙草に火を点けて一息喫って吐いたところで、わたしは謝った。
「あの、すみませんでした」
「ああ、いいよ。よくあることだから」
「そうなんですか。わたし、こういうの初めてだし、急性アルコール中毒だったらどうしようなんて思ってたんですけど」
 連れの人は少しあきれたように、だけど面白がっている顔で笑った。罵倒されたらどうしようと思っていたから、笑ってくれてとりあえずよかった。わたしがそう思って胸をなで下ろすのとほぼ同時に、コバヤシが後ろからわたしの頭を小突いてきた。
「オマエなぁ」
 やや低い声で怒ったように言うので、怒られるのかと思って身構えたら、次の瞬間、彼はニヤリと笑って言った。
「ハタチになって早々、なにバカなことやってんだよ」
 コバヤシとまともに目が合って、わたしは照れ笑いするしかなかった。
「ホント。何やってるんだろう」
 彼はぽんぽんとわたしの肩を叩きながら、「バーカ」と言って笑った。非日常的な夜を楽しんでいるような顔。わたしもそこでようやく安心して、声を上げて 笑った。笑いながらふと見上げたところに、公園の時計がある。見ると、十一時半を回っていた。慌てて自分の腕時計も見てみたけれど、やっぱり同じ時刻だっ た。
「どうしよう。帰れない」
 わたしの家は千葉市のはずれで、千葉駅からさらに内房線に乗って五つ目の駅になる。千葉駅から先の電車に乗るためのタイムリミットは、池袋発、十時五十分。どう頑張っても最終の電車に間に合わない。
「どうするんだよ」
 コバヤシがそう言って、ちらりとわたしの背後を見た。何だろうと思って見てみると、公園の柵の向こうには、ラブホテルのネオンがキラキラしている。
「バカ、何考えてるの」
「別に何も考えてねえよ」
「だって、今あそこらへん見てたでしょ」
「偶然だって。気のせい、気のせい」
 よく見ると、この周りにはそういうホテルがいくつも建っていて、この公園にはそれを意識したカップルが何組も佇んでいた。そりゃ、一瞬は抱かれてもいいと思ったけれど、こんな状況で仕方なく一緒に夜を過ごすのは不本意すぎる。
 そんなこんなと言い合っているわたしとコバヤシの間にオネエサンの連れが入って、仲裁してくれた。
「まあまあ。それだったら、カナコのうちに泊まっていけば?」
 助け船が入ってホッとしつつ、また知らない名前を聞いて、わたしは混乱した。
「カナコさんって?」
「この人」
 連れの人はベンチの上に横たわるオネエサンを指さした。ああそうか、この人がカナコさんか。
「この人は練馬に住んでるから、まだ電車も間に合うし、駅からも近くて便利だよ。オレも彼女を送って行ったら帰れなくなるから一緒に行くし、ゆっくり眠れるよ」
 この連れの人は実はとても親切なので、第一印象で頭の悪そうな人などと思ってしまったことを心の中で謝って、それからお世話になることに決めた。
「キミもどう?」
 連れの人はコバヤシのことも誘った。コバヤシは、まだ自分は帰れるけれど、あまり遅いのも面倒だからと言って、一緒に泊まることになった。
 無断外泊は、生まれて初めてだ。しかも初対面の人の家に泊まるなんて、今まで考えたこともなかった。期待していたものとはちょっと違うような気もするけれど、生まれて初めての体験をたくさん済ませることは、わたしのハタチとしての初めての課題なのかもしれない。

 目を覚まして時計を見ると、まだ朝の七時だった。頭がグラグラとして、中のほうから痛みが押し寄せる。そういえば、昨日はかなり飲んだような気がする。これが俗に言う二日酔いというものなのだろうか。大人って大変。
 東側に大きな窓があるらしく、陽射しが無遠慮に入り込んで来る。このまぶしさのせいで目が覚めてしまったのだと気が付いて、私は太陽に腹を立てた。黄色とオレンジで彩られたチェックのカーテンを通した朝の光が悠長すぎるくらいにきれいだったので、よけい頭に来た。
 よく覚えていないけれど、昨夜はたぶん、ここに着いてすぐに眠ってしまったのだろう。わたしの隣にはコバヤシが寝ている。彼の向こうにはカナコさんが、 連れの人はされにその向こうで、小さくなって眠っていた。ハタチになって初めての睡眠がこんな雑魚寝となってしまっていたことに気が付いて、わたしは少し ばかり情けなく、大きなため息をひとつした。
「あ、オマエ起きてたの?」
 わたしのため息に反応して、コバヤシが突然振り返った。私はびっくりして、思わず顔を赤らめてしまった。彼の頭には少し寝グセが付いている。たぶん、わ たしだって寝起きのみっともない顔だ。髪型だけ急いで手櫛で直してみた。そんなわたしの動揺に気が付かないのか、コバヤシはさも何気なく布団から這い出 て、ジーパンの後ろポケットから潰れた煙草の箱を取り出し、そこから格好悪く曲がった一本を抜いて、水色の百円ライターで火を点けた。憎たらしいくらいさ りげなく。
 それからわたしたちは、どうでもいいようなことをボソボソと話した。二限の語学がかったるいとか、今日の昼は学食でカツカレーが食べたいとか、練馬から だったら学校まで三十分足らずで行くことができるとか、早く夏休みにならないかとか、でもその前にテストがあるとか。そうして、三十分ほど経った頃だと思 う。カナコさんがノソノソと頭を上げた。
「起こしちゃったかな」
 わたしがコバヤシに小さく言った直後、カナコさんはわたしの顔とコバヤシの顔を交互に三回ずつ凝視して、それから不思議そうな顔をした。
「悪いけど」
 カナコさんはそう言って顔をしかめた。しかも、彼女の低くかすれた声は、少し迫力があって怖い。やっぱりわたしたちの話し声が、彼女の安眠妨害をしてし まったのだ。追い出されるだろうか。せっかく出会ったきれいなオネエサンなのに、家にまで泊めてもらったのに、これ以上仲良くなれないで終わってしまうの は寂しい気がした。けれど、何といわれても仕方がない。わたしは覚悟を決めて、ゴクンと唾を飲んだ。
 だけど、カナコさんの次の言葉は予想とは違っていた。というより、予想よりずっと悪かった。
「本当に悪いとは思うんだけど、アンタたちいったい誰? なんであたしの家にいるの?」
 わたしは彼女の言葉をゆっくりと咀嚼した結果、がっくりと脱力した。コバヤシの顔を覗き込んでみたら、彼は飄々とした顔で二本目のぐにゃりとした煙草に 火を点けているところだった。それから、落ち着き払った様子でひとくち美味しそうに喫ってから、淡々とカナコさんに言った。
「忘れないでよ、オレたち、見知らぬアンタを介抱してやったんだよ」
 それは、わたしの知らないコバヤシの表情だった。大人びている、という言葉がいちばん適していると思う。わたしはその横で、自分の言葉すら見つけられず にモジモジしていた。カナコさんもカナコさんで、ああそうだったの、ありがとう、などと慣れた感じでつぶやいたかと思うと、元気良く布団から飛び起きて、 朝一番のトイレに行ってしまった。
 そのあと、わたしは、カナコさんにひととおり自己紹介をした。
「えーと。わたし、水口友紀です」
「そう。じゃあユキって呼ぶわ。あたしは、昨日教えたかもしんないけど、カナコ」
 フレンドリーなカナコさんのその態度は嬉しかったけれど、そろそろ学校に行かなければとコバヤシに言われて、わたしは仕方なく退散することにした。
「それじゃあ、泊めてもらってありがとうございました」
 わたしが挨拶すると、カナコさんは残念そうな顔をして言った。
「連絡先だけ、教えてよ。また遊びに来て欲しいから」
 わたしは慌てて携帯の番号を教えた。カナコさんは、名前と携帯番号しか入っていない名刺をくれた。赤いギンガムチェックの縁取りで、キティちゃんの絵が入っていた。

 携帯にカナコさんからの電話が入ったのは、その二日後だった。
「今度飲みに行こうよ」
「本当ですか? 行きます」
 カナコさんの口調は、とても好意的だ。どうしてだかわからないけれど、彼女はわたしを気に入ったようだった。わたしも、そのことでドキドキソワソワとしている。なんだか不思議な感じ。
「そう、この前のお礼もしたいし」
「お礼なんて。わたしのほうが泊めてもらっちゃったのに」
「だって、介抱してくれたんでしょ」
「ええ、まあ」
 介抱したのはコバヤシと連れの男の人であって、私は何もできずにオロオロしていたのだけれど、それは言わないでおこう。
「それに、ゆっくり話をしてみたいし。ユキってなんだかカワイイんだもん」
「そんな。......全然そんなことないです」
「そういうところがカワイイの」
 ドキドキした。前に彼女がわたしのことをカワイイと言ったのは泥酔していたときだったから、きっと言葉のアヤかなにかでそう言ったのだと思っていたけれど、違うみたいだ。カワイイという言葉の捉え方が違うのかもしれないけれど、どういう意味にせよ褒め言葉には違いない。
「それじゃどこで待ち合わせる? ユキってどこに住んでるの?」
「また池袋でいいですよ。わたし、家は遠いけど、学校はそっちですから」
「ふうん、遠いって、どこ?」
「えーと、千葉のほうです」
 言いたくなかったな、と思いながら、わたしは渋々言った。昔は、東京の隣にある千葉をそこそこの都会だと思っていたけれど、大学に通って初めて田舎だと 認識するようになった。カナコさんに田舎者だと思われるのは、恥ずかしいことだった。だけど、カナコさんは何の感慨もなさそうに、「ふーん、そう」と言っ ただけだった。
 結局、わたしとカナコさんが再会を果たすことになったのは、次の金曜日の夕方になった。場所は、この前会ったあの店と同じ場所を選んだ。わたしも場所にはこだわらない。カナコさんと二人で飲むということ、それ自体が重要な気がするから。
「ここは安いから、楽しくたくさん食べたり飲んだりしたいときには、よく来るの」
 そう言ってわたしを案内したカナコさんの言葉に、間違いはなかった。豪快に飲む。そして、よく食べる。カナコさんはガリガリに痩せているわけではないけ れど、やはりその飲み食いする量は、身体からは想像ができないくらいだった。彼女のように飲む人は、わたしの周りにはいなかったと思う。わたしは法的に やっと大人と認められたばかりで、遊びもそれほど知らないし、お酒の飲み方だってよくわかっていないけれど、カナコさんの飲みっぷりには見ているだけでと ても楽しくなった。
 正直なところ、緊張していた初めの三十分は、何を話したのかも覚えていないけれど、次第にカナコさんのペースに乗せられて、わたしはグイグイと初めての水割りを飲んでいた。ビールよりもずっと飲みやすいような気がした。
 会話もかなり盛り上がった。というのは、後になってカナコさんから聞いた話で、わたしには何の記憶も残っていなかった。気が付いたときにはもう朝が来ていて、わたしはまたカナコさんのマンションで寝ていたのだった。
「ユキ、昨日はすごかったよ。さすが、あたしが見込んだ子だわ」
 カナコさんは楽しそうにそう言うけれど、わたしが何をしたのか、何を話したのか、聞いても一向に教えてくれない。とりあえずわたしは、昨日のままちゃんと服を着ていることを確認して、ホッとしてみたりした。
 起き抜けの紅茶を淹れてもらって飲んでいると、カナコさんは突然思い出したように立ち上がって、洗面所のほうに行った。何だろうと思って見ていたら、彼女は棚から新しい白い歯ブラシを一本おろしてきて、それに黒のマジックで『YUKI』と書いた。
「よかったら、いつでも泊まりにおいでよ。家、遠いんでしょう?」
 わたしは頷きながら歯ブラシを受け取って、それをまじまじと見た。何の変哲もない普通の歯ブラシだ。だけど、わたしが普段家で使っているものとはまった く違う意味を持っているように思えた。わたしの生活の一部は、もう千葉のあの家だけでは回転しなくなってしまっている。たぶん、東京という街の中に、溶け 込み始めているのだ。それを象徴するのが、この白い小さな生活必需品。
「いいなぁ。わたしもこういうところで生活したい」
 思わずつぶやくと、カナコさんは身を乗り出して、こう言った。
「一緒に住もうか、ここで」
「えっ?」
「家賃は月二万ぐらい入れてくれればいいから。あたしは夜バイトしてて、夜中の三時過ぎないと帰らないし、一人暮らしみたいに気楽に暮らせると思うよ」
「本当に、いいの?」
 憧れていた東京での一人暮らし。カナコさんの言葉は甘い誘惑だ。この部屋は、練馬という立地条件もあるのだろうけれど、一人暮らしにしてはとても広く て、何一つ不自由はなさそうだった。それに何より、カナコさんのような人との共同生活には、田舎では想像の付かないような面白いことがあるに違いない。わ たしを大人にさせてくれる刺激のようなものが。
「実は今、五十万くらい借金があるの。早く返そうと思うと、ちょっと生活がきつくて。もっと安いところに引っ越したくても先立つものがないし、ちょうど一 緒に住んでくれる人を探していたところなのよ。ユキならきっと気が合うし、信頼できそうだし、一緒にいて楽しいから。考えておいてよ」
 とても嬉しいけれど、たぶん現実問題としては難しいだろうな。そう思って、話半分に聞いておいた。家を出て東京で暮らすなんて、両親が黙って認めるわけ がない。しかも、こんなに派手なオネエサンと一緒に暮らすとなったら、父などは卒倒してしまいそうだ。だいたい、わたしが遠距離通学をしなければいけない のも、ハタチの誕生日まで男の子とデートらしきものをしたことがないのも、すべてはあの両親が原因だ。いわゆる箱入り娘。中流階級のくせしてお嬢様みたい に育てようなんて、そもそもが間違っている。だけど、学費を払ってもらっている立場上、何を言っても向こうが優位なのは仕方なく、わたしは今もこんな場所 にいる。抜け出したいのに。
 学校でコバヤシと会ったときに、カナコさんと一緒に暮らす計画もあるのだということを報告した。彼は、面白そうだなと言いながら少し笑ったあとで、ふと真面目な顔になって言った。
「でも、たぶんオマエには刺激が強すぎて、一週間も持たないと思うよ」
「何よそれ」
 コバヤシの言葉は、理解できるような気もするし、理解の範囲を超えている気もする。刺激は、たぶんあるに違いない。だけど、いったいどんなことがわたしにとっての強すぎる刺激になるのだろう。とても好奇心をそそられた。
 わたしがボストンバッグに荷物を詰めて家を出たのは、その二週間後だった。好奇心のせいではない。そもそも、これは計画的な行動ですらなかったのだから。

