top中~長篇


おきらくゴハン

 また失敗した。書き直し。
 私は書き損じた一枚をくしゃっと丸めてゴミ箱に向かって投げた。軽やかに弧を描いた紙屑は、小さな音を立てて上手い具合にゴミ箱に入る。
「イライラしたって仕事なんか見つからないよー」
 妹の知美は、私が履歴書を書いているときに限って、近くでマニキュアなどを塗り始める。台所から漂う煮物のいい匂いを台無しにする上、横から口を出してくるのだから、たまらない。
「あんたは本当、必要以上にうるさいよ。だいたい、なんでこんなところでマニキュアなんか塗るの?」
 耐えきれずに私が知美に噛みつくと、そのタイミングを見計らっていたように母さんが台所から出てきて、私を戒める。
「裕子だって、履歴書を自分の部屋に戻って書けばいいじゃないの」
 兄弟げんかは大抵いつも上の子が悪者扱いされる。それは大人になっても変わらない。私は言い返す気力もなく、ただ苛立ったため息をついた。
 確かに家族のスペースである食卓で作業をしているのだから、家族の邪魔が入るのは仕方ない。けれど部屋に戻ったが最後、私はベッドに寝転がってしまうの が目に見えている。就職への意欲などというものはすぅっと冷めていって、何もかもがどうでもよくなってしまうのだ。それに、私は子供の頃からこの食卓が好 きだった。学校の宿題だって、いつも勉強机ではなく食卓でやっていた。つい漫画を読んでしまって気が散るということもなかったし、解らないことがあれば母 さんがいつでも教えてくれた。だから、ここにいたいのだ。
「裕子、もう就職なんてぜぇったいに無理だから、早いとこ結婚でもしちゃいなよ」
 ぜぇったい、という部分に必要以上に力を込めて言う知美は、私よりも四歳若い。いつの間にか私の名前を呼び捨てにするようになったその生意気さが、また癇に障る。
 結婚? そりゃあ、できることならしたい。二十二歳だからもう早くもない。周りもちらほらと結婚し始めている。けれど、今のところその望みはない。だいたい、仕事も金も趣味も夢も見つけられない私が、結婚の相手をやすやすと見つけられるわけなどないのだ。
「ああ、もう面倒くさい」
 吐き捨てるように叫びながら、私はその場を逃げ出す。偉そうな知美と口うるさい母さんを避けるときはいつも、犬のチャップと散歩にでも出かけるのだ。ドアを勢いよく閉めると、思いのほか大きく、バタン、という音が家じゅうに響いた。
「まったく裕子はどうしようもないわね、簡単に前のバイトを辞めたのは自分なのに。人にあたらないで欲しいわ」
 母さんが知美にそんなふうに言っているのが、遠く聞こえた。
 私は簡単に辞めたわけではない。母さんに言えない理由があっただけだ。
 アルバイトを取り仕切っていた社員の山木さんは、私のことをとても気に入って、仕事帰りに何度も食事に誘ってくれた。そのうち私も自然と彼のことを好き になり、付き合うようになった。モテそうな人だから、私の他にも彼女がいるかもしれないと思ったこともあったけれど、好きになったものは仕方なかった。そ れだけ彼が好きだった。
 ある日、店に妊娠した女性が乗り込んできて、いきなり私に平手打ちを喰らわせた。私がただ驚いていると、山木さんが出てきて彼女をなにやら説得し始め た。彼女が山木さんの奥さんだと解ったのはその時だ。山木さんに説得されながらも彼女は私を罵り続け、最後には泣きながら「二度とこの人に会わないで」と 言い残して帰っていった。
 山木さんは「ごめん」とだけ言った。それは、私とのことは遊びだったという意味だ。私は職場にいられなくなった。幸か不幸か、それは私ひとりいなくなっても特に問題もないような仕事だった。
 いろいろな意味でくやしくて、私はその夜、一晩中泣いた。母さんには不倫の末バイトをやめさせられたなんて言えるわけがなかった。所詮アルバイトだ。母 さんだって本格的に就職することを勧めていた。千葉の辺りは都心と比べると時給も安くて、この平成不況のご時世に単なるフリーターでは満足な収入は得られ ない。親と同居していることに甘えているのもあるけれど、私のわずかな収入はお小遣い程度にしかならなかったし、親の脛をかじって食べさせてもらっている 生活のままではいけないと思ってきた。
 これは、私がきちんと就職するために神様が与えてくれたいい機会だと思うしかない。

 三月ももう終わりだ。外は随分春めいてきていた。新しい生活への期待や希望で胸をふくらませている人も沢山いる季節。あの知美も、推薦で合格した女子大 の入学式を待つだけの立場だ。チャップも心なし浮き浮きした足取りで歩く。彼は毛の色が黒い柴犬だから、今にも咲きそうな桜のピンク色によく似合う。
 私も早く新しい生活を始めよう。
 改めて思った私は、散歩のついでにコンビニに寄って、求人誌を二三冊立ち読みする。パラパラめくってみたけれど、やりたい仕事は見つからない。よくよく 考えてみたら、そもそもやりたい仕事なんて、私にはないのだ。そんなものがあったら、とうの昔にきちんとした形で就職していた。私はまず自分のやりたいこ とから見つけなければならないのだ。
 こんな自分には、求人誌なんて買う資格もないような気がする。私は手にした一冊をそのまま棚に戻して、煙草を一箱だけ買って帰ってきた。情けない話だけ れど、本当は煙草を買うお金も惜しい。やりたい仕事があろうがなかろうが、お金は稼がなければ入ってこないのが事実だ。本当は煙草なんぞを買っている間に 仕事を探さなければいけないことくらい、知っている。まさしく、働かざるもの食うべからず。
 家に帰ると、うるさい知美はいなくなっていた。
「知美は? 出かけたの?」
「友達と約束があるんだって」
 母さんは夕飯の準備をする手を止めず、後ろを振り向きもせずに、そう答えた。
 私は台所に入り、夕飯の準備をする母さんを手伝う。母さんは兼業主婦だ。平日昼間の数時間だけではあるけれど、外に働きに行っている。本当ならば、家に いる私がもっと家事をやらなければいけないはずだ。それなのに、私には大したことは出来ないし、母さんも強制しない。フリーターですらなくなった私の肩書 きは、今や『無職』あるいは『家事手伝い』となる。単なる無職に落ち着かない口実に、チャップの世話と夕飯の準備の手伝いくらいは、やらなければ。
 といっても、まともに家で夕飯を食べるのは私と母さんだけだ。会社では部下の面倒見がいいと評判だという父さんは、仕事のある日はたいてい飲んで帰る。 知美は知美で、推薦入学が決まってからというもの遊び歩いてばかりだし、大学に入ったらますます帰ってこなくなりそうだ。私も大学に行くくらいの偏差値が あれば、今頃こんなところでくすぶっていないで、新卒の社員としてようやく就職していたかもしれない。けれど、偏差値が足りなかったことばかりは、今さら 悔やんでも遅い。
 小ぢんまりと皿が並んだ食卓を、いやに広く感じる。女二人、決して静かではないけれど、どことなく寂しい晩餐。私がバイトをしていた頃には、毎日話すこともあったけれど、最近は目新しい話題にもありつけない。
 母さんは、私がいなくなったら一人でどのような食卓を作るのだろう。

*

 チャップの散歩を日課にしてから一週間が経った頃だ。フラフラとそこらへんの公園を歩いて、最後にコンビニに寄るという私のくだらないルーチンワークに、ちょっとした変化があった。
「わ、裕子?」
 雑誌を立ち読みしている私に声を掛けてきたのは、サキだった。
「何やってるの、こんな平日の昼間に」
 私は思わずそう言った。よく考えると、久し振りに会う同級生にそんなことを言うのは失礼だったかもしれない。たぶん、平日の昼間からコンビニなどでフラ フラしている自分の格好悪さを心のどこかで気にしていたせいだと思う。けれど、幸いなことにサキはそんなことを気にしない様子でニコニコしながら、彼女特 有の高い声で言った。
「ちょっといろいろあってねえ、なんかイヤになっちゃって、会社辞めたの」
 サキは濃い色の口紅を塗った大きくてセクシーな唇を華麗に開いて笑った。妙に明るいけれど、どうやら会社を辞めたのは本当らしく、私は割と驚いた。
 サキは確か、東京の短大を出て有名な会社に勤めていた。その会社名を聞いた母さんが即座に、『まあ、咲子ちゃんは親孝行だわね』と嫌味を言ったほどの会 社だ。けれど、私は会社の名前などに興味がなかったので、忘れてしまった。私が知っているのは、サキが海浜幕張にある大きいビルに勤めていたことと、会社 に好きな人ができて毎日が楽くてたまらない様子だったことくらいだ。それだって二年近く前、私が舞浜にあるテーマパークでバイトをしていた頃にたまに電車 で一緒になって聞きかじった程度なので、詳しいことはよく知らない。
 そもそもサキは中学三年の時のクラスメイトだけれど、当時は別に仲が良かったわけでもない。今でこそ彼女は驚くほどの美人になったけれど、正直言って、 中学時代は銀縁の眼鏡しか印象に残らないような真面目で冴えない子だった。高校に入学する時に眼鏡からコンタクトレンズに変えて、髪の毛の色を少し明るく しただけで、彼女は大変身したのだ。もしもサキがひと昔前のマンガの主人公だったら、「これが私?」などと言って鏡をまじまじと見つめるだろう。とにか く、私がたまに駅などで会って話をするようになったのはそれからのことだ。昔のサキがどういう子だったかなんて、ほとんど記憶にない。
 それにしたって、地元でも有名なバカ高校の普通科を出ただけで何の資格もなく、就職もせずに何年もフリーターを続けている私と、結構有名な東京の私立高 校と短大を出て(学校の名前も、私は忘れてしまった。私などには関係のない次元の話なのだ)、有名な会社に入ったサキが同じ時期に無職になったなんて、妙 な縁もあるものだ。
 せっかくだからお茶でも飲もうかと誘われたけれど、私はチャップを連れているし、どうせこんな田舎では、かなり歩かないと気軽にお茶を飲めるような店も ない。仕方ないので私たちはコンビニで缶コーヒーを買い、近くの公園で飲むことにした。缶コーヒーを選んでレジに持っていくと、サキが私の分のお金も払お うとした。
「いいよ、お互い無収入なんだから」
 私はそう言って断った。するとサキは一度ニコッと笑って、それから少しツンとした感じで言う。
「私は無職だけど、無収入じゃないから」
「え、どうして?」
「だって、退職金がそこそこあるし、しばらくは失業手当を貰えるもの」
 サキはそう言ってのけた。それはもうあっさりと。
 きちんとフルタイムで働くことのなかった私には、保険も何もない。退職金やら失業手当というシステムのことなんて、自分には全く関係がないし、その存在 自体を忘れていたほどだ。同じ無職といっても、ちゃんとした会社で正社員だったサキとはあまりに大きい差があるのだと思い知らされて、少し落ち込んだ。
 缶コーヒーで乾杯をして、公園のブランコでユラユラ揺れながら、一時間くらいくだらないことを話し込んだ。サキはそのたっぷりの退職金と失業保険とやら がなくなるまでフラフラするつもりだと言う。こんな私に言えた筋合いではないけれど、いいご身分だ。私は缶コーヒーのついでに、煙草もサキから何本か恵ん でもらった。情けないけれど、私には本当にお金がない。

 サキと別れて帰ると、今日も家は嫌味なくらい静かだった。
 知美は先週から短大に通い始め、新歓コンパとやらで終電帰りの毎日だ。父さんも相変わらず帰りが遅いので、私と母さんは、二人きりでしめやかに夕飯を食べる。安っぽくはないけれど妙に質素なおかずを、母さんと向かい合って、言葉少なに口に運ぶ。
 私のような穀潰しと二人では、きっと母さんも料理の腕を振るう気がなくなってしまうのだろう。会話もなく楽しくない食卓のために料理をするのは、確かに つまらない。せめて夕飯の時くらい、くだらないことを話して笑ったり、これ美味しいね、などと言ったりしながら、楽しい時間を過ごしたいとは思う。けれ ど、母さんは口を開いたかと思うと『早く仕事を見つけなさい』ばかり言う。というか、もはやそれしか言わない。それを言われてしまうと私は何も言えなくな る。だから、重苦しい空気の中で質素なご飯を食べるしかない。
 家族の団欒のようなものが、この食卓には存在しなくなっている。母と娘は確かにここにいるのに。
 テレビだけが一人で陽気に喋っているのが、耳障りで仕方ない。

*

 ここのところ母さんは、新聞の求人欄をいち早く見て『これなんかどう?』と仕事を勧めて来る。私に早く仕事をして欲しい気持ちは解る。うちはひど い貧乏ではないけれど、二十歳を過ぎた娘を遊ばせておくほどの余裕はない。働かない若者が問題視されているこのご時世だから、世間体も気になるのだろう。 少しずつ年老いてゆく親が不本意な顔をしているのは、割と辛い。だから、余計な焦りを感じてしまう。
 母さんが切り抜いてくれた求人情報を食卓に広げてひとつひとつ見るのが、私の朝の日課となった。どれを見てもパッとしないけれど、私なんぞ仕事を選べる ような立場ではないと、無理に自分を奮い立たせる。働かなければ食べられない人が世の中には沢山いるのに、私はとりあえず住処があり、食べ物にもありつけ るというぬるま湯生活なのだ。このままの状態がずっとずっと続いていくなら何も困らないけれど、十年経っても二十年経っても、父さんや母さんが私を養って くれるわけではないのは解っている。
 相も変わらず、履歴書を書くのが難しい。書き間違えたものを丸めてゴミ箱に投げるのは得意なのに。もともと家にあった四枚が全部書き損じに終わってし まったので、仕方なくもう二袋買ってきて、やっとのことで書き上げた履歴書。お金にならないことなのに、一人前に一仕事を終えた気分でポストに投函して、 空を見上げる。
 春らしくて気持ちいい晴れ。もうすぐ桜も満開になる。私の春も、きっとすぐそこだ。
 と、少しだけ前向きな気分になったところで、ウキウキと歩くチャップを連れて家に帰る。その途中で、私はまたサキに出くわした。
「あっ」
「おっ」
 そんな挨拶をして、二人で笑う。この前、携帯電話の番号を交換したけれど、そんな必要はなかったかもしれない。私の家とサキの家は歩いて五分程度のところにある。ちょっと家の外を歩けば、すぐに会えるのだ。

 公園のベンチで、缶コーヒーと煙草を肴にしばらく話し込んだ。相変わらずサキは美人で、のんびりしていて、無職の身軽さを満喫している感じだ。サキだっ たら、仕事を始めようと思えば簡単に見つかりそうな気がする。本人は無自覚かもしれないけれど、サキの態度からはそういう余裕がどことなく感じられるの だ。もっとも、そう見えてしまうのは私が卑屈だから、という気もする。
 お互いの近況については、この前ひと通り話してしまった。それ以外で私たちに共通の話題といえば、クラスメイトだった中学の頃の話だ。
「中学の時にさあ、同じクラスにエリカって子、いたじゃん?」
「ああ、あのちょっと不良っぽかった子?」
「あの子、高校二年の時に妊娠して学校中退して、今じゃ三人も子供がいるんだよ」
「ええー?」
 と、落ちこぼれ組の仲間について私が下世話な噂話をして、サキを驚かせたり、
「じゃあさ、裕子、隣のクラスにいた山中くんって覚えてる?」
「陸上部かなんかの人だっけ?」
「そう、あの人、この前映画に出てたよ。チョイ役だけど、ちゃんとセリフあった」
「へえ?」
「大学から演劇を始めたらしくて、今も劇団の研究員なんだって。頑張ってるよね」
 などと、今度はサキが大学まで進学した人たちのその後についての持ちネタを披露したり、という感じで会話は進んでいった。
 私はサキとの交流範囲があまりにも違っているのに改めて驚いた。私と彼女が中学時代にあまり接点がなかったのはたぶん、成績の良い子が集まっているグ ループと、私みたいな落ちこぼれが集まっているグループに、クラスの女の子が分かれていたからなのだと今さらになって気付く。けれど、そんなグループとは 関係のない友達だって、いるにはいる。
「そういえば、裕子って美佳と仲良かったよね。あの子、今どうしてるの?」
 サキが言う美佳とは、私たちのクラスメイトであると同時に、私の幼なじみで大親友のミカリンのことだ。小学校二年生の時に私がこの街に引っ越してきて以 来、中学を卒業するまで私とミカリンはずっと同じクラスで、家も歩いて一分という近さというのもあって、私は卒業後もずっと仲良くしてきたのだ。
「ミカリンは大学卒業して、なんか大きい会社に就職して、今は東京で一人暮らししてるよ。時々こっちに帰ってくる」
「ふうん、東京のどこに住んでるの?」
「確か中央線の......新宿より向こうだったと思うけど、忘れた」
「元気かなあ」
「大丈夫でしょ、あのミカリンのことだから」
 ミカリンは私の大親友でありながら、サキたちのグループとも仲が良かった。というか、成績で言えば確実に向こうのグループに入るべき人なのだ。ただ、ミ カリンの場合はレベルが違った。普段は勉強なんてどう見てもしてなさそうなのに、いつも学年一位だし、市内でも上位だと有名になるほどだったのだ。そのく らいになると、成績の良い子と悪い子との間にある壁なんて、軽く越えてしまうのかもしれない。そもそもミカリンは性格的に一匹狼のようなところもあるし、 それでいてクラスの誰とでもある程度の距離をもって付き合えるから、グループに属す必要もなかったのだと思う。
 私は、成績ではミカリンとは天と地ほどの差があったけれど、ミカリンの部屋でだらだらと過ごす放課後が大好きだった。ミカリンは私に色々な難しいコトバ や、映画やら本やら音楽などを教えてくれた。読みあきた雑誌や聴きあきたCDも、たくさんくれた。そういうのを決してひとりじめしないのが、すごいところ だと思う。お陰で私は、学がない割に色々なことを知っている。いまだにミカリンのように深く理解は出来ていないけれど。
 サキは煙草を一度深く吸いこんだ後、突然思いついたように言い出した。
「今度、一緒に美佳のアパートに遊びに行こうよ」
 私は、ミカリンに会いたいと思った。けれど、今の自分に遊んでいる余裕があるとは思えなかった。なんとなく即答できなくて、とりあえず首を傾げながら言うしかなかった。
「じゃあ、ミカリンに都合を訊いてみるよ」

