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山手線ゴー・ラウンド ―高田馬場―
高田馬場駅からBIGBOXの脇を抜けて、緩やかな坂を上る。拓二とはいつもこのくらいの時間に戸山公園で待ち合わせるので、佳代子は自分の大学
の講義が終わると、この道を歩くのが習慣となった。拓二と付き合い始めてからの半年ほどで、この街の空気がすっかり自分の肌に馴染んだように感じる。
夕方を迎える少し前の時間帯。いくつかの学生達のグループと佳代子はすれ違う。
(授業が終わった頃だ。急がなければ。)
少し早足で歩こうと、自分の前方に視線を向けた時、佳代子は向こうから歩いてくる学生たちの中に、意外な顔を見つけた。
(国枝くん......!)
見間違うはずもなかった。国枝雄一の顔を、佳代子は何度こうして少し離れたところから覗き見てきたことだろう。スポーツ刈りだった髪の毛はあんなに伸びて、背も少し伸びて、身体も昔よりがっちりしてはいるが、彼は間違いなく佳代子の初恋の君だった。
そういえば、風の噂で国枝雄一が一浪して入ったと聞いた大学の名前は、拓二の大学と同じだった。何故、今まで気付かなかったのだろう。こんなに近くにいたのに。
それは、あまりに幼い初恋だった。
中学三年の四月という時期に、隣の隣のクラスに転校してきた彼を一目見たときから、佳代子の学校生活はばら色に変わった。が、転校生の彼にとって、クラ
スが違い、交流もない、ましてや人の噂にのぼるようなこともない地味な佳代子の存在に気づくことは、難しいことだった。中学を卒業するまでのたった一年間
では時間が短すぎたのだ。
佳代子は、なんとか国枝雄一に自分の存在を気付いてほしいと思い、彼のクラスの時間割に合わせ、教室の移動時に廊下ですれ違うように歩いたりした。が、国枝雄一に声をかけるきっかけは、最後までなかった。
今だって割と晩生と言われる佳代子だが、中学生の頃はあまりに純情だった、と心の中で苦笑する。彼は、きっと佳代子の声を聴いたことがないだろう。佳代
子の名前を知らないだろう。けれど、中学時代の風景のどこかにあった顔だということくらい、覚えてはいないだろうか。あんなにすれ違ったのだから。
今では少し純情ではなくなった佳代子は、かつて死んでも出来ないと思っていたことができるような気がした。
「あの、すみません」
佳代子の声に、国枝雄一が立ち止まる。生まれて初めて彼と目が合った。中学時代の自分に自慢してみたいと思いながら、佳代子は国枝雄一の目をまっすぐに見て、言う。
「あ、あの、戸山公園には、この道をまっすぐ行けばいいんですか?」
「ああ、そうっスよ」
「そうですか......ありがとうございます」
佳代子はそれだけ言って、足早に立ち去った。
国枝雄一は何も思い出さなかった。
佳代子は、瞼によほど力を入れていないと涙が溢れ出てしまいそうだ、と思った。けれど、それは彼の記憶に自分が全く棲んでいないことを悲しむ涙ではない。
何度も何度もすれ違ってきた国枝雄一に、やっと声をかけることが出来た自分に対する、感激の涙なのだった。
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