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山手線ゴー・ラウンド ―田町―
あのひと。私の中で、彼はそう呼ばれている。名前を知らないのだから、仕方ない。
あのひとを見つけたのは、私が短大を卒業し田町駅の近くにあるビルに勤め始めてすぐのことだったから、一年近く前のことなる。それ以来、運が良ければ週
に何回か、田町の駅であのひとの姿を見ることが出来た。時々友達と会話しているのを盗み聴いて、近くの大学に通う学生だということが解った。
自分が彼のどこに惹かれているのかは、よく解らなかった。ただ、嫌味のない中肉中背と癖のない顔立ちに似合うすっきりと短い髪や、いかにも力の入ったお
しゃれではなく、シンプルなファッションによく合った靴や鞄などの小物に取り入れるセンスや、時々手に持っている文庫本のセレクトや、時々友達と一緒にい
る時に見ることの出来る親しみやすそうな笑顔とか、頑張って近くまで行って初めて解る濃くて長い睫毛など、どれをとっても申し分ないように思えた。
ある日の仕事帰り、私は田町の西口改札前で意外な人物に声をかけられた。
「昌美じゃない、久し振り!」
「え、......亜子?」
亜子は中学時代の同級生で、高校から都内の進学校に行くようなエリートだった。ガリ勉というわけでは決してなく、何事にも一生懸命で快活な性格なので、男女問わず人気があった。天は二物を与えずという言葉は嘘だと思い知らされるような存在でもあった。
「どうしたの、こんなところで」
亜子は、まるで私が田町などにいるのが不思議というような訊きかたをした。
「すぐ近くに勤めてるの」
「そっか。そういえば、短大卒業してOLやってるって、誰かに聞いたよ」
「亜子は、どうしてここに?」
私は、あまり気が進まなかったけれど、彼女に一応同じ質問をしてみた。
「私は大学。今は春休みだけど、これからサークルの集まりなんだ」
「大学って......」
私があのひとの通っている大学名を挙げると、亜子は頷いて言った。
「まだ一年だから違う校舎なんだけど、サークルの集まりがこっちであるんだ」
「じゃあ、これからも結構会うかもね」
「今まで会わなかったのが不思議だよ」
「確かに」
そう言い合って笑っていると、亜子がふと私の向こうに視線をずらして叫んだ。
「あ、山野さーん」
ふり向くと、そこにはあのひとがいた。
「サークルの先輩なの」
亜子がそう説明すると、あのひとは私にお辞儀をした。初めてまともに目が合った。私は緊張して何も言えないまま、とにかくつられてお辞儀だけをする。それから、亜子はあのひとにも私を紹介した。
「中学のクラスメートの昌美ちゃんです。偶然会っちゃったんですよ」
「へーえ。こんな可愛い友達がいるなら、おまえ、合コンでもセッティングしろよ」
「えー。山野さんは女グセ悪いって噂だし、大切な友達が遊ばれちゃ困りますよ」
「人聞きの悪いことを言うんじゃない」
初めて目の前できちんと見たあのひとの笑顔は私の中で思い描かれたとおりの人なのに、亜子との会話から入ってくる情報がそれに噛み合っていない。呆気にとられる私の前で彼はふと私に向き直った。
「折角だから、お茶でも飲んでくれば。ていうか、俺も一緒に行って良い?」
あのひとは親しみやすそうな笑顔で言う。私がどうすればいいのか解らず困っていると、亜子が首を振って笑いながら言った。
「行きたいのは山々ですけど、練習が始まっちゃいますよ。山野さんも遅刻でしょ」
「ま、そうだけどね」
「じゃ、そういうわけで。昌美、また偶然会えると思うから、その時にね」
「う、うん」
「俺もまた偶然会いたいなー。昌美ちゃん、またね」
「......はい」
小走りで去っていく二人の後ろ姿を見送りながら、私はとんでもないハプニングに巻き込まれてしまったかのような気分だった。
あのひとは、『あのひと』のままでいてくれたほうが、ずっと良かった。
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