top中~長篇


自画像

 肢体。
 そんな言葉が、佐緒里の頭をよぎる。電機メーカーでコンピュータと向き合いながら事務職をやっている日常では、滅多に使う機会のない言葉だ。
 目の前の肢体は、とても白い。だからといって、陶器のような美しい肌というほどでもないのが、かえって艶めかしい。全体的に細い割にはウエストから腰にかけてのラインに少々のたるみが見られるし、太ももの裏には女子の大敵であるセルライトまで見てとれる。それに、乳房なんて垂れ気味でいまいち迫力がないし、乳首を見ればくすんだ色をして弛緩しきっているし、下の毛にいたっては、多少は手入れされているようではあるけれど、世の男性に現実を突きつける厳しさで太く黒々とうねった固まりを作っている。
 こんなにアラばかりを探して、偉そうなことを言えるほど佐緒里の身体が立派なのかというと、そんなわけはない。けれど、女が女の裸体を観察する目は、どうしてもチェックが厳しくなってしまうものだ。
 自分がそんな「女の目」を持っていることを、ついこの間までの佐緒里は知らなかった。なにしろ、女性の裸体をこんなにじっくりと観察することなんて、これまでの生活ではありえないことだったのだから。

 ピピ、ピピピ、ピピピ......。
 突如、タイマーが冷たいデジタル音を響かせた。その音を、センセイが止める。「やめ」とも「休憩」とも声はかからないが、それを合図にひとときの自由が得られるのを、室内の人間は全員知っている。
 十分間の休憩。
 モデルは夢から醒めたようにポーズから解放され、そそくさとガウンを羽織る。鉛筆やコンテを動かす音しか聞こえなかったアトリエのあちこちでは、小さな会話が繰り広げられる。中には、さっきまで描いていた絵にいくつかの線を足す者もいるし、自分が描き上げたばかりの作品を近くから遠くからいろんな角度から眺め回して、首をかしげたりする者もいる。
 会話をするほどの顔見知りもいなければ、自分の絵にさほどのこだわりもない佐緒里は、いつものとおりバッグからシガレットケースを出して、一人で喫煙所へ向かった。
「あ、お疲れさまです」
 喫煙所には、先客がいた。先ほどストップウォッチを止めたばかりのセンセイである。センセイは癖なのかパーマなのかわからない肩につくくらいの長髪をかき上げると、どこか儀礼的な感じで佐緒里に声をかけてきた。
「どう、だいぶ慣れた?」
 とげとげしさを感じさせない、優しくて丸い声。けれど佐緒里はこの声を聞くたび、いつもなんとなく身構えてしまう。普段接している、電機メーカーの男性社員のような人種にはまったくないタイプの喋りかただからかもしれない。どう接していいかわからないけれど、相手はセンセイなのだし、会話を拒絶するわけにもいかなかった。心の中で一歩引いて、遠慮がちに答える。
「まだまだです。短時間で形を捉えるのは、なんとかできるようになってきたと思うんですけど、あの、筆致っていうんですか。ちゃんと美術をやってる人と比べて、私の鉛筆の線って弱い気がするんです。だから、いかにも自信のなさそうな絵になってしまうっていうか」
「そう? いいじゃない、女性らしい柔らかいラインってのも」
「そうですか」
「うん」
 会話はたったそれだけで行き詰まり、途切れてしまった。後は空気清浄機をはさんで向かい合ったまま、二人とも黙って煙の続きを飲み込んでいくだけ。
 センセイだなんて名ばかりだ、と佐緒里は思う。
 実際、名ばかりだとしても問題はなかった。彼はべつに講師としてここへ来ているわけではないのだから。センセイというのは皆が勝手に呼んでいる愛称のようなもので、それは前に一度まるで白衣のようなスプリングコートを着てきたことがあったからだと佐緒里は最近知った。もちろん彼は芸大を出ているし、美術教師の資格も持っているらしいが、ここではそんなことは関係ない。この〈クロッキー倶楽部 アトリエ・むらさき〉は、絵を教えてくれる教室ではなく趣味の人が集まるサークルであり、彼は単にその代表者である――ということは、初回の説明のときに聞いていた。
 アトリエに人が集まる。タイマーの音とともにモデルがポーズをとる。次のタイマーの音でポーズが終了し、ここで休憩が入る。またタイマーが鳴って、ポーズが始まる......そうやって二十分のポーズが一回と、十分のポーズが二回、五分のポーズが四回。何回かの休憩をはさんで、ただひたすら描く。それが、〈アトリエ・むらさき〉における活動のすべてだった。自分たちの作品を見せ合ったり、講評しあったりなどということは、一切ない。
 活動は月に一度。佐緒里は今日で六回目の出席になるが、この放任主義のためか、半年も続けているのに絵のほうはさっぱり上達していなかった。もっとも佐緒里のほうだって、懇切丁寧に教えてもらうことは望んでいない。むしろ、ただ描くだけというシンプルな活動内容だからこそ、デザインやイラストを生業にしているような人たちに紛れて、佐緒里のような素人でも気軽に参加できるのだと思っている。
 黙ったまま、センセイは何度か煙を大きく吸い込んでいた。咥えた煙草の先から、一点物といった感じの仕立てのよいダークブラウンのジャケットに灰が飛んでいくのが見えた。けれどセンセイは、そんな細かいことを気にする様子は一向にない。色白で華奢でいかにも神経質そうな風貌をしていながら意外と大雑把な様子は、いかにも芸術肌といった感じだ。
 やがて、まだ半分くらい残っている煙草を、ちっとも名残惜しくなさそうに灰皿に何度もしつこく押し付けて、一筋の煙も出なくなったのを確認すると、センセイは佐緒里に軽く会釈をして一足先にアトリエへ戻っていった。
 佐緒里は名残惜しんで、もう一本吸っていくことにした。
 普段から真面目人間で通っている佐緒里は、煙草を吸っていることをやたら驚かれたり、似合わないなどと周囲に言われたりする。佐緒里だって、べつに煙草が好きで吸っているわけではなかった。ただただ、煙草を吸う癖がいつのまにかついてしまったほど、佐緒里にとっては毎日が手持ち無沙汰なのだった。