*

 その夜も、食卓は冷たかった。
 乾いた空気が充満して、蛍光灯の白々しい光で妙な陰影をつけた母さんの顔が、妙にやつれて見える。私もきっと、あんなふうに見えるのだろう。
 黙々と夕飯を食べながら、サキに会ったことは母さんには黙っていようと思った。ただでさえ、こんな重苦しい空気なのだ。下手に話して、また彼女と比較されたらたまらない。
 家族の食卓には、どうしても団欒を強要される雰囲気があって、今の私にはつらい。こんなにつらいなら、人間は食事しなくても生きていけるような動物に進化すればいいのに。それか、排泄のように誰もがひっそりと食事を行えばいい。どちらも生理現象なのだから。
 などと思いながらも、私は結局のところ食べるのだ。現状では、人間は食べなければ生き続けられない動物なのだから仕方ない。
 手短に食事を終えた私は、早々に食卓を離れて部屋に戻った。自分の部屋にいたって、普段は特にすることがないけれど、今日はミカリンに電話をする口実があるから良かった。そういえば、しばらく連絡をとっていなかったので、仕事を辞めたことも報告していない。
 五回目の呼び出し音の途中で、ミカリンは電話に出た。一声目の『もしもし』には張りというか若さというか、とにかくそういったエネルギーがなく、少し疲れているように聞こえた。
「私、裕子」
「ああ、久しぶり。元気?」
 私の声を聴いてホッとしたような声に変わったので、私は少し安心した。
「ごめんね、お疲れのところ」
「ううん、今日はたまたま休みだったの。いつもだったら会社にいる時間なんだけど」
「休み? 具合でも悪いの?」
「違う違う。ここのところ土日も出勤が続いていたから、代休をとったのよ」
「へえ」
 やはりミカリンはかなり忙しくしているようだ。
 私は自分が仕事を辞めたことから話し始めた。私が仕事を辞めるのなんて、ミカリンにしてみれば『また?』というようなことなのかもしれない。けれど、ミ カリンは黙って聞いていてくれた。他の誰にも喋らなかった課長との不倫や、同僚とのイザコザについて、私は話した。心のどこかで、聞いてくれる人を探して いたのかもしれない。
「いろいろあったのね、裕子にも」
 ミカリンは私の話をひととおり聞き終えると、あまり幸せではなさそうなため息をついた。ミカリンにもいろいろなことがあって大変なのだろうか。ミカリン は、いつも目標に向かって力強く行動し、悩みなんて鼻で笑うタイプなのに。いい高校を出て、いい大学を出て、有名な会社に入って、給料もたくさん貰って、 こんな田舎を出て、東京で一人暮らしを始めて、素敵な部屋に住んで、自由な生活をしていて、前に一回だけ会わせてくれた学生時代から付き合っている彼氏 は、顔も頭も性格も良さそうなうえにミカリンのことを好きでしょうがないという感じだったし、だからミカリンの人生は何もかもがいいことだらけだと思って いた。そのミカリンでさえ仕事をするのが大変というなら、私がまっとうな社会人をやるなんてとんでもない話だ。
「そうそう、最近ね、よくサキに会うの」
 暗くなってきた気持ちを吹き飛ばすように、私は新しい話題を振ってみた。
「サキって田村咲子のこと?」
「そうそう」
「ふうん、そういえばずいぶん連絡取ってないわ。大学時代はよく会ってたんだけど。あんた、あの子と仲良かったっけ?」
「仲良くもなかったけれど、今は無職同盟って感じ」
「無職? あの子も仕事辞めたの?」
「うん、なんか色々あったらしくて」
 ミカリンは、ふうん、というため息に近い声を出して、それ以上何も聞かなかった。そもそもミカリンは人の噂話があまり好きではないから、反応なんてそれ 以上期待もできない。私もそれについてこれ以上話すこともないので、あとは適当に私の家族についてなどを少し話してから、ようやく最後に、
「近いうちに、サキと一緒にミカリンのとこに遊びに行っていい?」
 と言って、電話を切った。ミカリンは静かに「待ってる」と言った。あまり嬉しくも楽しくもなさそうな声だったので、なんだか寂しかった。

 そのままベッドに寝転がって、今日買ってきた求人誌を捲ってみる。立ち読みするほどの情熱もなくなって、仕方なく買った。買えばいいというものでもないけれど、そうでもしないと仕事を探す気力もどんどん萎えていきそうな気がする。
 ふ。と、ページを繰る手を止めた。気になる求人情報、発見。お台場にあるテレビ局の中の、レストランのウエイトレスだ。またバイトだけれど、どうせ自分にできる仕事はこのくらいだ。
 芸能人に会えるかも、なんていう期待もないとは言えないけれど、理由はそれだけではない。一時間もあれば都心に出られるのに、私は今までずっと千葉県の 中でしかバイトをしたことがなかった。以前から、もう少し都会に出てみたいと思っていたのだ。このままここにいたら、腐ってしまう気がする。私はもっと自 分の世界を広げて、いろいろなものを見たい。
 次の朝、早速、求人広告にあった電話番号に問い合わせた。
 電話の向こうの人はマニュアル的に、名前と年齢と出勤できる曜日などを聞き、私はそれに丁寧に答える。それから、面接の日時を予約して、最後に住所と電話番号を伝えたところで、「遠いね」と言われた。
「遠くても、ちゃんと通えます」
「でも、同じ能力の人だったら、近い人を採用しますから」
 かろうじて面接の予約はしたけれど、そこまで言われると、面接に行ったところで交通費を無駄にして帰ってくるだけという気もする。けれど、せっかく面接 という口実ができたのだから、出かけよう。この街にいたら、私は本当に腐ってしまいそうだ。東京で買い物でもして帰ってくれば、きっと気分も少しは良くな るはず。
 面接は遊びのついで。そのくらい軽い気持ちのほうが心に余裕もできて、面接は成功するかもしれない。
 私にしては上出来なくらい前向きな考え方ができた。

*

 結果から言うと、その面接は駄目だった。
 担当者は、私が提出した履歴書をさっと読んだ後で、今までのバイトの経験について二三の質問をしただけで、
「結果は採用の場合のみ明日中に連絡します」
 と言って面接を切り上げた。その時点でもう、駄目なのだと解った。これほどまでに感触のない面接は、初めてだ。面接官もいい大人なのだから、いくら採用 する気がないといっても、面接者に興味を持つ振りぐらいしてほしい。社交辞令でもいいのだ。いや、本当は社交辞令では困るけれど、せめて遠方から出向いた ことを少しくらいねぎらってほしい。
 ――なんて。そんなふうに思うこと自体が、私が負ったハンディなのだ。
 いずれにせよ、負けは負け。
 怒りとか失望とかでお腹をぐつぐつさせながら、気が付くと私はこの前サキがちらりとこぼしていたことを、なんとなく思い出していた。
「フラフラしてみて初めて気付いたけれど、ここって本当に田舎ね」
 サキは遠い眼をしながら、そしてため息をつきながら言った。理由を訊いたら、この街では時間が流れるのがものすごく遅いからだという。私には、あまり理解できなかった。
「裕子は何とも思わないの?」
 首をかしげていたら、怒られてしまった。別に私は、サキの言いたいことが解らないというわけではない。たぶん、私が最近、『このままここにいたら、腐っ てしまいそうだ』と思うことと同じ意味だろうとは思う。だけど、都会と田舎の時間の流れの違いなんて、私にはわからない。理由は簡単、都会に出たことがな いから。
 今日の面接が、それを知るための第一歩になるかもしれないと思っていた。
 けれど、まあ仕方がない。私は気を取り直して、ヴィーナスフォートのほうに行ってみることにした。せっかくお台場まで来たのだ。遊ばなければ、交通費の分だけ損だ。
 まずは、緊張で乾ききった喉を潤そう。お茶だ。そう思って入った、地元には絶対になさそうなお洒落なカフェ。けれど、一人で飲むお茶はやけに苦い。
 平日の昼間なのになぜか混んでいる店内では、ゆっくりお茶を飲むことすら、なんだかいけないことのような気がする。仕方ないので、私は急いでお茶を喉に 流し込み、あっという間に店を出てしまった。確かにお茶を流し込んだはずなのに、私の喉は店に入る前よりもずっと渇いてしまったかのようだった。
 そんな自分が、本当にイヤだ。
 意気消沈した私は、もうすっかり家に帰りたくなったけれど、それでもショッピングモールの中を歩く。せっかくここまで来たのだから、という貧乏根性が情けない。しかも、どうせショッピングなどといっても、私にはものを買う資格などないのだ。
 見るだけ、見るだけ。
 頭の中で口ずさみながらきょろきょろと歩いていた私は、その場所で思わず足を止めた。
 まるで四月の風にでもなれた気がした。
 それくらいきれいな春のワンピースが、店の入り口にディスプレイしてあったのだ。
 晴れた日の空のような色に、ビーズであしらわれた桜が舞う、美しい絵のようなワンピースだった。派手なようでいて上品なその色合いは、ちょっと黒か茶色のカーディガンでも羽織れば、普段のちょっとしたお洒落にもちょうどよさそうだ。完全に一目惚れ。
 思わず触ってみる。
 感触は思いのほか良く、さぞかし着心地が良いのだろうと想像できた。
 さりげなく、ちらっと値札を見る。三万五千円。
「そちら、今日入荷したばかりの一点ものなんですよ」
 早速近づいてきた店員さんは、上品に微笑んだ。
 私は悩んだ。頭が爆発しそうなくらい、悩んだ。けれど、結局そのワンピースを買うことにした。
 もちろん現金なんて持っていない。カード払いだ。支払い能力もないのに、カードで買い物をする勇気が湧いてくるほど、このワンピースは私にとって光のような存在に思えた。
 けれど同時に、母さんの寂しい後ろ姿も思い浮かんだ。
 ただでさえ、生活費すら入れずに食べさせてもらっているのに、早く仕事を見つけなければ、親に借金することになってしまう。
 このワンピースの支払いのために、私は仕事を探そう。服に罪はないのだから。そもそも私は、母さんが悲しむから仕事をするわけじゃない。
 自分のために仕事を探す、という当たり前の目的を、私は今まで見失っていたのだと思う。
 興奮しきった私は、買ったばかりのワンピースが入った袋をキュッと握りしめて、ショッピングモールのトイレに駆け込んだ。
 個室に入って、真新しいワンピースに袖を通す。予想通りの着心地気分が良くなったついでに、パウダールームでいつも以上に気合いの入ったメイクまでする。自分で言うのもナンだけれど、鏡に映った私には、そのワンピースが似合っていた。
 その格好で、私はお台場の海辺を少し歩いてみた。さっきまで田舎者まるだしでお茶もゆっくり飲めなかったのが嘘のように、背筋を伸ばして、堂々と。
 明日から私は、きっとがんばれる。

*

 目を覚まして、頭の痛さに顔をしかめた。
 いつもと違う視界が起きぬけの私を出迎える。私のワンピースは、ハンガーで壁にかけられていた。ミカリンに借りたスウェットの袖が、私に昨夜のことを思い出させる。
 昨日の昼前、サキが突然電話をかけてきて(電話なんてだいたい突然かかってくるものだけれど)、「今日ミカリンの家に行こう」と言い出したのだ。
「そんな突然言われても」
「でも美佳と約束しちゃったから。ごめん、今日忙しかった?」
「や、全然」
 私が忙しくないのは、サキだってよく知っているはずだ。だから勝手に決めたのだろうと思うと、なんだか悔しいだけだ。
「じゃあいいじゃない、せっかくの金曜の夜だし」
 金曜、と言われてもピンと来なかった。すっかり曜日の感覚がなくなっている。金曜ということはたぶん、ミカリンもゆっくり遊べるということなのだろう。それは嬉しい。
「美味しいワインがあるから持ってくよ。午後三時頃、裕子の家に迎えに行くから」
 サキは一人で話を終わらせて、さっさと電話を切った。よく解らないけれど、私は真新しいワンピースを着ていくことにした。

 結果的には、ゆうべはとても楽しかった。
 ミカリンもサキもとても上機嫌で、話したことと言えば会社や仕事の愚痴ばかりだったけれど、そこは機転の効く二人。おもしろおかしく脚色するのが上手い のだ(脚色ではなく事実なのかもしれないけれど、そんなに笑えることばかりだったら、世の中何も悩むことはない)。おかげで私は、ずっと笑いっぱなしだっ た。不倫の果てに解雇された話だって、自分でも笑ってしまうくらい面白く話せたくらい。
 ずっと笑いっぱなしのまま、女三人でワインを三本も空けた。明らかに飲み過ぎだ。私はでろでろになって、たぶん午前一時には寝てしまった。今思えば、せっかくの楽しい夜なのに、勿体ない。いつも睡眠をたっぷりとっているくせに、睡魔に勝てなかったのだ。
 とにかく私は、気付いたときにはミカリンの部屋に布団を敷いてもらって、一人ぬくぬくと眠っていたというわけだ。
 カーテンの向こうは四月らしい陽気。とても暖かくて、気持ちがいい。上質なモノを好むミカリンが私に使わせてくれた毛布は、柔らかくて肌触りもいい。そ れに、ミカリンご自慢の山吹色のカーテンが、朝の光を通して部屋全体を黄色に染める。この上なく幸せな雑魚寝だ、と思った。家族の団欒が存在すべき我が家 よりも、ずっと暖かい1DK。
 それから、私は頭をぶんぶんと左右に振った。二日酔いの痛みを振り飛ばそうと思ったのだ。そして、それで初めて気が付いた。ミカリンは私の隣で小さな寝息を立てて上品に寝ている。けれど、サキがどこにもいないのだ。誰かが寝ていた形跡もない。先に帰ったのだろうか。
 思わず、ため息が出た。私だって別に一人では帰れないほど子供ではないので、一緒に帰れないのは別にいいとして。相変わらず唐突すぎて行動の読めない子だ。これからもサキに振り回されるんじゃないかという予感が、私の心を覆う。
 考えるのはやめよう。どうせ振り回されて困るほど、私は忙しい人間でもない。
 時計を見ると、ちょうど朝の八時半を指している。少なくともミカリンは私より遅くまで起きていたのだし、せっかくの休日だからゆっくり寝かせてあげた い。けれど、挨拶もしないで帰るわけにもいかない。どうせ私には急いで帰らなければいけない理由もないので、ミカリンが起きるまでここでごろごろしていく ことにした。
 頭は痛いけれど、目は覚めた。むしろ、妙にスッキリしている。二度寝をする感じでもないので、私はゆっくりと上半身を起こし、そこらへんに転がっている 雑誌やら本やらを物色した。隣に寝ている人がいるので、なるべく音を立てないように気を遣って、最小限の動きでめぼしい雑誌を見つけて、横になってそれを 開こうとした。
 ちょうどその瞬間、玄関のほうで何か物音がした。私たちが雑魚寝をしている部屋からは、ドアで仕切られていてダイニングキッチンや玄関の様子は直には見えないけれど、確かに私はそこに、人の気配を感じたのだ。
 チャリ、という小さな金属音。ガチャガチャと鍵を開ける音。ドアが開いて誰かが中に入ってくる。泥棒? 私は身構える。いや、泥棒にしては堂々としすぎている。
 予測不可能な展開だ。私は雑誌を開いたまま全神経を耳に集中させて、物音を追うしかなかった。
 やがて音は冷蔵庫を空け、何か飲み物をグラスに注いだ。それに、ライターのカチッという音。煙草を吸っている。泥棒だったらそこまでしない。けれど、得体の知れない誰かが今この家に入ってきたことは確実だ。
 怖い。けれど、恐怖に怯えている場合でもない。ミカリンを起こすべきかどうか悩んでいるうちに、私は思いついた。
 ひょっとしたらサキかもしれない。サキが帰ってしまったというのは、私の思い込みだ。実はサキはちょっと飲み物か煙草か何かを買いに外に出ていて、その 間にミカリンが眠ってしまったのかもしれない。きっとそうだ。ようやく一筋の希望の光を見つけた私は、思わずドア越しに声をかけた。
「サキ?」
 一、二、三、四、五秒。返事は聞こえない。一秒ごとに、私の中の警戒心は高まっていく。十秒。やはりサキではないのかもしれない。ああどうしよう、ミカ リンを起こそうか。それともこのドアを開けて、そこにいる人が誰なのか確認しようか。いや、ミカリンを起こそう。と、私がミカリンのほうを振り向いたのと 同時に、ドアの向こうの声はボソッと小さくつぶやいた。
「違いますけど」

