top中~長篇


まほうのおくすり


――13:35 倦怠サボタージュ――

 佐倉くんがぐちゃぐちゃになったコンドームを身体から剥がすとき、私はいつも目のやり場に困る。
 ラブホテルの部屋なんて、広くない。だからどうしても、佐倉くんの裸の背中ばかりが目に入る。そうなると、もうダメ。何も考えられなくなる。
 ベッドに横たわったままボーっとしてたら、ふとデジタルの表示が動いた気配。時計を見ると、ちょうど昼の1時半をまわったところだった。
「あ。おばあちゃんの葬式が始まった」
「は?」
 佐倉くんはいつの間にかコンドームの処理を終わらせて、パンツ一丁でベッドに沈み込みながら、裏返った声で反応した。
「お前、ばーさんの葬式ブッチして男とこんなことしてて、いいの?」
 何が嬉しいんだか、佐倉くんはニヤニヤしながら私にキスをした。
 恋愛感情なんかないのに、私たちの関係はこうしてときどき、少しだけ揺らぐ。自分の中で何かが崩れてくような感覚。

 当たり前だけど、祖母の葬式に行かなかったのは、佐倉くんとセックスするためじゃない。朝から入ってた就職活動のためだ。
 就職活動を理由に、葬式に出なくていいってことじゃないけど、この私が最終面接にまで呼ばれたのは、はっきり言って奇蹟みたいなもんで、両親のほうが「葬式はいいから」って私を置いて行ってしまったのだ。
 私は予定通り、朝から面接に挑んだ。
 でも、私は就職のことばかり考えて目の前のことを考える余裕がなかった。面接のあとに待っていた長い午後は、予定外だった。
 ぽっかり空いた時間。
 私は途方に暮れて、少し悩んだけど、結局、佐倉くんを呼び出した。

 佐倉くんは、30分で待ち合わせ場所まで来た。いつもそう。彼は、私が呼び出せばすぐに飛んでくる。
 でも、知ってる。別に私は愛されてるわけじゃないってこと。彼は単に飢えた猛獣で、私はただの餌だってこと。
 私は別に、誰とでも簡単に寝る女じゃない。佐倉くんとしか、こんなふうにしない。でも、そのことに理由なんかない。探せばどっかにあるかもしんないけど、それってすごくメンドクサイし。
 強いて理由を作るなら、夏だから、だと思う。
 暑くて暑くて、仕方ないんだもん。一秒でも早くリクルートスーツを脱いで、シャワーを浴びたかったんだもん。
 ゆっくり育てる恋愛なんかしてたら、季節なんてあっという間に変わってしまう。

「葬式、行かなくていいのかよ?」
 部屋に備え付けのTVゲームを始めてほどなく、佐倉くんは訊いてきた。
「簡単には行けないよ。函館だもん」
 私は、鞄の中に入っていた雑誌をテキトーに斜め読みしながら答える。

 私たちはお互いヒマな大学生だから、ホテルはいつもサービスタイムに入る。お昼頃からだいたい夕方まで、部屋を使える時間はすごく長い。その間、ほとんどこんなふうに、お互いに違うことをしながらまったりと過ごす。セックスはいつも、1回しかしない。
 変だ。
 そんなに数多くはないけど、私の恋愛経験では、ホテルに入ったら2回戦ぐらいは当然だった。ほかの場所ならともかく、ここはそれだけのための場所なんだから。
 なのに、佐倉くんは1回出したらもう次に会うまで私に欲情しない。
 それが、妙に悔しい。

「函館か、遠いな」
 佐倉くんはゲームをする手を止めず、興味なさそうに私との会話を飄々と続ける。
「で、なんで死んだの?」
 予想外の質問に、私は思わず笑った。
「老人が死ぬのに理由なんか必要?」
「いや、病気とかさ。理由はあるだろ」
 もちろん私だって、老人が理由もなく死ぬと思ってるわけじゃない。でも、生まれた人から先に死ぬのは自然なことだ。
「病気じゃないよ。健康な人だったもん。心不全って言ってたから、老衰なんじゃない?」
「マジ? 心不全って、自殺したときによく使われる死因だって聞くけど」
「まさか。だって、今年92歳だよ?」
 92年も生きてきた人は、戦争を知ってる。私たちには想像できないくらい極貧の時代も経験してる。それを生き抜いてたくさんの子供と孫に恵まれた幸せな人が、今さら自殺なんてするもんか。そんなの、理由がない。

「だいたい、3ヶ月前に会ったとき、元気だったもん」
「会ったばっかりだったのか」
「10年ぶりぐらいだったけどね。おじいちゃんが死んで、葬式に行ったの。あんとき、就職決まったら挨拶に来るねって約束したんだけどな」
「ああ、だから会いに行けないんだ?」
 佐倉くんは意地悪く笑った。カタカナで書くとしたら『イシシ』って感じ。彼が人を小バカにするときのこの音は、どうしてか心に切なく響く。私はわざとふくれっ面をして、心を引き締めた。
 そんなことしたって、どうせ佐倉くんの目はTVの画面に張り付いたままなのに。