 アトリエに戻ると、すぐに休憩時間の終了を告げるタイマーが鳴った。モデルはためらうことなく羽織っていたガウンを脱ぎ、今度は椅子を持ってきて、そこに脚を組んで座る。
 〈アトリエ・むらさき〉のメンバーたちは、彼女を取り囲むようにそれぞれ好きな角度から好きな構図を取り、紙の上に思い思いに描く。
 佐緒里はいつもどおり、モデルの後ろに回った。
 背後から描くのが一番安心できる、と佐緒里はつねづね思っている。長い髪が重力にしたがって緩やかに流れていく感じとか、肩から腕にかけてのほどよく健康的なライン、肩甲骨の盛り上がりや、肌に浮き上がってあらわになる背骨のかたち、腰や腿のあたりについた脂肪など、細部を無遠慮に眺めるには、モデル自身の目に入らない角度から観察するほうが都合もいいのだ。
 もちろん、多くのメンバーはしっかりとモデルの目の前に回って、あるいは横から、座ったり立ったりと角度を工夫してその姿を描いているのだから、佐緒里には真っ向からモデルと向き合う勇気が足りないだけとも言えるかもしれない。
 ただ、背後からモデルを含めたアトリエ全体を見渡すというのも、割と面白いと佐緒里は思う。
 裸の女性ひとりを十数名の男女が囲んで、黙々とその身体を観察する――冷静に考えると、これは尋常でない光景だ。きっと美術の世界ではよくある状況なのだろうけれど、佐緒里は美術に関してはまったくの未経験者どころか、絵を趣味だと思ったことすらないのだから、そこらへんは理解できない。
(なんで私、こんなところで絵なんか描いてるんだろう)
 描きながらそんな風に思うことはたびたびあったが、なんでもなにも理由は単純で、いわゆる成り行きというものだった。

