top中~長篇


些細な生活


一、冬の海のこと


 お気に入りのチェリーピンクのニットを着て学校に行くと、左手でもノートがキレイにとれるような気がする。だけど、東京の冬は天気の良い日が多す ぎる。もちろん、今日もその例外ではない。私は左手で本当にキレイなノートを作れるのか、追究したい気持ちを抑えて、今日を自主休校日に設定した。散歩に でもでかけよう。
 チェリーピンクという色は、冬の澄んだ空気とか青い空とかに、よく似合う。冬の夜空に浮かんで、きらきらときらめくオリオン座のように、青い空と鮮やか なピンクのハーモニーは素晴らしい。人々はそれに気付かないのか、冬になると、黒や茶やグレーの服に身を包む。勿体ないことをするものだ。
 ところで、私は海に行こうと考えた。夏が好きな私にとって、本来ならば海は、夏の風物詩だ。だけど私は、冬の海もどんなに素敵かを知っている。とくに、 こんな晴れた日は。人通りのない海岸では、波が光を乱反射する風景を誰にも邪魔されずに見ることができるし、波の音をさえぎる余計なざわめきなども聞こえ ない。夏よりかはいくぶん弱々しい太陽や、ぽっかりと浮かぶ雲もまるで自分のもののように思えてくる。冬の海は、私のような『ちょっとだけエゴイスト』に はぴったりだ。
 エゴのついでに、私はもうひとつ自分にとって素敵な考えを思い付いた。
 そんな冬の海は、独り占めするよりも大好きなひとと共有したほうが、より自分の欲求を満たすことができるということ。
 つまり私は、迷わずカレに電話をかける。

ねえうみをみにいこうよ。
えっ、いまから?
そうよいますぐに。
だってきょうはがっこうがあるだろ。
きょうはいいのよやすみのひなの。
なんだよそれ。じゅぎょうはあるんだろ。
いいの、いいの。きにしない。
それに、あしたからふゆやすみなんだから。
あっ、そうだっけ。
がっこうにいかれるのは、いまのうちだよ。

うーん

 迷ってしまう。大学生の冬休みは少し早く始まりすぎる。待ち遠しく思うのをやめてしまったので、いつから冬休みなのかも知らなかった。
 昔は冬休みがいちばん楽しみだった。サンタクロースがいつ忍び込んでくるかとドキドキしたクリスマスイブ。年に一度だけ、夜更かしをしても怒られない大 晦日。お年玉をいくらもらうかよりも、友達からどれだけ年賀状が来るかが重要だった元旦。お母さんが買ってくる福袋。熱すぎるこたつからでられない夜。蜜 柑のにおい。そしてやっぱり澄みわたった空の色。
 受話器を持ったまま、私はノスタルジックな世界に引き込まれてしまった。カレはそんな私の様子から、受話器を隔ててしょんぼりしてしまった私を想像してしまったらしかった。

やっぱり、うみにいこうか。
いいよ、むりしなくても。
いーや、いくぞ、ぜったいに。
きょうは、がっこうにいったほうがいいよ。
だめ、もうきめたんだから、うみにいこう。
ほんと?
いまからむかえにいくよ。

 電話を切ったあと、私はカレの来るのを待って、読みかけの小説をぱらぱらとめくった。カレは三十分を少し経過したころに私の部屋に着いたけれど も、私はすっかり小説の世界に浸ってしまい、とてもアウトドアな気分ではなくなっていた。そんな私をみてカレはひとりでミルクティーをつくって飲んだ。
 間もなく小説はひと区切りした。私は本を閉じて立ち上がろうとしたけれど、目の前で美味しそうにミルクティーを啜るおおきな男の子を見たら、天気が良い ことも、チェリーピンクのニットのことも、冬の海のことも、ましてや学校のことなども、そんなことはすべてどうでも良いことのように思えてくる。部屋の南 側にある大きな窓を開ければ、冬の空気も空も飛び込んできたので、すこし寒いけれどそれで十分だった。
 そして、カレは私の海で泳いだ。
 私は彼の波の音を聞いた。
 それで十分だった。