 その日、わたしはラッキーなことに三限までがすべて休講で、そのあとの四限は出席をとらない講義だったので、自主休校することにしていた。元々そのつも りだったから、前夜はベッドの中に電話を持ち込んで、クラスメイトのトモコと空が明るくなる時間まで、くだらないけれどとても楽しい長電話をしていた。当 然、明日は昼までゆっくり眠ろうと思っていた。
 母がいつものとおり、六時四十五分にわたしを起こしにに来た。「今日は学校が休みだから」と、わたしがもう少し寝かせてくれるよう訴えると、母はすぐに 出ていった。それからわたしはゆっくりと眠りの世界へ入っていこうとしていた。夢と現実の真ん中ぐらいでふわふわと漂っているのは、とても気持ち良い。ふ わふわしながら何分ぐらい経ったのかわからないけれど、とにかくいちばん気持ち良かったその瞬間に、雷は突然落ちてきた。
「いい加減にしろっ」
 ものすごい剣幕で父がわたしの部屋に乗り込んできた。いい加減にしろも何も、いったい何のことだかわからない。
「何度起こしたらわかるんだ。今起きなかったら、飯は食わさんぞ」
 まだ起こされたのは二度目だけど、と反論しようと思ったけれど、とにかく安眠していたいので、
「ゴハンいらない」
 と言った。空腹なわけでもないわたしを起こすのに、飯をエサにする(そのまんまだけど)なんて、鬱陶しい。しかし、父はそんなことで揺るがない。
「ふざけるなっ。親の臑をかじっている身分が贅沢を言うな。起きろ」
 父はそう言うなり、突然わたしの掛布団を剥がしにかかった。運悪く、わたしは頭まで布団をかぶっていたので、布団と一緒に髪の毛まで引っ張られた。
「触んないでよっ」
 思わず大きな声が出てしまって、自分でも驚いた。頭で考えるよりも早く口を付いて出た言葉が、まるで父の手を汚らわしく思っているようなセリフだったのだ。痛いとか、止めてとか、そういう言葉はいくらでもあったはずなのに。
「それが親に対する態度かっ」
 父はそう言うと、そのまま部屋を出ていった。これ以上起こされる心配はなくなったけれど、わたしの目は完全に覚めてしまった。最悪の朝。
 仕方なく食卓に行ったけれど、わたしの食べるものが残っているわけではなかった。きれいに片づけられた食卓で、わたしが腑に落ちないままコーヒーを飲んでいるところに母が来て、慰めるような口調で言った。
「お父さんは、ユキと一緒にご飯を食べたいだけなのよ。あなた最近帰るのが遅くて、夜は外で食べて来ちゃうことも多いし、朝ぐらいしか一緒に食べられないでしょう」
 母の偽善っぷりも癇に障る。この人は、このまえ無断外泊したときもわたしには何も言わなかった。けれど、父にいちいち報告して、わたしに注意させてい る。この両親とだって、もう二十年の付き合いになるわけだから、裏でどんなふうに動いているかということくらいわかる。ついでに言えば、今日父の機嫌が特 に悪かったのも、母が原因なのだ。
 だいたい、一緒にご飯を食べたいなんてよく言えたものだ。わたしは遠距離通学だから、週に二回、一限から授業があるときには朝六時半には家を出なければ いけない。そのとき一緒に食べるどころか、ご飯を作ってくれる人さえもいないのだ。外で夕食をとらずにまっすぐ帰ったとしても、家に着くのが九時を過ぎる こともある。そのときは外で食べてきたものと見なされて、私の食べるものはない。私が外で夕食を食べるようになったのはそれが原因なのに、何もわかってい ない。だいたい私だけでなく弟だって、高校に入って部活を始めてから、朝は早いし帰りは遅くなっている。家族の団欒なんて願っても実質的に無理なのだ。
 どうしてこんな思いをしてまで、学校に行かなければならないのか。どうしてこんな思いをしてまで、家に帰らなければいけないのか。どうして、無理しなければ成り立たないのか。
 本当は、無理してこんな生活をする必要なんて、どこにもない。
 カナコさんの顔が思い浮かんで、わたしは大きな鞄に荷物を詰め込み始めた。もう、こんな場所にはいられないのだ。

 夕方、大荷物をもってカナコさんの家を訪れると、カナコさんはちょうど夜のバイトに行くところだった。
「家、出てきちゃったの?」
 彼女はわたしを見るとそう言って、とても嬉しそうににっこりとした。
「うん」
「電話ぐらいしてくれたら、今日のバイト、キャンセルして待ってたのに」
「いいよ。お金、稼がないといけないんでしょう」
「そうなんだけど。それじゃ、わたしは出掛けるから、適当にやってて。今日から自分の家だと思って使っていいからね」
 カナコさんはそう言い残すと、わたしに部屋の鍵を預けてさっさと出掛けてしまった。あまりにもあっさりと家出が成立して、少し気が抜けた。
 カナコさんの夜のバイトって、いったいどんな仕事なんだろう。いわゆる水商売だとは思うけれど、そういう世界をこの目で見たことはないから、具体的に想 像ができない。わたしはカナコさんの仕事についていろいろ想像しながら、一人で勝手にテレビを見たり、お茶を飲んだり、コンビニでお弁当を買ってきて食べ たりしてみた。けれど、それも済んでしまうとすることがなくなって、暇つぶしにコバヤシに電話でもしてみることにした。
「家出したの」
 簡単に報告すると、コバヤシは少し鼻で笑って、「そうなの?」とだけ言った。
「もうちょっと、何か言葉をかけてくれないかなぁ」
 わたしは何となくもどかしくなって言った。けれど考えてみたら、自分から電話をかけておいて相手に言葉を求めるなんて、おかしいかもしれない。いっその こと、わたしのワガママに怒ってくれたりでもすれば面白いのに。だけど、コバヤシは大人ぶっているから怒ったりはしない。
「どうせ携帯の番号とか、親は知ってるんだろ?」
「そりゃ、そうだけど」
「すぐに連れ戻されるんじゃない?」
「帰らないもん」
「そういうのを、プチ家出っていうんだよ」
 コバヤシがそう言ってからかったから、少しだけ笑えた。笑うって、一人でいてもできないことなんだと、初めて思った。
「今どこにいるの?」
「カナコさんの部屋にいる」
「本当にあの人と一緒に住むつもり?」
「うん、しばらくは」
「じゃあ、なんでオレに電話するの? オレの助けなんか、必要ないじゃん」
「別に、助けなんて求めてないよ」
 そう言ってみてから、突然ココロが騒ぎ出した。欲しいのは助けじゃない。けれど、じゃあ何で電話したのかって言われてもよくわからない。衝動的に、根拠もなく、これは初めてわたしに生まれた感情だった。
 人恋しくて、誰かの温かさに触れたいと願う気持ち。
「ただ、コバヤシの声が、聴きたかったんだもん」
 心の奥から素直に出てきた言葉に、自分としては少しドキドキした。けれどコバヤシは一瞬黙っただけで、すぐに普通の態度に戻って、話し始めた。
「カナコさんは、今いないの?」
「夜のお仕事に行っちゃった」
「ああ、そうか」
「ねえ、聞いてくれる?」
「何?」
「わたしね、夜がこんなに長いのって、初めてかもしれない」
 コバヤシは、鼻で小さく笑った。フッというその音は、とてもあたたかいヒトの息なのだと思った。
「わかった」
「何が?」
「ユキ、オマエさ、今まで一人で寝たことないんだろう?」
 仮にもハタチになったわたしに対して、ずいぶんな言い方だ。
「そんなわけないじゃん。家でだって、一人の部屋で寝てたもん」
 思わずケンカ腰になると、彼はこの話題をさらっと流して、他の話題で煙に巻いた。くだらなくて笑えるような、いつもの感じの軽い会話。結局、バカな話題で三時間も長電話をしてしまって、最後はお互いに疲れて電話を切った。
 それからさらに三時間ほどテレビを見ながらダラダラしてから、私は勝手に布団を借りて寝ることにした。カナコさんの家で寝るのは、三度目。広いと言っても一人暮らし用のこのマンションには、もう慣れたものだ。床も壁も、家具も匂いも。だけど、自分の家じゃない。
 他人の家で、しかもたった一人でこんなに長い時間を過ごしたことなんて、そういえば今までになかった。そう考えたとき、わたしは気付いてしまった。コバヤシの言ったことは、まんざら間違ってもいなかったことに。
 たとえば家で寝るとき、わたしは一人の部屋で、一人のベッドで寝ていた。けれど、隣の部屋には弟がいたし、階下には両親が寝ていた。家にいる限り、誰か の気配は常に感じられた。時々、自宅以外の場所で寝ることだってもちろんあった。けれどそれは、誰かと旅行したときや、誰かの家に泊まるときであって、や はり確実に誰かが一緒だった。コバヤシの言うとおり、わたしは本当に一人で寝たことがなかった。
 だけど、今日からはそうはいかない。わたしは一人で家を出たのだから。この部屋にはカナコさんがいて、わたしは居候の身分だけれど、夜を中心に動き回っ ているカナコさんとは、たぶん時間が合わないことが多い。そうしたら、わたしは今日みたいに、この場所での時間のほとんどを一人で過ごすことになるのだろ う。少し心細いけれど、がんばらなきゃいけない。だって、確実に大人に近づいていく気がするから。
 今日は、大切な一歩を踏み出した記念日なのだ。そう思うと、妙に興奮してしまって、なかなか眠れそうになかった。

 いつの間に寝てしまったのか、気が付いたときには、もう朝になっていた。黄色とオレンジのきれいなカーテンは、現実感がないくらいに美しく、光によって透けている。
 カナコさんは、いつ帰ってきたのか、気が付いたら隣に布団を敷いて寝ていた。酒の匂いも昨日の化粧も落とさないままだったけれど、もう本当に天使かと思 うくらい美しい寝顔をしている。あらためて、カナコさんはきれいな女性である、と認識した。そしてその分、彼女はわたしよりも色々なことを知っていて、色 々な世界を見ているのだろうと思った。嫉妬というか羨望というか、憧れというか恋というか、心がくすぐったいようなどこか締め付けられるような、涙が絞り 出されそうな、すてきなような、いけないような、よくわからないけれど、とにかく複雑に切ない気持ちになった。
 カナコさんの寝顔を横に、わたしは一人で紅茶を入れて飲んだ。テーブルの上に、カナコさんの煙草の箱が置いてあった。ヴァージニアスリムと書かれている グリーンのラインがきれいな箱だ。思わず中を開けて、一本取り出してみた。よくわからないけれど、コバヤシがやっているみたいに、吸いながらライターで火 を点けてみた。火が付いたら、もう一回思い切り吸ってみた。きっと煙くてむせるだろうと思っていたけれど、意外とそんなこともなかった。
「なんだ、あたしにだってできるじゃん」
 独り言など言ってみて、気分はなんとなく悪くはなかった。時計を見ると九時二十分。今から身支度をして出掛ければ、十時四十分からの二限には、じゅうぶ ん間に合う。これが千葉からだったら、もうとっくに電車に乗り込んで、終わりかけのラッシュ(ピークではないとはいえ、混んでいるものは混んでいる)に押 しつぶされている時間。今まで、なんのためにあんなにつらい思いをして、学校までたどり着いていたのだろう。理由があるとすれば、ひとつだけだ。ちょっと 郊外でもいいから、大きめの一戸建てに住んだほうが幸せだという、あの両親のエゴ。だけど、幸せは家の広さなんかじゃ測れないはずだ。
 カナコさんは、わたしが出掛けるまでついに目を覚まさなかった。わたしは一人で静かに身支度をして、外へ出た。そろそろ梅雨の季節だというのに、脳天気 なくらいの晴天で、楽しい気分になってきた。ハタチにもなって、プチ家出などしてしまったわたしのことを、空が笑っているような気になった。もっともっと 笑って欲しい。悲しい気分にならないように。
 駅に向かう途中、家から一分ほどのところに、コンビニがある。昨日お弁当を買ったのもそこだ。ふと通りがかったときにウインドウを見ると、アルバイト募集のポスターが貼ってあった。
 いつまでカナコさんのところにお世話になるかわからないけれど、わたしも生活費ぐらい稼いでおかないといけない。今は二十万ぐらいの貯金があるけれど、 そんなものすぐに食いつぶしてしまうだろう。東京で暮らすということは、東京で消費生活をおこなうことなのだから、東京でお金を得なくちゃいけない。わた しはひとまず、ポスターにある連絡先の電話番号を記憶して、何度も復唱しながら学校に行った。

 店長だと名乗る男は、そろそろ四十代にさしかかるくらいの歳に見える。小柄で、気が弱そうな顔をした人だ。首を締めているネクタイと、妙にかしこまった お辞儀の仕方には、脱サラのイメージがぴったりだ。二三年前までは、本当にサラリーマンをやっていたのではないかと、わたしは想像した。うん、がんばって も課長クラス。
 よほど人手が足りないのか、わたしが学校からアルバイト応募の電話をかけると、夕方の混んでいる時間帯以外ならいつでもいいから、なるべく早く一度来て 欲しいと言われた。わたしのほうも、こういうことは早いに越したことはないと思ったので、その日の三限が終わってすぐ、午後三時半に面接に行くことにし た。
「それで、張り紙に書いてあった、朝六時から九時という時間帯が希望なんですが」
「えっ、朝なの?」
 店長が必要以上に驚いて見せたので、わたしのほうが恐縮してしまった。
「朝の時間帯も、募集なさっていましたよね。もう決まってしまったんですか」
「いや、決まってはいないけど。朝は女の子にはキツイんじゃないかなぁ。キミ、早朝のコンビニなんて暇だと思ってるんだろう? でも、お客さんはたくさん 来るし、品出しとか伝票整理とか、朝にやらなきゃいけない仕事はたくさんあるから、大変なんだよ。女の子ひとりじゃ心配だよ」
「そうですか。でもわたし、以前にもコンビニのバイトをしていたんです。品出しも、伝票チェックもやってました。早起きも得意だし、夜よりも朝のほうが、変なお客さんも少ないだろうから、女でも大丈夫だと思いますが」
 わたしがきっぱり言うと、気の弱そうな店長は、少し怯んだように見えた。
「で、でもさあ、夕方の時間帯だったら同年代のバイトもいるし、友達もできて楽しいと思うよ。仕事も朝に比べてずっと楽だし」
「はあ」
 つまりこの店長は、わたしのことをバカにしているわけだ。わたしはチャラチャラと遊び半分で小遣い稼ぎをしようと思っているわけじゃない。生活がかかっ ているのだ。なんでサラリーマンもろくにできなかったような人(あくまで脱サラと決めつけて悪いけど)に、こんな言われ方をされなきゃいけないんだろう。
 明らかにムッとした顔で、店長のことを睨み据えてしまった。もう採用の見込みはないだろう。せめて言いたいことを言って帰ってしまおうと思って、私は立ち上がった。
「わたしは暇つぶしでバイトしようと思ってる訳じゃありません。朝の時間帯で働けないのでしたら、もう結構ですから」
 それだけ言い切って帰ろうとすると、店長の態度は突然小さくなった。相手が強気だと一気に自信をなくすタイプみたいだ。ひょっとして、店の悪い噂が立て られるとでも思ったのかもしれない。いかにもそういう世間体を気にしそうな店長は、ひどく穏やかな声でわたしの背後から声をかけた。
「いや、そこまで言うなら、ちょっと試しにやってみましょうか」
 調子良く丁寧語に切り替えられているその口調に、私はムッとした。こんな人の下で働くなんて、冗談じゃない。と、頭では考えていたくせに、わたしは気が付いたら頭を下げていた。
「絶対に、ちゃんと働きますので、よろしくお願いします」
 この店長の鼻をあかしてやりたいという衝動だったのかもしれない。とりあえずは、仕事をゲットできてよかった。