*

 ミカリンを起こすタイミングを、私は完全に見失っていた。
 ドアの向こうから控えめに聞こえてきた声はとても遠慮がちで、それでいて真摯な感じもして、私に妙な安心感を与えた。それが男の人の声だったというのは 気になるけれど、低くも高くもない、細くも太くもない、繊細そうな声の主は、どちらかといえば、たぶん弱者だ。とりあえず、泥棒の類ではないことは解っ た。
「あの、ちょっと待っててください」
 私はそう言うと、急いでスウェットから昨日着てきたワンピースへと着替えた。髪の毛を手櫛で軽く整えてから静かにドアを開けると、痩せた男の子が一人、慌てたように煙草の火を消した。
 目が合う。
 歳はまだ二十歳くらいだろうか。線が細く、背もそれほど高くない。伸ばしっぱなしという感じのストレートの髪の毛は、傷んでいるのか毛先に向かうほど色が抜けていて、一部分は殆ど金髪のようになっていた。私がぼんやりと彼を見ていると、
「あ、どうも」
 と、彼のほうが、先に挨拶をした。私はつられて「初めまして」と小さく頭を下げた。

 まずは気持ちを落ち着けようと、私はテーブルの上に置きっぱなしになっていた私の煙草の箱に手を伸ばし、ゆっくりと一本出した。そこへ、彼が火のついた ライターを差し出す。私はそこから火をもらった煙草を、思い切り肺に吸い込んだ。彼は別に私の一挙一動を見ているわけでもなく、自分ももう一本煙草を出し て火をつけた。それで連帯感が生まれたというわけではなかったけれど、私の気持ちは少しだけ落ち着いた。
「で、誰なの?」
 二、三回煙を吸い込んだところで、ようやく私は彼に質問した。
「僕ですか? ノブオです」
「いや、名前を聞いているわけじゃなくて」
 一体どういうわけでここに勝手に入って来たのか、ミカリンとどういう関係なのか。それが、私の訊きたいことだった。少なくとも、彼氏ではないはずだ。前 にミカリンが紹介してくれた彼氏は、この人ではなかった。しかも昨夜、あの彼とは今も平和に続いているという話も聞いた。彼氏でもなんでもない男が、家に 勝手に入ってくるのはやっぱりおかしい。
 けれど、彼は急に怒り出した。
「あなたは僕に誰かって聞いたんですよ。誰かと聞かれてまず名乗らない人なんていますか」
「あ、ごめんなさい」
 ムッとしつつも、私は思わず謝ってしまった。突然シャキっとなった彼に戸惑ったのだ。そうやって喋っていると、彼の変に落ち着いたもの言いや、語尾までハッキリと発音するところなどは、とてもミカリンに似ている。
「それじゃあノブオくん、あなたは一体何者で、どうしてここにいるの?」
 私は『主旨を明確にしてね』というミカリンの口癖を思い出しつつ、より解りやすいように砕いて質問した。
「僕が何者なのか、ということと、僕がここにいるようになった経緯ですね。少々話が長くなると思うので、まあ飲み物でもどうぞ」
 そう言うと、彼は慣れた感じで冷蔵庫からペットボトルを、それから戸棚からグラスを取り出して、私のためにオレンジジュースを注いだ。思ったよりテキパキと動く。その間、ただ黙っているのも変なので、私は話を進めることにした。
「なんだかあなた、言動がミカリンに似ているのね。顔は全然似ていないけど」
「そうですか」
 彼はなぜだかニヤッと笑う。
「私、ミカリンとは小さい頃からの付き合いだから、あなたが弟じゃないことは解るけど――ひょっとして、イトコか何か?」
「別にそういうわけではないですよ」
 そして、沈黙。
 なかなか本題に入りそうにない。主導権が完全に向こうにあるようで、なんだか悔しい。
「さて」
 しばし沈黙の中で悠々と煙草を吸っていた彼は、短くなった煙草を押しつぶしてから、ようやく話し出した。
「まず僕が何者かということに関してですが、僕は何者と言えるほどの身分も持っていません。学生でもないし、仕事も一切していません」
「はあ。でも私も学生でもなければ仕事もしてないよ。同じじゃない」
「なるほど。美佳さんの幼馴染で、学生でもなくなおかつ仕事もしていないということは、あなたは裕子さんですね。美佳さんからよくお話を伺っています」
 いちいち感じが悪い。けれど、わざわざ口を挟むのも面倒なので、黙って彼の話を聴くことにした。
「趣味も特にありません。だから毎日何もしていません。やることがないので、天気のいい日には一日中外をウロウロと歩いています。天気の悪い日も、まあ最近は寒くもなくなってきたので、やっぱり外を歩くだけです」
 それも私と同じだ、と思ったけれど、私はぐっと我慢して黙っていた。
「だけど、こんな僕も半年前は大学生だったんです。自分で言うのもナンですが、一流の――って、ああ、裕子さんは大学の名前を言っても、レベルなんて解らないんですよね。それも美佳さんから聞いていますので、名前を言うのは辞めます」
 我慢をして大人しく聞いていれば、あまりにも失礼な言い方をする。私は思わず口を挟んでしまった。
「あの、いちいちイヤミったらしいというか、ものすごく感じ悪いと思うんですけど」
「すみません、僕はこういう人間なので、許してください」
 心のこもっていない謝罪を聞いて、私はますます気分が悪くなった。
「とにかく、僕が今、何の仕事も出来ないのは、そういう一流の大学に行ってしまったからなんですよ」
「はあ、なにそれ。自分は頭が良すぎるから、世間のレベルに合わないとでも?」
 ミカリンが何かに対して不満な時によくそんなことを言っていたので、私はそう訊いた。けれど、彼は首を振った。
「そういうことではありませんよ。僕は大学に入るまで勉強しかして来なかったんです。その弊害が、この人格ですよ」
「勉強しかしなかったの?」
「ええ、部活も特にやっていなかったし、先程も言いましたが、趣味もありませんから。そもそも、生徒を東京の有名大学に送り込むことだけがステイタスとい う、地方の小さな街にある中高一貫の私立校に通ったのが間違いでした。六年間ずっと受験勉強だけをさせるようなところだったんです。クラスメイトは全て蹴 落とすための存在だと教え込むような環境で、純粋培養されてるんですよ。人付き合いの仕方なんて、誰も教えてくれなかった」
 それでこんなに感じの悪いモノの言い方しかできないのか、と、私は変に納得した。パッと見たところ、どこにでもいるような普通の男の子なのに。

*

「まあそれでも、念願の大学に入れたから良かったですよ」
 抑揚のない声なのに、ノブオくんは少しだけ口の端を上げている。
「それで、実家を出て一人暮らしをしながら大学に通ってたんですが、二年に進級した春、親が振り込んでくれるはずの前期の学費が振り込まれなかったんです」
「どうして?」
「さあ? とりあえず自分の口座にあったほぼ全財産で学費を立て替えることはできましたが、それ以来、学費どころか仕送りもなくなったんで」
「だって、あの、ご両親は?」
「解りません、未だに。電話をかけても、現在使われていないというアナウンスが聞こえるだけ。残り少なくなった貯金をはたいて実家に帰ってみたら、違う家族が住んでいました」
「そんな......」
 ノブオくんが終始ニヤニヤしているので、私は少し怖くなった。
「仕方ないので僕は東京に戻ってアパートを引き払いました。特に汚すようなこともなかったので、敷金が全額返ってきたのには助かりましたね。結局、学校に 寝泊りしながらその金でしばらく食いつないでましたよ。結局は後期の学費が払えなかったので、学校を辞めることになったんですけど」
「それで?」
「僕には宿を貸してくれるような友達もいないし、バイトもしなければいけないと思っていろいろ試したんですが、何をやっても最高で三日しか続きませんでし た。仕方ないので公園で寝泊りを始めたんですが、そうしていたら二ヶ月ほど前にたまたま美佳さんに拾われたんです。僕はそんな同情は要らないと言ったので すが、無理矢理ここに連れて来られて、それからずっとここで生活をしています」
「無理矢理だなんて」
 よく解らないけれど、そこはミカリンに感謝の気持ち示すべきだ、と私が言おうとしたところに、邪魔が入った。
「あらぁ」
 ミカリンが起きてきたのだった。
「ノブオが人とまともに会話してるの、初めて見た」
 ミカリンはものすごく冷たく、それでいて、やけにニヤニヤしながら茶化した。
「いえ、僕はただ裕子さんの質問に丁寧に答えていただけですよ。おはようございます」
 ノブオくんは表情ひとつ変えず、さっき私にしてくれたように、ミカリンのためにオレンジジュースを注いでテーブルに置いた。ミカリンはグラスの半分ほどを一気に飲み干した。
 三人がテーブルを囲んだ形になったけれど、だからといって何も起こらなかった。元々ミカリンはそれほど自分から喋らないし、沈黙を苦にしないタイプだ。 この状況について説明してくれることなんて、期待できない。ノブオくんも先程の続きを喋る雰囲気もないし、私も何を言ったらいいのか解らないしで、とにか く行き場のない沈黙が続く。
 結局は、とうとう沈黙に堪えられなくなった私が口を開くことになった。
「あの、ミカリン」
「ん?」
「この人......ノブオくんと一緒に住んでいる、というわけなんだね」
「うーん、一緒に住んでいるというか」
「二ヶ月くらい、こういう生活をしているということだよね」
「まあ、そうねえ」
「昨日はそんなこと、一言も言ってなかったじゃない」
「言うほどのことでもないと思ってたし、まさかノブオが裕子と遭遇するなんて思ってなかったから。ノブオ、午前中には戻ってこないでって言っといたでしょ」
 マイペースに怒るミカリンに対して、ノブオくんは別に謝るふうでもなく、ただ目を逸らしたまま黙ってそこに座っている。私が今までに経験したことのない空気が、そこにあった。
「あの、彼氏はこのことを知ってるの?」
「犬を飼い始めたって言ってある。あの人、ひどい犬アレルギーだから。会う時は外で会うことに決めてるの」
「でも、彼氏以外の人と同棲なんて」
「同棲じゃないでしょ」
 ミカリンは、なぜか笑った。
「あのね、セックスもしないような関係の男と女が一緒に住んでいても、それを同棲とは言わないの。私が拾ってきて、飼ってるだけ」
 何がなんだか解らなくなってくる。さっきのノブオくんの話にも現実感がないし、ミカリンの話もそうだ。私の理解できる範囲を、完全に超えている。
「ノブオくんはヒモ、ということ?」
 なんとか自分の知っている言葉に直して聞く。
「違うよ。だって、養う代わりにノブオが何かをするわけでもないし」
「家事くらいはしていますけど」
 ノブオくんが口を挟んだけれど、ミカリンは無視して話を続けた。
「だから、飼ってるだけなの。雨の中、困った顔で鳴いている犬がいて、見捨てられなかったから拾ってきたんだし、拾ってきたからには仕方がないから居場所と餌を与えてる。それだけの話なの」
 言葉の意味は、私にも理解はできる。けれど、本当にそういうことがあり得るのか、私の頭が理解を拒んでいるみたいだ。だって、人間が人間を飼うだなんて、やっぱり普通じゃない。けれど、ミカリンとノブオくんの間では、その理論がきちんと成立しているようだった。
「よく解らないけれど、私、帰るわ」
 私は中途半端に、エヘ、と笑って、化粧もせずにミカリンの家を出た。これ以上この二人と一緒にいたって、私が一人で混乱するだけだ。深く関わっちゃいけない。
 千葉に帰る長い道のりの中、ずっと電車の中でずっと二人のことを考えていたけれど、やっぱり私には何ひとつ解らなかった。車窓にはすっきり晴れた空と土曜日の楽しそうな風景が見えるのに、私はちっとも楽しくなくて、なんだかどうしようもない。

*

 いつのまにか、夕方になっていた。部屋に溢れた西陽があまりに眩しいので、目を開けるのが鬱陶しい。ミカリンの家から帰ってすぐに、私は寝てしまったらしい。
 二日酔いはすっかり治まったけれど、私はとても疲れていた。
 昼寝というものは異様なほど身体に心地よくて、普通なら気持ちも穏やかになるはずだ。なのに、無職という肩書きを背負ってから、私の昼寝には罪悪感がつ いてまわるようになった。つまり、無職の癖にこんな幸せを貪るなんて、身に余ることなのだ。私はあくまでも卑屈に睡眠しなければならず、そこに安息は、な い。

 喉の渇きを覚えて階下へ降りると、ダイニングの私が座るべき場所に、避けることの出来ない現実がきれいに切り抜きされて、重ねられていた。
「それ、今朝入ってた求人広告よ。なかなか良い条件じゃない?」
 私と目を合わせずに、母さんはそう言い切った。
 『一般事務員募集』と書かれたその切り抜きを眺める。なるべく家から近い勤務先、大きい企業ではないけれどそれなりに堅そうな業種、土曜日曜と祝日の休 み、九時から六時という平均的な勤務時間、多くはないけれど少ないというほどでもない給料、そして一般事務という漠然とした職種。この仕事が私に妥当だと 思っているなら、母さんはたぶん私を買いかぶりすぎている。高校を卒業してこのかたまともな職に就いていない私にとって、それは当たり前でもないし簡単な 仕事でもない。
 私がこれまでにやってきた仕事は、ファーストフード、ファミリーレストラン、コーヒーショップ。出来ることといえば、多少の接客くらいだ。言葉遣いには 自信があるし、いやな客にだって笑顔で対応できると思う。けれど、それは別に何の取り柄にもならない。人として生きるために最低限の、基本的なルールを 知っているというだけでは、何の価値もないのだ。
 母さんは、私がその程度であることを知らない。誤解を解かなければいけない。
 ――母さん、あなたの娘はそれほどの価値もない人間だよ。
 心の中で言ってみたら、虚しくなった。
 こんなこと母さんに言えるはずないので、私は切り抜きをテーブルに放置したままキッチンへ入ると、珍しいことに、知美がいそいそと料理をしていた。大学に無事入学できたら、今度は花嫁修業だろうか。気が早い子だ、と思いながら冷蔵庫を開けると、ぴしゃりと言われた。
「ああもう、裕子、ジャマ」
 冷蔵庫から牛乳を出そうとしただけで、この扱いだ。
「アンタこそ、なんでキッチン占領してるのよ。今日は楽しい楽しい大学には行かないの?」
 強気に言ってみてから、あ、と思った。けれど、時すでに遅し。
「うちの大学、週休二日なの。今日は土曜日ですから!」
 知美は勝ち誇ったように私を見下ろして、鼻で笑った。妹のくせに私よりも背が高いというのも、気にくわない。
「毎日が休日の人って、羨ましいなあ」
 言い方があまりにも癇に障るので、私はふんっと踵を返し、自分の部屋に帰った。牛乳を飲むこともできないなんて、情けない。無職は家庭内においてすら市民権を得られないのだ。
 部屋に戻ったところで、何もできそうになかった。だからといって、どこへ出掛けても気分は晴れそうにない。結局、眠くもないのにベッドに入るのが、今の 私にできる唯一のことだ。大丈夫、眠くなくてもどうせすぐに眠れる。自分が泥のような存在になったと感じたときだけ、私はどんな卑屈さからも解放されるの だ。
 まだ少しだけ夕焼けの残る部屋で、私はベッドにダイブする。軋んだスプリングが、控えめで下品な音を出した。それがきっかけだったのかどうかは解らないけれど、私は急にノブオくんのことを思い出した。
 ある日家に帰ったら、もうそこには家族がいなかったなんて、一体どういうことなのだろう。たとえ事情があって夜逃げするにしても、そんなふうに我が子に何も連絡をせず、ただ野垂れ死にさせるようなやり方を選ぶだろうか。
 そんな親がいるなんて、私の貧相な頭では想像できなかった。
 私は甘いだろうか。
 甘いのかもしれない。
 私には、家族がいる。自分が社会に何の利益も与えない無職であることを痛感させられるのは、家族の中ですらこれだけ疎外されて、肩身が狭く、どんどん卑 屈になっていくからだ。けれど、なんだかんだ言ってもその家族に守られて、しかもどこかでそれを当たり前だと思っている。卑屈になってしまうこと以外には 特に何も困ることなく、毎日ごはんを食べることができるのだ。
 そういう意味では、ノブオくんだって同じだ。ミカリンが家族の代わりになって、彼の生活を守っている。しかも、ミカリンはうちの母さんや知美のように、ノブオくんをお荷物扱いしているわけではない。とすれば、ノブオくんは私よりもずっと気楽な立場だと思う。
 それなのに、ノブオくんには満たされた感じがまるでない。小さな力で引っ張ればすぐに抜けてしまう雑草のような、とても不安定な存在感だった。だから私は、彼がミカリンと一緒に生活する理由が見出せなかったのかもしれない。
 彼は、そしてミカリンは、一体何を想いながら同じ部屋で暮らしているのだろう。