二、ココロの大きさの測り方


 カレは本当によく寝る人だと思う。まるで子供のように、時間さえあればすぐに寝てしまう。大体、いまどきの子供はそれほど暇ではないそうだから、ドラえもんに出てくるのび太くんのように昼寝などしないのかもしれない。
 結局、冬休みの三日目に、私とカレは各駅停車を乗りついで、海を見に行った。天気予報は、どの局でも『典型的な冬型の気圧配置』が何たらかんたらと繰り返していた。
 それでも、東京はやっぱり晴れている。昨日よりいくらか気温が低く、風もあると言われれば、そんな気もする。だけど、そのことがかえって、冬の澄んだ空気を一層強調しているように感じる。ひとつ深呼吸をした。
 私たちは房総半島のほぼ最南端まで来た。朝の九時に家を出たけれど、着いたときには午後一時を過ぎていた。夏にはたぶん賑わっているだろうと思われる、 海の近くの商店街は、とても閑散としている。近くのファミリーレストランで食欲を満たして、それから私とカレは海岸を歩いた。
 海は想像以上にキレイで、想像以上に静かだった。視覚や聴覚や、私たちのあらゆる器官が、誰にも邪魔されずに冬の海を鑑賞しているのが解るほど。空気に溶けてしまいそうで、それも今なら本望だ。
 海の近くは寒いだろうと思っていたけれど、海岸の風は思ったよりも優しかった。暖かさに機嫌を良くした私たちは、とりあえず幸せな気持ちを交換しあうためのキスをする。抱き合ってカレの胸に顔を埋めると、いつもの匂いに潮の香りが混じっていた。

いいにおい。

 私がそうつぶやくと、今度はカレが私の胸に顔を埋めた。私の胸に頬ずりするカレの髪の毛を、私は撫でる。まるで自分の犬にそうしてやるように、とっておきの愛をもって私はていねいにカレをかわいがる。

おまえのおっぱいすきだよ。

 カレが不意にそんなことを言い出すので、私はその意味を測りかねた。

それはしつれいなんじゃない?
どうして?
からだがめあてってことでしょう。
ちがうよ、そういういみじゃない。

 カレの表情には、弁解をしなければいけないという焦りは見られない。その眼の中には、ただ幸せが映っている。陽だまりの中でうつらうつらする小犬のように。

それじゃ、どういういみなの?
おっぱいはいちばんココロにちかいばしょにあるんだよ
ふうん。
おまえのココロがとてもゆたかであったかいから、おまえのおっぱいもおおきくてあったかいんだ。

 そこまで言ってカレは私の胸に埋めた顔を、一層つよく押し当てた。その時ちょうど冷たい風が目の前を通り過ぎたけれど、私たちはお互いの温もりに守られていた。とても暖かい。
 そういえば、カレの腕の中で眠る時、私もカレの胸をとてもいとおしく思う。筋肉に強化されたそれは、広くて厚くて頼もしく、私はその温もりの中で眠りにつくのが大好きだ。
 私たちはそうして抱き合ったまま、お腹が冷えるまでずっと海を見ていた。疲れ果てるまでずっと。
 帰りの電車の中で、カレはずっと眠り続けていた。四時間近く、電車を乗り換える時を除いてずっと眠っていた。そして、カレの寝顔は子供そのものであった。
 カレの寝顔を垣間見ながら思う。男の子が女の人のおっぱいを好きだっていうのは、結局小さい頃に甘えた母親への情景と懐古のあらわれだろう。でも、まあ いいか。だって、カレに言わせると私のココロは豊かであったかいんだもの。そして私はこんな子供のようなカレが好きなんだもの。
 それはそれでいいと思う。



三、ぱいなつぷる


 テレビをみたり新聞をめくったりしてみれば、世の中に事件の多いことは一目瞭然だ。日本だけに限っても、一日に何百とか何千とか、時には何万という人たちが様々な事件に巻き込まれる。その何割かは確実に、とても不運で不幸なものだ。
 だけど、その事件が自分の身辺に起こりうる確率はとても低い。ましてや、自分自身が巻き込まれたり、事件の当事者になるなどということは皆無に等しい。 少なくとも、私の二十一年間の人生はそうやって経られた時間の過去形だ。私は、友達を交通事故で亡くした経験さえもない。
 だからといって、私は自分の周りに事件など起こらないと思っているわけではない。世の中の事件に巻き込まれた多くの人たちも、もともと自分の身辺に事件がおこるなどと予期していなかったように。

