top


山手線ゴー・ラウンド ―目黒―

 花嫁の朝は早い。安定期に入ったお腹が目立ち始めてきたから、なおさら早めに出ておいた方が良い。
 両親と妹を式場近くのホテルに宿泊させ、私は昨日、一人で自分のアパートに帰った。結婚前夜くらい家族で過ごそうと言われたものの、その義務ならば正月 の帰省で果たした。荷物はほとんど新居に運んであるけれど、新婚旅行から帰ってゆっくり整理をしたいと言って、自分の場所は残しておいた。独身最後の日く らい一人で眠りたかったのだ。ゆっくり眠れたとは言い難かったけれど、それなりに一人を満喫できた。
 準備を整えて家を出る。文句なしの快晴。普段は滅多に乗らない日曜の朝の山手線。私の大きくなったお腹に気付き、若い男の子が席を譲ってくれた。見慣れたすべての景色が、もの珍しく目に映ってくる。なんとなく、私はきっと幸せになれると確信した。
 電車は目黒に停車し、私を降ろした。時間に余裕があるので、私はゆっくりと階段を上り改札まで歩いていく。すると、西口改札の前でよく知った顔が私を待っていた。
「へぇ、お腹、目立ってきたんだな」
 第一声はそんなものだった。純粋な感嘆に満ちた声が、とても彼らしい。
「まさかこんな展開になるなんて、一年前には思ってもみなかったよね」
 私は笑いながら言う。彼が突然会いに来たことを、驚くよりは喜ぶ気持ちのほうが大きいような気がしたし、実際それは笑うしかないような成り行きだった。
 ちょうど一年前だ。私はこの男と喧嘩した。喧嘩の理由はくだらないことだったけれど、三年付き合って一度も喧嘩をしたことがなく、友達の間でも有名な仲良しカップルだった私たちには、大事件だった。
 私は怒ったまま謝る気もなく、彼からも何の連絡もないままだった。初めての喧嘩だったから、仲直りの仕方を知らなかったのかもしれない。そのうち、噂を 聞きつけた職場の先輩が言い寄ってきた。以前からそれとなく気持ちを仄めかされたことがあり、私は慰めにその人と頻繁に食事をするようになった。そのう ち、勢いに任せて半ば自暴自棄にセックスをするようになり、そして『失敗』した結果がこのお腹の子だ。
「後悔してない?」
「解らない。でも、投げやりな気分ってわけでもないよ。初めは戸惑ったけど」
「子供のこと、愛せる?」
「もちろん。私の子だもん」
「じゃあ旦那のことは?」
「嫌いだったら結婚なんてしない」
「そっか」
 彼は何をしに来たとも言わず、ただ改札の前で私と立ち話をしていた。それより先の区域へは入っていくつもりはないと宣言しているかのような姿勢だと思った。
「旦那とは、喧嘩する?」
「すごいする。結婚式の段取りなんて、もう揉めまくった」
「やっぱ、そうだよな」
「え?」
 次の電車が到着したらしく、人がどっと改札の前を通り過ぎてゆく。彼は私の身体に指一本触れることなく、身重の私を守り、安全なところへ移動するよう促した。
「俺たちが喧嘩しなかったのって、何かおかしかったんだよ」
 そうかもしれない。あれは、私のほうに言いたいことが溜まりに溜まって、とうとう爆発したという喧嘩だった。けれど、私はそれまで我慢していたわけでもなかった。どんな怒りも、彼の顔を見れば『とりあえず、いいか』と思ってしまえるほど、彼のことが好きだっただけだ。
「......ま、これが運命だったってことで」
「本当にそうなんだろうな。運命ってこういうことなんだなぁ」
 悲しいという訳ではなさそうな深い溜息とともに彼が言ってから、私はおもむろに時計を見て言う。
「そろそろ行かなきゃ、支度が......」
「ああ。ごめんな、こんなところまで」
「ううん。それじゃ......」
「さよなら」
 彼は目黒駅の改札を出ずに、そのまま私を見送った。私は振り返ることもない。
 花嫁の朝は早い。私は行人坂をゆったりとした速度で下っていく。
 心はとても静かだ。

恵比寿五反田



コメントする