top掌~短編


神様のティータイム

 人生ってあまりにもちっぽけだ、と思う瞬間がある。
 たとえばラッシュアワー。

 ギリギリ東京の二十三区からはみ出てしまった街にある、急行も準急も停まらない小さな私鉄駅。北口とか南口とか西口とか東口と名のつくものはなく、ただ中央とは名ばかりの改札口に、自動改札機が五台ある。
 朝は都会へと出かける人々がそれぞれの家からうわっと集まってきて、狭いトンネルみたいなこの自動改札機をわれ先にと通過し、そこからまたホームにバラバラと散って、それぞれの行き先へと旅立つ。夕方になると今度は天と地をひっくり返したように、それぞれの行き先から帰ってきた人々が、やっぱり五台しかない自動改札機をわれ先にと通過して、それぞれの家路を急ぐ。
 冷静に考えてみると、毎日こんなことが繰り返されているのはとても奇妙なことで、それにしてもこれって何かに似ている――そんなことを考えていた私は、この様子を上空から見ることを夢想して、ようやくひとつの結論に辿り着いた。
 ああ、そうだ。砂時計。
 朝が来るとひっくり返されて、夕方にもまたひっくり返されて。私たちはあの瓢箪に似た形のガラスに閉じこめられた、一粒の砂みたいなものだ。
 こういう砂時計が世界各地いろいろなところにあって、神様はそれをひとつひとつひっくり返して遊んでいるのだ。遊んでいるという言葉が人聞き悪いなら、私たちを見守ってくださる仕事の合間に、ティーブレイクをしているとでも言っておこうか。
 神様の紅茶を蒸らす時間を計る三分計。私たちの人生って結局のところ、その程度の意味しかない。

 ――とかなんとか。
 イイカンジに思考がトリップしてきているのは、ラッシュの流れに逆らって電車を待っているというこの状況のせいかもしれない。家路を急ぐ人たちのちっぽけさを客観的に眺めながら、どこかで『自分だけは違う』と思いたがっている。でも、そんな流れにすら乗れない私のほうが、本当は一粒の砂よりもっと意味のない存在とも言えるかもしれない。いや、逆にそれすらも含めて巨大な砂時計は世界のあらゆる......。
「お。久しぶりじゃん」
 ぽん、と後ろから肩を叩かれて、その瞬間、しゃぼん玉のようにこころもとない私の思考はぷちっと弾けた。
「うわ......出た」
 思わず冷たい言葉が口からこぼれた。
 というのも、振り返ったところにあったのが、世界でいちばん会いたくない、あまりにもあっけらかんとしているリュータの笑顔だったから。
 なのにリュータは、私の気持ちなどまったく意に介さない様子で馴れ馴れしく私の横に並ぶ。
「なに、こんな時間からどこ出かけんの?」
「友達に呼び出されて、ちょっと......I駅まで」
「偶然、俺もI駅まで。なに、合コンでも行くの?」
 ニヤニヤしながら訊いてきたリュータに、私は「まあね」とだけ答える。実はもてない女ばかり六人集まってカラオケの予定――だなんて、死んでも言うもんか。
 私は新しい世界で新しい出会いを求めて生きている、そういうことにしておけば、少しはくやしくない。嘘を見抜かれたくなくて、通過する急行を熱心に見送る振りをしてしまうあたりは、まだまだ弱いけれど。

 リュータは私にとって、小学校から高校まで十二年間ずっと同じクラスにいた因縁の相手だ。そして、十年という気の狂いそうなほど長い長い片想いをさせた張本人でもある。
 初恋だった。けれどそれは甘酸っぱい記憶でもほろ苦い過去でもなんでもなくて、今でも思い出せば思い出すほどくやしい、不毛な日々の積み重ねだった。
 小学校のとき、バレンタインデーに本気でチョコレートを渡した。けれど、勝手に義理チョコ扱いされた。
 中学の卒業式に学ランの第二ボタンが欲しいと勇気を出して言った。けれど、冗談にしか思われなかった。
 そうやってはぐらかされてきた反省を踏まえて、私は高校二年のとき、今度こそはとはっきり伝えた。
「彼女になりたい」
 けれど、リュータはやんわりと断わった。
「そんなこと、今さら言われてもなあ」
 怒りを通り越して、私は呆れるしかなかった。『今さら』なんて、よく言える。私は小学校のときから、ちゃんと意思表示をしてきたというのに。