*

 次の日、私がしたことはチャップの散歩だけだった。
 外はよく晴れていて、中学への通学路だった場所にある大きな桜の木は、もう半分ほどかわいい花を咲かせていた。私たちが卒業してから、何回目の花になる のだろう。数えるのも面倒くさい。だって、私自身は中学生の頃と何も変わらないのだ。何年経っても変わらないのだから、一日や二日で何かが変わるわけもな い。やりたい仕事も見つからないし、何の才能も芽生えないのだ。
 それでも春の陽気はあまりに平和で、もうずっとこのまま時間が止まってしまうような気にさえなる。私はひょっとしたら一生犬の散歩をし、コンビニに寄っ て、雑誌を立ち読みし、家に帰って、淋しい食卓に並ぶ質素なごはんを食べ続けるのではないか。なんて、それはそれで幸せな夢を見る。幸せ、か?
 サキに会わないかな、と思ってコンビニに行った。けれど、会えなかった。会おうと思わなかったときは簡単に偶然がやってくるのに、会おうと思うとなかなか会えないなんて、つくづく人生というものは難しい。
 だいたい、一人で勝手に帰ってから連絡もくれないなんて、サキはずいぶん薄情だ。まるで裏切られたような気分になる。いや、たぶんサキが悪いわけではな く、私の気持ちが堕ちているせいだ。その証拠に、私は自分からわざわざサキに電話しようとは思わなかった。どうせまた、フラフラ歩いているうちに偶然会う だろうと思っていたのだ。
 次の日も、さらに次の日も。私は以前と同じようにチャップを連れてコンビニに行ったし、三十分ほど雑誌も立ち読みしたし、煙草の自販機の前でうろうろしたり、あの公園でぶらぶらしてみたりした。まるで恋人を待つように、サキのことを待っていた。
 待ちながら、私の人生がうまくいかない理由が解った気がした。実際、サキが来そうな気配は一向になかった。
 サキの言った通りだ。この街での時間の流れは、本当に恐ろしく遅い。だけど、それはたぶんここが田舎だからなのではなく、あてのない時間を過ごさなければいけないからだ。いずれにせよ、恐ろしく遅いことは確かだ。そして、何のあてもない。
 なんだかんだと四日でしびれを切らした私は、とうとう散歩の帰り道、いつものルートを少しだけ変更して、サキの家の前まで行った。
 けれど、サキの家は静まり返っていた。そういえばサキの家は両親が共働きだし、サキは一人っ子なので、平日の昼間に家が静かなのは当然かもしれない。
 思い切ってインターホンを押してしばらく待ってみた。けれど、空気は一ミリも動かなかった。サキは出かけているのだろうか。それとも、もう仕事が見つかって働いているのかも知れない。だとしたら、一言くらい報告してくれればいいのに。

「夕飯、作らなくてもいいよ」
 母さんと二人きりで食卓に向かい合っている時、私の口からそんな言葉が出た。割と、無意識だった。それだけその場の空気は重かったのだろうし、母さんが料理を面倒に思っているような気がしたし、私が気遣って言える台詞はそのくらいだったのだ。
 けれど、母さんは私をきっと睨みつけた。
「ご飯くらい美味しいものを食べさせてあげるから、一生懸命働いて、お腹を空かせて帰ってきなさいよ」
 私は何も言い返せず、ごはんの続きを食べた。働かざるもの食うべからずなんて、この飽食の時代に全然合わない、と思った。働かざるもの出された食事は文句言わずに食え。それだけが、今の私にできる精一杯の親孝行。
 黙って食べれば、食事はあっけなく終わる。私は汚れた自分の食器を洗い、一言も発さないまま自分の部屋に戻った。相変わらずそこで私にできるのはベッドに横になることだけで、けれど、寝たって何も解決しないことは、とっくに知っている。
 外にでも出て、少し頭を冷やせればいいのに、と思う。けれど、そこまで突き動かされるほどのきっかけもない。仕事が見つからないことと、ノリが似ている な、と思った。こんな私だって、たとえば今サキと連絡が取れて、ちょっと外で一緒に煙草でも吸わない? という話になれば、迷わず外に行くことはできるの だけれど。
 ――そうだ。サキに電話をかけてみよう、と思った。
 夜桜の下で煙草を吸ったり、缶ビールでも飲んだりして、どうということはない話をだらだらと続けたい。働き始めたにしても、もう八時を回っているし、そろそろ帰っていてもおかしくない。もっとも携帯電話にかけるのだから、家に帰っていようがいまいが関係ないけれど。
 携帯電話のメモリーをスクロールして、サキの電話番号を探す。今までかけたことがなかったから気付かなかったけれど、サキの携帯番号はとても愛嬌良く数字が並んでいた。私の緊張は、少しだけ和らいだ。

*

 思い切って、通話ボタンを押す。
 呼び出し音が一回、二回。私の中に心地よい緊張感が生まれるのが解った。
 三回、四回。その音は、ただ機械的に繰り返されていた。
 七回、八回。......サキは電話に出ない。
 十回目、私は電話を切った。

 やっぱりサキと会えない。
 ここまで来ると、不安になってくる。ひょっとしたら私は、酔っぱらっている間に何かサキの気に障ることでもしたのだろうか。それとも、私の知らない間に サキの身に何かが起こったのだろうか。ベッドに倒れ込むまでのほんの十数秒の間に、いろいろな可能性を考えた。そして枕に頭を突っ込んで、数秒。
 突然、私の携帯が鳴った。
 このシリアスな状況下で、空気も読めずに陽気な着メロを歌うバカみたいな携帯なんて、いっそ床に叩きつけてやりたいくらいの気持ちになったけれど、衝動を抑えて液晶画面を見てみると、そこにはサキの名前が表示されていた。
 私は、慌てて起きあがった。サキが電話をくれたのだ。避けられているわけではなかった。サキは元気だ。安堵が体内に流れ込んでくる気持ちよさに頬を緩ませて、私は元気よく電話口に話しかけた。
「ハイハイもっしもーし、裕子でーす!」
 けれど、向こうからは沈黙しか聞こえてこなかった。
 やばい、浮かれるあまりスベったかもしれない。私は少し恥ずかしくなって、もう一度、今度は落ち着いた口調で聞いてみる。
「もしもし、サキ?」
「あの......」
 受話器から聞こえてきた、ためらうような、距離のある声。
 明らかにサキの声ではなかった。私は何を言っていいのか解らず、とりあえず黙った。黙っていると、向こうの声が喋り始めた。
「あの、私、咲子の母です」
「あ......」
「裕子ちゃんでしょう? 小学校のとき、咲子とクラスメイトだったわよね」
「え、まあ、そうですけど」
 中学時代にも同じクラスだった、と言おうと思ったけれど、言わなかった。サキの母親とは、小学生の時に何度か会ったことがあるくらいだ。きっと向こうの 記憶には、その時の私しか残っていないのだろうから、仕方ない。――というか、どうしてサキの母親がサキの携帯を使って私に電話をかけてきているのだろ う。かすれた涙声で、私にすがりつくような声で。
 これはただごとではないと気づくまで、少し時間がかかった。とにかく、何か言わなければ。
「あ。あの、えーと......お久しぶりです」
 振り絞った言葉は、妙な挨拶だけだった。近所に住んでいるはずなのに何年も顔を合わせたことのない相手なのだから、久しぶりには違いないけれど。
「ごめんなさいね、突然。咲子の携帯電話に、ようやく知っている人からかかってきたから。さっき出ようかと思ったんだけど、躊躇しているうちに切れちゃったものだから、こちらからかけさせてもらったの」
 サキの母親は、五十歳を目前にしても現役で働いているキャリアウーマンらしい口調でてきぱきと喋った。上っ面を滑っていくような言葉ではあっても、というか、だからこそサキの身に何かがあったということだけは理解できた。
「あの、サキに、何かあったんですか?」
「行方不明なの」
「は?」
 私が予想したのとは、違う答えだった。少しホッとして、けれど、やっぱりそれは安心してはいけないことだと思う。サキの母親は淡々と、けれど、どちらかといえば無理やり感情を抑えてそうなってしまうのだろうと思うような重い声で続けた。
「金曜日の昼間に、友達の家に遊びに行くって書き置きを残して出掛けたきり、帰ってないのよ。携帯電話も家に置きっぱなしだから、連絡も取れなくて。裕子ちゃん、あなた何か知らないかしら」
「金曜日から......?」
 知っている限りのことは説明すべきだと思ったので、した。金曜日の昼間、サキから突然電話がかかってきて、ミカリンの家に行くことになったこと。一緒にミカリンの家でお酒を飲んだこと。私は先に寝てしまい、目が覚めたときにはもうサキはいなくなっていたこと。
 私の知っていることはそれだけだ。
「たいした手がかりにならなくて、すみません。だけど、ミカリン......じゃなくて、美佳だったら何か聞いてるかもしれません。私、聞いてみます。で、何か解ったらすぐにご連絡しますので」
 私は、潔い声で言った。こんなにキッパリと何かを喋るのなんて、もう随分久しぶりのような気がした。
「ありがとう、ごめんなさいね。うちはずっと放任主義で来てしまったから、恥ずかしいことだけれど、咲子が家に帰らないことなんて珍しくないのよ。だけど、今回みたいに何も連絡の手段もないまま三日も四日も帰ってこないなんて、さすがに初めてで......」
「お母さんが心配されるのは、当然ですよ。大丈夫、私がきっと探してきます」
「本当にありがとう。いろいろと忙しいでしょうに」
 サキの母親はの声には、本当に申し訳ないという気持ちが込められていた。
「忙しくなんかありません、無職ですから」
 私はわざとらしくそう言って、自虐的に笑った。

*

 ラッシュの時間はさすがに避けたけれど、私なりに朝一番、気合いを入れて東京行きの電車に乗った。......まではいいけれど、私はどこまで行けばいいのだろう。
 ここ最近、私にとってサキは身近な存在だった。同じ無職として親近感があったし、頻繁に会って色々な話もした。けれど、本当のところ、私たちは中学卒業 以来久々に遭遇しただけの、仲良くもなく悪くもなかった単なる元同級生なのだ。中学卒業以降のサキの交友関係なんて、私は知らない。
 ただ直感的に、私は『東京へ行こう』と思って、その直感のまま家を出てしまった。とにかくサキを探そうとしか、考えていなかったのだ。手がかりなんてひとつもないのに。

 電車は着実に東京に近づいていく。その着実さは、美しくて羨ましかった。
 地図も手がかりもなく、下準備のしようもない私は、とにかく流れる風景を眺め、呆けていた。知っている地名をぼんやりと思い浮かべているうちに、何となくサキは新宿にいるような気がした。他にヒントもないことだし、まずは新宿に行こうと決めた。
 東京駅で中央線に乗り換えると、そこから新宿までの線路沿いは桜が呑気なほど満開だったので、もうこのまま適当に途中下車して、散歩でもしようかと思った。けれど、決断力のない私に下車するきっかけを与えないまま、結局電車は新宿へ着いた。
 人があふれかえるホームに降り立つ。私の知っている空気じゃないと改めて思う。
 行くべき場所は解らないけれど、とりあえず東口を出た。
 外を歩いてみると、取りたてて言うようなこともない平日昼間の新宿でさえ、私にとってはものすごく夢みたいな場所に見えた。たくさんの人がいて、いろい ろな音があふれ、おまけに、うららかな春の陽射しが眩しい。サキが言っていた時間の流れについて考えたりして、ついここへ来た目的を忘れてしまいそうにな る。
 よくわからないまま歌舞伎町を通り抜けて、さらに真っ直ぐ行くと、職安通りというところに出た。すぐそこにハローワークがあることに気づいて、なんとなく周辺をうろうろしてみる。けれど結局、私はその入り口にすら近づけず仕舞いだった。
 たぶん私は、こんな平日の昼間にハローワークに出入りするなんて、どこかで格好悪いと思っている。本当に仕事を見つけたいなら、そんなことは言っていら れないはずなのに、真剣味が足りないのだ。それが、仕事を見つけられない一番の理由なのだと思う。だからといって、真剣になる理由は見つからない。いつま でも。
 気を取り直して、また少し歩く。
 近くに公園があったので、ベンチに座って煙草を吸ってみた。けれど、なんとなく気分が乗らず、火はすぐに消してしまった。平日の昼間から、新宿の裏寂れ た公園で時間を潰している若者なんて、端から見ればとても見苦しいんじゃないかと思ってしまう。そもそも私は、そんなことにいちいち憂鬱になっている場合 ではないのだ。サキを探さなければ。

 少し考えて、途方に暮れて、私は結局ミカリンに電話することにした。
 本当はノブオくんとのことが引っかかって気まずいけれど、ほかに手がかりがないのだから、仕方ない。サキはミカリンの家から消えたのだし、きっと何か知っているはずだ。
 時計を見ると、ちょうどお昼どきだった。まっとうな社会人のミカリンでも、昼休みだったら電話に出てくれるだろう。
 思い切って通話ボタンを押すと、たった二回の呼び出し音で、ミカリンは電話に出た。
「もしもし。私、裕子」
「あら、こんな昼間からどうしたの?」
「今、ちょっと話できる?」
「いいけど。もうすぐ仕事に戻らなきゃいけないから、手短にお願い」
 ミカリンは相変わらず淡々としている。ビジネスタイムの仕事口調だからか、いつもよりさらに冷たい感じがした。余計なことを言わず、簡潔に状況を説明しなければ。
「実は、ミカリンの家で別れてから、サキが行方不明なの」
「へえ」
「で、サキを探しに新宿まで来てるんだけど、何の手がかりもなくて困っててさ。ミカリン、もし何か知っていたら教えてもらえないかな」
「はあ? 何の手がかりもないのに、なんで新宿まで来ちゃったの?」
「え。うーんと、何となく......」
 ミカリンは、「裕子らしい」と言って一秒ほど笑ってから、続けた。
「こんな人だらけの東京、ただ歩いてたって見つかるわけないじゃない。咲子については、私にも手掛かりなんてないけれど――とりあえず、私の家に来れば? 見つかるまでずっと泊まってってもいいし。いちいち東京に来るのは面倒でしょ」
「え?」
「今から行って。ノブオに家の鍵を開けとくように言うから。私も今日は早く帰るし」
「ちょっと待っ......」
「じゃあ、急ぐから。また後でね」
 ミカリンは、自分が言いたいことだけ言うと、一方的に電話を切ってしまった。もう一度電話して何か言ってやろうかと思ったけれど、忙しそうだし、私にはどうせミカリンに言い返すような言葉なんて持っていない。
 悩んでも仕方ないので、言われた通り、私はミカリンの家に行くことにした。
 駅まで戻って、もう一度中央線に乗る。思ったより混んでいた。東京の電車には、どうして昼間でもこんなに人が乗っているのだろうとキョロキョロしたり、そんなことにいちいち感心している自分が急に恥ずかしくなったり。そんなことをしている間に、電車は荻窪に止まった。
 駅を降りてからの道順は、この前来たときに解りやすく教えてもらったので、覚えていた。商店街にあるコンビニの先で左に曲がれば、すぐだ。東京というだ けで未だに緊張するくせに、こんな細部では慣れたような顔をして歩ける自分を滑稽に思いながら、私はミカリンの家までの道のりを歩いた。
 途中のコンビニ前で、ふと立ち止まる。よく考えれば、手ぶらで行くのも申し訳ない。仕方ないので、ちょっとしたお菓子と飲み物を買ってみた。こんな出費も本当は懐に痛いのだけれど、まあ、しかたない。
 会計を済ませて外に出ると、ノブオくんが立っていた。
「美佳さんから話を聞いて、そろそろかと思って」
「あ、ありがとう」
 私は動揺しながらお礼を言った。それから並んで、ミカリンの家まで歩いた。
 ノブオくんという人は、迎えにくるような気はきかせるくせに、私の荷物を持ってくれるほどは気はきかないらしい。オレンジジュースのペットボトルが入った袋を、私はさっきから左へ右へと手を替えて持っているのに。
 けれど、そういうところが彼らしい気もする。よく知らないけれど。
 一緒に歩いていて特に会話もなかったけれど、それも別に気にならなかった。まるで空気のような人だ、と私はぼんやりと考えていたり、した。

