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山手線ゴー・ラウンド ―西日暮里―

 正毅から電話がかかってきたのは、何の用もない土曜の夕方だった。
「久し振りに東京に遊びに来たら懐かしくて、思わず電話しちゃったよ」
 ほぼ二年ぶりに聞こえてきた彼の声は、あまりに屈託がない。私は、携帯の番号を変えずにいて良かったと心から思っていた。
「今、どこに住んでるの?」
「千駄木」
「センダギ? なにそれ、どこ?」
「......山手線で言うと、西日暮里かな」
「西日暮里? 行ったこともないよ」
 私は笑った。大学時代の四年間、六本木が主戦場だった正毅には、確かに縁がない場所だ。千駄木あたりは戦火を免れた関係で、今も昔ながらの街並みが楽しめる。周辺の谷中・根津などと一緒に谷根千などと言われ、最近は若い人にもそれなりに知られているはずだけれど。
「せっかく東京に来たんだから、会おうぜ。お前んちあたりまで行くから」
「......うん、わかった」
 私たちは西日暮里の駅前で待ち合わせした。私は自分でも驚くほど心が躍っていた。本当は、今も彼を好きなのかもしれなかった。少なくとも、あれほど好きになる人はもう現れないと思っていた。
「お前、変わってないな」
「正毅は少し変わったね」
 社会人になって金を持ったせいか、また東京を離れたせいか、彼の洋服や持ち物には金を無駄に持った人間が陥りそうな成金趣味が滲み出ているような気がした。
 大学に入ってすぐに付き合い始めた私たちは、喧嘩もそれなりにしたけれど、仲の良いカップルだった。このまま結婚するかもしれないと私は思っていた。
 それなのに、私は彼に捨てられた。私が東京での就職を決めた後で、実は卒業したら実家の家業を継ぐから帰るんだ、とあっさり言い放ったのだ。
「私はどうなるのよ?」
 私は人生で一番と言って良いくらい泣きながら彼を責めた。けれど、それで何が変わるわけでもなかった。別れてから随分経って、彼が初めから大学にいる四年間だけの慰めに私と付き合っていたのだと思い当たった。
 ともあれ私たちは駅近くの居酒屋でビールを何杯か飲みながら、何人かの共通の友達についてうわさ話などをした。
「で、さとぷーは今、立派な妊婦」
「あいつ、ちゃんと子育てできるのかよ」
「大丈夫。もう母の顔になってるもん」
 一番派手に遊んでいた子のことを話していると、急に正毅が声を改めた。
「で、お前はどうなの?」
「え?」
「男。できた?」
「そりゃまあ、男の一人や二人」
「俺は、彼女できねえよ」
 私は何も言えなくなり、正毅は続けた。
「もっとゆっくり話したいな。今から、お前のアパート行こうよ」
 用意したセリフを読むかのような抑揚のない口調。私の心はもう躍らない。
「だめ」
「どうして?」
「......彼氏いるんだってば。簡単に他の男を家に上げたりしないよ」
「でも、俺だよ?」
 バカ。
 私はもはや何も言うまいと思い、席を立って居酒屋を飛び出した。正毅は慌てて追ってきたけれど、会計で手間取っている。私はその隙に駅前の大きな通りか ら適当な路地へ入った。この辺りの路地はごちゃごちゃしていて、初めて来た人が一人で歩けるようなものではない。私ですら、どこをどう歩いているのかよく 解らなかった。でも、二度と正毅にさえ会わなければ、それで良かった。
 ふらふらと路地を歩いている途中、昔ながらの佇まいをした銭湯を見つけ、私は吸い込まれるようにそこへ入った。何の準備もなく銭湯に入るのは初めてだった。
 番台で入浴料と幾らか払ってタオルを貰い、手早く服を脱いで浴場へ入る。驚いたことに、この銭湯にはシャワーもない。私は並んでいる蛇口からひとつを選び、ケロリンと書いてある黄色い桶に勢いよく水を溜め、それを頭から一気に被った。
 彼を好きだった気持ちをすべて洗い流してしまいたい一心で、何度も何度も被った。

日暮里田端



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