top中~長篇


僕らの生活


 昌孝は焦っていた。
 千絵が、コンカツを始めたというのだ。
 コンカツというのは紛れもなく、ここ最近よく耳にする「婚活」のことで、つまり結婚相手を見つけるための活動だ。つまり、昌孝と千絵の関係は今、非常に危うくなっているということになる。
 第一の重要な前提として、昌孝にとって千絵は恋人である。
 たとえばもしも、千絵と交際しているという事実自体が昌孝の妄想だとしたなら、千絵が結婚相手を探しに夜な夜な出かけていっても、なにも問題はないだろう。けれど実際問題、二人は間違いなく互いに認め合った恋人同士なのだ。
 アパートの表札に名前を連ねて一緒に暮らしているし、毎晩とは言わないけれど、セックスだって週に一度くらいはある。長いこと交際が続いているカップルとしては、割とこまめなほうではないかと自負しているくらいだ。
 こんなふうに恋人と同棲中の女性が真剣に結婚相手を探しているというのだから、これは奇妙な話としか言いようがない。

 そもそもの発端は、二ヶ月ほど前のことだった。
 昌孝はその夜、リビングにあるソファでビールを飲みながらテレビを観ていた。本格的な夏が始まるより、少し前。今年も網戸から流れてくる夜風にビールの旨さが引き立ってきたことに、小さな幸福を感じるような、そんな夜だった。
 テレビを観ると言っても、最近はバラエティもドラマもなんだかちっとも面白くない。チャンネルを適当にザッピングした結果、昌孝は報道番組を観るともなくただ流すことにした。悲劇的なニュースも世間を驚かすニュースもない日だったのか、報道陣も暇そうだ。
 やがて、風呂上がりの千絵もやってきて、昌孝の隣にちょこんと座る。
 鮮やかなオレンジ色がモダンな印象を与えるラブソファは、いつ行っても混雑しているインテリアショップで、昌孝も千絵も一目で気に入ったものだった。それほど高価なものではないということもあり、気軽に腰掛けたり寝転がったりしているうちに、すっかり薄汚れてしまっていた。
 愛着はあるけれど頓着はしない。昌孝にとって、毎日は薄汚れたソファのようなものだった。平凡で、だからこそ平和。そんな日常を、昌孝は気に入っていたのだ。
 ところがそのとき、平凡な時間を切り裂くように、テレビの画面に妙な言葉がでかでかと映し出されたのだ。
「特集・婚活する女たち」
 昌孝は、隣に座る千絵の顔色をおそるおそる窺った。
 テレビや雑誌はよくチェックするほうなので、「婚活」とはつまり、結婚相手を探すための活動だということくらい、もちろん昌孝も知っている。そして、三十歳の壁が見えてきた二人の間では今、「結婚」の二文字はいつしかタブー化されつつあった。少なくともここ数年、千絵はどうやら、「結婚」という言葉をわざと避けている様子なのだ。
 二十代前半の頃は、友達の誰々ちゃんが今度結婚することになって、とか、この前行った披露宴の会場は料理が最高で、とか、ごくごく当たり前に取り上げていた話題を、最近はちっとも口にしなくなった。それどころか、友人の結婚式に呼ばれたことすら当日まで昌孝に言わないこともあったりするのだから、難しい年頃だ。
 きっと故郷の両親から、そろそろきちんとするようにせっつかれているのだろうとは思う。けれど、昌孝はなかなか結婚に踏み切れなかったし、千絵も決して結婚を迫ってきたりしなかった。
 学生時代から長くだらだらと続いてきた交際に、みずからメスを入れてしまうということを、二人ともどこかで怖がっていたのかもしれない。
 けれど、どういうわけかその日の千絵はいつもと様子が違っていた。
「婚活かあ。なんだか面白そう」
 それが本心からの言葉かどうかは、判別しがたかった。なにしろデリケートな話題なので、昌孝はひとまず他人事のように扱うことで、無難にやり過ごそうと考えた。
「そうだね。必死で受験勉強をやって大学に入って、必死で就職活動をやって会社に入る、俺たちはそういうシステムの中で生きてきた世代だから、結婚するにも婚活が必要っていうのは、一理ある」
 随分と無責任な発言だ。
 だいたい千絵は高校からエスカレーター式に進学した付属組だから大学受験なんて経験していないし、昌孝は必死で就職活動をしたにも関わらず就職できなかった落ちこぼれである。「そういうシステムの中で生きてきた世代」の例外ではないか。
 しかし、昌孝が「一理ある」などと言ったことが、千絵の心の奥深くにあるスイッチを押してしまったのではないかと、今となっては思う。
「あのさ、私、婚活してもいいかな?」
 千絵はそう言った。
 それはたとえば「友達を家に連れてきてもいいかな?」と聞くときと同じような、まったく後ろめたさのない、さっぱりとした言い方だった。昌孝は思わず「いいとも!」などとふざけて答えてしまいそうになり、そんな自分を慌てて制した。だからといって、「婚活なんて必要ないだろ」と強く否定することもできない。
 つきあい始めてもうすぐ九年、一緒に暮らしてからは、六年と少しになる。昌孝はもう、自分が結婚もキッパリ決められない意気地のない男だということをよく知っていた。
 だから、こう答えるしかなかったのだ。
「ああ......まあ、いいんじゃない?」
 かくて、昌孝の恋人は婚活中の身となった。

