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山手線ゴー・ラウンド ―駒込―

 駒込駅から徒歩五分ほどのところにあるさつきのアパートに、平野はようやく入れてもらった。平野にとってさつきは十二歳下で、自分が失ったばかりのみずみずしい若さを持つ、美しい部下であった。
 課の飲み会の後、帰る方面が同じという縁で一緒に帰り、酔った勢いで口説いて関係を持つようになってから三ヶ月。これまで彼女は、なかなか彼を家に招いてくれなかった。今日も、半ば強引に平野が押しかけたという感じだ。

 ごく一般的なワンルームに、さつきは暮らしていた。生活を感じさせないシンプルなインテリアが、彼女の若さをもの語る。
「しかし珍しいよな。駒込なんて、女の子が一人暮らししたがるような街でもないだろ。どうしてここに住もうと思ったんだ?」
 平野が訊くと、慣れた質問なのか、さつきは用意されたような言葉で答える。
「確かにすごく地味なところだけど。山手線の駅から徒歩五分って立地を考えると、今の家賃で住めるところなんて、そうないもの」
「そうか......」
 平野はそれを聞いて、言うべきかどうか少し悩んでから、やはり言った。
「家賃の問題なら......俺が少し補助してやっても良いよ」
 それは、平野が以前から思っていながら、ずっと言い出せずにいたことだった。
「やめてよ、まるで愛人みたい」
 さつきは笑った。今までにも何度か同じようなやりとりがあった。そのたびにさつきは言う。私は平野さんの愛人になりたいわけじゃない。私といる時は奥さ んを愛してる人とは別人の平野さんでいてくれればいい。しかし、それでは収まらない部分が平野には少なからずあった。妻子ある身でこのような若い女と会っ ているということが一体どういうことなのか、平野は自分でもよく解っているつもりだ。
「私は駒込が好きなの。地下鉄も通ってるし、通勤はすごく便利よ。昔ながらの商店街もあって人情味のある街だし、近くのお総菜屋さんは美味しいし、それに......」
「それに?」
 言いかけて止めたさつきの顔を、平野が覗き込む。さつきはふと悲しそうな顔でかぶりを振って、小さな声で付け加えた。
「きっと、平野さんには解らない」
 平野はきっと自分の身体にしか興味がないし、後ろめたい関係の二人が太陽の下を歩く機会はきっと来ないと、さつきは思っている。だから、初夏になるとさ つきと同じ名前を持つ花がきれいに咲き誇ることも、駒込あたりには花を観るのに良いスポットが沢山あることも、それこそがこの街を愛する一番の理由である ことも、さつきは言わない。
 サツキツツジの花言葉は、『節制』。

 そんなことをつゆも知らずに、平野はいつものようにするだけのことをして、終電が行ってしまう前にさつきのアパートを出ると、山手線のホームに駆け込んでいった。ここから先の彼は、まぶしいくらい若い女との情事を忘れ、妻の良き夫であり、我が子の良き父になる。
 それがさつきの節制のおかげであることは、知るよしもない。

田端巣鴨



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