 年が明けてから、カレと会えるのは久し振りだ。お互い、帰省したり、東京に戻っても毎日バイトなどで忙しかったのだ。年始の混乱を避けたかのように、私 たちは今さら明治神宮にいって、今年の無事と幸せを祈る。  おみくじをひくと、大凶がでた。カレは末吉だった。思わず笑ってしまう。正月に大凶を出すなんて、むしろめでたいくらいなのではないかと思う。カレの末 吉のほうがよほど信憑性があって、なんだか可哀相。だけど、大丈夫。

あたしたちって、さちのうすいカップルなのねぇ。
なにがしあわせかなんて、かみさまにはわからないから。

 そういって笑い合う私たちは、十分しあわせだ。
 そのまま代々木公園を散歩する。私たちは散歩が好きなカップルだと思う。少なくとも東京周辺の若いカップルの中では一番じゃないかとすら思う。会えば毎回、何の目的もなくただ歩く。それは、二人だからなせる業だ。

ち よ こ れ い と

 こどもの声。懐かしい響き。私たちも子供の頃よくやった『グリコのおまけ』だ。ジャンケンをして、グーで勝てば「グリコのおまけ」、チョキで勝て ば「チョコレート」、パーで勝てば「パイナップル」(ひょっとしたら、地域によって違うかもしれないが)の文字の数だけ前に歩くことができるという、とて も単純な遊びだ。

わたしたちもやってみようか。

 そんなことを言い出すのは、いつも私のほうである。だけど、必ず乗ってくるカレもカレだ。果して私たちは『グリコのおまけ』を始めた。

とおくにいっちゃやだよお。
ないたってだめ。しょうぶなんだから。

 負け続ける私と勝ち続けるカレの距離は、もう三十メートルを越えていた。いい歳をして半ベソをかいて大声でわめく私と、勝ち誇った大声で喋るカレを、たくさんの人が振り返る。

じゃんけん、ぽん。

 また負ける。カレはチョコレイトと言いながら、また六歩、私から離れていく。

ふえーん、おいていかないで。
だめだめ、もういっかい。
いやだよぉ。
いくよ、はい。じゃんけん、
ぽん。

 やっと勝った! 私は奇声をあげて、跳び上がって手をたたいて笑い、何歩か後ずさりしてから、まるで三段跳びの選手のように助走をつけて、一歩一歩跳んだ。

ぱ、い、な、つ、ぷ、る。

 顔を上げると、ずっと遠くにいたはずのカレは、目の前まで戻って来ていた。私はカレに抱き付いて、カレのにおいをかいだ。カレは笑っていた。ずっと笑っていた。その笑いが止まらないので、私はカレの胸から顔を上げ、怪訝な顔でカレを見つめた。

なにがそんなにおかしいの?
おまえってさぁ、
なあに。
じゃんけんで、かならずパーだすんだな。

 冬休み気分も、もう終わりだ。来週からもう学校が始まる。
 次の朝、新聞をめくると、地域版の小さな記事にこんな記事が出ていた。駅の 階段で『グリコのおまけ』をやっていた幼稚園児と小学一年生の兄弟が、弟がずるをして一歩多く進んだために喧嘩になって、階段から転げ落ちたということ だ。幸い命には別状ないが、お兄ちゃんのほうが全治二ヶ月の怪我。
 同じ日に、同じ遊びをして、私たちには何の事件も起こらなかった。神様は不公平だろうか。だけど神様にひいきされている間は、不平不満を言うなんてナンセンスだ。
 私は、ただカレといる時間を大切にしていきたい。