 それから二ヶ月少々が経過した。夏の名残と秋の匂いが交ざりあう季節だ。
【遅くなるから、ゴハン一人で食べてね】
 気がつけば随分と早くなった夕暮れ、千絵から届いたメールを、昌孝は眺めていた。
 このまま定型文に登録しているのではないかと思うほど、見慣れた文面だ。今日は緊急に合コンの参加要員にでもなったのか、それともバーやクラブへ出会いを探しに行くのか、ひょっとして既に結婚相手の候補を見つけてデートに励んでいるのか。この間いくつか結婚相談所の資料も届いていたから、そういうところにせっせと登録に行っているのかもしれない。
 千絵は最近、きれいになった。
 きっと、いつどんなお誘いが来ても困らないように気を遣っているのだろう。たまに何の予定も入っていない様子で早く帰宅することもあるが、それでも婚活前よりずっと服装や化粧が華やかになっている。もとからお洒落に無頓着なほうではなかったとは思うが、より男性の目を気にするようになった。というか、つまり千絵は見る間に男受けしそうな外見へと変貌を遂げたのだった。
 そんなふうにしていれば小柄な千絵はまだ二十代前半くらいに見えるし、持ち前の無邪気な少年っぽさの中に大人の女性らしい落ち着きも身につけてきた感じは、なかなかどうして色っぽかった。引く手あまたとまではいかなくとも、惚れる男の一人や二人は確実にいるだろう。
 それでいいのか。

 その夜、少し酔っぱらって帰宅したばかりの千絵を、昌孝はベッドへ引っ張り込んだ。
「やん、だめだよお」
 などと言いながらも、声がもう甘くなっているのは明らかだ。脱がされた服をそのまま放り出して、千絵は自分からベッドに潜り込んできた。
 これまで何度も重ねてきた行為なのに、最近はいつも新鮮な気分で千絵を抱くことができるのが不思議だった。いつのまにか新調されている、千絵の下着のせいだろうか。昌孝の肌に吸い付いてくる舌使いが、以前より上手になっている気がするからだろうか。
「マーくん、すごくなってる」
 興奮を溜め込んで膨らんだ昌孝のモノを握りしめて、千絵が目を潤ませる。すごいのは千絵のほうだと、言ってやりたいがもはや言葉にならない。
 繋がってすぐに、二人して頂点にいってしまった。
 週一が、週二、週三に。気がつけば、婚活を始める前よりも、千絵を抱くことが多くなっていた。千絵の変わってゆく姿は昌孝の欲情を誘い、高まった昌孝の熱は千絵の中をもっととろとろに溶かしていく。
 二人のセックスライフは、明らかに向上していた。
 しかし、いくらベッドでは懇意にしていると言っても、千絵の婚活がどのような内容なのか、今はどんな相手とどこまで話が進んでいるのか、昌孝は聞くことができなかった。
 知りたい気もするが、それを知ろうとするなら、やはり「結婚」の二文字はどうしたって避けられない。
 昌孝はまだ、千絵にプロポーズする権利すらないのだ。

