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山手線ゴー・ラウンド ―新橋―
「十年前だ。会社を立ち上げてまもなく、経営が上手くいってなくて、私はこの近くの居酒屋で浴びるほど酒を飲んだ。その帰りだ。新橋駅のね、SL広
場に神様がいたんだ。たいそう困っていらしたので、私は声をかけた。何しろ泥酔していたので、何を話したかは覚えていない。しかしその次の日、いくつかの
雑誌が我が社の商品について取材したいと問い合わせしてきた。そして、あれよあれよという間に商品が売れ始めた。それが、今や年商百億を超える企業だよ。
あの日神様に会ったおかげだ」
呂律の回らなくなった社長が、みんなに聞こえるような大きな声で語る。周りの部長たちが「またあの話だよ」と失笑する中、総務部の絵美だけが、
「えぇー! 本当ですかぁ?」
と高い声を響かせた。管理職たちも、彼女の無垢さに癒されるように笑った。
社長と部長クラスの人たちが集まった忘年会にコンパニオン代わりに呼ばれたのは腹が立つけれど、会社の金なら飲まなければ損だ。私は飲まされる要員、絵美は花となる要員。部長たちと酒を酌み交わせば良い私は、社長の話も適当に聞き流した。
飲み会が終わって部長たちをタクシーに乗せた後、私は絵美と新橋駅まで歩くことにした。タクシー代を貰ったけれど、それを懐に入れて電車で帰ろうという魂胆だ。
終電が近いので急ぎ足で駅へ向かうと、SL広場でさえないオヤジが泣いていた。
「わ、なんかすごい泣いてますね」
絵美は興味を隠せない様子だった。人目もはばからずおいおいと泣いているオヤジなんて、確かに珍しい。道行く人たちも遠巻きに注目しているようだ。
「あれが神様だったりして」
私が冗談で言うと、絵美は興奮して「声かけてみましょうよ」などと言い出した。
「あんな話、嘘に決まってるじゃない。早く行かないと終電に乗り遅れるわよ」
私が改札へ急ごうとすると、絵美は大泣きするオヤジを見入ったままで言った。
「えー、でもせっかくだし。私、行ってみます。どうせタクシー代もらってるんだし」
私は、終電に乗り遅れたくなかったので、先に帰ると言った。
「危ない目に遭いそうになったら、ちゃんと大声出すのよ」
私にできるアドバイスはそれだけだった。
「昨日のオジサン、奥さんに離婚を切り出されてヤケ飲みして泣いてただけでしたぁ」
次の日、絵美が笑いながら報告するので、私は納得しながらそれを聞いていたのだが、絵美はそれ以来すっかり変わった。
着る服は高価になり、肌も髪もつややか、表情も活き活きとして、もともと美人だったけれど、明らかに誰もが心惹かれるような魅力を兼ね備えるようになったのだ。
「ちょっと絵美、最近どうしたのよ」
私が聞くと、彼女はこっそり教えてくれた。
「実は、あのオジサンと付き合ってるんです。これが、びっくりするほどのお金持ちだったんですよぉ」
はにかんだように言う彼女は、やがてそのオジサンの再婚相手となり、惜しまれながら会社を辞めていった。
「串田さん、また後輩に先超されちゃったね」
部長に嫌味ったらしく言われて、私はため息を吐いた。
社長のでたらめ話を、私は今も信じていない。けれど、絵美のほうが神様に愛されているのは確かなように思えた。
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