 だいたい、佐緒里の人生はほとんど成り行きでできている。
 たとえばこの不況のご時勢に誰もが名を知る大手メーカーに勤めていることをよく人から羨ましがられるが、それだってべつに、行きたかった会社でもやりたかった仕事でもなんでもない。大学の就職課で勧められるままに就職活動をした結果だった。
 佐緒里について確かなことがあるとすれば、どんなことにでも真面目に取り組む性格だということだった。だから佐緒里は、高校でも大学でも優秀な成績を収めたし、就職戦線を勝ち抜くこともできたのだろう。そしてこの真面目さゆえ、さして興味もなかった〈アトリエ・むらさき〉にだって、こうしてちゃんと月一回こつこつと通ってしまう。佐緒里を誘った張本人は、ここ三回ほどサボっているというのに。
(まったく、今頃どこで何をしているやら)
 佐緒里はモデルの髪の毛を黒く塗りつぶしながら、佐緒里をここに誘った美帆のことをぼんやりと考える。
 美帆とは高校時代からの付き合いだ。例によって成り行きでクラス委員になってしまった佐緒里と、自ら志願して文化祭実行委員となった美帆は、性格は真逆ながら関わりが深く、いつの間にか仲よくなった。仲がよいといっても、快活な美帆のペースに佐緒里がひきずられるのがいつものパターンだったのだが。
 高校卒業後、美帆は美術大学へ進学して、今は小さなデザイン事務所でデザイナーをやっている。その仕事の人脈かなにかで〈アトリエ・むらさき〉のことを知り、佐緒里を誘ってきたようだ。
「気軽に参加できるから、一緒に行ってみない? どうせ二十五にもなって、休日にデートする相手もいないんでしょう?」
 デートするような相手がいないのは事実だが、それは余計なお世話というものだ。
 いずれにしても絵なんて昔から苦手だし興味もないと佐緒里は断った。だのに、美帆が強引に申し込んでしまったので、仕方なく一回は行く羽目になってしまった。
 一回行ってみても、佐緒里は非日常に驚いただけで、絵に興味を持つことはなかった。けれど、このためにせっかく買ったクロッキー帳と3Bの鉛筆がそのまま用なしになるのは勿体ないような気がしたので、とりあえず二回目も参加した。そして、そんな感じで三回目以降も惰性で続けてしまい、今に至る。
 ちなみに、美帆は先月も先々月も仕事が忙しいといって、当日になって欠席の連絡を入れてきた。今日はもはや連絡すらしてこない。彼女の仕事柄、納期が近づくと朝も夜も土曜も日曜もないのは知っている。けれど、佐緒里としては文句のひとつも言ってやりたいところだ。
(言わないけれどね)
 佐緒里はこれまで何度美帆に振り回されても、それに対する不平は言ったことがなかった。勝手気ままな美帆のおかげで、佐緒里の成り行き人生に新しい世界がもたらされてきたのも、また事実であることを知っているから。
 たとえば高校時代、佐緒里の憧れだった先輩に、美帆が勝手に声をかけたことがある。遠くから見つめるだけで満足だった佐緒里は憤慨したが、それがきっかけで挨拶くらいはできる仲になった。それ以上の進展は特になかったけれど。
 また大学時代には、美帆に半分騙されたような状況で無理やり合コンに連れていかれたことがある。大変迷惑だったが、そこで生まれて初めて恋人ができた。あまり気が合わず、半年で別れてしまったけれど。
 クロッキー帳の上にモデルの姿を再現していくという作業だって、文句を言わずにやってみれば、下手でも下手なりに楽しいものだった。モデルには毎回違う人が派遣されて来るので、いろいろな人の身体をじっくりと見ることができるのが新鮮だ。人によって骨格や肉付き、そして肌の質感などがこんなにも違うことを、佐緒里はここへ来て初めて知った。
 それに、同じ瞬間に同じモデルを描いているのに、描く人の数と同じだけの違う絵が出来上がるのも、当たり前のことなのだが素人目には面白いことだった。贔屓目に見ても佐緒里の絵は上手いとはとても言えないが、これだけいろいろな絵があるのだ。佐緒里の下手な絵だって、もしかしたら個性という言葉で言いくるめてしまっても構わないのではないかという気分になってくる。
 こうなると、彼氏もいない、何の趣味もない、休日をただ持て余すだけだったところに文化的な時間を与えてくれた美帆に、佐緒里は感謝しなければいけないくらいかもしれない。

 休憩の後、二回の十分ポーズと四回の五分ポーズを予定どおりこなして、タイマー音が今日の活動終了を告げた。
「本日はこれで終了です。来月も第二日曜の午後一時から、こちらのBアトリエで開催します。それと、今から会費を徴収します。千五百円です。なるべくお釣りのないようご協力お願いします」
 センセイはきわめて事務的に、けれど、やけにぎこちなく皆に告知した。
 普段はぼそぼそと話す人なので、三十畳もありそうなアトリエで皆に行き渡るよう声を出すのは、性に合わないのかもしれない。そう思ったら、佐緒里は自然と笑ってしまった。センセイがいつからこの〈アトリエ・むらさき〉の代表者をやっているのかは知らないが、いくら性に合わなくても、そろそろ慣れてもいい頃だろうに。
 人のことを心の中で笑っておきながら、けれど、佐緒里は自分の財布の中身を見てがっかりしてしまった。細かいお金がさっぱり入っていなかったのだ。毎回、さっきのように「なるべくお釣りのないよう」と言われているのに、自分こそ注意が足りない。
 仕方がないので、佐緒里は順に支払いを済ませていくメンバーたちの列の最後尾に並ぶことにした。前の人たちがお釣りのないよう支払ってくれれば、自分に返ってくるお釣りくらいにはなるだろうと思ったのだ。
 佐緒里の支払う順番はなかなか回ってこなかった。その間に、モデルの女はもうすっかり着替えて、今はセンセイの後ろににこにこと控えている。
 彼女がそこにいるのは、今日の日当を待っているからに違いなかった。
 メンバーたちの支払った会費から、センセイはいつもその場でモデルへの謝礼を支払う。残りはアトリエの使用料になるが、そちらはたいてい足が出てセンセイが自腹を切っているという噂だった。ともかく、徴収された会費のほとんどがそのままモデルの懐に消えるということは、今までに何回か見てきたので、佐緒里も知っていた。
 モデルは今や、さっきまでそこで裸になっていたとは思えない、ごく普通の女性らしい服装をしている。誰とも目を合わせずにポーズをとり続けた孤高の表情も、今はフレンドリーな態度に変わった。その落差に、佐緒里はかえって気恥ずかしい気分になる。
 ヌードモデルは、最初から最後までヌードモデルであってほしい。そうでないと、いろいろと感情のバランスが崩れてしまうのだ。