「くそっ」
 夕暮れ。秋深い西陽が差し込む部屋に、昌孝の舌打ちが響く。
 届いたメールの内容は、「不採用通知」だ。貴殿の今後益々のご活躍をお祈り申し上げます云々と、お祈りをされるばかりでもう九社目だ。うんざりしてくる。
 千絵の婚活は、相変わらず続いていた。
 最近では、家でもしばしば携帯でメールを受け取り、すぐに返信したりしている。合コンの誘いか、デートの誘いか、チラチラと見ながら様子を窺ってはいるが、判然としない。
 昌孝の焦りは、ますます膨らんでいた。
 千絵はもはや、単に「婚活、面白そう」という軽いノリではなく、実はかなり本気で結婚相手を探しているように見える。だからといって、「一理ある」などと言ったのは昌孝のほうなのであって、今さら婚活などやめろと激昂するわけにもいかない。だいたい昌孝は今、激昂できるような立場ではなかった。
 そこで、昌孝がとにもかくにも始めることにしたのは、就職活動――いわゆる「就活」だった。
 昌孝は学生時代の就職活動を、完全に失敗していた。
 が、たまたま大学時代の先輩から人が足りないと誘われて、今はフリーライターという仕事をしている。
 フリーライターなどというと聞こえは良いが、実際の内容は、決められた文字数の中にこれだけの情報を詰め込んでくれという発注のもと、忠実に文章を上げていくだけの機械的な仕事にすぎなかった。
 それでも昌孝の文章を気に入ってもらえれば、ときどきは特集記事の執筆もさせてもらえたり、人より多く書かせてもらえたりすることもある。それで署名入りの原稿を載せてもらえるとか、売れっ子のライターになれるというわけでは決してないのだが、仕事をいつもより多くこなせば、その分収入がプラスになるので、それなりに頑張ってやっている。月刊情報誌という媒体との契約だったため、毎月一定量の仕事があるので、今まで特に焦りを感じることもなかった。
 けれど昌孝の年収は、正社員でしっかり働いている千絵と比べると、三分の二ほどしかなかった。おまけにこの出版不況で、雑誌の廃刊も相次いでいる。昌孝の契約なんて、考えてみればいつ切られてもおかしくないような簡単なものだった。
 この年収とこの契約では、千絵の「婚活」におけるターゲットにすらなれないことに、昌孝はようやく気付いたのだった。
 そこで「就活」を始めたのだが、これが意外と難儀なのだ。
 そもそも求人情報はなかなか見つからないし、履歴書を書くには予想外に時間がかかる。やっとこさ書いた履歴書を送っても、大概は書類選考で突き返され、ようやく面接に漕ぎつけたと思ったら、判を押したように「貴殿の今後益々のご活躍をお祈り申し上げます」である。ご活躍をお祈りするなら、ぜひ雇ってから言ってほしい。
 しかも就活だけに専念するのは、難しい。フリーライターの仕事だって、貴重な収入源なのだ。いつ実現するかわからない就職のために、おろそかにしてしまうわけにはいかなかった。
 校了前などは仕事量がピークとなるので、もはや面接に行く時間も、履歴書を書く時間さえもない。それどころか、求人情報をチェックする時間すら惜しいのだから、就活が順調に進むはずはなかった。
 よく、選ばなければ仕事はいくらでもあると言うが、そんなの嘘だと昌孝は思う。
 昌孝は大学を卒業してからこのかた、社会経験がない。いつも家にこもって原稿を書いていたひょろひょろの身体では肉体労働は無理だし、コネで始めた仕事でクライアントと気心の知れた付き合いをしている昌孝には、営業や接客の仕事も不適だった。昌孝が望んでいる条件はただ、千絵と同等かそれ以上の収入を得ることと、この家で千絵と暮らしながら職場に通えることだけなのに、こちらが仕事を選ぶ以前に、応募資格に条件が当てはまらないのだ。
 「婚活」を経てどんどん綺麗になっていく千絵と比べると、昌孝の「就活」はあまりにも茨の道だった。