*

 到着して、気が付いた。
 ミカリンの部屋は、きれいに掃除されている。この前もそうだったけれど、人が来る予定があったからきれいにしたのだろうと思っていた。なにしろ、ミカリ ンは子供の頃から掃除が大の苦手だ。何度となく遊びに行ったミカリンの実家の部屋は、色々な本やら雑誌やらCDやらビデオやらが積み重なっていて、いつも 散らかっていた。ものが多いとはいえ、それだけでは散らかっている理由にならない。もう完全に、整理整頓が苦手なのだ。彼女の母親が『人を呼ぶ時くらい、 少しはきれいにしなさい』と注意するのを何度も見たけれど、結局ミカリンの部屋がきれいだったことは一度もなかった。
 一人暮らしを始めると、人間少しはきちんとするようになるものだと思うけれど、あのミカリンがここまで変わるはずがない。たぶん、ノブオくんがきれいにしてくれているのだろう。
 ノブオくんはやはり、ミカリンの生活において役に立っているのだ。
「あー。とりあえず、何か飲みますか?」
 整然と食器が並んだ棚の扉を開けながら、ノブオくんは言った。私は、お任せしますと答えて、そわそわしながら部屋の隅に座った。それを見て、ノブオくんが小さく笑う。
「まるで借りてきた猫みたいですね」
「そ、そうかな。一応、人の家だからね、そりゃ緊張もしますわ」
「付き合い始めたばかりの男の家に、初めて呼ばれた女性みたいです」
 言われて初めて、自分もそんなふうに感じていたことに気がつく。
 だって、仕方ない。ここはミカリンの家なのに、ミカリンじゃない人に案内されているのだ。ノブオくんがきれいにして、ノブオくんが把握している部屋。私はミカリンの昔からの友達なのに、こんな場所、知らない。
 そんなことを考えている間にも、ノブオくんはお湯を沸かして、手際よく紅茶を淹れた。ティーバックではなく、きちんとティーサーバーを使っている。サー バーの中でゆらゆらうごめく紅茶の葉をちらっと盗み見て、これもミカリンの趣味じゃないなと思った。だってミカリンはオレンジジュース派で、お茶なんて滅 多に飲まないのだから。
 なんだか、悲しくなった。
 ノブオくんの育ちの良さが、垣間見えてしまったような気がしたのだ。彼の両親が消えてしまったという現実の話が、まるで白い布についた一点のシミみたいに、浮いている。だから紅茶を蒸らしている間、私はますます目のやり場に困った。
「本当に、この前とは随分様子が違うんですが。そんなに緊張しますか?」
 そう言いながら、ノブオくんは温めたティーカップに紅茶を注いで、私に差し出した。一口飲んでみると、とても美味しい。
「や、ああ。うん、だって私、あなたと何を話せばいいのかわからないから」
「僕にだって、あなたと話すことなんてありませんよ。話す義務もない」
 やっとのことで私が自分の気持ちを説明したというのに、そんなことを言われたら、ますます何も言えなくなる。
 テーブル越しに向かい合って、黙ったままお茶を飲む。
 私は緊張していた。自分の心臓がどこにあって、どうやって脈打っているのかが、手にとるように解る。やっぱり来なければよかった、今からでも遅くはないから帰ろうか。そう思った瞬間に、ノブオくんのほうが口を開いた。
「咲子さんが行方不明になったと聞いたんですけど」
「あっ、そうなの。それで探しに来たの」
「そうですか」
 彼は、自分から話を振ったくせに、相槌しか打たなかった。相槌は、ただのキャッチだ。会話のキャッチボールは、お互いが投げ合わないと続かない。仕方ないので、私はわざわざボールを拾いに行ったような気になって、もう一度投げる。
「あの、ノブオくんは、ミカリンから何か聞いてない?」
「何をですか?」
「だから、サキのことを」
「さあ」
 ノブオくんは肩をすくめた。妙にニヤニヤしているのが、気にくわない。
「やっぱり何か知ってるんじゃないの?」
 ニヤニヤ笑ったまま、彼は私から目を逸らして、首を傾げてから言う。
「僕の知っている限りでは、何の手がかりもありませんよ」
「一人で完結しないでよ。お互いに知ってる情報を総合したら、何か解ることもあるでしょう?」
「じゃあ、裕子さんは何を知っているんですか?」
 あくまで淡々と言われて、私はなにか勢いで言いそうになったけれど、口を閉じた。
 私がサキについて知っていることなんて、ないのだから。
「とりあえず、美佳さんが帰ってくるのを待ちましょう」
 その言葉にうなずく以外、私はすることも特に思いつかなかった。

 ほんの少しの間を置いて、ノブオくんは退屈そうにテレビを点けた。
 気まずい沈黙が充満したこの部屋に、しらじらしい賑やかさが流れ込んでくる。ちょうど、ワイドショーのゴールデンタイムだった。
 初めはなんの会話もなく、ただ二人で黙って観ていた。けれど、ある女性タレントがテレビに映ったとき、ノブオくんがそのタレントの悪口を言い始めた。私 もそのタレントはあまり好きではなかったので、何となくそこから会話を交えるようになった。どうでもいい話なら、ノブオくんはちゃんとキャッチボールもで きる人のようだった。
 ワイドショーが終わり、再放送ドラマも終わって、結局は夕方のニュースまでまったく退屈することなく、私たちはテレビを観ていた。
 一人で家にいるときは、テレビほどつまらないものもないような気がしていたというのに、誰かと一緒だとここまで救われてしまうなんて。人間の感覚というのは、本当にいい加減だ。
 私がすっかりリラックスした頃になって、ふとノブオくんが身体を固くした。
「――あ、帰ってきましたよ」
「え?」
 玄関のあたりでガチャガチャと物音がして、ミカリンは本当に帰ってきた。
 そういえば、ミカリンがノブオくんのことを飼い犬だと言ったのを、私は思い出した。今のノブオくんは、本当にご主人様の帰りを待ちわびていた犬のようだった。二人の関係は複雑に見えて、意外と単純なものかもしれないと、初めて思った。

*

「ただいまぁ」
 ミカリンはやけに陽気な声で帰ってきた。
「二人で仲良くテレビなんか見ちゃって。楽しそうじゃないの」
「間を持たせるのは、割と大変な仕事でしたけど」
 ノブオくんがそんなことを言うので、またこの人は失礼だな、と思った。でも、それを口にしようと思うほどは頭には来なかった。慣れたのかもしれないし、いつのまにか私の中で彼の認識が少し変わったのかもしれない。
 ノブオくんは当たり前のように食事の支度を始め、ミカリンは寝室で着替えてからダイニングに戻ってきた。なんだか、すっかり夫婦みたいだ。もちろんミカリンが夫だけど。
 食事ができるまでミカリンと二人になったので、私はことの顛末を説明することにした。そもそもこの前ミカリンの家に来るときからサキが怪しかったかもし れないこと。今まで外をフラフラしていれば必ず会ったのに、あまりに会わないので不審に思ってサキの携帯に電話をしてみたこと。折り返しサキのお母さんか ら電話がかかってきて、ミカリンの家に来たあの日以来、サキが行方不明だと聞かされたこと。顛末といっても、私が知っているのはそれだけなので、話はすぐ に終わった。
「で、ミカリンはあの時、サキから何か話を聞いてない?」
 私がそう聞くと、ミカリンは鼻で笑いながら言った。
「ていうか、あんたやっぱりバカだねぇ」
 バカなのは確かに認めるけれど、さすがの私も聞き捨てならない。
「何よ、そんな言い方ないでしょ」
「よく考えなさいよ。あんた、咲子の携帯に電話したんでしょ?」
「まあね」
「そうしたら、咲子のお母さんから折り返し電話がきちゃったんでしょ?」
「うん、そうね」
「咲子の携帯があるんなら、それが手がかりになるんじゃない?」
「あ......」
 言われてみれば全くその通りだ。私は慌てすぎていた。
「咲子さんのお母さんが、着信を見て裕子さんからの電話だと解ったということは、携帯のメモリーはそのまま残っている可能性が高いですね」
 黙々と料理をしていたノブオくんまで、ミカリンに便乗して半笑いで口を出してきた。
「そう。携帯メモリーにデータが登録されてないと、誰からかかってきたかなんて解らないの。すぐ近所に手がかりがあるのに、わざわざ交通費かけて東京まで来ちゃって」
「まあ、なんていうか、裕子さんらしいと思いますよ」
 二人して声を揃えるように笑うので、憎たらしい。やっぱりミカリンとノブオくんって、どこか似ている。そして、この二人を目の前にしたら、私は敵わない。
「もういい、帰る」
 そう言って私が立ち上がると、意外にも、ミカリンではなくノブオくんが私を止めた。
「折角三人分の飯を作ってるんですから、帰るのは食べてからにしてください」
「でも、サキのお母さんに会って携帯を貰って来なきゃ」
「まだ七時よ。食べてからでも遅くはないわよ。ノブオのご飯は美味しいから、食べるだけ食べて行けば?」
 ミカリンにもそう言われたけれど、何となく引っ込みもつかず、私は断った。
「でも、あんまり遅くなったらサキのお母さんに申し訳ないし」
 私は二人に見送られながら千葉に帰った。遅くなるのもいやだけれど、この奇妙な関係の二人と一緒に時間を過ごす自信もなかった。

 東京駅から通勤快速に乗ることが出来たので、思いのほか早く帰ることが出来た。私は自分の家に帰る前にサキの家に寄った。それが手がかりになるかもしれないからと説明すると、サキの母親はなぜか申し訳なさそうに、私に携帯電話を貸してくれた。
 家には、食卓に一人分の冷めたご飯が小ぢんまりと用意されていた。
 私は片手でサキの携帯のメモリーをスクロールしながら、冷めたご飯を食べた。ディスプレイを目で追いながらも、私はノブオくんがどんな料理を作ったか、 二人がどんな会話をしながらそれを食べたか、いろいろ想像した。二人は、私が思っていた以上に楽しそうに生活していた。なんだか羨ましかった。東京の片隅 にある、家族でもなく恋愛関係でもない二人の狭いダイニングは、ここより暖かい。冷めたご飯は、存在しないのだ。
「あれ?」
 ふと、あることに気づいて、私はサキの携帯を操作する手を止めた。それから、思わず笑った。声に出して笑ったら、食べかけのご飯粒が二粒、口からこぼれ てしまった。けれど、そんなことにツッコミを入れてくれる人などいないので、さっさとそれを拾ってテーブルを拭く。それから、もう一度確認するように、私 はサキの携帯を操作した。
 ミカリンは携帯を『重要な手がかり』だと言った。確かにそうだ。サキときたら、電話番号のメモリーどころか着信や発信の履歴も全て残したままなのだ。これを見れば、彼女が消える前に誰と連絡を取ったのかなんて、すぐに解る。
 でも普通、失踪しようとする人がここまで手がかりを残すだろうか。連絡を断ち切るために携帯電話を持って行かなかったにしても、証拠隠滅くらい、普通はする。
 私は急いで夕飯を済ませて、それから食器も全て洗って、自分の部屋に戻った。
 ベッドの上に仰向けになって、改めてサキの携帯をあちこちいじってみる。着信、発信ともに、履歴は二十件ずつ残っていた。どちらも一番最近のものは私の番号なので、それは参考にならないとしても、残り十九件ずつ。
 さて、これをどうすればいいのだろう。履歴に残っている番号に手当たり次第電話をかけようかと思ったけれど、とりあえずやめた。私の判断だけでそんなこ とをして、失敗したら意味がない。とりあえずミカリンに相談してみよう。少なくとも、そういうことを考えるのは、私よりも彼女のほうがずっと得意なはず だ。
 私はミカリンに電話をかけた。
「あのね、サキの携帯借りてきたんだけど、メモリーどころか、着信と発信の履歴も全部残ってるんだよね」
「はあ? どうしてそこまで解ってるのに、咲子の親は自分で咲子を探さないの?」
 ミカリンは突然怒り出した。気持ちは解るけれど、それは私のせいではないから、今言われても困る。私はミカリンの怒りより、自分の相談を強引に持ちかけることにした。
「サキのお母さんは働いてて、忙しいんだよ。これから私はどうしたらいいと思う?」
「地道に当たってけば?」
 ミカリンの答えは、いつも以上に冷たい。普段の私なら、ここまで言われればめげてしまうかもしれない。でも、今回は人から頼まれているので、簡単に諦めるわけにいかないのだ。とりあえず会話を途切れさせたくなかったので、質問を投げかけてみた。
「簡単に教えてくれると思う? 作戦が必要だと思わない?」
「必要だと思うなら、自分で考えなさいよ。あんたが咲子のお母さんに『自分が探す』って約束したんだから」
 ミカリンの怒りは収まらない。ひょっとしたら、私が今日、急に帰ると言い出したことも怒っているのかもしれない。だとしたら、この冷たさも納得だ。でも、ここで怯むわけにはいかない。
「確かに、そうなんだけどさあ......」
「知らない。切るわよ」
「そ......」
 そんなぁ、と悲壮感あふれる声で絶叫しそうになった。でも、すんでのところで私は自分を食い止めた。
 受話器の向こうで笑っている人の声を、聞き逃さなかったからだ。

*

「そんなに冷たくしちゃ可哀相ですよ」
 受話器の向こう。遠くに聞こえたのは、ノブオくんの声だった。
「彼女はあなたの頭脳を頼って電話してきてるんだから」
「だって、この子は昔っから私に頼ってばかりなのよ。自分じゃ何もしないの。もう大人なんだから、自分で考えさせなきゃダメになるわよ」
「はは、まるで親みたいですね」
「似たようなもんよ」
 ミカリンとノブオくんが話している内容は、こちらにも筒抜けだ。二人の話を盗み聞きしてしまっているようで気まずいし、それが自分の話題だと思うとなお さら聞きたくないし、かと言って勝手に電話を切ることもできない。どうしようもないので、私はただオロオロしながら受話器を掴み続けていた。
「だいたいね、裕子は仕事もしないで毎日暇なの。考える時間なんか、幾らでもあるでしょ」
「それを言うなら、僕にも考える時間が沢山あります」
「え?」
「いい暇潰しになりそうだから、僕にも参加させてくださいよ」
 会話が途切れて、十秒ほど沈黙。
「あ、もしもし?」
 聞こえたのは、ノブオくんの声。ミカリンから電話を譲り受けたのだ。少し慣れたとはいえ、やっぱり私はこの人が苦手だ。電話で話すなんて、緊張する。
「あ、あの私......」
「作戦会議をしましょう。咲子さんの携帯を持って、明日また来てください」
「え、ミカリンの家に?」
「他にどこがあるんですか」
 ノブオくんとミカリンと三人で過ごす時間は気まずい。けれど、ノブオくんと二人でいるよりは、多少ましだ。
「じゃあ、明日の夜に行く」
 私は覚悟を決めた。ミカリンが協力してくれないのだから、ここはノブオくんに頼るしかない。でも、夜ならミカリンも家にいるのだから、二人きりにはならなくて済む。
 私はすぐに、上京の準備をした。

「新宿で就職フェアがあるんだって。ミカリンに勧められたから、行ってみることにする。何日かミカリンの部屋に泊めてもらって、腰を据えて仕事探しをして来ようと思うの」
 次の日、生活必需品を詰め込んだ大きめのバッグを持って、母さんにそう説明した。
 いろいろと気がかりなことはあるけれど、結局はミカリンの家に何日か泊まるのが一番だという結論に達していた。サキを見つけるまで何度も東京に出るなん て交通費がかかって仕方ないし、毎日冷めたご飯が用意された食卓に帰るのも気が滅入る。毎日のように『どこへ行っていたの?』と聞かれるのも面倒くさい。
 私は、少し家を離れたかったのだ。
 母さんはミカリンを絶対的に信頼している。昔から優等生だったことも、高校も大学も一流だったことも、今はきちんと大きな会社で働いていることも、全てが母さんにとって理想的な娘だ。まさか一人暮らしの部屋で男を一匹飼っていることなんて知るわけもないし。
 ミカリンがそうするので私もする、ミカリンが一緒だから行く、ミカリンが言ってたから大丈夫。そう言っておけば、大抵のことは許してもらえる。子供の頃からずっとそうだった。
 案の定、母さんは大賛成だった。ミカちゃんがそう言うなら行ってみなさい、気をつけてね、ああそれとミカちゃんにこれを持っていってあげなさい、などと言いながら、手土産まで持たせてくれた。快く送り出された私は、夕方、電車に乗り込んだ。
 東京に向かう電車は帰宅ラッシュの逆なので、とても空いていた。東京駅から中央線に乗り帰ると、随分人が増えた。東京を中心とする人の流れは、私を妙に孤独にする。なぜだか、急に気が重くなったりした。
 それでも予定通り、午後七時過ぎに私はミカリンの家に着いた。案の定というかなんというか、ノブオくんが一人で留守番をしていた。ミカリンはまだ帰っていない。
「どうぞ」
 小さく言って、ノブオくんは私を部屋に入れた。部屋の中は相変わらず整然としていて、ずっと人がいたような気配すら感じられなかった。
「何、してたの?」
「別に何も」
 なんとなく、恐くなった。
 本当に誰もいなかったかのように、そして何もしていなかったかのように、何の形跡もない部屋。何かが、まるで抜け落ちている。ノブオくんは確かにそこにいるのに。
「いつもそうなの?」
「そうですよ、いつも何もしていない」
「退屈じゃないの?」
「別に」
 同じような質問を繰り返すばかりの私に、ノブオくんは見れば解る範囲内でしか答えない。私はノブオくんを前にしてしばらく黙った。たぶんそれは一分くらいだったのだろうけれど、私には恐ろしく長く感じられた。
 沈黙の中で、ノブオくんは突然思い出したように急に口を開いた。
「強いて言えば、今日はあなたを待っていなければいけないという用がありましたから、いつもとは少し違いますが」
「ふうん」
 私は口を開かずに相槌を打った。小さく体を折りたたんだようにして床に体育座りをしているノブオくんの顔はまるで女の子みたいに繊細で、私は切なくなった。この人は毎日こんな風にしてミカリンの帰りを待っているのだ。
 一体、何のために?