 三日も同じ仕事をすれば、バカでもできるようになると思う。わたしは既に、店長の監視なんかなくても一人で立派に仕事を進めることができるようになって いて、店長も安心したのか、店の仕事はわたしに任せきりで奥に引っ込んでしまうようになった。そんなものだ、コンビニの仕事なんて。そして、わたしの価値 なんて。
 でも、わたしはこの仕事が嫌いじゃない。というより、むしろ朝のコンビニは人間観察をしているだけでもじゅうぶん面白い。近所に住む人の顔を見知ってい くことができるし、彼らの生活(の、ほんの一部)を覗き見ることができる。しかもそれ以上深く関わる必要がないから、いろいろな想像を膨らませているうち に、あっという間に勤務時間が終わってしまう。
 たとえば、彼女は推定年齢二十六歳のOLさん。服などは、割といいものを着ているけれど、なんと、毎朝化粧品のテスターでメイクを済ませてゆく。そのあ と必ず牛乳と野菜サンドウィッチを買ってくれるので、なんとなく化粧品についての文句が言いにくい。あそこまで見事にやってのけると、むしろカッコイイよ うな気がするから、不思議だ。
 たとえば、七時直前の毎日きっかり同じ時刻に駆け込んできて、なぜかスポーツ新聞を三誌買ってゆくオヤジがいる。髪の毛はボサボサだけれど、いつも何気 なくセンスのいいネクタイを身につけている。何の仕事をやっている人なのか、どんな奥さんがいるのか、わたしは気になってしょうがない。
 たとえば、むさくるしい髪型と服装で、異様に重そうなショルダーバッグを持った男の子は、その風貌から国立大学目指して二年目の浪人あたりだと予想して いるのだけれど、月・水・金曜日の朝に必ず来て、ボールペンを一本買う。ひょっとして、二日で一本のペンを消費するほど勉強しているのだろうか。まだ夏休 み前だというのに熱心だなぁと、妙に感心してしまう。
 毎朝、犬の散歩のついでに立ち寄って、煙草を一箱だけ買ってゆくオジイチャンもいる。カートンでまとめて買えばいいのに、と思うけれど、もしかしたらこ れが毎日の密かな楽しみなのかもしれない。それにしても、あの歳(たぶん七十代後半はいっている)で一日一箱喫ってしまうのは、身体によくないはずだ。こ のオジイチャンが、ある朝突然ぱったりと来なくなってしまうことを、わたしは密かに心配している。
 何かとよく買い物に来る同い年くらいの男の子もいる。たぶんこの近くで一人暮らしをしている大学生だ。この人が、たまに女の子を連れて来ることがある。 仲良さそうに朝ご飯を一緒に買ってゆくのを見ていると、思わず二人が昨夜何をしていたかなんていうことを想像して、一人でドキドキしてしまう。カナコさん に言わせれば、想像するまでもないことなんだろうけれど。
 そんなカナコさんも上客だ。ここぞとばかりにインスタントのコーンスープとか、レトルトのカレー、あとはポテトチップスとか、アイスクリームなど、食べ 物を中心に、ここぞとばかりに大量に買って行く。たくさん買ってくれたってサービスはできないし、わたしのお給料が増えるわけでもないけれど、とてもあり がたいお客さんだ。
 そんな毎日を過ごしているうちに、わたしはすっかりここでの生活に馴染んでいた。実家のこともめったに思い出さないし、自分が家出をしていることすら忘れているくらいだ。カナコさんのところに来てどのくらい経ったのかさえ、憶えていない。
 朝にひと仕事してから学校に行くと、意外と頭が冴えていたりして、割と気分がいい。二限は漢文学。今までは、午前中なんてまだ眠い時間で、一般教養で仕 方なく取っている授業はどれも教授の話に魅力も感じないし、とりあえず出席だけ取ってもらえれば、あとは何とかなると思って授業を受けていた。けれど、今 のわたしは講義が始まる五分前には教室に入って、ちょっとだけテキストを読んでいる。きちんと読んでみれば、たぶん自分の早さで理解できるからか、教授の 話を聞いているよりも面白いもので、わたしは漢文の読解に夢中になっていた。
 教授が現れたのとほぼ同時にトモコが教室に入ってきて、わたしの隣に座った。
「おはよう」
 気分がよかったので爽やかに挨拶をしたのに、トモコはそれどころじゃないという形相で、わたしの腕をつついて、あくまでも小声で叫んだ。
「ユキ、家出したって本当?」
 あまりの唐突さに少し驚いたけれど、別に隠しているわけでもないので、わたしは頷いた。
「うん、コバヤシにでも聞いたの?」
 トモコは、キッとわたしを睨んだ。
「コバヤシくんは知ってたわけ? どうしてわたしに教えてくれないのよ」
 予想以上にトモコが興奮しているので、わたしは仕方なく、穏やかに、なおかつ少し嘘を交えながら答えた。
「コバヤシが知ってるのは、言ってみれば成り行きで、たまたまなの。で、トモコはどうして知ったの?」
 トモコは少し落ち着いて、答える。
「昨日、ユキの家に電話をしたら、逆にお母さんにつかまっちゃって、大変だったわよ。ユキはちゃんと学校に行ってるんですかって、なんか知らないけど怒られちゃったんだから。そういう事情があるんだったら、ちゃんと話してよ」
「あ、ごめん。家出したなんて、格好悪くて言えなかったのよ、本当に」
「おかあさん、心配してたわよ」
「でも、携帯の番号知ってるくせに、かけて来ないよ。完全に放っとかれてる」
「反抗されるのが怖いんじゃない?」
「どうだか」
 そんな話をしているうちに、トモコの興奮はすっかり収まった。わたしが家出をしていることを黙っていたのを怒っていたのか、母につかまってしまったのを怒っていたのかわからないけれど、とにかく怒りが収まると、今度は家出というもの自体に興味が沸いてくるようだった。
「ねえ、どうして突然家出したの?」
「んー、いろいろな理由が化学反応を起こして爆発したって感じ?」
「つまりは不満だらけだったってことね」
「まあ、そういうこと。そのとき、たまたま居候させてくれる人に出会ったから」
「居候? それって、気まずくない?」
「生活時間帯の違う人だから、それほどぶつかることはないし、意外と気楽だよ」
「ふうん。なんだか羨ましいな」
 心底羨ましそうな溜息を吐いたトモコも、横浜のほうから通ってきている遠距離通学者だ。そういえば、入学したての学科オリエンテーションのときに、横浜 のトモコと、大宮のコバヤシと、八王子のナカムラくんと、千葉市のわたしという組み合わせで、それぞれが遠距離通学を頑張っているという話から、私たちは 仲良くなったのだった。なぜか誰の家の近くにも国道十六号線が通っていて、そこで初めて国道十六号線とは東京郊外をぐるっと繋いでいる環状線であると気付 いた。十六号同盟なんて言って、ふざけていたっけ。
 わたしの周りには、こういう境遇の人が多い。郊外で生まれ育って、近くはないけれど家を出るほどは遠くない場所から、同じように時間をかけて東京に通っている人。わたしだけが、弱音を吐いてそこから逸脱してしまった。十六号同盟も、もう終わりだ。
「ねえ、家を出て何か変わった?」
 トモコはまだ興味津々で、そういう質問をいくつもぶつけてくる。
「別に変わらないよ」
 たぶん、変わっていない。わたしのいる場所が変わっているだけで、東京はわたしによって変わったりしない。ひょっとしたら、わたしが東京によって変わるかもしれないけれど、それはまだわからない。

 カナコさんは、クロゼットの中に、大量の洋服を隠し持っている。毎日違う服を着て出掛けているから、すごい衣装持ちなのだろうとは思っていたけれど、実 際にクロゼットを覗いてみたら、それどころじゃなかった。カナコさんはいつも、いわゆる水商売系のスーツをとっかえひっかえ着ているから、そのレパート リーの多さは知っていたけれど、奥のほうを引っ張り出してみたら、ビビッドカラーのカジュアルな服とか、フリルのたっぷり付いたロマンティック系とか、と にかく、そんな服を着ているところを見たことがないようなわけのわからないものが、後から後から出て来る。色がたくさん溢れていて雑然としていたから、小 学校のときに使っていた絵の具箱を思い出した。
 わたしは大きなため息を吐いてクロゼットの扉を閉じた。部屋からは急に色がなくなって、白い壁と木目の床にアクセントになっているオレンジのカーテンの、いつもの風景に戻った。
「こんな服、わたしが着られるワケないじゃん!」
 独り言をして、わたしは座り込んだ。なんだか、カナコさんはわたしのことを、全然理解していない気がする。
「よかったら、あたしの服も勝手に着ていっていいわよ」
 カナコさんがそう言ったときに、わたしはちゃんと断った。
「いいよ、わたしには似合わないから」
 それで終わればよかったのに、なぜかカナコさんはしょんぼりして、「こういう服ばっかりじゃないのよ」などとグチグチ言いながら、着ていたスーツの裾を いじった。光沢のある青いスーツ。ツメには当然のように、それに合わせた深い青色が塗ってある。それを見てきれいだとは思っても、とても自分の身につけよ うとは思えなかった。私とカナコさんは違いすぎる。
 ひょっとしたらカナコさんは、いつも同じような服を着ているわたしを見て服がないと思っているのかもしれないと思った。だとしたら、親切で言ってくれているのだろうから、あまり無下に断ることもできない。
「じゃあ、暇なときに勝手にクロゼット覗いてみるよ」
 私はそんなことを言ってその場を凌いだ。そして実際に暇だったので、見るだけ見てみようと思って、わたしは今こうしてひとりでクロゼットを開けたのだった。予想通りの結論が待っていただけだったのだけれど。
 カナコさんは、もともと顔の作りが派手だから派手な服が似合うのだ。と言っても、そういえばまだ彼女の完全なノーメイクの姿を見たことがない。でも、あ れだけ化粧映えをするのだから、もともと派手な顔立ちなのだろう。わたしはもともと顔が地味な上に、ナチュラルメイクという名のほぼノーメイクで外に出て しまうくらいなので、きらびやかなイメージとはいちばん遠い場所にいる。二人の個性、というと偉そうだけれど、そういうものが相容れないだけの話だと思っ ているので、別にいいのだ。
 わたしはカナコさんの服を着るのは諦めたけれど、それはさておき気になっていたものがあった。マニキュアだ。
 カナコさんは服と同じように、化粧品もやたら数多く持っている。その中でも、マニキュアの数には、目を見張るものがある。ざっと見て、五十色はある。 もっとあるかもしれない。まるで、デパートの化粧品売場にあるように、グラデーションになるようにきれいに並べられている。そういえば、いつ塗り替えてい るのか知らないけれど、カナコさんの手足のツメの色は、毎日のように変わっていると思う。
 服はとても借りられないけれど、マニキュアぐらいなら、いいかもしれない。わたしはそう思って、マニキュアを物色し始めた。透明や肌の色に近いピンク色などが、自分には合うかと思ったけれど、そんな色はこのコレクションの中にはなかった。
 カナコさんのマニキュアでいちばん多いのは、赤い色をしたものだった。赤とひとことで言っても、いろいろなニュアンスのものがある。明るいものからシッ クなもの、パールやラメが入ったもの。きっとどれも必要なのだろうと思う。赤の他には紫や青、金や銀。いかにもカナコさんに似合いそうな色ばかり。マニ キュアだって服と同じで、それぞれの個性で似合うものを選んで買って来なければだめということか。
 銀色のマニキュアの後ろに、ひとつだけ異色的な色を放つものを見つけた。グラデーションの中に入ることができずに、だけどしっかりと自己主張をしている。
 コンデンスミルク。
 わたしはカナコさんと出会った日のことを思い出した。どうしてあの日に限って、数あるマニキュアの中からこの色を選んだのだろう。もし彼女があの色を身につけていなかったら、わたしは今、ここにいただろうか。
 答えはたぶん、ノー。
 今になって冷静に思い出してみると、わたしがあの日につい見入ってしまったのは、カナコさんの美しさそのものではなく、ツメだったはずだ。もっと言え ば、ツメに塗られた色と彼女自身が持つ色との、激しすぎるコントラスト。今ならわかる。カナコさんがちょうどいい具合に熟したイチゴのような女性だったか ら、ただの白いマニキュアがまるでコンデンスミルクのように見えたのだ。
 カナコさんと対照的な位置にある、ということは、この色なら、わたしにも似合うかもしれない。わたしは小さな瓶を手に取った。近くで見てみると、思ったよりも白くて、少しパールが入っていて、とてもカワイイ。
 緊張しながら、コンデンスミルクを自分のツメに塗る。左の薬指を塗っているところで、早速はみ出してしまった。とりあえず気にせずに塗っていると、右手 は厚く塗りすぎたのか、どの指も表面がボコボコになってしまった。ヘタクソだなぁ、と思うけれど、慣れないことをしているのだから、当然だ。たぶんカナコ さんだって、初めて塗ったときは、こんなふうに失敗したんだと思う。練習しなくちゃ、なにも上手になれない。
 ようやく、十本のツメにコンデンスミルクが塗られた。わたしはいそいそと鏡の前に立って、顔の少し下で両手をそろえて、そこに映る自分の姿を見た。
「げっ。似合わない」
 ツメだけが浮いているみたいで、だけど、カナコさんみたいに自分との好対照というわけでもなくて、塗るのが下手なせいかもしれないと思って鏡から少し離 れてみたりもしたけれど、やはりだめだ。どうしてそうなってしまうんだろう。わたしに似合うものは、いったいどこにあるんだろう。

 梅雨にはいる直前の、わたしがいちばん好きな季節は、とても短い。今日の中庭は太陽の光をうまい具合に反射していて、まぶしい。今朝テレビを見ていたら、来週には梅雨入りするかもしれないというので、学校には来たものの講義に出ている場合ではなくなってきた。
 出席を取られたあと、遅刻して入って来る学生と入れ違いに、わたしは教室から抜け出そうとした。あの中庭でこっそり昼寝をしたかった。人が座っている後 ろをしゃがみながら歩いていると、Tシャツの背中の部分を突然クイッと引っ張られたので、びっくりして少し冷や汗をかいた。振り向くとコバヤシの腕がそこ に伸びていて、
「楽しいこと、独り占めするなよな」
 と、小さい声で言った。
 コバヤシが半袖のTシャツから、筋肉質なのに細い黒い腕を見せつけていたので、特に根拠はないのだけれど、
「負けた」
 と、思ってしまったわたしは、断る理由を見つけられなかった。なんだか、自分を格好よく見せる方法を知っているようで、それをわざとらしくではなく、ものすごくさりげなく、むしろ本能の域で表現できる人のような気がした。
 二人で脱出に成功して、ニヤリと笑いながら目を合わせた。すごく楽しくて、少しドキドキした。恥ずかしいけれど、青春なんていう言葉を思い出してしまう感じ。
 コバヤシは一人でさっさと中庭に出て、大きな木の下で、「うわぁー」とかなんとか叫びながら、芝生の上にゴロンと寝転がった。肩のあたりに小さなゴミを たくさんくっつけて、まるで子供みたいに無邪気な顔で目を閉じている。わたしはコバヤシの横で大きな木に寄りかかって座った。上を見ると、緑の葉と葉の間 を抜けて降りかかって来る木漏れ日が、とてもきれいだ。たぶん、こんなきれいな木漏れ日を見たのは、子供の頃以来だと思う。
 ふと見下ろせば、コバヤシがいる。肩にゴミをつけたまま。目を瞑ったまま。凝視してみると、思ったより長いまつげとか、意外と高い鼻とか、いつもだった らそんなに注意して見ない彼の顔が、とてもきれいに見えた。少しクセのある髪の毛は、木漏れ日が当たる部分だけ日光を透かして、まだらに薄茶色になってい る。
 本当に寝てしまったのだろうか。そう思いながら彼の様子を見ていたら、それは本当に衝動以外の何でもないと思うのだけれど、彼に触れてみたくなった。理 由が欲しかったから、まずは肩についているゴミを静かに取った。彼の反応はない。物足りなくて、思わず髪の毛の、薄茶色の部分に触れた。
「なにするんだよ」
 そんなふうに、いつもの口調で怒られるかと思って身構えたけれど、彼は少し目を開けてわたしの顔をちらりと見ただけだった。それどころか、少し目を細めて笑っていて、なんだか気持ちよさそうに見える。そしてゆっくりと、独り言のようにつぶやいた。
「一人で寝るのには、もう慣れた?」
 さりげない問いかけ。すこし心に重さがかかって、なんだか涙腺を刺激された。わたしは目に浮かびそうな涙を飲み込んだ。
「ケッコウ、タノシイカモシレナイ」
 呪文のように、わたしは言う。
「なら、いいんじゃない?」
 コバヤシは無責任にもそう言った。無責任と言ったって、もともと彼に責任など何もない。わたしは鼻で、「ふん」と言った。笑いでも溜め息でもない、中途半端なただの音。それから、コバヤシと並ぶようにして、芝生の上の寝転がってみた。
「寂しいんだったら、いつでも遊んでやるからな」
「いつでも?」
「おう、オレはいつだって暇だからな」
「暇つぶしかよ」
 わたしはそう言い捨てたものの、青い空に散らばっている小さな雲たちを仰いで、思い切って自分の心を見つめ直してみた。そうしてみると、驚くほどすんなりと、言葉が出てきた。
「でも、毎日でも遊んで欲しいよ」
 コバヤシは、それに対して何もコメントしなかった。長めの沈黙を挟んで、「ヒマジンめ」とだけ言って、ニヤリと笑った。

