塀の上ウォーク
本作は元々こちらの専用サイトにて公開するために書かれたものです。が、諸事情により本部の更新が滞ってしまい、当サイトにて公開する運びになりました。むこうでは(途中までですが)登場人物のイメージ画像などもありますので、併せてお楽しみいただけますとまた違った読み方ができるかもしれません。
なお、本作は共作筆名「塀之上アユム」として書いており、千村はつひオリジナルの作品ではありませんので、ご了承ください。
第1話・六月にあったこと
「つめた~いソーメン、あります」
と、そこには書かれていた。
一瞬笑いそうになったが、これは笑い事じゃない。なにしろ、チラシの裏だ。ぶっとい油性マジックで、しかもえらく汚い字で書いてある。さらに、それは手
で雑にちぎったガムテープで、ベージュの塗装がところどころ剥がれている小汚いアパートの玄関ドアに、堂々と張られているのだ。
いくらなんでもここまで人を小バカにした出迎えかたは、なかなかない。
僕は緩みかけた頬に力を入れ、インターホンも押さずにニイヤくんのアパートのドアを開けた。キモチ的にはドアを蹴破る勢いで。
「おー、来た来たー」
サルみたいに顔を真っ赤にしたニイヤくんが、部屋の奥でただでさえ高い声をひっくり返しながら手を振った。豪さんも「おう、待ってたぞ」とか頷きつつ、
目が据わってる。それよりも僕を困らせるのが、玄関開けてすぐ目の前のミニキッチン。一体なぜ、箕輪サンがそこで湯気に包まれながら僕を迎え入れるのか。
「ちょうどソーメン茹だったところだよ」
って言われても意味不明つーか、フリフリのエプロンとか短すぎるスカートとかそこから伸びるナマアシとかツッコミどころ満載で、え、なに、新妻気取り?
まあ、カワイイ系って言われてるチビのニイヤくんとクールな長身スリムの箕輪さんじゃ、とてもカップルには見えないけどさ。
それは置いといて。
「つか豪さん。人のこと飲みに誘っといて、なに勝手にいなくなってんすか」
部屋にズカズカと入って僕が言うと、豪さんは申し訳なくもなんともなさそうな顔で、「おうマジすまん」と軽く答える。あー暖簾に腕押しってこれのことだ
よ、と身をもって言葉の意味を学習しつつ、僕は足の踏み場もない床に無理やり座るトコロを作って座ると、さらに文句を言った。
「1人で『だっぺえ』行って、なんかすげえ虚しかった......」
「えー、でもちゃんとメールしといたよー。電話かけてもつながらなかったからさー」
「え、マジで?」
ニイヤくんに言われて、僕はポケットから携帯を出した。そうだ、すっかり忘れていた。バイト中は携帯の電源を切っていたのだ。
慌てて電源を入れて、メールを受信する。ピロロ。おお、ニイヤくんからのメールは、確かに届いていた。僕はおもむろに中身を開いて、驚く。
『遅いから先行ってるよ』
え、どこへ? ってまあ聞かなくても想像できるっちゃできるけど、これのどこが「ちゃんとメール」なのかっていう話。これで良いと思ってるってんだか
ら、こんな奴らに向かってまともに怒るなんて、エネルギーの無駄なんだけどさ。そもそもここに来てしまったこと自体、初めから無駄なんだから、仕方ない。
「で、なんかあったんすか」
早速ビールの缶(どうせ用意されてないと思ったから、持参した)を開けつつ、僕は豪さんに訊いた。
ことの発端は、今日の2限のことだ。
新入生の僕らもすっかり馴染んできた学食2階で、僕はニイヤくんと2人でうだうだしていた。せっかく学校に来たのに、予告もなく2限が休講になっていたのだ。まあ、休講じゃなくても僕らはいつもうだうだしてるんだけど。
なんでかは解らないけど、僕はいつも、気付いたらニイヤくんと一緒にメシを食っている。偶然酷似していた時間割以外に、僕らの縁はない。
「あーっ、やっべ。財布150円しか入ってない。ちょっと貸してー」
初めて交わしたのと同じセリフで、ニイヤくんは今日も僕の金で学食カレーを食べる。食べるものをしっかりトレイに載せて、レジまで来たところではじめて
金がないと言うのだから、タチが悪い。出会ってたった2ヶ月なのに、僕はもう何回この手口で奢らされたんだろう。騙されているとは思わないけど。ニイヤく
んは、そういうキャラなのだ。僕が奢らない日は、他の誰かが彼に奢っている。役得だ。
とにかくニイヤくんがカレーライスにがっつき、僕が蕎麦を啜っているときだった。豪さんが、寝起きみたいな顔でやってきて、明らかに無精で色濃くなった髭をいじりながら、言った。
「スマン、今夜呑みに行こう」
いつにもまして唐突な。
「すんません。今日は家庭教のバイトだから無理......」
「俺、今日早番だから、『だっぺぇ』で呑んでくれたら途中から合流しますよー。あの店なら安いでしょー」
僕のノーと、ニイヤくんのイエスは、ほとんど同時だった。
「じゃあ8時に『だっぺぇ』行くわ。いや、良かった。今日はどうしても呑まずにいられない気分だったんだ」
豪さんはニイヤくんの答えを採用し、僕の答えはそっくりそのまま無視することに決めたらしく、決めるだけ決めると満足そうに去っていった。その後ろ姿を見送りながら、僕は仕方なくニイヤくんに訴える。
「無理だよ、俺」
「とりあえず家庭教終わってから来りゃいいじゃん。待ってるから」
「でも、ニイヤくんのバイトが終わるまで、豪さん1人だよ? 待たせておくのも悪いけど、1人で呑みだしたらあの人、もっとヤバイじゃん」
2人でこそこそ話していると、背後に感じるスラリ長い影。
「灰皿、借して?」
箕輪サンはハスキーな声で僕らのテーブルに割り込んできて、人が食事してる横でおもむろにマルボロのメンソール(ライトではない)に火を点けた。すかさず、ニイヤくんが言う。
「いいところに来た。箕輪サン、今日呑みに行かない?」
偶然声をかけているように見えるけど、さすがニイヤくん、まっとうな人選だ。箕輪サンの家は、大学にも駅にも『だっぺぇ』にも近い。男に囲まれても平然
とした顔でガンガン飲めるし、エロ話をしてもひかない、貴重な人材だ。僕らの誰よりも酒に強いのは、ある意味欠点だけど。
「あー、ん、まあいいけど?」
思った通りあっさりと、箕輪さんは僕らの誘いを受け入れた。
「じゃあ8時に『だっぺぇ』で豪さんが待ってる。俺らも後から合流するからさ」
「わかった」
どっちにしても、僕が後から行かなきゃならないことは変わらない、らしかった。
そんなわけで、僕は家庭教のバイト終了後に、家とは逆方面に電車を乗り継いで、また猫田駅まで戻るハメになった。面倒くさいことこの上ないが、まあそう
いうの別に嫌いじゃないし。などと思いながら、駅から5分くらい歩いたところにある『呑むだっぺえ』の、渋いんだか汚いんだかわからない微妙な焦茶色の暖
簾をくぐる。
「らっしゃいませー」
威勢のいい声に迎えられて店内を覗くと、揚げ物の油っこい匂いがむっと僕を包んだ。ここの料理はどれもイマイチだけど、ボリュームを考えればかなり安い。今日も貧乏そうな学生で一杯だった。
ニイヤくんがこの店で週2のバイトをしてるため、僕らはただでさえ安い値段をサービス価格にしてもらえる。1人1800円もあれば泥酔できるのだから、使わない手はない。おかげで、入学して2ヶ月にして、すっかりこの店の常連になってしまった。
しかし、どうしたもんだろう。
満席の店内を隅まで見回してみたのに、いないのだ。豪さんも、ニイヤくんも、箕輪さんも。
やられた、騙された。
僕が呆然と立ちつくしていると、いつも気前よくサービスしてくれる若い店員が教えてくれた。
「ニイヤくんたちから伝言。アパートで待ってるって」
「マジすか」
ありえない。
ニイヤくんのアパートは、駅から徒歩10分。まあ、駅から歩けばそんなに遠くないし、学校に行くには最高の立地だけど、『呑むだっぺえ』から歩くとたっ
ぷり15分かかる。酔っぱらってみんなで歩くときは気にならないけど、こんな時間にシラフで1人歩きするには、えらく長い道のりだ。
あーもう面倒くせえ。帰っちゃおうかな。と、一瞬思った。
でも、考えてみれば今から家に帰る方がよっぽど面倒だし、家に「今日は友達んとこ泊まる」と電話をしてしまった手前、今さら家に帰るってのもカッコ悪い。
結局、僕はニイヤくんの家まで歩くしかないのだった。
猫田駅を越えて線路沿いに少し行くと、「猫田芸術大学」と妙に仰々しく書かれた正門が現れる。
ここをくぐって大学の敷地内に入り、中を突っ切って裏門に出れば、ニイヤくんのアパートは目の前だ。でも、夜九時を過ぎて閉門した大学の敷地は、今の僕にとって何の意味もない。正門を無視して、そのまま学校の塀沿いを歩く。
しばらく歩くと、西門が見える。ここで僕は右折する。難関はここの先、西門から裏門(あれ、正しくは北門だったか?)までの道だ。
歩けばなんてことない、5分ほどの道のりだ。だけど、なにしろ右手には真っ暗で静まりかえった大学の校舎(しかも裏側)。そして左手には延々と、わけの
わからない3mくらいの高い壁がそびえ立っているのだ。無機質な景色が続く、おぞましい道。1人で歩くと、正直ちょっと怖い。
だから、そんな思いをしてやっとたどり着いたところで「ソーメン、あります」とか言われても笑えない、ってワケだ。
「だからね、せめてちゃんと豪さんが話をしてくれないと、ここまで来た甲斐ってもんがないでしょ」
ビールを流し込みながら話をすると、テンションが上がるのは早かった。ここまで(ちょっと早足で)歩いたのがウォーミングアップになったのかもしれない。
しかし、そんな僕とは対照的に、豪さんは悲痛な面持ちで(酔ったせいで目の焦点はおぼつかないけど)、重々しく言った。
「わかって欲しい、俺は今、つらいんだよ。ああ本当につらいよ」
こんな豪さんの表情を見るのは、珍しかった。さすがに少し心配になって、僕は真剣に訊くことにした。
「何があったんですか?」
「実は......スチームが国に帰ってしまったんだ」
「え!?」
僕は思わず大声を出した。なんとなく、ビックリしたような気がした。
しかしよくよく考えてみると、僕はスチームについてあまり知らなかった。豪さんが重々しく語りすぎるから、思わずつられてしまっただけだ。
そうか、スチームか。
スチームねえ......。
ふっと首をかしげてしばし硬直しつつ、考えてみる。
その名前を知らないワケじゃない。でも、僕がスチームについて知ってることは少なかった。彼が豪さんの友達だということ、日本人ではないこと、そしてスチームというのは愛称だってこと。うん、たった3つだ。こりゃ、予想外に少ない。
本名は一度聞いたような記憶があるが、すごい早口で答えられたから聞き取れなかったし、聞き取れたとしてもたぶん、長すぎて覚えられなかった。そういう名前だった。
「えーと」
とりあえず、どの国に帰ったのかぐらいは聞いておこうと思って、豪さんに言った。
「スチームって、どこの人だったっけ?」
「タイ」
おずおずと訊いた僕にすかさず答えたのは、豪さんではなかった。ニイヤくんと箕輪さんの口から、まったく同時に答えが出てきたのだ。
ぼくは「ああ」と頷きながら、二人の顔を順に見た。目くばせオッケー。
つまり彼らは僕に、『もうその話はさんざん聞かされたから、これ以上豪さんに話を振るな』と言ってるわけだ。今までにも何度かこういう場面があったから、僕もすっかりこのサインを覚えた。確かに豪さんは酔っぱらうと話が本当にしつこい。
しかし、ここで引き下がるのもどうか。一応名目として、僕は豪さんの話を聞きに来たんだし、ここで豪さんを黙らせたら、僕がわざわざこんなとこまで来てやった意味がなくなってしまう。黙ってられない。
「でもさ、スチ......」
「はいはい。ソーメン出まーす」
箕輪さんがいつになく大きく、しかもわざとらしく弾んだ声で割り込んできた。意地でも僕に喋る隙すら与えないつもりらしい。なんつう強引さだ。
でも――うん、まあ。
「はい、新鮮なうちに食べて」
新鮮なソーメンってなんやねん、と軽快にツッコミを入れるとニイヤくんの隣で、僕はちょっとばかり硬直してしまった。すぃっと伸びてきて、めんつゆの器を差し出した、白くて細いノースリーブの腕に、目が泳ぐ。
箕輪さんは僕の動揺を知ってか知らずか、顔をえらく近づけてきて、小さな声で言った。
「スチームのことは、私たちが話すから。どうせ豪さん、もうすぐ寝ちゃうし」
話の内容とは関係なく、ただ、ずいぶんきれいな赤なんだな、と思った。今まで意識なんかしたこともない、彼女のメガネのフレームの色。こんな至近距離で見てたら、視界が真っ赤に染まりそうだ。
あー、なんだろ。別に箕輪さんのことが好きとか、そういうワケじゃないんだけど。
早くも酔ったかな。
とにかく箕輪さんの予言は、すぐに現実となった。
2口ほどソーメンを流し込んだ時点で、豪さんは力尽きたかのようにそこらへんに寝っ転がって、やがて重低音の鼾をかき始めたのだ。ニイヤくんが妙に悪どい顔をして笑いつつ、言った。
「これはこれで迷惑だよねー」
なんにせよ、ようやく普通に会話ができる状態になったということだ。
だからってわけじゃないけど、僕はそれまで律儀にも正座していた自分に気付いて、軽く照れ笑いしながら足を崩した。まあ、豪さんと話をするということは、そういうことだ。何だかんだ言っても逆らえないし、捨て置けない。不思議な人だ。
「スチームさんは、別に」
ソーメンを啜る合間合間に、箕輪さんは予告通り、スチームについてぽつりぽつりと教えてくれた。
「自分から国に帰ろうと思ったわけじゃなくて」
ニイヤくんは話を聞いてる様子もなく、ソーメンにがっついている。僕はときどき手を止めたりして、うんうんと頷きながらちゃんと話を聞いた。
「いわゆる強制送還? だったらしくて」
「えっ?」
素直に、僕は驚いた。
強制送還という強くて堅い言葉が、ちょっとこの場にそぐわなすぎて、ピンとこなかった。
確かにスチームは得体の知れない外国人だったかもしれない。
でも、ときどき僕らの授業に潜り込んで、へたくそな日本語で豪さんに何か質問したり、やけに楽しそうにノートをとったりしていた姿は、熱心な留学生その
ものだった(潜りで大学の授業を受けるのは是が非かという問題はおいといて)。アジアンレストランでのバイトも頑張っていたらしいし、店の残り物といって
食べものをよく持ってきてくれたし、豪さんからは悪い噂なんてひとつも聞かなかった。
「悪い人じゃないと思ってたけど......」
虚しく宙を転がった僕の言葉を、ひととおりソーメンを食べて満足そうな顔をしたニイヤくんがキャッチした。小さいゲップをひとつ、その後で突然、真面目な口調でつっかかってくる。
「いい人だからって、悪いコトしないわけじゃないしなー」
あれ?
ヤバイ。せっかく豪さんが寝たってのに、今度はニイヤくんのスイッチをオンにしてしまったか。ニイヤくんもアツくなると話が長いんだ。
僕は焦って、なぜか思わず箕輪さんの顔を見た。いつもみたく、「めんどくさい」って顔で話を逸らしてくれるんじゃないかと思ったのだ。
が。
「そうまでして日本にいたかったんだから、仕方なくない?」
とか、箕輪さんまで神妙な顔で軽く議論に参加してくるし。それを受けてニイヤくんは、妙に気取った顔なんかして、そこら辺に転がってる豪さんを顎で指す。
「うん。まあ人それぞれいろいろ考えがあるんだろうけどさー。そこの人ですら、苦労して大学入ってきてるみたいだし」
あんまり表情を変えないで、うんうんと小刻みに頷いた箕輪さんの横で、僕はついて行けなさを感じた。なんかいきなりマジモード。
そういうの、嫌いじゃないんだけど。
2人を見てたら、こんなところでソーメンなんか啜ってる自分が、なんか不思議になってきた。深い意味はなくて、たぶん僕だけがまだ、語りに入るほど飲んでないからなんだろう。
ニイヤくんの言うとおり、豪さんはかなり年上だ。本当んとこは何歳なのか知らないけど、未だにさん付けで呼んだり、気軽にタメ口をきけないぐらいの隔たりはある。なんでその歳になって大学に入ろうとしたのかは、知らない。
あんまり意識したことはないけど、ウチの大学って無駄にいろんな年齢の人がいるのだ。大学ってこんなもんなのかなって思ってたけど、それにしても人生遠回りしてるっぽい人は多い。
箕輪さんだって実は僕より1コ上らしいし(でも浪人じゃないとか言い張ってる。なんでだ?)、ニイヤくんにしたって、年齢こそ僕と同じだけど、なんか今どき珍しいくらい苦学生風情だし。
なんでそんな人たちと一緒に、僕はソーメンなんか食ってんだろ。
とかなんとか。
僕が一人でそんな違和感について考えてる間に、2人のマジモードは見事、嵐のように去ってしまった、らしい。台風一過の空間には、鼾と脳天気な空気が充満し始める。
「あー、そういえばこれ、こないだ実家から送られてきたんだけど」
箕輪さんがさりげなく、トートバッグの奥からワインを1本引っ張り出したので、僕たちは狂気乱舞した。
――結局。
「ニイヤくん、大丈夫かな」
豪さんとは違う種類の、不定期なリズムに乗った鼾をかきながら寝始めたニイヤくんの顔を覗き込んで、箕輪さんは言った。
「恥ずかしいヤツだよ、マジで。変な話ばっかでごめんな」
僕は謝った。ニイヤくんは今日も酔った勢いでいつもの童貞丸出し妄想エロトークを繰り広げたあげく、ワインを1本空けたところで、とうとうダウンしたのだ。
「えー、別に」
箕輪さんはやっぱりクールに首を振った。実際、いつも眉ひとつ動かさずに隣で飲んでるくらいだから、僕たちのエロトークなんて彼女にとってはホントに大したことないのかもしれない。
「じゃ、私もそろそろ帰るかな」
まるで役目が終わったみたいな顔であっさりと立ち上がったりするのも、いかにもどうでもいい感じで。でもその割にはいっつも僕らんとこに来て喋ったりしてる箕輪さんが、本当は何を考えてんだかちょっと知りたかったりもする。
だからってわけでもないけど、そのまま帰すのが惜しくて、なんとなく僕は愚痴ってみた。
「あーあ、箕輪さんは帰るところがあっていいよな。こんなむっさい鼾だらけの部屋で寝なくていいんだもん。ずりいなぁ」
すると、箕輪さんはふいっとこっちを向いて、でも微妙に目は合わせずに、感情のない声で言った。
「そんなら、私んちに来れば?」
「えっ? や、さすがにそれは! マズいでしょ」
平然とした顔で言う箕輪さんに対して、恥ずかしいほど明らかに腰が引けてる僕という構図。
これじゃニイヤくんをバカにできない。一応童貞じゃないはずなのに、僕もこういうのって全然慣れない。
「そう? じゃあおやすみ」
何を言っても墓穴を掘りそうで自分をフォローできない僕を置いて、箕輪さんはさっさと帰ってしまった。近いって言っても5分ぐらい歩くんだから、送ってってやれば良かった――と思ったのは、箕輪さんから「無事に帰れたよ」というメールが届いた後のことだ。
長い夜。
なんだか僕は、悶々と眠れなくて困った。
たぶん、眠れない理由の80%は豪さんとニイヤくんの鼾のせいだと思うけどさ。
第2話・七月にあったこと
梅雨だってのに、異様に暑い日が続いていた。
夏本番を迎える前に、すっかり暑さに飽きそうだ。つうか、なんで大教室はあんなに冷房効かないのかね。うちの大学、ボロボロだな。
「ひー、あちい。今日はモリソバにしよ」
ニイヤくんが決意表明しながら、学食を目指す。どうせそのソバ代だって、僕の財布から出ることになるんだろ......と思いながら連れ立って歩いていたところ、思わぬ奇襲を喰らった。
「あぁぁ、また二人、講義サボってるぅぅぅー」
後ろからもにゅっと抱きつきながら、市川さんが独特のハイトーンで叫んだ。一緒に電車に乗ったりすると死ぬほど恥ずかしくなるほどのアニメ声。
振り向いて、さらに僕はギョッとした。なんだよ、そのカットソー。この暑いのに長袖だし、しかもそのくすんだピンク......っていうより、歯茎色って表現がぴったり。ああもう、暑苦しさ倍増だよ。
割と心底退いている僕の横で、ニイヤくんがしれっとして答えた。
「サボリじゃないっつの。教授が暑くてもう授業やってられんつって放棄したんだよ。おまえこそ、サボってんじゃねえよ」
きっつい口調だけど、別に市川さんをウザイとか暑苦しいとかは思ったりしてない様子。
僕はこういう瞬間、ニイヤくんをすごく尊敬する。誰に対しても素で会話できるってのは、才能だ。異様に低い身長と高い声(特に笑い声は賑やかな学食の中でも目立つ)はキャラも立ってるし、別にモテてるわけじゃないけど、女の子の友達がたくさんいるってのも頷ける。
市川サンは、ニイヤくんの言葉に身をくねらせながら、ねっとりと言い訳した。
「うーん、出席だけはとってきんだけどねぇぇ。なんかホラ、芸術学の沢田センセイって、あたしの身体ばっかり見てて、キモイんだよねぇぇ」
「アホかおまえ、その妄想がキモイわ」
「妄想なんかじゃないよぉぉ。この前なんか沢田センセイ、掲示板であたしのこと呼び出したりしたんだよぉぉ。乙女の貞操が危ういから、もちろん行かなかったけどさぁぁ」
「それ、出席日数足りないとかレポート提出してないとかの呼び出しじゃないか?」
テンポよく進む二人の会話を、僕は黙って見守った。
「うえぇぇん、ニイヤくんがいじめるよぉぉ」
喋っているうちに興奮してきたのか、市川さんはただでさえ高い声をますますキンキン響かせて言ったと思うと、ふっと動きを止めた。そして、潤んだ目で右ナナメ45°くらいの空をたっぷり10秒ほど見つめて、一言。
「泣かないで、ミッチ。僕が守ってあげる」
出た、脳内猫(らしいけれど、それが猫であるかどうかすら、僕にはわからない)!
「こらニイヤ、僕のミッチをいじめるな! マジで殺すぞゴルァ」
さっきまでのアニメ声とはうって変わって、野太い声を出す市川サン。割と本気で怖いんですけど......と、最近は割と思わなくなって、僕はいつもの通りげらげら笑った。
「ていうかぁぁ、前から言おうと思ってたんだけどぉ、なんで2人はいっつもミノちゃんばっか飲みに誘って、あたしのコトほったらかしなのぉぉぉ?」
トテトテと僕たちの後ろをついてきながら、市川さんは恨みがましく言う。それは、一緒に居酒屋に入るとそのねっとりアニメ声が目立ちすぎるからだよ、と僕が言葉にしてしまう前に、ニイヤくんがすごくまっとうに答えてくれた。
「だってキミ、門限厳しいって言って、飲みに誘ったって来ないでしょ」
ナイスフォロー!
市川さんが、誘っても滅多に来ないのは本当だった。実はこう見えて、ものすごい厳格な家の一人娘だとかいう噂。しかも、お嬢様学校と名高いあのM女子大
付属高校の出身というからびっくりだ(そのままエスカレーターで大学に進めたのになんでこんな変な大学入っちゃったんだろうね、というのは箕輪さんの弁。
あのクールな箕輪さんとこのハイテンションな市川さんにいったいどういう共通項があるのかは知らないけど、二人は割と仲が良い、らしい)。
「確かにミッチはお嬢様だけどぉ、たまには下々の者とお付き合いしないと、世間知らずになっちゃうからぁぁぁ」
「アホか、一生言ってろ」
呆れたように言い放って、ニイヤくんはそそくさと学食の入り口に向かって歩き始めた。逃げたな。僕も一緒に......って。ん?