「あ、やっぱり合コン行くんだ? 楽しそうだなあ」
 リュータは、私の行動を見抜いた自分が偉いとでも言いたげに、しつこくその話を続けた。まったく、無神経きわまりない。
 いっそ無視してしまえば楽だと思う。けれど、人通りのあまり多くない夕方の上りホームで肩を並べてしまった以上、逃げ出すことは難しい。私は、仕方なく口を尖らせて言った。
「私のことなんてどうでもいいじゃん。それよりリュータこそ、どこ行くのよ。デートかなんか?」
 肯定されたらそれなりに傷つくくせに、私はそんな訊き方をした。けれど、リュータは腕時計をチラッと見たりしながら、こともなげに答える。
「バーカ、俺はバイトだよ、バイト。超マジメな勤労学生ですから」
「あ、そ」
 心のどこかでほっとして、それと同時に、こんな自分に嫌気がさした。リュータに彼女がいようがいまいが、そんなこと私には関係ないと解っている。私の気持ちを知っていながら知らない振りをできるリュータのことだ。たとえ彼女がいたとしても、どうせ会えば私に声をかけてくるし、その笑顔を崩すことはない、と思う。
 つまり恋愛とか男女交際とか、そういう次元とはまったく関係のない場所に、私たちはいるのだ。

 決死の告白をした私と、それを断わったリュータ。
 少しくらい気まずくなってもいいようなものなのに、私たちの関係は、結局高校卒業までなにも変わらなかった。なにひとつ、だ。
 告白した次の年まで同じクラスになってしまったことが判明した日なんて、特にひどかった。
「また一緒?」
 うんざりしながら言う私に対して、リュータはなんてことなく笑いながら、さらりと答えたのだ。
「しょうがないじゃん、離れられない縁ってあるよ」
 あほか、と思った。なに様か、とも。
 私が真剣に告白したことさえ、リュータはやっぱり冗談くらいにしか思っていなかったのだ。腐れ縁なんて、名前のとおり腐ってしまえばいいのに。
 よくある話だけれど、友達関係の男に好きだと告白することは、とてもリスキーだ。成功すれば晴れて恋人、でも失敗したら友達という関係を保つ感情のバランスも崩れてしまう。玉砕するよりは仲の良い友達という関係を保てるほうがずっといいからと、押し殺した恋心を胸に飼い続けている子なんて、たくさんいる。
 それを解っていて、やっぱり私は告白した。たとえ友達という関係が保てなくなってもいいから一歩を踏み出したいという、強い気持ちがあったからだ。そうやってビシッと決めた私の覚悟をなかったことにするリュータは、あまりにも酷い男だと思った。

 電車はなかなか来ない。この不協和音みたいな空気を早く蹴散らしてほしいのに。
「俺のバイト先も、I駅からすぐ近くだよ。『ドラゴンフライ』って店。バーテンやってるんだけどさ」
 リュータは訊かれてもいないのに、一人でペラペラと自分のことを話す。無視もできないので、仕方なく私は答える。
「勤労学生っぽくない仕事だね」
「堅いこと言うなって。結構雰囲気のいいショットバーだよ。そうだ、もし良かったら、今日の二次会にでも使ってくんない?」
「絶対いや」
 私が冷たく言い放ったのと同時に、向かいのホームに下りの電車が一本滑り込んできた。
 停まった電車から、ひっくり返した砂時計のように人々が降りてくる。そんな流れを横目で見ながら、早く上りの電車が来ればいいのにと私は心から願った。
「冷たいなあ。サービスするからさ。今日じゃなくてもいいから、今度友達連れて遊びに来てよ。たまには俺の顔だって見たいでしょ?」
「見たくなんかないよ。だって......」
 そこまで言って、出かかった言葉を飲み込む。
「だって、なに?」
 しれっとした顔で聞き返すリュータがまた憎らしい。私はいつもよりさらに冷たい口調で言ってやった。
「だって、もう見飽きたもん」
 これもある意味本音だ。
「あははっ、まあ確かにそうだよなあ」
 私の悪意を汲み取っているのかいないのか、リュータは悪意なんて微塵もなさそうな顔で笑う。本当にバカ、鈍感。と、言ってやろうかと思ったけれど、ちょうどそのとき待望の上り電車がホームに入ってきて、私たちの前に停車したのでやめた。
 虚しくなるだけの悪態をつかずに済んで、よかった。