四、新しい靴を履いて行こう


 冬のバーゲン。前から欲しかった黒のニットのワンピースと、通学に使えそうな大きなバッグと、茶色いヒールの高い靴を買った。学校の友達と連れ立って、学校が終わると毎日、主要な街の主要なデパートをはしごした。
 家に帰って、姿見で念入りにチェックする。この服にこの靴は似合わない。こういう組み合わせならぴったり。意外とあんな組み合わせも合うかもしれない。 ああ、あのコートも買っておけば良かったかな。おしゃれを企む女の子の辞書には、「飽きる」という言葉はない。気が付くと、信じられないような時間が経過 している。  早くカレに会いたいと思う。

 冬休みが終わると、大学生は急に勉強をしだすものだ。進級にかかわる重大なテストが目白押しなのだから、当然だ。だけど、私はなかなかエンジンが かからないので、困っている。カレは、私と一緒にいるとどうしても遊んでしまうと言って、最近会いにきてくれない。私は淋しくて、バーゲンに行く。
 女の子にとって買い物とはストレスの解消であるという常識に、男の子は意外と気付いていない。
 欲しかった物を買ってすっかり満足したはずのココロが、ひとたび空虚感に襲われ出すと、もう手のつけようがない。新しいワンピースを着てみても、新しい 靴を履いてみても、カレに見せないことにはつまらない。似合うと言われれば嬉しいし、似合わないとけなされてもそれはそれで嬉しい。カレがいれば、それだ けで嬉しい。 せめてもの慰めに、私はカレに電話をかける。

タダイマルスニシテオリマス
ゴヨウケンノアルカタハハッシンオンノ

 そこまで聞いて、私は電話を切った。
 今日はバイトなのだろうか。ひょっとしたら図書館でレポートを仕上げているのかもしれない。ちょっと近くのコンビニに買い物に出ているだけかもしれない。もうすこししたら、もう一回かけてみよう。
 一時間。
 二時間。
 私は電話をチラチラ見ながら、だけど受話器を持ち上げることが出来ずにいた。ましてほかの何をすることも出来なかった。ただ、私は電話と時計をかわるが わる見つめながら時間を費やす。午前零時を過ぎた時、私はもう一度受話器を手にして、カレの電話番号を押そうと思った。だけど、恐くてできない。もし今電 話をかけてあの機械的な留守電のアナウンスが聞こえてきたら、今度は自分にどう言い聞かせれば良いのか分からない。バイトなら、遅くてもいつも十一時半に は帰る。図書館はもうとっくに閉館している。コンビニにそう何度も買い物に行くとは思えない。テスト前で私にさえ会わないカレが、男友達と飲み明かすとも 考えられない。

 葛藤のすえ、私はベットにもぐりこんでしまった。考え過ぎだというのは自分でも分かっている。いつも側にいてくれるカレに対しての甘えであること も。自分が幸せであることに、いつも安心しすぎていることも。私とカレはお互いに一個の人間であって、全く別々の人格を持っている。生まれた場所も育った 環境も違うのに、たまたま出会って一緒にいるということだけで奇跡なのだ。
 そして、枕の上でふてくされた顔は、そうやって自分を励ましていることさえばかばかしいと思っている。ここまでくるとどうすればいいのか分からず、私はただ自分の眠りがふりかかってくるのを待った。

 次の朝は、曇っていた。天気予報によると、午後から雪が降るかもしれないということだ。
 私は迷う。昨日の夜に引き続き、私のココロは落ち込んでいる。こんな時、外になど出たくないのが本音だ。だけど、せめて自分を元気づけるために、私は昨 日買ったばかりの茶色のヒール靴を履いて行こうと思ったのに。カレに会う時に初めて履くのが一番の理想だったっていうのに、その前に雪で汚してしまった ら、却って楽しみが半分に減ってしまう。
 玄関でしばし考える。新しい茶色のヒール靴と、きのう履いていた黒いハーフブーツとを交互に見る。雪の降るような日にブーツがふさわしいのは当然のこと のように思える。だけど、昨日までと同じでは気が滅入る。だいたい、どうして雪が降るんだろう。私は雪の降る街も嫌いではないけど、東京の冬は晴れている のが一番いいと思う。チェリーピンクのニットが映えるような澄んだ青い空でなくては。
 新しい靴を履いて行こう。
 決心した。バッグの中に折りたたみの傘を入れるのもやめた。天気予報が外れて、今日が晴れることに賭けてみたのだ。そうすればきっと今日はいい日になる。
 新しい靴は思った以上に足にフィットしていて、歩いているうちに私の足取りはみるみるうちに軽くなった。
 そんな気がした。