 ある日、千絵が珍しく早めに帰宅した。
「今日はなんの予定もなかったの?」
「ちょっと具合が悪くて」
 千絵はそう答えたものの、昌孝には目もくれない。どことなく虚ろな表情で、着ていた服を部屋着に着替える動作にも力が入っていない様子だ。体調が悪いというよりも、何か心理的な問題があるように見える。誰からの誘いもないせいで、退屈のあまり脱力してしまったのだろうか。
 昌孝のほうも、心理的に絶不調だった。その日の午後、十九社目の不採用通知を受け取ったばかりなのだ。
 二十の不採用通知というひとつの大台までリーチがかかり、先の見えない就活。それに加えて、最近はライターのほうの仕事もなかなか捗らない。焦りは昌孝の中ですっかり発酵し、自棄という感情に変わっていた。
 そして、こういう行き場のない気持ちを発散には、千絵を抱くのが一番だと考えた。
 愛おしさよりもそういった劣情でもって恋人を抱くなんて、人からは最低と言われる類のことかもしれない。けれど昌孝は、千絵だってときにはストレス発散のために昌孝を欲しがることを知っていた。
 そういったことさえも許しあえることは、二人がとてもイーブンである証のひとつではないだろうか。まして、退屈の極みにいるはずであろう今日の千絵なら、きっとその虚しさをセックスにぶつけてくれるはずだ。
 二人で熱い夜を過ごせば、明日はきっとうまく行くだろう。
 昌孝はそんなばかばかしいことを半ば本気で考え、まだのろのろと着替えている千絵を、背後から抱きしめた。
「したい」
 耳許で囁けば、いつものように千絵は首筋で軽く喘いで、昌孝を受け入れてくれる。
 はずだった。
 ところが今日の千絵はいつもと違っていた。
「いや」
 はっきりとそう言い、さっきまではまるで指先にも力が入らないという様子だったのに、全身をかっちりと強張らせ始めた。頬にキスしようとしても、首をぐいっと曲げてしまうので届かない。乳房に触れようとしても、両腕を使って自らの身体をガードしている。
 いつもだったら喜んで向こうからキスしてくるはずの千絵が。「まったく、しょうがないんだから」などと言いながらも昌孝の大きくなったペニスを握りしめてくれるはずの千絵が。今日は頑なに身体を閉じている。
「どうしたんだよ」
 昌孝が訊くと、千絵はピシャリと言った。
「とにかく、だめなの」
 その声に甘い含みは一切なかった。「いやよいやよも好きのうち」などという言葉は、今の千絵にはまったく当てはまりそうにない。完全に本気で嫌がっている。千絵がこんなに本気で昌孝に抱かれることを拒絶したのは、冗談抜きでこれが初めてだった。
 異常事態だ。
 これはもしや、いよいよ他の男に本気になってしまったのではないだろうか。もちろん、交際の先に結婚を考えることができる、社会的にも立派な男に。
 これは、決まらない就職のことなんかよりよほど大問題だ。
「婚活......うまくいってるのか」
 たまらず昌孝が言うと、千絵はどこか呆れたように、寂しそうな目で昌孝を一瞥しただけで、質問には答えなかった。頷いたようにも見えたが、動きが曖昧でどちらともとれない。ただその表情の奥に、いずれ昌孝に報告しなければいけない大事な話を、確かに隠し持っているように見えた。
 なんてこった。
 本当に千絵を手放さなければならない日のことなど、具体的に想像なんてしていなかったことに昌孝は気がついた。
 なんだかんだ言ったって、ずっと一緒にいるものだと思っていたのに。
 頓着はしなくても、愛着はあったのに。
 劣情ではなく、今度は本物の愛情でもって、千絵をしっかりと抱きしめたい衝動が湧きあがってくる。けれど、千絵は今や昌孝から目を逸らして、ただとにかく気まずそうな顔をするばかりだ。身体どころか、心まで閉じてしまっている。
 もはや崖っぷちだ。
 千絵が結婚すべき相手を決めてしまえば、全ては終わり。そうなったら、昌孝は愛する人を失ってしまうだけでは済まない。千絵が昌孝との同棲を解消することになれば、住む家もなくなるということだ。昌孝は独り立ちしなければいけない。家賃や公共料金を折半して成り立っている生活を、今の収入のまま一人で続けるのは容易ではないのに。
 もう、なりふり構ってはいられない。いずれにしても、昌孝は就活を成功させなければいけないのだ。これはもう、生死にかかわる問題と言っても過言ではない。
 タイムリミットは、近い。