 このお調子者の人懐こい笑顔にふいっと心を奪われてしまったのは、精神的に少しだけ色気づいてきた小学校三年生のときだった。もともとリュータは一年生のときからクラスで一番目立つやんちゃ坊主だったけれど、隣の席になったのは初めてだった。
 その日から、私は学校へ行くのがすごく楽しくなった。恋という自覚はなかった。ただ、学校に行けば毎日笑うことがあって、とにかく単純に楽しかった。
 その『楽しい』という気持ちがいわゆる恋というものにシフトしていったのは、小学校の高学年を迎えた頃だろうか。何度クラス替えをしてもリュータと同じクラスになったことは、私に運命を感じさせた。けれど、席替えのたびに隣の席をキープするのは当然のことながら無理だった。リュータは隣の席にいるのが私じゃなくても、まるでそれが義務であるかのように、いつもおちゃらけて隣の子を笑わせていた。
 私の淡い恋心は、嫉妬という苦味を覚えた。ただ好きなだけではおさまらない、こういうネガティブさが入り乱れる気持ちこそが恋の因子なのだと、あとで知った。
 中学に入って、あの子とあの子が付き合い始めたなどという話がちらほら聞こえるようになると、私の中で好きという気持ちが『デートしたい』『手を繋いでみたい』『キスしてみたい』という具体的な欲求とリンクし始めた。今思えば、リュータへの想いよりも男女交際への期待や憧れが強かっただけなのかもしれない。けれど、相手はやっぱりリュータでなければだめだった。
 少なくともそのときの私はまだ、これが『腐れ縁』ではなく『運命』だと信じていたのだ。

 リュータと一緒に乗り込むと、車内はなかなか混んでいた。少ない時間帯の上り電車なので、多くの人が私たちと同じように待たされたあげく乗ったのだろう。
 気持ち悪くない程度に人との距離を置ける混雑の中、リュータは当たり前のように二つ空いている吊革の下を陣取り、私の立ち位置を確保する。おかげでI駅まで隣に立たなければならなくなった。高校のときにも、こういうことはよくあった。当時は私の一日を左右するほど嬉しい朝のイベントだったけれど、私はもう高校生じゃないし、今は朝じゃない。
「高校のクラスの奴らとか、連絡とってる?」
 予想の範囲内だったけれど、車内でも当然リュータのおしゃべりは途切れそうになかった。
「ユウとかクミとか、あの辺とは結構遊んでるよ」
「なんだよ。俺も呼んでよ」
「無理」
 だって、あんたの話も出まくりだし――とはもちろん言わないけれど。そんなこと別に元々興味なかったかのように、リュータは一人で笑うのだ。
「そういえばさ、こないだ高木から卒業式んときの写真が郵便で送られてきたんだけどさあ。宛先が清水隆太様になってて、しかも中に『卒業名簿の名前、間違ってるね』とかいう手紙が入ってた」
「あはは。ありがち、ありがち」
 さすがの私も、それには笑った。私じゃなきゃ、笑えないことだ。

 あだ名っていうのは不思議なもので、生きている。
 リュータは少なくとも私が隣の席になった小学校三年生のときはまだ、子供らしく『リューちゃん』と呼ばれていた。それを五年生になった頃だかに、男子の一部が『リュータン』などと呼び始めたのだ。実はいつも女の子とキャイキャイおしゃべりしているリュータを揶揄したのが始まりだったけれど、このほうがキャッチーで呼びやすいということで、小学校を卒業する頃には完全に『リュータン』が主流になっていた。
 地元の公立中学に進み、同じ小学校から来た子たちに『リュータン』と呼ばれていたリュータを、誰かが聞き違えて『リュータ』と呼び始めた。中学は名札着用が義務づけられていたので、それが本名ではないことはみんな知っていた。けれど、あえて違う名前で呼ぶこと自体が面白かったし、さらに呼びやすくなったというのもあって、すぐに『リュータ』が定着した。
 そして三年後。同じ高校に進学した十人の同窓生は私を含め全員、高校でもやっぱりリュータを『リュータ』と呼んだ。名札を着けない高校生は、よほど気をつけてクラス名簿を見ない限り、意外とクラスメイトの本名なんて知らないものだ。だから高校では私たちに倣って、みんなが当たり前のようにリュータを『リュータ』と呼んだ。『リュータくん』なんて呼ぶ女の子もいたくらいだから、きっとそれが本名だと思われていたのだろう。
 ちなみにリュータの名前は、本当は隆一という。