五、プレゼント


 カレと別れた。
 意外な程、そのセレモニーはあっさりしていた。
 二月の初めの、異様に風の強い日で、あまりの寒さに私もカレも不機嫌だった。
 だけど、私とカレが別れたのは強風のせいではない。私が不安を感じ始めたあの夜から、ひょっとしたらもっと前から、私たちの間の空気はどんよりと曇っていたのだ。私もカレもそれに気付かない振りをすることは、もう限界だと感じた。
 池袋の、西口公園。水曜日の、午後三時。
 こんなに寒いのに、それでも沢山のカップルやらグループやらが、賑やかに風に吹かれている。時々風に混じって顔にかかる水は、雨だろうか、噴水の水しぶきだろうか。

こんなひだけど

 静かに、重々しくカレはそう言った。もう、私は気付いていた。もはや自分がカレと共有できるものは、時間でも、この風景でも、温もりでも、優しさでもないことに。
 今、私がカレと何かを共有しているとすれば、それは憂鬱以外の何物でもない。そう思うと、その憂鬱までもが愛おしい。くだらないと思うけれど、多分世間で言うところの未練というものは、こういう感情を名詞化したものなんだろう、などと私は漠然と考えている。

ごめん

 カレは泣きそうな顔をして謝った。私は、カレともうそんな感情さえ共有できなくなってしまったから、少しだけ寂しげに微笑んでみた。あなたが謝ることはないと言いたかったけれど、言葉が口から出てこなかった。
 今日という日に久しぶりに会おうと決めたのは、カレであって、私でもある。ココロの中に残っている望みという望みを総動員したけれど、やはり結末はこうなるだろうと思っていた。傷ついているのが私だけではないことは、カレの表情を見ればわかる。
 たまたま、今日が私の誕生日だったというだけだ。
 だから。
 お腹に力を込める。涙が出ないように、私は一番いい笑顔を作った。今までカレに見せてきたどの笑顔よりも、絶対に素敵に笑った自信がある。だけど、カレはそんな私の笑顔を不思議そうに見ていた。
 私はベンチから立ち上がる。必死で笑顔を保ちながら、カレを見下ろす。ココロの隅々から勇気をかき集めてくる。そうして、世界で一番苦手な言葉を口にした。

さよなら。

 とても何気なく言えた。上出来だと思う。カレはまだきょとんとして私の顔を見入っていた。十秒ほどそうしてから、カレは突然思い出したように立ち上がった。背の高いカレに、今度は私が見下ろされる。カレはさっきのように泣きそうな顔をして、もう一度謝った。

ごめんたんじょうびなのになにもしてやれないどころか
かえろ

 カレの言葉を遮って、私は歩き出す。カレが謝る必要はない。もちろん、私が謝る必要も。どうしようもない自然の成り行き。
 急いで歩き出したカレは、私の隣に並ぶ。習性的に、私は自分のすぐ右側にあるカレの手と自分の手とを重ねた。触れれば必ず伝わってきたカレの温かさを、 私はもう感じることができなかった。ただ、強風に流される厚く重い雲の間から見え隠れしていた、冬の弱々しい太陽の光は、この時だけは妙に明るく私とカレ を、そして二人を繋ぐ五本ずつの指と指を、照らしているような気がした。

れんあいって、おわったしゅんかんに、すべてがおもいでになるんだとおもう

 そう呟いた私に、カレはなにも答えなかった。もう泣きそうな顔もしなかったし、申し訳なさそうに背中を丸めてもいなかった。カレはただ、これから歩いて行くほうを真っ直ぐに見ていた。それはとても微笑ましいことだと思った。

きょうおもいでがいっぱいふえてよかった

 私の手を握るカレの手に、ほんの一瞬、力が込められた。だけど私はもうそんなことに意味を持たせない。ただ強風が髪を乱していないかを気にしながら、私たちは歩く。
 駅の改札の前で、カレは私の手を解いた。一旦向き合って、私たちはお互いを見た。これから二人が別々の方面に帰って行くということは、それほど不自然なことではないように感じられた。