 ようやく佐緒里の支払う番がやってきた。
「細かいのがなくて、ごめんなさい」
 そう言いながら一万円札を差し出すと、センセイは柔らかい笑顔で受け取る。
「今日はみんな細かかったから、かえってちょうどいいよ」
 戻ってきたお釣りは、千円札が七枚と五百円玉が二枚、それに百円玉が五枚だった。いったい何がちょうどいいのかと佐緒里は鼻白んだが、その理由はすぐにわかった。センセイがその直後、佐緒里が出した一万円札に千円札を三枚つけくわえて、モデルの女性に渡したからだ。
(ああ、向こうに渡すのに、まとまってちょうどよかったわけね)
 自分よりもモデルを優先されたようで多少ムッとしたものの、センセイにとってサークルのメンバーは身内であり、モデルはサークルが呼んだお客様なのだから、このくらいの差別は仕方ない。
 〈アトリエ・むらさき〉のメンバーたちは、自分の支払いと片づけが済むとすぐに帰ってしまう。アトリエには、すでに佐緒里とセンセイとモデルの三人しか残っていなかった。支払いを済ませて釣りを受け取った以上、佐緒里もそこに居続ける理由はもうない。
「お疲れ様でした」
 センセイにともモデルにともつかない中途半端な言い方で声をかけ、佐緒里がアトリエを退出しようとすると、モデルが突然、口を開いた。
「ねえ山崎さん、もしこの後時間があったら、食事でもいかがですか?」
 どこか媚を含んだような、ハスキーな声。自分に向かって言ったのかと、思わず佐緒里は立ち止まってしまった。けれど、佐緒里の苗字は山崎ではない。となると、きっとセンセイに対する言葉なのだろう。それにしたって、「山崎さん」なんていうとセンセイのイメージと全然違う。
「ごめん。今日はこれからちょっと、野暮用があるから」
 センセイはどこか佐緒里の目を気にするようにチラッとこちらを見ながら、けれどはっきりと断った。あまり見ていては悪いと思い、佐緒里は「お先に失礼します」とアトリエの扉を開けた。センセイは小さな会釈で応えてくれたが、モデルはまったく意に介さない様子で続ける。
「そんなあ。久しぶりに会えたことだし、せめてお茶ぐらい行きましょうよ」
 続きが気になるものの、佐緒里は外に出てアトリエの扉を閉めた。