 家を出てから一ヶ月近く経とうとしているけれど、特に何も起こらないまま毎日はひとつずつ終わっていった。朝起きて、バイトに出掛けて、学校に行って、 たまに友達と飲みに行ったり、カラオケに行ったり、マックに長居をしたり、映画とか絵とかを見に行ったりして過ごし、それからカナコさんのいない部屋に 帰って、テレビを見たりして、寝る。千葉にいた頃ともたいして変わらない毎日で、コバヤシが言っていた刺激的なものも何もないけれど、まあそれだからこそ 生活と言えるのだろうと思ったりした。
 カナコさんからもっといろいろなことを吸収したいと思うけれど、朝のバイトを始めてから、カナコさんと顔を合わせることが極端に少なくなった。正確に は、わたしが朝起きるときにはたいてい隣で寝ているので、寝顔はよく見かけるのだけれど、寝ているところを起こすわけにもいかないから、会えないことと同 じだ。せっかく一緒に住んでいるのに、とても遠い場所にいるような気がする。だけど、友達同士の共同生活はなかなかうまく行かないという話をよく聞くの で、たぶんこのライフスタイルが、わたしたちの共同生活をうまくいかせている最大の要因なんだと思う。寂しいからといって、わたしまで夜のバイトを始める のも嫌だし。
 それにしたって、たまには一緒にゴハンくらい食べたい。今日カナコさんと顔を合わせたら、まずそのことを伝えよう。などと思っていたら、まさにその日の夕方、彼女は両手に一つずつ買い物袋を提げた男の人と一緒に、はしゃぎながら帰ってきたのだった。
「あたし、今日はバイト休んだの。ユキも一緒にすき焼き食べよう」
 カナコさんはものすごく嬉しそうな笑顔をしてそう言った。でもそれは、わたしと久しぶりに一緒にゴハンを食べることや、すき焼きを食べることが嬉しいからというわけではなさそうだと、直感でわかる。わたしは、カナコさんの隣の男に視線を移した。
「このヒトは、友達のサカガミくん」
 カナコさんはそう言って、男をわたしに紹介した。サカガミくんは、誰にでも親しまれやすそうな笑顔を持った人だった。歳はわたしと同じくらいに見える。
「どーも、オジャマします」
 彼がわたしに向かって挨拶すると、今度はカナコさんがわたしの隣に立って、サカガミくんにわたしを紹介した。
「で、このコがあたしのルームメイトのユキ。カワイイでしょ」
 誇らしげに言うので、ちょっと恥ずかしくなって、わたしはただペコリと頭を下げることしかできなかった。
 カナコさんとサカガミくんと、三人ですき焼きを食べながらビールを飲んだ。初めて会った人とまともに向かい合ってお酒を飲むのは、わたしには慣れないこ とだけれど、お酒が入ってしまえば何とかなるものだと、ひとつ勉強した。勉強なんて言葉を使うと堅苦しい。わたしはただ、美味しくて、楽しくて、お酒も 入って、とても機嫌がよくなった。
「わたしの中の常識では、すき焼きは冬に食べるものなんだけど、カナコさん、どう思う?」
「いいの、気にしない気にしない」
「そうだよ、うまければいいんだよ。うまいだろう?」
「うん、美味しい。こんなにお腹が一杯になったのって、家を出て以来初めてかもしれない」
「そんなに貧しい食生活してるの?」
「うん。だって、家出少女が贅沢してるのって変じゃない?」
「ユキって変なヤツー」
 少し酔って、わたしはいつになく話をしたと思う。サカガミくんにからかわれたり、カナコさんに笑われたりして、あっという間に時間が過ぎた。すき焼き は、最後にうどんを入れられ、卵とじにされて、汁も一切残らないくらいきれいに食べられた。ここまで食べてもらえば、きっとすき焼きも本望だと思う。
 心と体を満足させたら、すぐに眠くなってしまった。カナコさんはそんなわたしを、「子供なんだから」と笑った。だけど、今日だってわたしはカナコさんが 寝ていた時間にちゃんと働いていたのだから、眠くなるのも当然だ。明日も朝から仕事なので、まだキャイキャイ騒いでいるカナコさんとサカガミくんにそう 言って、早めに寝た。
 夢の向こうで、カナコさんとサカガミくんがプレステに熱中している。わたしは、ただそれだけのことにすっかり安心して、とてもよい眠りに就けた。ただそ こに人がいて笑ったり喋ったりしているだけなのに、それがとてもあたたかかった。一人で寝ていないことを、実感した夜だった。

 目覚まし時計より早く起きたことなんて、たぶん初めてだと思う。
 ふっと気付いて薄目を開けると、窓の向こうの空は、ブルーとグレーが混ざった色をしている。まだ朝が来ていない。それなのに、わたしはどうして目が覚めてしまったかというと、その理由は本能的に理解できていた。部屋の空気が、違う流れになったからだ。
 わたしはいつも頭まで布団を被って寝る癖があって、今は窓の外を見るために少し隙間を空けたけれど、それ以外の視界は全部遮られていて、部屋の中の様子 は見えない。だけど、すぐ近くで何かが動いているのはわかる。人の息。衣擦れの音。それと、何かペタペタ、ピチャピチャとした感じの音。それはとても小さ な音だけれど、わたしにはきちんと聞こえる。耳だけでなく、肌も。空気が不思議な湿度を持っていくのが、手に取るようにわかる。五感のすべてが鋭くなって しまっているのかもしれない。それから、私は思い出した。そうだ、昨日の夜はサカガミくんという人が来て、三人で一緒にすきやきを食べて、それからわたし だけ寝たのだった。サカガミくんはまだ、たぶんそこにいる。カナコさんと一緒に。
 わたしがそれに気付いたちょうどそのとき、カナコさんが溜め息をもらした。我慢していたものを一気に吐き出すように、とても甘くて湿気のある感情が、ほんのかすかな声と一緒に産まれ出た。
 ドキドキした。
 わたしは二人にばれないように、寝返りのフリをして首を少しずらしてみた。布団の隙間からそっと覗くと、二人のしていることはよく見えた。男の人と女の 人が、こんなふうにしてお互いの肌を求めるシーンを、生で見るのはもちろん初めてだ。映画やドラマでは、こんなに明瞭じゃなかった。そんなところまで映っ たりはしていなかった。どんなことをするのか、わたしだってそれくらいは知っていたけれど、わたしが知っていたのは理論というか、言葉というか、そういう 机上の空論に過ぎなくて、今ここで見せられているものとは、全然違う。現実の、ごく当たり前の、男と女の行為。
 こっそり見ているなんて悪趣味かもしれない。でも、わたしは彼らから目が離せない。覗きって犯罪になるんだったっけ、などと頭のどこかで考えたけれど、 そもそも人前でするほうが悪いのだから、自分のことは棚に上げることにした。私はずっと、ずっと見ている。目を逸らすことができなくて、心を熱くしてい る。
 カナコさんは、あまりにもきれいだ。出会ったときからきれいだと知ってはいた。しかもそれはただの美人ではなく、色っぽい種類のアピールが強いと言うこ とも、わかっていたつもりだった。だけど、それはあくまでわたしの感じ取れる範囲での解釈で、本当はわたしのアンテナでは受信できない部分が、彼女のいち ばんの魅力だったのだと、今さらながら思い知った。要は、彼女とセックスをしてみないとわからない部分にこそ、カナコさんの美しさがあるのだ。
 今そこにいるカナコさんは、わたしが今まで見てきた中で文句なしにいちばんきれいだと思う。何がどう違うのかと言われても、そんなことは言葉にはならな い。その白くていい形の脚とか、身体の揺れている感じとか、銀色に塗られた爪も、茶色い髪の毛も、長い睫毛も、少しかすれた声も、汗ばんでいる額も、すべ てが美しくていとおしいと思った。
 これが人間に与えられた生殖能力のひとつだというのなら、神様もうまいこと考えたものだと思う。花が鮮やかな色をして咲くのと同じ原理で、女がなまめか しくきれいになるだなんて。少し化粧を覚え始めたとき、高校の制服のスカートを短くしてみたとき、両親はわたしが色気付いたと言っていい顔をしなかった。 だけど本当は、色気付くことはいやらしくもなんともない、単なる自然の摂理だ。それが、発情というものだったのだ。
 この思いつきは、わたしにとって有効というか、少なくともどこか粋な気がした。まだ処女で、恋と言うほどの恋もしていないけれど、こんなわたしにだっ て、たぶん発情する日が来ると思う。遠い未来かもしれないし、近い未来かもしれないし、そんなことはきっと誰にもわからないけれど、その日が来たらきっと 自然に受け止められるような気がした。
 カナコさんとサカガミくんの動きは次第に激しく揺さぶりあうように変わっていき、ある瞬間にたぶん頂点に達して、動かなくなった。それから二人は少し会 話をして、すぐに眠ってしまった。わたしは一人で興奮しながら、朝が来るのを待った。たぶん、コバヤシが言っていた刺激というのは、こういうもののことを 言うのだろうと思うけれど、これだけではなさそうだ。わたしがまだ知らないことで、これから知っていくべきことは、たくさんある。この東京で、わたしは 育っていく。
 バイトのあとで学校に向かうと、駅の近くで早速コバヤシに出くわした。
「あれ、オマエ今日はいつもと雰囲気が違うぞ。何かあったのか?」
 妙に鋭い。興奮してあまり寝ていないのだから、顔とか雰囲気が違うのも当然かもしれないけれど。
「別に。何もないよ」
 学校に向かう道、二人で肩を並べて歩きながら、わたしはすました顔で答えた。コバヤシは少しだけ腑に落ちない感じだったけれど、すぐにいつもの顔に戻った。
「まあどうでもいいけどさ。それより、オレ見たい映画があるんだけど、明日三限終わったあと、付き合えよ。どうせ暇だろ?」
 照れたように一息でそう言ったコバヤシを見て、なんだかとてもいとおしいと感じてしまった。
「いいよ、どうせ暇だし」
 わたしも、発情期を迎えつつあるのかもしれない。だとしたら、少しはきれいに見えるのだろうか。

「ユキ、今日はどこか出掛けるの?」
 カナコさんはまだ布団をかぶったまま、眠そうな声でそう聞いた。わたしは、朝のバイトに行く準備をしているところだったので、手を休めず、簡潔に答えた。
「うん、コバヤシと約束がある」
「ふううううん」
 変に大きな声で言うので、「何?」という顔をしてカナコさんを見ると、なぜかニヤニヤしている。
「コバヤシって、前にユキと一緒にここに泊まった子だよね?」
「そうだけど」
「じゃあ、今日は遅くなるのね?」
「映画を見に行くだけだから、それほど遅くはないと思うけど、どうして?」
「今日もあたし、バイトないのよ。夜、ゴハンどうしようかと思って」
「ゴハンを一緒に食べる人なんて、たくさんいるくせに。ほら、このまえのサカガミくんとかは?」
「もういいわ、あの人は。しつこいから、あんまり会いたくない」
「そうなの? わたし、カナコさんの彼氏だと思ってた」
「ただの友達よ。それよりユキだって、その、コバヤシって子、どうなの? 付き合ってるんでしょ?」
「付き合ってないよ。ただの友達」
「でもあの子、ユキのことすごく好きみたいじゃない?」
「言われたことないよ、そんなこと」
 わたしは平静を装って答えたけれど、すごく動揺していた。カナコさんにコバヤシのことを言われたから、ではなく、コバヤシの話題にいちいちドキドキしている自分に気がついて驚いたのだ。
「ふふん」
 カナコさんは鼻で笑った。わたしの心の中で、いろいろなことが変化しているのを知って、あえてそれで遊んでいるみたいに。わたしは、なんだかものすごい 敗北感に襲われて、「もういいよ」と小さく言って、家を出た。ドアが閉まるのとほぼ同時に、「頑張ってね」というカナコさんの声が聞こえた。
 頑張ってね、って、いったい私は何をどう頑張ればいいんだろう。カナコさんが何を言いたいのか、わたしには全然わからない。
 カナコさんとサカガミくんはただの友達同士でもセックスをするかもしれない。わたしとコバヤシもただの友達同士だけれど、それは本当に文字どおりの友達で、それ以上でもそれ以下でもない。
 たぶん、わたしとカナコさんでは線を引く場所が違うのだと思う。友達の線。オトコとオンナの線。愛情の線。一線を越えるという言葉があるけれど、そういう瞬間に、人は本当にそこに引かれた線を見ているのかもしれない。わたしには、まだそんなものが見えたためしがない。
 確かにコバヤシと会うときは楽しい。他の友達と会うときも楽しい。それとこれは微妙に違う気もするけれど、まだ線を引いていないから、同じようにしか感じない。わたしはそんなことを考えながら、待ち合わせの場所へと向かった。

 コバヤシが観たいと言っていた映画は、話題になっている程は面白くなかった。けれどコバヤシは、「いやぁ、最高だったなー」と、主演していた俳優を絶賛した。コバヤシはあの俳優に憧れているらしい。
 今までそんなことを聞いたことはないし、本人もそんなことは言っていないけれど、見ていればわかる。コバヤシは自分の好き嫌いを、決して隠したりしな い。たとえば、髪型とかファッションとかをさりげなく真似している。映画を見れば、ストーリーじゃなくて俳優そのものを絶賛する。好きなものをきちんと好 きだと表明できることは、彼のいちばんの魅力じゃないかと思う。
「それにしても、映画にはラブシーンはつきものだよな」
 ファーストフードの明るい店内で、フライドポテトを食べながら、コバヤシは大きな声で言う。
「そうだね」
 わたしは小さい声で答えた。
「外人のラブシーンって、激しいよな?」
 隣に座っていたOL風の二人組が密かに笑っているのに、コバヤシは全然気付いていない。もう、恥ずかしいなあ。わたしはコバヤシの言葉を無視して、アイスコーヒーのストローを噛んだ。
 噛みながら、ラブシーンという言葉に反応して思い出したのは、この前のカナコさんとサカガミくんの姿だった。映画の中のラブシーンより、ずっと激しくて鮮明なシーン。あの日、布団の中で覗き見たことは、思い出せば思い出すほど衝撃になった。
「オマエ、顔が赤いぞ」
「えっ!」
 コバヤシに言われて、思わず両手で頬を覆ってしまった。気が付いたら、心がすごく熱くなっていて、それと同じくらいに頬も熱を持ってしまっていたみたいだった。
「頭ン中で、ラブシーン思い出していたんだろう?」
 それほど面白くもないくせに、コバヤシはさも面白そうにニヤニヤした。映画の中のシーンを思い出したくらいで、顔は赤くしないよ。言おうと思ったけどやめて、その代わりに、「ばーか」と、表情を崩さないで言ってやった。
「何だよ、機嫌悪いな」
 残っていた三本のフライドポテトをひとくちで食べながら、コバヤシはほんの少しムッとした顔をした。
 機嫌が悪いわけじゃないよ。
 言おうとしたけれど、その言葉は飲み込んでしまった。だって、「じゃあ何なんだよ」と聞かれたとしても、たぶんうまく答えることなんかできないから。答 えるもなにも、自分が何を考えているのかもよくわからない。それでもひとつだけ、確かに言えることがある。でも、まさかそんなことは、言えるわけがない。 絶対に言えない。ああ、もう。カナコさんのせいだ。出掛けに変なこと言うから。モヤモヤした感じが、心の外側に幕を作って、振り払っても、消えてくれな い。
 コバヤシのことを、変に意識してしまっているなんて。
 「コバヤシは、ただの友達」。わたしは、自分に強く言い聞かせてみた。そうすると、心の中でカナコさんが言う。「そう。今は、ね」と。ニヤニヤと笑っている。今は、だからどうしようもない。
「しょうがないなぁ。機嫌を直しに、パーッと飲みにでも行くか?」
 とても明るい声で、いい笑顔で、コバヤシはわたしの顔を覗き込む。
「なんで?」
 口をついてそんな言葉が出た。コバヤシには、わたしの機嫌を直さなきゃならない義理なんかない。わたしは、彼の言動とは関係のないところで、心に何か 引っかけて、勝手に変な風に意識して、そして、うまく接することができなくなっているだけ。どうしてこの人は、怒りもしないで、そんなふうに機嫌をとろう としてるんだろう。
「行きたくないんだったらいいけどさ」
 コバヤシは、また少しムッとして言う。
「そういう意味じゃないよ」
「行くのか、行かないのか。答えは二つに一つ。それ以上は、ない」
 コバヤシは、わたしの気持ちにあるこんがらがった部分を、決して悪い意味ではなく無視して、わたしに選択肢を与えてくれた。これだったら、わたしも自分で選びたいのはどっちなのか、すぐに答えられる。
「行く」
 答えが出るとすぐにコバヤシはわたしの両腕を掴んで、「よし、行くぞ」と言った。複雑に考える必要など、たぶんないのだろう。今日は飲みに行くのか、行かないのか。彼と一緒にいたいのか、いたくないのか。そんな簡単な問いにだったら、即答できる。
 あらためて向かい合ってみると、コバヤシの背はわたしよりずいぶん高い。わたしの腕を掴んだ彼の手は、思っていたよりもずっと大きいし、あたたかかった。
 この人は、男の子じゃなくって、男の人なんだ。そしてわたしはと言えば、こんなに背が低くて、やせたいやせたいと言いながらも、コバヤシに比べれば細い腕をして、触れられて初めて気付いたけれど、ずいぶんコバヤシよりも白い肌をしている。情けないくらいちっぽけだ。
 コバヤシが男なら、わたしは女だった。当たり前かもしれないけれど、遅ればせながらそんなことに気付いて、またドキドキした。
 それはなんとなく悔しいようでいて、だけどどこか気持ち良い事実だった。彼が男で、わたしが女で、それで初めて意味を成すことだってあるかもしれない。 ないかもしれない。まだわたしにはわからない。男と女の友情とか、肉体関係のある友達という概念。恋愛の定義すら分からないのだから、仕方ないと思う。そ のうち理解できればいい。
 コバヤシと二人で飲むビールは、とても美味しい。わたしの頬は少し熱を帯びて赤くなる。わたしの眼はちょっとした潤いを与えられていて、たぶんいつもとは違う光を持っている。それが、アルコールだけのせいでないことは、いくらわたしだって、なんとなくわかるのだ。