「あ、じゃあねぇ、夏休みに入ったらみんなで海にでも行こうよぉ」
軽く前につんのめった僕に、市川さんはニコニコしながら言った。や、とりあえずシャツの裾を(意外と強い力で)引っ張るのはやめてくれ。しかも、そんな至近距離から猫撫で声なんか出すな! と言いたいところだけど、それはともかく、たまには良いことを言うじゃないか。
「海か、いいな。今すぐにでも泳ぎてー」
頭上からジリジリと射す太陽の光を振り仰ぎつつ、僕は思わず即答してしまった。
「でしょでしょでしょぉぉぉ?」
「つか『みんな』つっても、誰誘うんだよ?」
ニイヤくんは少し離れた場所から、相変わらず冷静なツッコミ口調。だけど「誰誘う」とか言ってる時点で、もう乗り気になってるのは確定だ。
「あのねぇぇ。ミノちゃんでしょー、豪さんでしょー、あとねぇぇぇ、そうだ、クルマ持ってるらしいから四本くんとかー」
ご丁寧に、指折り数えながら名前を挙げていく市川さんをよそに、ニイヤくんが低い声で僕に訊いた。
「四本って誰だっけ」
「えっ?」
僕はそのとき、箕輪さんの水着姿とか割と楽しみだよなあとか考えながらボーっとしていたので、突然自分に話を振られて軽く飛び上がった。背筋を伸ばすフリみたいな変な動きでごまかしながら、とりあえず答える。
「あ。ああ、四本くん。ほら、語学で一緒のさ、やたら英単語いっぱい知ってる人」
「おお、あのひょろっとしたオタクっぽいヤツか」
つまり僕たちにとっては、あんまり話もしたことのないような、よく解らない人だ。でも、クルマがあるって言うし、市川さんが声をかけるんなら別にいいや。
僕たちが勝手に話をしている横で、市川さんはまだ、「あとぉぉぉ......」などと海に行くメンツを考えているようだった。
このまま待っていても長くなりそうだし、僕たちにとってはよく解らない人の名前ばかりが出てきそうだし、そもそも炎天下でこれいじょう立ち話をしている
のはダルい。もうほっといて学食行こうぜ、というニイヤくんのテレパシーも、伝わってきた(気がする)。目配せをして、僕は今度こそ一歩を踏み出......そう
としたのに。
「あぁっ! 忘れてた。訊こうと思ってたことがあるんだよぉぉ」
市川さんが、指折り数えていたその手で、再び僕のシャツの裾を引っ張ったので、またしても僕は前に進むことができなかった。
「なんだよ、もう。そんなに引っ張ったら、シャツ伸びるだろ」
さすがにちょっと本気でムッとしながら振り返ると、市川さんはいつになく真剣な目で、さらに彼女には似つかわしくないくらい真剣な口調で言った。
「睦月さんが、ずっと学校に来てないみたいなんだけど、どうしたのか知らない?」
「え......」
僕は明らかに狼狽したと思う。いきなり睦月の名前を出すなんて、卑怯だ。
でも、平常心平常心。あのことは、誰も知らないから。
「や......つか、なんで俺に訊くの?」
警戒しながら訊いてみる。市川さんは、どことなく邪悪な感じの笑顔で僕の顔をふっと覗き込みながら、言った。
「だって、仲良かったかなぁと思ってぇ」
「え、そんな仲良かったか?」
素で訊いてくるニイヤくんからすっと目を逸らして、僕は言った。
「知らないよ。別に仲良くなんかない。確かに睦月とはけっこう講義かぶってるし、何度か話したこともあるけど、別にそれ以上のことはなんにもないっつうか......」
ムキになって、一気にまくし立てすぎた。逆に怪しまれるかと思って、もう一言付け加える。
「でも、学校に来てないってのは、なんか心配だな」
沈黙を、少し挟んで。
「心配だよねぇぇぇぇぇ」
市川さんがいつになく語尾を響かせて、僕はホッとした。
「なんだかんだ言って、試験もう来週からだしな」
ニイヤくんも心配になったらしく、眉を寄せながら言う。まあどうせ二人とも、心配ったって他人事だと思ってるんだろう。
アイツの携帯番号しってるから、電話かけてみようか――と言いかけて、やめた。何度か話したことあるだけだと言ったばかりだ。ここで下手なことを言ったら、怪しまれる。
僕と睦月の関係。
何度か話したことある程度っていうのは、嘘ではない。うん、学校では本当にそうだ。つうか、あれ以来ろくに喋ってない。
でも、ただの知り合いっていうのとも、ちょっと違う。
本当のことは、ニイヤくんにもさすがに言えねえよ。
昼飯を食ったあと、1時間ほど学食でぎゃあぎゃあくっちゃべる市川さんに付き合ってた僕は、「講義あるから」と言って逃げるように教室に移動した。
4限の自然科学史は、えらく人気がない。全学科が選択できる共通科目なのに、たぶん授業をとってるヤツは30人もいないだろう。ほとんど時間割が一緒の
ニイヤくんとも、唯一重ならないコマだ。「一応」がつくけど、うちはゲージュツ系の大学だから、サイエンスに興味がある人間なんてあんまりいないのかもし
れない。
とにかく僕にとって、大学に来て知ってるヤツが誰もいない時間ってのはこのコマの時だけで、初めは寂しいような気もしてたけど、今は多少、息抜きになってる。つまり、ひとりでボーっと考え事をするのに、最適なのだ。
ぼんやりと、携帯をいじってみる。
電話帳を登録番号順でスクロールすると、睦月の名前はかなり初めの段階で表示された。大学に入ってすぐに買った携帯は、自宅と、中高時代のマジで仲いいヤツ5人ほどの番号を入れたあと、大学で知り合った順で番号を登録していった。
睦月の番号が登録されたのは、入学式の次の日。オリエンテーションのあとに学科の新歓コンパに無理やり連れてかれて、たまたま隣の席に座ったのがきっかけだった。
うちの大学にしては珍しくちょっとマトモそうな娘だな、というのが、睦月の第一印象だった。身体のラインがくっきり出る白っぽいカットソーとシンプルなミニスカートが、なんというか、普通の女子大生っぽかったのだ。
「なんでうちの大学入ったの?」
僕は会話のとっかかりとして、とりあえずそう訊いた。それに対して、睦月がつまらなそうに答えたのを、すごくよく覚えてる。
「別に。近いから」
普通なら、覇気がないとか感じが悪いとか思うところかもしれない。でも逆に僕にはこういう睦月みたいな子が新鮮に見えた。芸術系の大学なんて、何かが得
意だったり何かが好きで極めたい人間ばかりだと思ってたのだ。実際、やたら奇抜なファッションのヤツとか、見るからに主張の強そうなヤツとか、サブカル通
り越して明らかにオタクっぽいヤツとか、周りはそういうのばっかだったから。
「俺も――受けてみたら受かったから来ただけなんだけどさ」
僕が言うと、睦月はそこで初めて安心したように笑った。
それから多少話が弾んで、酒を飲み過ぎて、僕らは意気投合した感じになった。店を出たあとの経緯は、本当のところよく覚えてない。ところどころ記憶に
残っているのは、ピンクのタイルが敷き詰められた趣味の悪いバスルームとか、無駄にブラックライトで照らされて変な絵が浮き上がってる壁とか、古びた布団
の感触。そして、暗闇の中に浮かび上がった睦月の白い肢体......。
やばい。そんなこと考えてたら、下半身が反応を。
とにかく大学の近くに唯一ある、なんか20年くらいまえからずっと変わらずにあるような変なホテルで、僕は大学に入学したと思ったら童貞を卒業したわけ
だ(ちなみに睦月はたぶん、初めてではなかった)。なんでそんな場所に行くことになったのかは、本当に覚えてない。だから、ニイヤくんや豪さんにも言わな
いでいる。
あれから睦月とは(というか僕の場合は誰とも)やってない。学校でたまに会っても平然としている睦月に、ひょっとしてアレは夢だったのかなと思うことすらある。
でも現に、僕の携帯には睦月の番号が登録されている。あのとき、ホテルを出る前にあわてて聞いた番号だ。少しだけ我に返って、すごく気恥ずかしかったあの感覚は、今でもすぐに心に蘇ってくるほど生々しく覚えている。だから、あれは夢なんかじゃない。
まあ仮にそれが夢だとしても、そうじゃないにしても、睦月が学校に来てないってのは普通に心配だ。
――うん、睦月に電話しよう。
僕は唐突に決意した。それとほぼ同時に、4限の終了を告げるチャイムが鳴った。
教室を出てバラバラと散っていく学生たちの1人になって、僕は校門方面に歩いていく。ニイヤくんはもう帰ったし、学食に行っても誰とも会わないだろう。
教室棟から出ると、大学特有の浮ついたテンションの中で、僕はひとりだった。歩きながら、睦月に電話したときのシミュレーションをやってみる。「久しぶ
り、元気だった?」ってしらじらしいかな。「学校行ってないんだって?」ってのは、さすがにわざとらしいか。「あれから、どうしてた?」。いや、そういう
話をするために電話するんじゃないし......。って、なぜか早くも緊張してきた。おさまれ、鼓動。電話するのは夜だ。
心配なのは「なんで電話したの?」とか言われてしまうことだ。一度やったぐらいで調子に乗ってると思われるのは悲しい。でも、そうじゃないとわざわざ言い訳するのも変だし......。
いや、大丈夫。電話するぐらい別にウザくはないよな。相手がたとえば箕輪さんとか市川さんとかだったとしても、やっぱりどうしたのかなと思うし、ちょっ
と電話してみようかな、という気にはなると思う。『袖振り合うも多生の縁』とか言うし、袖どころかもっといろいろ振り合ったし。って、何バカなことをって
いうか、あ、具体的に想像したらまた下半身が!
やや前屈みになりながら、僕は悶々と掲示板の前を通りかかった。そのときだ。
「あ......」
背後からふわっと漂ってきた聞き覚えのある声に、僕は振り返った。
目が合った。
睦月が、そこにいた。
「うわっ」
僕が驚いて一歩後ずさると、睦月は眉以外の全てのパーツで笑った。
「なんで化け物でも見るみたいな反応?」
「いや、つか、その......」
今まさに妄想の中ですごい格好してた本人がいきなり目の前に現われたもんだから、下半身のエロレーダー反応が最高潮に......とか、相手が箕輪さんだったら言っちゃってたかもしれない。変なことを口走らないように、僕は気をつけて発言した。
「がが学校ずっと来てなかったって聞いたから、だから、まさかここで会うとは」
睦月は明らかに挙動不審な僕を、怪しんでいるのかどうかすら解らなかった。ただ、けろっと言った。
「あは、そんな有名になってるの? あたしが登校拒否してること」
トーコーキョヒ?
その言葉は小学校の頃から身近にあるはずなのに思いのほか硬質で、薄い唇をした小さな睦月の口から出るとまるで外国語みたいに聞こえた。それでいて、どこか甘くて懐かしい響きのような感じもした。
「有名って言うか、俺も今日、市川さんから聞いたばっかりだったんだけど」
「そっか。気にしてくれたのかな。彼女ああ見えて結構マメよね」
あくまで睦月は『普通』を装っている。僕は少しもどかしくなって、もっとストレートに訊いた。
「なんか、あったの?」
大学なんて登校を強制されてる場所じゃない。それをあえて拒否するなんて、やっぱり変だ。
「んー、何があったとか、そういうわけじゃないんだけどね。いわゆる五月病みたいなもんじゃないかな」
まるで他人事のように答えた睦月は、だからこそなんとなく病的に感じ、僕は何も言えなくなって、黙ってしまった。
数秒の後に口を開いたのは、睦月のほうだ。
「ちょっと。ここは、『もう七月だよ』って突っ込むところでしょ?」
睦月のほうが笑って、僕がシンミリしてる。やっぱり女の子って難しい。
「とにかく、大丈夫。ちゃんと前期試験は受けるし。そのために、ほら、わざわざ掲示板チェックしに来たんだから」
睦月は手に持っていた手帳をちらつかせながら、本当に心の底から大丈夫そうな顔をした。そこまで言うんなら大丈夫だろうと思って、僕はからかい口調で言ってみた。
「あーなるほど。でも、試験日程だったらWEBでもチェックできるのに」
「あー......」
睦月は僕の言葉をさらっと聞き流して、というか明らかに話をはぐらかして、試験日程の続きをメモし始めた。
あれ、なんだろう、怒ってるっぽい。
ひょっとして、地雷踏んだ? え、なに、今の会話のどこが地雷なんだよ。
オタオタする僕の横で、睦月は試験日程を全部書き終えたらしく、パタン、と手帳を閉じて、踵を返した。
「じゃ」
えらくあっけない挨拶で。
このままじゃ、やばい。と、思うが早いか、僕は睦月の背中に向かって恥ずかしいくらい大声をだしていた。
「あのさ、夏休み、海行かない?」
睦月はゆっくりと足を止めて、不思議そうな顔をしながら首だけ振り返った。
「海?」
「そう――あ、俺じゃなくて市川さんが企画してるんだけどさ。学科の子たち誘って、みんなで行かないかって」
睦月は首だけこっちを向いたまま、少しだけ口を曲げて何か考えてるような顔をしたあとで、今度は身体ごとこっちを向き直って答えた。
「たぶん、行く」
「良かった。じゃあ詳しいことは市川さんから連絡いくと思うから」
「わかった」
睦月は、今度はちゃんと手を振ってから、僕にもう一度背中を向けた。なんで校門から出ようとする僕と逆方向に行くのかは解らなかったけれど、また地雷かもしれないから聞かずにおいた。
家に帰って睦月に電話する必要がなくなった僕は、帰る道すがら、「俺からも電話していい?」とか一言付け足せば良かったかな、とか考えた。付け足したら
やっぱり調子に乗ってるかな、とも。どうやらいつまでも堂々めぐりをするらしいので、適当なところで悩むのを切り上げたりして。
なんにせよ、市川さんに誘われた時点と比べれば、3倍ぐらい海に行くのが楽しみになった気がする。その前に、レポートと試験勉強という2つの大波を乗り越えられるかってのが問題だけどさ。
第3話・八月にあったこと
「あ、見えてきたぁぁ、海だよぉぉぉ!」
なんか市川さんがはしゃいでるけど、微妙。もう超微妙。やばいくらい微妙。
四本くんが運転するアコードは今、そういう微妙な空気を乗せて海沿いの田舎道を走っている。助手席に豪さんが乗ってるのはいいとして、後部座席、右から
市川さん・僕・睦月という順で並んで座ってるのは、何だろうねこれ。少し力を緩めると、腕がいろいろなところに触れてしまうというこの配列。ずっと同じ姿
勢で固まってたせいで、背中が痛くなってきたし。
そもそもここには連帯感のカケラもない。四本くんは黙々とただクルマを走らせてるだけだし、豪さんはカーステレオで勝手に自分の好きなCDを流して一人
で歌ってるし、市川さんと睦月は真ん中の僕を無視して二人で会話が盛り上がってる。少女漫画かなんかの話? 市川さんはともかく、睦月とかも普通に漫画と
か読むんだなあ......とか、思ってる場合じゃない。
こんな調子で一泊二日、耐えられるだろうか。
こういうとき一番のムードメーカーであるはずのニイヤくんは、「泊まりはなァ~、やっぱ金がないから無理だわ」と当たり前のようにあっさりキャンセル。
そして、こういうときに男でも女でもなく(っていうと失礼かもしれないけど)絶妙に立ち振る舞ってくれる箕輪さんは、「面倒い」の一言で見事なほどクール
に僕の誘いを拒絶した。
他にもいろいろ誘ったけど、結局残ったメンツがこの5人。こんな微妙なイベントに誘ってしまった僕を、睦月が内心恨んでるんじゃないかと、心配にもなる。
1時間と少し走ったくらいのところで、車内はえらく静かになった。睦月たちの漫画談義はなんとなく途切れてしまったし、豪さんも静かになったなと思った
ら、テンション上げすぎで疲れたのか、やがて助手席で鼾をかき始めた。四本くんは相変わらず黙々と運転を続けている。セミナーハウスまでは、あと30分ほ
ど。あー、重いな、この空気。ちょっと憂鬱になりながら、僕は市川さんに聞いてみた。
「あのさ、片道2時間弱だったら、別に泊まんなくてもよくない?」
今さらって気もするけど、一応。ぶっちゃけ気乗りしないっていうアピール。でも、市川さんは案の定、そんなこと全然気にしてない様子で、脳天気に言う。
「えー、だってぇぇぇ、泊まりのほうがイロイロありそーじゃない?」
や、うん、ていうかそれがマズイんじゃないのって話なんだけど。たぶんこの人とそんなこと真面目に話そうってほうが無理なんだろうな、と僕は諦めた。
いいんだ、別に。なんかあったって――なんだかんだ言って、僕自身も妙な期待を胸に秘めつつ、チラリと左隣を見る。睦月は何の不満もないかわりに、何の期待もしてなさそうな無邪気な顔で、くかーと居眠りをしていた。
なんか緊張感とか持ってるのって、僕だけみたいですね。すみません。
そんなこんなのうちに、僕たちは無事、目的地に着いた。
「おぉー」
誰からともなく、感動の声が漏れる。大学の施設として用意されたセミナーハウスはボロいけど、その代わりすぐ目の前に海が広がっている。誰だって海を見
ると、わけもなく圧倒されるものだ。しかもここの海は、都心から2時間そこそこで行ける割に、かなり綺麗だ。濃い青に、テンションはいやがおうにもアガっ
てくる。
セミナーハウスに荷物を置いたら、すぐに着替えてバーベキューの準備。こういうのはたいがい野生人の豪さんに任せておけば大丈夫だろうと思っていたけれど、やっぱり手慣れている。
僕がレジャーシートなんかを敷いていると、その横で市川さんが、まだ泳ぐわけでもないくせに、いきなりTシャツを脱ぎだした。
「わ、おまえなにそれ」
さすがの豪さんも、炭をくべる手を止めて目を丸くした。僕も一瞬、止まった。たぶん四本くんもきょとんとしてた。というか、その周辺だけ時間が止まった
ような気すらした。それくらいインパクトが強かったのだ。こんなん実際に見たの初めてってくらいの、見事な三角ビキニ。しかも白。形が顕わすぎて、やば
い。かろうじて乳首隠すぐらいの役割しか果たしてないって、それ。
市川さんは男どもの視線を受け止めると、嬉しそうに自分で胸を鷲づかみにしながら(そのポーズやばい!)、僕のことをキッと睨みつけてきた。
「いやぁぁぁ、今、すっごいえっちな目で見てたぁぁぁ」
「や、別に......」
なんで僕だけ? と思って一応否定してみたものの、そんなもんが目の前にあったら見ないほうがよっぽど不自然なわけで、しかも見たのは事実なので、返す言葉がない。それをいいことに、市川さんはさらに声を高く響かせた。
「ぜったい見てたよぉぉぉ。見てたよね、ね、ぷっつぃん?」
始まったよ、脳内猫召還。
「見てただろうがよゴルァ、このドスケベが。入水して死ね!」
本当、その太い声だけは萎えるから。と言いつつ、市川さんの言葉のリズムに合わせてぷるぷる揺れる乳房が目の前にあるせいで、萎えるに萎えられないという現実。どっちだよ。もう勘弁してください......。
炭に向かって、ほとんど負けん気だけを原動力に団扇でバタバタバタバタ空気を送り続ける豪さんの横で、ぼんやり座ってた四本くんが市川さんに訊く。
「ねえ、『ぷっつぃん』て何?」
「あのね、ニャンコの名前だよぉぉ。この危険ばかりの世の中でミッチを守ってくれるために存在する超ナイスガイでぇぇ、本名はぷっこニャン太郎っていうのぉぉぉぉ」
「へー、なんかいいね」
よく解らない会話。噛み合ってるようにはとても見えないのに、四本くんと市川さんの会話はよく解らないなりに続いている。独特の空気には入っていけそうにないので、僕は手持ちぶさたになって、バーベキュー準備班に回った。
なんだかんだと悪戦苦闘したけれど、素人とは思えない豪さんの団扇さばきのおかげで、火は思ったより早くついた。
「よし、肉焼くぞー」
まるで体育教師のような口調で豪さんが言うと、いつの間にかレジャーシートの上で寝ていた四本くんが起きてきて、ふらふらしていた市川さん(まるでその
ほとんど裸と言っても過言ではない水着を見せに歩いているかのようだった)が戻ってきた。それで気がついたのだが、睦月がいない。まだ睦月の水着を見てな
いのに......じゃなくて、心配だ、普通に。
「あれ、睦月は?」
僕が訊いても、もう肉を焼き始めている豪さんは聞く耳持たず、市川さんはきゃっきゃとはしゃいでばかりでなんの役にも立たない。仕方ないから探しに行こうかと思ったところで、四本くんがぼそっと言った。
「たぶんあそこの海の家の休憩所で、電話かなんかしてる」
「あ、そうなの?」
って、さっきまで寝てたのに、四本くんはなんでそんなこと知ってるの? 気にはなったけれど、聞けなかった。本当にその海の家から、睦月が戻ってくるのが見えたから。
「あー、始まってる」
普通に嬉しそうに、睦月は輪の中に戻ってきた。こんなに微妙な旅なのに、ちゃんと楽しそうにしてくれて良かった。誰に電話してたのかは、ちょっと気になるけど。
豪さんが食べるだけ食べて爆睡し始めると、僕らは四人でビーチバレーもどきのスポーツをした。四本くんは意外と運動神経が良く、中学時代にバレー部だっ
たという睦月もなかなか良いプレイをした。市川さんはスポーツはからっきしダメらしく、そのくせめちゃくちゃに走ったり転んだりと大騒ぎだった。胸があま
りにも揺れるから、水着がとれてしまうんじゃないかと気が気じゃなかった(うん、だから決してエロい気持ちで胸ばかり見ていたのではないのだ)。
「あぁぁぁん、もう疲れたぁぁ」
案の定、人一倍余計な動きをしていた市川さんが言いだしたところで、ビーチバレーもどきは終わった。せっかくだからちょっと泳いでみようかと僕が海に入ると、睦月が大きな浮輪を持って追いかけてきた。
「待って、私も行くー!」
あ、その台詞やばい。というか、この段になって初めて睦月がTシャツと短パンを脱いできたので、僕のテンションはまた上がる。水着は紺に白いふちどりのついた清楚な感じのビキニ。これがまたかわいい。
一人でがっつり泳ぐつもりだったけど、結局、僕は睦月と二人で水遊びをした。お互い水を掛け合ったりして、なんかいいかんじ。こんなふうにしてると、ま
るで入学してすぐにあんなことがあったのが嘘みたいで、ここからまた新しい関係が始められるんじゃないかって気にもなってくる。
向こうでは、四本くんと市川さんが二人で棒倒しなんかして、それも端から見てるといいかんじだった。なんだかんだ言いながら、みんなが楽しんでる様子なのは、いいことだ。
夕方には豪さんがすっかり焦げていたのも、かなり笑えた。
やがて日は暮れ、なにかが起こる予感満載の夜が来た。
セミナーハウスでの部屋割りは、男子部屋ひとつ、女子部屋ひとつときっちり分けられていた。けれど当然、風呂に入っておとなしく寝て終わるつもりは誰に
もなかった(あの四本くんすら、ちょっと眼鏡の奥の目がはしゃいでた)。豪さんが気前よく焼酎を1本進呈すると言いだしたので、それを餌に女子部屋に乗り
込むことに決定、早速行動に移す。
ジャンケンで負けた僕が、ドアをノックすることになった。女子部屋の前に立ち、少しだけなんだかよく解らない気合いを入れて、いざノック――と、腕を上げたものの、そのまま僕の動きは止まってしまった。何もしていないうちに、向こうからドアが開いたのだ。
「あぁぁ、寝込み襲いに来ちゃったぁ?」
顔を覗かせた市川さんは、僕らの顔を見るなり暴言を垂れ流す。
「襲うかボケ。あんまりバカなこと言ってると、俺の焼酎はおまえに一滴もやらん」
恐れを知らない豪さんが言う。あーあ、そんな言い方したらまた『ぷっつぃん』が出てくるよ......と、僕は身構えた。けれど、なぜか市川さんは「えへへ」などと甘えたように笑う。早くも酔っているのだろうか。
「っていうかぁぁ、今、呼びに行こうと思ってたところだったんだぁぁ。入ってぇぇ」
お。
思いのほかすんなり。交渉する必要などなかったのだ。僕の気負いはあっけなく流され、戸惑いながら部屋に迎え入れられる。そして、見てしまった。部屋の奥で睦月がスケッチブックをこちらに開いて見せたものを。そこには、こう書かれていた。
第一回・チキチキちょっとマジメな川柳大会
(題字:睦月)
やたら丁寧なポップ書体で、本当にそれっぽく書いてあるし。豪さんが「なんだそれ」と食いつくと、市川さんの妙に力のこもった説明が始まった。
「一応これ学科の勉強旅行ってことになってるからぁ、勉強会をやって報告書作んなきゃセミナーハウスに泊まれないのぉぉ」
「でも、なんで川柳?」
僕も訊いた。
「だってぇ、私たち文芸学科だしぃ、文章書かなきゃいけないけどぉぉ、川柳だったらたった十七文字で済んで季語もいらないからねぇぇぇ。作文とか詩書くより、いいでしょ~?」
「なるほど」
僕たちは思わず頷いてしまった。市川さんはいつもぶっとんでいるだけに、たまにまともなことを言うだけでも説得力がある。
「お題は『今日の出来事』で、完成した人から飲み始めてオッケーってことにします。では、開始」
睦月が進行役となり、僕たちはしばし考え込む。川柳なんて、書いたこともなかった。どんなものをネタにすればいいのか、皆目検討がつかない。
「よし、出来た」
やがて一番乗りで手を挙げたのは、豪さんだった。早く酒を飲みたいあまり、必死なのだろう。
「はい、じゃあできた人は、ここに書いて発表してくださーい」
豪さんはスケッチブックを受け取ると、サインペンでかくかくと一画ごとに力を込めた独特の字を刻みつけた。
「どうだ」
太陽と 見まごう君の 超ビキニ
「え、そんなアホなのでいいの?」
思わず僕は言った。誰に聞いたというわけでもないが、みんなはけらけら笑うばかりで僕の質問に答えてくれない。まあ確かに、一発目からこれでは力も抜けるというものだ。
「えぇぇぇ、豪さんてば、えっちぃぃ」
一番盛り上がったのは市川さんで、そりゃあもう火のついたように身をくねらせて騒いでいた。うるせー。
「おまえのことじゃない。隣にいたグループの綺麗なおねいさんのことだ」
とかなんとか言いながら、豪さんはこれで文句ないだろうとばかりに、早速焼酎のボトルを開け、どくどくとグラスに注ぎ、「俺の佳作に乾杯」などと一人で乾杯して飲み始めた。誰もそれに不平を言わないのをみると、このくらいアホな川柳でも全然オッケーってことなのだろう。
「あー、じゃ俺も」
次に手を挙げたのは、予想外、なんと四本くんだった。すぐにスケッチブックを受け取って、迷わず筆を走らせる。
運転は 疲れる誰か 免許取れ!