 駅までの道をゆっくりと歩きながら、佐緒里はなんとなく悶々とした。
 あのモデル、センセイに対してちょっと馴れ馴れしすぎる。『久しぶり』とも言っていたし、ひょっとしたら昔からの知り合いなのだろうか。センセイのほうも、サークルのメンバーたちと話すときより口調がフランクだった気がする。どういう関係なのだろう、親しいのだろうか。サークルのメンバーがいる手前、誘いを受けられなかっただけで、センセイのほうだって本当は食事くらい行きたかったのかもしれない。
(まあ、どういう関係だとしても、私には関係ないけれど)
 佐緒里が自分に言い聞かせるように頭の中でそんな言葉を紡いだ、その瞬間だった。
「お疲れ様でえす」
 足早に佐緒里を追い越した人影が、そう言った。見ると、さっきのモデルだ。一人で歩いているところを見ると、お誘いはやはり断られたようだ。
「今日はありがとうございました」
 佐緒里が軽く頭を下げると、モデルは「いえいえ」などと言いながら、なぜか歩く速度を緩め、佐緒里と並んで歩き始めた。きっと彼女は、誰に対してもこんなふうにすぐ親しみを表す人なのだろう。
 けれど佐緒里のほうは、素性のわからない人と肩を並べて歩くのは、はっきり言って得意ではない。世間話をするにも、どんな話題がいいのかわからないのだ。
 モデルのほうは、沈黙などさっぱり気にしない様子で、隣を歩きながらも、何も話しかけてはこなかった。相手が気にしないなら気にしなければいいのだが、その沈黙は佐緒里にとって、やはり重い。
 自分から口火を切るしかない、と佐緒里は思った。せっかくの機会なので、気になったことははっきりと聞いてしまえばいいのだ。
「あの。さっき『久しぶり』なんておっしゃってましたけど、センセイとはお知り合いだったんですか?」
 これ以上ないくらいストレートな質問だ。こんなことをズバリと聞けた自分に、佐緒里は驚いた。
「センセイって、山崎さんのこと? あはは、あの人も偉くなったもんね。そうなの、実はあの人、大学の先輩だったのよ。こんなサークルを主宰してるなんて知らなかったから、今日ここへ来て知って、びっくりしちゃった。まあ、この仕事をしてると、時々こういうことはあるんだけどね」
 モデルはあっけらかんと答えた。
 そういえば、絵や写真のモデルをやっている人には美術大学出身や劇団所属の人などが多いと美帆から聞いたことがある。そうなると、確かに学生時代やアート活動をする中ですでに知り合いだった人のところへ、偶然モデルの仕事をしにいくということもあり得るのだろう。
「すごいですね。知っている人からあんなふうに身体を見られても、動揺しないでポーズが作れるなんて。さすがはプロですね」
 佐緒里は素直に感嘆してそう言ったが、モデルはケラケラと笑い飛ばす。
「そんなことないわよ。大学時代なんて、描くのもモデルやるのもお互い様って感じだったもの。今はその延長で、お小遣い稼ぎをしてるだけ」
「いえ、本当にすごいと思いますよ。だって、ヌードモデルって体力も必要だし、なにより身体に自信がなかったらできないことでしょう」
「そんなことないってば! よく、そういうふうにすごいすごいって言われるけどさあ、見下されてることぐらいわかってるのよ。あなただってどうせ、そうでしょ? 体力が必要なんて言って、それって結局、肉体労働だと思ってるってことじゃない。いわゆるブルーカラーよ、ブルーカラー。『アタシ工事現場の仕事なんかできなあい』って言ってるのと同じノリよ。結局、モデルなんて仕事は誰もやりたがらないってこと」
「そんなこと......」
 心外だ、と佐緒里は思った。
 彼女は自信があるに決まっているのだ。自信がない人は、そんなに強引で決め付けるような喋り方なんてしない。逆に、佐緒里がもし本当に彼女を見下すほど自分に自信を持っていたら、きっと今頃デートする相手の一人や二人ぐらいいて、〈アトリエ・むらさき〉になんて通う暇もなかったはずだ。

「それにしてもさ、」
 話題は突然変わった。腹の中で佐緒里がぐずぐずと考えている間に、モデルのほうはもう次の話題を探していたようだ。
「あなた、今日アトリエにいたっけ? 会費を払うときにいたのは知ってるけど、描いてる姿が記憶にないのよね」
「ああ。ええと、初めからいましたよ。でも、ずっとモデルさんの背後に回って描いていたので、きっと見えなかったんですね」
「ふうん。どうして後ろ姿を描くの? 人の背中に哲学を感じるとか?」
 質問ばかりだ。初対面だというのに、なんて無遠慮に人の心に踏み込んでくるのだろう。佐緒里はうんざりしたが、嫌悪感を持っても顔に出さないのは、日々のOL業務で慣れている。
「いいえ、そんな大それたものではないんです。まだ慣れないので、きっと照れがあるんでしょうね......その、つまり、真正面から人の裸に向き合うっていうことが」
 遠慮がちながらはっきりと答えると、モデルは興味を惹かれたように、ふいっと佐緒里の顔を覗き込む。
「照れるの? 女性同士なのに」
「照れるというと、ちょっと違うかもしれません。ただ、後ろから見ていると、モデルさんだけじゃなく、モデルさんを描いてる人たちの顔もよく見えて......なんていうか、いい大人たちが真剣な顔をして裸の女の人を取り囲んでいる状況が、すごく非日常的で不思議というか。あっ、でもこれってすごく失礼ですよね。モデルさんだって描く人だって、みんな真剣にやっているのに」
 へらへらと笑いながらそんなことを言った佐緒里を、モデルは今までで一番つまらなそうな表情で一瞥した。そして少し不機嫌そうに言う。
「それってさあ、あたしが視姦されてるのを見て、喜んでるってことじゃない?」
「え?」
「だって、描いてるときって、普通はもっと集中するものよ。限られた時間の中でポーズを捉えて、作品を完成させなきゃいけないんだもん。ほかの人がどんな顔してモデルを見てるかなんて、そんなことにまで気が回らないものでしょう」
「そりゃあ確かに私は素人だし、みなさんのようには集中できてないかもしれません。でも、べつに......」
「つまり、欲情してるのよ、あんたは」
 モデルは佐緒里の言葉を遮って、きっぱりと言い放った。嬉しそうに。
「あたしの身体を隅々まで真剣に見つめてる男たちの姿を見て、あれが自分だったらって想像して、楽しんでるのよ。みんなに見られてるあたしの身体を見て、ヤラシイ想像してるんでしょ。濡れちゃってるんでしょ?」