 コバヤシと軽く飲んでから、十時くらいにカナコさんのいる部屋に帰った。カナコさんはくつろいだ感じで、マニキュアを塗りながらテレビを見ていた。
「あら、もう帰ってきたの?」
 意外そうな顔をしてそんなことを聞かれると、逆に恥ずかしい。
「そんなに遅くならないと思うって、言っておいたでしょう」
「泊まって来るかと思ってたわ」
「だから、そういうのじゃないってば!」
 カナコさんがニヤニヤしながら言うので、必要以上に声が大きくなった。ムキになればなるほど、カナコさんが面白がるというのはわかっている。そうだ、ついさっき簡単に答えを出す方法を、コバヤシに教えてもらったばかりだから、私はもう惑わされない。
「どこかに泊まるか、泊まらないか。そんな話になったら、泊まらない」
「なにそれ」
 カナコさんは笑って言った。
「じゃあ、ご休憩っていうこと?」
「ちがうよ。もうー」
 どうしても、そっちの方向に話を持っていきたいみたいだったので、わたしはもう少しダイレクトな言葉を使ってみる。
「コバヤシと、スルかシナイかで言えば、まだシナイ」
「まだ、ということは、そのうちスルということかしら」
 まだ茶化そうとするので、もう一つ。
「未来のことがわかるか、わからないかで言えば、わからない。でしょう?」
 カナコさんはほんの一瞬キョトンとしたけれど、それから笑って、「いいわよ、もう」などと言った。それで雰囲気がよくなって、わたしとカナコさんはいくつかの話をしてから、久しぶりにちゃんと枕を並べて寝ることにした。
 けれど、部屋の明かりを消すと、私はなんとなくまたモヤモヤした気持ちになってきた。ゴロゴロと寝返りを打ってみたり、枕の高さを変えてみたりしたけれど、どうも寝苦しい。
 カナコさんもカナコさんで、いつもだったらバイトをしている時間なのだから、眠るには早すぎるのかもしれない。とにかくなにか落ち着かない感じだった。
「眠れないね」
 声をかけてみると、カナコさんは思ったよりも素直に、「そうね」などと答えた。
「何か話でもしようよ」
「何を?」
「わたし、カナコさんに聞いてみたいことがあるの」
「どんなこと?」
 少し迷ったけれど、どうしても気になるから聞いてみる。
「セックスって、楽しいの?」
 カナコさんは少し沈黙して、それから静かに言った。
「もしかしてとは思ってたけど、ユキって、未経験者なの?」
「えっ?」
 逆にそんなことを聞き返されるとは思っていなかったから、わたしは動揺して大きな声を出してしまった。けれど、考えてみたら動揺するようなこともない。事実はひとつしかないのだから。
「ん、未経験」
 必要以上の言葉を付け足すような気分じゃなかったので、会話が成り立つ最低限の言葉で答える。
「そうなんだぁ」
 カナコさんは、なぜか嬉しそうにほうっと息を吐いた。なぜ嬉しそうなのかはよくわからないけれど、嬉しそうならまあいいかと思う。
「それで、どうなの?」
 わたしは、答えを急かす。待ちきれなかったというわけじゃないけれど、なんとなく妙な間がくすぐったい。
「ユキ風に答えると、楽しいか楽しくないかで言えば、楽しいわよ」
 カナコさんがそんなふうに言うと、なぜかわたしを取り巻いていた空気が軽くなった気がして、「へへ」と声を出して笑ってみた。
「でも、焦って失敗しないようにね」
「焦ったりなんかしてないよ」
 楽しいか楽しくないかで言えば、楽しい。たぶん今のわたしには、そんな答えでじゅうぶんだと思う。
「したいか、したくないかの二者択一になったときに、したいと思ったらすればいいんでしょう?」
「そうそう、ユキらしくね」
 カナコさんが、変に煽るような人じゃなくてよかった。近いか遠いかは別として、その日はきっと自然に訪れてくれるような気がした。

 踊りにでも行こうか、とカナコさんに誘われたとき、それがどういうことを意味するのかを理解するのに少し時間がかかってしまった。要するに、いわゆるク ラブというところに行くらしい。クラブというと、もっとヒップホップ系で踊りまくる人が集まる場所だと思っていたので、あまり水商売ふうのカナコさんのイ メージにはそぐわない。
「カナコさんが踊りなんて言うと、もうちょっと昔の、お立ち台があったディスコみたいなのを想像しちゃう」
 わたしが言うと、カナコさんは笑って言った。
「夜遊びはひととおりやっておくものよ。イメージだけで遊びを限定されるなんて、つまらないと思わない?」
 わたしは、カナコさんの言葉を不思議な気持ちで聞いていた。確かにクラブにも興味はないわけでもなかったけれど、それよりも楽しいと思えることがあれば 別に行かなくても済むものだし、「遊びを限定される」という概念がよくわからなかった。これが東京と郊外の違いかなぁと思う。身近にあるものだけで、とり あえずは事足りるし、身近にないものならば、興味がものにはちょっとだけ足を伸ばせばいい。焦ることはないし、きっかけがあれば断る理由もない。そんなわ けで、せっかく与えられたきっかけを逃すこともないと思ったので、わたしは誘いに乗ることにした。
 六本木の駅を上っていくと、テレビや雑誌でたまに見かける風景が目の前にある。考えてみたら、夜の六本木に来たのは初めてだ。昼間とは少し印象が違う。
 カナコさんとふたりで歩いていると、何人もの男の人が声をかけて来る。外国人も多いので、慣れていない私はいちいちビクビクしていた。店の客引きみたい だけれど、カナコさんは割と愛想良く流しつつ、結局は無視してまっすぐ歩いていく。行く店は初めから決まっているらしい。
「ここよ」
 カナコさんの後をひょこひょこと付いて行った先にあったのは、意外とすんなり入りやすそうな、オープンな感じの店だった。店の中は暗かったけれど、少し ずつ慣れてみると同じ歳くらいの子たちが飲んだり踊ったりしている。かかっている曲も、たぶんスタンダードなところなのだろうけれど、わたしでも聞いたこ とがあるような曲ばかりだ。
 これだったら踊れる。
「ねえ、踊ろうよ」
 わたしは嬉しくなって、テーブルで飲み始めたカナコさんを誘った。けれど、カナコさんは少し不服そうな顔をする。
「せっかく来たのに、踊らないの?」
「ちょっと飲んだら」
 カナコさんがそう言うなら仕方ない。そういうものなのかもしれない。私はカナコさんとふたりで丸いテーブルの席に座った。流れている曲の音量が大きく て、声を張り上げないと会話が成り立たない。それでも初めはなんとか色々な話をしようとしたけれど、疲れてしまうのでやめた。ここでの夜は長いのだ。そん なことくらい、わたしにだってわかる。
 二杯目のカクテルを飲んだところで、わたしはもう一度カナコさんを誘った。
「踊ろう」
「焦らないで。あたしはもうちょっと飲みたいのよ」
「そんなぁ。ここに来てもう一時間くらい経ってるよ」
「じゃあ一人で踊って来なさいよ」
 そんなふうに言いながら、煙草をプハーッとやられてしまったので、わたしは一人で踊りに行くことにした。よく見れば、周りでも一人で踊っている人がたくさんいる。
 結局、どこへ行ったってカナコさんはカナコさん。仕事だろうが遊びだろうが、どこで何をしていても飲むことばかりだ。遊びを限定されたくないなんて言っても、やっていることが同じならば意味がないと思うけれど、これも価値観の違いなんだろうか。
 そんなことを考えながらひとしきり踊って席に戻ったら、カナコさんはちゃっかり両脇に男の子を座らせて、キャッキャとおしゃべりしていた。わたしが近づいていくと、会話はいったん止まった。
「この子がユキ」
 そんなふうにわたしのことを紹介したきり、カナコさんはまた隣の男の子とのおしゃべりに夢中になった。わたしが脇にちょこんと座ると、男の子の一人が気を遣っていろいろ話しかけてくれた。
 彼は、マコトという名前らしい。歳を聞いたら同い歳のハタチだった。ソコソコ格好良くて、お洒落で、話題も豊富で、たぶんテレビとか雑誌とかで取り上げ られる世の中の若者像はこんな感じなのだろうな、と思う。いろいろな話で笑わせてくれるけれど、だからといって面白いわけじゃない。その場を過ぎれば忘れ てしまいそうな、そんな話題。この場で笑いさえすれば、それでいい。
 話をたくさんして笑い疲れた頃、ちょうどいいタイミングで、
「ちょっと踊ろうか」
 なんて言って誘ってくれるのも、いかにも慣れている感じで悪くはなかった。わたしは相変わらず飲んでばかりのカナコさんをおいて、踊りに行くことにした。
 マコトくんはダンスが上手くて、それを教えてくれるのも上手かったので、慣れないのに身体をよく動かしたわたしはすっかり疲れてしまった。お酒も飲んでいるし、かなり汗もかいた。
「何となく、酔いが回ってしまったような気がする」
 マコトくんに訴えて一人で席に戻ると、そこにいたはずのカナコさんがいなくなっていたので、私は焦った。よく見ると、荷物は置いてある。帰ったわけではないと思ってひとまず安心した。
 汗を乾かすように、また冷たいアルコールを体に流し込む。生まれて初めて、純粋にお酒を美味しいと思った。大音量も暗闇もイイ感じで、その中で溶けてし まいたい。この夜遊びは、比較的自分の性には合っているかもしれないな、などと思いながら、わたしは宙に浮いたような気分で、冷たいグラスを手に持ってい た。

 しばらく待ってもカナコさんは帰って来なかった。そのうちマコトくんが席に戻ってきて、当然のようにわたしの隣に座った。
「あれ、連れのおねえさんは?」
「わからない。帰ってきたらいなかったの。マコトくんの連れもいないよね。踊っている人の中にもいないみたいだけれど」
「たぶんトイレだよ」
 マコトくんは笑って言う。
「トイレ? それにしては長すぎるよ。もうずっと帰ってきてないし」
 わたしがそう言うと、なぜかマコトくんはまた笑った。何かおかしいことを言ったのだろうかと思うけれど、やっぱり普通に話したつもりだ。
「わたし、何か変なこと言った?」
「ユキって面白いな」
 そう言うと、マコトくんは突然顔を近づけてきて、わたしの肩を掴んだ。次の瞬間、わたしはキスをされていた。
「な」
 一文字だけ発したけれど、そんなもの抵抗にもならなかった。口の中に舌が入ってきて動いている。初めてだったけれど、本当はこんなふうに初めてを迎えた くはなかったけれど、それとは別のところで、なぜか嫌な気持ちにはなっていない自分がいる。目を瞑るのが自然だと思った。頭がボーッとする。唇が離れて目 を開けた瞬間、マコトくんに言われた。
「たぶん、ユキの連れのおねえさんも、同じことやってるよ、トイレで」
「えっ」
「同じこと、というよりは、もっとすごいことかもしれないけどね」
 なるほどね、と妙に納得してしまう。そうか、やっぱりカナコさんはどこに行っても同じことをしているのだ。いつでもどこでも、どんな状況でも、誰とでも。
 急に冷めた目になってしまったのを見て、マコトくんが気を遣って言ってくれた。
「ユキは、これ以上奪ったら恨まれるかもしれないから、やめとくよ」
 わたしは、こういうときに何と答えていいのかわからない。そういうボキャブラリーが貧困すぎる。
「でも、ユキを見てるといろんな遊びを教えてあげたくなるよな。染まってないのに、怖がったりもしないんだよね。今度改めて会おうよ。携帯の番号教えて」
 たぶんマコトくんとはもう会わないような気がするけれど、携帯の番号は教えておいた。それが、この場には相応しい行動だと思った。
 マコトくんや、他にも何人かと言葉を交わしたり、一緒に飲んだり踊ったりして過ごしているうちに、カナコさんが帰ってきた。やっぱりマコトくんの連れの男の子と一緒だった。
 そのまま朝まで適当に過ごして、始発でカナコさんと一緒に帰った。
「一時間くらい、カナコさんの姿が見えなかったけど、何やってたの?」
 わざと聞いた。
「野暮な質問をするもんじゃないわよ」
 カナコさんは笑って言った。こういうのを、彼女は夜遊びというらしい。