神経質そうな文字が、軽く怒っている。びっくりマークだけが妙に漫画っぽく描かれているのが印象的だ。
「切実なメッセージが込められてるな」
豪さんがしんみりと(わざとらしく)頷きながら、四本くんにグラスを渡す。自分は免許取るつもり(というか、金)なんて、サラサラないくせに。だいた
い、みんなに大盤振る舞いするぞなんて気前のいいことを言ってたくせに、ボトルを抱え込んで、俺の酒を分けてやってんだぜ的な態度はどうなんだ。
と思っているのは僕だけなのか、四本くんはありがたく焼酎をもらい、豪さんとグラスを重ねた。
「私も飲みたーい」
そこで手を挙げたのは睦月だ。慣れたように手に取ったスケッチブックが、なぜかよく似合う。ペンを持つ手も、文字を書くよりも絵を描くのが得意そうな感じだった。
「はい、できた」
忘れたい 記憶を海に 沈めけり
「えぇぇ、なんか意味深~」
ニヤニヤしながら市川さんが言う。僕はひそかに背筋がひやっとした気がした。けれど睦月はしれっと、少し照れたように言い訳をした。
「やー、なんか陳腐。とってつけたような言葉だよね。私、文才ないなあ」
「そんなことないよ。飲もう」
ソフトにフォローする四本くんからグラスを受け取って、睦月も焼酎を飲み始めた。特に何の裏もなさそうな、屈託のない顔で飲んでいるのを確認して、ようやく胸を撫で下ろした。
うん、そうだよな。他のみんなだってふざけて適当に書いてるわけだし、適当にそれっぽい言葉を思いついて並べただけなんだろう。だいたい、睦月がこんなところで僕へのメッセージを書き連ねたんじゃないかと思うなんて、思い上がりもいいところだ。
「はぁぁい、残り二人でぇぇす。よろしければ、お先にどうぞぉぉ」
市川さんが僕にスケッチブックを手渡した。僕は仕方なくペンを手に取る。
特になにも思いつかない。
うーん。
少し考えて、苦し紛れに書いた五七五。
泳げども たどり着けない 水平線
「ああ? おまえ、つまんね」
見せた途端、豪さんがキレた。
「確かに中途半端だよね。ウケを狙うわけでもないし、誰もが知ってる普遍的な内容だしね」
いつもおとなしい四本くんも、便乗して批判した。なんだかショックだ。
「メッセージ性も弱いもんね、ガツンと来ないよ」
睦月までそんなことを!
「なんかねぇぇ、言葉が死んでるよぉぉ」
うわ、とどめを刺す市川さん......きつい、きついよ。
「みんなだって適当に書いてるくせに......。市川さん、デカイこと言ったからには、スバラシイ作品を見せてくれよ」
大人げないとは解っていたけど、ブツブツと拗ねながら僕は市川さんにスケッチブックを渡した。市川さんのほうは。僕の言葉に萎縮するふうでもなく、「ん~、そうだなあ」とかなんとか言いながら、楽しそうにペンを動かし始める。
「んんんん~、できたぁぁ」
やがてこちらに向けられたスケッチブックには、えらくきれいな文字で書かれたきれいな言葉。
焦げた肌 きらめく波に 映える君
「豪さんがミッチのこと書いてくれたから、お返しぃぃ」
あくまでもいつものテンション、いつもの甲高い声で、市川さんは解説した。その文字と本人のキャラがあまりにミスマッチで、不覚にも市川さんのことを見直してしまったほどだ。それはもちろん、この子ってただの電波じゃないんだな、とかそういうレベルの話ではあるけれど。
「俺の作品はおまえのことじゃないと言ったはずだが? でもアレだな、俺の肉体美を上手く表現した秀作だ。まあ飲め」
「ぅわぁぁぁい」
嬉しそうにグラスを受け取り、市川さんはみんなと乾杯を始めた。そうやって普通に笑ってれば、可愛いのにね......って、あれ?
気付けば僕にだけグラスが配られておらず、もちろん酒なんてまだ一滴も飲んでいないのだった。豪さんなんか、既にほろ酔い気味なのに。
「ちょっと、俺も焼酎!」
訴えてみたものの、豪さんは市川さんとなにやらぎゃあぎゃあ喋っていて、聞く耳持たない。聞かなくてもいいから、ボトルだけちょっと手放してくれ! と、僕は無理やり焼酎を奪おうとした。が、結局そうしなかった。
「ワインなら、私が持ってきたのがあるけど。一緒に飲まない?」
いつのまにか隣に座っていた睦月が、声を掛けてくれたからだ。本当はワインって苦手なんだけど、豪さんの焼酎より睦月のワインのほうが、絶対旨そう。
「飲みます」
やっぱり睦月だな、とかよく解らない結論の中で、僕はようやく酒にありつけた。
全員が少し酔い始めると、雰囲気もかなり良くなって、僕たちはみんなでトランプなんかをしながら夜を過ごし、適度に二日酔いを抱えながら、次の日にはセミナーハウスを後にした。僕は一応、ニイヤくんと箕輪さんにお土産も買ってみたりもした。
なにかと複雑なアンナコトやソンナコトは、少なくとも僕にはなにひとつ起こらなかったけど。まあまあ楽しかったと言える旅だった。
夏ってのは、その解放感に期待が膨らみすぎるってだけの話で、現実はこんなもんでいいんだと思う。本当に、そう思うよ。
第4話・九月にあったこと
爆音に吹っ飛ばされそうになりながら、僕は腹にチカラを込めた。
なんだこれ。
それほど大きいわけでもないライブハウス。オールスタンディングの客席は、前半分だけに人が密集してる。そこで叫び飛び跳ねぶつかり合っているのは、
30~40人ほどのやたら血気盛んっぽい人たちだ。こういうのもパンクファッションっていうんだろうか、とにかくちょっと変わった服装に身を包んでる。
客席の後ろ半分はガラガラだった。無理やりつれてこられたのか、ほかの対バンが目当てなのか、所在無い顔でステージを見るわけでもなくきょろきょろして
る人が数人。たぶん僕もあんな表情をしてるんだろう。僕(や、この辺で突っ立ってる人たち)は、爆音にさらされながらも完全に蚊帳の外にいる。
ステージ上ではバンドメンバーが入り乱れて、暴れる投げるの大騒ぎ。ホーン隊含めて10という大所帯だもんな。こんなに狭いステージじゃ、隣と奴とぶつかり合うことは必至だ。そりゃ演奏にもならんだろうよ。
僕だって音楽はそれなりに好きなほうなんだけど、これはダメだった。理解できない。なにしろさっきの曲と今の曲がまったく同じに聞こえるのだ。この前に
出てた対バンも、爆音すぎてワケ解んなかったし......。とりあえず解るのは、とにかくすごい状態だってことだけだな。盛り上がっているといっていいのかもし
れないけれど、言わない。
それにしても。
ステージの真ん前でアツくなってる人たちの中、箕輪さんはさすがに長身でよく目立っている。
いつもあんなにおしゃれで、何にも動じないクールな箕輪さんが、ここまで髪の毛を振り乱して興奮することがあるなんて、まったく想像つかなかった。
「どーもー、コスタ・デ・スカンキング・オルケスタでしたー」
やがてボーカルの兄ちゃんがそう言ったのを合図に、ステージ上のメンバーたちがわらわらと退却していく。それと同時に、ステージ前に固まっていたファン
たちも、空中分解のように美しくバラけた。箕輪さんがひょいと首を伸ばし、人ごみの中から頭を飛び出させてキョロキョロする。僕は、自分が探されているこ
とを悟って、手を振った。
すぐに僕に気がついた箕輪さんは、人の流れをすいっと抜け出して僕のほうにタタッと駆け寄ってきた。
「どうよ、すごい勢いあるバンドでしょ?」
頬を紅上させて駆け寄ってきた箕輪さんの、いつにない笑顔......より、なんとなく汗でびっしょりに濡れた首筋のほうに目が行きながら、僕は半笑いで頷いた。
なんとなく、箕輪さんの新しい魅力を見たような気がするよ、うん。
僕がこんな場違いなところに連れてこられる羽目になったのは、本当に単なる成り行きだった。
そもそも、大学に用がなけりゃ来ることもない猫田の街までわざわざやってきたのは、海に行ったときのお土産を渡すためだった。後期の授業が始まってから
でも良かったけれど、つい数ヶ月前まで高校生だった僕にとって、九月いっぱいまでの夏休みは長すぎる気がした。地元の友達と遊ぶ毎日にも飽きてきたし、家
にあるゲームもやりつくしたし、バイトは週2回の家庭教師だけだし。
一応連絡をしてニイヤくんのアパートに押しかけたものの、夏も変わらず(つうか帰省する暇もないくらいって言うんだからいつも以上に)バイト地獄らしく、本当に会ってお土産を渡すぐらいの時間しかなかった。
「冷たいなー。たまには友達と遊ばないと、いざというときに頼れる奴がいなくなるよ?」
僕が言うと、ニイヤくんはいつもの調子いい顔で笑った。
「遊び相手を探してるんなら、箕輪さんでも誘ってあげたら? なんかすげーヒマらしくて、しょっちゅう家に入り浸って、困ってんだよ」
「そうなんだ?」
意外だった。箕輪さんとニイヤくんて、どう考えても性格合わなさそうだし、二人で会っても話すことなんてあるんだろうか。ていうか、僕が知らないだけ
で、みんな会ったりしてるんだろうか。僕はすっかり大学と疎遠な夏休みだ。海以来、特に誰とも会ってないし連絡も――あ、市川さんから暑中見舞いのハガキ
がきてたけど、そんなもんだ。大学の友達と会いたくないわけじゃないけど、なかなか猫田まで出てくるのが面倒くさい。
まああれだな。ニイヤくんたちは合う合わない以前に、お互い歩いて5分のところに一人暮らししてるんだから、いろいろ協力しあっていくほうが便利ってことなんだろう。
テキトーに納得して、バイトに出かけるニイヤくんと一緒にニイヤ宅を出る。その足で箕輪さんのマンションに行くことにした。もちろんお土産もちゃんとある。
一ヵ月半ぶりに会う箕輪さんは、特に変わりなかった。美容院に行ったばかりなのか、髪が少し短く整えられたかな、というところ。
お土産を渡してから、僕は誘ってみる。
「あのさ、今日ヒマしてるんなら、飲みにでもいかない?」
けれど箕輪さんはそのクールな表情を崩すこともなく、ふいっと首を横に振って。
「あ、ごめん。今日は......」
と言った。
そっか。ニイヤくんの話では、いつもヒマでヒマでしょうがなさそうだったのに。僕の誘いだから断ってる、なんて考えすぎだよな。きっと今日に限って用事があるんだ。
「そっか、じゃあまたそのうち――」
多少残念に思いながら引き下がろうとした僕の顔を覗き込むと、箕輪さんはふと『いいこと』でも思いついたような笑顔になって言ったのだった。
「や、やっぱ今日、付き合ってくんない? 行きたいライブがあるんだけど」
「ライブ? うん、まあいいけど......」
それが運命の分かれ道だった、というのはまあ、大袈裟な言いかたかもしれないけど。
猫田駅前のマックでコーヒーを飲みながら、僕は箕輪さんを待った。
「準備するから、三十分ぐらいどっかで待ってて」
そうやって僕を追い出した箕輪さんが、どんなおしゃれをして来るのか楽しみだ。なんだかんだ、女の子と2人で出かけるのなんて久々だし、デートの待ち合わせみたいじゃないか、これ。
そんなことを考えながら内心かなり浮かれていた僕の前に現れた箕輪さんは、けれど、いつもと完全に違う箕輪さんだった。そりゃまあ、いつも割とシンプル
な服に似合わずピアスをゴテゴテつけたりしてるなとは思ってたけど。え、なんで今日はTシャツにそんないっぱい安全ピンいっぱいついてんの? と思いなが
らも、なんとなくツッコめないまま、とにかく一緒に電車に乗った。
移動中、箕輪さんはいつになく饒舌に、その『コスタ・デ・スカンキング・オルケスタ』なるインディーズのスカコアバンドがいかにアツイかを語ってくれ
た。そんでもまあ、よくオススメのCDを貸してくれる箕輪さんの音楽センスはなんとなくいい感じだと思ってたから、そんなに心配してなかったんだけど、
さ。
結論は、良くも悪くも期待を裏切った、印象的なライブだった。
化粧室で汗を拭き、化粧をピシッと整えてきた箕輪さんを待って、二人でライブハウスを出た。
出口の前には、もう『コスタ・デ・スカンキング・オルケスタ』のメンバーたちと、おまけに箕輪さんと同じような格好をしたファン、というか追っかけたちがたむろしていた。差し入れらしい包みを渡したり受け取ったり、次のライブのチケットを売ったり買ったり。
箕輪さんはいったん僕の横を離れて、メンバーと二言三言なにか簡単な挨拶を交わす。そして、「じゃあ今日は友達と一緒なんでー」とかなんとか、常連らしい口ぶりで手を振りながら僕のところに戻ってきた。
「また友達ガンガン連れてきてよー」
メンバーの一人が輪の中から叫ぶと、箕輪さんが振り返って答えた。
「はいー、またチケ売り上げに貢献しますー」
って、なんだよ。僕は単なる売り上げ貢献要員か......?
多少しらけた気持ちを抱えつつ駅へと戻る。でもその道すがら、箕輪さんはちゃんと僕へのフォローも忘れなかった。
「はぁあ、ノド渇いたあ。ね、軽く飲みに行かない?」
「え、うん、いいよ」
まるで待ってましたー的なタイミングで即答した自分はどうなんだよ、と思いつつ。よっしゃ、デート気分再開。
店を探して、二人で歩く。
「がーっっとビール飲みたい。勢いよく流し込みたい!」
いつにないハイテンションで言う箕輪さんが、ここにきてようやく可愛く見えてきた気がした。
「腹減ったなぁ。そういえば、朝飯以来なんも食ってないよ」
「じゃあ、がっつり食べれそうなところがいいよね」
そんなことを言い合いながら、並んで歩く夜の街。考えてみたら箕輪さんとは、学校かその周辺、だいたいニイヤくんちか『だっぺえ』ぐらいでしか会ったことがないのだ。猫田以外の街をこうして歩くのはなんだか不思議で、いやがおうにも気分がも盛り上がる。
「この辺の店って、あんまり知らないんだよな」
「私もよく来るわけじゃないけど......あ、ねえ、そこの店なんか良くない?」
箕輪さんが指差したのは、カジュアルっぽいイタリアンの店。うん、なんかデートっぽくていんじゃない? 箕輪さん安全ピンでゴテゴテだけど。
僕たちはいそいそとその店に入っていった。
席に通されてすぐに、生ビールを2つ頼む。急に思い出したように、箕輪さんがバッグから煙草を取り出して火を点けた。いつものマルボロメンソール。アン
ニュイな感じでぷはーっと煙を吐き出す姿はまるきりいつもの箕輪さんそのもので、やっぱりさっきまでの興奮した姿はニセモノなんじゃないか、とか思ったり
した。
「お待たせいたしました、生ビール......」
背後から近づいてきたウェイターが、そこまで言いかけて言葉を止めた。なんだよ、なんでもいいから早くビールをテーブルに置いてくれ、とウェイターを睨みつけようと振り返ったところで、こっちも思わず絶句。箕輪さんも目を丸くしてウェイターの顔を見上げていた。
「ご......豪さん!?」
気取った声なんか出すから気がつかなかったじゃないか。蝶ネクタイなんか締めて、髭も剃って、そんな小ぎれいな格好じゃ目を疑うじゃないか。でも、そこにいたのは確かに豪さんだった。
「うわ......なんだ、おまえら。デートかよ。穏やかじゃねえなあ」
小声ではあるが、豪さんはいつもの口調で言う。こっちこそ、と僕は言い返した。
「豪さんこそ、なにその格好。こんな店でバイトしてるなんて、知らなかったよ」
まあ別に、どこでバイトしようが友達にいちいち申告する必要なんてないけど。とにかく僕はそう言った。でも豪さんはそんな詮索をされても特に気にしない様子で、普通に答える。
「いや、ここでバイトしてる友達が長期休暇とってインド放浪しててさ、人が足りなくなるから手伝ってくれって言われたんだよ。髭まで剃って、働きまくりだっつうの」
「へえー、インド。なに、友達ってうちの大学の奴?」
「いや、前の大学の」
さらりと言いながら、豪さんはやっとビールをテーブルに置いた。箕輪さんがすごく飲みたそうな顔をしているので、僕らはとりあえず軽くジョッキをぶつけ
合って飲み始めた。豪さんは僕らの一口目を恨めしそうに横目で見ながら、でもまあ仕事中だから一緒に飲むわけにもいかないので、引き下がる。
「ま、これも何かの縁だ。できたら1品ぐらいなんかサービスしてやるから、ゆっくりしてけよ。お前らがこそこそと逢引してたことは、みんなには黙っといてやる」
豪さんがそんな言葉を残していったせいで、テーブルに残された僕は箕輪さんと向き合っているのがちょっとだけ気恥ずかしくなった。なんつうか、これってデート気分じゃなくて完全にデートだし、非日常のテンションじゃなくて日常の中の1コマなんだよな、とか改めて考える。
もうすっかりいつもの状態にクールダウンしている箕輪さんは、僕から話しかけない限り自分からは何も話を振ってきそうにない。仕方なく豪さんのことでも話のタネにするか。
「しっかし豪さんってほんといろんな仕事やってるよね。妙に顔も広いしさ。だいたい、前の大学って......あれ? 前の大学?」
僕はさっきテキトーに聞き流してしまった豪さんの言葉を思い出して、一人で驚いた。
「なんだ、豪さんてもしかして、仮面浪人かなんかしてたの? 全然知らなかった」
「あー、ね」
箕輪さんは表情も変えずに、2本目の煙草を灰皿に押し付けながら、淡々と言った。
「仮面かどうかは知んないけどさ、あの人いろいろあるみたいだね。サラリーマンやってたことがあるって聞いたこともあるし、ほら、まえに強制送還された、えっと、なんだっけ?」
「ああ、スチーム?」
「そうそう。スチームとも本当はバイト先で知り合ったんじゃなくて、豪さんが何年か世界中を放浪してたときに知り合ったって噂もあるよ。いまさら、前にどっか違う大学行ってたって言われても、なんも不思議じゃない」
そりゃ確かにそうだ。年齢なんていちいち聞かないから解らないけど、確かに豪さんはもう大学をとっくに卒業していいくぐらいの歳に見える。その間にどんな人生を過ごしていようが、驚くべき事じゃない。ただ、僕が勝手に多浪してたんだろうと思ってただけで。
「そんな噂が飛び交ってるのか......改めてすごい人だな」
「噂は噂だよ。ってか、酔っ払うと豪さん時々そういうこと言うからね。だから、豪さんが潰れて寝ちゃったあとに、ニイヤくんとそんな話で盛り上がったりするの」
「へーえ」
ニイヤくんとの会話は盛り上がりますか。なんか意外。
最近の僕は、人の意外な一面を見せられると弱い。妙に動揺する。今日の箕輪さんの変貌っぷりとか、この前発覚した電波ゆんゆんな市川さんの意外な文学少女っぷりとかもそうだ。なんなんだろうね、この焦りみたいな気持ち。
「ま、いいんじゃない? 豪さんのことなんて」
箕輪さんが冷たく言い放ったとき、また後ろから気配。
「俺がなんだって?」
豪さんが、巨大なプリッツのようなものを、おしゃれなグラスに入れて出してくれた。
「なに、これ?」
僕が聞くと、豪さんの代わりに箕輪さんが答える。
「グリッシーニでしょ。私これ結構好き」
「そりゃ良かった。つまらんものだが、クールビューティーな君にサービスするぜ」
「ありがと」
さすが箕輪さん、と思いながら、僕はそれを早速1本齧ってみた。サクサクと軽い感じで、ビールにもよく合う。
「旨いじゃん。豪さんにしちゃ、珍しく太っ腹だね」
「別に、店のものだから俺の金が出てくわけじゃないしな」
「そっか」
僕たちはありがたくそれをいただき、ついでにノドの渇きに任せて流し込んだビールがもうほとんどジョッキに残っていないことに気がついて、豪さんに2杯目を注文した。僕はビールをもう1杯。箕輪さんはグラスワイン白。
まったく、なんで女の子はワインが好きなんだろうね。箕輪さんも、睦月も......。
そういえば、睦月も海に行って以来、音沙汰なしだな。どうしてるんだろう。って他の女の子と飲んでるときに考えるのは、やっぱ失礼だよな。睦月のことは保留。
その後はピザやパスタを食べながら、僕たちはゆっくりとアルコールを流し込んでいった。
豪さんは勤務時間が終わったのか、休憩にでも入ったのか、まさか僕たちのデートを邪魔しないように気を遣って――ってことはないと思うけど、そのあと姿を見せることはなかった。
茶々が入るのは恥ずかしいが、茶々が何も入らないとそれはそれで気まずい。会話が途切れるたび、ついついグラスを口に運んでしまう。でも、箕輪さんのほうが僕より絶対酒に強いのは解ってるから、負けないように適度にコントロールだ。そんなことを心がけて飲んでいた。
箕輪さんはやっぱり全然ペースを崩すことなく飲み続けている。それはいつもと同じだったけど、それでも彼女を取り巻く空気は、いつもの『黙って男どもの
話を聞いてやろうじゃないの』的な態度とは全然違っていた。僕がなにか言えばちゃんと反応するし、割と笑ったり、時々いじけたように口を尖らせたり、もの
を食べておいしいとちゃんと感想を述べたり。
「ちょっと飲みすぎたかな」
なんて言葉まで出てきた。ありえない。
「そんなこと言って箕輪さん、ザルじゃん」
「そうでもないよ。気を張ってれば酔わないけどさー」
「へえ」
僕は、ノドまで出かかったその続きの言葉を飲み込んだ。
男どもの酒が入り乱れたかなりえげつない下ネタにも、百戦錬磨みたいな平然とした顔で付き合う箕輪さんが。本当はいつも気を張ってる? それとも今日はいつになく気を許してる?