――14:01 背中に腕押し――

 カッコつけてみても、私が葬式に行けないのは結局、就職が決まってないからだった。死んだ祖母に顔向けできないって意味じゃない。問題は死人じゃなくて、生きてる人間。
 親戚が集まった席で、私の就職のことが話のネタになるのは、目に見えてるから。そんなところ、自分からわざわざ飛び込んでいくもんじゃない。なんで中年には、下世話な人間が多すぎるんだろう。
 1年前なら、「放っといて」と突っぱねることができた。あの頃は私なりに考や目標があるつもりだった。今はほとんど打ち砕かれて、ぼろ布みたいになってるけど。
 出版社に入りたかった。
 本が好きだからそれに関わりたかったのか、自分の手で後世まで残るものを造りたかったのか。今はそんなことも解らなくなった。
 はっきり言えるのは、私の考えなんて世の中からすれば塵みたいなもんだってことだけ。就職活動を始めてから半年間に私が学んだのは、ほんとにそれだけだった。

 大手出版社は、私に見向きもしなかった。私は妥協して、訪問する会社の規模を少しずつ小さくしていった。名もない出版社にもあたった。さいわい出版社なんて、掘り出してみれば井戸の水みたいにいくらでも湧いてくる。これだけあれば、どっかが拾ってくれると思ってた。
 甘かった。小さな会社だからって私を拾ってくれるわけじゃ、全然なかった。私には三流大学の名前しかないし、それを補う資格やスキルもない。私よりレベルの高い大学の子が、1年も前からマスコミ教室に通って力をつけてきてたことに、気付くのが遅すぎた。
 どんなにノックしても開かない扉に、私の手はすり切れてしまった。ここまでしてどうして就職したいんだろう。出版社の何が魅力だったんだろう。そもそも私は何をやりたいんだろう。
 考えれば考えるほど、よけいダメになった。自分がいかに空っぽだったか、思い知っただけだった。

 こんな私にも、解ることは少しある。
 葬式蹴ってまで行った面接がうまくいくかって言うと、ビミョーってこと。
 というか、たぶん落ちる。だって今日の面接、ありえないくらい威圧的だった。こんな会社に就職したくないよって顔をしながら、私は面接を受けたと思う。
 感情と表情が直結してるなんて、私は子供すぎる。でも、うまくとり繕うのは苦手。どうしても顔に出る。

 ベッドの上で、いつのまにか冷えきってしまった心。私がろくでもないことばかり考えてるせいだし、佐倉くんが私に余計な時間を与えるせいだ。
 佐倉くんは相変わらずパンツ一丁といういでたちで、テレビに向かって淡々とコントローラーをいじり続ける。眼と指しか動かさないそのポーズは、今自分が ゲームに夢中になってることを主張してるみたい。中肉中背で無駄のない裸の背中は、どんなに睨みつけたって射抜かれたりしないんだろう。

 音が出ないようにため息を吐く。
 私たちに会話は難しい。こっちが語りかけなきゃ、向こうはうんともすんとも言わないし、語りかけたって、反応はいつも中途半端。
 まるで就職活動みたい。狭い部屋で、たった二人で。私ばかりが相手の様子をうかがってる。
 なにやってんだろう。
 ふと我に返った。
 ホント、バカみたい。
 心の中で頭を掻きむしるイメージで、私はベッドから勢いよく起きあがった。

「帰る」
 私にしちゃ妙に素早い動きで服を着ながら、佐倉くんの肩胛骨あたりに向かって言った。どうせゲームは止めないんだろうし、どこに向かって話しかけても一緒だった。
 予想通り、佐倉くんは振り向きもせずに答えた。
「まだ時間あるよ?」
「時間があったって、やることないもん」
「帰ったって同じだろ」
 目も合わせないくせに、私が帰るのを阻止しようとするなんて、何様?
 自己中すぎる態度が、私の声を高くさせる。
「佐倉くんだって、私がここにいようが帰ろうが、同じでしょ」
「えー、でも、1人でラブホにいるとヘコむじゃん」
「なにそれ。じゃあ佐倉くんも帰れば?」
「つーかさ、」
 佐倉くんはそう言うと、コントローラーをベッドの隅に置いて、初めて私のほうを振り返った。
「なに拗ねてんの?」
「拗ねてなんか......」
 言い返そうとした私を、佐倉くんはたぐり寄せるように軽く抱きしめて、また『イシシ』と笑う。
「服なんか着ちゃって」
 なんでこの人は、こんなにヨユーなんだろう。

 佐倉くんの鼻息が、私を黙らせる。触れるたびに、意外と熱く感じる唇。暇つぶしのように私の身体を弄る、無骨なようで華奢な指。
 ずるい。
 泣きたくなったけど、涙は出なかった。かわりに、シャワーで流したはずの汗が、肌を被うようにじっとりと浮かんでくる。
 結局、私の意志はすごく弱い。