「馬鹿にしないでください」
 そう叫んでモデルと別れて駅まで走り、その勢いのまま帰りの電車に飛び乗ったものの、佐緒里の気持ちは電車を降りてからもなかなか収まらなかった。今もまだ、ぷりぷりと早足で自宅までの道を歩いている。
 なんて失礼な人だろう。
 本当になんてひどい、意地の悪い、最悪の女。
 モデルがなによ。
 美大出がなによ。
 一歩一歩と足を進めていく間にも、佐緒里の中で怒りのゲージが上がっていく。
 ああ、もう。二度と会いたくない。
 もちろん、会う機会なんて二度とないだろうけれど。
 でも、だからこそ悔しい。
 むかつくむかつくむかつく。
 怒りはあの失礼なモデルに対してだけでなく、何も言い返せなかった自分に対してまで広がってきて、それは誰のせいでもないのに、佐緒里は悔しかった。感情のかたまりが胸の奥でふつふつと沸いていて、どこかにぶつけたくてしょうがなかった。
 ああ、誰か!
 そう思ったまさにその瞬間、佐緒里の肩にかかったトートバッグの中で、マナーモードにしていた携帯電話がビーと震えた。
「もしもし!」
 感情に任せるまま、佐緒里は勢いよく電話に出た。いつになく激しい声に驚いたのか、電話の向こうの人はためらったように声を出した。
「あ、あの......えーと。美帆ですけど。ちょっと佐緒里、声が怖いよ。どうしたの?」
 棚ボタのようなタイミングだった。今の怒りとは直接関係ないとはいえ、美帆にだって、今度会ったら嫌味のひとつでも言ってやりたいと思っていたのだ。佐緒里は好都合とばかりにまくしたてようとした。
「どうもこうもないわよ。人のことを誘っておいて、自分はサボってばっかりなんて、ひどいじゃない。おかげで今日......」
 そこまで言いかけて、けれど佐緒里は自分から口をつぐんでしまった。いくら相手が気心の知れた美帆だとしても、モデルの女から言われた恥ずかしい台詞のことは、ちょっと報告しにくい。
「今日、何かあったの?」
 心配そうに訊いてきた美帆に、佐緒里は無理やり溜飲を下げて、落ち着いた声で答えた。
「ううん、何でもない。それよりも、来月はきっと来てよね」
「ごめん、ごめん。でも、その調子だとクロッキーは今後も続けるつもりでいるみたいね。気に入ってくれたのなら、やっぱり連れて行ってよかったな。やっぱり、センセイのこと、好きになっちゃったりしたの?」
「は? やっぱりって何よ。どうして私が先生を?」
 あまりに唐突だ。佐緒里はそこが道端であることも忘れて、つい大声を出してしまった。今日は、いろんな人から予想外なことを言われる日だ。
「だって佐緒里って、昔からああいうタイプが好みだったじゃない。高校のときカッコイイって騒いでた軽音部の先輩とか、好きだったナントカってアイドルとかさ。あんな感じの、線が細くて中性的で、きれいな顔立ちのこじゃれた男、好きでしょ? 私には、ああいうナヨナヨとした男のよさは理解できないけどね」
 勢いよく歩いていたはずの佐緒里の足は、いつの間にか止まっていた。
 好き?
 私が、センセイを?
 電話口で黙ったまま、考え込んでしまう。そんな佐緒里の沈黙を肯定のしるしと捉えたのか、美帆の声はさらにはしゃいだように弾んだ。
「センセイのほうも、ゲージュツやってる女は自己主張が強すぎて苦手だ、普通にOLやってるような娘が好みだなんて言ってたから、案外お似合いよ。もしかしたら、私のいない間に仲よくなっちゃうかもって、ちょっと期待してたんだけどな。まだ距離は縮まらない感じなの?」
 距離が縮まるとか縮まらないとか、そんなレベルの話ではない。
 けれど。
 佐緒里は、高校時代に憧れていた先輩やアイドルの顔を思い出そうとしてみた。
 確かに好きだったのに、なぜかうまく思い浮かばなかった。
 脳裏に現れるのは、どういうわけかセンセイの顔だ。
 小粋に着崩した学生服の上に載ったセンセイの顔。
 白いキラキラしたステージ衣装の上に載ったセンセイの顔。
 その像に重なるように、あのモデルの声が、頭の中を通り過ぎていった。
「濡れちゃってるんでしょ?」