どっちにしても、なんだかクールな眼鏡の奥にある箕輪さんの目が、いつもよりずっと可愛く見えた。いつもそうやって素直に笑ったり怒ったりすればいいのに、なんでしないんだろうな。
結局終電近くまで飲んで、僕らは店を出ることにした。そのまま、このデート(気分?)が終われば、完璧だったんだけど。
「なんかさあ」
会計のためにレジまで歩く途中、箕輪さんが僕のTシャツの裾を引っ張った。
「え、なに?」
軽いスキンシップに緊張しつつ、それを悟られないように落ち着いた声で振り返る。箕輪さんは、少し据わった目で店内を見回しながら、言った。
「グリッシーニ、どのテーブルにもあるね」
「そういえば......」
見回してみるとそのとおり。客がいるテーブルすべてに、あのグリッシーニの入ったグラスがある。まあ確かに旨かったから、ひょっとしたらこの店の人気メ
ニューなのかな。そんな暢気なことを考えた僕をあざ笑うかのように、ちょうどレジ近くに新しく入った客のテーブル前で、ウェイトレスさん(しかも超可愛
い。豪さんよりこの人のほうが良かった)が言ったのだった。
「こちらサービスのグリッシーニとなっております」
えー!
こうなってみると、豪さんがあのあと僕たちのテーブルに近づかなかったのは、余計なこと突っ込まれないための対策としか思えない。ちくしょう、策士め。
「あぶねー、豪さんから売られた恩をまんまと買っちゃうとこだった」
「ま、いんじゃん? 誰にも損害を与えない嘘だしね」
僕たちは目を合わせて苦笑した。
あ。これはこれでいいデートの締めくくりかもしれない。最後に笑えたことは、豪さんに一応感謝するべきだろうか。
もちろん、あとで文句は言うつもりだけど。
第5話・十月にあったこと
こんなもんなんかなあ、とか思う。
大学の夏休みってえらい長いくせに、後期との境界が曖昧で。僕の周りだけ? でも高校までの生活って、もっと夏休みと二学期のギャップも大きかった。制
服のせいか、通学の時間が統一されてるせいか、それとも学校にいることがイコールなんらかの規律に縛られることになるからか?
なんにせよ、ともかく大学ってのは今までどおりにいかない。こんなことを思うのは、僕がまだ高校生気分が抜けきっていない証拠かもなあ。
とか思いつつ。
そんなことはどうでもいい。問題は、とにかくみんな、学校に来ない、つうことだ。
とりあえずニイヤくんに電話したら、なんと今さら帰省してることが判明した。
「いやぁ、夏休みマジ忙しかったからさ。やっと帰れたんだよ」
なんて、呑気に言う。や、夏休み終わってるよ?
「大丈夫だよ。どうせ後期のはじめ1週間なんて、オリエンテーションみたいなもんなんだろ。再来週ぐらいには行くからさ」
って、ヨユーで1週間以上帰省する気だし。
僕は呆れたけど、結局はニイヤくんの言うことのが正しかった。最初の一週間、講義はどれも行っても行かなくてもいいような内容だった。しかも、よりによって台風が直撃したおかげで、半分くらいは休講になった。
そのしょうもない1週間が過ぎた時点で、今度は箕輪さんにも一応、電話してみた。箕輪さんまで帰省してたりして、と思ったけど、さすがに違った。
「え、後期ってもう始まってる?」
返ってきたのはものすごい寝ぼけた声。ひょっとして、ニイヤくん以上の強者? 箕輪さんらしいというか、逆にらしくないというか。
「始まってるよ。なにやってるの」
なんとなく僕はちょっと茶化すような感じで(それはもちろん、親しみを込めてだ)言ってみたけど、箕輪さんは別に僕のそんな気持ちを汲むこともなく、以前と同じようなクールな口調で答えた。
「別に。そんじゃ、たぶん来週あたりから学校行く」
なんだってみんな来週来週って言うんだろ。どうせ明日も暇なくせに。
マトモに学校来てて、適当に喋れる相手は市川さんぐらいだ(別に喋んないけど、四本くんも初日の1限からしっかり来てた)。豪さんは夏休みが終わったことは知ってるらしいけど、以前と変わらず神出鬼没。講義も、たまに出てきたと思ったら出席カードだけ提出して消えたり。
ああ、それと。
睦月も、まだ顔見てない。
で、僕はというと。
「学食飽きたから、外にご飯食べに行こうよぉぉ。良いお店知ってるからぁぁぁ」
なぜか市川さんに誘われて、四本くんと一緒に、学校の外に連れ出されてたり、してる。
なんつか、異例の三人組だよな。いや、考えてみりゃ夏休みも一緒に一泊旅行したんだし、そんなにおかしい組み合わせでもないか。いや、旅行なんて学科有志の勉強旅行って建前だし、やっぱおかしいか。相変わらず、僕にとっては二人とも謎の人物だし。
「で、どんな店なのよ」
僕が聞いても、「行ってからのお楽しみぃぃぃぃ」とか、絶対教えてくれそうにないし。ホントどこ連れてかれんのか解んない。市川さんオススメの店なんて、絶対怪しい。マジでセンスおかしいし。
今日着てるカットソーだって、なんだよその変な緑色。緑っていろんなニュアンスあるじゃん。なんでよりによってそんな、なんつうか枯れかかった若草色? みたいな緑を選んじゃうんだよ。
あーあ、俺は貴重な時間を、一体どんな店に連れてかれて過ごすんだ!
悲壮感たっぷりに心の中で叫んだ瞬間、まるで天から一筋降りてきた蜘蛛の糸みたいに、僕の携帯が鳴った。
ニイヤくんからだった。
「あのさ、俺こないだ実家から土産もって帰ってきたんだけどさ、学校持ってくの面倒いから、ウチまで来ねえ?」
電話が繋がるなりこっちの都合もなにも気にせず唐突にそこまで言い切ったことといい、その一方的な内容といい、全体的にニイヤくんらしい。僕は呆れながらも思わずニヤけてしまった。
「学校から一番近くに住んでるくせに、面倒いとか言うなよ」
「いいから来いって」
「だいたい、学校に持ってこれないほどの土産なんかもらっても、俺だって困るし」
と、喋っている間にフッと右耳のあたりに殺気を感じた。どうやら『土産』というワードに反応して、斜め後ろを歩いている(道案内のくせに先導しない)市川さんが、らんらんと目を輝かせた気配。
やばい。
僕は彼女と目を合わせないように首の角度を変え、受話器を持ち直そうとした、が。
「いや、土産つっても酒だからさ。もうウチ来て飲んじゃえばいいって話......」
「わぁぁ。お酒だってぇぇぇ」
瞬間、呆気にとられて、僕は自分が今どういう状態にあるのか解らなくなった。右手から左手に持ち替えようとした携帯は今や、僕のどちらの掌中にも存在せ
ず、当たり前のように市川さんが握りしめてる......。でも、これは僕のせいじゃない。ニイヤくんの声が、やたら甲高くてデカいのが悪いんだ。
「あのねぇぇ、うちらちょうど三限休講なって、外にご飯食べに行くところだったの。ちょうどいいねえぇぇぇ。今からみんなでニイヤくんち行くね」
勝手に電話を横取りして話を進める市川さんに、いつも割と一方的なニイヤくんもさすがに不意打ち喰らったような雰囲気。ほんの少しの間をおいて、電話の
向こうで「え、つか『みんな』って誰?」とか、素でオドオドした。その間抜けな声もやっぱり甲高くてデカいから、受話器を持ってない僕のところまでちゃん
と届いてて。
たぶん、四本くんにも聞こえたんだろう。知らないけど、思わず四本くんと目を合わせて笑ったりして。それからお互いに、なんとなく照れくさいつか、気まずい空気になった。
「今さら行き先変更ってのもウザいよなー。学校にいるときに連絡くれれば、裏門出てすぐだったのにさ」
ニイヤくんのアパートに向かう道すがら、二人を道案内しながら、僕はブツクサと文句を言った。僕らは学校から駅と反対方面、住宅地のほうに向かって歩いてたから、学校に戻るまでもなく、途中で道を曲がって例の道を通らなきゃいけない。
で、問題はこの道。
「このさあ、西門から裏門までの一本道。ここ妙に長いっつうか、やたら単調でつらいんだよ」
ウダウダ言いながらも、でも一人で歩くよりはマシかなと思ってる自分もいる。
昼間だから、さすがにそこまで不気味なこともない。けどやっぱ、右手に学校(の窓のない面)しか見えず、左手には延々と高い壁がそびえ立ってる道は、人通りも多くなく、ちょっとした異次元みたいだ。
「この壁、なに?」
ぼそっと四本くんが呟いた。市川さんはそれを聞いて、初めてその壁に気付いたかのような感動でもって返事をした。
「うっわぁぁぁ。なんかこの壁、めちゃ高いねぇぇ。5mくらいある?」
「いくらなんでもそんなにないよ。3mあるかないかってとこだろ」
ボケのつもりなのか天然なのか解らないけど、市川さんに一応ツッコミは入れておいてあげた。しかし、不思議なもんだと思う。
壁が、じゃなくて、自分が。
高い壁に脅えながら真夜中に一人でこの道を歩いたのは、ほんの数ヶ月前の話だ。うん、夏前。ひとつ夏を越えたぐらいで、別に僕自身にはなんの変わりもないのに、この壁にはちょこっと、慣れてる。や、慣れたっつか、なんも感じなくなったんだろうな。
恥ずかしながら、実を言うと前はホントに怖かったんだ。だってこの壁、高いし黒いし日当たり悪いし、向こうの世界について想像を膨らませるのにうってつ
けだもん。怪しい組織が人に知られてはいけない活動を行ってるんじゃないかとか、世間と隔絶しなきゃいけないようなヤバい人たちの巣窟なんじゃないかと
か。
ま、どう考えてもそれは現実的じゃない。でも、そういうつまらない想像とか奇妙な物語が、すごく似合いそうな壁だとは思う。
だから、そう。そんな壁を見ても、特になにも想像しなくなってた自分に気付いて、ちょっとびっくりしたってことだ。
うん。これが慣れってやつなんだろうな。
「この壁の向こうって何があるんだろうねぇぇ」
僕はすっかり慣れて何も感じなくなったとはいえ、普段こんな道を歩いたりしない市川さんには、やっぱりもの珍しいものらしい。ちょうど夏前の僕みたく、いろいろ想像を膨らませた顔をしてるのが解った。僕は懐かしい子供時代を振り返るような気分で市川さんを見守る。
けどやっぱ、すぐにそれは撤回。
「よぉぉぉし。ぷっつぃん召還☆」
「えー」
突然張り切って叫んだその声に萎えすぎて、僕は思わず口を尖らせてしまった。僕にとって、彼女は得体の知れない回路の持ち主に違いなかった。でも、彼女はこういう状態になると当然周りのことなんか気にしないわけで、素知らぬフリで右ナナメ45°の空と会話する。
「ねぇねぇぷっつぃん。ミッチのお願い、聞いてくれるよね?」
「もちろんだよ、ミッチ」
「本当はこれ、アンドロゲンの得意分野なのよねぇぇ、同じ猫でもホルモンは高所恐怖症だったりするしぃぃ。ぷっつぃんはニャン子として、どう? この壁によじ登って、向こうを見てくることはできるの?」
意味不明な単語が次々と出てくるので、思わず救いを求める目で四本くんを振り返ってしまった。ら、四本くんはしれっとした顔で「アンドロゲンとホルモンってのは、市川さんが飼ってるリアル猫の名前らしいよ」とか教えてくれた。
つか、四本くんもなんでそんなこと知ってるかな。とか、呆れる僕の横でなおも市川さんの一人芝居(交信?)は続く。
「おいらキッドニャッパーvol.3、不可能なんてないのであーる」
「やったぁぁぁ。じゃあお願いね!」
「お安いご用さ。そのかわり報酬は......解ってんだろ?」
「かぁぁぁぁっ。や......やだぁ......ぷっつぃん、みんなの前で、私のこの可愛らしいお口からそんなコトを言わせるつもり......?」
目をうるうるさせる市川さん。つか、『カーツ』って頭に血が上る(赤面する)音であって、台詞じゃないんじゃ......? なんかもう、見てらんないと思って、思わず頭を横からチョップして、ツッコんだ。
「いい加減、なげーよ」
市川さんははっと慌てたように(一応、時々は周りが見えるらしい)、ウインクをしながら言った。
「よぉぉぉし、それじゃあぷっつぃん、行ってみよ♪」
オイ本当に行かせんのかよ(?)と思いながら、見えないはずの猫の後ろ姿を一緒に追ってしまった自分のいいかげんさに、思わず苦笑。ちなみにやたら英単
語に強い四本くんが「キッドナッパーって......児童誘拐犯だよな......」と確認するように一人で呟いていたのも聞き逃さなかった。
結局市川さん曰く、
「あのねぇぇ、ぷっつぃんはポチャ猫たんだから、こんな高い壁に上れなかったんだってぇぇ」
というわけで、壁の向こうに何があるのかは解らず仕舞いだった。どうせ解るとは思ってなかったから、いいんだけど。
そんなこんなで、僕らは無事ニイヤくんのアパートに到着した。
部屋の前に立つと、いつかのようにぶっといマジックでわけの解らん貼り紙はなかったけど、ベージュの塗装がところどころ剥がれている小汚い玄関ドアの向こうから、ぶっとい笑い声が聞こえた。
「あっ、豪さんだ」
いち早く聞き分けたのは、市川さんだった。つうか、「おい、旨いなコレ。な。旨いよ。ヤバイ。ヤバ旨」とかいう、やたら上機嫌な興奮気味の声は、誰が聞いてもすぐに豪さんだと解るけど。
とにかく僕らは、もうインターホンも鳴らさずにいきなりドアを開けた。
「みんなのアイドル、ミッチの登場だよぉぉぉ」
市川さんが部屋に飛び込むなり叫んだけど、それにはニイヤくんが「うわ、テンション高いの来ちゃったよ」と一言反応したぐらいだった。僕らは特に大きな
感動もなく、かといって嫌な(あるいはビミョーな)顔をされることもなく、普通に迎え入れられた。どうせ向こうは飲んじゃってるし、待たれてたって感じで
もないけど、そん代わりこっちも別に急いだワケでもないしね、こんなもん。
なんか、『当たり前のように』ユルユルな午後のひとときだな、と思う。でもその『当たり前』は、なぜか懐かしかった。
四本くんは初めての家に来た割には別に緊張も興奮もしてなさそうなフラットな表情で「うぃっす」と呟きつつ、玄関にしゃがんで脱いだ靴を揃え始めた。な
んともご丁寧に、何足も脱ぎ散らかされたニイヤくんの靴や、履き潰れてほとんどゴミみたいになってる豪さんのアディダスまで、全部。
僕はこんなに健気な四本くんを放って部屋に入る気になれなかった。だからといって、別に手伝う気も特にない。そんな汚いもん、触りたくないし。とりあえず所在なく、玄関にぼーっと突っ立ったまま、相変わらず狭くるしくて小汚いニイヤくんのワンルームを俯瞰した。
部屋の中では、ニイヤくんが鼻高々に抱える一升瓶に市川さんが飛びつこうとして、それを豪さんが横取りしようと目を光らせていた。ちなみに少し離れた窓際では、箕輪さんがコップ酒を傾けながら一人で涼しげな顔。みんな相変わらずだ。
とりあえず人のグラスから酒を飲みかねない市川さんが心配になったので、僕は勝手知ったるミニキッチンの戸棚からグラスを3つ出しながら、誰にともなく言った。
「つか、ニイヤくんがみんなに酒を振る舞うなんて珍しいよね。いくら土産とはいえ」
なにしろ昼飯さえ人に奢らせようとするニイヤくんだ。この部屋で飲むときはいつも酒持参。もしくは誰かが買ってきた酒を一円単位までワリカンすることが
義務づけられてる(しかも、ニイヤくん本人は場所代だといってワリカンの頭数に入れられることを断固拒否する)。手ぶらでここへ来て酒が飲めるなんて、
はっきり言って奇蹟だ。
けど、ちょっと感心してしまった僕にニイヤくんは、悪びれた様子もなく答えた。
「まあ土産つっても家にあったもん勝手に持ってきただけだから」
よく見れば一升瓶のラベルには越乃寒梅って書いてある。
「これって確か新潟の地酒じゃ」
「有名だろ。そんなこといちいち聞くなよ」
「ニイヤくんって実家どこ?」
「長野」
「全然帰省土産じゃないじゃん......」
そんなこったろうとは思ってたけどさ。
とにかく、そんなくだらないこと言ってる間に、四本くんがようやく靴を揃え終わったので、グラスをひとつ渡す。あと、あんまり飲ませたくないけど、市川さんにもひとつ。
二人は頭を下げてグラスを差し出し、まるでニイヤくんから施しでも受けるかのように酒を注いでもらった。僕は、いくらタダでいい酒が飲めるからって、そこまで媚びない。カッコつけるつもりじゃなくて、これ以上の貸しがあるから(昼飯とか)。
僕はニイヤくんが大切そうに抱える一升瓶を横から取り上げて、自分で自分のグラスに好きなだけ注ぐ。
「つか、まだ昼......だよね」
瓶のキャップを締めながら誰にともなく言うと、四本くんだけが腕時計を確認して、「午後1時27分」と答えた。
それを聞いてたのか、箕輪さんが一瞬、プッと笑った。
何を祝してるのかは解らないけど、とにかく僕らはグラスをぶつけ合って、めでたいと言わんばかりに乾杯した。ごきゅっと一口飲んで、市川さんが言う。
「いいよねぇぇぇ、お昼間からおしゃけ」
喜びを表現しているつもりなのか、いつもより声が半オクターブぐらい高い。
「うるっせーよ。つか何でお前まで来んの」
「ひっどーい、ミッチだってニイヤくんのご・学・友☆だよ?」
「自分で自分のことご学友とか言うな」
「まあまあまあまあ、いいじゃないか。タダで地酒が呑めると聞いてすぐに駆けつけない奴なんて、逆に狂ってるとしか思えん」
「だーよーねぇぇぇぇ」
「んでも、急に呼び出してもこれだけ人数が集まるって、それもある意味狂ってないか?」
「う......確かに」
「でもほらぁ、ミッチって、おうち厳しいからぁぁ」
「って、お前ん家の話とかマジどうでもいいし」
「聞―いーてぇぇぇ。いっつもねぇ、門限のせいで飲み会に行けなくてぇぇぇぇぇ」
「門限つかおまえ、こんな昼間から酒の匂いさせて帰るのはアリなのか」
「あははははは、そんなときはぷっつぃんに何とかしてもらうからだいじょぶ~~」
「だからそのネタ、マジでキモイから」
会話が盛り上がってる(?)のはもちろん、市川さんとニイヤくんと豪さんの三人だけだ。僕はそっちに入れなくもないけど、なんとなく、窓際ですました顔
をしてる箕輪さんと、そこから距離をとるでもなく近寄るでもない微妙なところに座ってみんなを見てる四本くんの間に入る。足許にはどんだけ読んだのか知ら
ないけどボロボロになったスピリッツ(ひょっとして拾ってきたのか?)と、コンビニの袋がいくつかと、あと脱ぎっぱなしのTシャツと、その下に使用済みの
靴下まであって、床が見えない......。ま、いつものことだな。とりあえず見なかったフリで、床の上のものをそのまま後ろにどけて、空いた場所に座って、箕輪
さんに話しかけてみた。
「箕輪さんも、アレだよね」
彼女は煙草をくわえたまま、変な口の形で聞きかえす。
「なによ、アレって?」
「学校には来ないのに、こういうところにはちゃんと来ちゃうっていう」
「あー、まあ......ね。たまたま今日はこういう気分だっただけ」
やっぱり箕輪さんはかなりクールだ。あのライブの日のことなんて、まるでなかったかのように、頬をぴくりとも動かすことのない静かな声。なんだかなあ。話を盛り上げるって、難しい。
「しかし汚い部屋だよね」
横ではボソっと、四本くんが静かではあるが辛辣なこと言ったりして。もちろん批判されてる当人は、まだ市川さんとぎゃあぎゃあやってて、聞いてない。
それから僕ら三人は、掃除をしすぎる人と掃除ができない人の、双方の問題をあげつらったりしながら酒を呑んだ。向こうでは、よく解らないうちに始まった
豪さんの演説に、市川さんがどう考えてもベクトルの違うすっとぼけた質問をしたり、それに対してニイヤくんが突っ込んだりしてた。どっちにしても、たぶん
それなりに盛り上がってた、と思う。
気がついたら一升もあった日本酒はなくなって、西陽がダイレクトに射し込んでくるニイヤくんの部屋がオレンジに染まってた。
「はぁぁぁ、楽しかった。じゃあミッチはお嬢なので、これで帰りまぁぁぁし!」
酔っていてもシラフでもあんま口調が変わんない市川さんが、ひょこっと立ち上がった。意外と足はしっかりしてる。ニイヤ家にいるみんなは、もうイイカンジに酔ってて、積極的に見送るわけでもなく、引き止めるわけでもないビミョーな空気。
そんでも、もともと空気読めない市川さんは、一人で勝手に周りを見回して、言った。
「ニイヤくんもミノちゃんも来週から学校来るって言ってるし、これでやっと夏休み終わったって感じになるねぇぇぇ」
満足そうな笑顔。でもたぶん、そんな言葉みんな適当に聞き流してた。だって豪さんは例によって寝ちゃってるし、ニイヤくんは休みボケみたいな顔をして空
になったグラスをまだ傾けようとしてるし、四本くんは部屋をちょこちょこ片付け始めてるし、箕輪さんはやっぱりどんなに飲んでも大して変わらずマイペース