――15:26 スカートの痕跡――

「もう1回、やろうか」
 佐倉くんはいつになく優しい口調で提案した。
「なに言ってんの。私、もう服着ちゃったし」
「いいよ、着たままで。スーツ着てる女って、そそる」
「やだ、汚れるもん」
「気をつけるから」

 言うより早く、佐倉くんは私のブラウスに手をかけた。胸のあたりのボタンが外されていく。
 私は抵抗しなかった。佐倉くんの手が素早くて強引だから、ってわけじゃない。たぶん、びっくりしたんだと思う。私に対して、初めて1日2回目の欲情を見せた彼に。
 後ろから押しあてられた佐倉くんの熱い部分。私の内側も、負けないくらい熱い。早く佐倉くんを飲み込んでしまいたくなってる。
 こんな関係、もうやめたい。心の奥で冷静な私が言う。でも、口から出てくるのは甘い声だけ。うまくとり繕うのはやっぱり苦手だから。
 恋愛にはならない感情。なのに、私たちはどうしてこんなに突き動かされるんだろう。

 すぐそこにベッドがあるのに、私たちはなぜか立ったまま、最後までした。佐倉くんは2回目なのに妙に興奮しまくって、私を後ろからきつく抱きしめながら、激しく腰を振り続けた。
 身体を熱く揺さぶられながら、ぼんやりと気付く。佐倉くんがこんなに強く私を抱きしめるのって、たぶん初めてだ。だって、強い力で誰かに抱きしめられるのがこんなに気持ちいいなんて、今まで私は知らなかったから。今、気付かされたから。
 悲しいのは、佐倉くんが抱きしめてるのは私じゃなくて、私の着てる服だってこと。リクルートスーツに包まれてる中身は、佐倉くんからはまるで入れ物みたく扱われてる。

 キスも同じ。
 私と佐倉くんは、やってる最中しかキスしない。でも、そのルールにはひとつだけ例外がある。私が佐倉くんの気に入るような言動をとったときだけ、彼から突然キスしてくるのだ。彼はそのとき、私そのものじゃなくて、私の「何か」にキスしてるんだと思う。
 この例外のせいで、いつも戸惑う。私は佐倉くんみたく、人とその付属物とをうまく切り離せないから。佐倉くんのセリフだとか動作や表情、着てる服や持ってる物に惚れるってことは、佐倉くん自身に惚れるようなもんだから。そして、惚れたら負けだから。
 だから私は、意地でも自分からはキスしないって決めてる。キスしたいって思う瞬間は、ないわけじゃないけど。

 いつもより大きく呻きながら出すモノを出した後、佐倉くんはいつもどおり私からすぐに離れて、情けない後ろ姿でコンドームを剥がし始めた。
 そんな彼を横目に、私は乱れたスーツと髪の毛を直して、少しだけ化粧もして、何も言わずに一人でホテルを出た。
 何か言ったら、私たちの関係が崩れそうだと思った。

 ホテルを出ると、外は思ったより明るかった。まだ家に帰るような時間じゃない。でも、寄り道する気分にもなれないから、仕方なく、いつもの電車に乗る。
 ラッシュにはまだ早いのか、電車はそれなりに空いてて快適だった。私はとりあえず空いてる席を見つけて、座った。
 座ってすぐに、気がついた。スカートの汚れ。裾の右のほう、うっすらと白いシミ。
 目立たないからいいけど、佐倉くんのだと思う。気をつけるって言ったくせに。
 怒りのため息を小さく吐き出しつつ、その汚れをツメでこすってみる。乾いた体液の固まりが、情けないただのカスになって電車の薄汚い床に落ちた。でもそんなことじゃ汚れは落ちない。チャコールグレーの布地には、白くて固い汚れがうっすらと残ったままだ。
 なんの変哲もない色のスーツなのに、そこに馴染めないでいるシミは、なんだか哀れっぽかった。私はそれをなるべく見ないようにして、せめてもの供養ってわけでもないけど、死んだ祖母のことを考えた。

 小学生くらいまで、毎年夏休みに遊びに行ってた祖母の家。中学に入ってからは、ほとんど行かなくなった。それでも、たまに会えばニコニコと喜んでくれた。よく話す人で、ときどき私には理解できない方言を使ってた。
 私の父は7人兄弟の末っ子で、一番上の兄貴に育てられたようなもんだと聞かされた。父がそうなら、私なんて祖母から見たらきっと、孫ってより曾孫みたいなもんだろう。
 だから、祖母は遠い人だった。どんな人生だったのか、何を思って死んでいったのか、私には想像しようもなかった。
 そんな人の死に感傷を抱くのは、やっぱり難しい。そんなの、葬式に出ない言い訳にはならないけど。

 最寄り駅で電車を降りたときには、少し陽が傾いて、赤くなり始めた空がキレイだった。こんな空を見るたびに、きっと私は人生で一番軽率で最低な夏のことを思い出すんだろう。
 緑の濃い匂いが妙に鼻につく。私は家までの道を走った。