【厳正なる選考の結果、貴殿を採用いたすことを内定しましたのでご連絡いたします】
 そう書かれた封書が家に舞い込んできたのは、それから一週間後のことだった。就活を始めてから数えると、実に三ヶ月も経っていた。
 何の変哲もない白いA4のコピー用紙に印刷されたその文書にさっと目を通した後、昌孝はハアと大きな大きなため息を吐いて、薄汚れたオレンジのソファに座り込んだ。へたりこんだ、と言うべきか。
 二十二度目の正直。
 喜びよりも疲労感が大きかった。
 一年の終わりが、もうすぐそこまで迫ってきている。目の前の仕事に追われながら就活を進めるだけで、秋という季節がまるまる消費されてしまったような気がした。
 多くの会社に振られ続けた昌孝を採用してくれたのは、無名の小さな出版社だった。地味ではあるが業界ではそこそこ定評のある美術書の編集を行っているらしい。自宅から通いやすい場所にあったし、面接をした担当とは気が合いそうだった。仕事内容も、思いのほか昌孝には合っているようだ。
 ただし、残念ながら条件面ではかなり妥協した。
 大学を卒業してから八年以上もひとつの会社で働き続けている千絵の収入を、初年度から超えようと思うのは、どうやら昌孝には高望みすぎたらしい。
 しかし、もはやそんなことを気にしている暇はなかった。
 これでようやく、昌孝は定収入のある立派な会社員になれる。千絵にプロポーズする権利を得たと言ってもいいだろう。千絵の婚活状況ははっきりとは分からないが、プロポーズは一日でも早いほうがいい。昌孝はすぐに千絵へメールを送った。
【今日、空いてたら外食でもしないか? 話がある】
 考えてみると、昌孝から千絵にメールを送るのは随分久しぶりな気がした。返信は、待ち構える暇もないくらいすぐに来た。
【わかりました、今日は何の予定もないので七時には帰ります。実は、私からも話があるの】
 昌孝はそれを読んで一瞬喜び、しかし次の瞬間には落ち込んでいた。
 私からも話がある、だって?
 長年一緒に暮らしてきた二人にとって、こんなふうにわざわざあらたまって「話がある」なんて言うようなシチュエーションは、滅多にない。
 昌孝が就活を成功させたことを千絵に報告したいように、千絵が昌孝に報告したいのは......。
 いや、今さらそんなことを考えても仕方がない。昌孝の心は、決まっているのだ。
【じゃあ、七時にいつもの店で】
 昌孝はそう返信すると、すぐに近所のブラッスリーへ電話をかける。
 そこはとても居心地がよく、昌孝がほとんど部屋着のままふらりとビールを飲みに行ってしまうような店だ。あまりに気さくなので、千絵だって化粧もしないで休日のブランチを食べに行ったりする。つまり二人にとって日常的に気に入っている「いつもの店」であり、昌孝たちが外食するといえばたいていはここでの食事だった。
 いつ行っても特に混んではいない店なのだが、一世一代の勝負日なので、念には念を入れて一応、席を予約しておいた。
 プロポーズするなら、やはり婚約指輪も用意するべきだろうか。昌孝はそこまで考えたが、断られる可能性だって高いことは充分に覚悟しているので、今はやめておくことにした。
 なんにせよ、特別な日だ。いつものように、部屋着のまま行くわけにはいかない。
 昌孝はすぐにシャワーを浴びて、しっかりと髭を剃り、就活でも着なかった一張羅のスーツに袖を通した。
 婚活を通してすっかり綺麗になった千絵をエスコートするには、このくらいの気合いがなければやってられなかった。