に窓際で煙草吸ってるし。
もう、さ。グダグダじゃん。
まあ、少なくとも僕は、一応ちゃんと聞いてたけどね。市川さんって電波飛ばしまくってる割に、海に行ったときもなんだかんだみんなを統率してたし、ナニゲに友情に厚いっぽいところがあるな、なんて思いながら。でも別に相槌を打つでもなく。
否定するほどのことはないし、頷いてやっても良かったんだけどさ。でも、頷けなかった。だって市川さん、ひとつ忘れてるじゃん。
睦月がまだ後期に入ってから学校に一度も顔を出してないってこと。
でもまあ、言わなくて良かった。市川さんも満足そうに笑って、一人でさっさと帰って、誰も疑問に思わなくて、それでいい。
いいんだよ、大丈夫だ。
睦月は結構しっかりしてる。夏前に学校来なかったのも、出席率を計算した上での行動だったらしいし、ちゃんと試験だって受けてる。単位はちゃんと取るつもりみたいだ。
それに、僕が心配したって始まんねえよ。
こんなもんなんかなあ、とか思う。
うん、こんなもんだよな、大学生活とかってさ。
第6話・十一月にあったこと
「お、久しぶり」
アホみたく人があちこちに流れて、たくさんの会話が雑音と騒音の中間ぐらいの煩わしさでどんよりしてる祭日の大学。そういう中で僕がいつもより大きな声をかけると、睦月は笑って手を振りながら駆けよってきた。
「来てたんだ?」
「一応ね。睦月も?」
「うん――っていうか、いい天気だね。秋晴れの高い空って、非日常を感じない?」
会っていきなり天気の話をする関係って......なんか微妙だよな。
でも睦月が言うところのその気分、僕にだってなんとなく、解る。
秋ってのは昔っからそうなんだよ。学校行事が多い季節。小学校だったら運動会とか遠足とか、音楽会とかさ。中学以降なら、体育祭やら文化祭。そうだ、修学旅行で京都に行ったのもこのくらいの季節だった。
そして、どれもこれも、当日がきれいな秋晴れであればいい思い出になる。雨が降ったらシケた気分。だから、秋晴れには非日常がついて回る。
大学で言えば、そのイベントが学祭ってことなんだろうな。
例に漏れず、うちの大学にも学祭なんてものがある。一応うちはゲージュツ系の大学ってこともあって、学祭は単なるお祭りってわけでもない(他の大学につ
いてはよく知らないけど)。作品や演技発表の場として講義の一貫に取り入れてたり、そうじゃなくても積極的に参加する学生は少なくない、らしい。
だけど、これまた例に漏れず、どんな大学にも学祭に関係ないっつー顔してる学生ってのも、いる。僕なんかは無意識のうちにそっち系。だってサークルにも入ってないし、こういう場で何かを発表する種類の学科でもないから。
参加するにもしようがないのだ。
最近知ったけど、豪さんはいつのまにかフットサル同好会とか自動車部とかゲーム研究会とか(他いろいろ、残念ながら僕には把握しきれない)サークルをいくつも掛け持ちしているらしい。学祭ではいろいろやることがあるって、すごい張り切ってた。
逆にニイヤくんは、学祭関係ない派の代表みたいな態度で、
「んなくだらねえ行事に参加してる暇ねえっつーの。つか、割いい短期バイト見つけたから行ってくるわ」
とか言って、どこでなんの仕事をするのか知らないけど、とにかく学祭の準備期間からずっと東京を離れてる。
僕はあくまで中途半端だ。
豪さんほどアツくはなれないけど、ニイヤくんみたくクールに切り捨てることもできない。一応自分が入った大学だし、他の学科とかサークルに入ってる奴ら
がどんなことをやってるかを観察するいい機会だ。一回ぐらい見ちゃってもいいんじゃないの的な気分で、フラフラと学校に来てしまった。受付でパンフレット
まで買っちゃって、完全に部外者だよな、これ。
一旦入場したものの、一人で歩くのもなんか気まずくて、僕は箕輪さんに電話をした。
学校の近くに住んでるし、たぶん家でぼんやりしてるだろうと思って誘ったんだけど、案の定、箕輪さんは家にいた。
「今から学祭見にいってみよっかなと思ってんだけど(本当はもう見に来ちゃってるけど、それは黙っといた)、一緒にどう? なんか四本くんと市川さんがフリマ出店してるらしいし、ちょっと茶化しに行かね?」
僕の誘いに、箕輪さんは明らかにダルそうな声。
「え、準備に一時間ぐらいかかるけど?」
そんでも、はっきり断わらないときの箕輪さんは、たいていノリ気なのは解ってる。
「一時間か。俺、もう猫田まで来てるんだけど......。あ、じゃあ適当に学校ん中うろついてるから、着いたら電話して」
「解った」
そんな経緯があって一人でウロついてたところ、僕は睦月と鉢合わせたってわけだ。
別にそんなに意味はないけど、鉢合わせたのが箕輪さんと一緒のときじゃなくってよかったと、なんとなく思った。なんとなく。
「うん、いい天気だな。つうか睦月、まじで久しぶり。だよね」
「時々は見かけるよ」
「見かけるけどさ。なんか睦月って、授業に出ても終了後すぐにどっか消えちゃうじゃん。昼も学食とかで見かけないし。どこ行ってるの?」
「うん、どこってこともないけど」
睦月は表情を変えずに言う。はぐらかした感じでもなければ何かを隠そうと必死になってるふうでもないので、逆にそれ以上突っ込みにくい。
なんつうか、解ってきた。これが睦月なんだって。あんまり反応とか気にしないで、思ったことを言えばいいのかもしれない。
「一時期は、もう学校辞める気なんじゃないかって心配してたりしたんだけど」
「ああ、ごめんね。ちょっと悩んでたことがあったんだけど、もう大丈夫」
「そう?」
今度なんか困ったことがあったら言ってよ――と、喉まで出かかったけど、やめた。
だってなんかな。勢いで一回やったぐらいで彼氏気取りとかって、睦月はそんなこと言わないとは思うけど、万が一そう思われたら後味悪い。僕だって、ちょっと優しいこと言っただけで女の子がその気になったら、やっぱウザい。
いや、優しいこと言ったのとホテル行ったのとは、もう全然違うんだけど。
あれ以来一進も一退もないまま半年過ぎて、睦月との距離は全然変わらない。
恋愛には発展しそうにない、っつかそもそも恋愛感情があるかどうかも解らんし。
2回や3回そういうことが起きちゃえばヤリ友ってことになるんだろうけど、そういうのもなんか違うし。
でも、お互いに「何もなかったことにして忘れよう」って感じでもないから、難しい。
そうは言っても、現実にはシラジラしく『ただの友達』を演じるしかないんだけど。
「学校に来る気力もなさそうだったのがちゃんと学祭まで来るようになったんだから、成長したよな。もう心配いらないな」
自分を諭すような気分で言いながら、僕は今さら睦月が左手に紙の束を抱えているのに気がついた。
「あれ、なんか出店でもやってんの?」
それは明らかにチラシだった。ありがちなピンクの紙、A5サイズ。自分たちの展示を見に来てもらうために、校内を歩く人に配布する類の。
「や、ううん、ちょっと手伝ってるだけ」
睦月は少し焦ったような声を出したかもしれない。でも僕は割と単純に、そーだよなー睦月もサークルとか入ってないはずだし、とか考えた。んで、思いつく。
「そしたら俺、今ちょっと暇だし、一緒にチラシ配り手伝おっか?」
「え? や、いい、いい。大丈夫だから!」
「そう? じゃあとりあえずそれ1枚ちょうだい。後で見にいくよ。どこでやって――」
言い終わるより早く、僕は睦月の左手からすっと1枚を手に取った。その程度には、興味があった。
見ると、意外な文字が目に飛び込んできた。
「絵画科デッサン展? って、これ美術学科の展示じゃん。なんで他学科の――」
「ううん......えっと、ただ、そう。高校から仲良かった友達が絵画科にいて、なんとなく美術棟に出入りしてるうちに、いろいろ手伝わされるようになっちゃって。ほら私、前から絵に興味はあったし」
ふーん。と唸りながら、そういや海行ったときに睦月がスケッチブック抱えてた姿、妙にハマってたなーとか、思い出す。
「作品描くのを手伝ってるの?」
「まっ、まさか!」
おおっ。いつも落ち着いてる睦月が妙に焦ってる。なんか......もちっとイジってみたくなんね? いつになく邪心が芽生えた僕は、どう突っ込んだら睦月が面
白く反応してくれるんだろうと企む。その瞬間(まさにこんな僕を非難するかのようなタイミングで)、僕の携帯が間抜けな着メロを奏でた。
いいところなのに誰だよ! って液晶サブウィンドウを見たら、箕輪さんの名前。
「あー。ごめん、ちっと待って」
一言ことわってから電話に出ようとしたら、睦月は慌てたように首を振った。
「あっ、ううん。いいよ私そろそろ行かなきゃいけないし。電話ごゆっくり。じゃね」
早口で言い切った睦月に、僕は名残惜しい気持ちで、もう一言だけ声をかけた。
「でも――あ。そんじゃ、後でデッサン展、見にいくよ」
「いい。来なくていいから! てゆーか、絶対来ないで!」
睦月は怒ったような、少し泣きそうな、妙な声を張り上げながら、小さな歩幅を高速回転させて走り去ってしまった。
僕は呆然としながら、しつこく鳴ってる携帯の通話ボタンを押した。
「なに」
「なにって......着いたんだけど」
「今どこ?」
「裏門とこ。ってかなに、怒ってるの?」
箕輪さんが珍しく気を遣うような言葉を使うから、逆に自分が恥ずかしくなった。
「ごめん、別に大丈夫だよ」
「でー、どこ行けばいい?」
「そしたら学食の前──は、アレだ。なんか出店がいっぱいで待ち合わせって感じじゃなかったな。じゃ、文芸棟の入り口で」
「わかった」
電話を切ってすぐ、僕は文芸棟に向かった。
なんかこれ、端から見りゃ二人の女の子に翻弄されてる男だよな、とか思いながら。
テキトーに選んだけど、その場所で待ち合わせをしたのは結果的に正解だった。一番効率が良かったっていうか。
僕が文芸棟前に到着すると、ほとんど待ち時間もなく箕輪さんの姿が見えた。やっぱ長身の女の子って目立つ。しかも、こんだけゴタゴタ賑やかな構内なのに、箕輪さんはキョロキョロすることもなく、落ち着いた足取りで近づいてくる。
かといってその視線は緩慢で、僕のことをとらえてるわけでもなさそう。いっつもああいう顔してるけど、箕輪さんってちゃんとモノ見て歩いてるんかな。つか、僕がここにいることには気づいてるんだろうか?
よく解らないから、とりあえずここにいるぞーと手を振......ろうと思った瞬間。
「あぁぁぁ、ミノちゃんキターーーーー」
背後から突然僕を襲ったのは、すっかり聴きなれてしまった感のある、あの高音。
振りかえると、案の定。
「おーつ」
目深に帽子をかぶってゴザの上で石のように体育座りをした四本くんが、僕に向かってスチャッと右手を挙げた。
フリマ会場って、文芸棟前だったのか。
「ってかこのフリマ地味すぎない?」
早くも箕輪さんが歯に衣着せぬ物言いをしたけど、誰も気にしない(慣れてるし)。ともあれ合流した僕たちは、なんとなく四人で肩を寄せ合って、ゴザの空いてる片隅に小ぢんまりと座った。
「サークルとか学科での出店以外は、辺鄙な場所しか使えないしさ、目立つ看板を作る奴とかもいないし」
一応、箕輪さんの言葉に四本くんがボソッと答えたりしてるんだけど、箕輪さんは「差し入れ」とか言ってコンビニ袋を差し出すし、市川さんはキャアキャア大騒ぎして袋を覗き込んでるしで、会話が成り立たない。
「聞いてる、聞いてる」
不憫に思って僕がフォローすりゃ、四本くんは相変わらず体育座りの姿勢でポツリ。
「別に、いいんだけどね」
だったら、そんな哀愁を漂わせた姿勢すんなって。
それにしても、確かに地味だ。
学祭の中で一番地味なフリマ会場の中でも、市川さんと四本くんが座ってるこのスペースは文句なしに一番地味。地味金メダル。
「二人が売ってるのって......古本だけ?」
ゴザの上に無作為に(としか見えない雑さで)並べられた古本は、文芸書とかビジネス本とか漫画とかに混じって、よく見ると前期のパンキョーで使った教科書とか、同人誌まであって、ほんと節操ない。
他のスペースでは、服とか雑貨とかが色とりどり、一応きれいにディスプレイされてるのに。
「これじゃ売れないんじゃない?」
老婆心ながら言ってみると、市川さんが差し入れのハーゲンダッツ(ストロベリー味)をわざとらしく唇の端にちょこっとつけたまま(いや、......もうそこらへんはスルーするけど)、木のスプーンをチッチッチと左右に振った。
「これが意外と、売れるんだよぉぉぉ」
そんなもんかねえ。そう思いながら僕は、なんとなく手近にあった本を物色し始めた。
「あのさあ......ここらへんの同人誌って、市川さんが持ってきたの?」
パラパラと何冊かめくってから、ある程度確信を持って(でも決めつけるのは悪い気がしたから一応控えめに)聞いてみたら、
「あ、それ俺」
と、四本くんが声色を変えることもなく答えたので、僕は一瞬固まった。
「え......だってコレ、いわゆるボーイズラブ......」
「ふぇぇぇ、ミッチそれあんまりよく見てないから、ただのエロ漫画だと思ってたよぉぉぉ。四本くんって、そーゆー趣味だっんだぁぁぁ?」
「『そーゆー趣味』って......」
「美少年とか愛しちゃってんの!?」
「あー、でも似合うかも、うん」
どっちかつーとワルノリ的に僕らの話が広がってく傍らで、それに動じることもなく四本くんは「や、さすがにそれは」とか冷静に首を振った。
「えー。じゃあ、なんでこんな本ばっかり持ってるのぉぉぉ?」
珍しくまっとうな疑問を投げかけた市川さんに、四本くんは片頬だけを糸で吊ったような、妙にニヒルな笑顔を見せた。
「コミケとかで、いかにも現実の男を知らなそうな、地味だけど妙に美人な子がこういう本を売ってたりすると、思わず買っちゃうんだよ。うわ、あの子こんな妄想してるんだーとか思うと、ほら、割とアレでしょ」
淡々と語る四本くん。僕らはその話に、誰も口を挟めなかった。たぶんそういう雰囲気だった。いやあ、四本くんて意外と、なんつうか、アレだよな。ん、アレ。
なんでか居たたまれなくなって、手近な同人誌をひとつ、手にとって見る。ハラッとページを開いたところに、いきなり男(顔も体格も女っぽいけど、かろう
じて胸が平らだから男?)同士のセックスシーン。うわー。たぶん妄想の限りを尽くして精一杯描いたって感じの身体。現実にはとても言いそうにないような恥
ずかしい台詞。きっついよ。
ますます居たたまれなくなって僕はその本を閉じた。やっぱ四本くんって変わってんなと思いながら、妙な感慨とともに、ピンクの表紙を眺める。
「タイトルもちょっと、アレだよね......」
可愛い女の子が描いたつっても俺は無理! とか言おうと思って、箕輪さんに見せてみる(市川さんだと反応がうるさそうだから)。
「『ラヴァーズジュィス』......?」
箕輪さんが、何食わぬ顔でタイトルを音読し始めた──と思ったら、その声は途中で消え入りそうなほど小さくなった。見ると、箕輪さんの顔が真っ赤だ。いつも僕たちの下ネタに顔色ひとつ変えないくせに、こんなのが恥ずかしいのか!?
衝撃を心に受けたつもりが、次の瞬間、僕は体にまですごい衝撃を受けることになった。
「ちょっっっ......」
声にならない声を出しながら、箕輪さんがものすごい勢いで僕にタックルしてきて、その本を奪い取った。
「ど、どぉしたのぉぉぉぉ?」
さすがの市川さんもこれには驚いたようで、いつになくマットウな反応。
「いや、べべ別にどうってわけじゃ」
え、なにどもってるの? まじ解んない。あのコスタ・デ・なんとかっつーバンド観に行ったときより、明らかに興奮してる。あの箕輪さんが、ボーイズラブ漫画ごときで?
箕輪さんは顔を真っ赤にしてうつむくばかり。市川さんも、口を半開きにしてホゲーと呆気にとられてる。僕らの座るゴザの上が、一瞬にして妙な雰囲気に包まれた。
そして、さっきからなぜか時を止めたように首を傾げて考え込んでた四本くんが、ハッと思い出したように言った。
「そうか! あの時の売り子、箕輪さんだったんだ? 実は入学したときからどこかで会ったような気がしてたんだけど、すっかり垢抜けちゃったから解らな......」
「きゃあああああああああああああ」
奇声とともに立ち上がり、箕輪さんはすごい速さで走り去ってしまった。この程度の奇声ならばすぐに飲み込んじゃうほど、今日の学校が賑やかなのは幸いだった。
でもやっぱ、箕輪さんを追いかけることはできない。四本くんの語りは途中で遮られたけど、あそこまで聞けばさすがに解る。
つまりさっきの漫画、箕輪さんが描いたんだ......?
いやはや、さて。
ゴザの上に残された僕たちは、なんというか、今の出来事について語るに語れない雰囲気になってしまった。そりゃま、そうだよな。
「う......と、あー、俺ちょっといろいろ見て回ってこよっかな」
精一杯なんでもないふうを装って、僕はこの場から逃げることにした。
「ああ、そうだね」
四本くんだけは、状況を理解してるんだかなんだか、平然としてるけど。まいっか、彼ならまだ目を見開いてる市川さんのこともテキトーにフォローしてくれるに違いない。
僕はいそいそとフリマ会場を離れて、一応箕輪さんの携帯を鳴らしてみた。
案の定、出る気配なし。
ま、人に知られたくない過去なんて、ひとつやふたつあるよなー、とパンツのポケットに手を突っ込んだら、紙の感触。睦月が配ってたあのチラシだ。
そっか。行ってみようかな。暇だし。
絶対来ないでって言ってたけど、チラッと見にいくぐらい、いいよな。どうせ僕は絵なんてよく解らないから、さ。
チラシに書かれてた美術棟2階の教室。
ドアの前に書かれた説明で、これが絵画科の有志による木炭画展だってことが解った。中に入ると、外でお祭騒ぎになってるのが嘘のように静かで、どうやらここが受付もない無人の展示会になっているらしいと解った。
絵心もないくせに僕は、気楽に見られるのはありがたいよなーなんて思いながら、ちょっとアーティスティックな気分に浸る。
順路のとおり進んでくと、初めはリンゴとか壷(?)とかの静物画。そのあとに人の手とか足とかのパーツを描いた作品が続いた。
木炭だけでよくこんな立体感が出せるよな、とか。美術学科って専門的な勉強してる感じがするよな(それにひきかえ、うちらの文芸学科は......?)、とか考えながらさらに進むと、次に出てきたのは人物画。
おおっ。これはいわゆる裸婦デッサン。
誰も僕のことなど見てないのに、こっそりこんなものを観てる自分が落ち着かず、ちょこっと目が泳ぐ。
でも観ることはしっかり観るんだけどさ......って、ん?
あれ?
立ったまま両手を高いところで組んだポーズ。片足だけを折り曲げて座ったポーズ。椅子に座って足を組んだポーズ。自分の腕を枕に寝ているポーズ。
いろんな形があるし、描き手によってタッチは全然違うけど、どれも同じモデルを描いてるのが解る。
共通しているのは、ゆるやかなウェーブのある長すぎず短すぎない髪型。細い割に女らしい凹凸の目立つ体型。それと、そうだ。右足首につけられた華奢な感じのアンクレット。
この身体、見覚えがある。いや、むしろ何度も頭の中で生々しく反芻してた。ごめんしかも結構オカズにも......。
とにかく。
これはそのぐらい、僕が知ってる身体だ。
手伝ってるって、これだったのか。まさかこんな形で睦月の身体に再会するなんて──。
紙の上でしなやかに形を作る睦月を、不思議な気持ちでまじまじと眺めてたら、携帯が鳴った。周りが静かだったのもあって、文字通り、飛び上がるほどびっくりした。
電話は箕輪さんからだった。
「あの、急に逃げ出してごめん......」
電話の向こうから聞こえたのは、すっかり憔悴しきった声。
「別に大丈夫だよ。今どこ?」
「家。ごめん、帰った」
「そっか」
「あの......今日のことは、絶対誰にも言わないで。お願い」
いつになく素直、つーか完全にしおらしい箕輪さんの声が、ちょっと面白い。任せろーとか気楽に言って、僕は電話を切った。
それからもう1度、睦月を描いた絵をひとつひとつ観た。
不思議と、欲情はしないもんらしい。
ただ──なんか。
すごく寂しいっつか、うすら寒いっつか、なんだろ。
たとえば、だだっ広い早朝の体育館でひとりバスケットゴールにボールを何度も投げつづけて、でも1回もキマんないみたいな、そんな気分?
もちっと具体的に言うと、あの春の日に初めて僕と交わした言葉を、睦月はもう忘れてるのかもしんないなあ、とか?