*

「で、携帯は?」
 なんの前置きもなく、ノブオくんは話を始めた。それはそれで、彼らしい気もする。だから私も、思わず「あ、はいはい」と、持ってきたサキの携帯を手渡してしまった。私には、余計なことを考えている時間なんてないのだ。
 ノブオくんはそれを受け取ると、慣れたようにサキの携帯をいじり始めた。彼がこんなに携帯の操作に詳しいとは思わなかった。なんだかんだ言っても、やはり普通の男の子と変わりないのかもしれない。
 静かな部屋に響く、ピッピッピという電子音。私の緊張感はますます募る。キー操作音を消してくれば良かったと密かに後悔しつつ、私はどこでもない場所に 目を泳がせて、次の動きを待った。私のほうを見もせず黙ったまま携帯を操作するノブオくんを、無遠慮に見ているのも悪い気がした。
 しばらくして、ノブオくんはようやく口を開いた。
「まずは、着信よりも発信の履歴から当たるべきです。咲子さんが自分から連絡を取っている相手ですから」
「あ......、うん。そうだね」
 いつも通りの口調だった。何かが解ったのか解らないのか、それすら私には見てとれない。
「一番古いものは一ヶ月も前のものだから、かける必要はなさそうです。最新のものからかけましょう。殆どがメモリーに入っている番号で、しかも名前を見る限りでは女性が多いようなので、咲子さんの振りをして適当に何か話して手短に切ってください」
「えー。あんな声出せるかな。うーん、っと、も、『もしもしぃ?』」
 サキの声を思い浮かべて、わざとらしく鼻にかけた、甘ったるい高音の声を出してみると、ノブオくんが鼻で笑った。こっちは真剣にやっているのに。
「何よ、変?」
 私が思わず突っかかると、すぐに彼の顔から笑みは消えた。
「似合わないです。でも、咲子さんがどんな声をしているのかは僕の知ったことではないので、似ているかどうかは解りません。まあ、電話なのである程度はごまかせるでしょう」
「適当なこと言わないでよ」
 私は少しだけ怒った顔をしてみた。けれど、そんなことはまるで聞こえないような顔で、ノブオくんはさらに続ける。
「ひとつだけ、メモリーに入っていない番号があります。これ」
 見せられたディスプレイには、発信履歴に入っていたひとつの番号。
「これは相手が何者か解らないし、電話をかけてどうなるかも見当がつきません。あなたには到底任せられないので、僕がかけます」
「なによ、それ。まるで私、なんの応用もきかないバカみたいじゃない」
 不機嫌を丸出しにした声で抗議したのに、それすらノブオくんは鮮やかに無視した。
「以上。作戦会議は終了です。後は実行するだけですので、頑張って下さい」
「え?」
 全て一人で決めておいて、会議も何もない。私は内心、投げ出したい気分になった。けれど、黙って頷くしかない。どうせ自分で考えろと言われても、私には結局何も思い浮かばない。サキの振りをして電話をかけることすら、思い浮かばなかったのだ。
「じゃ、どうぞ」
 ノブオくんはそう言って、サキの携帯を私の手に返した。
「えっ、もうやるの?」
「行動しなければ何も始まりませんから」
 ノブオくんの言うことはいちいち正しい。
 仕方ないので、後はどうにでもなれという気持ちで、私はリダイヤルボタンを押した。最新の発信履歴を液晶ディスプレイに表示すると、そこには私の携帯番 号が出ているので、一回スクロールする。二番目の履歴で、カズミという名前と番号が表示された。深呼吸をして、それから勇気を出して通話ボタン。
 心を静かにして受話器を耳に当てた。
 数秒の静止。
 機械的な女性の声のアナウンスが聞こえてきた。少しだけホッとして、少しだけ肩透かしを喰らったような気分にもなった。
「あは、留守電だった」
 思わずノブオくんに笑いかけたけれど、彼はにべもなく「次」と顎を突き出して言う。私はクロールの途中、息継ぎをしようとしたのに頭を押さえられたように、苦しい。苦しいけれど、どういうわけかつらくも悔しくもなかった。
 二件目は、これまた機械的な声で、電波の届かないところにあると言われた。
 三件目で、私は初めて呼び出し音を聞くことが出来た。けれど、それは十回も二十回も聞こえ続けた。相手が出る気配が、ない。
「どうしよう」
 私がついにしびれを切らして言うと、ノブオくんはなんの感情も持たない目で頷いた。
「後回しにして、次に行くしかないでしょう」
「でも、あの、次はノブオくんがかける番号なんだけど」
「そうですか」
 ノブオくんは謝ることもなく、ただ私から携帯を横取るようにした。相変わらず、目を合わせない。ひょっとしたら照れているかもしれないとも思った。
 なんにしろ、ノブオくんの動きにはためらいがなかった。彼はまるで機械のように、無駄な動きひとつせずに、ただ電話をかけた。静かな部屋だから、私にも呼び出し音が聞こえる。三回のコールの後、相手が電話に出た気配まで解った。
 向こうが何か名乗ると、ノブオくんはすかさず言った。
「もしもし、この番号って喫茶店の『キャンディ』って店?」
 ノブオくんはいつもの嫌味っぽくて変に堅い感じではなく、どこにでもいる男の子のような軽い口調で電話の向こうの人に話しかける。こんな話し方も出来る 人だったなんて、知らなかった。私は呆気にとられて、ただその様子を見守る。相手が受話器の向こうで何か言っているのは解るけれど、詳しいことまでは聞こ えなくて、もどかしい。
「あ、そーなんだ? それってさ、もしかして新宿にある店? なんか聞いたことあるんだけど」
 私はオロオロしながら、相手の見えない会話の行き先を気にした。
「――そっか、違うんだ? すんません。しかも、元々間違い電話だし。......。アハハ、そーッスね......はい。......はい、どうもー」
 そう締めくくって、ノブオくんは電話を切った。
「な、何? 何なの、今の?」
 どもりながら、私は訊いた。話の内容が解らないのはもちろん、ノブオくんの豹変ぶりにも動揺を隠せなかった。

*

 けれど、電話を切って私のほうを向いたノブオくんの顔は、もういつもの冷淡な彼に戻っていた。ますます私は戸惑う。
「――高田馬場にあるらしいです」
「え、な、何が?」
「今の番号ですよ。『キャンディ』というキャバクラだそうです。怪しいですね」
「キャバクラ?」
「とにかく行ってみましょう」
 ノブオくんはそう言って、いきなり立ち上がった。私の気持ちは、もうずっと前の時点で置いてかれっぱなしなのに。
「そ、そんな突然!」
 止めようと思った私は、無意識のうちにノブオくんの手を掴んでしまっていた。
「冗談ですよ」
 彼はピクリとも表情を変えず、私の手をさりげなく振り払って、玄関まで歩きながら言った。
「下調べしてきます。明日の夜八時に、高田馬場駅の改札前に来てください。それじゃ」
 何がなんだか解らないまま、ノブオくんは部屋を出て行った。
 私はしばらく、その場で呆けてしまった。電話をした緊張、ノブオくんの豹変、キャバクラという予想外の単語、そして、ノブオくんの手の感触。まるで非日常的だった今日の出来事が、彼の手の意外な温かさとみずみずしさで、一気に現実になった気がした。
 十分ほどでミカリンが帰って来たからよかったものの、そうじゃなかったら、私はいつまでそうしていたか解らなかったところだ。
「ただいまあ......って、あれ、ノブオは?」
 ノブオくんがミカリンの帰ってきた気配に敏感なように、ミカリンのほうもノブオくんのいない気配には敏感なようだった。頭はいいけれどズボラなミカリンのそういう面を見るのは、なんとなく意外だった。
「出掛けた。下調べするんだって」
「何の?」
「よく解んない」
「こっちこそ意味が解らないんだけど」
 ミカリンはとくに不快な表情もせず、それ以上突っ込んで聞くこともなく、笑った。
 女が二人も揃いながら、夕食を作れる人がいないということで、ミカリンは私を近くの居酒屋に連れていってくれた。軽く飲みながら久しぶりに二人で話をし た。ミカリンは読んだ本や観た映画の話をたくさんしてくれて、私は興味深く聞く。こうしていると、私たちは昔と全然変わらないように思えた。
「っていうか、ミカリン。高田馬場ってどうやって行ったらいい?」
 一応聞いてみると、ミカリンは笑いながら、電車を新宿で乗り継ぐこともちゃんと教えてくれた。家で食べるごはんの味を忘れてしまいそうなほど、楽しい晩餐の時間。

 午後八時の高田馬場駅には大学生風の若者が沢山いて、酔っ払った風情で地べたに座って話しこんだりしていた。この邪魔な人たちはいったいなんだろうと思いながら、居場所を見つけるためにキョロキョロしていると、ノブオくんは突然現れた。どこからか、風のように。
「大学生は今、新入生が入って毎日のように歓迎会をやってるんですよ」
 何も聞いていないのに、ノブオくんは勝手に答えてくれた。心を読まれているようで気分が悪いような、だけど好ましいような変な気分になる。ここまできてもまだ、彼が無粋な人なのか気が利く人なのかは、やっぱり解らなかった。
「こっちです」
 ノブオくんは慣れたように歩き出した。高田馬場の駅を出て脇に入る小さな道は、ちょっとした繁華街のようになっていた。お洒落な街とはとても言えないけれど、居酒屋などが所狭しといった感じで林立していて、それなりに賑わっている。
 少し奥に歩いて行くと、古くて薄汚い居酒屋の隣に、派手な色で『キャンディ』と書かれたネオン看板を見つけた。店の前には何枚かの女の子の写真が貼ってある。
「たぶんここです」
「うん。それで、どうするの?」
「入るしかないでしょう」
「こういうお店って、女の子が入るところじゃないでしょう?」
「歓迎はされないと思いますが、特に問題もないでしょう。行きますよ」
 勝手にスタスタ歩いていくノブオくんを追いかけて店の入り口あたりまで行くと、眼鏡をかけたオジサンに声をかけられた。
「二名様?」
「はい」
 ノブオくんが答えた。
「この時間、男性は五千円。女性は半額で二千五百円ね。ご指名は?」
「はい。えーと、何て名前だっけ? 本名なら解るんだけど、な?」
 ノブオくんが、私に目配せしながら言う。
「そ、そう。田村咲子ちゃんって子なんですけど、いますか?」
 私もまあまあ自然に言えたと思う。
「ああ、新人の子ね。今日はもう来てるよ。じゃあ指名料二千円ね」
 どうして友達に会いに来ただけで指名料まで払わされるのか。私は不服に思ったけれど、ノブオくんは「はい」と素直に従って店に入ってしまった。仕方ないので、私も後を追った。
 薄暗い店内でソファに座らされて、サキが来るのを待った。
「本当にサキかな」
「そうだと思います。ところで僕、金は持ってませんからお願いしますよ」
「えーっ、私だってそんなに持ってない」
「なに言ってるんですか。僕はあなたが勝手に請け負ってきた仕事に、協力しているだけなんです。一円も払う必要はないと思いますが」
「そりゃまあ、そうだけど」
 そんなことを言い合っていると、三人の女の子が私たちのテーブルを囲んだ。
「ご指名ありがとうございまーす」
 バニーガールの格好をした女の子が、ニコニコしながら私の隣に座った。ニコニコしたその口の端は、私の顔を見てほんの一瞬、ひきつった。私も、たぶん少しひきつったと思う。
 紛れもなく、そこにいたのはサキだった。
 信じられなかった。サキがこんなところでこんな格好をしているのも、こんなにもあっさりサキが見つかってしまったのも。

*

 サキは手慣れたように私とノブオくんのグラスに水割を作り、私はそれを見入っていた。意外なくらい、サマになっている。
 グラスを私の前に置くと、サキはノブオくんをしげしげと見て私に言った。
「誰なの、この男の子。裕子の彼氏?」
 私は慌てて首を振った。そういえば、サキはノブオくんとは初対面だったのだ。
「彼氏なんかじゃないよ! この人はミカリンの......」
「え、美佳の彼氏ってこんなに若かった?」
「彼氏じゃありませんよ。僕は美佳さんに飼われてるだけです。いわばヒモ」
 ノブオくんは相変わらず丁寧な冷たい口調で、淡々と説明をした。サキもサキでたいして驚きもしない様子で、美佳もやるじゃん、などと言った。一人で動揺 してばかりの自分が、本当に世間知らずのバカみたいに思えてくる......と、私の心がふっと脱力した瞬間を見逃さなかったのか、サキは先制を仕掛けてきた。
「こんな所までわざわざ探し当てて来てくれた努力は認める。いろいろと話したいこともあると思う。けど、ここは私の仕事場だから。仕事の邪魔、しないでよ」
 早口で言い切ったサキに圧倒されて、私は黙って頷くことしかできない。
「それに、せっかくお金を払って入ったんでしょう? 時間は六十分なんだからさ、ここではとにかく飲んでいった方がいいよ」
「え、六十分しかないの? 何千円も取ってるのに?」
「これでもウチは良心的だと思うけど......」
 見れば、ノブオくんのほうは順調にグラスを空けて、他愛のない話を交えつつ、隣のバニーちゃんに水割りを作らせていた。人付き合いが苦手なんだか得意なんだか。
 仕事が終わったら何が何でも絶対ミカリンの家に来るようにと念を押してサキに約束させ、私も飲むだけ飲んでいくことにした。無職の身分が遊ぶには高すぎ る金額を払っているのだから、確かに入店しただけではもったいない。それに、とにかくサキに会えたのだから、問題はほとんど解決したようなものだ。ここで 働いていることは解っているのだし、サキは逃げるような子じゃない。後は信じるだけだ。
 飲み始めると、それはそれで楽しかった。バニーちゃんたちは皆可愛くて、会話も上手だ。
 私はキャバクラという場所を、ただ女の子が隣に座って一緒にお酒を飲むだけの場だと思っていた。けれど、お金を払ってまでこういうところに来る男の人の 気持ちが少しは解った気がする。一人で食べるより誰かと食べるご飯は美味しいし、一人で飲むより誰かと飲むお酒は美味しい。話し上手な可愛い子が相手な ら、なおさら。
 サキにはこの場所がとても似合っていた。活き活きと仕事をしているような感じが伝わってくる。元々派手な顔立ちの美人だし、話すのも好きで、ノリがいい。きっとこういう仕事が性に合っているのだろう。
 私にとっても、バニーちゃんとの会話は楽しかった。会社を辞めて以来、歳の近い女の子と会話する機会が少なかったせいか、いかにも女の子同士っぽい会話が妙に嬉しい。向こうも私みたいな客が珍しいのか、営業スマイルではなく素の笑顔で楽しんでくれているようだった。
 ノブオくんもノブオくんで、楽しんでいるように見えた。