「どうしたの、そんなお洒落しちゃって」
 先にビールを一杯やっていた昌孝を見て、後からその店に到着した千絵は、目を丸くした。
「惚れ直した?」
「見直した」
「まあ、座れよ」
 千絵は上着を脱いで席につくと、店員に声をかける。
「私もビール......じゃなかった。オレンジジュースください」
「なんだよ、飲まないの?」
「うん、あの、だってほら。大事な話があるから」
 そう言って、千絵は申し訳なさそうに笑った。つまり、昌孝に対して申し訳ない話があるということか。
 敗北の予感が満載だ。
 昌孝の中で、プロポーズの決意がもろくも崩れてしまいそうになる。しかし、それでも男だ。伝えるべきことは、伝えなければならない。
 千絵のオレンジジュースがテーブルに運ばれるのを見届けた後、昌孝はいよいよ意を決して、口を開いた。
「あのさ、俺......」
「ちょっと、これ見てくれる? この前、パーティーで知り合った人なんだけど」
 まったく同じタイミングで、千絵も喋りだした。しかも、昌孝の言葉を聞くより先に、自分の言うべきことを言ってしまえという勢いで、決して退かない。
 あえなく昌孝は口をつぐみ、千絵がテーブルに置いた一枚の名刺に視線を落とす。
 男の名前が書かれていた。
 もしかして、こいつが結婚相手か。
 しかし、こんなことで怯むわけにはいかない。今日は絶対にプロポーズを決めるのだ。
「それより、俺......」
「あのね、この人に電話してみてほしいの。今、急ぎでフリーライターを探してるんだって。条件の良さそうな仕事だし、気に入ってもらえたら、そのうち署名原稿だって書かせてもらえるようになるらしいから」
「え?」
 予想外の話に、昌孝は思わずもう一度名刺を見直す。
 そこには、昌孝もよく知っている大手の出版社の名前と、副編集長という肩書きが堂々と明記されていた。
「でも、俺......」
「これからはマーくんも、今みたいなバイトに毛が生えたような仕事だけじゃなくて、本格的にライターの仕事に専念してほしいの。それで、もっともっと収入を増やして、私の両親にちゃんと挨拶して、それで、あの......私と結婚して」
 懇願するように、千絵は言う。そして、言葉を失う昌孝に追い討ちをかけるように、さらに重要な一言を付け加えた。
「私、赤ちゃんができたの......」
「えっ」
「もちろん、心当たりは他にないよ。間違いなく、マーくんの子」
 消え入りそうな声で。
 ほんのりと、頬を赤らめながら。
 そんな千絵のいつにない様子を見て、昌孝は麻痺しそうになった頭を無理に回転させて、ようやく全てを理解した。そうか、そういうことか。ならば、もう強気になって良かった。千絵からのプロポーズにはわざと応えないまま、昌孝は名刺を突き返す。
「こんなもの、必要ない」
 瞬間、千絵の表情は絶望的に曇る。そんな様子をサディスティックな気持ちで確認してから、昌孝はあらかじめ用意しておいた言葉をようやく口にした。
「俺、就職するんだよ。仕事が決まったんだ。小さい会社だし、最初は収入も多くないけど、それでもちゃんと正社員だよ」
「え......」
「だから、俺と結婚してくれ」
 その言葉を言い終えた瞬間、まるではかったようなタイミングで、テーブルに前菜が運ばれてきた。
 馴染みの店員が、「お待たせいたしました」の代わりに「おめでとうございます」と言うので、二人はなんとなく苦笑いしてしまった。

「『婚活』なんて本当、興味本位だったの。なのにマーくんが全然反対してくれないから、頭に来て意地になっちゃった。ちょっとくらい妬いてほしかったのかもしれない。でもね、実際にやってみたら結構楽しかったよ『婚活』も。毎日が異業種交流会って感じかなあ。で、出版社の人と知り合ったときに、マーくんの仕事につながればいいなって思うようになって。そこからはずっと、マーくんの仕事口を探してたみたいなもんだよ。結局、無駄になっちゃったけどね」
 と、千絵は言った。
「『就活』は本当、キツかったよ。世間の風がこんなに冷たいとは、本当に想像もしてなかった。でも、世の中の人はこんなに厳しい中をくぐり抜けて就職して、楽じゃない仕事をがんばってこなして、決して高くない給料をもらって、それで一家を支えたりしてるんだなって思ったら、俺も頑張らなきゃなって思った。『就活』なんて言っても結局はさ、千絵と結婚するきっかけが欲しかっただけなのかもしれない。まさか、千絵のほうからプロポーズしてくるとは思わなかったし」
 と、昌孝は言った。
 二人は、この数ヶ月の自分たちを総括して、笑うしかなかった。
「なんだか、現代版『賢者の贈り物』みたいだよなあ」
「賢者どころか愚者でしょ。婚活も就活も、本当は私たちには必要なかったんだから」
「そうでもないよ。千絵が外を出歩くようになって、どんどん身ぎれいになっていったから、俺も思わず、子供ができるようなことをしたいと思っちゃったわけだし」
「すぐそういうこと言うんだから」
 呆れたように、でも嬉しそうに、どこか照れたように、千絵は笑う。
 胎内に命を宿した女特有の充実した笑顔だな、などと思いながら千絵を見ていたら、昌孝の頭の中にふとくだらない洒落が思いついてしまった。
「そうか。二人の結婚に必要だったのは、『婚活』でも『就活』でもなく、実は『生活』だったってことだな」
 もっともらしく頷きながら言うと、千絵は首を傾げて聞きなおす。
「生活?」
「うん、つまり生殖活動の略だ」
 テーブルの下で、千絵が昌孝の足を蹴った。「バカ」と言いながらもその表情はなかなか幸せそうだ。
 昌孝は卵を抱え込むような大切さを胸の奥に実感しながら、二人の生活はきっとこんなふうに、ずっと続いていくのだろうなどと考えている。

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