よく解んないけど、そんな感じ。とにかく窓の目ばりの隙間からひとすじ差し込む陽の光を見て、途方に暮れそうになった。
しょうがないじゃん、だってすげえ秋晴れだし。やっぱこんなの、非日常すぎるだろ。
第7話・十二月にあったこと
2005年最後の日曜日は、クリスマスが絡んでるのもあって、街ごと異様に浮かれてた。だけど、そんな街を素通りして僕が向かったのは、いつものあの店。
そう、猫田の『だっぺえ』だ。
「俺が店を貸切りにしてやるから、学科の忘年会やろうぜ。全員は店に入らないけど、どうせ直前だし、20人集まればいいだろ。とりあえず、お前はぜってー来い」
ニイヤくんがそう言って僕を呼び出したのは、つい3日前のことだ。
「別にいいけど、俺、バイトあるから遅れてくよ?」
そんな答え方をしたけど、実のところ僕は、結構その誘いを待ちに待ってた。クリスマスパーティーとか忘年会とか、誰かやろうって言い出さねーのかな、とか思ってるうちに、大学が冬休みに突入しちゃったから。
でも、自分からみんなに召集かけるほどの熱意があるわけじゃなし──つか、家庭教先の教え子が受験まで二ヶ月切りながら、あと一歩判定が良くならないっ
てのもあって、僕はこの冬、割と暇じゃなかった。冬期講習に行かせるから予習復習を見てやってほしいと頼まれて、断れなかったのだ。なにしろ今が一番大切
な時期だから......ってのは建前で、ぶっちゃけボーナスも払うと提示されたバイト代が、かなり魅力だった。
僕と同じように、みんなもきっとそれぞれに忙しい冬休みなんだろうと思うことにした。なんか物足りないけど、帰省するヤツもいるだろうし、バイト三昧の
ヤツもいるだろうし、このままみんなに会わずに年越しだな──と、思ってたところに舞い込んだニイヤくんの誘い。そりゃあもちろん、行く。
考えてみればニイヤくんがみずから召集をかけるのは珍しいことで、それが軽い罠だったと見抜けなかったのは、やっぱクリスマスとか言って浮かれてるからかもしれないな。
「やぁぁだぁぁぁぁ、今、あたしの胸、見てたでしょぉぉぉぉ?」
暖簾のない入り口をガラガラ開けると、市川さんの耳に飛び込んできた。
うわー、出来あがっちゃってんなー。バイト疲れがビミョーに増加した気分。
でも──ま、いっか。せっかくの忘年会(クリスマスパーティー?)だし、楽しんだヤツが勝ちだ。そういう意味じゃ、市川さんってどっかぶっ飛んでるようで、いっつも勝ち組なんだよなー、とか思ったり。
あらためて店内をざっと見まわしてみる。
僕の思ったところの『勝ち組』は、どうやら一部の人間だけだ(そうじゃなきゃ、勝ちも負けもないか)。『勝ち組』が占領してるのは、店の奥にある小上がり。せいぜい6人が座れば一杯になる特別席だ。
その真ん中で女王様らしく男をはべらせてるのが、ほかでもない市川さんだった。クリスマスを意識してるのか、鮮血みたいな色のニットは胸元まで大きく開
いたVネック。谷間が丸だしなのはサービスとしても、ブラヒモ(しかも色はエメラルドグリーン)まで見えてるのは、計算か......? なんにせよ周りの野郎ど
もは谷間に釘付けっぽいから、別にいいや。輪の中にさりげなく豪さんが紛れてるのが、また笑える。
異様な盛り上がりを見せてる小上がりから視線を手前にずらすと、あとはかわいいもんだった。4つのテーブル席は、静かすぎることも賑やかすぎることもなく、フツーの飲み会的雰囲気。
その中で、いちばん入り口(あるいは出口)に近い4人掛け卓の椅子が、ひとつ空いてる。空けておいてくれたんだと思う。
やっぱここが僕の席だよな、と、僕はブルゾンを脱ぎながら空いてる椅子を引いた。
「いっす」
小さく声をかけると、隣の箕輪さんが気づいて飲みかけのお猪口を高く上げた(たぶん挨拶のつもり)。対面にいる四本くんと、斜向かいに座ってる睦月も、「お疲れ」とか「やっと来た」とか口々に言って、普通に僕の到来を受け入れてくれた、らしい。
学科のみんなで飲もうとか言って集まっても、結局はこの面子が固まるんだよな。
こういうのって、悪くない。
それはそうと、この店の中で酔っ払ってない人間は今、僕以外にいなかった。
ニイヤくんが指定した集合時間の5時から、もう2時間少々が経過してる。僕が座ったテーブルでは、箕輪さん以外はたいして飲めるクチでもないくせに、みんなで日本酒をチビチビやってる。他のテーブルも同様。
でも僕は、一杯目からみんなと一緒に日本酒飲むって気分でもない。面倒くさいけど、カウンター席でぎゃーぎゃー騒ぐ集団の中にニイヤくんを見つけて、直訴した。
「あのさ、ナマチューくんない?」
ニイヤくんは、もはやサルみたく真っ赤な顔で、かなり酔ってる様子だ。僕が今来たばっかってことにも気づいてないらしく、怒ったように言う。
「今日はナマないって! 何度言ったら解んだよ」
そう言われても、今来たばっかだし......って助けを求めるような目で振り返ったら、箕輪さんがわざわざ席を立って来てくれた。で、妙に慣れた手つきで冷蔵庫から瓶ビールを、そして棚から未使用のグラスと栓抜きまで取り出してくれた。
「なんかね、今日はセルフサービスだって」
「は?」
「日曜ってこの店、定休じゃん? だから、店員さんはみんなオフなの」
学校のない日曜にわざわざ猫田まで来ることのない僕は、『だっぺぇ』に定休日があるとは知らなかった。ピンと来ない僕に、箕輪さんは怒った口調で説明を続ける。
「そんで、もともと今日ってここの店員たちの忘年会なんだって。なのにニイヤくんが、『どうせ店空けるなら、店員だけじゃ場所余るし、友達呼んで会費払わせましょうよ』って言って、みんなを集めたらしいよ」
「マジ? どこまで金の亡者なんだよ......」
言われて見てみれば、カウンターでニイヤくんと盛り上がってる連中って、学科のヤツじゃなくてここの店員じゃん。私服だから解らなかった。あ、一番奥に
いるのは、店長だ。いつも頭にバンダナ巻いてるから気づかなかったけど、実はてっぺんの髪がかなり薄い。その部分が真っ赤になってるのが見て取れるほど
酔っ払って、かなり上機嫌だ。
なるほど、罠は罠だが、引っかかったからには無礼講で楽しむしかない。
「んじゃ遠慮なく、ビール持ってきます」
って一応声かけて、箕輪さんが出したほかに瓶を3本出して、席に戻る。
しかし、僕はここでさらなる問題にぶつかった。テーブルにロクな食べ物が並んでないのだ。あるのは、もはやぐちゃぐちゃになった乾きものと、のり巻き
(しかも、カッパ巻きと納豆巻きとかんぴょう巻きだけで、魚とか入ってないやつ)ぐらい。全てのテーブルがこんな状態だ。ひどすぎる。
「食べ物って、これだけ?」
ニイヤくんから予告された会費は、貸切り代込みで2000円。いつもの『だっぺえ』なら1800円でたらふく食って泥酔できるから、食べ物なしのセルフ
サービスで2000円は取りすぎだ。と、僕が訴える前に、箕輪さんが僕のグラスにビールを注ぎながら憎々しそうに言い放った。
「ぼられたのよ。ニイヤくん、絶対マージンとる気だよ」
対面では、四本くんが弱い微笑を浮かべながら、乾杯を促すポーズ。
「まあほら、セルフつっても時間制限なしの飲み放題らしいし?」
うん、確かにそれで2000円なら、決して高くないよな......と、僕が冷静さを取り戻したところに、今度は睦月が鞄の奥から何かを出しながら、ちょっと上目遣いで言う。
「バイトしてきてお腹空いてるでしょ? 食料が少ないって解って、さっきこれ買ってきたんだけど、良かったら食べて」
差し出されたのは、コンビニおにぎり。しかも、僕の一番好きなツナマヨだった。
睦月って、やっぱ最高。
何はともあれ、僕は三人と杯を交わした。僕のバイト先の教え子が割と崖っぷちなこととかを適度に面白おかしく喋りながら、雰囲気は、あくまで和やかに。
学祭の一件で気まずくなるかと思ったけど、箕輪さんはあれから態度を大きく変えるわけでもなく、普通に僕らと接した。なかったことにしてほしいんだろう
と思うし、箕輪さんの隠された過去をひとつ知ったところで、僕の中で箕輪さんのイメージが変わるわけでもない(もともと謎が多いから)。
四本くんにも一応、あの話は今後しないように言っといた。市川さんも、漫画の中身までは見てないから大丈夫だ。僕が掘り返さない限り、平穏。
睦月との関係も、もちろん変わりない。
もっとも、睦月のほうは僕があの絵を観たことなんて、知らない。
この微妙な4人のテーブル、僕らはそれぞれ爆弾を抱えてる感じもするけど、解ってる。爆弾は、爆発さえしなきゃオッケーだ。
そんなこんなで、あっという間に僕もみんなに追いつくくらい飲んで、すっかり酔っぱらってしまった。
「お願いだ、揉ませてくれ」
小上がりでは豪さんが市川さんに土下座をする。市川さんが耳につく高音でキャーキャー言いながら、嬉しそうに身をくねらす。それと同時にカウンターのほうから聞こえてくるのは、ニイヤくんの叫び。
「つかマジで俺、童貞卒業したいっス。どうしたらいいんスか!?」
遠目に見ながら、僕はホッとする。
あの二人が同じテーブルにいたら、僕もいつものノリで、ちょっとしたエロネタが口をついて出てたかもしれない。でも、今日は自粛。箕輪さんにこの間のことを思い出させたらアレだし、睦月にはもっといろいろ思い出させることがある。
四本くんが酔っ払ってエロいこと言う人じゃないのも助かった。ちょっと冷静になれて良かった。
「受験なんて、ある意味くじ引きみたいなもんじゃん? だから俺はその教え子に、受験のためだけの勉強って思わせたくないんだよ」
とか、カッコつけて言ってみたり、ビミョーに賛同を得られなくて、カッコ悪かったりもするけど。
でも、地雷踏むよりはいい。
「こいつ、連れて帰ってくれよ」
赤く光るハゲ頭が渋い店長は、さすがに大人だ。締めるところはちゃんと締める。いつもつるんでるからという理由で、べろんべろんに酔っ払ったニイヤくんを僕に任せ、もちろん会費の2000円も忘れずに徴収し、僕たちを店から追い出した。
気がつけばもう電車は終わってた。しかも、学科のやつらはほとんどが知らないうちに、終電の前にちゃっかり帰ってた。四本くんも、トイレに行く振りをしていつのまにか消えてた。声ぐらいかけろよ!
「まあ、ここまで来たら、ニイヤくんちに泊まるしかないもんな。ついでに連れて帰ってやるか......」
つぶやいた僕に、声をかけてくれた天使たち。
「一人じゃ大変でしょ。付き添ったげる。ちょっと遠回りになるけどね」
箕輪さん、口調はクールだけど優しい。
「私も。今日はミノちゃんちに泊めてもらうことになったから。帰り道、一緒だね」
睦月、やっぱ可愛い。
思わずニヤけながら、千鳥足のニイヤくんの肩を担ぐ。と、僕の顔をまじまじ見たニイヤくんが一言。
「あっれ? お前、今ごろ来たの? 遅っせーよ!」
まったく、友達甲斐のないヤツだ。
僕らは苦笑しつつ、よっしゃ、そいじゃ四人で行きますかーと歩き始める。
そこに、てってってと近寄ってきた影がひとつ。市川さんだった。
「ミノちゃぁぁぁん。あのね、ミッチのお願い聞いてくれなぁぁぁい?」
僕や睦月には挨拶もない。単刀直入だ。
「今日、帰れなくなっちゃってねぇ、家に電話しなきゃいけないんだけどぉぉぉ、ミノちゃんちに泊まることにさせてもらっていーい? 実際には泊まらないけどぉぉ、電話でうちのパパと話をして、口裏だけ合わせてもらえないかなぁぁぁぁ?」
いつになく甘えた声。お嬢様だから門限が厳しいとか言っていつも早く帰るくせに、そんな汚い手も知ってるんじゃないか。僕は呆れたが、箕輪さんは「別にいいけど?」ってやっぱ優しい。そして、市川さんが手渡した携帯に向かって、完璧なまでに喋った。
「箕輪と申します......ええ、そうです。こちらこそ、お世話になってます......はい、学科の忘年会で......はい、大学のすぐ裏なんで、ここからもすぐ近くです......いえいえ、とんでもないです。大丈夫ですよ」
ともすれば冷たい印象しか与えない喋り方は、こうしてちゃんとした言葉を喋ると、冷静で信頼できる感じになる。市川さんが箕輪さんに頼んだのも、納得だった。
「ありがとぉぉぉぉっ! ミノちゃんに超絶ハッピーで最高にラブアンドピースな新しい年がやってきますよぉに☆」
アリバイ工作を終えた市川さんは、僕らにめいっぱい投げキッスの暴投を浴びせると、「よいお年を~~~~」という声を静まりかけた猫田の街に響かせながら、スキップみたいな足取りで駅前広場へと走っていった。
ひとつ仕事を終えた気分(あるいは台風が過ぎ去った後のような気分)で気を取り直し、僕らは改めてニイヤくんちに向けて足を進める。歩きながら、なんとなはなしに市川さんの後ろ姿を目で追ってたりしてた、ら。
「え?」
「あれ?」
僕と箕輪さんの驚きが、同時に声になった。
市川さんは、小上がり集団で飲みなおしに行くんだろうと思ってた。あのノリならカラオケかも、とか勝手に思ってた。
でも、駅前で市川さんを待ってたのは、豪さん1人だった。しかも、豪さんは市川さんと合流するなり、その腰に手を回した。
2人は身体を寄せ合った体勢のまま、路地のひとつに消えていった。
「見た?」
誰にともなく言うと、箕輪さんと睦月が頷いた。ニイヤくんも酔ってる割にしっかりちゃっかり状況は認識してるらしく、叫ぶ。
「あの路地の先ってさあ、住宅街の中に一軒だけアレがあるよな、アレ。ラブホ、なあ。すっげボロくてさあ、なんてったっけ、ヘンな名前の」
「サンディエゴなんとか、って」
箕輪さんが答えた。
不意に、僕と睦月の目が合い、すぐに視線は逸らされた。どちらからともなく。
「あー、そうそう、サンディエゴが......なんだっけ。なあ、おまえら知らない?」
もはや僕の腕を振り払い、自由な千鳥足で夜の猫田を徘徊しながら、ニイヤくんが僕と睦月に話を振る。
僕が知ってるとも知らないとも答えられずにいると、少しの間を置いて睦月が「知ってる」と言った。何も言わなければ、逆に怪しまれると思ったのかもしれない。
「『サンディエゴまで100マイル』、だよ」
語尾が完全に消え入りそうになったその声が、睦月の羞恥心を逆に引きたてた。
「ダサっ。絶対そんなホテルでやりたくない」
箕輪さんが言って、ニイヤくんがげらげら笑う。
街灯に照らされた睦月の顔が、赤く染まってるのかは解らない。でも、睦月が恥ずかしそうな表情をしてるのは確かで、それは、あの春の夜に『サンディエゴまで100マイル』というホテルで自分が本当に睦月を抱いたことの、証明みたいにも思えた。
「ちょっとー、まっすぐ歩いてよ」
狭い道を右へ左へ蛇行しながら先走るニイヤくんを、箕輪さんが追いかけて、脇からガッチリ支えたのが見えた。僕が放ったらかしにしたせいだ、ごめん。でも今はちょっと動揺してるから、許して。
後方5メートルから、ニイヤくんよりも気持ち背の高いくらいの箕輪さんを「逞しいなあ」と思いながら、眺める。いつのまにか、僕の隣を睦月が同じ速度で
歩いてた。箕輪さんは何かに気づいてるのか、それとも単にニイヤくんを支えるのでいっぱいいっぱいなのか、こっちを振り返ることもない。
「そ、そういえばさ。睦月が学科の飲みに参加するのって、珍しいよな」
喋らないのも気まずい気がして声をかけたら、睦月はふいっと目を逸らして、答えた。
「実は、新歓コンパ以来、初めて」
「え、っと。あ、そうだっけ?」
それって、僕とああいうことになって以来って意味? 一瞬訊こうとして、言葉を飲みこんだ。
自意識過剰、だよな。内輪で飲んだりすることは多くても、学科の飲み会ってのはそもそも少ない。今日が4回目だ。新歓に続いて、夏前に第2回があったけ
ど、それはちょうど睦月が学校に来てない時期だった。第3回はついこの間、学祭の打ち上げ。僕も睦月も学科の展示に参加しなかったから、呼ばれてない。新
歓以来なんて、全然不思議でもなんでもない。だよな?
って僕の心を読み取ったのか、その疑問に答えるかのように、睦月が付け足す。
「学科の子たちと、今のうちにちゃんと仲良くしておきたいなって思って」
「今のうちって。大学生活、まだまだ長いよ?」
「うん、でも......」
睦月の言葉が途切れた瞬間、前のほうでニイヤくんの胴を必死で押さえてる箕輪さんが、「ちょっと、手伝ってよ!」と叫んだ。
「ごめんごめん」
謝りながら駆け寄ってくと、さっきまで普通に喋ってたニイヤくんは、もう半分寝てるような状態。さすがに箕輪さん1人で運べる状態じゃない。
「あー、もう面倒いから、おぶってくよ」
僕の言葉に、ようやく箕輪さんの顔から苛立ちが消えた。
実際、おぶってしまえば楽なものだった。ニイヤくんぐらいチビでヤセの男は、下手するとそこらへんの女の子より全然軽い。小学生みたいなもんだ。歩きながら、箕輪さんたちと話をする余裕まであるくらいだ。
「そーいえばさ、この道って、なんかキモくない?」
夜にニイヤくんの家に向かうとき、かならず通る場所。左手延々とそびえ立つ高い壁を見上げながら、僕は二人に言った。
一人で通ったときは、鬱になるほど不気味だった。夏休み明けに四本くんたちとここを通ったときには、市川さんの電波な寸劇まがいを見せられたっけ。
そんで、今。
「この壁の向こうって、何かあるの?」
別に感嘆も恐怖も滲ませない声で、箕輪さんが言う。
少し後ろを歩いてる睦月を、肩に乗ったニイヤくんの頭ごしに振り返る。睦月はどことなく懐かしそうな表情で、壁のてっぺんを左から右へ目でなぞりながら、小さく言った。
「知らないほうが、謎めいてて面白いんじゃないかなあ」
「え、何か知ってんの?」
思わず大声を出した僕に対し、睦月はまるで子供を諭すように小さく首を横に振った。
「知らないけど、私、高校もすぐ近くだったから。うちの高校ではこれのこと、『ムラオカの塀』って呼んでたんだ」
「なにそれ、どういう意味?」
箕輪さんが訊いたけど、睦月は笑って「さあ」と肩をすくめただけだった。
僕は、ニイヤくんの重みを身体に感じながら、そして女の子2人の穏やかな会話を耳に挟みながら、なんとなく、考えてた。
壁と塀の違い。
むやみに謎めいて、威圧的に立ちはだかってるように見えた僕にとって、これは確かに『壁』だった。
でも、そうか。実際にはこれって、『塀』なんだよな。
単に敷地を区切るためのもの。ちょっと目隠しをするためのもの。あるいは、侵入を防ぐためのもの。
ただ、それだけだ。
そう考えて眺めてみれば、言うほど不気味なもんでもないような気がする。
何のためにこんな高く作ったのかは、やっぱ謎だけど。
いろいろ考えすぎかもな、とか。
身構えすぎじゃないか、とか、思ってみたりした。
睦月の本心も、箕輪さんの趣味も、ニイヤくんの金への過剰な執着も、豪さんの過去も、市川さんの頭の中も、四本くんが持ってる情報網も、なんもかも。
考えてみたら、みんな謎だらけで、そんでも、大学生活はなんとかなってる。
来年はどんな年になるだろう──なんて、なんも考えずに新しい年を迎えるのもいいかもな。
どうせ世の中、考えたって解らないことだらけ、だろ。
第8話・一月にあったこと
「あ、どーりで今日はぷっつぃんがおとなしくしてると思ったぁ」
4限、一般教養の大教室。
目の前の席で、講義の内容を聞いてた(っていうより、教室の隅々にまで色目を使ってたようにしか見えない)市川さんが、ふいに僕のほうを振り返って、また訳のわからないことを言う。訝しみつつ睨み返すと、なぜかいたずらっぽくウインクとかされたりして。
「ほら」
と、促されて窓の外を見て、納得。見事に大粒の雪がはらはらと降ってた。
ま、それだけだ。珍しくないとは言わないけど、もう雪見てはしゃぐ歳でもないし。僕は「ふーん」ぐらいの感じで、落ちてくる白い塊を見やる。
と、市川さんは突然くねっとして、困った顔をしてみせた。
「いやぁぁぁぁん、どーしよぉぉ」
多少ざわついてはいるものの、基本的には静かな教室だ。小声にしてるつもりかもしれないけど、市川さんの声はよく響く。
「何が」
きわめて低い声で一応返事だけしてやると、市川さんはいったいどこを見てるのか、中途半端な空間(夢の在り処?)に焦点を合わせて、軽く口を尖らせた。
「電車が遅れたりしたら、門限に間に合わなくなっちゃうでしょぉぉぉ? 早く帰らなきゃ、大おばあちゃまが心配しちゃう」
僕は密かに、でもはっきりとため息を吐いた。
またそんなお嬢様ぶっちゃって、よく言うよ。こないだ箕輪さんを上手いことアリバイ作りに利用して、豪さんと夜の街に消えたくせにさ。
――なんて考えつつ、実はそのところ、しっくりこないと思ってる自分もいるんだけど。
そりゃまあ、市川さんはヘンなヤツだ。それは間違いない。
いつでも無駄に肌を露出しまくってるし、すぐエロいこと言うし、その割には妄想の世界で生きてるし、頭の中に猫飼ってるし......もう、存在自体が明らかに怪しい。
でも、だ。
例えば今日彼女が着てる、ざっくりとしたセーター。やたら襟ぐりが大きくて、肩まで肌を露出してるのはまあいいとしても、そのオレンジと黄土色の合いの子っぽいビミョーな色はなんなんだよ。袖の縁にはヘンなリボン模様が刺繍されてるし。
こういう部分のセンスがあんまり独特なもんだから、胸元が大きく開いたデザインでも、やっすいセックスアピールとは違うというか......そういう生臭いこととは縁のない子なんじゃないか、とか。
割とどっかで、そんなふうに思ってたんだけどな。
結局それって全部、僕の勝手なイメージだったってことなのか。
ま、あのとき豪さんと市川さんがどこ行って何したかなんて、本当のところは解らないんだけど、さ。
なんだかんだ言いながらも本気で電車の動向を心配してたのか、市川さんは講義が終わると一目散に帰っていった。
別に見送る必要もないけど、僕はなんとなくその後ろ姿を目で追ったあと、学生課に立ち寄ることにした。春休みになったら京都の大学に行ったヤツのところに遊びに行こうと地元の友達から誘われてて、後期試験でバタバタする前に学割を発行してもらおうと思ったのだ。
学生課は、講義が終わった直後の時間帯らしく、やや混雑気味だった。僕はその中で、滞りなく学割の申請用紙を書く。
必要書類を窓口に提出したあと、なにげに人がたかってる掲示板に気付いて、目をやった。もう後期試験の予定が出始めている。気がつけばもう試験まで2週間切ってるんだよな。
試験というと気は重いけど、それが終わればたっぷり2ヶ月の春休みだ。
大学の1年目が、もうすぐ終わる。
僕たちが長い春休みを満喫してる間に、高校生がここに来て入試を受けたり合格発表を観に来たり、するんだよな。
たった1年前、自分がその高校生のうちの1人だったなんて、なんか変な気分だ。すごい昔って気もするし、ついこないだって感じもする。
この1年、いろいろあった......か?
なかった、とも言えないような。
そんなことを思いながら無防備に掲示板を眺めていた僕の後頭部に、突然スコーンと軽いチョップが入った。
「いっす」
「うあ、びっくりした......ニイヤくんか」
試験が近いってのにまだバイト三昧の生活をしてるのだろうか、学校でニイヤくんの顔を見るのは久々だ(ただし、『だっぺぇ』には、昨夜箕輪さんと冷やかしに行ったばかりだからニイヤくんに会うのは久々じゃない)。
「へえ、ニイヤくんでも、自分で試験の日程確認しにきたりするんだ?」
僕が茶化すと、ニイヤくんは本気で人をバカにするような口調で「アホか」と切り返す。
「それはお前の仕事だっつーの。ノートの入手は俺がまたなんとかしてやるからさ、俺のスケジュール管理、頼むよ」
「えー」
そりゃニイヤくんの人脈で手に入るノートはすごい貴重だから、逆らえない。でもニイヤくん、前期試験のときより今のほうが明らかに学校に来なくなってる
じゃんか。学校に来る習慣の薄れたヤツを試験日程通りに通学させるのって、大変なことなんじゃないのか。やったことないけど、想像に難くない。毎晩、「明
日は○○の試験だ」と連絡したり、試験当日だってモーニングコールでもしなきゃ、不安だし、けっこう責任重大じゃ......。
「──って、あれ?」
思わず首を傾げた僕を、ニイヤくんは軽く見上げて(僕よりも目線が低いのに、ニイヤくんのほうが威圧感があるというのは、なんでだ)、偉そうに言う。
「なんだよ、ノート要らねえのかよ?」
「じゃなくて。試験日程も確認しないニイヤくんが、なんで学生課なんかにいるの?」
「ああ、それは──」
ニイヤくんが心持ち、背すじを正した瞬間。
「あ、よかった。まだここにいたのね」
僕たちの会話を遮るように、学生課のおばちゃんが間に入ってきた。目線から言って、僕ではなくニイヤくんに用があるらしい。
「え、なんすか」
「なんすか、じゃないわよ。さっきの書類、不備があったわよ」
「マジすか、どこ?」
「ほら、印鑑。ここにも押してもらわないと困るのよ」
と、おばちゃんが指さしたその書類を、ニイヤくんと一緒になって僕も覗き込んでみた。するとそこには、これでもかってくらいデカい文字で、『交換留学生選抜試験願書』と書かれている。
交 換 留 学 生?
ニイヤくんの捺印をもらったおばちゃんが、「じゃあ、試験がんばってね」と言いながら立ち去るのを待って、僕はやっと訊いた。
「ニイヤくん、留学とかする気なの?」
「え、言ってなかったっけ?」
知らねーよ。
留学の予定を軽く説明したニイヤくんと別れた後、僕はひとりで喫煙所に向かった。
今日は僕もバイトだ。でも、今からまっすぐ家庭教先に向かうと、20分ほど早い。20分てのは微妙で、どこかで時間を潰すほどではなかったりする。学校の喫煙所で、ぼんやり煙草を2本ほど吸うのがちょうど良いのだ。
うちの大学は、基本屋外にしか喫煙所がない。薄暗くなりかけた冬の夕方に、雪の中でわざわざ煙草を吸うやつなんていないんだろうな、と思いながら、学生課から一番近い喫煙所に行ってみると、先客がいた。
「あれ、こんなとこで何やってんの?」
思わず声をかける。そこにいたのは豪さんだった。珍しく、1人だ。
豪さんは僕の声を合図になぜか吸いかけの煙草を一旦もみ消して、僕に「おう」と言いながら新しい煙草を1本出した。
「今日、フットサルの日だと思って今ガッコ来たんだけどさ、雪で中止だって」
「そりゃそうでしょ。ってかこんな中でやるつもりだったの?」
「え、こんぐらい余裕じゃね?」
「余裕ではないだろ」
呆れながらも、僕は思わず噴き出した。豪さんは、どこまで行っても豪さんらしい。
「ところでさあ、豪さん知ってた?」
ちょっとした世間話を挟んで、僕はそんなふうに問い掛けた。豪さんはなぜか焦ったように、また吸いかけの煙草をもみ消しながら、言った。
「えっ、何。何がだよ」
今まで気づかなかったけど、豪さんが煙草を消すのはクセのようなものなのかもしれない。きっかけになるのが、驚きなのか話題の切り替えなのかは、解らないけど。
「なんか、ニイヤくんが留学するとかって言ってんだよね」
豪さんは、いったい何のことを言われると思って身構えてたのか知らないけど、ちょっと気が抜けたように肩を落として、そして言った。
「あー、そのことか」
その態度を見て、今度は逆に僕のほうが軽く身構える。
「知ってたんだ......?」
ひょっとして、知らなかったのって自分だけ? そう思った僕に追い討ちをかけるように、豪さんは付け足した。
「や、俺も詳しくは知らないよ。本人から聞いてないし。ついこないだ、箕輪の姐さんから聞いたばっか」
ふーん。
箕輪さんも、知ってたのか。昨日飲んだときは、そんな話1ミリもしてなかったのに。
僕の心を表現するかのように、吸いかけの煙草から灰がひとかたまり、落ちた。
夜、バイトが終わって帰り道を歩いていても、僕のいやに暗い気分は続いていた。
ぽつんと取り残されてるって感じ?