 マコトくんとキスをしてしまって以来、なんだか意識してしまって、コバヤシとうまく喋ることができない。初めてキスをしたのが好きな人じゃなかったとい うのは少し後悔しているけれど、キスの感覚を知ってしまったことが、次の扉を開いてみたい衝動に走らせる。意外となまなましくて、そして気持ち良かった。 なんだかまるで中学生の初恋みたいに、妙に意識をしてしまう。イマドキの中学生は、もっと進んでいるかもしれないけれど。
 いつもの教室。いつもの昼休み。いつものわたし。いつものコバヤシ。いつもと同じように他にもたくさんいるクラスメイト。コバヤシは、時々わたしを見 る。わたしも、なんとなく時々コバヤシのことを見る。そしてわたしたちの視線はぶつかり合う。目が合って、逸らす。なんの用もないし、何か特別なことを言 う必要はない。だからといって、何も話さない必要もない。普通にしていよう、普通にしていよう、と、頭で考えれば考えるほど言葉が出なくなる。コバヤシ以 外の友達にも、なんとなく悟られるのがいやだから、なるべく避けるように学校から帰る。そんなこんなで、ここ三日くらい誰ともまともに話をしていなかっ た。口を開けば変なことを言ってしまいそうになる。
 カナコさんの部屋に帰っても、当然誰もいなくて、わたしは一人でテレビでも見てボーっと過ごしているのだけれど、それでは生活が堕落しているような気が して、たとえば今まで自分が聞かなかったような音楽を聴いてみるけれど、そんなことをするにつけて、やっぱり悶々と考え続けてしまう。今日もそんな夜を過 ごすんだろうな、と思いながら、重い気持ちでカナコさんの部屋のドアを開けると、カナコさんがいた。
「今日はユキのために、久しぶりに料理なんてしてみちゃった」
 そんなふうに言いながら、カナコさんはキッチンでカレーの味見をしている。わたしはそれを見て、意外と家庭的じゃない、などと感心してしまった。ちょっとした悩みは吹き飛ぶ程度に、衝撃的な面白さ。わたしはまだまだカナコさんのことを知らな過ぎる。
「カレーはあとちょっと煮込めば、美味しくできあがると思うよ」
「わぁい、楽しみ」
「夕飯にはまだ少し早いから、ビールでも飲みながら、夜が来るのを待とうか」
「うん」
 わたしは心得たように冷蔵庫から二つの缶ビールを出した。モルツと黒生。カナコさんは最近、黒ビールに凝っているらしく、冷蔵庫に常備している。わたしは何となく黒ビールの後味が苦手なので、普通のビールを飲む。
 プルタブを開けるとプシュという音が鳴って、少し泡が吹きこぼれた。少し手が濡れたけれど、そのまま乾杯する。鈍い音で、アルミの缶と缶がぶつかり合った。その瞬間、わたしの携帯が鳴った。液晶の画面には、コバヤシの名前が表示されている。
「噂のカレからのお電話じゃない?」
 カナコさんが嬉しそうにそう言った。わたしも嬉しかったけれど、コバヤシが電話をかけてくるなんて珍しいから、いったい何の用だろうと思ったし、カナコさんの手前照れくさいというのもあるので、「せっかく飲もうとしてたのにぃ」と嘆きながら電話に出た。
「もしもし」
「オレ。コバヤシ」
 コバヤシは、ただ名詞を並べたてた。そのぶっきらぼうな口ぶりに、私は半笑いしながら聞いた。
「どうしたの」
「突然だけど、今日飲もうぜ」
 久しぶりの会話。唐突な誘い方。わたしは内心ドキドキした。
「本当に突然すぎるよ。今どこにいるの? 一人?」
「おまえは? カナコさんちにいるんだろ。今日も一人か?」
「今日はカナコさん、いるよ。久しぶりに二人でご飯食べようって言ってたの」
「なんだ、そうだったのか」
 コバヤシは、妙に力が抜けたような声を出した。
「どうしたの、何かあったの?」
「今から二人の邪魔をしに行く。カナコさんに伝えておいて」
 コバヤシはそう言って電話を切った。結局何なのか、訳がわからない。
「何だって?」
 カナコさんがニヤニヤしながら聞いてきたので、
「コバヤシが、今からわたしたちの邪魔をしに来るんだって」
 コバヤシの言葉を、言われたとおりに伝えた。
「わぁ、本当? じゃあ、さっきの乾杯はなしネ。彼が来たら改めて乾杯するわよ」
「えぇ?」
 わたしは、別に異議もなかったけれど、コバヤシが来るのを素直に喜ぶのが癪なので、口を尖らせつつ言った。
「今から来るって言ったって、どこから電話してきてるんだか。あと何分で着くとも言ってなかったよ。いつになるかわからないじゃない」
「大丈夫、すぐに来るわよ」
 カナコさんがそう言い終わったか終わらないかのうちに、玄関のブザーが鳴った。ドアを開けてみると、コバヤシが立っていた。
「ホラね」
 カナコさんが、だから言ったじゃない、とでも言いたげな顔で、わたしに言った。
「何が?」
 コバヤシがきょとんとした顔で言う。自分には何の罪もない、というのを主張しているような感じだ。わたしは大袈裟にあきれた口調をして言った。
「始めっから来るつもりだったのね」
「ひょっとして、わたしがいない間に来て、ユキを襲おうと思ってたんでしょう?」
 すかさず、カナコさんがコバヤシを茶化した。コバヤシは、「そんなんじゃないけど」とニヤッと笑って言葉を濁しただけだった。
 オレンジ色のカーテンは、夏の夕方をますます赤く見せる。もうすぐ七月になろうとしているというのに、この六月はちっとも雨が降らない。わたしたち三人は、オレンジ色の部屋が暗くなってしまうまで明かりも付けずに、ビールの缶を七本空けた。
 コバヤシは、久しぶりに会うカナコさんとの会話を楽しみながら、わたしとはいつもどおりの調子で話をした。何をしにここまで来たのかなんていうことは、 全然語らない。わたしは何となく腑に落ちないけれど、それよりもなによりも、コバヤシと普通に話ができるのが嬉しかった。
 結局コバヤシは、たくさん飲んで、たくさん食べて、たくさん喋って、満足した顔で十時過ぎに自分の家へ帰った。
「楽しかったね。コバヤシっていいヤツじゃない?」
 カナコさんも満足そうに言った。それから、ふと首を傾げて笑った。
「だけど、彼、何をしに来たの?」
 わたしは空き缶を片づけながら小さな声で、「さあ」と答えた。最近わたしがコバヤシを意識してしまって、うまく喋ることもできなくて、避けて歩いている ことは言わなかった。こんなわたしの機嫌を取るために、彼がわざわざここまで来てくれたのは、とても嬉しい。コバヤシは、たぶん言葉を交わしたかっただけ なんだろうと思う。何を話すということではなく、ただ言葉を交わすだけ。声を出して、それに反応する、そういう単純なことが、人間と人間には必要だという ことを、私も最近知り始めた。誰にも話さずに部屋に帰って、一人で考えているだけじゃ、何も前に進まない。コバヤシは、きっとそんなわたしをも見透かし て、普通に喋れるきっかけを与えるために、ここへ来てくれたんじゃないだろうか。
 何でもない話でも、彼と言葉を交わしただけで、わたしの気持ちはもう軽くなっている。それだけでなく、心がじんわりとあたたかくなるような感覚で、わたしは満たされている。カナコさんがわたしを見て、にっこりと笑う。わたしもにっこりと笑い返す。
「邪魔者が消えたところで、今度こそ女二人の楽しい宴を始めようか」
 カナコさんは、戸棚の奥に隠していたウイスキーのボトルを引っ張り出してきた。わたしはグラスを差し出して、水割りを作るカナコさんの手さばきを観察する。毎晩、仕事でやっているだけあって、さすがに手慣れたものだ。
 くだらない話をしているうちに、そのボトルは空になってしまった。わたしは、カナコさんの話(芸能人の噂とか、いわゆる下世話なものばかりだったけれ ど)にも、ずっとでも笑っていられそうな気がした。二本目のボトルを飲みながら、いつの間に寝てしまったのかはよく覚えていない。

 次の朝は、何とか早起きしてバイトに出掛けた。二日酔いの頭はクラクラと常に揺れていて、視界もぼやけている感じがする。二日酔いというより、まだ酔っ ている感じかもしれない。今日の授業は三、四限だけ。二つとも出欠を厳しくとるけれど、毎週ちゃんと出席しているから、一回くらいサボってしまってもい い。そう思って、わたしはバイトの拘束時間が終わると、そのままカナコさんの部屋に戻った。
 バイトが終わった時間、と言っても、まだ午前十時前。いつもだったらまだカナコさんは寝ているはずなので、静かにドアを開けたら、彼女はちゃんと起きていた。
「あら、もう帰ってきたの?」
「二日酔いだから、学校行くのやめた」
 わたしは靴を脱いで部屋に上がった。昨日飲み散らかしたはずの部屋はすっかり片付いていて、その代わりにテーブルの上にはいろいろな本が開き散らかされている。
 カナコさんは、その真ん中でワープロを打っていた。カチャカチャと、なかなか早いタッチタイピング。わたしは驚いてしまった。カナコさんにワープロを使うことがあるなんて、想像もしていなかった。だいたい、この部屋にワープロがあったこと自体知らなかったのだ。
 わたしは、恐る恐る聞いた。
「何やってるの? カナコさん」
「レポート書いてるのよ。そんなこと、見ればわかるでしょう」
 カナコさんは振り向きもせず、ワープロのキーボードをたたきながら悠々と答えた。
「わかるよ。どう見ても、レポート書いてるように見えるよ」
 そのとおり。カナコさんは、レポートを書いているのだ。だけど、そんな簡単な答えで納得できるほど、わたしの心は落ち着いてなどいられなかった。
「いったい何のために、何のレポートを書いてるって言うの?」
 カナコさんは、今度はふと手を止めて、ちらっとわたしの顔を見た。
「単位を取るために、中国文学のレポートを書いてるのよ。わかったら、もう邪魔しないでね」
 わたしとカナコさんの間を、沈黙が流れた。もっともそれを沈黙だと思っているのはわたしだけのようで、カナコさんはすました顔で、またワープロをカチャカチャやっている。理解ができないので、わたしはもう一度聞く。
「単位って、単位?」
「単位は単位でしょう、他に何ていうの」
「カナコさんって、ひょっとして学生なの?」
「知らなかった? 言ってなかったかしら」
「大学? どこの?」
「ユキと同じ大学よ。確か、言ったと思うんだけどなぁ。ホラ、二回目に池袋で会ったときに、言ったじゃない」
「知らないよ」
 つい大声で言ってしまったけれど、そういえばカナコさんと二回目に会ったとき、わたしは酔いすぎていて、何の話をしたのか全く覚えていない。そのせいかもしれない。
 わたしが大きな声を出したからなのかわからないけれど、カナコさんは床に置きっぱなしの財布から学生証を取り出して、黙ってわたしに見せた。間違いなく、うちの大学のものだった。
「文学部、四年生? この時期の大学四年生っていったら、就職活動で忙しい時期なんじゃないの?」
「いいのよ、就職なんて。どうせ今年卒業できないんだから」
 カナコさんは、あっけらかんとして笑ったかと思うと、またすぐにワープロの画面に向き直った。あのカナコさんがこんなに真面目になるくらいだから、よほ ど単位が危ないのだろう。わたしは、そんなカナコさんの姿をただボーッとしながらしばらく見つめることしかできなかった。
 正直な話、かなりの衝撃。
 わたしの中でのカナコさんは『夜の東京の象徴』だ。それは確かに主観だらけの一方的な妄想に過ぎないのだけれど、毎晩男の人に囲まれていて、きれいな服 を着て、きれいにお化粧をして、きれいにツメを塗って、その手を使って魔法のように、グラスにお酒を注ぐのがカナコさんだ。きらきらしているネオンのよう なイメージ。そんなカナコさんが、あの薄汚いキャンパスで、昼間からよぼよぼなジジイの教授の講義を聴くなんて、ちょっと想像できない。とはいえ、カナコ さんが学生という保証されている身分であることは、どちらかといえば同居人にとっては悪くない話だ。カナコさんは金がない金がないと言うけれど、本当は ちゃんと学費を払ってくれる親がいて、仕送りだってもらっているはずだ。少なくとも、とてもじゃないけれど学費まで自分で払っている生活には見えないし。 ああ、それでもやっぱり信じられない。
 わたしは、とにかく動揺を隠しきれなくて、大きく溜息を吐いた。
「どうしたの?」
 何でもない、とわたしは言って、それからテーブルに置きっぱなしのヴァージニアスリムの箱から一本を抜いて、それに火を点けた。カナコさんと一緒に暮ら すようになって覚えたことのひとつ。煙草の煙が、動揺している心に落ち着きをもたらしてくれるということを、いつの間にか身体で覚えていた。
「あらまあ。ユキ、どうしちゃったの?」
 カナコさんは呑気そうに聞いたけれど、きっとわたしの心の中に妙な風が吹いていることくらい読み取っているはずだ。その証拠に、カナコさんの次の台詞には、少しトゲがあった。
「ユキみたいなオジョウサマには、煙草なんて、全然似合わなくてよ」
「別に、お嬢様なんかじゃないもん」
 だけど、自分の中に起こってしまった風の原動力がいったい何なのか、そういう重要なことは、まだわたしにはわからない。

 天気予報なんて、家を出て以来めったに見なくなった。なんせ、朝はテレビを見る間もなくバイトに出掛けてしまうし(本当は天気予報くらい見たいけれど、カナコさんが寝ているので気が引ける)、家に帰ってから明日の天気を気にするのも、何となく無駄なような気がする。
 気が付けば、七月は着々と半ばにさしかかっていた。いつもだったらそろそろ梅雨明けの時期なのだけれど、雨が降った記憶がほとんどないまま、真夏のような天気が続いている。梅雨明け宣言はしたのだろうか。そんなことを考えて気を紛らせてみたけれど、だめだった。
 暑い。
 冷房が壊れているのだろうか、教室の窓は全開になっている。けれど、風がちっとも入って来なければそれも意味がない。汗ばんだ洋服はぺたっと肌にくっつ いてきて気持ち悪い。とてもじゃないけれど、こんな場所で九十分も講義を受けるほどの気力も熱意も、わたしにはない。というわけで、午後一番の授業が始 まってすぐに、わたしは帰る体勢を整えた。時間割の穴埋めのためだけにとったこの授業は、一緒に受けるような仲の良い友達もいないから、一人で抜け出すに は、好都合だ。出席だけ取ったのを確認して、わたしは教室の後ろのドアから逃げ出した。
 誰もいない廊下は、静かで、涼しい。わたしは少しだけ得をしたような気分になって、しゃんと背筋を伸ばして正門をくぐり、駅に向かって真っ直ぐ歩き出そうとした。
 そのとき。
「おい、ねえちゃん」
 誰かがわたしのほうに向かって声をかけた。周りには人が歩いていないから、わたしに声をかけたんだと思うけれど、気の利かないナンパのような話しかけ方が気にくわないので、無視した。
「待ってよ」
 もう一度、声の主はわたしに話しかけた。この声、聞いたことがあるような気がする。わたしはハッとして思わず振り返った。やはりそうだった。
「マサル!」
 わたしは思わず、必要以上に大きな声を出して飛び上がってしまった。彼もその声に驚いたらしく、大きな丸い目をさらに見開いている。
「な、何しにここまで来たの?」
「別に、連れ戻しにきたわけじゃないよ」
 もう一度、その声に懐かしさを感じた。もう二ヶ月近くも聞いていなかったけれど、確かに実の弟の声。
「暇だったから、様子を見に来ただけ」
 マサルは肩をすくめて言った。オーバーなわたしのリアクションに、少し辟易しているようだった。
「お母さんに言われたの?」
「別に。おれが来てることすら、知らないよ」
 彼のこめかみのところに玉になった汗が見えて、わたしの体は急に暑さを思い出した。落ち着いて見れば、マサルは制服を着ている。学生服の黒いスラックスが、一層暑さを引き立てる。
「学校は? まだ夏休みじゃないでしょう? まさか、サボってここまで来たってわけ?」
「今日の午前中で全部テストが終わって暇になったから、来てみたの」
 苛々したようにマサルは言った。せっかく心配して様子を見に来たのに、こんな暑い日の炎天下でこう質問責めをされては苛立つのも仕方がないと、わたしは他人事のように思った。
「ああ、そうか。高校生はもう、期末テストの時期だもんね」
「そう。だから暑いよね」
「暑いわね」
 マサルが目を光らせたのを見て、わたしが次に来ると予想したセリフを、彼はそのまま口にした。
「かき氷でも食べに連れてってよ、ねえちゃんのおごりで」
 仕方ないので、わたしはトモコたちとよく行く喫茶店にマサルを連れて入った。珍しく空いている。冷房がよく効いていて、乾いた汗の跡がむしろ寒いくらいだ。マサルは当初の予定どおりイチゴフラッペを頼んだけれど、わたしはアイスティーにしておいた。
 イチゴフラッペがテーブルにやって来ると、マサルはスプーンでシャキ、シャキと端のほうを崩して、早いペースで食べた。よほど喉が渇いていたのだろう。 しばらくは無言で食べ続ける。シャキ、シャキ。マサルは十七歳で、今がいちばん育ち盛りなのかもしれない。ほんの少し見ない間に三センチぐらい身長が伸び たように見える。
「お母さんたちは、元気?」
「うん。別にいつもどおり。 あ、でもおばあちゃんはちょっと具合悪いみたい」
 彼は食べる速度を少し落として、だけどシャキ、シャキと音を立てながら答える。
「みんな、わたしのこと何か言ってる?」
「初めは大騒ぎしてたけど、そのうち帰って来るでしょうって、安心しきってるよ。家出のくせに行き先をちゃんと書き置きしてったぐらいだもんね。ねえちゃん、変わってるよ。そういうの、家出って言わないぜ」
「ふん、バカにしないでよ。わたしは帰らないわよ」
「別に帰って来なくてもいいよ」
 マサルは子供の頃の口喧嘩のような憎まれ口を叩いて、ニヤリと笑った。こういうところが十七歳らしく、子供だ。
 それからわたしは、カナコさんの家のこととか、バイト先のこととか、大学のこととか、そういう話をマサルに聞かせた。
「楽しいの? 家出って」
「え?」
 そんな風にストレートに聞かれると、何と答えていいのかわからなくなる。
「楽しいって言うか、色々と便利なの」
「ふん」
 マサルは鼻で笑ったような音を出して、黙って残りのフラッペを食べた。もうシャキ、シャキという音は聞こえて来なくなった。溶けた氷とシロップで薄められたコンデンスミルクが、器の底に溜まっているのを、わたしはぼんやりと見ていた。
 楽しいのか、と聞かれて、楽しいか楽しくないかで単純に答えられない理由。彼は頭のいい子だから、ひょっとしたら、もうわたしの状況を理解したのかもしれなかった。そして頭のいい子なだけに、それを黙っていることしかできないのだと思う。
 我が家の家族仲は、どう控えめに言ってもいいとは言えなかった。けれど、姉弟仲は他の家と比べてもいいように思う。それも、そうなったのは思春期以降だ。気が付いたら弟は仲間になっていた。横暴な両親に対抗して、仲間と呼び合える唯一の理解者。
 わたしはあの両親の監視の下から、一人で逃げ出してしまった。彼にはまだ、それはできない。まだ高校生だから、物理的にも精神的にもそれだけの実行力が ないはずだ。わたしはそれを知っていながら抜け駆けをしたようなものなのに、彼はこうして心配をして様子まで見に来てくれる。そんな弟に余計な心配をさせ るようなことは、言えるはずがないし、言いたくもない。
 夢にまで見た東京での生活は、楽しいとかそういう言葉で表すことができるものではなくて、実際に始めてしまえば、夢でもなんでもないただの現実だった。生活とは、夢の対極にある。そういうことを、今はまだ言ってしまいたくない。
「それじゃ、ゴチソーサマ。たまには家に帰ってこいよ」
 マサルは、そんなわたしの気持ちを知ってか知らずか、帰りの電車賃までふんだくって、穏やかな顔をして帰った。