――15:58 溶け出す澱を――

 家に帰っても、誰もいなかった。
 当たり前だ。告別式はもう終わっただろうけど、函館からはそんなにすぐには帰れない。今夜中には帰ってくるだろうし、それでよかった。
 佐倉くんと会ってきた日は、いつもこうだ。家に誰かがいたとしても、逆に誰もいなかったとしても、どっちみち半分ホッとして、半分がっかりする。両親の 顔をまともに見たくない気持ちと、両親にすがりついて泣きたい気持ちが、複雑にぐるぐる巡って、心の中に変な模様を作る。
 こんな気持ちになるんなら、会わなきゃいいのに。いつも思う。今も。
 だから家に帰った瞬間、私はいつも佐倉くんを呼び出たときの自分を一番遠く感じるのだ。

 朝からずっと締め切ってた家は、ぬるくて重い空気に満たされて、気持ち悪い。一歩踏み入れただけで、汗が滲み出てきた。私は家じゅうの窓を開けて、風を通してから自分の部屋に戻る。
 汗のせいで肌にべたべたと張り付いたリクルートスーツを一気に脱ぎ捨てる。脱いだスーツはハンガーに掛けなきゃと、頭の中の私が言った。だけど生身の私は、どうしても言うことをきかない。スーツを床に脱ぎ散らかしたまま、ベッドに倒れ込むだけ。
 だって、どうでもいい。ハンガーなんかに掛けたって、どうせスーツは汚れてるんだし。一番汚れてるのは、それを着てた私だし。
 誰かが私を洗って、干してくれたらいいのに。

 風を通してみたところで、部屋はまだまだサウナ状態。だいたい窓から入り込んでくる風だって熱風みたいなもんだから、そう簡単に涼しくなるわけがない。 ボタンひとつで冷風を送ってくれるエアコンは、すぐそこにある。でも、そんなスイッチひとつじゃどうせ、私の人生は変わらない。
 私は半裸のまま、ベッドでぐったりし続けた。だらだらと汗が流れる。からだ中の毛穴という毛穴が、総力を尽くして開いてくみたい。
 今年はほんと、迷惑なくらいひどい猛暑だ。
 だけど、ものすごく暑い夏の、暑さがいつまでも消えない夕暮れって、嫌いじゃない。こんなふうにむっと蒸した不快さは、なおさらそれっぽくて、いいと思う。
 汗がじわじわ滲み出る。身体や心や、自分の中に渦巻いてるいろんな汚いものも、汗と一緒に全部溶けだして、世界と一緒くたになってしまえ。
 そんな気持ちで、私はゆっくりと目を閉じた。

 肌にぴっとりと密着してくる、湿った空気。
 私の形はとてもイビツだ。それなのに、そのイビツなものでもすっぽり入り込めるような穴に、上手い具合にはまった感触。たぶんそれは、胎児に似た気持ちだったり、誰かに自分を許してもらったときの感覚だったりする。
 誰に許されたいのか、何を許されたいのか、そんなこと今は考えたくない。でも、この感覚が気持ちいい。
 無条件に守られるってことは、そういうことなのだろう。

 自分が今、考えごとをしてるのか、夢を見てるのか、よく解らなかった。どっちだって、別によかった。脳みそが、夢と現実の境目あたりでぷわぷわ浮かんでるイメージ。気持ちいい。
 しばらくすると、そこに規則的な電子音が近づいてきた。
 警告音?
 何の?
 音はさらに近づいてきて、私の背後にまわった、と思った瞬間。
 ふ、と目が覚めた。
 鳴っていたのはどうやら、家の電話だったらしい。
「なんだ」
 私は鋭い針を突き刺された風船みたいな気分でのろのろと部屋を出て、踊り場にあるコードレス電話の子機を手に取った。
「もしもし」
 たぶん、寝ぼけてたんだと思う。私はえらく横柄な口調で電話に出た。それに対して、相手は嫌味なくらい几帳面な声で、丁寧に言った。
「××社総務課の古屋と申しますが......」
 その声を聞いて、一気に目が覚めた。ほとんど条件反射で背筋がぴんと伸び、さっきより半オクターブは高いよそ行きの声が、勝手に出てきた。
「あ、はい。お世話になっております」
「こちらこそ。本日の面接、どうもお疲れ様でした」
 声の主、古屋さんのことはよく覚えてる。一次の筆記のときも、二次面接でも、そして今日もずっと試験会場で進行役を務めてた人だ。いかにも小さな会社で雑用という名の総務を担当しそうな、うだつの上がらない感じのオジサンだった。

「検討の結果、あなたにはぜひ我が社の一員になってほしいと思いまして......」
 古屋さんは電話の向こうから、淡々と告げた。
 私は受話器を持ったまま、立ちつくした。
 驚きとも喜びとも言えない衝撃で、とにかく言葉が出てこなかった。
 私が何も言わないせいか、古屋さんはおずおずと様子をうかがうように、話を続けた。
「それで、内定者のみ社長との顔合わせをしていただきますので、明後日の午後1時に本社の......」


――16:12 私たちの契約――

 電話はあっけなく終わった。
 私は状況がよく解らなくて、たぶん「はい」としか言えなかった。電話を切ったあと、少し我に返ったときに、喋りながら無意識にとっていたメモが電話の内容を教えてくれた。
「内てい」「顔合わ」「あさって」「本社8F」「13じ」......