もちろん、別に子供じゃないんだし、友達じゃん、なんでも話して欲しいよ、とか思うわけじゃない。あと、みんなが知ってて自分だけが知らないことに、腹を立てるつもりも全然ない。
ニイヤくんは、あの後こう言ったんだ。
「俺はねー、こう見えても将来は世界を股にかけるジャーナリストになりたいと思ってんの。そのためにはやっぱ、英語ぐらいフツーに喋れるようになりたいじゃん?」
そんなこと考えてるなんて、全然知らなかった。
大学の1年目がもうすぐ終わるという今。僕はこの1年で、なにかを得たんだろうか──とか、嫌でも考えさせられる。なんの目的もなく、漫然と過ごしてただけなんじゃないか、とか。
家庭教先の子も、もう受験の追いこみに入る季節だから、新たに教えることはほとんどないし。あとは復習させるだけ、ってつまり、本人次第で、僕の存在は本当は必要ないんじゃないか――なんて、あまりにも弱いな。
駅から家まで歩く10分が、やたら長い。
雪はほとんど積もることもないまま止んで、夜はやけに静かだ。
僕は胸の奥で踊る奇妙なモノの動きを抑えたくて、どうしてかわからないけど、誰かに電話しようと思った。
携帯を開きながら、誰に電話しようか考える。ニイヤくんの話をするなら箕輪さんか? でも箕輪さんはニイヤくんの留学のことを僕に黙ってたわけだし──って電話帳の画面をスクロールしかけて、すぐに手を止めた。
登録順のせいで、すぐに出てきた睦月の名前。
見た瞬間、なぜか指が勝手に発信してた。
睦月はすぐ、マジでこっちが心の準備をする暇もないくらいすぐ電話に出た。
「えー、どうしたの?」
開口一番、睦月はほんわりと訊いた。家でくつろいでいるような声だったから、ちょっとホッとした。
「ごめん。別に、用があるってわけじゃないんだけど」
妙にたどたどしく答えてしまって、恥ずかしい。女の子に電話するのは別に初めてじゃないし、その相手が睦月だったことも珍しくないのに。
でも、そういえば僕はいつも用件を探してから電話をかけていた。何を話そうか決めずに電話するなんて、たぶんこれが初めてだ。だから、困る。
「ふーん。なんか、珍しいよね」
睦月はそう言って小さく笑った。その声はあくまでも学校で偶然顔を合わせたときみたいに自然で、だから、電話ってこんなものだったっけ、なんて思ったりした。
とりとめもなく、今日あったことを僕は話した。2、3、4限の3コマ講義に出たこと。昼は四本くんと学食でカップやきそばを食ったこと。市川さんの服の
色が今日もビミョーだったこと。雪が降ってたこと。テストの日程が出てたこと。そして、ニイヤくんと遭遇したこと。豪さんと煙草吸ったこと。とか。
「なるほどねー」
睦月はひととおり話を聞くと、知ったような口調で言った。
「なーんか暗いと思ってたら、ニイヤくんがいなくなっちゃうのが寂しいんだ?」
「まさか」
「寂しいって言っちゃいなよー」
睦月は電話の向こうで、ニヤニヤと笑ってるみたいだった。僕は自分に対して首を傾げる。
「だから、寂しいとかそういうんじゃなくってさ。なんつーか......え、なんだろ?」
「うーん、まあ解るけどね」
「何が?」
「気にすることないよ。ニイヤくんって協調性ありそうに見えて、超マイペースだもん。会話もどっちかっていうとツッコミ役だし、ああいう人ってよく喋ってるように見えて、意外と自分のことって秘密主義なのよ」
「あー......、うん」
僕は、腑に落ちないながらも同意した。
そういうことじゃないんだけど、睦月の言ってることは、それはそれで僕が求めてた答えのひとつになってる気もした。
とか思ってたら、次の瞬間、睦月が急に声色を変えた。
「あの......ね、そういえばっていうか、せっかくだから言おうと思うんだけど、私......」
それがあまりに重々しい声だったから、僕は思わず唾を飲みこんで、「うん?」と不自然に相槌を打った。飲みこんだ唾のせいで、変にくぐもった声になってしまったのが恥ずかしい。
そんな僕の心境を読み取ったせいか、睦月の口ぶりはまた急に軽くなった。
「ごめーん。やっぱ、今は言わない」
「え、気になるな。なんか睦月って、こないだから俺に言いかけてることない?」
普段からそう思ってたわけじゃないけど、なんとなく思い出して僕はそう言った。忘年会の帰りも、箕輪さんに遮られて聞けなかったけど、何か話そうとしてた気がする。学祭の時も、話が中途半端なまま終わっちゃった気がするし。
「あー、そうだね」
睦月は、別にごまかしたりすることなく、割と落ち着いた口調で答えた。
「実はね、結構前から、言おうかずっと迷ってたことが、あるの」
そのしずしずとした声を聞いた瞬間、ふっと。
ひょっとしたら告白されるのだろうか、という予感が頭をよぎった。
僕はちょっと取り乱したような顔をした、かもしれない。あるいは、自分を落ち着けようとしすぎて無表情になったか。どっちにしても、顔に力が入り過ぎた。
電話で良かった。
「ねえ、春に新歓で初めて私と会話したときのこと、覚えてる?」
睦月は淡々と話を続けた。でも、前から言おうと思ってた、という大切そうな言葉の直後に、出会いの時を思い出させようとするなんて、やっぱコレって告白の流れとしか思えない。
「なんだっけ──あ、なんでウチの大学を選んだのか、とかいう話? 覚えてるよ」
とりあえず多少しらばっくれた振りをしながら言ってみたけど、忘れるわけがなかった。あのときの会話がなかったら、僕自身、大学にいる意味(たいした意
味はないんだっていう気楽さも含めた『意味』だ)を見出せなかったかもしれない。そう思うくらい、あれは僕にとって重要な会話だったから。
「そう。私、あのとき確か、『近いから』ってだけ、答えたよね。でも、本当はあれってちょっと嘘で......」
そこまで言うと、睦月は喋るのを一旦止めた。続きを待ちながら、僕は黙ってしばらく電話に耳を押し当てていた。
なのに。
「──う、やっぱり今日はやめとく~」
睦月は突如、緊張の糸に自分で鋏を入れたかのような、揺らいでひっくり返った声を出した。
「っだー! そこまで言っといてやめるのかよ! 逆に気になるよ」
思わず力を込めて言ってしまった僕に、睦月はあくまでやんわりと、それでいてどこか冷静に、きちんと理由を言った。
「えへへ、そうだよね~。でも、ね......あの、電話で大切な話をしちゃうのって、なんかもったいなくない?」
そう言われちゃうと、なんか必死に食いついて話を聞き出そうとしてる自分が、すごいみっともない感じがする。
それに、『大切な話』って言葉が、僕を余計に黙らせたのかもしれない。
考えてみれば──つうか、あえて考えないようにしてきただけかもしんないけど、僕と睦月の関係ってのはやっぱり、他の友達とは明らかに違ってる。
出会ってすぐにあんなことがあったから特別になったのか、もともと特別になりそうな予感があったからあんなことになったのか、そんなことは解らない。
あるいは、あれが今のところ僕にとってまだ「唯一」の女性経験だから余計に引っかかるのかもしれないとか、あのとき既に初めてではなかった睦月にとってそれほど意味がないことだったんじゃないか、なんて心配は、今となってはどうでもいい。
とにかく言えるのは、ただひとつ。
僕にとって睦月が他の奴らとは明らかに違う、ってこと。それだけ。
それだけのことだけど、もしかしたらそれこそが、この1年で僕が得たものと言えるかもしれない。
あー、まあね。『童貞卒業の瞬間』と、『ちょっと恋に近いっぽい感情の芽生え(まだ恋とは断定できない)』なんて、わざわざ大学に入ってまで得るもんで
もないとは思うけどさ。でも、自分には何もないと思って凹んでるよりか、少しはいい。うん。流されるように終わっていく僕の1年にだって、少しは意味があ
るってことで、ひとつ。
睦月が自分から話してくれるのをもう少し待とう。そう思いながら、僕は凍りそうな夜の真ん中で密かにうなずいてみたり、した。
第9話・二月にあったこと
「今日、飲む?」
終了の合図を言い渡された瞬間、ニイヤくんがぐりっと振り向いて訊いた。
「普通飲むでしょ」
僕はきわめて簡単に答える。当たり前のこと訊くなって感じだ。なにしろ終わったんだよ、試験が。
試験期間の最終日は、最後のコマが必修の語学だった。必修ってことは、みんな試験を受けに来てるわけで、人集めは簡単だ。ま、どうせそんな事情がなくったって、いつも集まる面子なんだけどさ。
「つっても金ないから俺んちでいい?」
ニイヤくんは一応って感じでそう言う。こっちは別にそんなこと解ってるから初めからニイヤくんちに行くつもりだったっつーの。
というわけで、とりあえず場所と面子を確保して、僕らはさくっと移動した。これから長い春休みに入るけど、しばらく来ることもない学校にはなんも未練はないってやつ。
ニイヤくんちを経由して、じゃんけんに勝った市川さんと四本くんと豪さんが買い出しに行った。その間、僕と箕輪さんは部屋に足の踏み場(座り場?)を作
るための掃除をする。歩くと往復20分はかかる酒のディスカウントショップに行くのは結構大変だけど、実はニイヤ家掃除のほうが作業的に断然ツライ。そん
ぐらい汚い。でも、じゃんけんで負けたからには仕方なかった。
「なんかクッサイし」
箕輪さんも容赦なく文句言う。でも、言いつつちゃんとキッチンまわりをテキパキ片付けるから、やっぱ女の子なんだなあと思う。
けどその横で、ニイヤくんは堂々とエロ本をロフトに投げ込んだりする。箕輪さん、女だと思われてないなあ。とか、僕は心の中でニヤニヤしたりして。
ま、僕だって箕輪さんのこと、エロネタなんかに動じるような子じゃないと思ってたから、無理もない。大丈夫、あの秘密については、ちゃんと守ってる。
「てゆーかほんと、汚なすぎ。よくこんなとこに住めるよね」
「しょーがねーだろ。試験中なんて、掃除とかする暇ないし」
「試験中じゃなくても、いつもこうでしょ」
箕輪さんは、最近ニイヤくんに対して、妙に喧嘩腰だ。留学のこと黙ってたの、未だに怒ってるんだろうか。せっかくの飲み会なんだから、あんまり殺伐としないでほしいんだけどな。
そんでも、なんだかんだ言いながらこういう場に参加してるってことは、別に問題ないのかな。
そんなこんな、掃除の甲斐あって部屋の床がかなり見えてきた頃、何かぎゃあぎゃあ騒ぎながら豪さんたちが帰ってきた。つっても四本くんは基本的に黙ってるわけで、騒いでるのは豪さんと市川さんだ。
やっぱ、2人の雰囲気は年末あたりからかなり親密っぽくなった気がする。部屋に入ってきてからも、当たり前みたいに隣に座るし。狭いせいかもしんないけど、なんか寄り添ってる。
玄関の近くから時計回りに、箕輪さん、四本くん、僕、市川さん、豪さん、ニイヤくんってな順番で座る。不思議とこれが最近の定位置。やっと落ち着いたって感じで、みんなは飲み物とかポテチとかをディスカウントショップの袋から出し始めた。
そのガサガサいってる中で、僕はナニゲなふりして訊いた。
「えっと......全員揃った?」
別に深い意味はないけどな。っつう心の声を聞き取ったみたいにニヤニヤしながら、市川さんが言う。
「あ、ちゃんとむっちゃんも呼んどいたよぉぉぉ。ちょっと用があるから遅れるって言ってたけどぉ、来るって♪」
なんで市川さんは頭が異次元なくせにそういうところ鋭いかなあとか冷や冷やしつつ、でもたぶんどうせ他の奴らは全然気づいてないし、ふーんともすんとも
言わずに「先に飲んじゃってもいいのかな」とか言って、僕はうまく話を繋げた(つもり)。ま、どうせそう訊いても、みんな待ちきれるわけないし――とか
思ってたら、隣で四本くんがぼそっと言った。
「あ、そーか。今日って転科のガイダンスだもんね」
その意味が、僕にはよく解らなかった。
それは他のみんなにとっても同じらしく、みんなの真ん中にデカい「?」が浮かんだみたいに、一瞬空気の流れが悪くなった。
「えぇぇぇ、テンカってなぁにぃぃ?」
みんなの気持ちを代弁するように、市川さんがバカっぽく訊いた。四本くんは、別に表情を変えることもなく、しれっと答える。
「転科っていったら、学科を変えること以外なくない? 睦月さん、転科するみたいだよ」
「うっそ」
いつもクールな箕輪さんさえ、驚いたような声を出した。
「うーん、まあ本人から聞いた訳じゃないけどね。たぶん美術学科だよ。年末に掲示板見てたら、転科試験の合格者発表に名前が載ってたから」
妙に長い沈黙――を、挟んで。
「へー、うちの大学って、そんな制度あったのかよ」
「そりゃまあ、あるだろ」
「私は一応、あることは知ってたけどさ」
「でもさぁぁ、本当に転科とかしちゃう人っているんだねぇぇぇ」
「毎年20人ぐらいいるらしいよ」
みんなはそれぞれ、沈黙を塗りつぶすみたいにして、ペラペラと喋りだした。
なんか、妙にしらじらしかった。
僕に向かって、市川さんが泣きそうな顔で訊く。
「じゃあさぁぁ、むっちゃんって春から他学科の人になっちゃうのぉぉぉ?」
そんなの僕が知りたいよ。
でも――そっか。睦月が何度も僕に言おうとしてた『大切な話』って、このことだったんだ。そうだとすれば、睦月の言ってたいろんな言葉の意味が解る。
もしかしたら、ずっとそのことで悩んでたのかもしれない。
とりあえず、早まって勘違いのまま告白とかしなくて良かった、と思う。本当は、良いとか悪いとかわかんないけど。
「ま、とりあえず試験終わったんだしさ。湿っぽい話はやめて、飲もうぜ」
豪さんが、もう待ちきれないとばかりにビールの缶をみんなに配り始めたので、僕らは微妙にさっきまでの雰囲気を取り戻すことができた。豪さんもたまには役に立つ。
「ほら」
「サンキュ」
と、渡された缶を開ける。
ブシュッっとアホみたいに泡が吹いて、僕の顔面を直撃した。
「うわっ、なんだよこれ」
「それハズレ」
豪さんがガハハと笑う横で、四本くんがご丁寧にも、「今、玄関の前でひとつだけ思いっきり振ったんだよ」と教えてくれた。
「くっだらねー」
僕は怒りのあまり、乾杯も忘れて早速ビールに口をつけた。そんな僕をせせら笑いながら、みんなは「試験おつかれー」「一年おつかれー」とか言って、缶をぶつけ合った。
ほんと、くっだらねー。
くっだらねーけど、笑える。
こんなバカみたいな毎日から、睦月がいなくなるなんて、信じられない。ましてや、ニイヤくんが留学するとか、そんなの想像を絶する。
だけど、日々は確実に流れてるのだ。缶から飛び出したビールの泡みたく。
睦月が登場したのは、飲み始めてまもなくのことだった。
「ごめーん、遅くなった」
ドアが開くなり申し訳なさそうな、でもなんか妙にすっきりした声が飛び込んできて、ちょっと悔しい気がした。実際はいろいろ手間取ってたし、まだ乾杯したばっかだったからそんなに「遅くなった」わけじゃないんだけど、誰も「謝ることないよ」的なフォローは入れなかった。
ただ、市川さんが、ものすごい単刀直入に切り出す。
「ねーねー、むっちゃん。転科しちゃうって本当なのぉぉぉ?」
「え」
睦月の目は一瞬、僕を捉えた......ように思ったけど、気のせいかもしれない。どっちにしても、驚いたように目を見開いた。
「な......なんでそんなに情報早いの? 今日みんなに発表しようと思ってたのに」
ちょっと悔しそうに笑う睦月を見ながら僕は今、どんな顔をしているだろう。
よく解らなかった。
解ったのは、その場全体が軽く湿っぽい空気になったことだけ。
誰が悪いわけじゃなくて、春ってのは、そういう空気がところどころに蔓延する季節なんだと思う。
「まーほらさ、転科したからって、同じ学校だしな。睦月さんもやりたいことできるし、別にいいことなんじゃね?」
ニイヤくんの声が、軽妙に響いた。
たぶんこれは睦月をフォローする目的ってよか、単にこの中で湿っぽい空気に一番耐えられない性格だからだと思う。こういう場で、口を開かずにいられないんだ。
さらに続けて四本くんが、
「そうだよ。転科試験って入試より倍率高くて難しいって言うからね」
なんてお得意の『微妙に誰も知らないプチ情報』をボソッと披露すると、その場は一気に盛り上がった。
「え。それってすごいんじゃん」
「試験って難しいの?」
「や......筆記はそんなに。普段の成績と、あとは実技だったから」
「へえ、でもめでたいことだな」
「そうだよぉぉぉ。むっちゃんすごぉぉい! 祝杯、祝杯☆」
市川さんがそう言いながら、睦月にビールの缶を渡す。
僕らは改めて乾杯をした。
その間、僕が一言も喋らなかったことに、誰も気づいてなければいいなと思う。
なにはともあれ、僕たちは車座になって飲み始めた。どうでもいい、くだらなくてバカみたいな話が、後から後から出てくる。
いや、初めこそ転科の難しさだとか、最近観た映画とか今度西洋美術館に来る企画展のことみたいな、ちょっと文化的な話をしてたはずなんだ。けど。
気がつけば飛び交うのは、女の子たちによる学内の下世話な噂。豪さんにしなだれかかる市川さんの胸の谷間から生まれ出るニイヤくんのエロ妄想。クールな顔でそれに相槌を打つ箕輪さんを見ながら、四本くんと僕はなんとなく同人誌について語る。そんな、まあいつものノリで。
ふと外を見ると、もう暗くなってた。
明るいうちから勢い良く飲みすぎたなーとか思ってたら、何かが通じちゃったのか、睦月がふっと腕時計に目をやって立ち上がった。
「ごめん。私、そろそろ帰らなきゃ」
僕らは一瞬にしてみんな黙った。妙に寂しい空気が漂う。
「そ......そうなの?」
「うん、ちょっといろいろね、準備しなきゃいけないこととか、あるし」
「なんだよぉ、マジでー?」
「今日ミッチーだって家にちゃんと遅くなるって言ってきたのにぃぃぃ」
「いや、残念だが無理強いはできん。俺にはできん」
それぞれが、好き勝手なことを叫ぶ。
でも僕はやっぱり、ただ黙ってることしかできない。
引き止める気なんかないけど、今日はなんかいろいろ引っかかって、まだちゃんと話もしてない状態だった。でもまあ、だからってみんなの前でどうこうするって訳にもいかないし。
いいんだ、またそのうち電話でも。とか考えてたら、市川さんが僕の袖をクイッと掴んで、わざとらしく声を潜めた。
「てゆうかぁぁぁ、むっちゃん、外もうこぉぉぉんなに暗くなっっちゃったよぉぉ。あのヘンな道、1人で歩いたらきっつい宇宙人に連れ去られちゃうよぉぉ」
隣でそれを聞いてた睦月は軽く失笑。
「大丈夫だよ、慣れた道だし。それに、ふふ、きっつい宇宙人が出没したなんて噂、ないから」
ホッとしたようなガッカリしたような、でもそれでいいような気がしてたら、今度は箕輪さんから一言。
「でも危ないよね。誰か男の子が送ってあげたらー?」
えーと。
なんで『誰か』と言いつつ僕を見てる?
「うん、そうだ。おまえ行ってこい」
「あとタバコ買ってきて」
豪さんとニイヤくんまで、便乗して僕に押しつけ始める。ま、こいつらは裏もなんもなくて、単に自分に降りかかったらメンドクサイからって理由だと思うけど。しかし女の子ってこういう微妙な空気に敏感なのかね。
ま、いいか。とりあえず深く考えるのはやめよう。
「しょーがねーな」
僕は、「ええー、いいよおー」という睦月の遠慮だけを無視して、立ち上がった。
外に出ると、ゆったりと夜が流れていた。まだ2月だってのに、妙に暖かくて春っぽい感じ。ちょっとだけ新歓の時の空気に似てる気がした。
「本当に、転科しちゃうんだな」
例の壁――じゃなくて、塀だったっけ――の脇を並んで、僕らはいつもより気持ち遅めに歩く。
「うん――ごめんね」
「なんで謝るの?」
「あんな形で、報告することになるなんて」
「別に睦月のせいじゃなくね?」
お互い、妙に声をくぐもらせた感じで。
なんでもないなら、そんなことする必要もないんだろうし。たぶん、睦月と僕の間にはなんかある。それがなんだかは解らないけど。
「あのさ、前から言おうとしてたのって、このこと?」
「そう。ちゃんと言っておかなきゃって」
「俺に?」
「――そう、だね」
睦月はそこからさらに歩く速度を緩めて、ゆっくりと語り出した。
「私ね、もともと美術系の大学に行きたかったの。でも、進路を決めるのが遅すぎて明らかに勉強不足だって解ってたから、転科狙いで他の学科も受験したの」
やや上を向いて、僕に言ってるってよか世界に囁いてるみたいな顔で、睦月はゆっくりと喋った。相槌は別に必要なさそうだったから、僕は黙って聴いていた。
「それで、美術系は案の定全滅しちゃってね。今の学科にたまたま受かったから、とりあえずもぐり込んじゃったんだけど、入学してすぐに、やっぱ後悔したん
だ。こんなのやっぱり正攻法じゃないし、同じ大学でも学科によってこんなにカラーが違うなんて思ってなかったし。だからあの新歓コンパもノリについて行け
なくて、ここには自分の居場所がないなあ、やっぱり普通に浪人しておけば良かったかなあって思って......」
「そのとき、俺が話しかけたってわけだ?」
「うん。でもその前から、ちょっと気になってた。私みたいにつまらなそうな顔してる人がいるなーって」
「はは」
「そしたら、声かけてくれて。で、『俺は受けてみたら受かったから来ただけ』とか言ってた」
「言ったな、そんなこと」
「それだけのことなんだけど、私あのとき、自分だけが場違いな気がしてる訳じゃないんだって思って、すごく嬉しかった。転科するまでの大学生活も、かりそめだなんて思わないで、ちゃんと友達作って楽しもうって思えたんだ。だから」
まっすぐに僕を見つめながら一息置いて、睦月は言った。
「だから一年間、本当にありがとう」
それがまるで別れの言葉みたいだったから、僕は思わずその場に立ち止まってしまった。
「ん?」
振り返って首を傾げた睦月に、だけど言うべき言葉は見つからない。これから新しい生活に向かっていく睦月を、僕が引き止めるわけにはいかないんだし。
「こ、この塀ってさ、本当はなにを隠してるんだろう」
ごまかすために開いた口が、勝手にどうでも良い言葉を紡いだ。アホだな、ホントどうでもいい話なのに。だけど、言葉は止まらない。
「睦月はさ、前に知らないほうが面白いって言ってたけど。それって別に知らないから面白いんじゃなくて、知りたいっていう欲求が勝手に妄想を膨らませるっ
てことだろ。別に知らないでいいことなんてあんまりなくてさ、やっぱ知ったほうが、なんつーか、その面白さとかも次の段階に広がっていくわけで、」
だから、俺は睦月のことを知りたいと思った。少し知ってみたら、もっと知りたいと思ったんだ――とか、言う間は全くなかった。
なぜなら、睦月がにっこりと笑って言ったからだ。
「じゃあ、見てみればいいよ」
「え?」
睦月が静かに指をさす、その先。
十メートル程向こうにゴミ集荷場がある。まったく、なんて偶然だろう。たまたまそこには、粗大ゴミとしてダイニングセットが置いてある。ゴミは朝出せよ、とか言っても仕方ない。
このテーブルの上に椅子を置いて、僕がその椅子に立てば、十分安定した足場から塀の向こうを覗けるはずだと、睦月は自信満々に説明した。
「ねえ、ラッキーだね。今日ここを通ったのも、何かの巡り合わせかも」
睦月があまりにも嬉しそうに言うから、僕は引っ込みがつかなくなった。
困った。でも、また話を逸らすほど口に自信もない。
仕方ない......か。
僕は睦月の勧めるままに、足場を作ることにした。あー、なにやってんだろ。
「これ、結構不安定だよ?」
四つ脚だけど、古びたテーブルと椅子は微妙にガタついてる。でも睦月は気にしないらしい。
「だいじょぶ、私、支えてるから」
そう言ってがっしり椅子の脚を掴んだ睦月のニッコニコな笑顔を見て、あーこの子も酔ってるんだなって思った。
これはこれでいいのかもな。僕も酔ってるし。
多少不安定でも、別になんてことない。
「っし。じゃ、上るよ」
ちょっとぐらついたテーブルに乗り、さらに睦月が支える椅子の上に立ってみる。やっぱ結構揺れる......と思いながら、塀の向こうを見る。
と。
そこには思いがけない風景が広がっていた。
「え......」
一瞬、そこには幻想的な風景が広がってるみたいに見えた。まだ昇りかけた月に照らされた静けさ。一面がのっぺりと......。
のっぺり?