「ねえ、コバヤシくんとどうなの?」
 ごく普通の水曜日に、トモコはそんなふうに話を切り出してきた。ものすごくさりげないふうに聞いてきたけれど、それまで話していた昨日のテレビのことと は何の繋がりもない、唐突な切り出し方だった。たぶん、いつ言おうかいつ言おうかと心の準備を一人で進めていたのだろう。
 いつもだったら、クラスの何人かで学食の大きなテーブルを占拠している頃だ。その中にはたいていコバヤシもいる。けれど、テスト前は割と休講になる講義 も多く、なかなか人が集まってこない。わたしとトモコは、昼休み前からずっとこのテーブルにいる。今日はたまたま二限の必修が休講で、運悪く一限に出席必 須の講義が入っていたのだ。もう二時間近く、ポップコーンをつまみながら次のテストの勉強を少しだけして、八十パーセントはおしゃべりに興じていた。
 突然、「ところでさー」とトモコが話を切り替えようとしたときに、わたしは彼女が何を言おうとしているのかがわかってしまった。目が、饒舌に彼女の気持ちを主張していた。
 正直な話、いつか来るだろう、いつ来るだろうかと身構えていた。だって、彼女がコバヤシのことを目で追ったり、コバヤシばかりに話しかけることに気付い ているのは、わたしだけではないはずだ。そして、トモコのそんな努力にも関わらず、コバヤシがわたしにばかり気をかけていることも。ナカムラくんなんかは 親切にも、「ぼんやりしてるとトモコにコバヤシ盗られちゃうぜ」と忠告してくれたくらいだ。
 トモコはくりんとした目でわたしの顔を覗き込んで、わたしの次の言葉を促した。口は微笑んでいるけれど目が笑っていない。どちらかといえば、泣いている みたい。こんなふうに目を潤ませていると、トモコは本当に美少女だと思う。そんな眼で見つめられたら、同性のわたしだって緊張のあまり動けなくなってしま う。
 だけど、よく考えてみたら彼女はわたしを見つめているわけではない。泣きそうになりながら、負けまいと、必死に気合を入れて、わたしを睨んでいる。顔は笑っているのに。何と答えていいのかわからなくて、でも黙っているのも重苦しくて、少しの沈黙のあとでわたしは言った。
「トモコは、コバヤシのことが好きなんだね」
 彼女の頬は見る見る真っ赤になった。少し目がつり上がったと思う。
「ユキ、逃げないでよ」
 トモコは長い睫毛を伏せて、そう言った。その声は、やっとのことで平常心を保っている人特有の細かい震えを持っていて、なんだかそういう限界な人を見て いると、わたしは逆にすぅっと熱が冷めていく感じがする。爆発寸前の感情の塊は、今まさに自分にぶつけられようとしているのだけれど。
「小林くんのこと、好きなら好きってちゃんと言えばいいじゃない。自分の気持ちはぜんぜん見せないくせに、そうやって人のこと詮索してるの、よくないよ」
 言葉を押し流す間のタイムラグが、たぶん辛いんだと思う。トモコは、少しずつ外に流れて来る感情をせき止められずに、目に涙を溜めながら、それでもわたしのほうを真っ直ぐに向いて言った。そんなトモコを見て、わたしのほうはなぜかますます気持ちが冷たくなる。
「詮索してるのはトモコの方じゃない?」
 落ち着いた声で言った。トモコの熱に対して、わたしが差し出したのは氷。わたしは溶けてしまえばいいし、そのことでトモコの熱も冷めればいいと思った。願いが通じたのか、トモコは俯いたまま、もう自分からは何も語ろうとしない。
 この問題をこれ以上大きくしないために、そのまま放っておいてもよかった。けれど、このままでは私とトモコの関係が悪くなるばかりだ。わたしは自分から話を再開せざるを得なかった。
「ごめんね」
 トモコはまだ俯いたままだ。弁解のためではなく自分のために、話を続ける。
「わたしとコバヤシが付き合ってるかどうかを聞きたいの?」
 トモコは俯いていた眼を少しあげて、キッとわたしのほうを見た。
「それとも、わたしがコバヤシのことを好きなのかどうかが知りたい?」
 なるべく穏やかに、わたしは言った。トモコは黙りこくっているけれど、眼は真っ直ぐにわたしを見ている。
「それならば、答えられるよ。わたしはコバヤシと付き合っているわけじゃないし、彼が誰を好きなのかも知らない」
 一回、唾を飲みこんで、わたしは噛みしめるように次の言葉を吐き出す。
「でもわたしは、コバヤシが好き」
 言ってしまった。
 自分の中でもなかなか認められなかった気持ちを、わたしはとうとう口に出して言ってしまった。
 わたしは、すごく重大な決断をしたかのように、責任が迫ってきているのと、その傍らで心のどこかが軽くなって行くのを感じていた。マラソンの後のような妙な爽快感で思わず笑ってしまうと、トモコもなぜか笑ってくれたから救われた。

 学校から帰ると、今日もカナコさんは家にいて、傍らの分厚い本を見ながら、ワープロのキーを打っていた。
 似合わないなあ、とは思ったけれど、この前のみたいな嫌気に似た感情は今日は少し穏やかになっていた。たぶんこの前は、自分が今まで知らなかったカナコ さんの一面を突然見せつけられて、驚いてしまっただけだ。または、今までカナコさんの身分すら知らずに一緒に暮らしていた自分に対して、戸惑ってしまった のかもしれない。こんなことではいけない。わたしはカナコさんのことをもっと知らなければならない。それに、知りたい。
「カナコさん」
 わたしは彼女の背後から控えめに声をかけた。カナコさんは手を止めて顔を上げた。
「どうしたの? 急に改まった声なんか出しちゃって」
「レポートの邪魔かなと思って」
「いいわよ。ちょうど休憩しようと思っていたところなの」
 カナコさんはそう言って、座ったまま上半身を大きく伸ばした。それから、突然わたしのほうに向き直って、胡座をかいた。スウェット素材のハーフパンツから、ナマのままの白い脚が伸びている。彼女の脚は決して細くはないのだけれど、妙に女らしい。
 彼女はゆっくりと煙草を一本取り出して、それを小さな口にくわえて火を点けて、そのあとアップにした髪の毛を揺らすように首を回した。そして、ふぅっとため息。
「で、何?」
「へ?」
 悠々とした動作に見入っていたところに突然話を振られたので、わたしは焦って変な声を出してしまった。
「さっき言いかけたこと。何?」
 カナコさんは、唐突にわたしの顔を覗き込んだ。わたしはドキドキしながら、用意していた質問を投げかけた。
「カナコさんの実家って、どこなの?」
「熊本」
 他に答えようがないのだろうけれど、カナコさんはシンプルに答えた。
「九州かぁ。でも、言葉は訛ってないね」
「直したのよ」
「ふうん。方言って羨ましいけど」
 それは、わたしの正直な気持ちだった。千葉といっても、わたしが住んでいたところは東京に通うために整備された新しい街で、地域特有の文化や言葉を持た ない。それは決して嫌ではないけれど、深さがないと感じる。便宜的に存在しているだけの街で、誰も故郷を愛していない、そういう浅はかさが滲み出ている。
「あっちの言葉ってなんだかきつくて、あたしは好きじゃないの。方言を喋らない人間にはわからないわよ」
「そうかな。それにしても、イントネーションの微妙なところとかに方言って出てくるものだと思うけど、カナコさんにはそういうのもないよね。だから、東京の人だとばかり思ってた」
 カナコさんはふっと笑って、「努力努力」と小さな声で言った。わたしはカナコさんと目を合わせて、少し笑った。
「もう一つ、質問」
「こんどは何?」
「どうして、故郷を離れて東京の大学に入ろうと思ったの?」
 カナコさんは喫った煙をゆっくりと吐き出しながら、大きな目でわたしの顔を凝視した。とても深い目だと思う。わたしは思わず、掌に冷や汗をかいてしまった。そんなわたしの内心とは裏腹に、カナコさんは落ち着いた口調で答える。
「これでもあたし、高校ではトップクラスの成績だったのよ」
「へえ」
「でも、どうしてあえて東京なの?」
「地元にもそこそこの大学はあったけどね。東京になら、わたしの才能をもっと開花させるチャンスが転がってると思ったの。ただお勉強ができる地方のお嬢さ んでいるよりは、いろんなことがしたかった。実際、今の生活のほうがあたしには合ってると思うのよ。井の中の蛙でいるよりも、外の世界を知りたかったの」
 カナコさんにも高校でトップクラスだった時期や、受験や将来のことを真剣に考えていた時期があったなんて、ちょっと想像できなかったけれど、言いたいことはよくわかった。井戸を飛び出して違う世界で生きている蛙は、そこに何かを見出したのだろうか。
「じゃあ、ユキは?」
「え?」
 思索しているところ、突然自分に話を振られたので、わたしはまた裏返った声で妙な返事をしてしまった。いつもならこういうわたしを見てカナコさんは笑うのだけれど、今日はそれもなく、そのまま質問を続けた。
「どうして東京の大学に入ったの?」
 同じ質問。わたしは少し考えてから、だけど考えるようなことは何もないことに気がついて答えた。
「だって、それが普通だもん」
「普通?」
「わたしが住んでいたところなんて、単なるベッドタウンだもん。近くにそれなりの大学なんて少ないし、短大も専門学校も、就職するにしても、都内に出なくちゃ何もないから」
「ふうん」
 カナコさんは低い声でそう言って、新しい煙草に火を点けてから付け足した。
「要するに、ユキは何だかんだ言っても都会の子ってわけね」
「都会、とは違うよ」
 カナコさんはまた机に向き直って、レポート執筆を再開した。わたしは特にすることもなくなって、カナコさんの背後でカナコさんを見ている。彼女の後ろ姿を見て、あらためてわたしは思った。初めて出会った日の、あのミルク色の爪。やっぱり、カナコさんはイチゴなのだ。
 地方のお嬢さんだと、カナコさんは自分で言った。きっと、ビニールハウスの中で大切に育てられて来たのだと思う。程良く甘くて、程良く酸っぱくて、とて も形の良いイチゴに育った彼女は、食べてくれる人がたくさんいる東京に出荷されてきた。今がいちばん食べ頃で、本人もそれに気付いていて、他の人から見て もそれは一目瞭然だ。わたしもその甘酸っぱい美味しそうな香りや、吸い込まれるような熟した色に引きつけられて、彼女に近付いた人間の一人に過ぎない。
 それと比べてわたしは何なのだろう。都会のやせた土で育って、酸性雨をかぶりながら、ビルの片隅でいつの間にか実を付けようとしているイチゴなのだろうか。誰かが気付いてくれないと、そのまま枯れてしまうんじゃないだろうか。
 不意にコバヤシの顔が頭に浮かんだ。だからといってわたしに何ができるわけでもなかった。

 いよいよテストが始まった。大学に入って初めてのテスト。高校までのように、三日間で多数のテストをおこなうというではないのは嬉しいけれど、ポツンポ ツンと断続的に二週間もテストが続くことを思うとウンザリする。ウンザリと言うよりは、集中して勉強する気になれない。ひとつのテストを終えたら何となく 次のテストの勉強に取りかかるという感じで、まったく気合が入らない。一応勉強したいことがあって大学に入ったはずなのに、今は一般教養ばかりだから、 やっている内容にも興味がもてない。
 心理学のテストが終わったあと、今度は法学の勉強をする。勉強をする、というと聞こえがいいけれど、実際にはまず、きちんと講義の内容が書かれた誰かのノートをコピーすることから始まる。
 ノートはナカムラくんが入手してくれた。これをわたしとコバヤシとトモコとナカムラくんの四人分、コピーする。五十頁にも及ぶノートを四人分コピーする のは、当然のことだけれど時間がかかる。はじめこそ図書館にあるコピー機を四人で囲んでわいわいとやっていたけれど、実際の作業はコピー機の操作だけだか ら、四人がかりで立ち向かう程の大仕事でもなかった。結局はわたしとトモコがコピーをして、コバヤシとナカムラくんはコピー機から離れて煙草なんかを喫っ ている。人に面倒くさいことを任せて、自分たちはばっちりノートだけを入手しようという魂胆だ。わたしとトモコは、「わたしたちの分だけコピーして帰っ ちゃおうか」などと言いながらも、やっとこさ四人分をコピーし終えて、人混みを掻き分けて彼らがいるベンチへ歩み寄ろうとした。
 そのとき、不思議な光景が見えた。
 コバヤシがカナコさんと会話している。横ではナカムラくんがカナコさんのことを興味津々で見ている。
 街の中で見れば、どうということもない場面だけれど、学校の図書館だったので、ものすごく違和感があった。
 コバヤシがいち早くわたしを見つけて、「ユキが来たよ」とカナコさんに言った。カナコさんは嬉しそうに振り向いて、「こんなところで会えるなんて!」と 叫んだ。劇的な再会のような、オーバーな演出。混雑しているとはいえ静かにしなければならないはずの図書館で、その叫びは異様に響いた。沢山の視線がわた しとカナコさんに突き刺さる。カナコさんの故郷の図書館はこんなに賑やかなのだろうかと、注目を集めながらわたしはぼんやりと思った。
「同じ大学の学生なのに、今まで学校で会わなかったほうが不思議なんじゃない?」
 つい冷たい言い方をしたわたしに、カナコさんはきょとんとした。ほとんど金髪になるまで色を抜いた髪の毛に、流行の民族調のノースリーブのワンピース (わたしも、前からそのワンピースはかわいいと思っていたけれど)を着て、ピンヒールのミュールを履いて、たくさんのアクセサリーを着けて。たとえばここ にきれいな海と夕焼けがあったら、その格好がカナコさんの美しさを際立たせるだろうと思うような、そんな格好。
 問題は、ここが学校の中、しかも図書館だということだ。格好だけでも目立つのに、さらに大声で騒いでいるのだから、これはもう周囲が注目しないわけがな い。好奇の視線が、わたしには痛い。それを恥じ入りもせず受け入れるカナコさんは、それが好奇ではなく、好意の視線だと勘違いしているように見えてしま う。つまりひとことで言えば、下品だった。
「それで、カナコさん、どうしてこんなところにいるの」
 わたしは、わざと小声で言った。
「どうしてって、ノートを入手しに来たに決まってるでしょ」
 さすがにカナコさんもわたしの冷たい口調にムッとしたらしく、ツンとしている。
「クラスの子たちと、ここで待ち合わせてるのよ」
 カナコさんがそう言い終わらないうちに、「よう、カナコ」「カナコちゃん、久しぶり」と、彼女のクラスメイトとやらがやって来た。背が高くて、お洒落な 男の子が、五六人。カナコさんに会うのを楽しみにしていたような、いい笑顔で寄ってきた。その中には、サカガミくんもいた。
「じゃあ、わたしたちはこれで」
 わたしは一人でそう言うと、さっさとその場を立ち去ろうとした。トモコがわけのわからないままオロオロとついて来た。それからコバヤシが、「今度飲みま しょう」なんて調子のいいことを言いながら、カナコさんと話せずじまいで未練がましい顔をしたナカムラくんを引っ張るようにしてわたしを追いかけて来た。
「カナコさんと喧嘩でもしてるのかよ」
 コバヤシは別に怒っているわけでも非難しているわけでもないような感じで、わたしに聞いた。わたしは早足で歩きながら、「別に」とだけ小さい声で言った。
「ちょっと、ワケわかんない。誰、あの人。二人の知り合い?」
 トモコが質問すると、わたしが答える前になぜかコバヤシが答えてしまった。
「ユキのルームメイト。って言うのかな、居候させてもらってるだけだけど」
 こういうコバヤシの無神経さにトモコがいちいち傷ついた顔をしているというのに、彼はそのことにぜんぜん気付かない。
「でも、本当に美人だなぁ」
 ナカムラくんが感嘆の声を上げたあと、トモコはふと溜め息を吐いて、
「ユキも、変わるわけだ」
 と言い捨てた。トモコの言いたいことは、肯定はしないけれど理解はできる。だからわたしはおとなしく耐えようと、ただ黙っていた。それなのに。
「変わったかな? そんなことないよ。こいつには成長がない」
 またコバヤシが返事をしてしまった。わたしはトモコの傷ついている顔を見たくないから、一人でみんなの三歩前を歩いた。それ以上フォローする気にもなれなかった。
 わたしを取り囲む空気はカナコさんによってかき乱されて、どんどん重くなっていくみたいだった。乗り込んでいったのは、お世話になっているのは自分なのに、こんなふうに感じてしまう自分が嫌いだ。

