top


山手線ゴー・ラウンド ―巣鴨―

「野崎くん。お疲れ様ぁ、お腹空いたね」
 残業中、水原さんから内線。彼女のお約束の一言に、俺は応える。
「コテコテなところでも行きましょうか」
「あそこがいい、ホラ、巣鴨の」
「オッケーです」
 俺たちは会社の駐車場で待ち合わせた。何かのきっかけで互いに学生時代からラーメンを食べ歩くのが趣味だったと知って以来、時々残業帰りに二人で食べに 行く。俺はバイク通勤だから、都内のいろいろな店に気軽に食べに行き、その後彼女を神泉のアパートまで送ることができる。足として使われているだけかもし れないが、楽しい。

 店は相変わらずの人気で、この時間でも人の出入りが絶えないようだった。二人でカウンターに向かい、ラーメンが出てくるのを待っている間、他愛のない話 をする。水原さんは店に入った時からずっと満面の笑顔だ。他の席に先にラーメンが出されると気になるのか、チラチラと見ているのが面白い。
 いよいよラーメンが目の前に差し出されると、水原さんは目を輝かせた。まずは器の上から匂いを嗅ぎ(時々湯気で咽せる)、何を納得しているのか、頷く。 そして、レンゲできっちり一口分掬ったスープを舐めるように飲む。いつもそこまでしてから、割り箸を割る。これが実は苦手なようで、右と左が同じ太さに割 れているのを見たことがない。彼女はちぐはぐな割り箸の根本のほうを不器用に持って、麺を二三本引っ張り出し、レンゲの上に載せてまじまじと見てから食べ る。
 それから初めて器の麺を啜る。水原さんはその小さな口に似合わず、ズズと音を立てて豪快に麺を吸う。快い音がしばらく続いて、麺は半分ほどなくなると、 彼女は麺の上に乗った具にも手を出しながら軽快に食を進める。最後に残った少量の麺は、レンゲに乗せてスープと絡め、一口でゴクッと飲み込む。
 食べている間の水原さんの顔はいつも真剣そのもので、「あー」とか「んー」とか言う以外は一切の余計な会話をしない。俺は隣で同じメニューを食べなが ら、彼女のそんな様子をただ盗み見ている。この人の真剣な食べっぷりと、食べ終わった後の満たされた笑顔を見るためなら、俺はいくらでもラーメンを食べに 付き合おうと思いながら。

「ああ、幸せー」
 店を出るなりそう言った水原さんに、俺は紳士的な口調で言う。
「じゃあ、いつも通り家まで送りますよ」
「ありがと。でも今日は巣鴨駅までお願い」
「どうしてですか? 同じ方面なのに」
「今日はね、ちょっと王子まで行くから、山手線で田端に出るの」
「王子? もう十時半過ぎてますよ。今から何しに行くんですか?」
 バイクの後ろに乗りながら、水原さんは俺に耳打ちした。近くに感じた彼女の息は、さきほど食べたラーメンの匂いがした。
「先月付き合い始めた人が、住んでるの。会社の人たちには秘密ね」
 俺は何も言えないまま、バイクで一分とかからない距離の巣鴨駅まで彼女を乗せた。駅前のロータリーで彼女を降ろし、何かを言わなければいけない気がして、言った。
「他の男と食事したりして、彼氏に怒られませんか?」
 水原さんは笑って答えた。
「ラーメン食べたくらいで怒らないわよ」
「あ、そっか。たかがラーメンじゃ、ね」
 それなら、彼女がその口で何を美味しそうに食べたら、彼氏は怒るんだろうか。と、思ったけれど訊かない。答えなんて初めから解っている。
「じゃ、また明日ね」
 改札に向かって、水原さんはいそいそと歩いていく。その後ろ姿を見て、俺はようやく、自分がずっと彼女に欲情していたことを悟った。

駒込大塚



コメントする