 美帆との電話を切ったあと、家路を急ぐ。
 ゆっくり歩いても駅から十分足らずの道のりは、たいした距離ではないはずなのに、今の佐緒里にはなぜか異様にもどかしかった。急ぎ足がやがて小走りになり、いつのまにか全力疾走へと変わっていく。怒りも焦燥感も恥ずかしさも、すべてを飲み込んで渦巻く感情が、佐緒里を前へ前へと駆り立てているみたいだった。
 自宅に着いて、インターフォンを押す。中からは、何の反応もなかった。一緒に暮らしている両親は不在のようだ。
 バッグから鍵を取り出し、鍵穴に挿す。挿そうとするけれど、どういうわけか手が震えてうまくいかなかった。それで生じたタイムラグが、よけいに強いざわめきを呼び覚ます。
 早く、して。
 何をしたいのか自分でもわからないのに、佐緒里ははっきりとそう思って、なんとかドアを開ける。そして、素早く家の中に入ると、すぐに後ろ手で内鍵をかけ、脇目も振らずに階段を駆け上った。
 二階にある自室。自分だけの完全な空間に戻ってきて、ようやく佐緒里は一息ついた。
 西陽がよく差し込む佐緒里の部屋は、ちょうど夕刻を迎えて、全体が紅潮したように染まっている。
 明かりは要らない。カーテンも閉めない。
 佐緒里は赤い光を浴びながら、スカートはそのままに、その下のストッキングだけを脱いだ。ストッキングの締め付け感が苦手な佐緒里は、いつも帰宅後はまっさきにストッキングを脱ぐ。だからいつもと順序は同じなのだけれど、今日に限って手の動きはいつになく荒々しく、雑なのに俊敏だ。そのせいで、ストッキングと一緒に下着まで身から剥がれてしまった。
 わざとだったのかもしれない。
 糸が引くような感覚があったけれど、佐緒里は気にせず、そのまま下着まで脱いだ。
 佐緒里の下半身は、スカートの中で急に自由を得る。いつもだったらしっかりと隠されているはずのその部分に、空気が触れて、妙にひんやりと沁みた。いちいち見たり触ったりして確認する必要なんてなかった。
「濡れちゃってるわよ、だから何?」
 あのモデルになのか、美帆になのか。誰に対して言いたいのかわからないまま、佐緒里は悪態をついてみる。もしかしたら、ただ自分に向かって教えてあげたかったのかもしれない。
 佐緒里はそのまま、部屋の隅に置かれていた姿見を自分の前に持ってきて、その場にへたり込んだ。フローリングの冷たさが、尻に直接伝わってくる。その勢いのまま、佐緒里は鏡に向かって脚を思いきり開いてみた。スカートがめくれ上がり、中から現れたその部分が、鏡にはっきりと映し出される。
「すごい」
 口を突いて、そんな言葉が出た。
 自分のものを見るのは、初めてというわけではない。中学生のとき、一度だけ好奇心で手鏡に映してみたことがある。
 けれど、あのときはほんの三秒も見るに耐えなかった。
 あのとき鏡の中に映っていたのは、当時の佐緒里にとって未知への好奇心を満たしてくれるような甘美なものでは全然なかった。自分の体の一部と認めるには、あまりに奇妙な形状の物体。はっきり言って、期待はずれの代物だった。生まれてから十数年もの間、股のあいだにこんなものを隠し持っていたのに気づかなかったなんて、信じられない。そう思ったことだけ、鮮やかに憶えている。
 あれは若気の至りだった、と佐緒里は思う。
 けれど、今は違う。
 初潮を迎えてから十年以上、佐緒里は毎月この部分の存在をいやでも思い知らされてきた。数多くはないけれど、幾つかの恋も経験して、この部分の使い方はまあまあ心得ている。今やこの部分はもう、きちんと佐緒里の体の一部として堂々とそこにあるものだった。
 すっかり市民権を得たそれは今、鏡の中で濡れた縮れ毛をまとわりつかせ、蜜を塗ったように照り、まるで呼吸でもしているかのように動いている。
 佐緒里は悔しく思った。
 自分のことをよく知りもしないモデルにも、あんなに楽天家な美帆にも、すっかり見透かされていたなんて。
「これだったんだ」
 思わず呟く。
 自分が描きたかったもの。
 誰かに見て欲しくてたまらなかったもの。
 それが今、鏡の中にある。