 与えられた六十分間は、あっという間に終わった。
 私は物足りなさすら感じながら、ノブオくんに引っ張られるようにして店を出た。路地に立ってみると、足から現実感が抜け落ちてしまったように、私はふわ ふわと千鳥足になった。体内でアルコールが一つの生命体となって、踊っているみたいだ。こんなに酔ったのは久しぶりか、ひょっとしたら初めてかもしれな い。
 街は相変わらず下品なネオンに飾られている。酔いすぎて道端に寝転がる女の子や、暗がりでキスをする男女や、大声で訳のわからない言語を叫ぶオヤジや、 円陣を組む学生の固まりなど、とにかく色々な人がこの街に溶け込んでいた。それらは一緒くたになって、私の目にはとても下品に映る。けれど、私は決してい やな気持ちにはならなかった。
 ノブオくんは店を出てから一言も喋らない。さっきまでバニーちゃんの隣で、口数こそ多くなかったけれど、ニコニコしながら楽しそうに飲んでいたのに。今は、完全に私との会話を拒絶している。
 私は小さくため息をついた。やっぱりこの人、扱いにくい。でも、今までに何度も感じてきた不可解さや苛立ちは、もう感じない。私はもう少しこの人のこと を理解したいのだ。いや、理解なんて大袈裟かもしれない。ただ、ミカリンとの関係について、それから家のことについて、彼の考えや姿勢を知りたかった。酔 いが私の気持ちを高揚させているだけかもしれないけれど、それを知ることで、私の何かが変わりそうな気がした。
 高架下。もう駅は目の前にある。
 道の向こうで信号が赤くなり、私たちは少しの間、ここに立ち止まることを許された。
「結構、飲んじゃったね」
 斜め後ろから、声をかけてみる。彼を取り囲む薄い膜を、壊さない程度につつく感じで。
「ああいう場は、好きじゃありません」
 どこが!? と思ったけれど、ツッコミはしない。
 いつもより少しだけ柔らかいノブオくんの口調にわずかな感触を得て、私は一方的に語ることに決めた。さっきのバニーちゃんがいかに可愛かったか。どのお酒に強くてどのお酒が駄目なのか。初めて来たこの街にどんな印象を持ったか。
 頭上に電車の通る音がするので、私の声は少しずつ大きくなる。
 それから、今日サキに会えてどんなに安心したか、サキを見つけるのに協力してもらったことをどんなに感謝しているか。
 私が話している間に、歩行者用の信号は赤になったり青になったりを何度か繰り返した。だけど、ノブオくんは立ち止まったまま、きちんと相槌を打ってくれた。だから、訊いてみてもいいような気がした。
「ノブオくんは――」
 私がそう言ったとき、ちょうど電車の音が途切れた。
「ミカリンのことをどう思ってるの?」
 ノブオくんはほんの少し首を傾げてから、とても落ち着いた口調で答えた。
「ミカさんは、僕を必要としてくれています」
 私も少し首を傾げる。
「それはミカリン側の理由でしょ。そうじゃないの。ノブオくんがどうしてミカリンのところでお世話になり続けてるのか、その理由を聞きたいの」
 私は、未だに二人の関係を理解できずにいた。ノブオくんがミカリンに愛情を持っているなら、良かった。寝る場所と食べるものを確保するだけが目的でも、まだ理解はできた。でも、ノブオくんはそのどちらにも見えなかった。だから、私は混乱してしまうのだ。
 ノブオくんは少し首を傾げて、でも表情は変えずに答えた。
「そう言われても――やっぱりそれ以外に理由なんてありません」
「なんで? 自分の意志ってもんは、ないの?」
「別に――」
 電車の轟音が、会話を遮る。私はなぜか胸がひどく痛くて泣きそうになった。けれど、ここで私が泣くのは明らかに筋違いだ。
 電車の音が消えるのを待って、私は少し心を落ち着けて訊いた。
「じゃあさ、もしもミカリンが、もうノブオくんを必要じゃないって言ったら?」
「もちろん消えますよ。どんな人間関係においてもそれは当然じゃないですか? どちらも必要としていないところに、関係が成り立つはずがない」
 彼が言い終えたところで、ちょうど信号が青に変わった。
 私たちはどちらからともなく、駅に向かって歩き始めた。
 歩きながら、まるで雑音に泳がせるかのような声で、ノブオくんは付け足した。
「むしろ、必要じゃないと言われる前に気配を察して勝手に消えるくらいが、ちょうどいいかもしれません」
 私たちはその後、ミカリンの家へ帰るまで一言も喋らなかった。

*

 ミカリンは既に家に帰っていて、お風呂から上がって寝転がりながら雑誌を読んでいた。私は帰るとすぐにシャワーを借りた。
 シャワーから上がると、ノブオくんは一人でお茶を入れて飲んでいた。引き続き一言も喋らないようだったけれど、ミカリンは別にそれを気に留める様子もな い。ひょっとしたら私がシャワーを浴びている間に何か話をしたのか、それとも普段から二人はこんな調子なのか。完全に部外者である私に、そんなことは解る はずもない。
 ミカリンが必要としている、とノブオくんは言った。飼っている、という言葉をミカリンは使った。でも、一人が寂しくて他の生命体を身近においておきたい と思うほど、ミカリンが乙女ではないことは、私が一番知っている。だいたい、それなら人間より小動物を飼うほうが簡単だし、以前から付き合っていた彼氏と だってまだ続いているなら、やっぱりおかしい。
 そんな私の思いなど知らずに、二人は何事もないように、別々に本を読んだりテレビを見たりしている。私が一人でいくら考えても解りそうになかった。仕方 ないので、私も黙ったままノブオくんが見ているテレビを見る。家で見るテレビは死ぬほどつまらないのに、ここでは黙って見ていてもやっぱり面白いような気 がした。それがどうしてなのか、よく解らなかった。

 暖かくて、柔らかくて。
 淡い黄色がとても優しくて。
 そこは、とても安心できる空間だった。
 真ん中に、ポツンと灰色の大きな立方体のようなものがある。あまりにも目障りで、しかも場違いなので、私は気になってそれに近づいてみる。
 立方体の側面のひとつに、小さな窓がある。私はそこからそっと中を覗く。
 そこにあったのは、見慣れた家の食卓だった。
 テーブルには幾つかの皿が並べられて、何度となく口にしたことのある母さんの料理が乗っていて、母さんだけがひとりぽっちで食卓に座っていた。食事には手を付けようとせず、ただ座っていた。無表情で。
 そこに、ノブオくんの声が聞こえる。
「どちらも必要としていないところに、関係が成り立つはずがない」
 私の心はどこか、バランスを崩す。そして、インターホンの呼び出し音が鳴った。

 あわてて時計を見ると、午前三時を回っていた。サキを待っている間に、私は眠ってしまったようだ。しかも変な夢を見た。後味が悪い。
 ミカリンがドアを開けると、サキは少し酔った陽気な顔をして、「おまたせー」などと言いながら勢いよくこの空間に入ってきた。ノブオくんが、黙ったまま コーヒーを入れる準備を始める。サキはミカリンとどうでもいい会話を交わしながら荷物を置き、上着を脱いで座った。すぐにノブオくんが、「どうぞ」と言っ てコーヒーを出す。
「へえ、本当にここにいるのね」
 サキが無遠慮にノブオくんを見ながら言う。
「いいわね、気のきくヒモがいて」
 全く悪意のない様子でそんなことを言うので、私のほうがハラハラしてしまった。サキは時々唐突過ぎるところがある。私はそういう彼女の性格を、どこか子 供っぽいと思っていた。けれど、この二人の関係について何の抵抗もなく上手く飲み込めているサキは、私よりずっと成熟しているような気もした。
 ノブオくんは、私の前にもコーヒーを置いてくれていた。とりあえず一口飲もうかと手を伸ばしたところで、サキは突然本題に入った。
「で、何しにあんな店まで来たのよ?」
 私は一口のコーヒーすら飲みそびれて、それに答えた。
「何しにって、サキを探してたに決まってるでしょう。心配したんだから。どうして急にいなくなったりしたのよ?」
 サキは反省する様子もなく、ただ少しだけ肩をすくめた。
「理由はいろいろあるけどね。それより、どうして私があの店にいることが解ったの?」
「だって、――これ」
 私は鞄に入れておいたサキの携帯電話を見せて、笑った。
「サキってば、バカだね。失踪するんだったら、連絡先が解るような手がかりを残してっちゃだめだよ」
 すべて笑い飛ばすつもりで、私は言った。けれど、笑い飛ばすことは出来なかった。必要以上にサキの顔が曇っていったのが解ったから。
「なんで裕子が私の携帯を持ってるのよ......」
 絞り出すように苦しい声で、サキは言う。私はただとにかく戸惑って、「え?」と聞き返した。
「その携帯、私はわざと家に置いてったのよ。なのに、なんで裕子が持ってるの?」
「あ、だって、この携帯に電話したらサキのお母さんから電話がかかってきて......、サキを探して欲しいって言うから、私......」
 そんなことを追及されるとは思っていなかったので、私はしどろもどろになりながらも、なるべく真実を話そうとした。サキは私の言葉を聞きながら、どんどん表情を険しくしていく。私がしたことの、何が悪かったか解らない。
「なんとかして探さなきゃと思ったから、......そりゃあさ、勝手に携帯をいじったのは、悪いとは思ってるけど......」
 私が弁解をしていると、サキの表情ははっといつもの表情に戻る。
「まあ、裕子は悪くないけどさ」
 諦めたように掃き出された言葉も、いつもの軽い口調だ。私はホッとしつつも、サキの顔を見ることが出来ずにうつむいた。
 そんな私たちを黙って見ていたミカリンが、サキに問いかける。
「ひょっとして咲子、携帯のメモリーを消さずにいたのも、わざと......?」
 サキは一瞬動きを止めた。表情も失った。それから、ふっと笑う。なんだか怖かった。だって、サキの笑顔は口角だけがひきつったような笑顔だったから。
「別に、親の気を引きたくて家出したわけじゃないんだけどさ――」
 そう語り始めたサキの声はいつものキャピキャピした感じではなく、とても低く、それでいてやけに重苦しく部屋の中に響いた気がした。

*

 サキが語った話の概要は、つまりこういうことだった。

 彼女の母親は、いわゆるキャリアウーマンだ。それは私も知っていた。けれど、父親についてはよく知らなかった。話にも出てこないし、近所に住んでいるの に私はその顔を見たことが、たぶんない。聞いてみると、どうやら父親も仕事一筋の人らしく、平日も休日もほとんど家にいないらしい。そういえばサキは昔、 鍵っ子だった。けれど、そんなのは私たちの周りでは別に珍しいことでもなかった。むしろ、家に帰ってもうるさい親がいない子たちを、私はとても羨ましいと 思っていた。
 サキの母親は、家事も育児もろくにしなかったらしい。けれど、子供は放っておいても育つものだ。放っておくのなら一貫して放っておけばいいのに、ある時 点を境に、彼女は急に娘の人生に対して口を出すようになってしまったのだ。それは私たちが思春期に入るくらいの年齢の頃で、日本経済においてバブルがはじ けたと言われるあたりの時期だった。
 女だってちゃんと仕事を持たなきゃだめよ。腰掛けでOLなんかになって、適当に結婚して家庭に入って、それで人生が一体何になるの。だいたいこの不況 で、そのうち企業は腰掛けのOLなんて雇わなくなるのよ。結婚したとしても、旦那さんがそんなに稼いでくれる保障もないのよ。これから大企業だって簡単に 潰れる時代になるのだから。あなたも企業に必要とされるだけの人間になりなさい。
 サキはまだ子供で、日本が不況だろうがなんだろうが、夢なんて幾らでも見ることができた。自分の将来なんて、幾らでも自由に選べると思っていた。私がサキの立場だったとしても、そう思っただろう。
 サキは母親の言うことを聞かず、東京の私立女子高に進学することを決めた。それなりの教育をきちんと受けてきた、お金持ちのお嬢様が通うような学校だ。 そのまま付属の短大へ進学し、ちょっとしたコネで大企業の一般職に就職を決めた。母親が最も嫌っていた、腰掛けOLの王道だった。
 それが反抗期の真っ只中だったことが不運だったのではないかと私は思った。けれど、反抗心ではなく、反面教師に学んだことなのだと、サキは言った。
 適度に仕事をして、適度にサラリーを貰って、適度に遊ぶ生活は華やかで、サキは自分にそれがとても合っていると思っていた。そして、そんな毎日を謳歌している間に、ひとつの出会いが訪れた。私も以前に聞かされた、社内恋愛のあの人だ。
 年齢も、収入も、身長も、学歴も。彼は腰掛けOLの結婚相手として、あまりに相応しい人だった。けれど、私だって知っている。サキは別に条件で彼を好き になったわけじゃない。海浜幕張で乗り込んできた京葉線の中で幸せそうに恋を語ったサキは、相手の良いところも悪いところも全部ひっくるめて彼に夢中に なってしまっただけの、幸せな女の子だった。一年半の交際を経て、サキは彼から絵に描いたような給料三か月分の婚約指輪を渡された。全ては順調で、サキは 幸せの絶頂にいたのだと思う。
 そして、結婚を前提とした両親の顔合わせの日。
 結婚をしたら仕事を辞めて家庭に入る、とサキは宣言した。会社ではそれが慣習だったし、本人の意志でもあった。
 けれど、サキの母親はそれを聞いた途端、二人の結婚に反対し始めた。
 先方のご両親が、『きちんと家を守ってくれる、良いお嫁さんだ』と、喜んだのがいけなかったのかもしれない。その言葉はたぶん、サキの母親にとって、自 分のことを非難するかのように聞こえたのだと思う。自分が家を守ってこなかったことに、後悔があるのかもしれない。サキの母親は相手の両親に対して、あな た方みたいな古い考えの人間がいるから社会における女性の地位が変わらないんです、とか、家庭に入って専業主婦になって養ってもらうだけの人生なんて何の 生き甲斐があるんですか、とかなんとか、捲し立ててしまったというのだ。
 すぐに冷静になれば、謝れたことかもしれない。けれど、その場では収拾がつかないと判断したサキの父親が、機会を改めましょうと言い残して、サキの母親を連れて帰ってしまったのだ。
 サキの母親は、二度と彼と会わなかった。もちろん、彼の両親とも。
 ついカッとなって発した言葉は、たいてい後から振り返ると恥ずかしい。サキの母親はきっと、大切な場でそうなってしまった自分を恥じていたのかもしれな い、と私は思う。それでもプライドが高いから、謝れなかったんじゃないだろうか。それでも結婚したかったサキは、駆け落ちをしたっていいと彼に提案した。
 けれど彼は、一人でも反対者のいる結婚はいつか後悔すると、別れを告げた。

「――社内恋愛の果ての婚約解消なんて、会社にいづらいでしょ。だから会社を辞めて、家も出て、一人で新しい人生を始めようって思った」
 サキは始終、淡々と落ち着いた口調で話し続けていた。
「じゃあ、裕子とコンビニで偶然会ったときには、もうそのつもりだったんだ?」
「そう。で、美佳が東京で一人暮らしをしてるって聞いたでしょ? その生活を見ておこうと思ったんだよね。身近な子の自立した生活を見たら、参考になるだろうなあって」
 そこまで言って、サキは一旦黙った。
 ミカリンは時々相槌を打って聞き、私はといえば、うちの母さんだったらサキみたいな人生を手放しで喜ぶだろうになどと思いながら、ぼんやりと聞いていることしか出来なかった。
 ノブオくんは存在感ごとなくなってしまったように、声を出すどころかほとんど微動もしない状態で、ただ部屋の端に座っていた。話を聞いていたのかもしれないし、聞くことを拒んでいたのかもしれない。
 ぼんやりしながらも、私は一つ疑問に思ったことを訊いた。
「でも、そこまで断ち切りたい母親なのに、サキはどうして携帯をそのままの状態で置いてきたの?」
 サキは悲しそうな半笑いを顔に浮かべて、答えた。
「確認のためよ」
「確認? なんの?」
「あの人が母親らしい事なんて絶対にしないってことの、確認。あそこまで女は仕事だって言うんだもの。わざわざ仕事を投げ出していなくなった娘を探すなんてことをしないだろうって、一応確認しておかないとね」
 ふふ、と自嘲的にサキは笑った。私は腑に落ちなかった。人の家庭のことには口を出すべきではないかもしれないけれど、私は黙っていられなくなった。
「でも、それは違うと思うよ。サキのお母さんはものすごく心配してたよ。私なんかにおそるおそる、涙声で電話して来ちゃうくらい心配してたんだよ。自分で サキを探さないのは、きっと仕事のためじゃないと思う。帰ってきてくれるのを信じて待ってるんだよ。だって、家ってそういう場所じゃん」
 私はそこまで言って、もう一度念を押すように言った。
「家って、理由がなくても帰れる場所じゃん」
 誰も頷かないし、何か言ってくれたりもしなかった。けれど、それでもよかった。
 郵便受けに新聞が届いた音だけがした。

