top掌~短編


シーソーゲーム

 早く気付いて。チョークの粉が風化する前に。

 ――スクールバッグの底にピンクのチョークで好きなひとのイニシャルを書いて、消えるまでに相手がその文字に気付いたら、両想いになれるんだって――。
 そんなおまじないがある。うちの中学で先輩から代々受け継がれてきたものらしい。他では聞いたこともないから、きっとこの学校で誰かが編み出したオリジナルなのだろう。効果は確かで、うちのクラスでもこれで既に三組もカップルが誕生している。でもこれは、別に神秘の力でもなんでもないと私は思う。
 秘密は、たぶんこの学校の立地条件にある。小高い丘の上に立つ学校に辿り着くために、私たちは麓から百三十三段の階段を上らないといけない。坂道コースも一応あるけれど、それではものすごい遠回りになるから、毎朝一段一段、着実に上るしかないのだ。
 そしてこの階段、上りながらふと進む先を見上げるとちょうど前を歩くひとのカバンの底がよく見える。そのとき誰かのカバンに自分のイニシャルが書いてあったら、普通はなんとなく気になってしまうものじゃないだろうか。チョークの文字が消えてしまう前に、自分のことかどうか確認したくなるのも仕方ない。
 だからつまり。単なる神頼みならくだらないと思うけれど、これはきっと試す価値がある、はずだ。
 きりっとした涼しげな眼と、妙に大人っぽい表情。小学校から少林寺拳法を習っていたというのも納得の硬派な悠太を、入学してすぐ、同じ教室に見つけた瞬間に好きになった。クラスが離れてしまったあとも、登校時間に後ろから眺めるすらりと伸びた背すじや、ときどき廊下で交わす言葉のひとつひとつが眩しくてたまらない。卒業まであと半年となった今もまだ、まるでビッグバンのあとに広がる宇宙のように無限に大きくなる恋心。
 伝えたい......。でも勇気がない......。うだうだと二年半もそんなことを言っている自分がさすがに嫌になって、とうとう手を出したおまじない。書かれたばかりのピンクの文字、早く悠太が気付いてくれますように。

 渦巻く期待と緊張を他のひとに悟られないよう、私はカバンを胸の前で抱え、底に書かれた文字を隠しながら通学路を歩いてゆく。いつもより三分早く家を出たせいで、普段は視界のどこかにいる悠太の姿が見えない。寂しいけれど、今日はこれで良かった。悠太がだいたい何分頃階段を上り始めるのかは、もちろん知っている。
 まだ新しい制服を着た後輩たちが、とろとろ歩く私を次々と追い越していった。早足で学校に向かう彼らは、きっとまだ恋をしていない。三年にもなると、登校時間は両極端になるものだ。邪魔されたくないカップルたちは早めに。友達と恋バナで盛り上がりたい片想い組は遅めに。そんな中、律儀な悠太は遅すぎず早すぎない時間に淡々と登校する。そのおかげで、私は同級生に邪魔されることなく悠太を目で追うことができるのだ。
 ようやく階段の下まで辿り着いたところで、私は覚悟を決めてふっと後ろを振り返った。すると。
「おーっす、渡辺」
 完璧なタイミングだった。悠太はもう私の三メートル後ろまで迫ってきている。声をかけてきたのは、連れの雅人のほうだったけれど。
 悠太と同じく一年のときに同じクラスだった雅人は、誰とでもすぐ仲良くなれる軟派なヤツだ。悠太とは正反対なのに、なぜか二人はとても仲がいい。
「なんか今日、いつもより早いじゃん」
 雅人がそう言いながら私に歩み寄ってくる。このまま合流すれば、悠太と学校まで一緒に歩ける展開......嬉しいけれど、今日に限ってそれは困る。
「ん、ちょっとね」
 短く答えると、私はカバンを抱きしめたまま、二人より先にタタッと階段を四段ほど駆け上った。
「何いきなり走ってんの? 朝から血圧高すぎ!」
 ツッコミを入れてきた雅人に愛想笑いを返す。そのノリでカバンの底のことまでツッコまれたらたまらない。私は雅人に見られないよう注意して、抱えたカバンの底の部分を、悠太だけに見えそうな角度に向けた。
 早く気付いて。祈るような気持ちで見下ろす私の目から発射された『気付いてビーム』。それを受けて、悠太の目が私のカバンの底あたりで止まる。YNの二文字が捕らえられた瞬間が、はっきりと解った。
 まるでスローモーションのように、私と悠太の視線が絡み合う。体中が心臓になったみたいにドクンドクンと揺れた。悠太が私の気持ちに気付いたのだ。二年半の片想いにとうとう答えが......と思ったそのとき。
「うわっ。なんだよ、いきなり」
 ひっくり返った雅人の声が、私の乙女モードを勢いよく破った。見ると、悠太が雅人の腕を引っ張って、二段抜かしで階段を駆け上ってくる。何が起こったのか解らなかった。二人は私の脇をすり抜け、私よりもさらに四段上まで行くと、ようやくそこで立ち止まった。
 呆気にとられる私に、悠太の目が何かを訴える。反射して戻ってきた『気付いてビーム』。悠太が雅人のカバンに視線を落とす。それにつられて、見てしまった。雅人のカバンの底で消えかかった、TWの二文字。それってもしかして、私のイニシャル......?
 頬が急に熱くなった。悠太は私が雅人の気持ちに気付くことを願い、雅人が私のカバンを見ないよう気を遣った。私は失恋したのだ。悲しい、とも思う。けれど今は恥ずかしいという気持ちのほうが勝っている。
 悠太たちはいつも私の前を歩いていたのに、毎日それを何段か下から見つめてきた私の目には、雅人のカバンは映らなかった。『相手が気付いたら両想い』なのは当たり前だ。好きでもなければ、カバンの底まで気になることもないのだから。なんてバカなことをしたんだろう。高い場所から無理やり気持ちを押しつけるような私のことなんて、悠太が好きになってくれるはずもないのに。

 雅人にばれないようさりげなくカバンの底を手で拭いて、私は少しだけ苦笑いしながら二人に声をかけた。
「わ......私より下を歩きたくないなんて、悠太ってば負けず嫌いなんだから」
 赤く染まった指先が、さっきの出来事をなかったことにはできないと私に教える。それでも私は、勢いよく階段を駆け上り、二人と同じ段に立ってみた。
「いつも下歩いてるヤツに見下ろされると、悔しいだろ」
 右側でそう言いながら、複雑そうな、けれどどこか安心したような笑顔を見せる悠太が、やっぱり眩しかった。
「おまえそれ、闘争心ありすぎじゃね?」
 左には、嬉しそうに私を迎える雅人。この遠慮のないツッコミと人懐っこい笑顔こそが、硬派な悠太の表情を和らげるのだと、今さらながら気が付く。階段の下から目で追うだけじゃ、そんなことまで解らなかった。
 ここからもう一度始められるだろうか。私がひとつ雅人の良さに気付いたように、悠太にも同じ目線から私を知ってもらうこと。それでも振り向いてくれないかもしれないし、私が雅人を好きになっちゃう可能性だってある。けれど、誰に押しつけられることもなく自然に決まったバランスならば、きっと納得できる気がするから。
 だからもう、答えを急ぐおまじないには頼らない。



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