 私は『内定』をもらった、らしい。
 でも変だ。あんなに欲しがってたものをもらったのに、全然実感が湧かない。
 もらったって言っても形のあるものじゃないし、未来の約束で今すぐ何かが変わるわけでもないから、仕方ないか。
 それに、納得できない部分もある。あんなに威圧的な面接で、いったい私の何を評価したってんだろう。どうして一緒に働けるなんて思えるんだろう。
 たぶん、何にも見てないんだ。

 部屋に戻って、私はまたベッドに寝転がる。
 現実は、こんなもんだ。本当に入りたかった会社でやりたかった仕事に就ける人なんて、世の中ではほんのひと握り。私なんかがそのひと握りに入れるわけないんだし、これで良かった。
 何ヶ月か前に読んだ就職読本のことを思い出す。
 就職を恋愛になぞらえた記事。『エントリーシートはラブレター、相手をふり向かせるためには自分を磨かなきゃいけないし、それを上手くアピールしなきゃいけない』。
 結局、私は振られ続けたってことだ。ラブレターが下手だからか、魅力がなかったのか、とにかくモテなかった。でも、あぶれるのはイヤで、手当たり次第いろんな会社にラブレターを送った。
 向こうも向こう。本命に振られたモテない人間が余ってるって知ってて、遅い時期に募集をかける。これじゃ、恋愛ってより出会い系だ。
 都合の良いセックスフレンド探してまーす、みたいな募集に、「22歳の女子大生、趣味は読書、ちょっとジミ系だけど明るい交際がしたい!」みたいな投げやりな応募。お互いの条件が合えば、愛のないセックスみたいな雇用契約。
 でも、能力を買われてないからって、文句なんか言えない。望まない会社どころか、なんの仕事にもありつけない人だっているこの世の中で、私は明日から就職活動をしなくていい。幸せなことだ。

 佐倉くんとの関係も、この奇妙な就職活動のシステムと似てる。
 だってあの日、私はたぶん世界に向かって、「かわいそがって欲しい」ってエントリーシートを投げつけてたんだから。

 もう半年も前だけど、私は大失恋した。原因はすごく平凡で、単なる相手の浮気だった。
 大学入学以来、3年近くも付き合ったのに、終わるのはあっけなかった。
 彼は、私を嫌いになったんじゃなくて、ただ、もう1人の彼女のほうが大切になってしまった、と言った。ずるい。そんなこと言われても、別れを承諾するのが悔しくなるだけだ。
 それでも私は、物解りよく彼と別れた。それが一番自分を惨めにさせない方法だったから。
 さよならを告げてその場を離れ、平然を装って駅まで歩き、いつもと同じ電車に1人で乗ることだってできた。上手に演技したと思う。
 混んだ電車の中で、私は吊革を強く握った。冬のせいか夕方のせいか、窓の外を流れる風景はモノクロだった。
 いくつか駅を通り過ぎると、急に吐き気がした。仕方なくT駅で電車を降りてトイレに行った。便器に向かって口を開く。何も吐けなかった。
 気持ち悪さは収まらない。私はふらふらと駅前広場まで行って、へたりと座り込んだ。夕方のせいか、そこは待ち合わせの人でいっぱいだった。
 待つ相手がいないのなんて、私だけ。
 そう思った瞬間、私の目に涙が湧いた。それは静かにぼろぼろと、後から後から出てきた。
 そうか、吐きたかったのはこれだったんだ。そう気付いて少し笑えた。通行人はみんな見て見ぬふりだった。割とありがたかった。
 なのに、その中で1人だけ、私を放っておかない人がいた。
「あれ、何やってんの?」
 間抜けな質問。見れば解るくせに。
「久し振りじゃん」
 そう言われて、心と裏腹に弱々しく頷いた私も、すごく間抜けだ。
 それが佐倉くんとの再会だった。
 名前を覚えてたのが奇蹟だと思う。私たちは高校時代の同級生だけど、当時はほとんど会話したことがなかった。人混みでぼろぼろ泣く私に声をかける義理なんて、彼にはないはずだった。

 それから、どうしたっけ。
 人間って必死なときのことほど忘れてしまう。その瞬間にどれだけ本気でも、細かいことを覚えているほどの余裕はないし、心が強くない。
 想像なら、できる。
 たぶん私はそのとき泣きすぎてて、家に帰っても親に顔を見せられなかった。佐倉くんは、泣いてる女を連れて歩きたくなかった。私たちには避難する場所が必要だった。
 行き着いたのが、たまたまラブホテルだっただけ。