「はい、三百四十五円ちょうどお預かり致します。ありがとうございました」
「はい、ドウモね」
 常連客のオジイチャンは、日曜日だって必ず犬を連れてこのコンビニを訪れる。いつもとても元気で、わたしの顔にはほほえみが自然に生まれる。
 わたしだって、元気だ。日曜日だというのに、しかも昨夜はコバヤシたちとテストの打ち上げと称して飲んでいたというのに、朝が来れば決まった時間に目が覚めるし、レジを打つためにこの店にきちんと来ることができる。
 もちろん、飲んだ次の朝のバイトは体力的につらい。けれど、わたしはもうこの単純な仕事にはすっかり慣れてしまっている。頭で考えるようなことは、何ひ とつない。惰性でレジを打てるし、癖で客に愛想を振りまける。日曜日の朝はいつもよりお客さんが少ないというのもあるかもしれない。けれど、お客さんの一 人一人を観察しては面白がっていた気持ちも薄れてしまった。見慣れてしまえば、単なる他人の習慣だ。ここに来て感動することも、今はもうない。
 退屈。
 そんな言葉がふと思いついた。我ながら、少なからず驚く。
 退屈。
 もう一度、心の中で発音してみる。それは、東京にはきっと存在しないであろうと思っていたモノだ。わたしが千葉のあの家を出たのは、退屈な日常を捨てて、退屈の理由である両親の呪縛から解き放たれて、退屈ではない新しい生活を始めるためだったはずだった。
 あれほど憧れていた東京での生活。友達がいつも近くにいて、刺激的なことを教えてくれる年上の女性が近くにいて、なんのしがらみもなくその影響下で風に吹きさらされる事もできる。それは千葉では考えられなかったはずの刺激なのに、わたしはもう退屈してしまっているのだ。
 レジを打ちながら、愛想笑いを小さく浮かべて、わたしは心の中だけで、小さく溜息を吐いてみた。
 退屈になるのは、仕方のないこと。だってわたしにとっては、今や東京が日常で、生活になってしまっているのだから。どこにいたって、毎日ドラマティック なことばかりが起こるわけもない。『住めば都』という言葉があるけれど、今は『住めば故郷』という感じ。どこにいたってわたしはわたし以外の何にもなれな いし、わたしのいる場所はわたしのいる場所以外の何にもならない。
 わたしは相変わらず手で慣れたレジを操作し、顔には惰性で愛想笑いを浮かべながら、頭をフル回転させて考える。
 そもそも、わたしは東京に何を求めていたのだろう。遠距離通学の苦労を緩和するため? あの両親の監視からの、脱走? どちらも正しいような気がするし、どちらも成功だったと言えるかもしれない。
 だけど、電車に乗る時間が少なくなった分、バイトの時間が増えた。お金になるかならないかでいえば、バイトしている方が時間を有効に使っているような気 がするけど、単純に忙しくなっただけのような気もする。それに、監視されようがされまいが、わたしは好きなことと嫌いなことの区別も、善悪の区別も、たぶ ん一人で判断できるはずだった。自分が正しいと思えば、反対されても結局やるしかない。たとえば今回の家出のように。
 どちらも決め手ではなかった、と思う。
 結局、わたしはカナコさんに会いたくてここに来たのかもしれない。自分とまったく違う世界、自分が今まで知らなかったような世界に住んでいる人と仲良く なりたくて、影響されたくて、少しずつだけれど、努力してきたつもりだ。もちろん、それも成功だった。私はカナコさんから多大な刺激を受け、そのおかげで わたしの頭は常にフル回転で考えさせられていた。たぶん前よりもずっと大人になったはずだ。
 だけど、だからといって、わたしがこの場所にこだわる必要もないような気がする。
 ここのところカナコさんには驚かされてばかりいる。良い意味にも、悪い意味にも。だけどその驚きも、もともとわたしの勝手なイメージ、つまり、
   カナコさん=東京の象徴
 という漠然としたものに適合するのかしないのか、それに驚いているだけであって、しかも適合すればしたで、しなければしないで、何れにせよ驚くことしかわたしにはできない。何にせよ主観的だ。
 東京という雑然とした街。小綺麗にまとまった新興住宅街に生まれ育ったわたしには、その雑然ささえも憧れだ。電車で一時間程度の距離を移動するだけで、 違う世界がそこにある。カナコさんの仕事も、住んでいるマンションも、出入りする男の人たちも、全部が全部『東京っぽい』と思っていた。でも、実際はどう なのだろう。
 カナコさんは東京の象徴というよりは、東京の一部だった。雑然とした東京を構成している要素のひとつ。カナコさんが特別なのではなくて、地方から出てき て東京を作っている多くの若者は、皆同じように生きているのかもしれない。たまたまわたしの目を引くほど、彼女が華やかだったというだけで。
 それに比べてわたしは何なのだろう。いくらカナコさんの家に寄生してみても、それで東京を構成する存在にはなれない気がする。小さい頃から東京の支配下 にいて、すぐ近くで常に影響を受けつつも東京とは種類の違った空気を持つ街で育ってきた。国道十六号の周りにはそういう街が沢山あって、そこは郊外と呼ば れて、東京の便利さを享受しつつも単に共生するだけで、違う文化を作り上げている。それは、要素となることとはまったく逆なのだ。
 どこで生まれどこで育とうが、その人はその人だ。出身地で都会人とか田舎者とか差別をしたりされたりするのはくだらないし、だいたいどっちが都会でどっちが田舎なのかも判断できない。わたしが感じているのは差別ではなく、違いなのだと思う。
 わたしは東京を作ってゆきたいとも思わないし、作ってゆける能力もない。わたしにできるのは、やはり共生することだけだ。近すぎず遠すぎない、中途半端な場所で、静かに東京を客観的に見て、利用するだけ。
「お疲れさま、何か問題はなかった?」
 重役出勤の店長の言葉に、わたしは我に返った。その次の瞬間には、無意識のうちに愛想笑いで彼に答える。
「大丈夫ですよ、そろそろ信頼してくださいよぉ」

 バイトを終えてカナコさんの部屋に帰ると、まだ寝ているはずのカナコさんが、なにやらバタバタしている。「ただいま」と声をかけたら、小さく何か言っていたけれど、よく聞こえなかった。
 部屋に入って見ていると、カナコさんはさっきバタバタして押入から出した旅行バックに、いそいそと洋服を詰め込み始める。
「旅行にでも行くの?」
「ううん、一週間ぐらい、実家に帰ってくる。夏休みだし」
 カナコさんは、嬉しそうな顔をして荷造りを続けた。
「しばらく、ユキも本当に一人暮らしだよ。まあ、今さら困ることもないと思うから、勝手にやって」
 カナコさんは忙しく動き回りながら喋っていたけれど、ふと動きを止めて、
「コバヤシ、連れ込んでもいいわよ」
 と、にんまりと笑って、一言付け加えた。わたしはどうしてか、つられて笑うことができなかった。そんな自分を客観的に見つめている自分を意識したときに、自分の中で何かが弾けた。
「いいよ、もう」
 軽い拒絶。カナコさんは少し驚いたようにわたしの顔を覗き込んだ。
「わたしも、そろそろ千葉に帰ることにするから」
「そう、夏休みだもんね。じゃあ、いつ頃こっちに戻って来る?」
 またいそいそと準備を再開したカナコさんは、手を休めずに聞いた。
 わたしは、その彼女の様子を見ながら、とても落ち着いた気持ちで答えていた。
「もう、戻って来ない」
 一瞬、カナコさんの手が止まった。だけど、それは一瞬のことで、カナコさんはわたしの方を見もしないで、話を続けた。
「家出にはもう飽きた?」
「別にそういうわけじゃないけど」
「あたしのことが嫌いになった?」
 旅行バッグのファスナーを閉める音が妙に部屋に響いて、空気が重い。
「そんなことないよ。カナコさんのこと、すごく好き。ずっと、憧れだよ」
「そう?」
 カナコさんは、大きな目でわたしをのぞき込んだ。
「うん、憧れ。だけど、わたしはカナコさんにはなれないことがわかった」
 カナコさんは少し寂しそうな顔をして小さく頷いたものの、次の瞬間にはに立ち上がって、キッチンに入った。
「わかった。せっかくだから、最後に美味しい紅茶でも飲んで帰ってよ」
 わたしはキッチンで紅茶の準備をするカナコさんの横に立った。
「カナコさん」
「ん?」
「ひとつだけ、お願いがあるの」
「なに?」
「これ、ちょうだい」
 わたしは例の、爪に塗るコンデンスミルクの瓶を差し出して言った。
 カナコさんはちらっと見ただけで、「ダメ」とにべもなく断った。
「それは、大切なモノなのよ」
 サービス精神旺盛なカナコさんの、最初で最後の拒絶だったと思う。わたしは大人しく諦めるしかなかった。

 玄関の前に立って、ひとつ深呼吸をした。まず、何て言おう。どんな顔をして帰ればいいんだろう。そういえば、そんなことは全然考えていなかった。中から 母と弟の声が聞こえて、なんだかちょっと騒がしいような気がする。いつものような顔をして、突然玄関を開けていいものだろうか。
 立ち止まって考えているところに、携帯が鳴った。鞄から取り出して見たら、家からだった。こんなにすぐ近くにいるのに。わたしは少し笑って、電話には出ずに、「ただいま帰りました」と言いながら、家の玄関を開けた。
 母はすぐに出てきた。なんだか取り乱している感じ。
「帰ってきたの?」
「うん。今、電話くれたみたいだけど、何かあったの?」
「お、おばあちゃんが」
「おばあちゃん? 何かあったの?」
 母が説明をしようとしたところに、マサルが妙に小綺麗な格好をして出てきた。
「ねえちゃんにはオレが説明するから、かあちゃんは支度して来いよ」
 母は言われたとおり、慌てた様子でクロゼットのある二階へと上っていった。
「おばあちゃん危篤だって。今から病院に行くから、姉ちゃんも早く支度してよ」
 マサルは落ち着いた口調でそう言ったかと思うと、今度は父の会社に連絡をして、さらに、病院までのタクシーを手配した。その手順の良さに、ちょっと見ない間にずいぶん大人びたものだと呆気にとられていたら、「早くしろよ」と急かされた。
 わたしは部屋に駆け込んだ。部屋は何も変わっていなかったけれど、そんな感傷に浸る暇もない。幼い頃に祖父が亡くなったときに、すぐに親戚が集まってく るからみっともない格好で行ってはいけないときつく言われたことを思い出しながら、箪笥から白いノースリーブのブラウスとグレーのスカートを出して着た。
 着替え終わって階下へ行くとマサルが待ち構えていて、もうタクシーが来ているから早く乗って、と追い立てられてわたしは帰ってきたばかりの家を出た。

 結局、祖母は亡くなった。
 わたしたちが病院に到着したときにはまだ息はあったのに、その三分後に眠るように逝った。既にわたしたちのことなんか認識できない昏睡状態にあったのだ ろうけれど、彼女の意識のどこかに娘と孫に会えた安堵感が生まれたのかもしれないと思った。そうだったら、少しは気分が晴れる。
 八十歳になったところだから、まあまあ大往生じゃないかと思う。祖母の兄弟はもう誰もいないし、ここ何年かずっと寝たきりだった彼女には人付き合いもな い。そんな晩年を過ごした祖母だから、通夜も告別式もとても小規模に行われた。普段はめったに会わない親族が、祖母の思い出話を肴に酒を飲むくらいのイベ ントだ。
 人が死ぬっていうのは、そういうことなんだろうか。
 生きていた人が生きていない状態になってしまうことは、もっと衝撃だと思っていた。黙って誰もが受け止めるようなものなんだろうか。わたしには、よくわからない。
 たぶんわたしはまだ若すぎて、自分にとって死は遠くにあるものだと思っている。本当は、誰だっていつかは死ぬ。明日かもしれないし、五十年後かもしれな い。そんなことは頭ではわかっているけれど、まだ納得するわけには行かない。だって、わたしはまだ何も知らないから。生きることの意味も、自分がやるべき ことも、愛することも、愛されることも、傷つくことも。何にも知らずに終わらせたくはない。
 親戚が集まっている席でふと気が付いたのだけれど、そういえば親戚一同の中に、よく会うけれどどんな関係だかわからない人がいた。祖母が亡くなったとい う連絡を聞いていちばん初めに駆けつけたくらいだから、祖母とは近しい親戚なのだろうけれど。子供の頃は大人は大人にしか見えなかったからあまり気にしな かったけれど、母よりはずいぶん年上に見えるし、よく考えてみたら母には弟と十八歳で亡くなったお兄さんがいるとしか知らない。近しい親戚って、兄弟以外 にどんな関係の人がいるのだろう。
 自分の母親を亡くして放心状態の母にはさすがに聞けないので、わたしは父に聞いてみた。
「あそこにいるおじさん夫婦って、わたしたちとはどういう関係なの?」
「あれは、おまえの母さんのお兄さんだ」
「え? お兄さんは死んだんじゃないの?」
「いや、亡くなったのは実のお兄さんのほうで、あそこにいるのは、父親が違う義理の兄というやつだ」
「義理の兄ってことは、おばあちゃんの息子?」
「そうだ。前の旦那さんとの子だ」
「へぇ、おばあちゃんってバツイチだったんだぁ?」
「離婚した訳じゃないぞ。戦争で前の旦那さんを亡くしたんだよ」
 父は周りの視線を気にして、小さな声で言った。わたしはとにかく感慨深くて、ひとりで何度も頷いてしまった。
 祖母は、最後にはわたしたちの顔もわからなくなってしまったけれど、ちゃんといろいろなことを経験して、人生を終えたんだろう。愛することも愛されることも、傷つくことも理解して。やっぱり、それでこそ大往生だ。だてに八十年も生きてきたわけじゃない。

 そして祖母は焼かれて、灰になった。
 わたしにとって彼女以外の祖父母という存在は、かなり幼い頃に亡くなってしまったのでよく憶えていない。祖父母以外に身近な人の死というものもなかったから、実際に灰になってしまった人をちゃんと見るのは、たぶんこれが初めてだと思う。
「これが顎の部分ですよ。とても立派な顎をしているでしょう。健康なお方でいらっしゃった証拠です」
 火葬屋さんは、そんなことを言いながら骨を皆に見せた。母はその一語一句にいろいろな思い出を頭の中で巡らせているのか、涙が止まらないようだった。わたしはマサルと一緒にその欠片のひとつを箸のようなもので取って、骨壺に入れた。
 人間の骨をまじまじと見たのもこれが初めてだ。堅そうにも見えるけれど、柔らかそうな気もする。八十年もずっと一人の人間を支えてきた芯の部分は、なんだか懐かしい色をしている。どうしてだろう。燃えかすだというのに、こんなにきれいな乳白色。
 気が付いたら、わたしはこの数ヶ月間の自分の生活のことを頭に思い浮かべていた。東京の生活は、こんな色をしていた気がする。ああ、それもそのはずだ。骨の色はまるで、コンデンスミルクみたいなのだから。
 わたしの東京生活は、この色から始まってこの色で終わった。カナコさんはこの色をきれいにツメに塗っていて、わたしはそれに憧れた。けれど本当は、無理やりツメに塗る必要もなかったのだ。だって、誰の中にもこの乳白色があるのだから。
 わたしはまだ、青くて酸っぱいイチゴかもしれない。でも、コンデンスミルクを塗りたくって無理やり甘くなって、誰かに食べてもらう必要はない。そのう ち、たぶんいろんなものを見ていろんなことを知って本当の意味で大人になっていく間に、自然にどんどん熟していって、赤く甘くなっていくだろう。それから 人は、最後には自分がコンデンスミルクになってしまうのだ。その思いつきは、なんだかこの数ヶ月の東京生活のタネ明かしのような気がして、わたしは少し嬉 しくなった。
 コンデンスミルクをかけたらイチゴの味なんてわからない。ビニールハウスの中で、農薬まみれのよく出来たイチゴになるのもつまらないかもしれない。わた しは、たとえばちょっとした郊外のイチゴ畑で採れたばかりの新鮮なイチゴでいたいなぁ、と思ったら、その瞬間になぜかコバヤシの顔が思い浮かんだ。
 そういえば、彼にはいろいろと心配をかけたのだから、無事に家に帰ったことをきちんと報告しなければいけない。今日帰ったら、すぐに電話しよう。祖母が 亡くなったことも、そのおかげで両親には怒られずに済んだことも、千葉の夏は少しだけ涼しいことも、たくさん話そう。ついでにコンデンスミルクのことも話 してみよう。彼はどんなイチゴが好きなんだろう?

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