いままでありがとう。たのしかった。

 相変わらず笑顔を絶やさない私に、カレは少し照れたように、そしてきまり悪そうに笑って、そのまま山手線のホームの人波に消えていった。カレの後ろ姿を見送っていたら、少しだけ涙が出た。
 「今日みたいな日に笑う勇気」などというとてつもないものを、バースデイプレゼントにくれたのは、一体誰だったんだろう。



六、この物語はフィクションであり


 彼がカレでなくなったことは、意外と私に「寂しい」とか「切ない」とかの感情を抱かせなかった。ただ、変な感じがするだけだ。 それは、今までそこに在ったモノがある日ふと見たらなくなっていた時によく似ている。
 「確かにここに在ったのに」と目を凝らしてみても、やはりそこに在ったはずのモノはあとかたもない。そして、次第に疑いが生じる。「確かにここに在った のに」と思っていたはずが、「本当にそんなモノが在ったのだろうか」「本当は前からそんなモノはなかったのではないか」に変わってゆく。
 本当はカレと付き合っていなかったのだろうか。だいたいカレなんて、本当にいたのだろうか。私は長い夢から醒めた気分でいる
 テレビをつけっぱなしでボーッとしている毎日。バラエティもドラマも、好きなタレントも気になる歌も、すべてがただ電波に乗せられるままに流れていて、面白くない。
 シャワーを浴びて、つけっぱなしにしてあったテレビに目を向けると、ちょうどドラマが終わったところだった。

この物語はフィクションであり、実在する人物、団体名とは一切関係ありません

 画面はその文章を伝えてすぐにCMに移った。だけど、私はフィクションという言葉にココロを動かされた。テレビでドラマを見ていれば必ず見る最後の言葉に、今更のように取り憑かれてしまったのだ。
 フィクション。直訳すれば虚構。小説とか創作とかいう意味もあったっけ。

 結局ドラマなんて、虚構の世界を創り出して人に見せているだけに過ぎない。だけど、私は嘘だと分かっていてもドラマを見る。そして、感動して涙を流しさえする。どうして涙まで出てしまうかというと、それは登場人物に感情移入するからだ。
 フィクションの中の人物が実在しないのは、それを見た誰もが登場人物になり得るからだ。つまり、精神的にはその人物は多数存在していると言っても間違いではない。
 そういえば子供の頃、私は不思議なことを考えている子だった。自分の生活は、実は何かの小動物とか虫とかが人間になることに憧れて、寝ている間に見ている夢なのではないかと思っていたのだ。目が覚めてもとの小動物やら虫やらに戻ってしまうことを、本当に恐れていた。
 そういえば中学生の時には、自分の生活は実はドラマで、テレビで多くの人が見ているのではないかと不安になったことがあった。それは、自分の周りにはド ラマのような事件があまりにも起こらないので、馬鹿らしい考えだとすぐに気付いたけれど、今考えると面白い発想かもしれない。
 たとえば私が真実を小説として書いたとする。それはつまり、自分の生活を虚構にしてしまうということだ。実際、今の私はカレが隣にいた日々を夢だったか のように感じているくらいなのだから、自分の生活を真実だと思っていても、虚構だと信じたとしても、そんなことで生活は変わらないのだ。特に何の事件もな い些細な生活だけれど、それを虚構にしてしまえば、私は実在する人物とは関係のない登場人物に過ぎない。そして実在するすべての読者が私になり得る。

 何となく頭がこんがらがってきた。私は、とにかく小説を書いてみようと思う。突然カレがいなくなってしまったからといって、何をすればいいのか分 からなくなるなんて、私は甘えていた。新しくカレになってくれる男の子を探してもいいけれど、とりあえずカレがいなくても一人で何かが出来るということを 証明したいのだ。
 レポートを書くのに五枚使ったきりの原稿用紙が一冊、引き出しの奥に眠っている。そこに、お気に入りのセサミストリートのシャーペンで、思いつくままに文字を書こう。そして、気が済んだら最後はこう書いて結ぶつもりだ。

この物語はフィクションであり、実在する人物、団体名とは一切関係ありません



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