――17:47 無味感情――

「俺も3ヶ月前にモトカノと別れたばっかでさ。溜まってたんだよ」
 すべてが終わってから、佐倉くんは初めて言い訳をした。
「ありがと。こっちも少し慰められた」
 私は化粧直しをしながら、解ったような顔で頷いた。ありがたいのは本当だった。
 密室に連れ込まれてようやく、私は理想どおり、うわんうわんと子供みたいに泣けた。もうほんと、泣くって行為の意味が解らなくなるぐらい、泣いた。
 で、気づいたら佐倉くんとセックスしてた。泣きながら。
 今思うと、わけ解んない。でもたぶん、筋は通ってた。
 癒されたかった私の傷の形と、人肌が恋しかった佐倉くんの身体の形が、たまたま合ったってことだ。
「また慰めが必要だったら、呼んでよ。身体だけなら貸してやる」
 佐倉くんは私に携帯番号を教えた。これが、セックスフレンドの内定。私たちの関係はほんと、投げやりな就職活動にそっくりだ。
 でも、私はそんな契約を受け入れるつもりなんて、なかった。
 佐倉くんと再会するまで、私はセックスなんて付き合ってる人としかしたことがなかったし、これからだって、そんな軽い女になる予定はなかった。

「――なのに、なんでこんなんなっちゃったかなあ」
 床に脱ぎ散らかしたリクルートスーツを拾いながら、口に出して言ってみた。就職のことを言ってるのか、佐倉くんのことを言ってるのか、自分でも解らなかった。
 どっちにしても、このかわいそうな私の表皮は、欲情の道具に使われて、汚されてしまった。
 裾のシミに、もう一度触ってみる。
 その部分はやっぱり少し固いけど、色はさっきより薄くなってるような気もした。さっきは私が気にしすぎてたせいで、色濃く見えただけだったのかもしれない。または、時間が少し経ったおかげで、汚れが風化したのかもしれない。放っとけば消えるだろうか。
 でも、私が佐倉くんに慰められて、佐倉くんも私に慰められてるって事実は、消えない。
 そう思ったら、なぜか急にそのシミがいじらしく見えてきて。
 漠然と。
 という以外にいい言葉が見つからないから、とにかく漠然と、このままじゃダメだと思った。だからってどうしたらいいのか解らないから、とりあえずスカートを手に取って、汚れてしまった部分をまじまじと見てみる。
 ふ、と何かが解った気がして、私はそのシミを、ぺろりと舐めた。

 なんてことなかった。シミは別になんの味もしなかったし、なんの匂いもしなかった。布を舐めた感触だけが、ざらざらと舌に残った。
 私はこのシミを、私そのものの汚れの象徴とでも思ってたんだろうか。それとも、憎悪の対象ぐらいに敵視してたんだろうか。
 我に返って、それから急にバカバカしくなって、私は笑った。声を上げずに、にんまりと笑った。そしてようやくすっきり眠れる気がして、私は心おきなくベッドに横になった。

 人の気配に、ふ、と目が覚めた。
 時計を見ると、11時過ぎ。居間のあたりで人の話す声がする。いつのまにか両親が帰ってきてたようだ。
 私はむっくり起き出して、報告のために階段を下りて、居間に顔を出した。
「お帰りなさい。あのね、今日の夕方、電話が来て、内定もらった」
「あら、ほんと」
「とりあえず、一段落だな」
 両親は晩酌を準備する手も止めずに言った。もう少し喜んでもいいのに、反応が薄い。長旅で疲れてるんだろうし、仕方ないけど。
「こんな時間なのに、飲むの?」
 疲れを気遣うつもりもあって訊いてみたら、父が私にもお猪口を手渡した。
「おまえも飲め。内定の祝杯も兼ねるから」
 拒む間もないまま、お猪口にお酒が注がれる。同じように、父にもお酌をした。台所にいる母の分も、一応注いでおいた。
「献杯」
 父はそれだけ言うと、お猪口の酒を一口で飲んだ。私は、ちびちびと舐めるように飲んだ。母は何かつまみでも作ってるのか、まだ台所から出てこない。
 父と2人で向かい合うのは、気恥ずかしい。何か喋らなきゃ、と思って口を開いた。
「あのさ、おばーちゃんって、なんで死んだの?」
 私は佐倉くんのセリフをほとんどそのまま流用して、父に言った。
「ほら、初めに連絡が来たとき、心不全って言ってたでしょ。でも、心不全って自殺の時なんかによく使われる死因らしいじゃん」
 場つなぎぐらいの気持ちで、特に深い意味はなかった。なのに、私の言葉を聞いた母が、焦ったように台所から出てきて言った。
「あんた、なんてこと言......」
「いや。もう子供じゃないんだし、話してもいいだろう」
 何かをごまかそうとした母を、父が止めたんだってのは、解った。
 それから、ひと呼吸ぶんくらいの時間を置いて、父は教えてくれた。
「ばあさんは、自殺だったよ」