*

 ミカリンが大きく伸びをして、サキはトイレに立ち、ノブオくんは気の利いたことにコーヒーをいれてくれた。私は少し足を崩したけれど、そこに座ったまま動けなかった。
 どことなく小休止という雰囲気にはなったけれど、それはたぶん、誰も何も言おうとしないからだった。心の中では、いろいろな思いが渦巻いているはずなのに。
 重々しい雰囲気が苦しい。沈黙も、今はしらじらしい。だから私は、軽めの口調で笑いながら言った。
「でも、サキの家ががそんなに大変だとは思わなかったな。うちなんか、腰掛けOLでもなんでも、仕事をしてるってだけで母さん大喜びなのに」
 せっかく少しでもやわらかい雰囲気にしようと思ったのに、ミカリンがぴしゃりと言う。
「あんたんとこは、いいお母さんだよ。今は、ちゃんと仕事してないから口うるさいかもしんないけど。そんなの子供に早く一人前になって欲しいと願う親だったら当然じゃない」
 いつもクールに振る舞っているミカリンにしては、その口調はやけに熱かった。それに驚いたのもあったし、言っている内容があまりにもまっとうだったのも あって、私は何も言い返すことができない。ノブオくんがいれてくれたばかりのコーヒーを喉に流し込むと、心の奥にある苦いものがほんの少し、流されて下に おりた気がした。ミカリンは続ける。
「あんたがちゃんと自分の生き方を真剣に考えて仕事を選んだなら、腰掛けOLだろうがキャリアウーマン目指そうが、どんな仕事をしようが、受け入れてくれるよ。裕子のお母さんならきっと、価値観を押し付けたりしないと思う。羨ましいわよ、うちの母なんか――」
 そこまで勢いで言ったのに、ミカリンははっとしたように言葉を止めた。
「え......? ひょっとしてミカリンのお母さんも、価値観を押し付けたりするの?」
 続きが気になるので思わず聞くと、ミカリンは小さくうなずく。ちょうどサキもトイレから出てきて、「何の話?」などと言いながら、先ほど座っていた場所にいそいそと座り直した。
「うん――」
 ミカリンが何か答えようとしたところ、ノブオくんが立ち上がった。
「僕ちょっと煙草買いに行きます。ついでに少し外の空気吸ってくるんで、ごゆっくり」
 誰も何も聞いていないのに一人で丁寧な説明をするなんて、なんとなく妙だと思った。でも、私は何も言えなかった。ミカリンが小さな声で「行ってらっしゃい」と言うだけなのに、私が彼を止めるわけにも行かない。
 席を立たないままノブオくんを見送ると、ミカリンはおもむろに話しだした。
「ちょうどよかった。ノブオの前ではこういう話はしたくなかったの」
 ああ、そういうことか、と思った。ノブオくんはその気配を感じ取って、自発的に席を外したのだ。つい何時間か前にノブオくんの口から聞いた台詞を思い出す。
 必要じゃないと言われる前に気配を察して勝手に消えるくらいが、ちょうどいい。
 彼はそれほどまでに、必要とされることに敏感なのだ。

「うちの場合はね、咲子と正反対」
 ミカリンはため息混じりに言う。ミカリンが悩んでいる姿は、単純に珍しかった。サキも同じ気持ちだったのか、私たちはなんとなく目を見合わせながら黙って話を聞く。
「子供の頃から、テストでいい点なんてとらなくていいから、勉強なんか必要以上に出来たって仕方ないから、もっと女の子らしくしなさいって言われ続けて た。うちの母は、女がどんなに頑張ったところで男には勝てないっていう考えの持ち主だったのね。ピアノから始まって、お琴やお華、お茶とか日本舞踊を無理 矢理習わせようとしたり、勝手に料理教室に申し込んだりして、とにかく私に花嫁修行をさせたがってたの」
 聞きながら私は、小さい頃から慣れ親しんでいるミカリンのお母さんの顔を思い浮かべた。とても優しくて、遊びに行くといつも手作りのおやつが出てくる し、家の中はいつも手入れが行き届いていた。専業主婦の鑑のようなお母さんだ。私は、そんなお母さんを持ったミカリンを子供の頃から羨ましがっていた。
「私はずっと、そういう考えは前時代的だと思ってた。だから、見返してやりたくて必要以上に頑張ったつもり。一流といわれる大学を出て、名の知れた会社で バリバリ働いて、お給料も沢山貰って、一人立ちできることを見せたくて家も出た。女だってそうやって一人で生きていけることを、証明したかったんだと思 う」
 そこまでほとんど一息で言い終えて、ミカリンは大きく息を吸った。
「だけど、簡単に否定されちゃうの。今はそれでよくても、これから五年十年働いていけば、男性社員との差がつくのよって。男は妻子を養うことが出来るようになるけれど、社会は女にそこまでの役割を求めてないんだって」
「本当にうちの母親と足して二で割ればちょうどいいわ」
 サキが口を挟んだけれど、ミカリンは気分が高揚しているせいか、答える余裕もないままに、ほとんど独白のような語りを続けた。
「確かに社会は厳しいよ。仕事はやり甲斐もあるし、納得のいく報酬もあるし、今は満足してるけど、女の先輩を見てれば解る。時々弱音を吐きたくもなる。で も、あの女にだけは絶対に弱い部分は見せたくないって思ってる。お正月に帰省したときも、毎日がいかに充実してるかを語ってきた。だけど、それでも私は否 定された」
 そこまで話したところで、ミカリンの口の動きは少しだけ止まった。私とサキは、何も言えないまま、黙って続きを待つ。ミカリンは、そこに沈黙があるのを確認したような顔をしてから、口を開いた。
「『所詮、自分ひとりが食べていくので精一杯なんでしょう。あなたはまだ子供だから、人間を一人養うことがどれだけ大変なことか、解るはずがない』って――」
 そう言ったきり、ミカリンは黙った。
 殆ど泣きそうになっているミカリンの横顔を、彼女はこんなに弱い人間だったろうか、とぼんやりと思いながら、私は眺めていた。
 生まれてくる家は、選べない。誰だって、少しはそれを理不尽だと思う時がある。サキだって、私だってそうだ。理不尽だからこそ、反抗心も芽生える。だっ て、血のつながりから逃げ出すことはできないのだ。反抗心は、自分が自分であるということをわかって欲しいという、叫びだ。
 まるでジグソーパズルの最後のピースを嵌めるように、私の中で辻褄が、静かに合ってしまった。私は自分が感じたことを、ゆっくり、一つずつ、言葉に変えてみる。
「ノブオくんを『飼う』ってことが、ミカリンの、証明、だったんだね?」
 ミカリンは黙りこくったまま、気まずそうにただ下を向いた。

*

「『証明』って?」
 サキが訊き返す。ミカリンとノブオくんの関係を詳しく把握していないのだから、仕方ない。
「女だって一人で誰かを養って生きて行ける、って証明」
 ミカリンは小さく、けれど、はっきりと頷いた。私も自分の言葉に妙に納得した。今までこんがらがっていたものが私の中で解けた気分。なんとなく空気が軽くなった気がして、私は嬉しくて、少し口が滑った。
「サキもミカリンも、葛藤しながら生きてきたんだね。うちの母さんなんか、どっちが娘だったとしても手放しで喜んじゃうのになあ」
「あんたは美佳の家にでも生まれてくればよかったのよ」
 サキがすかさず悪態をつき、ミカリンもそれを受けて笑いながら言う。
「裕子のお母さんは、娘がささやかでも幸せになってくれればいいって思ってるんだよ。なのに裕子ときたら、ささやかな幸せどころか上司と不倫して仕事はクビになるし」
「その調子じゃ、しばらくは結婚も望めないだろうし」
「なんだかんだ言って、就職もできそうにないし」
「あーあ、お母さんが可哀相だねぇ」
 二人の言いように、トロい私もさすがに怒る。
「ひどいよ。私だって色々悩んでるんだから!」
 大声で言うと、ミカリンが呆れたように口の前で人差し指を立てた。
「早朝なんだから、近所に迷惑かけないで」
 いじけて何も言えなくなった私を横目に、ミカリンはニヤニヤしながら「新聞でも読むかな」と立ち上がり、サキは「ああ喉が渇いた」と勝手に冷蔵庫を空けてオレンジジュースを取り出した。私は複雑な気持ちになりながらも、黙って少し冷めたコーヒーを飲んだ。
 ダイニングは東側に小さな窓があり、朝らしい光が射し込んできている。もう誰も喋らないでいいと思ったし、実際に誰も何も喋らなかった。心地よい沈黙。そして。
   カツン
 金属のようなものがフローリングの床に落ちる音は、たぶんその時だったからこそ、まるでドラマの効果音のように印象的に響いたのだと思う。ミカリンが小さく息を呑む音すら、はっきりと解るくらい。
 何だろう。私は単純にそう思って、ミカリンのほうを見た。
 サキも不思議そうな顔で目を向けた。
 ミカリンは郵便受けから取り出したばかりの朝刊を左手に、自分の足元に落ちた金属片を虚ろな目で見下ろしていた。その金属片を見て、私は何か言わなければいけないと思った。けれど、何も言葉が出てこない。
「何それ、鍵?」
 サキが、奇妙に一転した重い沈黙を破った。ミカリンは何も答えない。私は、もう一度何か声をかけようとしたけれど、口が開いただけで言葉が出てこなかった。
「どうしたの? 何なの、その鍵?」
 ミカリンと私のただならぬ雰囲気に、サキは苛立ちを含んだ声で追いうちをかけた。ミカリンは、サキに何か説明しようとしたのだと思う。サキの目をじっと見て、口を開きかけて、ゆっくりと言葉を探して、それからようやく低い声で言った。
「なんで?」
 それだけ言い終えると、ミカリンはゆっくりと座り込み、足元の鍵を拾って大切そうに手の中に握り締めた。さすがのサキもそれ以上は追及しない。
「なんで、ノブオがいなくなるの?」
 ミカリンが叫ぶ。
「え、どういうこと? それ、彼が持ってた合鍵なの?」
「ノブオが、いなく、なっちゃった」
 ミカリンはまるでサキの質問が聞こえないかのように、ただぽろぽろと泣きながら、独り言のように自嘲的な笑いを浮かべて言った。私は心が痛くて、鼓動が早く大きく脈打つのも痛くて、痛くて痛くてどうすればいいか解らなかった。
「いなくなっちゃったぁ、いなくなっちゃったよぉ。私には、ノブオが、必要、だったのにぃ」
 子供の頃から冷静で強くて頼もしかったミカリンが、まるで子供みたいに泣いている。とてもプライドの高かったミカリンが、ひどく弱々しい女の顔をして泣 いている。「飼ってるだけ」などと冷たく言い放っていた男のことを、必要だったと言って泣いている。ショックが重なりすぎて、気が付いたら私もしゃくり上 げていた。
 ――必要じゃないと言われる前に気配を察して勝手に消えるくらいが、ちょうどいい。
 頭の中でリフレインする、ノブオくんが私に残した最後の言葉。口調も表情も、その瞬間の風の向きまで鮮明に残っている。自分の記憶力がこんなに良いとは思わなかった。
 ノブオくんは知っていたのだ、自分がミカリンにとって意地を張った『証明』のための存在であることを。そして、サキの話をきっかけに、ミカリンが自分の母親との関係について改めて考え直すことも。
 けれど、ノブオくんはひとつ間違っていた。ミカリンもたぶん、気付いてなかった。
 ミカリンが母親との関係を改めれば、意地になって『証明』する必要はなくなる。だけど、それでノブオくんが不要になるわけじゃない。ノブオくんはもうミ カリンにとって、『証明』のためだけの存在ではなかった。決して広くないミカリンのダイニングの端っこで、ノブオくんは黙って座っているだけだったのに、 いつのまにか大きな存在感で息づいてしまったのだ。
「なんだかよく解んないけどさ、そんなに必要なら捜しにいけば?」
 苛立ったようにサキが言うと、ミカリンは駄々をこねる子供のように首をぶんぶん横に振った。
「そんな、縋りつくみたいなみっともない真似、できないよぉ」
「でもさあ、母親に意地張って、好きな男にも素直になれないで、そんな泣いてまで守ろうとする美佳の幸せって、いったい何なんだか、私には解らないよ」
 煙草をふかしながらきっぱりとそんなことを言えるサキが、ちょっと格好良かった。対抗するわけじゃないけれど、私もミカリンの背中を押す。
「ノブオくんは帰る家がないんでしょう? 彼にとっても本当は、ミカリンが必要なんだよ」
 ミカリンは真っ赤な目でキッと私を睨んだ。そしてその直後、つっかけを履いて玄関からものすごい勢いで飛び出して行った。

*

 サキと二人でミカリンの部屋に取り残されて、改めて思う。たった一人がいなくなることで、出来上がる大きな隙間の存在。
 このダイニングで一人の食事をするミカリンも、黙ってサキを待ち続けるサキのお母さんも、家族に捨てられたノブオくんも、婚約者に別れを告げられたサキも。みんな、そういう隙間を抱えているのだ。
 急に寂しくなった私は、残ったほんの少しのコーヒーを一滴でもいいから口にしたくて、カップを無理矢理逆さにした。ノブオくんが最後に入れてくれたコーヒーは、もう冷たくなっていた。それでも私は舐めるように飲んだ。
 ――必要じゃないと言われる前に気配を察して勝手に消えるくらいが、ちょうどいい。
 何度も何度も、耳に焼き付いたまま同じトーンで繰り返される、ノブオくんの声が、うるさい。あまりにしつこいので、私はなんとなく、サキに訊いてみた。
「誰かに必要とされるって、そんなに大切なことかなあ」
「誰にも必要とされないで、生きる意味ってあるの?」
 サキは、ごく当たり前のように訊き返してきた。
 そうか、そうなのだろうか、と、私は軽く首を傾げてみる。
 私は今まで、人を必要としてばかりいたのかもしれない。家族にも、友達にも、恋愛にも、仕事にも。求めるばかりで、自分が誰かに必要とされることなん て、考えもしなかった。家は理由がなくても帰れる場所、偉そうにそんなことを言い切った自分の甘さが、今は少し恥ずかしい。
 だけど、だからこそ、もう一度言おう。
「サキのお母さんも、サキを必要としてるんだよ」
 なるべく落ち着いて、優しい声で言ってみた。サキはふっと目を逸らして、けれど悔しそうに言い返す。
「裕子だって、同じでしょ」
 その通りだ。
 我が家の食卓で質素な食事をする母さんの姿が思い浮かぶ。
 私たちは今、人に隙間を抱えさせている張本人だ。だから、帰らなければいけない。

 玄関を閉めるのに使ったノブオくんの鍵をアパート前の植え込みに隠して、そのことをミカリンの携帯にメールだけしておいた。ミカリンがノブオくんをちゃ んと連れ戻すところを見届けたい気持ちもあったけれど、連れ戻したにせよそうでないにせよ、ミカリンはたぶん私たちにどっちの顔も見られたくないだろう、 と思う。
 私とサキは始発から間もない千葉行きの電車に乗り、それぞれの家へと向かった。
 家の前に立つと、庭の小屋から出てきて、チャップがしっぽをちぎれそうなくらいに振る。ここにも私の不在を隙間のように思ってくれている存在があったの だ。私は何日かの散歩をしてやれなかったことを反省しながら、彼の頭をわしゃわしゃと思いきり撫でた。彼は気持ちよさそうに仰向けになり、服従のポーズを して見せた。
 ひとしきりチャップの身体を撫で回すと、私のほうもようやく気持ちが落ち着いた。そこで立ち上がって、ゆっくりと玄関を開けてみた。
 かすかにみそ汁の匂いがする。まだ父さんや知美も家にいる時間だ。
「ただいま」
 そう言いながら私が食卓に顔を出すと、朝食を摂っている家族が全員で私を迎えた。
「どうしたんだ、こんな時間に帰ってきて」
「就職は決まったの?」
「なんか目ぇ腫れてるよ。肌も荒れてるし。お肌の曲がり角なんだから気をつけな」
 全員が、ほとんど同時に私に声をかけた。ぬるま湯のようなものが入り込んで、ぴったりと隙間を埋めるようなイメージで。
「仕事は、まだ」
 私はそれだけ言うと、空いている自分の椅子に座った。それから一息ついて、少し泣きそうになりながら元気よく言った。
「そんなことよりお腹空いたあ。母さん、ご飯ちょうだい」
「あら、帰るなりそれじゃ困るわね」
 母さんは呆れたように言いながら、キッチンに入る。食卓には私の分のご飯とおかずが、あっという間に並んだ。いつ帰るとも言わなかったのに四人分のご飯が用意されていることには気づいたけれど、それについてとりたててコメントする必要もないと思った。
 私はいつも通り「いただきます」とだけ言って、母さんの作ったみそ汁を飲む。
 今まで何も考えずに、お気楽に与えてもらうばかりだったそれは、実は私のこころの隙間を埋めるのに一番大きな存在だったらしいことに、改めて気付く。ああ、こういうのを『おふくろの味』と言うのかな、とも考えた。
 仕事でもいいし、恋愛でも結婚でも何でもいいや、と思う。とにかく私もいつか、誰かの隙間をそうやって埋めることが、できるようになりたい。
 そんなことを考えながら、私はまるで水を渇望していた雑草のように、ほとんど一気にみそ汁を飲み干す。その様子を見ていた私の家族たちは、へらへらとやわらかく、笑った。



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