 佐緒里はさきほど部屋に戻るなり乱暴に投げ出したトートバッグから、クロッキー帳と3Bの鉛筆をとり出す。そうして開いたクロッキー帳の新しいページに、佐緒里は自分のその部分を大きくクローズアップして描き始めた。
 こんなにじっくり見るのは、中学時代の手鏡以来だ。
 けれど、あの時とはまるで違う。存在を強く主張する色。かたち。
 いつの間にか大人になっていた自分自身を、佐緒里は夢中になって描く。
 まるで別の脳を持つ二人の人間がそこにはいた。
 一人はアーティストだ。センセイがいつもモデルを見るように、感情のない突き刺すような目で、この部分を見つめる佐緒里。
 どうでもいいような毛の一本や二本だとか、襞と襞のあいだを満たす透明な液体の一滴さえ、見逃したくないと思う。たぶん生まれて初めて、こんなにも真剣に、何かひとつのものをじっくりと観察している。鉛筆が生み出す線のひとつひとつが、熱く力強く息づいていくことに、気持ちよさを感じている、そんな自分。
 もう一人は、単なる雌だ。こんなふうに見られることに喜びを感じている佐緒里。
 もし今これを描いているのが、センセイだったらと想像している。あの冷静な目で真剣にここを見つめ、あの華奢な指に持ったクレパスで線のひとつひとつまで几帳面に描いて欲しいと願っている。そんなことを想像すればするほど、ますます熱いものを溢れさせてしまう、そんな自分。
 どちらも自分の中に確かにいる、本当の自分だ。なのに、今までずっと気がつかなかった。本当は気がついていながら、抑えこんでいたのかもしれない。
 今、佐緒里はようやく自分の中で自分を解放できたような気がした。

 やがて作品は完成した。
 自信のなさそうな細いラインではなく、しっかりとした筆致には、あふれんばかりの絵への情熱が感じられる。
 陰影までしっかりと刻まれた自分自身の像は、小手先で器用に描いた絵とは違い、下手なりに紙の中でなまなましく存在感を放っている。
 名作だ、と佐緒里は思った。
 描くことを、初めて楽しいと思えた。
 けれど同時に、頭は急に冷静になる。
 下半身をさらけ出して鏡の中に座っている自分が急に恥ずかしくなって、とりあえず脚を閉じて立ち上がる。脱ぎ捨てた下着を穿きなおそうとして拾うと、真ん中の部分に歪んだ楕円形のしみがべったりとついていて、余計恥ずかしい気分になった。
 新しい下着を出してきて、脚を通す前にティッシュで自分のその部分を丁寧に拭いた。それから、服もみんな部屋着に着替えると、ようやく落ち着いて部屋の中を見回す余裕が出てきた。
 部屋は散らかっていた。先ほど夢中になってクロッキー帳をひっぱり出したとき、一緒にトートバッグの中身をぶちまけてしまったのだ。
 財布、定期入れ、化粧ポーチ、ペンケース。佐緒里はひとつひとつ拾っていき、やがて、小さく折りたたまれた紙を見つけた。なんだろうと思って開いてみる。

  活動...月一回(第二日曜)
  場所...市立美術館AまたはBアトリエ
  会費...一回一五〇〇円

 なんということはない、ただ〈アトリエ・むらさき〉の概要が簡単に説明された一枚の印刷物だ。
(そういえば、初めてクロッキーに参加した日に、貰ったっけ)
 行く前から概要はあらかた美帆に説明されていて、すでに知っている内容が記載されているだけなので、せっかくもらったのにろくに目を通していなかったことを思い出す。
 改めてきちんと読んでみて、佐緒里はその末尾に、センセイの名前と連絡先がしっかりと明記されていたことに気がついた。なぜか、携帯電話の番号と一緒に、FAXの番号が記載されている。
(センセイに、見て欲しいな)
 先ほど描きあげた自分の力作を、FAXで送ってしまおうか――そんな、いつもだったら絶対に考えつかないような大胆なことを、佐緒里は考えついた。
(無理無理。こんなもの、本当に送ったりなんか、できるわけがないじゃない)
 自分で自分に突っ込んで、ふっと笑う。常識派で真面目な人間にそんな奇行ができるわけないことは、佐緒里自身が一番よく知っているのだ。

 その代わり、というには少々物足りないけれど、来月の活動の日には、もうすこし自分からセンセイに話しかけていこうと佐緒里は思った。機会があれば、さりげなく食事に誘ってみたっていい。気が向いたら、ホテルに行ったっていい。そしていつか、本物のセンセイの目で、本物の私を見つめて欲しい。
 佐緒里は改めて、先ほど描きあげた「自画像」を眺める。
 未来が大きく変わっていきそうな予感が、その一枚の中に詰まっているような気がした。


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