――23:55 魔法の理由――

「自殺って......なんで?」
 そう聞き返すのが、精一杯だった。脳みそはフル回転してるのに、思いが複雑に絡まりすぎて、シンプルな言葉しか出てこない。
「さあ、なんでだろうな」
 父は父で、力の抜けたような声で笑うだけだ。
 緊張感がない。なんでそんな顔ができるんだろう。90歳を超えた自分の母親が、――こんな言い方もアレだけど、どっちみち老い先の長くない自分の母親が、わざわざ自殺したってのに。
 私は少し苛立って、話の先を急いだ。
「でも、遺書かなんかはあったんでしょ?」
「いいや、そんなものはなかった。もう目も悪かったし、手も自由に使えなかったからな。字なんか書けなかったんだろう」
「じゃあ、なんで自殺だなんて言い切れるの? 自殺するような理由なんて、ないでしょ?」
「どうかな。理由があるとしたら――もう人生はまっとうしたって、満足に思ったんじゃないか?」
 父はあくまで落ち着き払った声でそう言った。怒ってもなければ、悲しんでもないみたいだった。
 だから私は、よけい途方に暮れた。

 私が口をつぐむと、居間はまた静かになった。
 父は、空気が重くなったと感じたのか、または私の気をひこうと思ったのか、ひょっとしたら単に少しお酒が回って口が軽くなっただけかもしれないけど、とにかく手酌で自分のお猪口に酒を足しながら、もうひとつ私に教えてくれた。
「ばあさんは、パラチオンを飲んだんだよ」
「パラチオン?」
 初めて聞いた言葉だった。話の流れから言って、たぶん毒薬かなんかの名前だろうとは思う。でも、私は自殺とか薬物とかには詳しくない。
「なんなの、それ」
「農薬だよ。昔はどこの農家でも使ってたんだが、毒性が強いってことで大きな問題になったんだ。たしか、1970年頃には、もう日本では製造も販売も中止されてたんじゃないかな」
「ふーん......」
 1970年。私が生まれるより前だ。ずっと昔のことだ。
 そんな昔に製造も販売も中止されてる農薬が、どうして祖母の手元にあったんだろう。そして、どうして祖母はそれを飲まなきゃいけなかったんだろう。
 黙りこくる私の頭に渦巻いてる疑問。父にはそれぐらいお見通しなのか、何も聞いてないのに補足してくれた。
「つまり、ばあさんは少なくとも30年以上前から、『いつか飲もう』と思ってパラチオンを隠し持ってたんだな」

 私は、なにも言えなくなった。とりあえず、お猪口に残ったわずかなお酒を喉に流し込んで、席を立つ。
「なんか、今日は疲れてるから......もう寝る」
 見え透いた嘘だ。私がさっきまで寝てたのは、父も知ってる。
 だけど父は「おやすみ」とだけ言って、また手酌で自分のためのお酒を注いだ。

 部屋に戻っても、明かりを点ける気すらしなかった。開けっ放しの窓から、月の光が射し込む。その中で、祖母の死んだ理由をもう一度考えた。
 自殺なんて、生きるのがイヤになった人がするモノだ。生きるのに満足したから死ぬってことからして、理解できない。
 だいたい、人生をまっとうしたと言うにしてはタイミングが中途半端すぎる。なんで今なんだろう。7人もいる息子と娘が全員結婚して、それぞれの家庭を築 いたときだってよかった。金婚式のときだってよかった。どうせここまで生きたんなら、最後の孫――つまり私がちゃんと就職するところくらい、見てくれても よかった。祖母にとって最初の曾孫は来年高校生になるけど、その姿を見てあげたっていいと思う。
 見届るべきものなんて、どうせあとからあとからいくらでも出てくるもんだ。それなのに、なんで途中で辞めるんだろう?
 きりがなくなるから?

 ――違うな。孫とか曾孫とか、たぶん関係ない。
 だって祖母は、私が生まれるよりも前から死ぬ準備をしてたんだから。

 祖父の葬式で、最後に会った祖母の顔を思い出す。祖母は笑顔だったし、歳の割には元気だった。
 でも、よく考えれば、70年も連れ添った伴侶を失って、純粋に笑える人なんていない。
 あのとき、祖母は死ぬことを考えていたのかもしれない。気丈に笑顔を見せようとしてただけかもしれない。
 そしてたぶん――祖母は、祖父を追いかけて死んだのだ。
 タイミングは、ぴったり。『まっとうした』って言葉を使うなら、夫の最期を看取って、四十九日までちゃんと面倒を見て。妻としての、女としての人生を まっとうしてから、夫に会いに行くつもりだったのだ。いつそうなってもいいように、30年以上も前から『パラチオン』を用意して。

 だからそれは、いわば愛を証明する魔法の薬?
 なんて、ロマンチック過ぎる妄想かもしれない。でも、そうであってほしいと思う。
 そういう愛の存在を、私は今、すごく信じたい気分だから。


