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山手線ゴー・ラウンド ―新大久保―

 二限は大教室での講義。早めに教室に入った香織は顔見知りに声をかけられた。自然とできあがっていく人の輪。やたらとそこに入りたがる子や、支配したがる子。輪が作る閉塞感。その中心に突然割り込んできた千夏が、甲高い声で皆の注目を集める。
「昨日ね、新大久保のうす暗い路地を歩いてたら、途中で変な男に声かけられてぇ」
 香織は不快になったが、顔に出すほど不器用でもない。興味がありそうな顔で聞く。
「へえ、何て声かけられたの?」
「はじめは『三万円でどう?』って。ほら、そういう人ってよくいるじゃない?」
 『よくいる』って、堅気の女子大生に前触れも無く金額を吹っかけてくる非常識な男など簡単に出現されては困るのだが。
「ずっと無視してたらさぁ、なんか『じゃあ四万! いや五万!』って値段が上がってくの。私を何だと思ってるのよ、ねー」
 ウリモノだと思ってるんじゃない?
 思いついたものの、香織はその言葉を呑みこみ相槌を打つ。千夏は怒ったような口ぶりで、なおかつやたらと嬉しそうに話す。やがて二限の始まりを告げるチャイムが鳴ったので、香織は逃げるように輪から離れた。
 授業が始まった直後、香織は自分の貧乏揺すりに気付いた。千夏のことで苛立っているのだろう。香織は彼女のような子をどうも好きになれなかった。女子大 が合わないのかもしれないが、受験に失敗したのは自分なので仕方ない。ただ、小・中・高と毎日が楽しくて学校も大好きだった香織が、この大学に入ってから は調子が狂っているのは事実だ。
 初めはちょっとした違和感だった。楽観的な香織は、環境の変化があればそれも当然だとたかをくくっていた。新しい雰囲気に慣れるのは大変だが、少しずつ で良いと思っていた。けれど違和感はやがて苦痛へと変わり、入学してもうすぐ一年になる今では原因不明の頭痛と吐き気にまで成長してしまった。
 ここにいる学生の大半はファッションと恋愛にしか興味がない。ファッションに関しては、いかに雑誌モデルと同じ格好をするかというのがステイタスだ。だ から、色違いの同じニットを偶然着てきた二人を見ることもある。自分ならば恥ずかしいと思うところだが、奇妙なことに彼女たちはお互いの服を褒め合う。ま た、恋愛のことでは、自分が付き合っている相手について包み隠さず報告しあうのが友達だという定義がある。喋りたがる人と喋らされる人がいるが(恋人がい るのに詳しく言わないと陰口を叩かれる)、恋人が居ない香織はもっぱら聞かされる側で、気付けば周りの子たちの恋人について、会ったこともないのに氏名・ 大学名もしくは会社名・誕生日・血液型・身長・体重・趣味・最寄駅・家族構成・セックスの傾向・性器の寸法など、知らず知らずのうちに覚えてしまった。
 高校までの香織の同級生たちとの間では、そのようなルールは存在しなかった。世界のどこに境界線があるのかは解らないが、とにかく、あの世界とこの世界では全く違ったルールが支配しているのは確かだ。香織は毎日のように、ついていけない、と思う。
 (千夏なんて、口を開けば男の話ばっかり。スタイルは確かに良いけど、露出しすぎなんだよ。あんな身体で毎日セックスのこと考えて発情してりゃ、痴漢に遭ったり、いい歳してウリやってると思われるのも当然!)
 そんなことを考えながら、香織はますます頭が痛くなるような気がした。あんなのと一緒にならないためにも、講義に集中しなければ、という焦り。しかし、 考えれば考えるほど香織の心はささくれ立ち、感情の妙な昂ぶりはますます抑えることができず、講師の話は右から左へ抜けてゆく。今日はだめだ。
 ほとんど何も頭に入らないまま、講義が終わった瞬間に香織は教室を抜け出す。今日は授業がこれで終わりだ。早く外の世界へ飛び出したい。早く帰ろう。早く帰らなきゃ。そう思って急いで乗った帰り道の山手線の中で、香織はふと思う。
 偉そうなことばかり考えているけれど、私には一体どれだけの価値があるっていうんだろう。
 ちょうど電車が新大久保駅に停車する。
 香織はその電車を降り、千夏の言っていた『うす暗い路地』を探すために、新大久保の街を歩き始めた。

高 田馬場新宿



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