僕はちょっとだけ現実に返って、睦月に訊く。
「何これ。畑?」
「そう。今はちょうどシーズンじゃないからなんにもないけど、ここでキャベツを作ってるの」
「な......それだけ?」
睦月がケラケラ笑う。僕は何か言葉を探したけど、うまく見つからなかったから放棄した。投げ出したら、もう笑うしかなかった。
だって、アホじゃん。
こんなにすごい塀の向こうにあるのが、だだっ広いキャベツ畑だなんて、誰が思う?
睦月は、自分もダイニングセットに上ってくる。押し出されるように、僕はそのまま塀の上によいしょと上がった。
「この塀も、昔は小さな柵だったらしいんだけどね。うちの大学が出来たとき、学生がこの畑からキャベツを盗むっていうのが問題になって、こういうことになったらしいよ」
「なにも、こんな高い塀にすることないのにな」
「なんかね、進入しにくいのはもちろんのこと、もうここに何があるか見えないくらい高い塀にしてしまえば盗まれないって考えたみたい」
「なるほど......ってか睦月、詳しいな」
「うん。実はここ、うちの母の実家なの」
「は?」
すごいネタを仕入れたもんだ。さすがにこんなこと、四本くんも知らないだろうな。まあ知っててもあんまり意味ないかもしんないけど。
とりあえず、せっかく塀の上に上ったのだ。幅は20cmほどあるだろうか。タイトだけど、立てなくもない。
僕は思い切って腰を上げ、おそるおそる足を動かしてみた。右には幻想的なキャベツ畑が広がり、左には暗くて気味の悪いいつもの道を見下ろす。割と愉快。
足許を見ると、やっぱかなり高い。でも、酔っているせいか怖くはなかった。
これはなんだ。僕がバカだからかな。高いところにいると、世界を制した気になれて気分がいいもんだ。もともと酒も入ってるから、気は十分大きくなってる。
細かいことなんか気にしてもしょうがなくね? とか思って、僕は告白する気満々で思いっきり睦月を振り返った。
「睦月、俺さ......」
と、その瞬間。ピロロ~と僕の携帯が突然鳴りだした。
「わ、びっくりした」
あまりのタイミングの悪さに、慌ててポケットから携帯を取り出......そうとしたら、失敗した。僕の携帯は手の中を滑って、思いっきり塀の下――キャベツ畑の中ではなく、反対のアスファルト側――に落ち、その衝撃で幾つかの破片を周囲に飛び散らせた。
「やべっ」
慌てて僕は塀から飛び降りる。
酒のせいか夜のせいか、そこが三メートル超の高さであることなんて、すっかり頭から飛んでしまっていた。
「うぐっ」
飛び降りた僕は、かろうじて鳴らなくなった携帯を握りしめたものの、左足に覚えた強烈な痛みを無視することができなかった。
「ごめん、睦月。ちょっと、手......」
睦月がダイニングセットから飛び降りて、「大丈夫?」と心配そうに僕の顔を覗き込む。ん、どこか顔が笑ってない?
まあでも仕方ないか。そりゃ、バカだよな。テンパって携帯を落としてぶっ壊した挙句、こんな高いところから飛び降りるなんて、あり得ないもん。
後から解ったことだけど、このときの電話は箕輪さんからの「私もタバコお願い」というお遣い電話だった。
そんなくだらない用のために、僕は後々まで語り継がれる武勇伝をひとつ作ってしまったということだ。
第10話・三月にあったこと
猫田の駅に降り立つのはものすごく久しぶりな気もしたけど、まるで昨日の続きみたいな感じもする。
でも、線路沿いでフライング気味に咲き始めた桜の花を見て、ようやく「そっか、もう春休みも終わりか」と思い知らされたりもして。
季節が一周したんだなあ、とか妙に感慨深い。
約2ヶ月ぶりに辿り着いた『だっぺえ』の暖簾は相も変わらず渋いんだか汚いんだかわからない微妙な焦茶色で、何も変わってなかった。や、まあいきなり垢抜けたりしてたら困るけど。
暖簾をくぐると、威勢のいい店長の声。
「らっしゃい! あ、久しぶりだね。怪我してたんだって?」
「あー、おかげさまで」
何がおかげさまなんだか解らないけど、とりあえず僕は微妙な愛想笑いで応えた。
店内を見回すと、客は1人しかいなかった。奥の小上がりでポツーンと小さく正座してる四本くん。まあ、大学近くの居酒屋なんて、春休みにはこんなもんなんだろう。
僕と目が合うと、四本くんは小さく右手を挙げてボソッと言った。
「久しぶり」
「うん......ていうか、今日の集合って6時でいいんだよね。ほかに誰も来てないの?」
「そうだね、見ての通り」
それはひどい仕打ちだ。
結局あの夜の塀ダイブのせいで、僕の右足首には見事にヒビが入ってしまった。ほんと、アホだと思う。
そのせいで僕の長い長い春休みのほとんどは、治療というか静養に費やされることとなった。入院とかしてたわけじゃないけど、外に出るのがかったるかったのだ。
で、1ヶ月半経った今、僕の怪我が完治したお祝いをしてくれるっていう(別にそんなことしないでいいよって言ったけど、もうみんなに伝えちゃったから来
いって強引に呼び出された)から、鈍った身体を無理やり動かして、久々に外出らしい外出をしたってのに。せめて招集かけた箕輪さんぐらい、先に来てろよ。
という僕の気持ちとは裏腹に、四本くんはなんてことない感じで言う。
「まあでも、6時から6名でちゃんと予約してあるみたいだから、そのうち来るんじゃない?」
「でもひでーよ。一応、俺が主賓なのに」
「そうだね......先に飲んでる?」
「だな。どーせこの調子じゃ、みんないつ来るか解んないし」
そんなことを言ってたら、店長がカウンターの中から声をかけてくれた。
「じゃあ今のうち、2人にだけ1杯ずつサービスするよ。快気祝いってことで」
「マジっすか」
たまには外に出てみるもんだ。ま、いろいろ面倒くさいことのほうが多いけど。
「それでは、折れかけながらもなんとか生還した君の足首に乾杯」
ふざけてるんだか真面目なんだかいまだによく解らない四本くんの、妙に律儀な音頭でもって僕らは乾杯した。
男二人、しかも妙に空いてる店内。寂しいけど、やっぱ久しぶりだし、一口ビールを流し込むとやけに旨い。サービスだと思うから余計にかも。
しかし――四本くんも自分からペラペラ喋るほうでもないし、僕もいちいち自分から話題を提供するのが面倒いほうだし。妙に場がしらじらしかったりするのは否めないわけで。
「あー......と。何かツマミも頼んどく?」
気まずさを追っ払うために僕がメニューを手に取るとほぼ同時に、ガラガラと入り口が開いた。
「つーか、そん時はマジで三途の川を見ちまったーとか思ってさ」
「にゃはははは、豪さん、それ『三途の川』の使い方間違ってるよぉぉぉ」
「使い方とかあんのかよ」
顔より先に飛び込んできたテンションの高い会話。顔を見なくても、その声で市川さんと豪さんだって解る。何の話かはまったくもって謎だけど。
「お、もう来てた」
「わぁぁ、ひさしぶりぃぃぃ~~」
「先に飲んでるよ」
四本くんがジョッキを見せびらかすように掲げて言うと、豪さんは「オレらも生!」と店長に向かって叫ぶ。
「こんな静かな店で、んな大声出さなくてもいいよ」
店長のツッコミに、また市川さんがにゃははは~と笑った。
早速乾杯し直し。
ジョッキをぶつけ合う豪さんと市川さんを交互に見て、どうせ春休みだし快気祝いだし、まあそんなのどっちも全然理由にはならないんだけど、僕は以前から訝しんでたことを訊いてみることにした。
「あのさ、2人って付き合ってんの?」
実にさりげなく、どことなくどうでも良さそうな、という感じの口調は、自分的にもなかなか巧くやったほうじゃないかと思う。けど、僕の密かな成功とは裏腹に、2人は見事に即答で僕の疑惑を否定した。
「それはないだろ」
「あ~り~え~な~い~」
そうなの? 声が揃うタイミングも合いすぎてるし、やっぱ怪しいんだけど。
「でも仲いいよね。今日だって一緒に来たし」
「たまたま店の前で会っただけだ」
「そおだよぉぉぉ。だいたい超理想が高いこのミッチが、こんな手近なところで手を打ったりするわけないよ、ねえぷっつぃん?」
「そうだよ、こんな髭男には渡さない。だってミッチは僕の天使なのさ☆」
うわ、久しぶりに出た、脳内猫。春休み中も健在、市川さんワールド!! って、僕は多少ウンザリ感を顔に滲ませたけど、豪さんと四本くんは別にそこらへんはもはやどうでもイイみたいな感じで、全然違う会話を始めてた。
それでもまだ豪さんと市川さんは怪しい気がするんだけど、まあ蓋を開けてみないと解らないことって、多いよなあと僕は思った。
そんなこんなで僕らは4人和やかに、ていうわけでもないけど、まあいつもどおり飲み始めた。
いつも通りってのは、豪さんの暴言が相変わらず多いことだったり、市川さんが電波飛ばしまくってることだったり、四本くんの口からは蘊蓄と裏情報ばっか
出てくることだったり。そんで、僕はそんな中、自分だけがマトモな人間だと思いながら(一応、そのくらいの自己認識はあるんだ)、みんなにツッコミを入れ
るってな具合。
「しかし、幹事来ないね」
3杯目の生ビールを注文する際にできた会話の切れ目に、四本くんが言った。
本当だ、もう約束の時間から1時間近く経とうとしてるのに。
「さすがにちょっと心配~! 事故とかに遭ってなきゃいいけどぉぉぉ」
市川さんの言葉に、僕は思わず携帯を見た。着歴もメールもない。箕輪さんはああ見えて意外としっかりしてるから、自分で招集かけといて何の連絡もなしに大幅遅刻なんて、確かにちょっとおかしい。
まんまと市川さんの言葉に踊らされて不安になった僕を見透かしたように、豪さんが笑い飛ばした。
「事故とかありえねって。この狭い街に救急車とかパトカーなんかが通ったらすぐに解るだろ。だいたいさ、事故の気配みたいの感じたら、俺らも店飛び出て野次馬に行くに決まってるし」
「確かに」
僕と市川さんの声がハモった。豪さんの言うことは豪快すぎて理解できないことのほうが多いけど、妙に説得力がある。
「じゃあ、やっぱ単に春休みボケ?」
「あり得る」
「まったく、誰のせいで怪我したと思ってんだよ」
安心ついでに、ついそんな言葉が僕の口をついて出る。けど、豪さんは掌を返したように、すっとぼけた顔。
「誰のせいって、それはどう考えてもおまえの不注意じゃないか」
「ちょ......本気でそれ言ってるとしたら、殺意が芽生えるんだけど?」
「えぇぇ、じゃあ誰のせいなのぉぉぉ?」
市川さんまで、悪気のカケラもない顔で言う(ついでに、なぜか知らんけど胸をぎゅっと寄せて、今日も襟ぐりの広いカットソーから谷間を覗かせてた。何そのサービス)。
うーん、確かに僕が怪我をしたのは、もちろん自分の不注意のせいだけど。つか酔っぱらって完全に舞い上がってたのは認めるけど。
でも、それを差し引いてもやっぱ、みんなも悪いだろ。絶対。
睦月が帰るとき宇宙人がどうのとか騒いだ市川さんの電波っぷりや、どう考えても僕にその役割を押しつけてるようにしか見えなかった箕輪さんの強引さ、そ
して、それにかこつけて僕をパシリに使おうとしたニイヤくんと豪さんの調子乗りっぷりも、全部原因のひとつだと思うんだけど。
「少なくとも僕のせいではないと思うよ」
僕の気持ちを読んだかのようなタイミングで四本くんが弁解する。でも、僕は見逃さない。
「四本くん、見て見ぬふりしてたよね?」
フハッと笑ってごまかす四本くんに、なんか僕は諦めに近い親愛の情を感じた......ような気がするけど、気のせいかもしんない。
そのときだった。
「お、来たぞ」
「良かったぁぁぁ、無事だったんだぁぁ?」
見ると、きったない暖簾から箕輪さんが顔を覗かせてる。時計はもう7時。
「ごめん、遅くなった」
て、口では謝ってるけど、不機嫌ぽい態度の箕輪さんに続いて、ニイヤくんも店に入ってきた。箕輪さんと同じように、いやそれ以上にムスーとしてて、思わず話しかけるのをためらってしまう空気だ。
そんな2人を迎えて、一瞬沈黙に包まれた一団......の中で、口を開いたのは。
「えぇぇ~どうしたのぉぉ。2人とも超クラいぞおぉぉぉぉ?」
さすが市川さん、空気読めてない!(でもこういうときこういう存在って結構マジで助かるかも)。
その微妙な空気には、箕輪さんも思わず笑っちゃって、「理由は話すから、とりあえず1杯飲ませてよ」とか言いだした。
さて、問題はニイヤくんのほうだ。
いつもは考えてることが顔に表れるより先に口をついて出るタイプなのに、今日は登場以来1回も口を開いてない。怒ってるって感じでもない。ただ、喋るの
もかったるそうだし、誰かと目を合わせるのも煩わしそうにずっと下を見てる。いつもヘラヘラしてるニイヤくんだけに、戸惑う。
そこでまた、気まずい空気をわざと読まないのかってくらい読めてない市川さんの攻撃。
「なぁにぃぃ~? ニイヤくんってば、ミノちゃんとケンカでもしたのぉぉぉ?」
「ケ、ケンカとかじゃないって!」
箕輪さんは、顔を赤くして答えた。
顔を赤らめるような話か? 早速ビール飲んでるっていっても、そんなんで赤くなるような箕輪さんじゃないだろ。
箕輪さんの意外な反応に驚いて口を挟めない僕を置き去りに、みんなは話を広げる。
「まあほらぁぁ、仲が良いほどケンカするって言うしぃぃぃ~」
「逆。ケンカするほど仲が良い、でしょ」
「あはは、そうだった~☆」
「おまえはアホか! まあそれはともかくおふたりさん、夫婦喧嘩は犬も喰わねえぞ」
「だから、ケンカとかじゃないから......」
箕輪さんはそう言い訳した。夫婦のほうは否定しなくていいのか? と僕が言おうと思ったところ、ニイヤくんがいきなり口を開いた。
「留学試験、ダメでした!」
なんか、すごい怒ってるっぽい口調。
「ああ......なるほど」
「それは残念だったな」
一応神妙に頷く四本くんと豪さん。でも市川さんはそんな雰囲気をまったく気にせず、追撃だ。
「えぇぇ、でもそれってニイヤくんの実力なんだから、不機嫌になられても。ねえ?」
って、なんでそんな難しいところで僕に話を振る!?
「え......と」
ごまかし笑いをする場面でもない。仕方ないから、僕はちょっと話を逸らすことにした。
「発表、今日だったん?」
「そう。試験はギリで合格ラインだったのに、1年間の出席日数が少ないとかで......」
なぜか、ニイヤくん本人じゃなくて、箕輪さんが答えた。でもみんなはそんなことに疑問を感じない様子で、口々に勝手な感想。
「そっかぁぁ。留学費用貯めるために授業そっちのけでバイトしてたのに、ねぇぇ?」
「でもそれってやっぱ、自業自得......」
「だよな。んなことで怒り振りまくなよ」
豪さんに怒られると、ニイヤくんは自棄になったようにビールをガブガブ口に流し込んでから、ダン、とジョッキをテーブルに置いて叫んだ。
「アホか! 別にそんなことでムカついてるわけじゃねーよ」
「はあ? じゃあ何なんだよ」
「俺が不合格だって解った瞬間、コイツ嬉しそうな顔したんだよ!」
ニイヤくんが指さしたのは、箕輪さんだった。箕輪さんは、顔を強張らせてる。
「そりゃ、ミノちゃん的にはぁぁ、ニイヤくんが留学しちゃったら寂しいからぁぁぁ」
「だからって失礼だろ!」
「アホか、やっぱ夫婦ゲンカじゃねえか」
「いやいやいやちょっと待って」
僕は強引に話をぶった切った。このままじゃ、ちょっと消化できない。
「あのさ。ニイヤくんと箕輪さんって、ひょっとして付き合ってるの?」
2人は一瞬目を見合わせた。ついでに、なんでか知んないけど他のみんなまで喋るのを止めた。
「だ、黙っててごめんね」
気まずい空気を蹴散らすように、口を開いたのは箕輪さんだった。
や、別にそんな深刻になんなくてもいいんだけど、と言いたくなるくらい、その表情は張りつめてる。
むしろ、緊張ってよりも思い詰めたような目と少し赤くなった頬がラブコメ漫画のヒロインみたいで、はっきり言って、箕輪さんに似合わなすぎ。あ、でも箕輪さんって漫画好きだし、なりきっちゃってるのかな。僕は笑いをこらえるので精一杯だ。
「年末ぐらいから......そういうことになったんだけど。でもあの、なんか、言いだしにくくて......」
「みんなは知ってたの?」
「や、本人から聞いたわけじゃないけどさ、なんか怪しいとは思ってたんだ」
「あたしは知ってたぁぁぁ」
「まあ、見てれば解るっていうか......」
四本くんはともかく、豪さんまで気付いてたとは、鋭いな。野性の勘か?
「ショックだ......」
思わず口から漏れる。自分だけが全く気付いてなかった状況は、あまりに不覚だ。
けど、箕輪さんはその意味を違うふうに受け止めたみたいだった。
「ご、ごめんなさいっ。騙すつもりじゃなかったのっ......!」
「え?」
「2人で遊びに行ったりして、気を持たせちゃったかもしれないけど......あの頃はまだニイヤくんともこんなふうになってなかったし、二股かけてたわけじゃないから」
「......」
なんか箕輪さん、キャラ崩壊してるよ。たぶん本人は完全に本気だけど......。とか、ちょっと退き気味になってる僕の顔を覗き込んで、箕輪さんは小首を傾げた。
「祝福してくれる......?」
「ぶっ」
ついに我慢できなくなった僕は、口に流し込んだばかりのビールを噴き出した。
そりゃ確かに驚いたけど。それは、チビのニイヤくんとクールな箕輪さんって組み合わせはあり得ないと僕が勝手に思い込んでたからであって。ついでに、豪さんと市川さんに惑わされてたし、自分も睦月のことばっか考えてたってことかもしんないけど。
でもまあ、せっかくだから盛り上がってる箕輪さんの物語の中のキャラを演じてやろう。
「もちろん、祝福するよ」
僕はジョッキを掲げて、箕輪さんの額に軽く当てた。
恋愛って端から見るとものすごい滑稽なんだってことが、よく解ったよ。ホント。
「んじゃ改めて仕切り直すか。今日はニイヤの留学失敗残念会ってことで――」
「ええっ、俺の快気祝いじゃ?」
「ああ、じゃあついでだからそれも」
「ついでって」
みんなは笑いながら、訂正もなく乾杯してしまった。まったく、ひどい扱いだ。
けど、結局それも実は以前から変わってない。店に呼び出されて行ったらみんな移動した後だったり、海に行ったときは僕の川柳がひどいといって焼酎をくれなかったり、この怪我だってパシリにさせられたせいで出来たようなもんだ。
どうやら僕はこのメンツではいじられキャラってことか(今まで気付かなかったって事自体、そういうキャラになる理由かもしれないけど)。まいったよなあ、と。
ちょっとニヤニヤしながら思った。
大学に入って1年経ったってのに、面白いくらいなんにも変わんないな。睦月は転科しても同じ学校にいるわけだし、ニイヤくんも結局留学しないし、箕輪さんはちょっと変わったかもしんないけど、たぶんこのキャラだって元々持ってたものなんだろうし。
結局カップルが1組成立しただけなんて、1年間の成果にしちゃ小さいほうじゃないか。
僕が童貞捨てたほうがよほど大事件って感じだ(みんなは知らないけど)。
子供の頃は――いや、正確に言えば高校卒業する去年まで、1年ってもっと長くて内容があって起承転結があったように思う。それはまるで螺旋階段のように、くるっと一周違う景色を眺めると次の階に上ってる、みたいな感じ。
でも大学での1年は完全に違った。僕らはもう人間が出来上がっちゃってて、それぞれのキャラは定着してる。時々ちょっとしたイベントがあっても、基本的には休みばっかりの生活の中、ぼんやりしてれば夏休みが終わったのにも気付かないような毎日。
そんくらい、日々は平坦に流れてる。
つまらないわけじゃないし、意味がないわけでもない。
ただ、ひたすら。
まるであの塀みたいに、時々転げ落ちて怪我でもしないと、足許が見えなくなったりするんだろう。
そして――。
そこまで考えを巡らせたところで、豪さんの携帯が気持ち悪い着メロを爆音で奏で始めた。
「うわっ」
「なにこれ、うるさーい」
迷惑そうな顔をする周囲には目もくれず、豪さんは電話に出る。
「おう、久し振りじゃん。――え、ああ......ええっ、マジかよ! うん、ああ、......解った、今すぐ行く」
電話を切るなり、豪さんはただ事とは思えない形相で立ち上がる。僕らが一斉に「何?」「どうしたの?」「何かあった?」と訊くと、興奮気味の返事。
「スチームが帰ってきたぞ」
「は?」
僕らはでっかい疑問符に包まれた。スチーム? ってなんだっけ? どっかで聞いたことがあるような......。
「あ、あの時のタイ人か」
一番はじめに思い出したのは、箕輪さんだった。それを聞いて、僕もふっと記憶を呼び戻した。
「ああー、解った。豪さんのバイト仲間かなんかで。不法入国してた人」
「お、あれか。強制送還されたって奴か」
ニイヤくんも覚えていたようだ。そう、スチームが国に帰って傷心の豪さんに、飲もうと無理やり誘われたっけ。あの時も、酔いつぶれた豪さんの鼾がひどかった。
「また不法入国じゃないでしょうね?」
怪訝そうに言う箕輪さんに、豪さんは表情も変えず答えた。
「いや、たぶん不法......」
「うわぁぁぁ、それ、またループするよ~」
珍しくまともなことを言う市川さんの言葉に笑いながら、僕らはスチームに会ってくるという豪さんを見送った。本当、ループだよなあ。やっぱ僕らは塀の上を歩いてるのかもしれない。
そんなことを考えながらビールを喉に流すと、ふと睦月の顔が浮かんだ。
そう、ループだから。4月が来てまた睦月に会ったら、声をかけよう。去年の春みたく。
塀から転げ落ちるみたいな展開があってもいいし。
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コメント(2)
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