――24:40 切り刻む昨日――

 92歳にして、祖母は愛を昇華させた。
 それにひきかえ私は。
 好きだった人からの別れの言葉を、言われるままに受け入れて。恋人でもない佐倉くんにいつまでも身体だけで慰めてもらって。行きたくもない会社に仕方なく入れてもらって。こうしてずっと生きてくのかな。
 ......なんか、やだな。
 このままじゃ一生、「いつ死んでもいい」って思える日は来ない。祖母みたいになれない。

 とにかくじっとしてられなくて、とりあえず机の引き出しを上から順に開ける。小学校の家庭科で買いそろえた裁縫箱を見つけた。引っ張り出して、中から一 番大きい裁ちバサミを選ぶ。なんでハサミなのかは解らなかった。今日までの自分から、何かを切り落としたかったのかもしれない。
 ハサミをしゃきしゃき動かしながら、何を切り落とそうかと見回していると、床に散らかったままのスカートが目に入った。
 私はそれをゆっくりと手に取って、消えないシミを少しいじって。
 その部分を、ハサミで一気に切り抜いた。
 スカートには当然、大きな穴があいた。
「あーあ、やっちゃった」
 肩をすくめて呟きつつ、背筋に気持ちよさを感じる。
 こんなスカート、もうどうせ使えない。そんならもう1回やっちゃえ。
 裾から上に大きく切れ目。しゃくっと布の切れる音が頭に響くと、目が覚めてく感じがする。
 よし、もう1回。
 もう1回。
 調子に乗って、スカートがスカートじゃなくなるまで、何度もハサミを入れた。そんなことでなにかが変わるとは思ってなかったけど、なにもしないよりマシだから。私はスカートを切り刻み続けた。

 スカートがすっかり切れ端の山に変わると、切るべきものがなにもなくなってしまった。手持ちぶさたになって、次はなにをしようか考える。
 枕元に置きっぱなしの携帯が目に付いた。
 私はそれを手にすると、電話帳のメモリから佐倉くんの番号を表示した。その操作が手に馴染みすぎてて、ちょっとへこむ。
 メニューを表示して、【このデータを削除】ってのを選ぶ。
 律儀な携帯は、【削除しますか?】と確認した。

 削除しますか?
 それだけの文字が、すごくいろいろな意味に見えた。

「彼を必要としてませんか?」
「二度と会わなくて大丈夫ですか?」
「本当の気持ちを伝えないままでいいですか?」

 わたしは、【いいえ】を選んだ。
 ここまでしなきゃ自分の気持ちも解らないなんて――いや、ホントは解ってたかもしれない。それを口にして今の関係を失ってしまうのが怖かっただけで。

 どっちにしてもバカだから涙が出る。ぼろぼろ剥がれ落ちるように出る。初めて佐倉くんとホテルに行ったときみたい。
 でも、あの日とは決定的に違う。私は佐倉くんを想って初めて泣く。だからこそ、泣きたい。佐倉くんを想って泣きたいって感情を、もう抑えたくない。
 私は携帯をもう一度握りしめると、すぐ佐倉くんに電話をかけた。手慣れてるけど、今までとは意味の違う操作。
 佐倉くんは、すぐ電話に出た。

「珍しいな、こんな時間に」
 いつもと変わらない声。だけど電車はもう終わってる。呼び出しの電話じゃないことぐらい、佐倉くんにも解るはずだ。
 ごくりと生唾を飲んで覚悟を決めた、その瞬間。
「言うな」
 佐倉くんの鋭い声が、私の気持ちを封鎖した。せっかく気付いた自分の気持ち、口にするのもダメなんだろうか。
 黙りこんだ私に、佐倉くんは振り絞るように続けた。
「終わりにするなんて、言うな」
「え?」
「今日は悪かったよ。お前が1人でホテル出てった後、ずっと反省してた。もう二度とお連絡が来ないんじゃないかって考えたら、なんか、取り返しのつかないことやっちゃったなって......」
 一気に。私の中で、いろんなものが緩んだ。たぶん、顔は笑ってた。
 佐倉くんも同じだったのだ。2人の繋がりを失いたくないと思ってくれてる。それが解っただけで、充分だ。
「好き」
 私は言った。勢いじゃない。今伝えなければきっと後悔すると思った。
 佐倉くんはやっぱり『イシシ』と笑った。今さら気づいたけど、これは彼の嬉しいサインだったのかもしれない。
「あとね、あと......」
 言いたいことがありすぎて、もどかしい。でも、ひとつひとつ言葉に変えていこう。気持ちをその日のうちにちゃんと消費してくことは、きっと祖母の生きかたにも通じるから。
「老人が死ぬのには、やっぱり理由があったよ」
「ああ、なんだった?」
「愛の魔法ってやつ」
「なんだそれ」
 電話ごしに、また『イシシ』の音。いつもと違うのは、私の子供じみた回答に佐倉くんが満足してるのが解ること。
 あー、これが魔法の成せるワザだったりして、なんて思いながら、私も『イシシ』と笑ってみた。

コメントする