 ガタタン、と大きく電車が揺れる。近くで同じように立っていたカップルの、女のほうがわざとらしく男に寄りかかった。私はこれくらいでふらつかない。
「あ、そうだ。あのさ、小学校んとき鈴木先生って担任いたじゃん」
「鈴木先生って......四年の時の? たしか一学期しかいなくてすぐ産休に入っちゃった先生だよね?」
「そうそう。俺さあ、この前あの先生と偶然会ったんだよ。向こうも俺のことすぐ解ったよ」
「すごいね、三ヶ月しか担任やってないのに」
「だよな。あん時生まれた子供、もう小学生だってさ」
「うわ、うちらも歳とるわけだ。――あ、関係ないけど先生と言えば、中学の美術の先生、なんてったっけ」
「ハヤシ?」
「そう、林先生だ。あの人教師辞めて、画家になったんだってさ。ヒロがこないだ知り合いの個展見にいったら、そこで再会したらしくて」
「え、ヒロって広沢? あいつ、高校一ヶ月で辞めてからずっと引き篭もってたんじゃなかったの?」
「や、大検受けてちゃっかり大学生になってるよ。最近たまに、帰りの電車が一緒になるんだよね」
 話さなくてもいいようなくだらない話ばかり、あとからあとから溢れてくる。目の前の車窓は、暗くなりつつある外の風景を見せない代わりに、明るく照らされた車内を、リュータと私を、鏡のように映し出す。私はみっともないほど笑っていた。みっともないけれど、思い出話が楽しいのだから仕方ない。
 私たちには共通の記憶が多すぎる。

 経済学部を目指していたリュータと法学部を目指していた私は、第一志望の大学まで一緒だった。
 どこまで腐れ縁は続くのだろうと私は悪態をついたが、結局私たちの縁はそれまでだった。私たちは仲良く第一志望の大学を不合格になり、それぞれ第二志望としていた別々の大学に進むことになった。
 新しい生活は楽しかった。女友達は気の合う子がすぐに見つかったし、彼氏のいない私に合コンの誘いは幾つもあった。たくさんの出会いがあって、たった半年の間に三人の男からつきあって欲しいと言われた。やっと新しい恋ができると思った......けれど、結局私は今、誰ともつきあっていない。最近はせっかく合コンに誘ってもらっても、行く気すらしない状況だったりする。
 だって、リュータのいない生活は不思議すぎる。
 どうせ叶わない恋なんだから、そもそも惰性みたいなものなんだから、いい加減忘れて新しい恋をしようと、何度となく思ったのに。今も思っているのに。それでも偶然会う。会えば避けられない。くだらない会話を重ねれば、それだけで私はこんなに笑えてしまう。そして、リュータを忘れることは小学校からの思い出を根こそぎ失うことと同じなのだと思い知る。
 こういう事実に直面するのはくやしい。だから、私はリュータに会いたくなかった。
 でも本当はたぶん、すごく会いたかった。

 さんざんひとを待たせたくせに、私たちを乗せた電車はあっという間にI駅に着いた。私たちは電車を一緒に降りて、改札まで並んで歩く。I駅の繁華街へと繰り出していく、たくさんの人たちと一緒に。
 人の波に流されそうになりながら、それでも必死に改札へと確かな足取りで向かう。そのうち、ふとひとつのことに気がついた。
 改札を抜けて宵の初めの繁華街へと散らばっていく人の流れ。終電間近になれば、人々は天と地をひっくり返したようにこの改札に集まってくるだろう。
 ここにもやっぱり、砂時計があるのだ。
「じゃあな」
 改札を抜けて、リュータが先に手を振る。なんの未練もなさそうな軽い笑顔が、やっぱり少しくやしい。
「つうかマジでさ、今度俺のバイト先、来てよ。別に合コンの後じゃなくてもいいから」
 それがなんの気もない、むしろなにか気があるとすれば営業としての意味しかないことは解っている。けれど今は笑っておこう。
「バイト、何時まで?」
「え? っと......シフトは十一時までだけど、だいたい終電ギリギリまでいるかな」
「じゃあ、後で行く」
 私はそれだけ言うとリュータに背を向け、友達との待ち合わせ場所まで走り出した。さよならの挨拶なんか、いらない。あの瓢箪みたいなガラスに閉じこめられた私たちはどうせまた会うのだし、会えば私はリュータを忘れられない。
 一粒の砂の意志なんて、そのくらいちっぽけなのだ。
「解った。絶対来いよ、待ってるからなー」
 喧噪に紛れて聞こえたリュータの声。ひとがどんな想いをしているのかも気にしない、お調子者の楽天的な声。だけど、やっぱりこれが私の好きなリュータだ。
 そう思った瞬間、ダージリンに似た香りが微かに鼻先をくすぐった......ような気がした。紅茶屋さんの前なんて、通っていない。気のせいだろうか。ひょっとして、紅茶を飲んできたばかりの人とすれ違ったとか?
 いろいろ考えたけれど、別にどうでもよかった。
 いずれにしても私は、次のティータイムが早く来るようにと心の中で祈りながら、始まりかけた夜の街にさらさらと落ちていくだけなのだ。



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